歴史と素適なおつきあい

高麗氏系図からみた姓名 渡来系の地名

歴史と素適なおつきあい(座学)
                                       2002・7・12
姓名    〈高麗・新羅郡の設置〉 2002 6・14資料より


高麗氏系図からみた姓名  
 
6月に見学した高麗神社で家系図のレプリカを見せていただいた。高麗家の家宝である「高麗氏系図」は朝鮮の「族譜(ぞくぽ)」で千数百年つづいてきたものである。鎌倉中期1259年正元11月8日出火のため、その他高麗からの家宝とともに焼失。そこで高麗一門からでた各氏族が自家の系図を持ち寄って再編集されたものである。この系図から別派した苗字は高麗、高麗井、(駒井)、井上、新井、神田、丘登(岡登、岡上)、本所、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、金子、中山、武藤、芝木の各氏などに、わかれている。



吉志 
  
吉志は新羅の官職のことで、吹田には吉志部神社がある。須恵器を作っていた吉志が中央窯として朝廷に大切にされていた。外国使節団の接待役として活躍。難波についた、外国船を岸まで誘導する水先案内人だったという説もある。「吉志の船」とよばれ高度な操船技術をもっていた。もともと、阿倍氏の別派で、大和の有力豪族の阿倍氏は臣を姓とし、684年朝臣となる。 四道将軍として派遣された大彦を始祖とし、膳(かしわで)、宍人(ししびと)、阿閉(あへ)、吉志(きし)など多くの同族をもった。
四道将軍とは崇神天皇が任命し、全国に派遣した4人のことである。古事記中巻54によると次の4人が派遣されたとある。
大彦命(おおひこのみこと)-北陸 ・・・(父)親子の関係(子)・・・武淳川別命(たけぬなかわけのみこと)-東海
吉備津彦命(きびつひこのみこと)-山陽     丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)-丹波


壬生吉志 みぶきし

「新羅郡」ができる前に「武蔵国」にはいった。寺の瓦を作る土師部と深いかかわりがある。承和8年(842)男衾郡榎津郷の郡司を務めた福正は、二人の息子の終身にわたる税を前納したいと願い出て許可されている。そればかりか、数年前不審火で焼失した武蔵国分寺の七重塔を、私費で再建したいと願い出て、これも許可されている。埼玉の江南町の寺内廃寺から、武蔵国分寺に使われた瓦と同じ窯の瓦が、出土しており、壬生氏の氏寺と推定される。


多胡吉志 

 多胡碑は建郡記念として造られ「羊様とよばれ、神様として大切にされた。多胡碑には、和銅4年(711年)に甘良(から)の郡、織裳(おりも)、韓級(からしな)、矢田、大家(おおや)の4郷がさかれ、緑野郷から武美(むみ)郷、片正(かたおか)の郷から山等(やまら)郷の6郷で新郡とされた。ここには羊という名が書かれ、郡司は羊太夫という人で羊の日、羊の刻に生まれたといわれる。辛科の辛は韓で、科は谷あい、尾根と谷が入りくんだ所の意。胡は中国西方の民族の意。多胡は多くの渡来人という意味。辛科神社は701~704年に創建され、711年の建郡により多胡郡の総鎮守となった。


阿倍氏


1.本拠地は、桜井。      
2.阿倍寺を菩提寺とする。   
3.桜井から阿倍野に移った。   
4.土御門の文献に「海」に関するものが多い。
5.志摩の海女は桔梗紋をつけて海に潜る。   
6.紀州とかかわりがある。

阿倍は饗(あえ)で天皇の食事のせわをした。
阿倍御主人(みうし)   大化の改新時、左大臣になり、倉橋麻呂の子。文武天皇時、右大臣になり、「竹取物語」のモデルといわれる。
キトラ古墳の埋葬者か?といわれている。明日香村の阿倍山で発掘された古墳で星宿図がある。阿倍御主人か、天武の皇子忍壁かといわれる。

大彦(おおひこの)命(みこと)・武淳川(たけぬなかわけの)別命(みこと)  


親子で崇神天皇に仕え、大彦は北陸に、武淳川別命は東海に派遣されたが、東北南部で合流。地名「会津」となる。

阿倍比羅夫   (658)蝦夷征伐をする。船180艘を連ね日本海を北上。秋田、津軽、北海道と進んだ。


阿倍仲麻呂   遣唐使

阿倍貞任(さだとう)     (1019~1062)前九年の役を起こした人。源頼義に討たれた。ここから明治まで阿倍家の中で続いた家柄もある。

丈部不破麻呂 (はせつかべのふわまろ)

足立郡出身。皇族の警護のため都に上がるが、恵美押勝の乱に遭遇。鎮圧し、その功で武蔵(むさし)宿禰(すくね)の姓を賜り、武蔵の国造となった。

阿倍宿奈麻呂 
718年、長屋王とともに大納言に任ぜられる。


石上麻呂

物部氏で壬申の乱では近江方につき、皇子の首を吉野方に渡した。が、天武朝でも重用され、遣
新羅使になった。

橘諸兄

玄昉、吉備(きびの)真備(まきび)らと、国政を立ち直す。


福信 

正倉院の宝物の署名にその名がある。高倉の名をもらっている。日高の高麗家の系図にはなく、
相模の高倉郡と関係しているといわれる。


広成

天平宝字8年(764)恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で仲麻呂を愛発駅で討ち取った功績により
入間宿禰」を賜った。物部直(もののべのあたい)広成といい、出自は物部である。
物部兄(もののべえ)麻呂(まろ)が大化の改新後聖徳太子側につき、太子の舎人(とねり)となった。入間の勝呂(すぐろ)廃寺(はいじ)は七堂伽
藍を構えた立派な寺で物部氏の氏寺と思われる。

地名 

神奈川の山 

高麗山 大磯は朝鮮語で「いらっしゃい」の意味だという。渡来人の上陸により、高麗文化をもたらした大磯。その目標であった、高麗山。

箱根   ハコは朝鮮の古語で神仙、ネは山嶺。

塔の峰 中腹の岩屋に光がさし、掘ってみるとインドの宝塔が三つでてきた。

火打石岳 ヒウチはアイヌ語でビウチ、この山には玄武岩は光沢があり黒曜石とみまちがうほどである。この山から千石原にかけて古代遺跡が多く、土器、石器が発見されている。   当時の先住民が生活必需品である燧石を探し出したところから。

足柄峠  この山の巨木で作った船は船足が軽いといわれた。古風土記には足軽とある。峠には新羅三郎 義光の名笙(しょう)を伝える。笛吹塚がある。

矢倉岳 近くに浜居場城跡があり、櫓があった。櫓は物見、矢の貯蔵、矢の発射などに使われた。
 
乙女峠 箱根の古道で最古の碓氷道は静岡方面から乙女峠を越え、千石原に下る。御厨、うとう、御留峠とも呼んだ。千石原に関所があったころ、調べの都合で旅人はここで足止めされたという。いいつたえの悲話がある。父の病気の平癒祈願に峠を越えて、竹之下の地蔵尊に毎夜お参りしたことで、村人は浮いたうわさを流した。心配した父親が後を追うと、冷たくなっている娘をみつけた。その日は満願の日であった。いつしか孝行娘として
乙女峠といわれるようになったが、語源は御留から乙女に転化。

駒ケ岳 全国に駒ケ岳はあり、馬にちなんだところが多いが、箱根の駒ケ岳は駒方神社が祀られているのでそこからきたものと思われる。が、高麗人から名づけられたものではないか。
      箱根と大磯の深い関係を思うと、高麗山の転化ではないか。

神山
   駒ケ岳とともに山岳信仰の山で神の住む山からの名称と思われる。

丹沢
  古朝鮮語で、丹はタニ、サワは深い谷の渓流。

大山  大山は阿夫利山ともいわれる。古朝鮮語でアは大とか一を意味する。夫利のフリはムリで山、相模一の山、大きい山からきたのではないか。アフリと大山が同義語になる。

ヤビツ峠 道路改修の折、峠付近から矢櫃(やびつ)が発見された。峠をはさんで血なまぐさい地名がある。

殺生ヶ原、地獄沢、城山、門戸口、千人隠れなど

二の塔 大平山、鷹休みの別名がある。南麓に横野という集落があって、鎮守として唐子神社がある。号を唐子明神という。その神は南にのびる山稜に一、二、三の御神灯を灯したという。二の灯の転化と思われる。
三の塔 菩提山ともいう。ここも三の灯の転化。


烏(からす)尾山(おさん) 厳しい修行を積んだ行者たちが、「ミサキガミ」といわれる烏に化身したといわれる先祖の霊に、これからの厳しい修行に耐えられるように,加護を祈った。

行者岳 役行者(役小角(えんのおづぬ))をまつったからといわれる。

新大日 現在の木の又大日にまず大日如来がまつられ、その後山の山頂に大日如来をまつったことから新大日といわれたのではないか。大日如来は修験道の本尊である。

塔の岳 尊仏山といわれる。中腹に大石があり、仏体に似ていたところから尊仏岩という。昔から立岩をお塔といい、お塔があるからといわれる。関東大震災で尊仏岩は転げ落ち、のちに探したが見つからなかった。

大丸  古朝鮮では高い山をマル,モイといった。


鍋割山 北側の鍋割沢のナベはナメ、滑が割れる、歩きにくい、滑らかなところがないという意味

か。鍋を半分に割ったような山の形ともいわれる。

蛭ヶ岳 ヒルが多いという説。猟師の山頭巾をヒルと呼んだというが、山の形が頭巾に似ているからという説。

毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)をまつったためという説。


姫次(ひめつぐ)  昔、どこからか追われてきた長者と娘の折花姫が住んでいた。巨万の富を抱えたこの一家。近くの鐘撞山に見張り番を置いていたが、突然襲われた。追っ手とも盗賊ともいわれる。姫は神の川に身を投げた。爺は社宮司沢(しゃぐうじさわ)で、婆はエビラ沢で殺された。爺は離れ離れに逃げた姫を思い、かわいそうだと叫んだところは河愛尾根、ササ原に姫が突き落とされたと思いそこを姫突といった。時移り姫突が、姫次になったという説。

焼山  かやや、草を刈り、人がたくさんはいったので、たびたび失火があったので焼山という説もあるが、失火ではなく、カヤは屋根を葺く大切なものであったから、上質なカヤを繁殖させるため山焼きをしたからではないか。

大群山 古朝鮮語でムレは山、大牟礼から大牟連、大群オオムレに転化。

富士山 アイヌ語のプシ(噴火する)ではないか。               

相模―サンガモ 相はサン、模はモ 。サネサシ(真城)         
武蔵―モシシ、苧(韓モシ)の種子、麻。ムネサシ(宗城) 胸刺、宗城、主城
飯能―ハンナラ ハンは韓、ナラは大国            
新堀―ホリはプル プルは都で新しい都       
志木―新羅の転化。磯城(シキ)の説。
日暮里―ポリはプル                    
駒沢 狛江 秋留(狭山) 
白髭―クナラ、クは白、百済をクナラという      
勝呂―村主をスグリという                
牟礼・牟婁・毛呂―ムレ・ムロ・モロ  村をムレというのでその転化       
人里(ヘンポリ)-ヘルヨン血縁、ポリは里
野火止
鶴巻、弦巻―ドル、牧、原野               
麻―フサは麻の古語で下総、上総。麻布、麻羽、麻生など
絹―ケンがケヌ、キヌとなる。鬼怒川          
海―ハタ、バタ、秦氏。  
群馬―クルベ、文部から
妙義神社―波己曾社(はこそ)―コソがあるので新羅系。コソは居世(コセ)で、敬称。
        江戸時代の伴信友は「神社を許曾(コソ)という事。」といっている。
寒河江―サガはわたしの家、社の意で、寒川は寒河の当て字。

「かながわの山」かもめ文庫、「日本知名学研究」中島利一郎、「日本の中の朝鮮文化」
キムタルインターネット、飛鳥資料館他                           
by gannyan1953 | 2011-06-08 14:44 | 高麗氏 渡来人 地名 | Comments(0)
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