歴史と素適なおつきあい

長津田の歴史探訪

RSO 歴史と素適なおつきあい2009・4・10
                           
日時:2009年 4月 10日 金曜日 9:50集合
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長津田歴史探訪マップ・長津田宿の歴史を活かしたまちづくり研究会
よくできている・郷土愛を感じた
マップ紹介の3コースを参考に8.2キロのコースを作って歩いてみた

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御野立所より遠望 昭和天皇の皇太子の時代、ここで演習が行われた

集合場所:東急田園都市線「長津田駅」南口改札口

案内地図
長津田の歴史探訪



コース
JR長津田駅南口―乾繭(かんけん)倉庫跡―御野立所(おのだてしょ)「御野立落雁」ー鎌倉古道―大石神社「大石観桜」―上宿常夜燈―大山道―下宿常夜燈「下宿晴嵐」―片町地蔵―JR横浜線開通時の鉄橋―大林寺「大林晩鐘」―福寿(お七)稲荷―殿様屋敷跡―王子神社「王子秋月」―福泉寺(昼食・弁当)-天王社「天王鶯林(おうりん)」―二十三夜塔―林地蔵―伯楽の山桜―旧大山道―東急田園都市線「すずかけ台」駅

長津田の歴史
縄文時代の貝の化石が崖から発見される。
大昔現在の谷戸は海で、台地の南側斜面などから、縄文土器の破片がみつかっている。
弥生時代の遺物は発見されていない。

古墳時代、縄文の遺物で「砥岩の岩はまぐり」と呼ばれる貝の化石が発見された場所を砥岩といい、そこに「ガンガン穴」と呼ばれる二つの穴があった。横穴古墳だったと思われるが、
大山道、246号線で消えてしまった。

馬の背あたりのことである。

律令時代、古代東海道が通っていた。

江戸時代になると、矢倉沢往還(大山道・厚木街道・青山街道)の宿となり大山参りに行く人、表街道の煩わしさから裏街道の大山道を行く武士たちでにぎわった。

戦国末期から明治まで一貫して旗本岡野の殿様が知行した。

明治になり、鉄道ができ、大山道の旅人相手の宿は衰微したが、鉄道の駅ができたことにより養蚕業で発展した。養蚕は大切な副業だった。

大正以降東京、横浜への野菜供給のため野菜栽培が盛んになった。

戦時中東京陸軍兵器補給廠・田奈部隊填薬所現在「こどもの国」への引き込み線が長津田駅から作られた。駅周辺には関連工場もあった。




昭和40年ころ、東急電鉄、県住宅供給公社の宅地、住宅団地の造成により田園都市線沿いではいち早く急成長し街つくりが行われた。

そのために早く老朽化し今では田園都市線沿いでは近代化に遅れた感がある。

長津田の地名

通説:谷津が多く長い田んぼがあったので、谷津田―やちだ―ながつだという説

長蔦説:古くは長津田は都筑ヶ丘とよばれていた。

1333年鎌倉幕府滅亡の前年に書かれた下長津田(現いぶき野)河原玄三郎の古文書、大林寺の古文書にもある。14世紀は都筑ヶ丘であった。

駅そばにある随流院という寺がある。長津田が文献にでてくる(1559年小田原役帳)前から存在した寺で後醍醐天皇在位の正中元年1324年の創建である。

はじめは長蔦寺であった。慶長6年1601年に現在の向陽山随流院となった。

この寺の名前から「ながつた」―「ながつだ」になっていったのではないか。(林 房幸)

今回は長津田宿の歴史を活かしたまちづくり研究室発行の「長津田歴史探訪マップ」
「長津田の歴史を訪ねて」-長津田風土記―1985年発行―林房幸著
を参考にした。

林 房幸氏明治35年生まれ。長津田に住む。
農業、元国鉄管理職=運輸事務官、農協理事、民生委員、長津田史話会同人

長津田駅

明治41年よこはま鉄道開通からの駅でこの土地は大林寺末寺随流院所有の土地であった。
荷車で絹を運んだ道「絹の道」に私鉄横浜線が1908年八王子―東神奈川に開通、絹の輸送にあたった。

戦時中に長津田駅から旧陸軍田奈弾薬庫への引き込み線(現在のこどもの国線)が敷設(ふせつ)され駅の北西域には弾薬庫にかかわる工場群(マルエツ、厚生病院あたり)があった。戦後、引揚者の住宅、県営、市営住宅などが建てられた。

(余談)田奈弾薬庫跡は今でも「こどもの国」でみることができる。






1000人ほどの朝鮮人労働者を使って手作りでトンネルをほり、コテでコンクリートを塗り床はコールタールで固めてある。
内部はみられない。勤労女学生がここで弾薬作りをしていた。
その平和記念碑もある。
戦後米軍に接収され、朝鮮戦争の弾薬が作られた。
1961年に返還され1965年に「こどもの国」開園となる。あまり知られていないが、ここにはイサム ノグチ氏設計の庭園がある。
自然の地形と一体化した遊具やトイレである。今では使用されていないものもあるが、61歳のときの作品である。赤いテトラは今も250万円で売っているそうだ。(HP イサムノグチ庭園美術館・戦争廃墟)

乾繭倉庫跡(かんけんそうこあと

駅前JA田奈の裏にあった。
繭は10日ほどで、蛹から蛾になるので、10日以内に工場に運ばなければいけない。
繭は生物で、呼吸による代謝熱で蒸れたり、風通しが悪いと中のサナギが死んだり、カビが生えたりする。
そこで繭を乾燥し保存するための倉庫である。この倉庫のおかげで繭は安定供給できるようになる。
近隣から繭を集め倉庫に保管し八王子、岡谷などににまとめて運び、絹織物となってまた横浜港に運ばれた。

この倉庫ができるまで農家はそれぞれ急いで工場に運ばなければならなかったが、皮肉にもそのあと繭の急落で他の運輸に利用されていた。   (はじめてシルクを作る人の本)




御野立所(おのだてしょ)(御野立落雁)
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大正10年昭和天皇が皇太子のとき、長津田駅西の神明ケ丘で陸軍隊演習の総監をしたところである。
このとき皇太子は松を植えた。

鎌倉古道
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ここからつくし野にに抜ける細い道が残っている。

大石神社 (大石観桜)
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2014年工事中だった



王子神社とともに鎮守である。祭神は石で、石神という。
普段はみられないが、元旦と例祭日には開扉する
楕円形の自然石で関東大震災で倒れてしまったので、台石にコンクリートで固めてある。
高さ135センチ、幅110センチ、安山岩で水中に長くあった形跡はあるが、焼けた跡はない。
境内から縄文時代の石器、土器などが出土している。

大石神社の伝説―在原業平の東下の伝説がある。

業平は平城天皇の皇子阿保親王の5番目の子で兄行平とともに在原の姓で臣下に下った。
六歌仙のひとりで、歌人として有名だが、美男の代表で放縦な性格のため伝説ができたのかもしれない。
業平が愛人を連れて武相国境にさしかかった時、追手のため周囲から火をかけられ付近は焼け野原となった。
しかし二人の死体はなく、あったのはこの大石だけであった。
二人は抱き合ったまま焼死し、石になったという悲話である。
武蔵風土記には祭神が業平であるというが、地元には伝わっておらず祭神は昔から大石であるという。

まだ続きがあり、この石があった武相境がどこであったか定かでなく、
長津田辻(R246市境)と亀甲山(旭区上川井IC近く)の間に元石(元大石)という地名があったのでそこではないかという。
ところが石の所有でもめ、長津田のものと決まり、そこから運ばれたという説もある。
下長津田まで運ぶ途中大石山のふもとで動かなくなりその山頂に祭ったという。
村境の峠にはよく境界石がおかれ神をまつり紛争を避け、通行の安全を祈るというがその境界石ではなかったか。

上宿常夜燈 
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大石神社から坂をおりる途中にある。 

旧大山道  
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右側は長津田小学校              


下宿常夜燈 (下宿晴嵐) 
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道路整備で位置が変わっている。このそばに兎来の家があった。
兎来の読みはトライと思っているが、
中平龍二郎氏の「ホントに歩く 大山街道」にはウキとある。
(川口木材倉庫)幕末の文化人で、大林寺に兎来の描いた杉絵が残っているが描いた2年後72歳で亡くなった。
墓は大林寺にある。子供がなくのち再興し、後裔は新倉氏。
琴松の家は兎来の斜め上で後裔は河原氏である。崋山に描いてもらった絵は家宝として子孫に伝えている。

崋山の游湘日記に長津田が掲載されている。

渡辺華山は、天保2年1831年、9月20日に江戸を出て21日に長津田を通って鶴間宿の「まんじゅうや」に宿泊、22日にお銀様を訪ねている。

長津田では俳人「兎来」という号をもつ萬屋藤七の家で休憩している。

「上下蛇行暫く長津田といへるに至る たばこ売屋にやすらう あるじは菊の花を生けて賓ありと知らで言も交えず」無愛想だったようである。

崋山「吾輩は都から来たもので俳諧にはすこぶる関心のあるものだ」といっても返事もしない。

あとで兎来は、崋山の弟子にそれとなく華山の人物について聞いてみた。

華山が有名な人物であると聞いた兎来は驚いて、酒、そばをもてなした。
崋山「このそばは、きよからずして味わろし 麦飯を乞ふいとよし」

そこに俳号「琴松」がやってくる。

琴松は華山を引きとめ、「泊っていってくれ」と頼むが断られる。
「では何か書いてくれ」とせがむので、数枚崋山は書いた。

やっとのことで、二人を振り切って出たが、あとを追いかけてきた琴松が、
竹をふたつに切ったようなものを「餞別に」と渡される。

竹はよくみると銭であった。

誠に興がつきて辞退しようとしたが、いかにも素朴で敬をつくしているので返し難く、
この銭で酒とたばこを買って出ていくとある。

片町地蔵
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三体の地蔵が祀られている。台石に
「向テ右かな川 みぞノ口」
「南つる間 東江戸道」とある。

ここに加藤外記という人の碑があった。

米軍輸送部隊のトラックが「加藤外記の碑」を壊してしまった。

加藤外記は長津田の人で、無許可で長津田より恩田に通じる道を拓いた。

これが領主より反逆の企ての証であるとして捕らえられた。

そしてこの地蔵堂の所に集められた村人の前で処刑されたという。

JR横浜線開通時の鉄橋

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明治41年開通から今なお健在である。複線化したときのものは右側のコンクリート。

大林寺 (大林晩鐘)
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岡野家墓地

慈雲山大林寺 開山:元亀元年1570年英顔麟哲和尚 開基:板部岡江雪 宗派:曹洞宗 

本尊:釈迦如来 岡野家菩提寺 武蔵風土記には、初代岡野房恒(江雪の子)創建とある。

岡野家三代のとき住撰よりここに移った。

領主岡野家代々の墓がある。

他に兎来、琴松、関根範十郎(幕末に岡部谷戸の虚空蔵に塾を開いた人)。

引田天功の墓がある。本堂脇の建物に五百羅漢がある。

道路沿いの板碑―上宿竜昌寺廃寺境内にあったものを明治34年大林寺に移した。

嘉元元年1303年の板碑で緑泥岩で質がよい。
阿弥陀如来を念ずる人々を極楽に収容し地獄には落とさないという慈悲の大きさを表現し、念仏した後に唱える回向文であるという。
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延命地蔵
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奇麗な板碑

長津田領主岡野家について

小田原北条氏の家臣でのち徳川家に仕え、
千五百石の知行を受けていた旗本。領主といっても、住まいは江戸裏二番町に屋敷を拝領し、江戸城に勤務
していた。
最初は陣屋をおき家来が知行し、のちに名主がこれに替わった。

初代の父、越中守融成(みちなり)は歌道、茶道で「江雪」という道号で本名より通りがいい。
北条高時の二男相模次郎時行の子孫という。
父の代から小田原北条に仕え江雪は、4代氏政の命で板部岡を名乗った。
江雪は文筆にすぐれ、知慮深く、清廉潔白なので政務に登用、評定頭人の列に加わり、伊豆七島の代官も兼ねた。
和睦交渉、降伏の説得を得意とした。

沼田、名胡桃(なぐるみ)両城の紛糾が北条の命とりとなったが、この件で使者として秀吉に謁見している。

秀吉の裁決は沼田3万石の三分の二と沼田城を北条に、名胡桃城は真田に残すということであった。
ところが、北条から城代としてつかわした猪俣範直は約束を破り名胡桃城を奪取した。
秀吉は激怒し、天正18年1590年北条の支城を次々陥れ小田原城包囲に至った。

このとき江雪は小田原城に籠城していたが、降伏後秀吉の前につきだされた。

「そちは偽ったか」と責問されると、「我君もとより謀反の心なし。辺鄙の仕が愚で名胡桃をとり、結果北条が滅びること江雪の思慮にては如何とも出来ず。誠に家の滅びる運命とも申すべきもの。

されど日本国の兵を引受しこと北条家の面目なり。」

秀吉は忠義に感じいり、家臣とし、岡野を名乗らせた。
秀吉死後、家康に仕え関ヶ原、上杉攻めにも加わる。
養子の岡野房恒が長津田初代領主となる。
21歳の時、小田原攻めのときは岩槻城を守った。
このときの怪我の療養で妻の実家のある恩田村に身を潜めていた。
秀吉朝鮮出兵のとき家康に従い名護屋に行き、上杉景勝攻め、関ヶ原にも父とともに加わる。
今の大林寺を創建した。

八百屋お七のたたり伝説
房恒から三代平兵衛房勝は盗賊追捕役をつとめた。
岡野家に伝わる「八百屋お七」のたたりの話はこのときのことである。

天和2年1663年天和に火事で避難した先の寺の小姓に恋をし、恋慕のあまり放火して再会を願う幼いお七の事件である。
事件を担当したのは中山勘解由で当時岡野氏とは同職であった。
房勝の孫の嫁が勘解由の娘だったこと、処刑時の馬の手綱を持った、吟味に関係した、とかで、後に起こる
大林寺などの重なる火災、世継に恵まれない、領主が短命だったなど、お七の祟りと思っていたようである。
2013年NHKドラマ「あさきゆめみし」でお七の役を前田敦子が演じている。

岡野家が、どうこの事件に関係したかの記録はない。
岡野家は天正19年1591年から慶応4年1868年まで長津田領主として続いた。

お七稲荷(福寿稲荷)
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お七が祀られている。
殿様の屋敷の中にあったといわれている。

246号線コメダの裏の道沿いで、マンション入り口にあるが、道路におしりをむけた形でみつかりにくい。
ちょっとディープな目黒歴史散歩(お七地蔵と相手の西運について)


殿様屋敷跡

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現在長津田幼稚園が建っている。
最後の領主、岡野由成は徳川について静岡藩に勤め駿河富士郡原村に住んでいたが、廃藩置県後帰農を
申し立て長津田に引き上げた。
その時ここに屋敷を建てた。東は年貢を納めた倉があった。
のち長津田小学校の最初の地となった。
陣屋、御前田の地名は殿様からつけられた地名である。


王子稲荷(王子秋月)
長津田7-5

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江戸初期長津田初代の領主、岡野房恒の創建と言われ大石神社とともに長津田の鎮守となった。
社号は王子権現、明治になって若一王子神社、昭和に王子神社となった。

祭神:伊弉諾命(いざなぎのみこと)・速玉男命(はやたまをのみこと)



福泉寺

古儀真言宗で、恩田村徳恩寺の末寺である。
山号薬王山、本尊は薬師如来
岡野房恒の開基で王子神社の別当寺とした。

岡野家の加持祈祷寺である。
武蔵風土記には不動とあるが、現在は薬師である。
檀家のない寺だったため、明治になり、衰微してしまった。
その後火事にあい、本尊、日光、月光は無事だったが、十二神将は焼けてしまった。
しばらく御堂のない状態が続き、やっと真言宗から山崎改心という僧が派遣された。
師は昔気質の上人生活を身につけた人で、妻帯せず養子を迎え再興にあたった。

武相寅年薬師で12年に一度寅年に開帳される。

休憩場所をお借りしてお弁当をたべさせてもらった。
福泉寺のペット墓の方向に進んで行くと天王社の上に至る。


天王社
 (天王鶯林)
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牛頭天王宮といい、京都八坂神社からの勧請である。
享保年間、疫病がはやり、一生懸命祈願したと古文書にある。
岡野家が長津田を支配する前に引田家が存在し名家であったという。
その引田氏の祖先を祀ったものだという。
岡野家がやってきても、引田氏は従属することができず埼玉の方に追放されたらしい。
この引田家は引田天功の一族である。

元々は少し離れた場所(深田・王子神社寄り)にあったが、寛政8年1796年、福泉寺が願入となり岡野氏に、氏子が多くなり祭事にも狭くなったので領主岡野に替地を願い出たという文書もあった。そのころ現在地に移ったという伝承である。

天王社から鉄塔に向かって進み、舗装道路にでたら左の方におりていく。
右側に二十三夜塔がある



二十三夜塔

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18世紀の後半から昭和の初期にかけて、日本の各地で「講」を組織した人々が集まって月を信仰の対象として精進、勤行し、飲食をしながら月の出を待つ、「月待ち」の行事をした。
供養のしるしのひとつである。
十三夜は虚空菩薩、十五夜は大日如来、十七夜から二十二夜を観音様、二十三夜は勢至菩薩を本尊とした。
勢至菩薩は智慧の光であらゆるものを照らし、苦しみを離れ衆生に力を得させるといわれ、月は勢至菩薩の化身と信じた。

(道祖の神と石神たち・穂高神社・西川久寿男著)

林地蔵
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長津田には地蔵が多く37体ある。
願意は念仏供養が5体、念仏と庚申供養を兼ねたもの3体、愛児や親族の冥福を祈る15体、厄除け長寿4体、交通安全3体、その他7体である。
ここの塔は伯楽谷戸と後谷戸(こうやと)の念仏講の女性たちで建てたものである。
信仰だけでなく女性の社交の場としての講であったと思われる。

伯楽の山桜
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樹齢350年の古木である。伯楽とは馬の医者のことで、近くに住んでいたと思われる。
このあたり、岡部谷戸から大山街道にぬける道に馬捨て場が三か所あった。
馬頭観音が三つあったが今は一つになった。アスレチックの境界に道祖神がある。

(余談)246号線のマクドナルドの裏から岡部谷戸に抜けて山道を歩いた。途中、林、畑とのどかな風景が広がる。

馬捨て場ではなく違法ゴミ捨て場がたくさんあった。
その方が不気味である。ここに流通センターをつくる工事がはじまる。

岡部谷戸で古くから住む岡部さんいわく「東急が坪300円で売れって言ってきたときみんなで断ったんだよ。だからこんなにのどかな景色が残ったんだ!!」

旧大山道 馬の背
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馬の背・旧大山街道
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馬ノ背の頂上・標高100mちょっと

林地蔵から北に登り246号線を渡るとすずかけ台駅手前の大山道にでる。眺望がよい

参考: 長津田歴史探訪マップ・長津田の歴史を訪ねて―長津田風土記  :林 房幸 (著)
    ホントに歩く 大山街道:中平龍二郎

by gannyan1953 | 2011-05-22 10:35 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(2)
Commented at 2016-12-25 11:05 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by gannyan1953 at 2016-12-26 21:44
> ださぶろうさん
ご訪問ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
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