歴史と素適なおつきあい

港北ニュータウン・中川の老馬について

歴史と素適なおつきあい番外編   2012・8・8

老馬について

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有馬から荏田宿までの大山道  左下が荏田宿 「港北百話」より

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字名 都筑の民俗より



ロウバ地名


中川には古代からの道、大山道がある。
付近には血流れ坂、血流れ田、精進場、刑場跡、ハリツケ場、百たたきなどいかにも、刑場があったと思われる地名が残る。
(中川の地名は明治になってからの呼称で江戸時代ここは大棚村といわれた。)

地元の人は昔からの言い伝えで刑場があったという。
なかったという説もある。
本当かウソかわからないままだが、調べてみた。

そして「ロウバ地名」と思われる地名が、この場所だけでなく、「鶴見川・境川・流域文化考」(小寺篤著・230CLUB新聞)によると、鶴見川周辺に多くあったことがわかった。

ロウバ地名は、主に中世の城から小田原北条の時代まで、あるいは少し遡り鎌倉幕府があったころの名残ではないかと推察した。


牢場 : 都筑郡(大棚・恩田)高座郡(下鶴間・栗原)多摩郡(高ヶ坂・小山田)鎌倉郡(瀬谷)

籠場 ; 都筑郡(久保・白根・勝田・三保)荏原郡(等々力)

ロウバ ;都筑郡(川井・黒川)

ロウ場 :都筑郡(小島新田村)

ロウ口 :都筑郡(下麻生)

牢尻  : 橘樹郡(大曽根・太尾)

籠場谷 : 橘樹郡(野川・久末)

籠久保 : 橘樹郡(菊名・下菅生)

牢場谷 ; 橘樹郡(土橋)

籠場台 : 橘樹郡(五段田村)

他に十日市場では狼窪、茅ヶ崎に宑(せい)窪谷があるが、宑は牢のつもりか、窪地を作って獣をとる落とし穴からきたものかもしれない。
縄文遺跡の獣をとる落とし穴が、たくさん発見されている地域である。

町田の小山田付近(小山田城)、大和市(深見城)、御殿場市鮎沢(深沢城)にもあるが、いずれも中世の城がある。
天守閣のある城ではなく物見台、資材置き場も中世の城といわれた。

中世の城

山の上などに作られ中心となる本城、まわりに小さな支城があった。
当時の領主の住まいの城(本城)、連絡用の城(のろしをあげて支城が、順番に知らせていく)、
軍を動かすための城、街道を見張るための城など、機能的なものであった。

牢獄について

禁獄とは未決囚、あるいは受刑者を拘禁する場所。それを手段とした刑罰。時代によって差異があるという。
「日本行刑史」瀧川政次郎著によると

榎下  横浜市緑区三保町
「その獄舎は牢屋の設備極めて悪く、日光も入らぬ土牢の場合もあった」
都筑郡榎下城のちかくに洞穴がありカンカン穴という。昔牢尻といったという。


早野  川崎市麻生区早野

川崎にある早野の古文書に、杢衛門の子長左衛門親子が不届きな行為をしたので、所払い、田畑取りあげの沙汰がおりたとある。

執行者は知行主富岡氏だと思われる。江戸時代は一領一家中において支障のないときは「自分仕置」をして中央にお伺いをたてる必要はなかったといわれる。
遠島の罪の場合領内に島がなかった場合牢屋にいれるか親戚お預かりとなったという。

地名の由来

ロウバ

① 籠場の由来のひとつに崖地をともなう険しい地形、入り組んだ場所などに使われる地形由来の説がある。

② 馬を飼う
籠馬で、馬を閉じ込めたところ。このあたり昔朝廷の馬を献ずる御料牧があり、馬を飼っていた。
たまプラーザ付近石川の牧という馬の牧場があったが、大棚村は隣接している。
中世のころ、あちこちに城があってその馬を調達するのに馬を置いたところという説。

③ 都筑区中川の牢場説から牢屋があったからという説。

「港北100話」にある伝説では

「池田(中川村にある旧地名)の高台、現在竹藪のある場所に死刑場があって、前の谷戸田のことを血流田、血流坂とよぶ。
その昔牢場に罪人をいれて罪人が引き出され、おとう坂をあがって処刑された。
この場所ははりつけ場といわれ極刑の磔刑も行われた。
山を掘ると今でも白骨が出るといわれる。」


牢場は老馬不動脇の谷戸奥にあったと地元の伝承に残る。
今はあとかたもなく、老馬遺跡とよばれる縄文時代からの遺跡が発見されている。

江戸時代にこの場所で極刑があったとは考えられないので、古く中世に荏田城、茅ヶ崎城などがあったころの話なのではないかと思う。

荏田城を作った大工さんたちが 城の秘密を守るため処刑されたのではないかという話もある。
しかし荏田城にそこまでの秘密があるとも思えない。

荏田城  渡れない東名高速道路の歩道橋

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東名高速道路をはさんだ遠景だが、この歩道橋は侵入禁止。
江田城址につながる歩道橋である。
江田駅近くの東名高速道路に接した場所にある中世の城である。
  
近くに鎌倉街道、古代の足柄街道(古東海道、江戸時代は大山道)が通る交通の要所であった。
源義経の家臣である江田源三の城という伝承が残る。
このあたり、平安末期に武蔵七党の綴党が存在していたのでそれと関係していたかもしれない
戦国時代は、小机城の支城であったといわれ曾禰采女助(そねうねめのすけ)という武士の領地だったといわれる。
荏田城址は、現在個人の所有のため、見学不能で、勝手に入ると通報されるらしい。

中川の牢場はいつのころからか、「老馬」に変わった。地名は残ったが、
漢字表記は住民の感情から変えたのではないかと思う。
ウトウ坂ウトウト坂、ウトウ坂、訛ってオトウ坂、現在ウトウ坂を下った方ににあるマンション名はオトサカである。

切通しにある坂、渓谷を越える坂で、あちこちにある坂名である。
とろとろ登るので馬子が歌を歌いながら登ったというのんびりした坂名ともいわれる。

血流田
これについては、青葉区に赤田という地名があるが、鉄分を多く含む土地は、赤いという。
これと同じものかもしれない。
青葉区の鉄(くろがね)も、鉄を意味していると思われる。

全国あちこちの戦場跡に血にまつわる地名があるので、やはり血にまつわる地名かもしれない。

血流坂
罪人の血が流れたという伝承がある。

精進場
水辺の洗い場。体を清める場所。
ここでは刑を行う前に執行者が清めたという伝承がある。

ハリツケ場
江戸時代にこの場所で、磔刑はなかったと思われるが、中世の城があった時代にはあったかもしれない。
他に見張り場の意味もあり見張りを常に置くところを「張りつけ場」といったという。


ロウバのまとめ

鎌倉時代、鶴見川流域は土豪からの領主化があり、鎌倉幕府の御家人であった。
その中で渋谷氏、小山田氏など大きな領主を組織したのは後の小田原北条氏である。
江戸時代には旗本代官がこれを治め、それぞれの知行をもつものは法をもって治めた。
鎌倉道、大山道のとおる場所柄、刑場があっても不思議ではない。
江戸幕府は日光街道に小塚原の刑場、東海道に鈴ヶ森刑場をあえて通行人への見せしめのために置いている。
だから牢獄なり、仕置場のような施設はあったのではないかと考える。
新編武蔵風土記稿(昌平坂学問所により1830年完成)の編纂時にはまだ施設が存在し、
その後住民感情の変化により消え去り、文字だけがが変化して残ったのではないか。

ひとつの歴史として受け止めたいと思う。


ロウバ地名の残る中川の大山道

横浜市都筑区中川に老馬鍛冶山不動尊がある。
江戸末期の地図をみると字名は牢場とある。
鷺沼有馬から荏田宿にむかう「大山道」で、現在でもその道をたどることができる。
大山道は江戸時代、大山詣でに利用された。古代では「東海道」として国府を結ぶ街道であった。
武蔵国中川から相模国を通過し足柄山へ、足柄峠を越えて都につながった。
そしてこの道は、防人たちが都に向かった道である。

防人とその妻の歌が万葉集に収められている。

「我が行きの 息づくしかば 足柄の 峰延ほ(みねはふ)雲を 見とと偲(しぬ)はね」 (都筑郡上丁 服部於由・はとりべのおゆ)

訳わたしの行くことが、嘆息されるようなら、足柄山の峰に横たわる雲を 見つつ思いなさい

「我が背なを 筑紫へ遣(や)りて 愛(うつく)しみ 帯は解(おひはと)かなな あやにかも寝も」 (妻 服部呰女。ちさめ)


わたしの夫を九州に行かせて、いとしいので、帯はとかないでいたい、ほんとうに、着たままで寝ようか


於由は、天平勝宝7年(755)に交替した都筑の上丁・かみつよほろ ( 20才以上の壮丁・成年男子のこと ) である。
荏原郡の上丁物部広足、同郡主張物部歳徳、橘樹郡の上丁物部真根、埼玉郡の上丁藤原部等母麻呂、
秩父郡の助丁大伴部小歳等と共に筑紫へ赴いたようである。

上丁とは兵士の階級である。「都筑」の名が記録された最古の文献がこの「万葉集」である。

大山道は少し前までは竹藪だらけだったが、街道近くに、ニトリができて山全体が住宅地に変貌した。
池田あたりに住んでいた地主さんの話7名ほどの地主さんたちが集まって「ニトリ」あたりを「あゆみが丘」と名付けた。

「いい地名でしょ」と目を細められた。先祖代々住んできた場所に愛情をもっておられる。
幕末には大山道にそって茶店をしていたそうだ。
港北ニュータウン計画で、その地主さんは中川駅近くに住まわれている。道沿いにあった。
馬頭観音は街道よりひとつ下がった場所に、移されている。


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現在の馬頭観音碑
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竹やぶにあった馬頭観音 


ご近所の話によると、最近まで新しくできた老人ホームのそばにこの石が転がっていたそうだが、
引き取り手がなく、知らないうちになくなったという。
あまり気持ちのいい石ではなく、敷地内に置くのはためらったという。
深く追求はできなかった。

なぜ、現在できた馬頭観音碑といっしょに設置しなかったのか疑問が残る。
あとで教えてもらったが、この馬頭観音碑の下に昔からの竹やぶにあった馬頭観音の石は埋められたという。
やはり埋めなくてはならない何かがあるのだろう。

坂を降り始めると、字名「池田」あたりがニトリの近くの焼肉屋で、今では街道は車道に横切られている。

そしてサントゥールの下の方を通って老馬、荏田宿となる。荏田宿を過ぎると、
中世の城「荏田城」の麓を通って足柄方面に西へとむかっていく。

桜田門外の変とのかかわり

桜田門外の変で、怪我をした井伊藩の家来が怪我のため実家に返そうと運ばれてきて
この地近くの松林があったところで亡くなってしまった。
そこで、松林の根元に葬った。のちの明治19年に長沢家が慰霊塔を建立した。

場所は大山道を外れており、長沢みかん園のあたりにある。
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井伊家家来の慰霊塔


滝前
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老馬不動尊の街道にある滝で、  今でも少しだが水が湧き出ている。 
地名は滝前という。
開発した公団は老馬不動の引っ越しを勧めたが、断固拒絶し移動はしていない。
滝は小さくなったが、開発されてしまった今でもわき水がでることで、かえって霊験あらたかな水となった。
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関東大震災で落下し顔が欠けてしまったお不動様
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老馬不動尊
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老馬不動尊脇のお稲荷様

参考
鶴見川・境川流域文化考(小寺篤)
中川の地名(吉野孝三郎)
変わりゆく古里写真集・あざみ野たまプラーザ荏田の二十五年より
港北百話(港北区老人クラブ連合会)
都筑の民俗
老馬遺跡(港北ニュータウン埋蔵文化財)
HP城郭図鑑ウイキぺディア



by gannyan1953 | 2012-08-08 11:11 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(2)
Commented by M at 2013-06-04 22:33 x
興味深く拝見しました。
3体の馬頭観音は、新たに設置された馬頭観音碑の下に埋まっているそうですよ。
Commented by gannyan1953 at 2013-06-04 23:39
教えていただきありがとうございます。
なぜ埋めてしまったのか、もしお分かりになったらまたお知らせください。
埋めるとは全く考えつきませんでした。
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