歴史と素適なおつきあい

江戸を守護する二大他界ゾーン・千住編


歴史と素適なおつきあい  2006 2・10(金)


江戸を守護する二大他界ゾーン 千住編 

 2015年12月12日 中川歴史ウォーキング開催 終了しました
お天気よく槍かけだんこのお店は新しく立て直されており
荒川の土手で小菅拘置所を見ながら終了


日比谷線「三ノ輪」駅 3番出口9:50集合  2006・2・10(金)
                           

三ノ輪駅・進行方向の出口~永久寺~浄閑寺~回向院~小塚原刑場跡~円通寺~荒川ふるさと文化館~スサノオ神社(天王社)~誓願寺~千住大橋~橋戸稲荷~奥の細道矢立初の碑~やっちゃ場~勝専寺~吉田家~横山家~かどや槍かけだんご~名倉医院~橘井堂跡~金蔵寺~北千住駅

江戸を守護する2大他界ゾーン 地図

江戸を守護する二大他界ゾーンとは?

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江戸は平安京のように「四神相応」という古代中国の陰陽道に基づく呪的理
念によってつくられたという。
風水思想にとっては理想の地であった。
その地に築いた徳川王権を武力だけでなく宗教的に守る空間の存在があった。

内藤正敏氏(写真家・民俗学者)によるとそれを「徳川王権を守護する二大他
界ゾーン」という。

江戸城からみる鬼門の寛永寺、裏鬼門の増上寺を聖とする。
江戸内部の穢れを清め外側からの穢れの侵入を防ぐ場所、それが他界に通じる
空間となる。
家康は奥州街道一の宿千住と、東海道の六郷川(多摩川)に橋をかけた。

二つの街道が江戸城を中心につながり、江戸の境界におかれた二つの
場所が穢れを清める浄化装置の配置とみるのである。

内藤氏は江戸城を真ん中に北と南にそれぞれのびる奥州街道と東海道を同一線上に配置すると、二つの街道が隅田川と多摩川にぶつかる手前の土地である浅草から千住と品川から大井にかけての両側に共通した要素があるという。

その要素とは、密集する寺社群、処刑場、遊里、被差別部落などの存在である。

江戸の南北の両端を結界とする他界ゾーンの役割は、

江戸の中心から離れた境界に死(刑場)・性(遊里)・賤(被差別部落)を配置し、
と同時に外からくるものには,死(刑場)・聖(寺社)をもって畏怖させ性(遊里)で懐柔した。
浅草・千住と品川は江戸の中心を守るための緩衝地帯だったという。





永久寺
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目黄不動といわれている。
一説に江戸の市街地を囲むように「五色不動」が配置されていたという。
①目黒は目黒区の滝泉寺(りゅうせんじ)、
②目白は豊島区の金乗院、
③目赤は文京区の南谷寺、
④目青は世田谷区の教学院、
⑤目黄はもうひとつの候補地である江戸川区の最勝寺とここ永久寺のふたつである。

家光や天海が江戸鎮護のため設置されたというのが通説である。

しかし五不動が存在したかどうかわからない。
五不動説、三不動説(目青と目黄がない)目黄はどちらが本当なのか、陰陽道から、密教からと諸説がたくさんある。

目黒は家光と関係をもち徳川家菩提寺の寛永寺の支配下に置かれる。
目赤は羽黒山の流派からはじまり寛永寺の末寺になって南谷寺となった。
最初に直接幕府が関与したのは目黒だけだったと思われる。

この三不動は幕府直轄の寺の下部組織に組み込まれ、不動尊の霊験と、物見遊山という形で庶民の心に安らぎを与えることとなった。

風景もよく、後期には富籤興業もあった。民衆の安寧と考えれば鎮護の役目を果たしているといえるのかもしれない。
本堂前に鎌倉時代末期の嘉暦3(1328)銘と戦国時代初めの享禄2(1529)銘の板碑がある。

罪人の試し斬りの供養に建てられた永久寺

山野永久が江戸初期に罪人の試し斬りをした。約6000人だったという。
殺された罪人たちの供養のためこの永久寺が建てられ、その子は幕臣となり試し斬りだけでなく
罪人の処刑も行うようになった。
江戸中期に弟子だった有名な山田朝右衛門が代々処刑人となった。
首切り朝右衛門という名で呼ばれた。


浄閑寺
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江戸時代吉原の遊女が亡くなるとこの寺に運ばれ「投げ込み寺」と呼ばれた。
埋葬された遊女は2万人といわれ平均21.7歳であったという。
寛政5(1793)に建てられた昭和4年に改修された新吉原総霊塔がある。
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「生まれては苦界、死しては浄閑寺」(花又花酔の川柳)が刻まれている。
永井荷風は遊女達の死を悼みしばしば訪れ掃除もした。文学碑がある。
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本庄兄弟の首洗い井戸がある。
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鳥取藩士白井権八

本名 平井権八は本庄助太夫を飼い犬の喧嘩が原因で殺し、江戸に出奔、あとを追う遺児本庄助七、助八は三ノ輪に家を借り仇敵白井を探すが逆に白井に知られてしまい、万冶3(1660)浅草田圃で兄助七が殺されてしまう。

弟助八が兄の首を洗っていたところ又白井に襲われ命を落とす。

仇討ちはなかなか成就しないということである。その後強盗をかさね鈴が森で処刑されたというが、幡隋院長兵衛と結びつけられ歌舞伎、浄瑠璃、狂言となった。


「あしたのジョー」は泪橋のたもとの丹下ジムにいた。

品川の鈴ヶ森処刑場の近くにある立会川にかかる泪橋と共に刑場にむかう罪人が家族に見送られて涙する橋である。
ちなみに品川の泪橋は現在「浜川橋」と呼ばれ、かつてボラちゃんフィーバーした橋である。

ちょっと寄り道(2015年11月)


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                                    泪橋

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泪橋交差点から交番、右に曲がると商店街
そこを突っ切ると
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明日のジョーが立っている

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なんかいつものジョーじゃない・・・


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いろは会
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いろは会

山谷をはじめて歩いた
道端でお酒飲んでる人も多かったが
外国人もいた
目にした所ではいちばん安い宿泊が2200円だった(2015年11月)







小塚原刑場跡
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江戸時代に罪人を処刑したお仕置き場跡で、「こつかっぱら」と呼ばれた。

間口60間(108m)奥行き30間(154m)で明冶の初年に廃止されるまで約20万人が磔、斬罪、獄門などに処せられた。

高架わきに延命寺があり小塚原回向院の別院であったが1982年独立した。

寺名は延命地蔵(通称首切地蔵)にちなむ。刑死者の菩提を弔うために寛保元((1741)に建立された。

元は貨物線の南にあったものを現在地に移した。常磐線をくぐって進む道はコツ通りと呼ばれる。
常磐線の陸橋から南に泪橋があるが現在橋はなく交差点の名に残るだけとなった。


コツ通り
平成10年つくばエクスプレスが開通、その工事のとき
おびただしい人骨がでた。
年間1000体 そして220年続いた処刑場だったからである。
が、コツ通りの由来は骨ではない。
小塚原を昔は「コツ」といった。
千住の岡場所のことをそうよんだ。
歌舞伎の演目「小袖曽我」より

「それじゃあ 三次がコツの馴染みは 二枚がけの熱燗だな」

船頭三次との台詞にある。   広辞苑より






小塚原回向院 浄土宗
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刑死、牢死者、行き倒れの死体など両国の回向院に埋葬されてきたが、手狭になったため寛文7(1667)両国の別院として建立された。

橋本左内 (1834~59)
越前藩士で緒方洪庵の適塾に学び藩主松平慶永を補佐、幕藩体制の再建強化と親露反英、新米の開国論を唱えた。一橋慶喜将軍擁立に奔走。井伊直弼大老就任後、安政の大獄によって処刑。

*頼 三樹三郎
 (1825~1859)
尊皇攘夷派の志士。儒者で、「日本外史」を著した頼山陽の3子。安政の大獄で処刑。

*梅田源三郎(雲濱)(1815~1859)
小浜藩士。塾を開いていた。海防策を建白し藩主に疎まれ浪人になる
新選組池田事件の発端となった古高俊太郎の師でもある。
京における尊皇攘夷派の中心となる。慶喜将軍擁立に奔走、安政の大獄によって処刑。

吉田松陰 (1830~1859)

長州藩士。山鹿流兵学を学び東北諸藩を歴訪、海外渡航を企み失敗。投獄される。
獄中で開いた松下村塾からは高杉晋作、伊藤博文など多くの人材を輩出。安政の大獄で処刑。辞世の句が有名である。

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」

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奥の墓が松蔭


 観臓記念碑

明和8(1771)前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らはこの地で刑死者の腑分けをみてターヘル=アナトミアの
翻訳を決意し4年後「解体新書」を出版した。

有村次佐衛門 

桜田門外の変の薩摩藩士。井伊大老殺害事件。

金子孫次郎

桜田門外の変の水戸浪士


水戸浪士

老中安藤信正を襲った坂下門外の変。

高橋お伝
明冶9(1876)内縁の夫を殺害、最後の惨殺刑に処せられた。

鼠小僧次郎吉


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円通寺  曹洞宗
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延暦10年(791)坂上田村麻呂の創建と伝えられる。
秩父、板東、西国霊場の観音があったことから百観音と呼ばれた。
鎌倉時代の板碑がある。彰義隊はじめ戊辰の幕府関係者の供養塔、墓がある。
当時の住職が放置されている彰義隊の戦死者を弔った縁で上野寛永寺の総門が移築されている。黒門といい、上野戦争の弾痕跡が残る

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黒門の弾痕

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官営千住製絨所跡


南千住1丁目の交差店西にあった。
蒸気を利用した日本最初の毛織物工場である。
当時の煉瓦塀が残る。東京スタジアムから現在荒川区スポーツセンターになっている。


素盞雄神社
  創建延暦15年(795)伝
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天王社とも呼ばれる。
荊石信仰(石神信仰)の神社で瑞光石なるものがある。
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随光石

石が光を放ち素盞雄命と事代主命(アスカ大明神)があらわれ神託を告げたといわれる。

荒川ふるさと文化館   

荒川の歴史、文化を紹介する施設

誓願寺 浄土宗
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いつも門は閉ざされているのに今日は開いていた
鳥の声がする森のような境内だった
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本尊の阿弥陀如来は聖徳太子造といわれる。家康が腰をかけたといわれる榎があった。親の仇をうった子狸の塚、板碑などがある。

千住大橋
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文禄3年(1594)に普請奉行伊奈忠次によって架けられた。
隅田川で最初にかけられた橋で「大橋」という。日光、奥州街道の出入り口の橋となった。
北詰西に奥の細道矢立初の碑が立っている。
芭蕉の旅立ちは、深川を舟で出発し千住大橋の北岸に上陸したとの考えから建立したものである。


橋戸稲荷

土蔵の観音開きの扉の裏に幕末から明冶にかけての鏝絵(こてえ)(漆喰ぬりの絵)の名工といわれた入江長八の男狐と母子狐の作品が残る。

長八は又の名を伊豆の長八といわれ伊豆松崎に生まれ、左官を学び狩野派の絵師のもとで勉強した。

漆喰でレリーフのように浮き出した絵画、装飾をほどこした鏝絵を芸術の域にした画家ともいえる人である。

震災、戦災で多くを失い貴重なものである。

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長八の鏝絵 レプリカ




やっちゃ場 青果市場
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河原町は江戸時代青果市場があり、現在中央卸売市場がある。
信長が安土城を築いたころからはじまったといわれる。
ここから通りには屋号の看板がある家がおおくなる。

この河原町には尾崎豊の終焉の地「尾崎ハウス」がある。
2011年に取り壊された。

千住宿歴史プチテラス

天保元年(1830)に建てられた横山家の蔵を平成5年に移築。
高札場、一里塚道標

勝専寺 浄土宗
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文応元年(1260)創建。朱塗りの山門から赤門寺といわれ、赤顔、赤腹の閻魔様で知られる。
一説に千住の地名の由来は、本尊の千手観音からきているという。秀忠、家光、家綱など立ち寄ったといわれる。

千住宿本陣跡(3-113)

千住の絵馬屋(吉田家)

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伝馬屋敷 (横山家)
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地紙問屋として栄えた旧家。江戸時代の商家造を残す。
玄関柱の刀傷跡は負けた彰義隊がつけたものといわれている。近くに「かどや」槍かけだんごがある。

槍かけだんごのかどや
以前は古い佇まいだったが改築されたようだ
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いつ食べても美味しい・・・

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名倉医院
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明和年間(1764~72)に開業した接骨医で、幕末に建造された長屋門が残る。
ほねつぎとして評判をよび患者の列が街道にあふれるほどだったという。
ここで技術を学んだ弟子たちは全国各地で名倉の名で開業しているという。
今でもお年よりたちは秘薬の黒膏をお願いするそうだ。

荒川の土手

荒川は荒ぶる川の名のとおり大洪水をよくおこした。
明冶44(1911)に大改修に着手し14年の歳月をかけて岩淵から中川にいたる全長22kmの人工河川である。
荒川方水路とよばれていたが、現在では荒川というようになった。

土手と千住の東にある柳原は金八先生のロケ地である。

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東京拘置所


橘井堂(きっせいどう)跡

都税事務所は森鷗外の父静男が14年間病院を開業していた所で、鷗外も陸軍軍医副に任官しドイツ留学前
ここから三宅坂の陸軍病院に通った。

金蔵寺 真言宗

南無阿弥陀仏とあるのは、千住宿の飯盛女の供養塔。無縁塔とあるのは天保7(1836)の大飢饉の犠牲者
の供養塔。側面に勝専寺、不動院、金蔵寺にそれぞれ埋葬と記されている。

北千住駅

常磐線、東武伊勢崎線(半蔵門のりいれ)、東京メトロ日比谷、千代田、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線があり、
乗換えで重要な駅となり足立区の中心繁華街となった。

参考文献 
東京都歴史散歩上巻・徳川将軍家の謎(別冊宝島)
荒川区HP・鬼平ゆかりの地巡りツァーHP
by gannyan1953 | 2011-05-06 11:46 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)
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