歴史と素適なおつきあい

ちょっとディープな四谷散歩

中川歴史ウォーキング22  2016・4・16(土)

四谷にはかつて東京最大のスラムがあった
そして甲州街道に徳川将軍がいざという時の、江戸城脱出の抜け穴があったという



集合:四谷駅9:45

四谷見附・・聖イグナチオ教会・・旧御所トンネル・・鮫河橋・・斎藤邸跡・・西念寺・・戒行寺・・須賀神社・・愛染院・・お岩稲荷・・消防署・・金丸稲荷津ノ森弁財天・・民音・・信濃町

四谷見附

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四谷見附




四谷門は寛永13年(1636)初代長州藩主の毛利秀就(毛利元就の玄孫)が築いた。
ここは、国府(府中)に通じる道で、国府路から麹町と名付けたという由来がある。
甲州街道は西から攻められた時の、江戸城からの退避道として位置づけられている。
この先新宿で青梅街道と分岐する。(四谷探訪)

四谷の由来
①多摩川の鮎を売る「鮎屋」梅の渋で染色する「梅屋」、濁酒販売の「保久屋」、
多摩川の調布を紡いだ「布屋」の四つの家があった
②千日谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、大上谷の四つの谷から
③紅葉川渓谷(西の丸あたり)、鮫河谷(迎賓館たり)、渋谷川渓谷、蟹川渓谷(歌舞伎町)の四谷から
(四谷探訪・池波正太郎の江戸東京を歩く)

旧御所トンネル

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旧御所トンネル 南北線ホームより



御所トンネルの名の由来は
明治5年(1873)に皇居が火災で焼けてしまい、
天皇は新しく皇居となる明治宮殿(明治21年に落慶)ができるまで
近くの迎賓館のある旧赤坂御所に移り住んでいたことからつけられた。

御所トンネルが造られた経緯はは日清戦争と関係がある。
それは、JR中央線が玉川上水による水運から陸上輸送として
明治22年(1889)に新宿〜立川まで民営鉄道として開通し、
神田方面に延長計画を立てたところで、
清国との対立で青山練兵場から兵士の輸送が急務になった。

その時に急造で御所の下にトンネルを通すことになった(明治27年)。
当時では御所の下にトンネルを通すことは畏れ多いことであったと思う。
昭和4年(1929)に完成した「新御所トンネル」は
御所からそれて造られている。(四谷探訪・wiki)


聖イグナチオ教会
カトリック麹町教会のことで、広くは聖イグナチオ教会と呼ばれる。イエズス会に運営を委託されており
多くの信者がいる。上智大学に隣接しており大学もイエズス会である。

この建物は平成11年(1999)に建てられた。(HP聖イグナチオ教会)

迎賓館 赤坂離宮


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麒麟が左右に水を吹いているのがおかしい・・・


かつて紀州藩の江戸中屋敷があった。

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紀州藩の名残の庭なのだろうか

その一部に明治42年(1909)東宮御所後に赤坂離宮が建設された。
建築家片山東熊が総指揮をとった。
昭和天皇、今上天皇が一時期住まわれたが戦後皇室から行政に
移管され国会図書館、内閣府法制局、オリンピック組織委員会などに利用された。

昭和42年(1967)に改修して迎賓館となった。
国賓の宿泊、歓迎行事、会談などに使われている。

平成21年(2009)に改修され再開した。
本館、噴水は国宝である。

今回このコースの下見で偶然迎賓館の公開に出くわした。
迎賓館の前に行列があるのだ。早速様子見に近づくと
9時前に通りかかったのだが手に入る整理券は11時からだった。
飛行機に乗るような持ち物検査を受けて・・・

中は白と金でいっぱいの部屋だった。
全部金ピカだった。飽きるほど金ピカだった。
各国の大理石が面白かった。



鮫河橋(さめがはし)
昔海が近かったので鮫川に鮫が上ってきたという説がある。

鮫河橋のスラム(貧民窟)

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南元町公園
昔スラムがあった所という


このあたり江戸初期には火葬場があり、代々木の非人頭久兵衛が支配していた。
江戸の頃には岡場所ができたが、天保のころ幕府の取り締まりで
撤廃され、職を失った娼婦たちは夜鷹になった。
夜鷹は明治5年頃まで存在したという。

その後、負債や税金に苦しんだ農民が職を求め、
東京に出てきたところが職につけず、住処にも困った人たちが
池の跡地や湿地にバラックを建てて住み着いた。
そんなスラムが東京には70ヶ所あった。

住民の多くは、人力車夫や土工で妻や子供は内職でマッチの箱張りや
たばこの紙巻きなどした。(四谷散歩・日本の下層社会)

せきどめ神
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公園の近くに移されたという


二葉保育園

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スラムの子供たちの生活改善に動いた草分けの保育園である。

徳永恕(ゆき)は播州安志藩の家老の娘で、社会福祉に貢献した人である。
生家が維新で貧しくなり、そのせいか貧しい人には思いやりがある人柄だったという。
当時の二葉幼稚園に採用され、保育に留まらず無料夜間診療や母子寮、学童保育など
保育の源流となり五銭食堂などの事業もした。

戦後は特に保育が厳しくなったうえに、
孤児や捨て子、駆け込み保育など引き受け、食料も必死で確保したという。
恵まれない人たちの為の保育を全うした人生だった。
らいてうが好きでらいてうが私生児を生んだときに匿名で
お祝いを届けその後も誕生日祝も届けていたという。(四谷散歩)

斎藤実邸跡
2・26事件 斎藤実暗殺があった旧宅跡
四谷の私邸にいた内大臣が襲撃された。
226事件は昭和11年2月26日天皇のまわりの政治家たちに
不満を持った青年将校が武装蜂起した事件である。

坂井直中尉を先頭に150名で27日早朝
雪の中を斎藤邸を襲った。
春子夫人が「殺すなら私を殺して下さい」と
盾になったが、夫人を引き離し銃弾47カ所、軍刀の切り傷数十カ所という
わずか15分の間のむごい殺され方だった。(四谷散歩)

西念寺 浄土宗
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服部半蔵の墓


服部半蔵(1542-96)は、本名を正成といい、徳川家康の三河以来の旧臣で、
家康十六将の一人に数えられる武将である。
本能寺の変で家康が伊賀越えをしたときに警護したのが半蔵である。
三河の武将だったが、出自が伊賀だったため伊賀の土豪との交渉役になった。
「鬼の半蔵」として知られ、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、
天正18年(1590)小田原攻めで功をあげ知行8000石を賜り、
同年の家康の入城後は、江戸城西門近くに居を構え、
城の警備等にあたった。(wiki)
半蔵門の地名は彼の名に由来する。

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徳川信康の供養塔

半蔵は、天正7年(1579)家康の長男信康が切腹する介錯役を命じられた。
しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、
西念と号し、仏門に帰依した。
文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内命を受けたが、
慶長元年」(1596)11月、55歳で没した。
西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永11年(1634)江戸城の外堀拡張・新設の際
現在地に移転したものである。(新宿区教育委員会掲示板より)
服部半蔵の墓と槍がある。



山田わか住居跡
山崎萌子の「あめゆきさんの歌」によって
数奇な生涯を紹介された。
わかは久里浜の農家の生まれで16歳で嫁いだが、
婚家とは折り合いが悪く横浜に出てきた。
そこで一獲千金を夢見て紹介でアメリカに向かった。
しかし紹介者は女衒だったため娼婦として売られてしまう。
邦人新聞の記者と出会い助け出されサンフランシスコに向かう。
その後記者とは別れ、娼婦の救済施設「キャメロンハウス」に逃げ込み
英語の勉強をするがその教師山田嘉吉と結婚し、
帰国後明治39年にこの地に住んだ。
嘉吉はわかに文化人として必要な教養を教え込み平塚らいてうと知り合い
「青鞜」のメンバーになった。全国の女性に知られるようになったのは
朝日新聞の女性相談欄に登場してからである。回答は反響を呼び
支持が多かった。(四谷散歩)

平塚らいてう住居跡
大正4年から1年この地に住み長女を出産している。
山田嘉吉に社会学を学ぶためだった。
大正9年市川房枝とともに「新婦人教会」を結成し
戦時中も反戦を唱え戦後も核兵器反対など運動を続けた。(四谷散歩)

市川房枝住居跡
大正7年に川島薪炭店に間借りしていた。
愛知県尾西の人で師範学校に進み教師をしていたが
次第に社会改革の思想が芽生えた。事務員をしながら
山田嘉吉に英語を習い、平塚らいてうと知り合った。
そして婦人運動家、政治家となっていった。(四谷散歩)

戒行寺 日蓮宗

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文禄4年(1595)麹町に創建、後に宮重作兵衛重次(正保3年1646年歿)が開基となり
戒行寺となった。江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄した。
境内には長谷川平蔵の供養塔がある。
旗本「長谷川平蔵」は長谷川宣以(のぶため)延享2年(1745)に生まれ
火付盗賊改の長である火付盗賊改役を努めた。
池波正太郎の「鬼平犯科帳」の主人公「鬼平」として有名である。
石川島に人足寄場を設けたり凶悪盗賊集団を捕縛したり有能であった。
清廉潔白といわっる松平定信とは折があわず、
同僚からもあまり信頼されていなかったようだが、
人情のある人だったらしく庶民には人気があった。
平蔵の屋敷には数十年後「遠山の金さん」こと遠山景元が
江戸奉行となって住んだ。

西応寺 浄土真宗大谷派
剣客榊原鍵吉の墓がある。天保元年(1830)麻布広尾に生まれ、
直心流の免許皆伝し。幕府講武所の教授方となった。
幕末に幕府遊撃隊頭取となって上野戦争で活躍し、のち
徳川家達に従い静岡に移住した。維新後に衰退した剣術の再興に努めた。

須賀神社
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元は稲荷社で江戸時代に牛頭天王を合祀して
四谷の天王様と親しまれてきた。明治以降須賀神社となった。
三十六河歌仙の絵があり文化財となっている。
神田明神よりスサノオノミコトが勧請され江戸時代には牛頭天王社といわれていたが、
明治になって出雲の八岐大蛇退治のときに「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と
言われたことから須賀神社になった。
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社殿に鏝絵(こてえ)があった。
私は伊豆松崎の伊豆の長八の鏝絵をみてから鏝絵が好きである。
ここのは長八の弟子吉田亀五郎が描いたものであるという。
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伊豆の長八作・井上靖寄贈


井上靖が叔父からもらった絵でその経緯を小品「土の絵」に書いている。
鏝絵とは日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことである。
左官職人がこてで仕上げていくことから名がついた。

歩きながら鏝絵を神社や民家の壁などから見つけることは楽しい。


愛染院 真言宗豊山派

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光明寺といい、郡書類従を編纂した塙保己一の墓がある。 
塙保己一とは延享3年(1746)に武州児玉郡で生まれ幼くして視力をなくす。
検校について按摩・鍼・音曲を学んだが上達せず絶望のあまり自殺まで考えたが、
雨富検校に救われ、学問がしたいと話した。
雨富検校は保己一の学問の才能を見いだし、あらゆる学問をさせた。

天明3年(1783)検校となり、記録や手紙にいたる様々な資料、
歴史史料を蒐集編纂したものが「郡書類従」である。

ヘレンケラーの両親は「塙保己一を手本にしなさい」と教育したという。

1937年にヘレンケラーはここを訪れ、保己一の木像に手を触れ、
感謝とお礼の言葉を語ったという。

ヘレンケラーの両親が保己一のことをどうして知ったのか

電話を発明したベルは三代続いた唖者の教育一家だった。
それでヘレンケラーが6歳のとき両親から相談を受けた。
このときベルはサリバン女史の紹介と保己一のことを話したそうである。

グラハム・ベルは保己一のことをどうして知ったのか

日本人留学生井沢修二はベルの元で視話術を学んでいた。
そのときベルに詳しく保己一のことを話したという。
のちに井沢は盲唖教育に力を注ぐ教育者となり、唱歌「紀元節」の作曲者である。
閑静な渋谷の歴史散歩   (歴史と素適なおつきあい)

高松喜六の墓
高松喜六は、浅草の名主で、当時甲州街道の最初の宿場が
日本橋を出発して四里余り(約16キロ)の高井戸であり、
大変不便であったので、元禄10年(1679)同志4人とともに幕府に、
内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。
翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営した。
正徳3年(1713)8月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。
墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常と刻まれている。

お岩稲荷 

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お岩稲荷は、江戸時代初期に江戸の四谷左門町で、健気な一生を送った
「田宮岩という女性が大切にしてきた田宮家の屋敷社である。
お岩は御家人田宮家の娘で夫は伊右衛門といい、
ふたりは仲睦まじく幸せであった。
ただ家計は苦しくお岩は商家に奉公し毎日かかさず屋敷社を信仰した。
そして少々の蓄えもでき、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができた。
これが評判になり、屋敷社をお岩稲荷といって信仰するようになり、
田宮家ではとうとう他家の人々の参拝を許可した。
家内安全、商売繁盛、厄よけなど人気を集めたことが、
のちのち四谷怪談のお岩様の名に使われた。
鶴屋南北は、江戸では善人で有名なお岩様の名前を使ってどぎつい内容の脚色で
「東海道四谷怪談」が作られ、怨霊のお岩様になってしまった。
四谷には甲州街道は通っているが、東海道は通ってない。
鶴屋南北はお岩稲荷と無関係にするつもりだったろうが、
四谷を使ったことで、四谷お岩稲荷とお岩様は怨霊にされてしまった。

歌舞伎の四谷怪談が大評判になって、事故など増えると祟りとされて、
役者が祟りがあってはと参拝するようになり、四谷は芝居小屋から遠いからと、
明治になって中央区新川にお岩稲荷神社として勧請された。
それで、現在二つのお岩稲荷がある。

田宮稲荷

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お岩様の美徳を祀った神社である。
田宮伊右衛門・お岩夫妻の子孫が代々の宮司を務めているとのことである。
現在は、十一代目である。

津の森弁財天

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江戸時代この界隈に美濃高須藩・松平義行(摂津守)の屋敷があったことに由来する。
高須藩は木曽三川に囲まれ、洪水に悩まされる土地であった。
そして川底よりも低い土地を水から守るための高須輪中が作られた。

江戸の荒木町はすりばち状の土地で策(むち)の池に立つと
四方が崖や急斜面で地の底にあると感じる。
高須藩の役割はこの地形と、水害を守る技術を買われ、ここに上屋敷を賜った。
それはもしもの時将軍が甲府に逃れるための退去路を守ることであった。
近くを流れる紅葉川をせき止め池を作り、戦の際、堤を決壊させ
水で敵を防御するという。
その堤も高須藩の技術だった。
もともと上屋敷の敷地には、池と高さ4mの滝があり、
徳川家康が馬の策(むち)を洗ったという逸話があり、
策の池の地名の由来である。
明治になると池を囲むように茶屋ができ滝見客でにぎわった。
そして花街ができあがっていった。路地巡りには面白くいろいろな店がある。
ちなみにお昼は600円で金目鯛の煮付け定食だったが、おかみさんは垢抜けていた。
四谷3丁目 (歴史と素適なおつきあい

高須藩というと幕末の会津城主松平容保が有名である。
高須藩は男の子に恵まれ桑名藩主、尾張藩主も松平容保の兄弟である。

金丸稲荷
美濃国高須藩主松平摂津守上屋敷の守護神として天和3年(1683)創建。
ウカノミタマオオミカミが祭神で、和合繁栄財宝出世安全又火伏せの神である。
江戸の大火、関東大震災も災禍を免がれた。
昭和20年東京大空襲では焼失してしまったが、町民には一人の死者もなかった事が、
大神の霊験あらたかであるといわれている。

消防博物館
東京消防庁の歴史と活動が学べる博物館で江戸時代の消防の展示もある


長善寺
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笹寺といわれる。天正3年(1575)武田氏の家臣高坂弾正の草庵があった。
徳川秀忠が立ち寄ったときに笹が繁っていたことから、
笹寺と呼ばれるようになったと伝えられる。

笹寺の地下道
江戸城の抜け穴が三つあるという伝説がある。
①西の丸から牛込の穴八幡の井戸
②西の丸から赤坂の日枝神社
③本丸から湯島天神の社殿

しかし甲州街道に実際見つかった坑道があるという。
四谷御門から新宿追分にかけての地域で、ビルの建設で発見された。
時代考証家の名和弓雄氏が検証したという。
「深さは地面から約二間、縦長の楕円形で馬や荷車が通れるほどの幅がある。
壁面には灯火のための棚のような掘込みがある。支柱はなし」という所見だった。
防空壕ではというないかという意見もでた。
名和氏によると新宿まで無数の坑道があるという。
建築するときに見つかった場合埋めてしまい、分断されるので調査が難しい。
そして長善寺あたり多くの坑道が集結しているという。
この長善寺は忍者と関係が深く、江戸初期に起きた伊賀者が決起した
事件のとき、伊賀者の集結地となった。
そして鉄砲組、玉薬役、甲賀、伊賀、根来衆の菩提寺だった。
非常の時の集結地だったのではないかという推測である。
この事件は服部半蔵の子である服部正就(まさなり)は
半蔵の死後伊賀同心200人の支配を引き継いだ。

が、正就は配下の伊賀者を家来扱いしたことに伊賀者が反発、
長善寺に籠って正就の解任を要求する騒ぎになった。
正就は解任されその恨みで首謀者の死罪を要求、その1人を殺害したが、
別人であることがわかり完全に解任となった。
妻の父(伏見藩)の元で召し抱えられ大坂の陣で行方不明となった。

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寺には秀忠の妻崇源院から賜っためのう観音がある。
4、9センチの瑪瑙に彫られた観音で秀忠の念持仏である。(徳川将軍家の謎)


野口英世記念会館展示室
会館の1階にあり,黄熱病の研究の際に感染して病没した
野口英世博士の遺品や写真などの資料を展示している。

民音音楽博物館
古典ピアノや、世界のオルゴールなど展示、演奏がされており、
民俗的な楽器などが展示されている。

参考 徳川将軍家の謎:宝島社 四谷散歩:安本直弘 日本の下層社会:横山源之助 池波正太郎の江戸東京を歩く:常磐新平
HP:猫の足あと 四谷探訪 ウィキペディア 

by gannyan1953 | 2016-01-26 22:47 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)
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