歴史と素適なおつきあい番外編 2012年9月8日
師岡熊野神社 横浜市港北区師岡町1137
いの池
テレビでパワースポットとして放送された最近人気のある神社である。
その師岡熊野神社に将門が訪れているという文献があった。早速宮司さんにお会いして、真偽を確かめに出かけたが、全く聞いたことのない話だそうだ。
山川出版社・中丸和伯著・「神奈川県の歴史」である。
相模は天慶の乱とはかかわりがないようだが、将門の巡検のほか、弟将頼が相模に逃れて討たれているので、かれらの「伴類」となった百姓のいたことを思わせる。
横浜市港北区師岡には将門をまつる熊野神社があるが、これは百姓が将門の勇武と反抗をたたえたなごりであろう。
この百姓とは、下人、所従を農業経営に使い、富裕化し武力をたくわえて将門の「伴類」となったものであった。将門については
将門と鉄を参照
師岡熊野神社とは
祭神 イザナギノミコト
コトサカオノミコト
ハヤタマオノミコト
神亀元年(724)全寿仙人によって開かれた。
熊野大社の神を勧請している。
仁和元年(885)光孝天皇の勅額を賜った。
「関東随一大霊験所熊埜宮」鳥居に掲げてあるのが勅額
関東大震災で割れてしまい、今は写しを掲げている。
光孝天皇(こうこうてんのう)は、第58代の天皇で在位は元慶8年(884) からたった3年であった。
親王として不遇の生活がつづき55歳で即位した。先帝は気性の激しい人であったが、光孝天皇はきわめて寛大で穏やかな人柄だったという。
エピソードに突如白羽の矢のあたった親王にそれまでの多くの借財があったが、即位するや貸主の町人が押し寄せたという。
亡くなる少し前に仁和地震があり、南海トラフを震源とする地震である。
その9年前に貞観地震がありこの地震と連動したといわれている。
貞観地震は東日本大震災と比較された地震である。
このような天変地異に光孝天皇は心痛めたといわれる。
京都の仁和寺を勅願所にしようと建設をはじめた。
い・の・ちの池伝説いの池いの池には片目の鯉伝説が伝わっている。
熊野権現が片目を射られてしまい、鯉がみがわりになったという。
それから池をさらうと雨が降るといわれ雨乞い神事も行われた。12の龍を使うという。
のの池のの池は涸れることなく神社が落雷で出火したときこの水によってご神体を守ったという。
古来から伝わる筒粥神事の水もこの池の水が使われる。
ちの池ちの池は妊婦が通りかかると、池に引き込まれ。 水争いでけがをして血で赤く染まった。
池のまこもが秋になると赤く染まった。ちょっと怖い。
頼朝もこの神社に願掛けをした記録があるので、きっと平将門も霊験を得るために訪れたことだろう。この神社に伝わる話は製鉄とかかわる話が多い。
片目の鯉・龍・雷・極めつけが「ちの池」! 赤い水は製鉄でしょう!ちの池は昭和44年(1969)に埋められ、現在は大曽根第三公園や宅地になってしまった。