歴史と素適なおつきあい番外編 2015・3・1
武蔵国造の乱 日本書記「安閑記」
武蔵国では、笠原使主(かさはらのおみ)とその同族小杵(おき)が
国造(くにのみやつこ・国を治める豪族)の地位をめぐって争っており、
年を経ても決めがたい状態であった。
小杵の性格は、けわしく逆らうことがあり、心は高慢で素直さがなかった。
そしてひそかに上毛野君(かみつけぬのきみ)小熊(おぐま)に
援助を求め使主を殺そうとした。
このことを知った使主は、逃げて京へいけり、そのありさまを訴えでた。
朝廷は裁断を下し、使主を国造とし小杵を誅した。
国造使主はかしこまり喜んで
横停 (よこぬ) ―多摩横山と埼玉県横美郡の2説がある
橘花 (たちばな) ―川崎市横浜市東北部
多氷 (たま) ―多摩
倉樔 (くらき) ―横浜市南部
の四ヶ所の屯倉を献上した。 とある。
古代の武蔵国小杵(おき)の地ー多摩川の中流域から下流域、鶴見川下流付近
笠原直小杵は使主のいとこである。
出身は埼玉県鴻巣市笠原野毛古墳は小杵の同族か、本人の墓ともいわれている。
使主(おみ)の地ー埼玉県鴻巣市笠原
13代成務天皇のときその子、兄多毛比(えたもひ)命を東国に遣わし
夭邪志(むさしの)国造とした。
氷川神社の祖である。
兄多毛比命から7代めが笠原直使主(かさはらのあたいおみ)である。
小熊(おくま)の地―群馬県太田市渡良瀬川流域
10代崇神天皇の子、豊城入彦命を東国に派遣され、上野総社神社に祖を祀った。
小熊はその末裔で、安閑9年に蒼海明神という称号を上野総社神社に祀った。
多摩川に沿って古墳が造られたのが4~6世紀で、ここ亀甲山(かめのこやま)古墳、
蓬莱山古墳から世田谷の野毛古墳
おもいはせの路、の4キロほどの間に50もの古墳がある。
その上流にいくと狛江など古墳が続くが。6世紀には大きな古墳は造られなくなる。
このあと、笠原使主の本拠地につぎつぎ古墳が造られるようになるが、
それがさきたま古墳群である。
この古墳の流れからは5世紀まで多摩の小杵が勢力を持っていたが、
武蔵国造の乱(安閑元年534年)後、勢力が使主に移ったことがよくわかる。
小杵が力を借りた小熊の地、上毛野(かみつけぬ)の国は群馬県太田市である。
ここにある太田天神山古墳は亀甲山の4倍はある古墳で、
東日本最大の前方後円墳である。
天神山古墳以降大きな古墳は造られていない。
この小熊の上毛野国も武蔵国造の乱後衰退していったと思われる。
国造の位も大化の改新による国郡制でなくなってしまう。
この乱は大和朝廷にとって関東制圧の絶好の好機となり、
屯倉を献上され東国に軍事拠点をもち、
もうひとつの勢力である小熊を、連帯敗北させることもできた。
小熊はのちに屯倉緑野(みどの)を献上している。
白村江の戦いでは小熊の孫の雅子が将軍として赴くことになる。
家康没400年 小杉御殿を訪ねて