歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:平将門・鉄・秩父・神社( 18 )

東国三社めぐりに行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編 2016・4・29

香取神宮

祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)

大国主に国譲りを迫るため
高天原から派遣された神

フツは剣を振り下ろした時の音からつけられた

生まれはカグツチを斬った剣からししたたり落ちた血が高天原の岩となり
それが祖だという

他にその岩からイワサク ネサクの神が生まれ
そこからイワツツノオ、イワツツノメが生まれ
その子


国ゆずりを成功させたのが

鹿島のタケミカヅチと香取のフツヌシである(日本書紀)






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楼門
結婚式のお色直しの撮影だろうか

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拝殿



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本殿

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 ご神木


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摂社 このはなさくや姫
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摂社 鹿島新宮

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ウイキペディアより

側高神社(そばたか)
香取の神様が側高神に陸奥の神から馬を奪い
育てろという命令を下した
蝦夷征伐と関係すると思われる



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三本杉

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立砂

神が降臨される神山をかたどったもので
上賀茂神社だと左右に陰陽を表し
二つある

ここにも二つあったのかな・・・確認しなかった


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宝物館(300円)に入った
自衛隊の船に香取があるので
海外に行った時のおみやげが奉納され
それがおもしろい

海獣葡萄鏡は見応えあり

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諏訪の神様

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奥宮に向かう途中にあった

聖武天皇の時代ここで雨乞いが行われた

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いい雰囲気の奥宮


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奥宮の後ろに寄り添うようになタケノコがかわいい


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要石



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香取神社は落ち着いた雰囲気で
拝殿もモダンな感じで美しい

パワースポットは,何と言っても「奥宮」

これは鹿島神宮も同じ

きらびやかな装飾の拝殿、本殿より
私は神がおわす気がして好きである

















by gannyan1953 | 2016-05-02 11:46 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

東国三社めぐりに行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編    2016・4・29


息栖神社


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本殿

久那戸神とは
来るなという意味で邪気を払う意味だと言う
岐神(ちまたのかみ)など別名が多い
道の神として猿田彦と同じにされることも多い  猿田彦

製鉄とかかわりありとみる


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オガタマノキ

招霊(おぎたま)からついた名である
精霊宿る木とされ
アマテラスが天岩戸に隠れたとき、ウズメノミコトが
踊った際に持っていた木の枝がオガタマノキである

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神社の奥は歩けるようになっている
小さな神社なのでぐるりとすぐにまわれる

こういう場所は落ち着いていて好きである

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お稲荷さん

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狛犬だろうか
足がなくて伏せてしまっているのかわからないが
とてもかわいい
後ろは力石


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忍潮井

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男の瓶だと思うが

いかん!

ひと顔になっている・・・・怖


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鳥居の足元の白く丸いのが瓶(甕)だと思った・・・・
が甕は鳥居の真ん中にあるらしく
これは違う
むかしむかし
平城天皇のころ(809)
下流にあったこの神社を遷したとき
取り残された男女の瓶が寂しくて
泣いてしまった

とうとう自力で一の鳥居の下にやってきた
ところが
元の場所がなつかしく
また泣き続けたという

泣き声からボウボウ川や
瓶立ち川の名もある

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今ではこんな大きな利根川である


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利根川河畔から


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一の鳥居と利根川の間に
大きな家がある


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写真とって失礼

猿田氏である

猿田彦と関係あるのかな

オガタマノキはアメノウズメの持った枝だというし・・・・

そこで調べた

まず移されたのは延暦18年(799)の津波で元の地日川から
移されたこと

松の木が多く芭蕉が江戸時代の祭神は気吹戸神であったという

息栖、気吹戸神は 風の神そして製鉄神とみる
茨城はもともと製鉄の地で鹿島神宮、香取神宮も製鉄にかかわると
いわれる

川には砂鉄が多く、塩を作るのに鉄の釜があれば
楽に塩ができる

鹿島神宮もすごく大きな刀が宝物殿にある
息栖神社から筒井の中間にたたらがあったという

燃料に火力の強い松が使われた

この地には出雲から来た人たちがいたという
出雲は製鉄の地である
技術を学んだのだろうか

東国三社のレイラインは直角三角形
息栖が日川にあったときは
正三角形に近いという

この三社は富士山ともつながるレイラインがある
富士山からみると日野でのとき太陽がこの東国三社から
現れる
 

つぎは

香取神宮





by gannyan1953 | 2016-05-02 10:53 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

東国三社めぐりに行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編  2016・4・29

四季の旅のバスツァーで東国三社めぐりの旅

息栖神社
香取神宮


鹿島神宮に行ってきた
     



神宮は皇室ゆかりの神社につけられる
創建は神武天皇で
BC600年ころ

祭神は武甕槌大神(タケミカヅチノカミ)

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一の鳥居


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二の鳥居

実は東日本震災で大谷石の鳥居は倒壊した

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御手洗池のそばに笠木に使われた木株があった

今度は木造の鳥居が再建された

鳥居をくぐると

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遥拝所

坂戸神社 祭神はアメノコヤネで藤原氏の祖
沼尾神社 祭神はフツヌシノカミでタケミカヅチに同行した

この二つの神社は鹿島神宮とともに

鹿島天大神

と称されていた


まわりに摂社が多くある

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津東西社 たかおかみ・くらおかみ

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 祝詞社 ふとだまのみこと


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熊野社  いざなぎのみこと


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須賀社 すさのおのみこと

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これはハート

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これはミッキーマウス

ハート模様は古来からの文様で猪の目(イノメ)という
ミッキーマウスもイノメ

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確か明治神宮にも金色のイノメがあった
写真は鹿島神宮


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楼門は寛永11年(1634)徳川頼房寄進
徳川頼房は水戸家藩主で水戸黄門のお父さん

日本三大楼門のひとつ

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拝殿

徳川秀忠の寄進で北向き

なぜかというと鹿島神宮は蝦夷征伐の拠点になり、
蝦夷威嚇のため北を向く
本殿では祭神は東を向いている

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本殿の後ろに大きな木がよりそう

ここに鏡石といって磐座があるが
見学不能

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鹿島神宮のサイトより


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高房社 タケハヅチノカミで拝殿の前に拝むとされる
もう遅い・・・さっき拝殿拝んでしまった

タケミカヅチが派遣した神


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修理のとき神様をお遷しする借殿

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5月1日の流鏑馬準備中の参道

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さざれ石

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鎌足由来の桜

ここで藤原鎌足が登場する
教科書にのる有名人だが、出自ははっきりしない
蘇我氏を失脚させるため皇室内の人々を物色、
中大兄皇子を選んでそのブレーンになる。
乙巳の変(いっしのへん)を起こし蘇我入鹿を宮中で殺害、
父の蘇我蝦夷は自刃

つい最近明日香に行ってきたばかりだ
確か藤原鎌足の生誕地もあった・・・・

この鹿島も生誕地といわれている

こんな風にどっからきた人かもわかっていない

その藤原氏が奈良に鹿島の神様を勧請した
春日大社である



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鹿さんは奈良の春日大社遷宮の折1年かけて
神様をお遷ししたのだという

奈良の鹿せんべい大好きな鹿さんの先祖


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けなげな鹿だねえ

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かなりかっこいい奥宮

ドラマ「あおによし」で最初にでてきたところ

あのドラマ大好きで鹿島神宮と春日大社まで
ロケ地めぐりに行ってしまった・・・

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鯰をふみつけるタケミカヅチ


そうだ・・今日ここを訪れたのは

熊本の地震が少しでもいい方向に向かってほしく
お参りにきた


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要石


地震を起こす鯰の頭を押さえ込んでいる石

こっちは凹

香取が凸でしっぽを押さえる


中央構造線が鹿島を通っているのではと考えるので

構造線のずっとさきっぽが
熊本にあたる

それで鹿島にお参りにきた訳


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奥宮に戻ると・・・気持ちいい・・・


坂をずんずん下りて行く

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御手洗池にかぶさる龍のような樹


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湧き水
ぼのぼの(マンガ)のしまっちゃうおじさんの
石組みに似てる
孫を湯船にいれてしまっちゃうよとふたをすると
無茶苦茶喜ぶ
昭和のマンガがわかる孫である




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出典 blogs.yahoo.co.jp



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大黒社


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御手洗から入ることができその鳥居の跡かな

つぎは

息栖神社



























by gannyan1953 | 2016-04-30 10:37 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

秩父に行ってきた

歴史と素適なおつきあい     2016年4月7・8日(木・金)



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羊山公園は桜が満開


女子6人旅 ついついきゃぴきゃぴして

電車などご迷惑かけたことと思います・・・

桜がとてもきれいで雨があがると幻想的な

霧がでて秩父を満喫しました 


費用:ジャンボタクシー2日貸し切り  一人分10800円

   ホテル 8050円

   夕食各自だったが私は3800円 飲み過ぎたかな・・・

   交通費 特急使って往復4400円

   その他みやげや昼食2回分で5000円 くらい


秩父錦の霞という季節限定の日本酒ゲット!

       


集合:西武秩父駅 4月7日(木)11:00


7日(木)

秩父銘仙館(9時〜16時・200円)・・(丸通タクシー)聖神社

・・和同開珎・聖神社・・・宝登山神社・・道の駅龍勢会館・井上邸・秩父事件(200円)

・・(椋神社)・・・音楽寺・・・羊山公園


ホテル「ルートイン秩父」1人8050円(税込み)

8日(金)

8:30ホテル出発(丸通タクシー)

栃本関所・・・三峯神社・・(九十九神社・・桔梗塚・・・酒づくりの森



7日

西武鉄道の遅れで予定より遅く始まったが

丸通タクシーさん頑張って回ってくれた


お昼は西武秩父駅近くの天ぷらやさんで

ごま油であげた天丼海老もあるのが500円!!


美味しゅうございました




ちちぶ銘仙館  ちちぶ銘仙館

秩父の織物、銘仙など民俗学的に貴重な資料を収集、保管している。




聖神社   聖神社

慶雲5年(708)に自然銅が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社。

銅の献上を喜んだ元明天皇はここに金山彦尊を祀った。


この神殿がのちに聖神社となった。


神宝は銅の蜈蚣(むかで)である。


社殿は市内の今宮神社から移築したもので彫刻がある。

発見採掘者は渡来人といわれている。


日下部宿禰老(くさかべのすくねおゆ)・

津島朝臣堅石(つしまのあそんかたしわ)

金上元・金上旡(こんじょうがん・・こんじょうむ)

という名が残る。

和銅山の主峰蓑山には知知夫国造の故事が伝わる。

雨が続き祈晴祭を国造がこの山で行い蓑を置いたことから

蓑山と名付けたという。

和銅とは精錬を必要としない自然銅のことでニギアカガネ(熟銅)と呼ばれ、

和銅山には100mを超す二条の断層面があり、当時の露天掘りの跡である。



この和銅で唐の開元通宝を模して「天地和銅」「万物和銅」などの言葉をもとに

和同開珎」が誕生した。

秩父駒で奈良の都へ銅を運んだ羊太夫の話、銅産出地特有の植物「花筏」、

一葉羊歯(ひとつ葉のシダ)が和銅山にあるという話が伝わる。



宝登山神社   

宝登山神社
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道の駅龍勢会館

龍勢とはその昔,宇宙に魅せられた山の民が英知と感性で考案し、

27流派により脈々と守り伝えられた手作りロケットである。


井上伝蔵邸  秩父事件

映画「草の乱」で復元された井上伝蔵邸を秩父事件の資料館として公開されている。

明治代秩父の生糸出が盛んになった。

代半ばから秩父が好だったが、幕末になり、生糸が出されるようになってから
秩父も生糸出に参加し、世界につながるに大きくわった。
フランスの蚕の病で一に日本の生糸が多く出されることになったからである。
秩父は信州などと比べ生糸出に偏っており、

もともとフランス市とのびつきがく、秩父最初の小学校はフランスの援助で建てられている。
幕末にフランス式兵法を取り入れたとき、算もフランス式を取り入れていた。

明治になって、小学校の算もフランス式であったという。

そのためフランス大使書記官が秩父をれているほどで、

小学校のフランス式算をみて感していたという。フランスとの取引が多かったため、

1882年リヨン生糸取引所の生糸 大暴落の影をよりくうけることになった。
家は生糸のり上げをあてにして借金をし、

設備や当面の生活に充当していたので、生糸の暴落はすぐに生活の困を深め、

状につけんだ行、高利しがさらに生活を悲惨な状にした。
例えば100万借金すると二分切りで、手取り80万、さらに1年後は金利275%で

220万の借金になった。えたところで、行や高利しは工をして、

悪徳なやり方だと裁かれることはなかった。
税については、明治になり、地租改正で税を金でめることになったので、

作物を金化してめた。政府は西南争の出うため税を税した。

そして秩父の新道建せられ、ひとときでもかな思いをしてきただけに

生糸の暴落、借金返税は秩父の人々の身にこたえた。これが秩父事件につながっていく。

「恐れながら 天朝 するから しろ」 

明治17年11月1日、自由民を唱え民が蜂起!秩父事件という。
秩父市下吉田の椋神社に3000名が集し、大を目指して進軍始したが・・・

要求は借金返の延期だったが、められなかったからである。

真っ先に高利しを文を却している。
彼らは11月1日、椋神社で困民二大成、五ヵ条の律を定め、

一般の住民に危害を加えることをしく戒めた。

2日、大に入って郡役所を占、3日荒川河畔でと交して退、

4日5日上州金屋と粥仁田台兵と交したが破れ、本は解散した。
だが、一は十石をこえて信州に、9日の東馬流の戦闘を最後に走した。
蜂起参加者は最盛8000人とも1万人ともいわれるが、

有罪判を受けた者3390人

(最高部は死刑か役)、

調書に名を残した者4200人である。
明治政府は、この戦闘で死亡したり負傷したりした人や警察官の遇にあたって、

これを西南の役にずる「争」としてい、その末の告は

大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられている。
この武装蜂起で発揮された秩父民の天性や高したエネルギ

それと、より良い未来をめざした志は、今もなお多くの人々に感をあたえている。

(秩父会吉田町支部HP



秩父事件が起こる前、全国で数々の暴がすでに起きており、

政府も焦燥感を募らせていたので、秩父のへの対応しいものになった。

反や律を守るためのが派遣されており、

政が明治政府の国のあり方だったのかといわれている。
困民党は鉄砲隊、竹槍隊から成っており、

鉄砲といっても(ほとんど火)で、200丁弱だった。

山の中で火っても政府からえてしまい、は50mだった。

する政府は明治13年に作られた国の新式村田は1800m

火力の差は然としていた。


後、天朝に逆らった逆として秩父はく口をざすことになる。



椋神社 (吉田)

祭神:猿田彦大神槌命津主命屋根命
景行天皇の、日本武尊征の、矛を杖にして山路を越え、

この吉田町の赤柴まで来ると、矛が光を放ってんでいった。

尊は不思に思って光が止まったところまで行ってみると、

井ののムクの木から猿田彦命がれ道案内をしたというから、

尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まる。

井椋様(いくらさま)と呼ばれしまれていたが、

ムクといわれることが多くなり「むくじんじゃ」となった。


神社としては和3年(710)に社殿が造されたのを始まりとしている。


国時代、秩父神社と同に永禄12年(1569)に

武田信玄によって失した。天正3年に形城主北条氏邦によって再建。

本殿は永4年に修理された。
明治17年の秩父事件を起こした秩父困民党の集結地になった。

龍勢が奉納される。戦国期ののろしの名残ではないかといわれる。(秩父の古社巡り)



芝桜の丘  羊山公園

秩父のシンボルともいわれる武甲山(1,304m)の麓にある羊山丘陵の斜面を利用して

々な色の芝み合わせて植えられ、

文字通りの「花のパッチワク」といわれる。

植作が行われ、さは17,600平方メトルにがり、

ピンクや白、紫色など9(ハナシノブ科フロクス属)40万株以上となる。

来週から芝桜のお目見え・・・まだぼちぼちの芝桜だったが

桜がすごい!



音楽寺   音楽寺

秩父札所23番で小鹿坂峠の中腹にある。

縁起には天長年間(824〜834)慈覚大師が当地に霊異を感じ堂宇を建立、

観音像を刻んだという。

秩父事件では椋神社に集結した3000人の民衆が武装蜂起し2日目にここに集結、

梵鐘を打ち鳴らし大宮郷に乱入した。

峠を登ると13体の地蔵が並び十三塚といわれる。

武甲山を背景に秩父観光のポスターによく使われている。


秩父神社   秩父神社

崇神天皇の時代、知知夫国造の知知夫彦命が祖神の

八意思兼命(ヤゴコロオモイカネ)を祀ったことが始まりとされる。

祭神は八意思兼命・知知夫彦命・天之御中主神・秩父宮雍仁の4柱である。

学業成就と縁結びにご利益があるとされる。

見所は、神社の東北(表鬼門)を守護する

青龍(つなぎの龍)・三猿・子育ての虎・北辰の梟(ふくろう)。

おみくじには水占と繭みくじがある。


秩父を舞台にしたアニメがあり、アニメの絵馬が多くみられる。

あの日た花の名前を僕達はまだ知らない・心が叫びたがってるんだ)





8日 8時半タクシーで出発



麻生加番所跡 秩父市大滝1316

栃本関所だけでは警備が手薄になるとここも加えた。

現在その時の関番の千島家が住んでいる。




栃本関所   栃本関所

小田原北条氏が秩父に進出してきたことを武田信玄は警戒し関所をおいたのが始まりである。

ここは急峻な道なので小鹿野から十国峠を越える道を利用したので、

結局戦いなど行われることはなかった。(秩父往還道)

江戸時代に入ると、武州から甲州、信州方面へ通じる秩父往還の最奥に設けられた関所で、

慶長19年(1614)に関東郡代伊奈氏が、

この地に逃れ住んでいた武田勝頼の家臣大村忠昌を関番に起用した。

以来明治維新まで250年余り、大村家が関番を勤めた。(じゃらん旅行ガイド)


秩父往還は日本の道100選に選定されている。




三峯神社   三峯神社

祭神は伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)である。

景行天皇の時代、日本武尊が東征し、甲斐から上野そして碓井峠へ向かう途中、

ここに立ち寄り、この地の清々しさに宮を造ったことがはじまりである。


文武天皇の時代、役小角(えんのおづぬ)が伊豆を往来しこの地の修験道が始まった。

淳和天皇の時代、弘法大師がやってきて十一面観音を刻み、

宮の脇に本堂を建てた。神仏習合の始まりである。

鎌倉武士に崇拝されていたが、新田義興が足利氏を滅ぼすため、

ここに身を隠した。新田が滅びたので足利氏に社領を奪われ衰退した。

1533年天台修験の関東総本山となって隆盛した。

江戸時代になるとオオカミ信仰が流行し三峯講が栄えた。

見所は、30基に及ぶ御眷属、三ツ鳥居・ご神木・本殿左の石畳に浮かぶ龍・遥拝所など。

博物館には三峯講の資料やオオカミの毛皮がある。



桔梗(埼玉秩父市大大血川部落)桔梗塚 九十九神社



国道140号を太寺に向かう途中、左に高い位置に民家、畑がある。

将門の妾だった桔梗姫が自害した所である。



九十九神社(きゅうじゅうきゅうじんじゃ)(埼玉秩父市大
国道140号を太禅寺に向かう途中、秩父源流水の工を過ぎ、

すぐの小道にある。
道路からはみえない。

の妾桔梗は将亡き後一族をれてこの地まで逃れてきたが

追手の探索に逃げられないと悟し自害した。

の妾たち、家来、付き人たちが九十九人次々と自害したので、

川は七日七血に染まった。それからこの川を大血川と呼ぶようになった。



酒づくりの森
ここは八尾氏が代々やっている酒造で
近江商人の出自である

お客様にもやさしく酒造りの大切なお米を
飢饉のときには供出したので
秩父事件の困民党はこのお店は焼討ちなどしなかった

すごいですね・・・

締めはやはり「秩父事件」でした







by gannyan1953 | 2016-04-25 11:50 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

富士山ぐるり 浅間神社参拝 富士山本宮浅間大社

歴史と素適なおつきあい番外編  2016・3・26

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朝霧高原で富士山やっと見えた
見えない時はコノハナサクヤ姫が美人と認定してくれた
ことなので、見えてしまったら美人じゃない認定!
なかなか拝めなかったから半美人認定された・・・

タモリさんが訪れた場所である

社伝によれば
第7代孝霊天皇(BC200年ころ)の時代富士山噴火
そこで11代垂仁天皇(BC27年ころ)
の時代浅間大神を麓に祀った

第12代景行天皇40年(110)
ヤマトタケルが山宮浅間神社(6キロ北)に遷し
51代平城天皇大同元年(806)
坂上田村麻呂が現在地に遷した

現在山宮浅間神社は一番古い浅間神社といわれる
山宮という地名があり、穏やかな丘にある
今回は訪れていないが近くまでバスは行ってくれた

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山宮と富士山本宮大社を矛が往来した鉾の渡御がお行われていた


ここ富士山本宮浅間大社は総本宮といわれる

本殿は家康が建立
三間社流造の2階建ては珍しい
富士山の8合目以上は境内だという
これはすごい

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このあたりブラタモリで訪れた場所

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この湧き水をペットボトルで持ち帰ることができる(200円)

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水屋神社


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駿州赤心隊の碑

富士重本(しげもと)は富士氏44代目の当主でここ浅間大社の神職だった
幕末有栖川宮に随行し、官軍として駿州赤心隊を組織した
その後旧徳川幕臣が静岡入りしたことで
徳川幕府のだったため
故郷に帰ることができなくなった
靖国神社の前身招魂社の住職、区長などして東京に住んだという

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社殿の奥が歩けるというので行ってみた

穏やかな気持ちのいい場所だ

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天神社の裏にでる

訪れる人が少なく神社らしい空気が漂う

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この忠魂碑山になっていて参道のようになっている
富士塚かと思った

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駐車場に帰るとき見つけた

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駐車場前の宮に似合うお家

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広島県からご苦労様
八岐大蛇が目立つ

静かな神社が好きなので
私にはこの賑わいは疲れる

と調べてみたら・・・
ここは富士山からの龍脈パワーがとどまる場所
富士山をバックに湧玉池の水は東に流れ
南に平地・・・西に甲州への道
四神相応の地だそうだ
だから凛とした空気じゃなく
穏やかな明るい気なのだそうだ

いわれてみればそんな感じが・・・
社殿を寄進した家康が気に入りそうな場所・・・
ここに遷したのは坂上田村麻呂だった
彼の作った清水寺もいつも人がいっぱい
そういえば明るい雰囲気だ


対する北口本宮浅間大社は諏訪の神と武田信玄寄進の社殿
そして凛とした雰囲気

北と南で空気がかわるのは面白い!!



つづく 村山浅間神社



















by gannyan1953 | 2016-03-28 09:00 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

将門訪ねて千葉に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編            2015・1・28

寒くて風が強い日だったが、車で千葉へ。
都内を抜け市川へ・・・
そこから45分ほど千葉街道を走って千葉神社へ・・
帰りは有料道路を使ったら結構通行料金が高かった!

平将門史跡 薮知らず
市役所の駐車場は一時間までは無料。
市川市役所の前にある。市川のパワースポット!
最寄りの駅は都営新宿線「本八幡」駅・京成線「京成八幡」駅ともに徒歩5分
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薮知らず

薮知らずのいわれ

*古墳があった
*最初に八幡宮があった場所
*将門を倒した平貞盛が陣を置いた
*将門の家来が亡くなった場所で泥人形になった
*土地の中に穴があるのでもとは池があった
*水戸黄門が入り迷った  などなど

中に入ると迷って出てこれなくなるという。

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右が水戸黄門

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歩道橋からみた薮知らず
大きくないがまわりは家などに囲まれ一周できない。
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明治の頃はこの碑と鬱蒼とした竹薮があった

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こんなにぎっしり詰まった竹薮
葛飾八幡宮  薮知らずの斜め前にあり、薮知らずの管理をしている
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葛飾八幡宮
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千本公孫樹
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家康のころからの梵鐘
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将門伝説の残る場所には頼朝伝説がかぶる事が多い
駒=馬がらみは丹那にもあった丹那盆地の将門

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「ふなっしー」のルーツはここだった
登呂遺跡からも梨の種は発見され、古くから梨はあったようだが、
千葉県では江戸時代がはじまりだという。
船橋ではなくここ市川が最初で八幡梨といわれた

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市川市の公民館
新潟の旧国鉄職員の家を移築した

千葉神社
祭神:アメノミナカヌシ=北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)
通称は妙見様

由緒:千葉氏の祖・平良文が妙見に祈願しその加護で勝利を得たので
代々守護神として大切にしてきた。

平良文:平将門の叔父

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左は月星紋・右は正式には九曜紋だが丸が十個あるので十曜紋ともいう







by gannyan1953 | 2015-01-28 18:09 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

湯殿山神社と羽黒山の争い

歴史と素適なおつきあい番外編       2014・10・13

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湯殿山神社

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羽黒山五重塔


湯殿山讒言殺人事件


湯殿山神社には別当寺として本道寺、大日坊、注連寺、大日寺の真言宗の4寺があった。
女人禁制だったので注連寺などは女人がお参りできる寺だった。

江戸時代、羽黒山にミシュランで騒がれた石段を作ったのは羽黒山の「天宥」である。

天宥は湯殿山に真言密教から天台宗に改宗するよう説いた。
が、この別当は拒んだ。

この問題は幕府を巻き込み
沢山の即身仏を生み、
番人を殺害する殺人事件、
流刑にまで発展していった・・・・


室町末期まで出羽三山は湯殿山ではなく葉山、羽黒山、月山だった。 
湯殿山は出羽三山奥宮という立場だった。
領主が最上家から酒井家に変わった事で葉山は没落し
かわりに湯殿山が組み入れられたという。

江戸時代になって天宥は徳川家光と親密な天台宗天海に近づく。
そのとき天海から天宥という名をもらった。

天宥は羽黒山に東照宮を作った。
ところが、天海が亡くなってしまい、天宥は讒言により大島に流される。

昭和になってわかったことだが、大島ではなく新島だった。
新島で有名ではなかったためなのか、昭和まで残されていた掛け軸などの
書は焼かれてしまったという。

讒言とは
天宥は百姓一揆の者を匿ったり、沢山のお金で伽藍を作ったことで
既存の羽黒集団と行き違いがあったと思われる。
天宥は湯殿山を出羽三山に組み入れ、天台宗に改宗させることで、
幕府に訴訟を起こしている。が、ことごとく敗訴する。

領主酒井忠勝と百姓一揆の件で対立し、幕府の調べも酒井家が行った事
で、天宥には不利な訴訟だった。
裁判中に羽黒側は湯殿山の番人を拷問したり
殺害もしている。

湯殿山の方はは即身仏になることで真言系をアピールしたかったのかもしれない。
空海の開いた真言密教の説く即身仏になり、名前は空海の「海」が全部に
つけられている。

本明海上人、全海上人、忠海上人、真如海上人、円明海上人
鉄門海上人、光明海、明海上人、鉄龍海上人、仏海上人である。

本来4つの別当は、天宥が現れる前、真言系を意識していた訳ではなく
とにかく吸収されまい!天台宗に改宗しまい!と
即身仏になる人が続いた。



そして明治になって神仏分離令後、
湯殿山は山をご神体とする湯殿山神社に
大日坊と注連寺は真言宗の寺に、
本道寺は口ノ山湯殿山神社に
大日寺は大日寺跡湯殿山神社になった。

空海は鉱山を見つける事が上手かった。
ここには過去に鉱山があり金、銀、銅、亜鉛など採掘された。
湯殿山あたりは鉄色(血の色)の水が流れていた。

平将門を追って出羽にきたのだが、
とんでもない宗教争いを見てしまった。

参考:制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所

by gannyan1953 | 2014-10-13 18:17 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

出羽三山と平将門

歴史と素適なおつきあい番外編                2014・9月 

出羽三山に行ってきた。
羽黒山は現世、月山は死後、湯殿山は未来だそうだ。
未来から死後、さいごに現世の順で回ったが、ツアーだから文句いえない。

目的は将門様創建の五重塔である。

では訪問順で

湯殿山神社   鶴岡市田麦俣字六十里山7
祭神:大山祇神・大己貴命・少彦名命
出羽三山の歴史は御開山1400年余という古い歴史がある。

自然信仰の古神道から始まり神仏習合され皇室、武将たちに崇敬された。
明治までは真言宗の寺だったが、廃仏毀釈で昔の山をご神体とするようになった。
芭蕉も「語られぬ湯殿にむらす袂かな」と読んだ。

語るなかれ聞くなかれといわれるので多くは語らない。

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参道にあった丹生水上神社
丹生(赤)ではなく水は鉄色

行きは強制的にバスで登り参拝後は歩いて帰ってこれた。
修行する方には会えなかったがぽかぽか気持ちよく18分かかって
先ほどの鳥居到着。運良く湯殿山が見えた。


月山
   
8合目弥陀が原にバスで到着。
気持ちのいい遊歩道を一周したが駐車場に戻ったときには
霧がでて幻想的だった。
間違って画像消去のため写真なし!

羽黒山
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将門創建と伝えられる五重塔
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夜の参道を照らす蛍石という
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山伏さんの案内で進む
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参集殿
正式参拝をした
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新幹線の中から福島すぎて十五夜の月が見えた
東京に着いたら雨だった・・・





                    









by gannyan1953 | 2014-10-13 15:10 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

青葉区の古道の将門伝説

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荒俣宏著「日本妖怪巡礼団」で紹介された将門伝説のある場所である。
そこを訪ねたとき将門の家来の墓の説もあると話していたら、とおりがかりの白髪のおじさまが
「それは間違っている!そんない古い塚ではなく宗教上の十三塚である!」とお叱りを受けた。

その方がいわれるには荏田村と石川村の境に十三塚があるといわれる。

早速調べたがわからない。でもおもしろいものを見つけた。

築地の土手の話である。
場所は青葉区新石川4丁目と荏田町の境あたり。
国道246号線を渋谷に向かい「新石川」の交差点を左折、信号「新石川東名下」の左に早淵川がある。
そのあたりから北東方向ヒルハイツたまプラーザの麓まで築かれていた。
100 m

  • 地図
  • 写真
  • 地下街


江戸時代、荏田村と石川村の境界に北の山から南の丘に一直線に築土して堤が作られた。
高さ4m長さ300mで、由来ははっきりしていない。

①松沢由貞(よしさだ)著「都筑が丘」にある。
松沢由貞氏は荏田宿小松屋に生まれ教員、市会議員を勤めた。

「その昔早淵川は唯一の水源で旱天の水不足には水争いも起こった。
両村もそれがもとで仲が悪く、下流の荏田村では水をくれないなら一滴も欲しくないと
この土手の築造がはじまった。
流木を防ぐため谷の奥に貯木したところが「保木」
一面に冠水した所は「平川」
牛を集めて避難させた所は「牛込」
船を出して村の交通にあたった部落は「船頭」
真偽のほどはわからないが、面白い伝説である。」

土手は昭和22年農地改革のときにすっかり取り壊された。

②安田卓全氏は心行寺の住職で氏が書き写した「山内の沿革及びその歴史」にもう少し古い話がある。

「築地の土手は荏田石川の境で青山街道に沿っている。
稲毛重成(畠山重忠の一族小山田有重の子)が枡形城から小机城に赴く折に通ったもので、曰く鎌倉道である。
土手の長さ30間、幅5、6間で、篠笹と芝が覆っている。
東西に築かれ中程で早淵川に中断されている。米軍の航空写真に見られるという。」

③戸倉英太郎著「古道のほとり」には

「観福寺の手前から登り寺の下谷に下る小径は古道であると思われる。
下谷で早淵川を渡る、驚神社がある。
驚神社は水神であると考える。築地土手〜下谷の東部で早淵川が南に湾曲する。
その曲がり角より新大山街道の西に沿って大きな築堤址がある。
之を築地土手という。
この土手が何のためにいつ築かれてかは定かではない。

この土手が水除けのものか、道路になっているのかわからないが、
東方丘陵(あゆみが丘)に刑場牢獄の跡が伝わるので或は東海官道の名残ではないか。」

古代の道ではないかという説である。

④最後にご近所のみなさまの言い伝えから

中川の大久保太一さんお話は「水争い」

下谷の工藤豊さんは「けんか土手」と聞いた。

横溝智美さんは「この地で耕作をしていたが、納得できる話はなかった。」

松井治郎さんの話は
「先輩の飯島正寿さんは平将門が京都に任官で行くときにこの官道を通った、といわれた。


  私は江田源三と稲毛重成の勢力争いの所産と聞いている」


この土手は石川村にメリットがないという。
ということは水の調節以上の目的をもっていた可能性がある。

以上十三塚をみつけたかったのが、また将門にたどり着いてしまった。
やったー!と思った。

参考:都筑・橘樹地域史研究(横溝潔氏「石川村・荏田村境の築地の土手の一考察」

最後に十三塚とは

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名所図会にある十三塚。
どこにあるのか。
調べてみたら川崎の野川交差点から南西のあたりにあるらしい。

十三塚とは村境に悪霊が入ってこないように作られたという。
他に僧が入定した場所、落ち武者が亡くなり、供養した場所など。
十三に限らず数個の場合もある。
六つ塚もそうらしい。
だから五所塚もそうだという。

将門だったらいいな。





by gannyan1953 | 2014-06-14 19:48 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

港北ニュータウンに将門がやってきた


歴史と素適なおつきあい番外編 

将門と杉山神社


平安時代。平将門の乱起こる。

桓武天皇の5世の孫高望王が平姓を名乗り、東国を治めたが、その3代目の将門が領地を巡って内紛し、

将門の乱が起こり、東国は将門の天下となる。

このころ地方豪族も武装化し、都筑党を名乗る武士団も現れた。

朝廷はこれら東国の武士をもって将門を鎮圧させた。

杉山神社(大熊町)に将門の伝説が伝えられている。

承平年中

平将門宿願によりて不思議な悪夢を蒙り此の社に七日参籠せる夜

不動閻浮檀金の観音を授かり夫より将門威勢盛になりとぞ


牧を経営していた将門が良馬を探し求めてきたのか、京都の行き帰りに立ち寄ったのだろうか。

曹洞宗 久松山 長福寺
〒224-0041
神奈川県横浜市都筑区仲町台4-8-10  のブログにも紹介されている。



IKEAの近く。

by gannyan1953 | 2014-03-20 11:54 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)



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