歴史と素適なおつきあい番外編 2016・3・7
ちょっとディープな四谷散歩を企画して
東京には明治に多くの貧民窟があったことを知った
「貧民の帝都」塩見鮮一郎より 2008年発行
鮫河橋にあった祠や碑がここに集められている
明治時代四大スラムといわれる場所があった
鮫ヶ橋、万年町、新網町、新宿南町
三大スラムとも言われるのは新宿が入っていない
ここでは四谷の学習院、迎賓館に接した地にあった鮫ヶ橋について
にする
現在新宿区若葉町、南元町あたりである
四谷から迎賓館を左に学習院の間の道を下りて低地になっていく
交番のある信号を右に渡ると公園がありガードをくぐる
そのあたりである
中央線からその貧民窟が見えた時代なんとかスラムを
取り除きたいと東京市の役所は策を練ったという
江戸時代には夜鷹が多く火葬場もあった
明治になって日清戦争後には人口が膨れ上がった
家は傾斜して壁も、ひさしもこわれ
雨が降れば家の中もぬれる有様だった
青山練兵所が近ったので、その兵隊さんの食べ残しを残飯屋といって
売っていた
残飯が多くでない時はその作る前の野菜や肉の切れはしが出され
まるで養豚場のえさ状態のものが、
出されたという
泉鏡花がここをモデルに小説を書いている
「貧民倶楽部」という
蜷川さん演出でジュリーこと沢田研二さんが主演をしたそうだ
貧民を束ねる女性が人を人とは思わない身分の高い華族の女性を
貧民を利用してやっつける話だそうだ
なんだか韓流ドラマのようだ
永井荷風は、「日和下駄」でこう書いている
「四谷の方の坂から見ると 貧家のブリキの屋根は
木立の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の
崖下にごたごたと重なりあってその間から汚らしい洗濯物をば
風に閃かしている。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした
芽が萌え出で四辺の木立に若葉の緑が滴るころには
眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は、一層汚らしく
こうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ
与れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。
また冬の雨降り濺ぐ(そそぐ)夕暮れなぞには
破れた障子にうつる灯火の影、鴉鳴く墓場の枯木と共に
遺憾なく色あせた冬の景色を造りだす」
なんだか悲しくも美しい情景を思い浮かべてしまうが、
荷風は万博で外国人貧民窟を見せたくないために排除の
計画が立ったとき、貧民窟より明治の銅像を取り除いて欲しい
と言っている。
江戸の古地図とこうもり傘をもって徘徊する姿、
今流行の江戸散策である。