歴史と素適なおつきあい番外編 2014・8・7
夏の旅行 2日目 ② 長篠城保存館資料から
長篠城の城主奥平氏出身は群馬県甘楽郡吉井町下奥平である。
室町天授年間(1375〜1380)に作手の山崎三郎左衛門を頼ってきたのが、初代貞俊である。
今川、徳川、武田に従属しながら六代まで続いた。
天正3年(1575)若くして21歳で六代貞昌は長篠城主となった。
奥平氏は、2年前に武田に従属していたが、信玄の死を憶測し徳川に寝返った。
徳川の命により元武田配下だった長篠城主となった経緯がある。
武田軍の包囲に長篠城を守り、援軍としてやってきた織田、徳川連合軍が設楽原において
有名な火縄銃の三段撃ちを行い武田騎馬軍団を打ち破ったおかげで生き延びる事ができた。
この功績で信長から名をもらい信昌と改名した。
新城城を築き家康の長女亀姫と結婚する。
その後、天目山、小牧長久手、小田原に参戦し、家康江戸入国時には
故郷上州宮崎(群馬県富岡)に3万石で封ぜられた。
関ヶ原の戦いののち加納十万石の大名となった。
のち領地は宇都宮、古河、山形、宇都宮と変遷し、吉宗の時代に
中津藩10万石となった。
版籍奉還まで続いた。
菩提寺は江戸品川の東海寺塔頭で清光院である。(東京都品川区南品川4−2−3)臨済宗
奥平家墓地は品川区指定史跡で、八十八基の墓碑と囲む土塀、石門が寛永期のものである。
国元は自性寺(大分県中津市新魚町1912)で、新城から中津に移った。
亀姫永禄3年(1560)家康の長女として駿河に生まれた。
母は築山御前である。2代将軍秀忠、尾張義直、紀伊頼宣、水戸頼房は弟である。
天正4年(1575)に岡崎城から奥平信昌に嫁いだ。
戦国の世の輿入れで危険なので家臣が背負って嫁いだという。
新城で15年間過ごし、四男一女を儲けた。
加納において66歳で逝去。加納御前と呼ばれた。
亀姫は信昌とともに加納で隠居している。