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歴史と素適なおつきあい

中川からお江様ゆかりの満願寺を訪ねて

歴史と素適なおつきあい番外編             2014年9月20日


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鍛冶山遺跡


中川地域ケアプラザ前・・鍛冶山遺跡・・鍛冶山地蔵尊・・真福寺・・荏田宿・・虚空蔵遺跡・・関根のお大師様・・観福寺・・築地の土手・・驚神社・・西勝寺・・満願寺・・あざみ野駅・・中川駅(9キロ)

鍛冶山のいわれ 

登記地名は鍛冶屋である。
江戸後期に大久保新蔵という人が越前で鍛冶の修行を積みこの地で野鍛冶をしていた。
ところが、どこの誰ともわからない人から刀の注文を受けた。
怪しんでみたものの、手付け金をもらってしまった。刀を作るには危ないと思い、
場所も精進場谷の方に借りの小屋を作り、刀を作成した。
仕上がった時に手入れが入り、刀は没収、家族共々捕縛され白州で打ち首と申し渡された。
ところが奉行が憐れんだのか今後、金釘、農具を打つことのみ専念するなら赦すといわれた。
それから新蔵は釘鍛冶に専念したという。
のちに鍛冶屋のあたりが駒沢女子短期大学の所有となり、整地したところ、金属屑が大量にでたという。

鍛冶山遺跡 (ゆうひがおか公園) 

縄文早期の人々の暮らしがあり、古墳時代の盛り土古墳が3基あることから、近くの虚空蔵山古墳とのかかわりを示し古墳群であった可能性がある。

鍛冶山地蔵尊 (中川3−30) 
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宝永3(1706)年の銘があるお地蔵様である。
江戸時代に正念寺という寺の山門前にあったという。
鎌倉街道沿いにあり、子育て地蔵として信仰があった。区画整理により移築された。
宝永4年に富士山の噴火で起こった宝永地震があった。
できたてのお地蔵様はいっぱい灰をかぶったことだろう。

荏田宿庚申塔 
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江戸中期寛政5年(1793)に荏田下宿の婦人たちによって勧請され、
平成6年に改築された。道標と健脚祈願。

荏田宿
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早淵川と布川が落ち合う窪地にある宿で、問屋、旅籠、油屋。足袋屋など35軒ほど軒を連ねていた。
特に夏は大山詣が盛んであった。江戸日本橋から7里。道幅は3間。下宿・中宿・上宿に分かれる。

下宿旅籠「枡屋」に渡辺華山投宿の記録あり。宿に入ると秋葉講の定宿を示す常夜塔が残っている。
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渡辺華山の絵

養老山真福寺 (青葉区荏田町 432−8) 本尊 :千手観世音菩薩  宗派 :真言宗
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開創年代は不明。
創建当初は現在地の北方3.4kmにあったが、大正11年に本堂の老朽化のため観音堂があった現在地に移転。
当初の本尊・薬師如来と釈迦堂の釈迦如来(重文)はその時に客仏となった。

本尊の千手観音立像は本堂にある。平安末期の作で前面は頭から裾まで一本の木で彫られ、
天冠、頭髪はていねいに彫刻されている。
一部に彩色が残る。
もとは彩色され見事な姿だったと思われる。
12年に1度の子の年に開張される。釈迦如来立像は、昭和8年国の重要文化財に指定される。
京都清涼寺本像を模刻した像で頭髪は縄を巻いたような形で首まで衣が覆っている。
衣文は美しく彫りだされ、やさしい表情をした清涼寺式釈迦と呼ばれるものである。

毎年4月8日と8月17日に開張される。

真福寺の盆供養
もとは毎月17日に観音講があった。今では8月17日に釈迦如来が公開される。
観音講なのに釈迦如来公開なのだろうか?
今度でかけてみて、確認したい。

17日は家康の忌日でそれに関係すると思われる。群衆が殺到したという。
渡辺華山が桝やから聞き書きしたものを「游相日記」に書いている。

観音講といふありて馬の売買をなす。
近きまわりはいふもさらなり。
遠き国よりも、馬もてるかぎりは、牽ききたりて、売っ買っせるなり。
おのが持てる馬にあき、又は、畜かたき馬なぞは
よき馬のようにこしらえなして、互いに見極めて買ふなり。

この馬市は2月17日に行われたらしい。
明治になると8月17日だけとなった。
法要が行われ、双盤念仏が行われるという。

参考:江と石川村:横溝潔

虚空蔵菩薩・虚空蔵遺跡 (現在アルスあざみの) 
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虚空蔵菩薩
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虚空蔵菩薩の手前にある像

虚空蔵遺跡は、縄文から中世の遺物が発掘された。
虚空蔵菩薩が祀られていたのでその名称となった。

山の頂上に松の木が一本あり古い街道があり、有馬に向かう鎌倉道があったという。
中世の烽火の跡があり、近くの荏田城とのかかわりがあったと思われる。
このあたり荏田古墳群といって古墳が多い。その中で一番古い古墳だそうだ。

関根大師 (荏田町297の裏) 
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柳水弘法大師縁起によると、四国八十八カ所の摩盧山(まろざん)焼山寺から
享保元年(1801)に勧請されたお大師様がある。

このお大師様の近くに柳の大木があって水が湧き出た。
病気だった人がその水を飲んで治ったという。
地名が関根だったことから「関根のお大師様」と呼ばれた。

宝剣山観福寺(青葉区荏田町328)真言宗豊山派
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嘉禄元年(1225)印誉和尚が開山。
本尊は如意輪観世音菩薩。縄文から中世までの観福寺遺跡、観福寺北遺跡、
その後ろに釈迦道(しゃかんどう)遺跡、さきほどの虚空蔵遺跡と遺跡が多い。
裏には「らんとうば」という地名が残る。卵塔場は代々の住職の墓のことをいう。
本堂の上にお墓があり登りつめて行くと都筑区が一望できるほどの景観がある。

関根稲荷
市営地下鉄ブルーラインの脇、マンション裏に関根稲荷がひっそり鎮座している。

築地の土手     荏田村から石川村の築地の土手
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早淵川合流地点・このあたりから土手があった。


場所は青葉区新石川4丁目と荏田町の境あたり。
国道246号線を渋谷に向かい「新石川」の交差点を左折、信号「新石川東名下」の左に早淵川がある。
そのあたりから北東方向ヒルハイツたまプラーザの麓まで築かれていた。
江戸時代、荏田村と石川村の境界に北の山から南の丘に一直線に築土して堤が作られた。
高さ4m長さ300mで、由来ははっきりしていない。

①松沢由貞(よしさだ)著「都筑が丘」にある。
松沢由貞氏は荏田宿小松屋に生まれ教員、市会議員を勤めた。
「その昔早淵川は唯一の水源で旱天の水不足には水争いも起こった。
両村もそれがもとで仲が悪く、下流の荏田村では水をくれないなら一滴も欲しくないと
この土手の築造がはじまった。

流木を防ぐため谷の奥に貯木したところが「保木」
一面に冠水した所は「平川」
牛を集めて避難させた所は「牛込」
船を出して村の交通にあたった部落は「船頭」
真偽のほどはわからないが、面白い伝説である。」
土手は昭和22年農地改革のときにすっかり取り壊された。


②安田卓全氏は心行寺の住職で氏が書き写した「山内の沿革及びその歴史」に
もう少し古い話がある。

「築地の土手は荏田石川の境で青山街道に沿っている。
稲毛重成(畠山重忠の一族小山田有重の子)が枡形城から小机城に赴く折に通ったもので、
曰く鎌倉道である。
土手の長さ30間、幅5、6間で、篠笹と芝が覆っている。東西に築かれ
中程で早淵川に中断されている。米軍の航空写真に見られるという。」


③戸倉英太郎著「古道のほとり」には、

「観福寺の手前から登り寺の下谷に下る小径は古道であると思われる。
下谷で早淵川を渡る、驚神社がある。
驚神社は水神であると考える。
築地土手〜下谷の東部で早淵川が南に湾曲する。
その曲がり角より新大山街道の西に沿って大きな築堤址がある。之を築地土手という。

この土手が何のためにいつ築かれてかは定かではない。この土手が水除けのものか、
道路になっているのかわからないが、東方丘陵(現あゆみが丘)に刑場牢獄の跡が伝わるので
或は東海官道の名残ではないか。」

これは、古代の道ではないかという説である。


④最後にご近所のみなさまの言い伝えから・・・

中川の大久保太一さんのお話は「水争い」

下谷の工藤豊さんは「けんか土手」と聞いた。

横溝智美さんは「この地で耕作をしていたが、納得できる話はなかった。」

飯島正寿さんは平将門が京都に任官で行くときにこの官道を通った。

松井治郎さんは江田源三と稲毛重成の勢力争いの所産と聞いている」


この土手は石川村にメリットがないという。ということは水の調節以上の目的をもっていた可能性がある。

参考:都筑・橘樹地域史研究(横溝潔氏「石川村・荏田村境の築地の土手の一考察」

驚神社(青葉区新石川町1ー24ー9)
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祭神は素戔嗚尊である。
奈良時代からあったという。古代に石川の牧という馬を飼育する場所があったため、
馬を敬うことから神社名になったといわれる。
秋の祭りには保木、平川、荏子田、船頭、牛込から山車、神輿が集まり
牛込獅子舞が奉納される。

戦時中は出征兵士の出陣式、戦勝祈願など行われた。
戦後は都市部からの買い出しで沢山の人が訪れたという。
20年前でも鬱蒼とした緑が多い場所であったが、今では、マンションに囲まれ姿はかわった。

西勝寺(青葉区新石川1-10-8)浄土真宗西本願寺派
1559年純能法師の開基と伝わる。
江戸末期1045年に火災があり文献を焼かれ、詳しい事はわからなくなった。
火災の原因は旗本が美しが丘あたりで花火大会を催し、
その火の粉が西勝寺の屋根に舞い、全焼したそうである。
1863年に再建された。
明治になると地域の文化の中心となり若者たちが集い、子供の教室など開かれたが、
公立の学校設立でその役割も終わった。


金剛山成就院満願寺 (青葉区あざみの4−27)真言宗豊山派
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満願寺に徳川家のお位牌がある。

なぜかというと
石川村、王禅寺あたりお江様の化粧料地だった。
化粧料地とは、身分の高い女性の財産、持参金のことをいう。
化粧料とは夫人の小遣いを意味する。
領地と化粧料地の違いは将軍家に対し軍備の提供を化粧料地はしなくてもいいことである。
この化粧料地は崇源院死後、増上寺の御霊屋(みたまや)料地となった。
徳川家の菩提を弔うための費用を賄うためである。

運良く住職さんと会う事ができ、話を伺った。
興味深かった事は、石川村の人たちが江戸時代幕府に優遇されていたこと、
それはなぜか?
お江様は増上寺でたったひとり荼毘に付されている。
やはり毒殺説があるからで、その真相を石川村の人々は
知っていたのではないかと言うのである。
大河ドラマで「お江様」が放送された。そのとき
徳川の現在の当主 徳川恒孝氏が訪れたという。
住職はお江様についておたずねしたそうである。
恒孝氏は「何も伝えられたものはない」とお答えになったそうである。
徳川家にとってお江様は煙たい存在だったのかと推測される。

お江様とは  お江様と増上寺

徳川二代将軍秀忠の室で、お江与、達子という。
父は、近江の小谷城主浅井長政で、母は織田信長の妹お市の方である。
天正元年(1573)に小谷城で三女として生まれる。

浅井氏が信長に滅ぼされると母や姉(後の淀君と小浜城主京極高次の室・お初)と共に
信長に養われ、信長が滅びた後、柴田勝家に養われ、勝家が秀吉に滅ぼされたとき母も失った。
次に秀吉に養われ、秀忠には、6歳年上、再々婚で嫁いだ。

本とか嘘かわからないが、春日局(家光の乳母)と仲が悪く大奥話を面白く色どった。
春日局は明智光秀の家老の娘、お江様からすると叔父信長を滅ぼされた敵である。

そして家光、忠長、千姫、子々姫、勝姫、初姫、和子を生んだ。

寛永3年(1626)9月に亡くなり「崇源院殿昌誉和興仁清」という法名である。



石川村の地名の由来―早渕川の水が澄んでいて、川底がほとんど岩なので石川と呼ぶようになったという。早渕川は王禅寺が源流である。

山内村の地名の由来―増上寺の御霊屋料地だったことから増上寺山内と呼ばれたことからという。

お位牌がなぜあるのか

満願寺は元和2年(1616)の過去帳に寺主の名があるそうで、
このころには存在したことになる。

満願寺がここにあるのは、増上寺の裏鬼門にあたり守護の役割があったためと思われる。

江戸時代の石仏もあり、中には康安2年(1362)の板碑もあり、
このあたりの土地を支配した有力者の影がみえる。

ところで満願寺と増上寺を直線で結ぶと目黒区の祐天寺が線上にある。
祐天寺も増上寺の裏鬼門であるかもしれない。
祐天寺は享保3年(1718)増上寺の第 36世祐天上人の遺志を継いだ弟子祐海が
将軍吉宗の保護で上人の遺跡に開創した寺である。
この祐天寺のある目黒一帯ももとは崇源院の御化粧料地だった。
寛永9年(1632)以降石川村と同じく御霊屋(みたまや)料地となった。


御霊屋とは
各御霊屋の維持費を賄うための寺領は、幕府直轄でもなく旗本領、大名領でもなかった。
元禄時代には増上寺のなかに輪番所が設けられ輪番の寺僧と役人が
寺領から御霊屋料の出納や村へのお触れ、領内の管理、訴訟の対応、村役人の任免を担当した。
寺領の農民は寺領特有の雑税の負担をするが、助郷役、鷹狩り人足、国役金の負担は免除された。
年貢高も低く定められ年貢米を運搬する人足、境内草刈り人足、正月、盆の御用を勤める
増上寺宿坊の泊まり人足、増上寺周辺で火事があったときの人足など、人、馬を提供しなければならなかった。

金納化されたものが、年貢米を運ぶ船頭の給金、寺領の村々に通達を回す
人足の給金、境内掃除に使う箒の代金などである。
正月の門松、施餓鬼の竹も現物で納めた。
この門松の上納をめぐって石川村と王禅寺で争いが起きている。
寺領の農民は最初は幕府への帰属意識が天領の農民以上に強かったが、
近世後期にはいると、御霊屋離れが生じてきた。
背景に増上寺の役体系の変化、村の階級分解、一番に増上寺を崇める意識の低下があった。

幕府の力が弱まり飢饉、農村の荒廃、富裕層の出現もあって没落農民が増えた。
これが、不穏勢力となって関東を取り締まる八州めぐりが設けられた。
そんな農村社会の変化が増上寺寺領の支配も変化した。
寺領の村々はいろいろな請願を行うようになり、おおむね成功したらしい。
寛政四年(1792)王禅寺村では諸役負担に反対し村方騒動を起こしている。
要求は認められている。文化二年(1805)王禅寺村の名主は御霊屋領二十五ケ村の肝入名主になり、
諸役の免除活動の中心になった。
そのため、請願の歴史、伝えられてきた事由の考証、守護不入(領主が租税を徴収できない)、
各将軍の来歴、鷹狩りをする場所、火付盗賊改め(犯罪の取り締まり)、
上知(土地をお上に返上すること)などの学習に努めた。

文政十一年(1828)石川村で焼けた増上寺のための冥加金で村方騒動が起きた。
文政十二年(1829)先の王禅寺名主により、増上寺独自の組合結成が認められた。
組合村とは、領主権限を越えた治安維持を展開するため組合を設定しようとする幕府の政策だった。
これは助郷割合、年貢徴収などの組合だった。
これに断固反対し増上寺独自の組合を主張した。増上寺にとっても村々にとっても広い連帯と免除特権を守り抜く組合であった。 参考:増上寺上納御門松之一件(青葉区古文書之会編)

  
参考:緑区歴史講座・史跡探訪1988・「元石川今昔」・旧鎌倉街道探索の道 中道編・港北百話・ブログ増上寺の寺領・荏田の地名:吉野孝三郎 江と石川村:横溝潔



 
 
by gannyan1953 | 2014-08-05 10:05 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)
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by gannyan1953
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