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歴史と素適なおつきあい

お江戸の赤坂と六本木


歴史と素適なおつきあい                        2010・10.8
中川歴史ウォーキング 32                      2017・6・17

お江戸の赤坂と六本木

日 時  : 2010年10月8日(金)9:50  2017年6月17日(土)9:45
集合場所 : 永田町 8番出口方面改札口(進行方向後方)


永田町~豊川稲荷~大山道~牛鳴坂~丹後坂~円通寺坂~円通寺~
TBS敷地・2・26事件近衛兵第三連隊~三分坂~報土寺~種徳寺~
本氷川坂~氷川神社~氷川坂~勝海舟邸跡地~南部坂~松平三河守忠直邸跡~市三坂~
檜町公園・長州藩下屋敷~六本木ヒルズ・赤穂浪士切腹の地




豊川稲荷東京別院 曹洞宗 (港区元赤坂1-4-7)
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愛知県にある豊川稲荷の直轄別院。本尊は荼枳尼天。稲荷といっても寺院である。
大岡越前守忠相が、赤坂一ツ木にあった自邸に勧請していたものを、1887年現在地に移転し、創建された。忠相は南町奉行から寺社奉行に異動し、三河国西大平藩1万石の大名になった。その時に勧請したと思われる。

荼枳(だき)尼天(にてん)とは、ヒンズーでは人肉、心臓を食べる夜叉である。インド密教では性を瞑想するヨーガとして伝えられている。日本の真言密教では、大日如来の霊力で善神となり、胎蔵界の外金剛界にあり、白狐にまたがる辰狐(しんき)王菩薩、貴狐天王(きこうてんのう)といわれる。
本来、稲荷信仰とダキニ信仰とは別のものであったが、「狐」を介して習合が進み、鎌倉時代には神仏両系の稲荷が並存することになった。

豊川稲荷では開運出世の福徳神といわれ、人を選ばず願望をかなえてくれるといい、江戸時代では遊女、博徒、被差別民など広く信仰を集めた。

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大岡越前が勧請した

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銭洗弁天


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叶稲荷

ここにあるお金の封筒を持ち帰り財布に入れ
一年後にお賽銭をそえてお帰しするシステム

お金に困らないという

牛鳴坂


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大山道で路面が悪く、車をひく牛が苦しんだといわれる。江戸時代、定火消しの組屋敷があり、火の見櫓があった。

丹後坂

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近くに米倉丹後守邸があった。金沢藩米倉家は横浜市に唯一本拠を置く大名で金沢区六浦に陣屋を構えていた。武州金沢藩といったが、明治になって六浦藩になった。横浜市金沢区、平塚、秦野あたりが領地で、初代藩主は米倉家四代目で柳沢吉保の息子である。

円通寺坂 

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近くに円通寺があったので名前の由来となる。  
             (港区標識)
円通寺(港区赤坂5-2-39)

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時の鐘


寛永2年(1625)赤坂三分坂上の松平安芸守中屋敷内の拝領地に開創し、時の鐘を撞いていた。
元禄8年(1695)2月の大火で焼失し、替地を他の場所に賜ることが内定していたが、時の鐘を撞くため、近くに賜ることを願い出て、現在地に寺地180坪あまりを拝領し移転した。
円通寺の梵鐘は、「十二支の鐘」とよばれ、銘文中に「鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪」の文字を使った七言律詩が刻まれている。宝暦(1751-64)ころまでは、時の鐘を撞き、地域に親しまれていた。太平洋戦争のため供出されたが、昭和50年に板橋区の寺院にあることがわかり譲り受けた。                                                              (港区文化財のしおり)

時の鐘 
城鐘、寺鐘、市中の鐘の三種類あり、江戸末期には江戸城内で本丸西丸に土圭の間があり、大きな時計があった。城中の諸行事や城門の開閉は太鼓の時報により行われた。幕府の武士の登城は朝四つ時だったが時を司る坊主はその時ごとに只今は何時と各部屋に触れまわったという。
江戸市中の鐘は江戸本石町3丁目に時の太鼓が作られ、後に鐘に取り替えられた。家康の時代には明け暮れの六つ時だけだったが、秀忠の時代に明け暮れだけでは役に立たないということで、12時を知らせるようになり、太鼓から鐘にかわった。初期の江戸中心地はこの鐘が聞こえる範囲で、その範囲の町人から一カ月一文徴収したという。     
川柳「石町でだしても同じ時の割」

寺院の鐘は仏事を修する時の合図の鐘で晨朝、日中、日没、初夜、昼夜、後夜の六つの時刻で
江戸時代中ごろには江戸庶民は寺院の鐘で時刻を知ることが多かった。現在のような定時ではなく日没を基準とする。不定時刻であった。時刻を知るには定香盤や水時計を用いた。
                                  (富山市科学博物館)

近衛兵第三連隊跡地・安芸広島浅野家屋敷跡
(赤坂サカス)


TBS、赤坂サカスの敷地は、浅野家(秀吉の正室の弟の血筋が藩祖・赤穂藩は分家)の中屋敷の跡、陸軍監獄があった。
明治26年近衛兵第三連隊がそこに置かれた。この第三連隊は2・26事件に加わった連隊である。昭和11年2月26日未明、前夜からの雪の中、この近衛歩兵第三連隊(TBS)第一師団歩兵第一連隊(ミッドタウン)、歩兵第三連隊(国立新美術館)の将兵を使いクーデターを起こした。
永田町と青山の中間あたりに、2・26事件で殺害された大蔵大臣高橋是清邸があった。

2・26事件は、大日本帝国陸軍内の派閥である皇道派の影響をうけた一部青年将校らによるクーデターで、元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村困窮が収まると考えていた。「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令が下されこの時点で「昭和維新」は終わった。首謀者17名は死刑、69名が有罪となった。
クーデターそのものは失敗に終わり、これ以降軍部の要望を聞き入れないと再びクーデターが起こるという危惧があった。やがてその影響で太平洋戦争にむかうことになる大きな事件であった。

三分坂
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急坂のため、通る車賃が銀三分(百円余り)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある 
読み方はさんぷん坂である。                              (港区 標識)


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山田君自販機


報土寺 浄土真宗大谷派 (港区赤坂7-6-20)

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雷電の墓


慶長19(1614)に赤坂一ツ木に創建され幕府の用地取り上げにより安永9(1780)に移転した。このころ造られた築地塀が立ち港区の文化財である。      (東京都教育委員会)
江戸時代の大関雷電為右衛門の墓がある。

「雷電為右衛門の墓」の標識の説明
 
明和4年(1767)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。天明4年(1784)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政2年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化11年(1814)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。文政8年(1825)江戸で没した。                       (東京都教育委員会)

種徳寺 単立(港区赤坂7-6-29)
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小田原北条の菩提寺早雲寺の流れの寺、で湯本の近くにあったが秀吉の小田原攻めで焼失し、文禄2(1593)年ここに移転。北条氏康の弟・為昌(玉縄城、川越城、小机城、三崎城主)の菩提寺といわれるが、北条との縁は薄いと住職が言われた。元の寺名は本光寺、のち種徳寺に改めた。
墓は高台にあり、立派なものが多い。

分部光實―分部家9代、近江大溝羽藩8代藩主

狩野定信―江戸初期の画家で、秋田狩野派の祖
堀直虎――廣顕院殿前少府令祐道靖忠大居士神儀―
信州須坂藩の13代藩主で、漢学、蘭学、兵学、砲術に長け、藩の建て直しと早くから洋式軍隊を取り入れた名君であったといわれる。外様であるが、優れた能力を認められ慶応3年26歳で、若年寄兼外国総奉行に任じられた。大政奉還後の末期の幕府で、誰もが辞退したい役といわれた。直後鳥羽伏見の戦いで大坂から逃れ、朝敵となった慶喜を迎えいれた。
幕府の今後の方針会議で慶喜に意見し、その後江戸城内で喉をついて自刃した。意見の内容は、恭順を勧めたとも、絶対抗戦を勧めたとも真相はわからない。ただ藩では恭順を勧めた諌死であるとし、官軍に同行し、東北征伐に出兵、藩の存続は認められた(HP 珈琲ブレイク・名墓録)

勝海舟邸跡 (港区6-10-39 ソフトタウン赤坂)
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海舟37歳のとき安政6(1859)年から10年ここに住んだ。龍馬が千葉重太郎と訪ねた屋敷である。土方歳三も流山で捕縛された近藤勇の助命嘆願を求めにここを訪れている。
明治元年、海舟の留守中に官軍が襲ったとき、海舟邸にいた妹の佐久間象山未亡人が毅然と応対し、危急を救ったといわれる。       (HP 土佐の歴史散歩・ソフトタウン赤坂管理組合)

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氷川神社 (赤坂6)

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立派なご神木


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勝海舟が近くの神社をここに合祀し、名付けた四合(しあわせ)稲荷



祭神―スサノオノミコト・クシイナダヒメノミコト・オオナムチノミコト
由緒は951年、一ツ木に大宮氷川神社を勧請した。境内に勝海舟ゆかりの四合(しあわせ)稲荷がある。近隣四社の稲荷を明治三一年合祀したもので、海舟が「四合稲荷」と称した。

一ツ木にあった氷川明神を徳川吉宗が現在地に遷し、社殿はそのとき造営されたものである。江戸の宮大工は東照宮の影響か装飾が多いが、この氷川神社はすっきりした佇まいになっている。
神社が遷される前は、浅野内(あさの)匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)夫人の阿久里(瑶(よう)泉院(ぜいいん))の実家である三次三万石浅野土佐守の中屋敷があった。28歳で未亡人となり、江戸本邸ひきはらいなど沈着に行い、43歳までここ中屋敷で夫の菩提を弔いつつ静かに余生を送った場所である。   (赤坂散歩・司馬遼太郎)

勝海舟邸跡 
(赤坂6-6-14)

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竜馬と海舟

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勝海舟の邸跡からでてきた茶碗など

さきほどの邸跡から持ってきた物もあれば
竜馬や土方歳三が使った茶碗があるかも



海舟が明治5(1872)年49歳から76歳まで住んでいた。この間参議、海軍卿、枢密顧問官、伯爵として生活を送った。晩年は海軍、陸軍の歴史記事を編纂し談話を速記した「氷川清話」などを遺した。                           (HP kan karu 日記)
現在「プラザ赤坂なんでーも」になっている。


南部坂

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江戸時代初期、氷川神社あたりに南部家屋敷があったため、この名がつけられた。
明暦2(1656)年に赤穂藩浅野家との間で屋敷の取り替えがあり、南部家は現在の有栖川宮祈念公園のある場所に移った。
忠臣蔵では大石内蔵助が瑶泉院に暇乞いに訪れた「南部坂 雪の別れ」の場面に設定されている。

大石は後日瑶泉院の身に災禍がおよぶことをおそれてそういう軽率なことをしなかった。ただ討ち入りの前日大石は書類を送っている。あてさきは瑶泉院付きの落合与左衛門である。赤穂藩の財務整理で残された690両を長矩の弟大学を立て、お家再興の資金としていたが、再興の望みが消え討ち入りの資金とした。その金の使途いっさいを記入した明細帳と領収書であった。
瑶泉院はこの内容で大石の復仇の意思をさとったにちがいない。   (赤坂散歩・司馬遼太郎)

南西に駐日アメリカ合衆国大使館官舎がある。

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南部坂の石碑とともにある山田君自販機



松平三河守忠直下屋敷跡(六本木4-2-27)




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忠直は家康の次男、越前宰相秀康の子であり家康の孫にあたる。父秀康はなぜか家康に嫌われ(双子説もある)三歳まで家康と対面していなかったという。兄信康の計らいで対面を果たすが、のちに信康が殺され、次男であるのに、秀吉の養子(人質)になる。秀吉に子供が生まれると結城氏の養子になる。関ヶ原の戦いの前哨戦である上杉景勝征伐に参戦する。のち越前北の庄に入封した。

その嫡男忠直は二代将軍秀忠の三女勝姫の婿である。12歳から29歳まで越前67万石を領していた。大坂夏の陣では真田勢と正面から死闘を繰り返し、真田幸村を討ち取り、大坂城に一番乗りした。しかし家康からも秀忠からも恩賞の沙汰がないのを不服とし、次第に酒食におぼれご乱行の噂がたった。血塗られた殺人者として有名になり、勝姫は江戸に帰った。元和9(1623)年忠直29歳は北の庄より豊後萩原に配流された。その時幸村の愛馬も伴っていった。いまなお萩原では一伯さんと呼ばれ親しまれている。菓子や民謡の題材になり領民と交わり「乱行」とは程遠い姿であった。

萩原に海路で護送された忠直は府内城主竹中重義によって築造された萩原館で侍女たちと暮らした。男子の従者は許されず警護は厳しかった。
侍女のお蘭とお糸を大切にして静かな日々を送ったといわれる。
「豊後よさら節」は愛するお蘭、お糸との逢瀬に託して生きる忠直の姿を豊かに歌い上げたものである。
1 お蘭様 いかにかねつけ   しゃんしゃらめけど   夜さら寒いもんじゃ雨じゃもの 

 2 おとのさま ふりくる雨に   しょんしょぼぬれて  夜さらしのびのやみじゃもの 

3 お糸様よごとこがれて  ねむらず待てば  夜さら長いもんじゃ秋だもの
      
しばらくして、お蘭さまと娘が亡くなり、津守館に移り、56歳で亡くなった。(HP 府内観光)

市三坂
明治20年に開かれた坂で、名主の市兵衛、三河守からついた名前。

檜町公園(長州藩下屋敷)(港区赤坂9-7-9)

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突如現れた富士山 
フェアが終わると撤収

この公園は草薙君が騒動を起こした公園


長州藩の麻布下屋敷があった場所で庭園は清水園といわれ江戸の大名屋敷の中で名園といわれた。
その後第一師団歩兵第一連隊の駐屯地となり、2・26事件に加わっている。大戦後、米軍に接収、その後防衛庁の敷地になり、防衛庁が市ヶ谷に転出したあと2007年ミッドタウンとして開発され、今では池に面影を偲ぶ。

江戸時代初期に手狭になったため、幕府に願い出て、麻布龍土町に新しい屋敷を拝領した。
付近の山や谷も取り込み見事な檜林があった。
元治元年(1864)禁門の変の処分として長州藩江戸屋敷没収となった。そのとき、屋敷にいた藩士は諸藩に預けられ、うち50名ほどは病気などで命を落とした。

今の日比谷公園の北部が上屋敷、麻布下屋敷、江東区にあった中屋敷、世田谷には抱え屋敷もあった。ことごとく破壊され金、米は籾蔵へ、町火消しによる解体、書物は越中島で焚書された。




長州府中藩上屋敷跡(六本木ヒルズ)


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毛利庭園


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長府藩は萩藩の支藩である。
龍馬と寺田屋遭難のときいっしょにいた三吉慎蔵が長府藩士である。龍馬の警護を長州藩から命じられ、龍馬の死後もその妻お龍を長府で預かっていたこともある。
そして乃木希典の生誕地である。
低い湿地で、外様の小藩の屋敷は江戸中心から離れていた。

赤穂浪士は討ち入りのあと、幕命によって、その身柄を四家にあずけられた。細川家、松平家、水野家、そして長府毛利家である。細川家などは忠義義胆の士としてかれらを篤く礼遇し、その礼遇ぶりは江戸中がほめそやすほどの美談になり、そのことは講釈ダネのなかでももっともよろこばれるくだりの一つになっているが、長府毛利家が最も冷遇した。
 長府毛利家は武林唯七ら十人を藩邸の長屋に押しこめ、そのうえ、長屋の往来に面した窓に板をうちつけ、窓をつぶし、文字どおり罪人のあつかいをした。この冷遇が江戸中の評判になり、町人たちの批難をあび、のちその待遇をあらためた。それもこれもべつに底意があってのことではなく、この藩が幕府の威権をおそれ、幕命を忠実に解釈してのことにすぎず、あとになってその監禁の度あいをゆるめたのも、幕府が存外この浪士たちに好意をもっているということを知ったからにすぎない。
武林唯七は帰化人の孫である。その祖父は中国杭州武林の人で、秀吉の朝鮮ノ役で捕虜になり、日本に移住した。その子は浅野家の医官になり、唯七を生む。唯七は元禄のころの下級武士としてはめずらしく詩に長じた。その韻律が日本人離れしたほどに自然だったのは家伝として中国音を知っていたからにちがいない。

三十年来一夢ノ中
生ヲ捨テ義ヲ取ル幾人カ同ジキ
家郷病ニ臥シテ双親アリ
膝下歓ヲ奉ジテ恨ムラクハ終ラザルコトヲ
と、これは武林唯七の辞世の詩である。病床にいる両親に先立たねばならぬ哀しみを、「恨むらくは」とのべている。唯七は他の九人の同志とともにこの藩邸の広庭で切腹した。
切腹にあたって、話がある。元禄のころの長府毛利家は士風がよほどおとろえていたのか、江戸詰めで剣を使える者がすくなく、浪士の切腹にあたってそれを介錯―――首を落す―――ことができる者はわずか五人しかいなかった。唯七は切腹の座につき、長府毛利家の家士榊正右衛門の介錯をうけた。榊は唯七の背後にまわり、唯七が腹に短刀を突き入れるや、あわただしく太刀をふりおろした。しかし太刀は唯七の頭蓋の下辺に激しくあたったのみで刃が跳ねかえり、落せなかった。唯七は前へ倒れ、しかし起きあがり、血みどろのまま姿勢を正し、「お静かに」と、榊に注意した。二度目の太刀で唯七の首が落ちた。                   (殉死 司馬遼太郎)

参考:HP・ウィキペディア
        HP・江戸の散歩
by gannyan1953 | 2017-05-13 15:54 | 東京都 歴史散歩 | Comments(7)
Commented by rollingwest at 2017-05-14 16:31
初めまして、ローリングウエストと申します。新潟県柏崎生れ川崎市在住・横浜勤務の59歳(山好き・旅好き・歴史好き・神社仏閣・古代史ミステリー好き、幕末維新好き、都内巡り好き)、今年還暦を迎える中年オヤジです。 小生も全国の神社・仏閣巡りや古代神話の謎探訪のマニアックな旅が大好きであちこち巡っております。貴殿の探究視点は小生の価値観と非常に共鳴する内容だと感銘し訪問させていただきました。今後ともときたまお邪魔させて頂き、情報交換させて頂ければ幸いです。よろしければコチラにも是非とも遊びに来られて下さい。
Commented by gannyan1953 at 2017-05-18 14:13
> rollingwestさん
ご訪問ありがとうございます。現在二つの歴史の会を主催しています。
マニアックなのでみなさんそういうところを楽しんでくれています。
ウォーキング目的もありますが。
こちらの方も是非いらしてくださいね。
http://nakagawarekishiwalk.blog.fc2.com/
Commented at 2020-08-25 15:27 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by gannyan1953 at 2020-08-31 17:04
> 川嶋様
陸軍裁判所、監獄は明治18年に近衛兵第三連隊の前に
あったと私のブログにはあります。

書籍ではなく何かのホームページで見たものと思われます。
ブログには省略されていますが、
参考にしたものを2010年に作った文書には
書かれています。
赤坂サカスには参考が書かれていないので
書籍でない事は確かです。

大変無責任なことを載せまして
申し訳ありません。
削除させていただきます。
お騒がせいたしました。
今調べても浅野藩が撤退したあと明治18年に近衛兵第三連隊が
置かれたまでのことはわかりませんね。
大変無責任なことを載せてしまい
申し訳ありません。
削除いたします。
Commented by gannyan1953 at 2020-08-31 17:12
> 川嶋さん
明治26年に赤坂サカスに移転した・・・でした。

約20年の使い道はっきりしたいですね。
Commented at 2020-09-01 16:56 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by gannyan1953 at 2020-09-02 08:59
> 川嶋さん

あったんですね。
ありがとうございました。
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横浜周辺の歴史散歩

by gannyan1953
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