歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:東京都 歴史散歩( 67 )

雑司ヶ谷七福神

歴史と素適なおつきあい    2017

雑司ヶ谷七福神歩き

まだ湯気が立つほど新しい七福神
歩きやすく楽しい


集合:有楽町線「護国寺駅」1番出口方面改札口


鬼子母神堂 ・・菊池寛旧居跡・・雑司ヶ谷霊園・・恵比寿 神社 ・・毘 清立院 ・・吉祥天(寿老人の代替) 清土鬼子母神堂 ・・弁 静院 ・・布袋尊 中野ビル・・ 福禄寿 仙行寺








大黒天
鬼子母神堂



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菊池寛旧居跡
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明治21年高松で出生
京大卒業後文芸春秋を立ち上げ
直木賞や芥川賞の設立者
戦争中も戦争反対を唱えた

代表作:父帰る 無名作家の日記
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山田君の自販機
夏目漱石の墓を目指す途中



雑司ヶ谷霊園

夏目漱石の墓
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他にサトウハチロー、島村抱月,ジョン万次郎、竹久夢二、泉鏡花、金田一京助、小栗忠順(ただまさ)、岩瀬忠震(ただなり)、小泉八雲、永井荷風、羽仁もと子(順不同)の墓がある。

雑司ヶ谷霊園は三代将軍家光のころお薬園となり八代将軍吉宗のころ鷹の飼育場所だった。明治7年(1874)東京府により共同墓地となった。広さは10万㎡ある。




毘沙門天
清立院

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雨乞いの松
昔雨乞いと皮膚病の祈願寺だった
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昔稲荷社は金山稲荷といわれ
ここに刀鍛冶が居住していたという


恵比寿
大鳥神社
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鬼子母神境内に鷲明神としてあったが明治の神仏分離により
この地に遷座
祭神は日本武尊


並木ハウス 裏側
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並木ハウス
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雑司ヶ谷鬼子母神の案内所
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並木ハウスの様子が2階に展示されている


学問所雑司寮明哲院
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ここではドイツ哲学のお勉強会があるらしい


大黒天
鬼子母神堂
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だんごやさんといっしょになっている
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人気の駄菓子屋さん
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弘仁元年(810)真言宗威光寺として開山、正和元年(1312)

                        

日蓮上人の弟子日源承認が日蓮宗に改宗し、

                             

威光山法明寺となった。


           

境内には「鬼子母神」(きしもじん)の石像があり安産、子育)こやす)の神として

信仰されされている

                    

鬼子母神は伊インドの神で訶梨帝母(かりていも)とよばれ、

鬼神般闇迦(はんしか)の妻になり、子供を多く生んだ。

なんと500人から千人といわれている

                           


しかし性質が凶暴で人間の子供を

奪い取っては食べてしまったので怖れられていた。



困ったお釈迦様は
鬼子母神の末子を隠し
子を失う悲しみを実感させ改心させた

お昼は境内横の「旬」
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 弁才天
観静院 

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法明寺の境内に鬼子母神や観静院がある。法明寺の塔頭として元禄年間に創立し、池袋御嶽神社の別当だった。




途中お稲荷さんがあった

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布袋尊 中野ビル  

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布袋尊像は、大正6年(19177代当主中野岩雄の弟により子像として

建立された後、中野岩雄による株式会社中野石材商店の店に祀られた。



福禄寿  仙業寺

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日蓮宗で
明治41年(1908)善行院と仙応院が合併した
 
工事中で様子わからず

どうもビルになるらしい


by gannyan1953 | 2017-09-24 18:48 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

よこやまの道

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・9・20

神奈川歩け歩けに参加  12キロ
永山駅10時10分出発  唐木田駅13時25分の新百合ケ丘行き乗車で帰宅

早い ひたすら歩く会で
余りの早さと立ち止まると歩行を妨げる
ゆえに シャッターがうまくきれない






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永山駅から永山北公園に行く陸橋

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諏訪岳三角点

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分倍河原の戦い前夜、北条軍がいた

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防人見返りの峠
「赤駒を山野に放し捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」
宇遅部黒女(万葉集 20巻4417)

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古代の古道が5方向から集まってきて交差していた、と考えられている

ここは小野路町別所と多摩市永山の境界にあたり、古道が集る五差路です。
堀切を持つ関所跡のような場所(現在消滅)、頼朝の弟・源範頼の念持仏をまつったと伝わるお寺や
鎌倉時代初期(弘安4年・1281)の大板碑、源氏の戦いの伝承地(鶴川団地)などが近くにあります。
南北朝時代頃から鎌倉や小田原などへの近道として発達したと考えられるこの鎌倉道は、
古戦場伝説や古墳が残る別所の高台(三社大権現、富士塚古墳)を乗り越えて、
野津田や金井、本町田へと続いています。
交通の要衝である小野路の宿や野津田上ノ原の先へ回り込む早道であったと考えられます。

多摩市散歩より

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鎌倉街道
両脇は大妻女子大



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土方歳三が歩いた小野路への道
いつか歩こう


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奥州につながる道

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昭和30年刀傷のある頭蓋骨が発見され
古戦場の伝説があったことから
元弘3年(1333)
新田義貞の鎌倉攻めのときの
頭蓋骨ではないかと推定された

付近の地名に

供養塚・勝負塚・対象塚、小山田小太郎隠れ穴、ひうち池などある

新田義貞は分倍河原、関戸の戦いで勝利し
関戸にて逗留し60万7千騎に膨れ上がり
三つに分けて進軍

そのひとつがこの尾根をいったと
推測されている

ここで待機していた敵軍と激戦になった


おしまい

唐木田駅から帰宅


次回は最後尾についてゆっくり写真をとることにする


ほとんどピンぼけでした





by gannyan1953 | 2017-09-20 22:30 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

麻布十番から歴史散歩

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・7・23


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ハリスさんがヒュースケンとアメリカ行使館として入った善福寺


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とてもわかりやすい


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越路吹雪さんと岩谷時子さんの碑

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福沢諭吉の墓

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逆さイチョウ

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仙台坂近くの山田君自販機

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仙台藩邸の湧き水がこの喫茶店で見ることができる

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日向(ひゅうが)坂


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三井倶楽部


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簡易保険の建物らしいが使用されていなそう・・

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イタリア大使館
ここは赤穂浪士が切腹した場所で
ムッソリーニが赤穂浪士に深く感銘し、
当時の大使により碑が建てられている
(見学不能)


以下ことらを参照
コースが同じなので





























by gannyan1953 | 2017-07-26 10:21 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

本郷歴史散歩


中川歴史ウォーキング33           2017・9・16(土)


台風の影響で雨が降るところ降りませんでした

涼しくて路地はやはり楽しかったです

いろいろな人と出会いいい一日でした



東大と本郷の文人の足跡を辿ります



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この素適な場所でめぐりあった人
私の近所で都筑民家園で琵琶演奏をなさるとのこと

できれば参加したいなと思います







集合:9:45 南北線「東大前」駅改札口(ひとつしかありません)

東大前駅・・ハチ公と上野英三郎博士像・・本郷追分一里塚跡・・鳳明館森川別館
・・本郷館跡・・求道会館・・鳳明館本館台町別館・・胸突坂・・菊坂・・旧伊勢屋質店
・・樋口一葉旧家跡・・金田一京介旧家跡・・鐙坂・・宮沢賢治旧家跡・・本妙寺跡
・・赤心館跡・・菊富士ホテル跡・・法真寺・・東大赤門
・・安田講堂・・三四郎池・・麟祥院・・かねやす





東大農正門
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ハチ公と上野英三郎博士像


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主人を8年以上渋谷駅で待ち続けたハチ公と博士の像が2015年に造られた


本郷追分一里塚
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中山道と日光御成街道の分れ道でかつては日本橋から出発して中山道最初の一里塚があった。高崎屋は江戸時代から続く酒屋で両替商も兼ねた


鳳明館森川別館
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おかみさんが玄関を見せて下さり
ご親切にしてくださりありがとうございます

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木造2階建の近代和風建築。下宿屋として建設されたが,昭和初期に下宿屋兼旅館に改造し、さらに昭和20年に旅館建築に模様替えした。各室毎に異なったつくりで,部屋の銘木に合わせた部屋名とする。下宿・旅館が多かった本郷地区の歴史的な景観を伝える。(文化遺産オンライン)


本郷館跡

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壊された本郷館

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現在の本郷館 賃貸住宅

東大生や芸大生が多く下宿した
明治38年(1905)に岐阜県出身の高橋千代三郎により本郷旅館として建築されのち
御茶の水大学女子寮になり終戦前に人手に渡り下宿となった。
2006年住人に退去を申し出たが、受け入れられず裁判になり住人が敗訴、
惜しまれる中20011年に解体された。(ウィキペディア)


求道(きゅうどう)会館
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近角常観(ちかずみじょうかん)の創設した団体が浄土真宗大谷派の教えを
寝食共にして信仰を語り合う場として建築家武田五一により建てられた。
しばらく使用されていなかったが平成14年に修理改修が行われコンサートなど行われている。



鳳明館本館台町別館
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本館が文化遺産に指定されている。
最近では純和風旅館として外国人ツァー客も多い
昔修学旅行で宿泊した人いるかも

今回も外人(白人さん)ばかりでした
英語の話せない私は寂しいかも

胸突坂
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急な坂道で昔はこちらが菊坂と言った。

本郷倶楽部
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素適な和風の建物だが
多分どこかの会社の所有


菊坂
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昔は菊畑が広がっていた。


みんなでおまんじゅうを買って立ち食い
大福は塩の利いたあんこでした

旧伊勢質店
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樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、
生活が苦しくなるたびに通った質屋。
下谷区竜泉町に移ってからも通った。
一葉が亡くなったときの香典帳に、
伊勢屋から香典が届けられたことが記されている。
伊勢屋は1860年の創立であった。

土日12寺から喫茶あり



樋口一葉旧居跡

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路地と井戸だけが昔のまま




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樋口一葉が使った共同井戸


樋口一葉(1872~1896)の旧居跡。24年間の短い生涯のうち、約10年間現在の文京区内に住んだ。
この地には、父の死後移り、母と妹を養いながらこの地の貸家で小説家として立つ決意をし、半井桃水の指導を受けながら、『闇桜』『たま襷』『別れ霜』『五月雨』などの小説を執筆した。
『大つごもり』『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』など今も読み継がれる作品や多くの和歌を残している。




金田一京助旧居跡

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言語学者で南部藩の名家に生まれ東京帝大に入学している。
ここでアイヌの知里幸恵さんが住み込みアイヌ語研究の手助けをした。
親友は石川啄木で奥さんは啄木が紹介している。


宮沢賢治旧居跡

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宮沢賢治旧居跡

大正10年(1921)25歳のとき信仰のことで父と折り合わず家出をしてここに下宿した。
東大赤門前の文信堂(現大学堂メガネ店)で筆耕や校正などで働き、
日蓮宗(国柱会)の布教活動とともに、
童話や詩を書いた。
『注文の多い料理店』の中の
「かしわばやしの夜」「どんぐりと山猫」なども執筆された。



本妙寺跡
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本妙寺跡のマンションの玄関

明暦の大火の火元ともいわれる


明暦の大火
    江戸三大大火
明暦3年(1657)江戸の大半を焼失する大きな火事になり
三カ所から順に燃え、火元のひとつは本郷の本妙寺だった。

別名「振袖火事」ともいわれ、
ある娘が寺の小姓に一目惚れ、恋煩いで寝込んでしまった。
両親は娘が哀れと思い、小姓がきていた着物の柄だった
荒磯と菊柄の振袖を仕立ててやった。

このころの小姓は娘のような派手な柄の着物をきていた。

ところがじき娘はなくなり、両親は棺桶に振袖をかけてやった。

当時は埋葬する寺男たちがそれをもらい、
それを売る習慣があり振袖は他の娘の手に渡った。

ところがその娘は病で亡くなり、次に手に入れた娘も亡くなり、
さすがに寺男たちも気になって供養に振袖を焼くことになった。

ところがたちまち強風が吹き、火のついた振袖は空高く舞い上がり
それが火事の原因になった。

この話は小泉八雲も小説(振袖)にしているがどうも真実ではなかったらしい。

明暦の大火の真実

実際のところ火元は本妙寺ではなく、
隣接した老中の阿部家であったといわれている。

老中宅が火元では、幕府の威信失墜になると、
本妙寺が罪をかぶったというのである。
本妙寺は大火から3年後に再建され、
関東大震災まで阿部家から明暦の大火の供養料として
260年に渡り奉納されていたことから推測されている。




一葉桜木の宿跡

法真寺隣に樋口一葉が父親と幸せに暮らしていた家があった。
「腰衣の観音さま、濡れ仏にておはします御肩のあたり、
膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、
前に供へし樒の枝につもれるもをかしく」と、
当時の法真寺の情景を「ゆく雲」の中で書いている。

住職さんにお会いしました
Tシャツにジーンズのいでたちで

本堂を見せていただきました


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本堂前にお狐さんが・・・なんで
家にきたいというもんだから・・・でした


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ご寄付のステンドグラス

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これはお寺の自前

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畳でなく教会のイスになっています


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仁王様は迫力あり

住職はアメリカに・・もしかしたら布教のためか
いろいろな宗教の影響も受けられたようです
ホームページにいっぱいご紹介されています







東京大学


東大の前身は徳川幕府の学問所昌平黌で、
洋学の研究機関である開成所、
西洋医学の三つがベースになり明治10年(1877)最初の大学として
東京大学が誕生その後東京帝国大学、
東京大学と改称平成16年「国立大学法人 東京大学」となった。
ここにはかつて加賀藩前田家の上屋敷があった。
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大賀ハス

東大のお土産屋さんに入ったらハスの香水の香りがしていた

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た 高い!
しかし
沖縄の戦争で泡盛の黒麹がなくなり幻の酒といわれたが、
黒麹が東大に残っていたことがわかり
1999年に作られた古酒だそうだ
ありがたいお酒だった



安田講堂
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安田財閥の安田善次郎の寄付により建設され安田講堂と呼ばれる。
反戦運動、70年安保闘争に揺れるなか帝国主義支配体制の一翼だとして
大学解体を訴える運動家を中心に全国で大学紛争が発生、
東大では安田講堂に立てこもる学生を機動隊が排除した。
20年ほど物置になっていたが1989年改修工事終了し、
スティーブン ホーキング博士の来日でこけら落としが行われた

高いビルの中のレストランへ

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窓の向うはスカイツリーです
撮れてない・・

美味しかったです
イタリアン カポ・ペリカーノ


今回は学食が空いてて
赤門ラーメンを食べてきました

完食したため少し胃もたれしました
学生と同じ量を食べてはいけませんね

中央食堂は改修中で
メトロ食堂で食べました

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三四郎池

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前田家3代のと利常が秀忠。家光父子のお成りに庭園を整備した。
心字池といわれた。夏目漱石の三四郎の舞台となったので
三四郎池とよばれるようになった

私は数年前まで三四郎は姿三四郎のことと思っていた
とても笑われた・・・
まだ夏目漱石の三四郎を読んでいない

夏休みに読もう
感想
なんだかイジイジした青年の話だった






赤門 加賀藩屋敷御守殿
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11代将軍家斉の娘溶姫が十二代前田斉泰に嫁ぐにあたり加賀藩が建造した。
屋根瓦大棟に三葉葵、軒丸瓦に梅鉢、鬼瓦は學とある



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前田家の煉瓦


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山田君の自販機

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山田君の自販機





麟祥院

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春日局(1579〜1643)は家光の乳母として有名でここは隠棲所として作られた。
墓は無縫塔(卵塔9で四方に穴があいており特異な形をしている




かねやす

享保年間乳香散という歯磨き粉を売って有名になった。
大岡越前が耐火のためかねやすを境に南は土蔵作りの塗屋にすることを命じ、
本郷もかねやすまでは江戸の内といわれた。


東京都水道歴史館

東京の水道は世界有数の水質と規模である。
家康が江戸に来て最初に行った小石川上水(神田上水)の整備に遡る。
上水道の発展の歴史を展示





by gannyan1953 | 2017-07-13 15:30 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

鎧神社〜皆中稲荷

鎧神社

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平将門に由来する
将門魔法陣
北斗七星のひとつである










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天仰ぐ狛犬



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わきの出入り口


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境内の天神社

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むかって右の狛犬正面
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右の狛犬 横から


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むかって左の狛犬




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左の狛犬 横から

皆中稲荷

当たるというので
参拝客は宝くじが当たることを
願う人が多い

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皆中稲荷は大久保と新大久保の間にあり
混雑している
 この大久保通りをまっすぐ進むと戸山公園がある

以前から気になっていた場所なので訪問

いざ戸山公園へ
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         途中の道に山田君自販機







by gannyan1953 | 2017-07-02 11:50 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

ちょっとディープな新宿散歩

中川歴史ウォーキング

な人が行きかう新宿は文人や芸術家など好んで集まり

学生運動でも有名になるなど若者の叫びが聞こえた時代もありました

今でも眠らない街といわれるディープな新宿を歩きます


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これが見たかった
ゴジラ



集合:伊勢丹正面改札口 9:45



新宿の歴史

旧石器時代の遺跡があり古くから人が住んでいた。

平安時代から平将門が関わる鎧神社や鬼王神社があり、

文献に残るものに、1340年の足利義詮から預かった「牛込文書」がある。

江戸時代、甲州街道が整備され、日本橋から次の宿の高井戸まで距離があるので、

名主高松喜六らの願いにより「内藤新宿」という宿場があいだにできた。

甲州街道を護る武士集団も四谷、新宿と配置され笹寺には抜け穴伝説もある。

宿(しゅく)は岡場所も多く飯盛り女、遊女など多く置かれ、江戸時代からすでに歓楽街の気質があった。

関東大震災の時、銀座や浅草に比べ岩盤が強かったので被害が軽微だったことから、震災後に発展をする。

戦後いち早く闇市ができ、人が多く集まった。5年後には闇市は撤去され、

跡地に雑多な店ができゴールデン街など新宿独特の繁華街が形成された。

百貨店も多くありさまざまな人々が集客し「眠らない街」といわれる。

天龍寺は江戸の町の裏鬼門の護りで、二代将軍秀忠の母方の菩提寺であり、渋谷川の水源である。

角筈(つのはず)は北条氏家臣の渡辺与兵の髪型が変だったので角筈といわれた。

大久保は大きな窪地で湿地帯だったことがわかる。

天龍寺あたりは江戸時代から芸人など身分の低い人たちが住み明治になっても貧民窟と言われた場所である。





太宗寺

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太宗寺 浄土宗 本尊:阿弥陀如来

慶長元年(1596)太宗がむすんだ草庵からはじまった。内藤氏の菩提寺として太宗寺となり、内藤氏が高遠藩に移封されても関係は続いた。湧き水があり池があったが埋め立てられたが今でも湧き水はある。

閻魔様の話

子守をしていた赤ちゃんをおんぶしていた乳母が、泣き続ける子供を連れて閻魔様のそばにきた。

「そんなに泣くと閻魔様に食べられてしまうよ」というと泣き声がピタリと止まった。乳母はホッとしたが背中の赤ちゃんがいないことに気づいた。あわてて境内をさがすと閻魔様の口におんぶ紐がぶら下がっていた・・・

閻魔像は文化11年(1814)に安置され内藤新宿のお閻魔さんと親しまれた。



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成覚寺


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文禄3年(1594)創建で内藤新宿の飯盛女を死後埋葬したことから投込寺といわれる。

飯盛女の共同墓、その供養碑である子供合埋碑(ごうまい碑)、遊女白糸塚がある。

橋本屋白糸は青山百人町の鈴木主水と情死し、

主水は家名断絶となった話を瞽女(ごぜ)のヤンレイクドキや盆踊唄に歌われ流行した。






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新宿ゴールデン街

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新宿ゴルデン街

闇市のあとが青線地帯となり飲屋街になった。多くの有名人が飲みにきていた。

昭和初期には永井荷風、直木三十五、泉鏡花、菊池寛、川端康成、大佛次郎、林芙美子。

戦後は佐木隆三、中上健次、タモリを九州から呼んだ会があり、

赤塚不二夫、山下洋輔、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊

など森田を呼ぶ会によってタモリは1975年に上京した。

ブラタモリは大変参考になる番組で森田を呼ぶ会には感謝する。


あまりに出入りする有名人が多いのでウイキペデイアを参考にしてください。


私的には好きなドラマ「深夜食堂」がここにあるという定で、実際のロケはスタジオだったらしい。

歌舞伎町

歌舞伎町

「東京産業文化博覧会」のアトラクションのひとつとして新宿コマの前身となった。

阪急の小林一三が新しい国民演劇をめざし梅田コマの姉妹劇場として建設された。

新歌舞伎といわれたのが歌舞伎町の地名になった。

昔は新宿コマの南東に鴨池があり弁天様があった。

歌舞伎町弁天といわれ今もある。


蟹川が大久保病院あたりからを水源として流れ戸山から神田上水に流れていた。

鴨池は淀橋浄水場建設ででた土で明治末には埋め立てられた。

その西には大久保町といわれ地名をみてもわかるとおり窪地があった。


そこに十二社熊野社があり、森の奥の池には美しい娘が大蛇となって住むという伝説があった。
いかにも新宿の街を象徴するように水、森、蛇、弁天とエロチシズムを感じる土地である。

新宿コマはなくなり現在ホテルグレイスリー新宿になり東宝シネマがある。

そこでゴジラが登場することになった。

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もっと離れればゴジラの顔まで写ったかも

都庁

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職員食堂スペシャル定食

「名古屋めし」


冷きしめん
味噌かつ丼
食べたら下までおりて


北展望室へ

下までおりて
南展望室へ

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真ん中の緑は
明治神宮



成子天神社


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成子天神社 祭神:菅原道真

昔柏木成子の地といわれたところに大神宮があり天照大神を祀っていた。


延喜3年(903)に太宰府で菅原道真公が亡くなり、

その徳を慕い菅公神社から像を持ち帰り、

勧請した。


春日局よりこの地を賜り平成26年に現在の社殿の造営が行われた。


富士山にみたてた富士塚がある。



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鎧神社にいく途中の
山田君の自販機


鎧神社

醍醐天皇のころ(898〜929)行基作の薬師如来が祀られた円照寺が創建され、

その鬼門鎮護のため社が創建された。


ヤマトタケルが東国平定の折立ち寄り、甲冑を隠したと伝わる。


それに加え天慶3年(940)に平将門が藤原秀郷に討たれ、

この地の人々はその死を悼み天歴元年(947)に将門の鎧を埋めたと伝わる。


またその後重病になった藤原秀郷が、将門の祟りと恐れ、薬師如来のある円照寺に参り、

この社に将門の鎧を埋めたらたちまち病が治ったと伝わる。



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天仰ぐ狛犬



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わきの出入り口


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境内の天神社

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むかって右の狛犬正面
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右の狛犬 横から


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むかって左の狛犬




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左の狛犬 横から


皆中稲荷


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皆中稲荷は大久保と新大久保の間にあり

混雑している

 この大久保通りをまっすぐ進むと戸山公園がある


以前から気になっていた場所なので訪問

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途中の道に山田君自販機





そんなには歩いていないと思うが

27884歩 18.4km
とスマホはいう

































by gannyan1953 | 2017-07-01 16:16 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

戸山公園 陸軍戸山学校跡

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・6・30



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戸山学校跡の碑


戸山公園に行ってきた


ちょっと怖くてなかなか行けなかったが
多くの人が歩き、学校帰りの小学生、
幼稚園のお迎えのおかあさんたち・・
戸山ハイツの住民なのか、ベンチなどで
固まっておしゃべり、
箱根山などまわりを
手をつないだ老夫婦が散歩していて
挨拶してくれた

もう怖くない


なぜ怖かったかというと


この近くの国立感染症研究所は
陸軍が戦時中医療の研究をした
陸軍軍医学校があった場所で
1989年に大量の人骨が発見されている

戦時中の総監は石井四郎氏




かなり恐ろしい想像ができる

発掘された人骨は

どんな人たちだったかは解明されていない

どこの国の人かもわからない

何やら税金を使って火葬をするなと
裁判になったらしい

真意は調査する為に火葬するなという意味だと思うが
敗訴し
火葬せずに納骨されたという

火葬されなかったので
目的は達成できた



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案内板

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箱根山登山口


まず現れるのが

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陸軍将校があれやこれや話をした集会場だった建物

その上に戸山幼稚園が建つ
土台に使われている


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標高44.6m

山手線内では一番高いらしい

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発行してもらわなかった

眺望はあまりない


反対側に下りてぐるりとまわってみた


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この碑はもう一段低い場所にあり
探すのに苦労した

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説明文


このあたりは
鎌倉武士和田義盛の領地だった
頼朝が亡くなってから非業の死を遂げている


江戸時代尾張藩の下屋敷となり
東海道小田原宿などの様子を造った
庭園が造られた


池を造るため掘った土を積み上げて
できた山が箱根山である

箱根山とよばれるようになったのは
陸軍用地になってからである




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これも戦争遺跡で
戸山学校の野外演奏場であった



最寄りの駅は
東新宿駅


生田の明治大学構内にある
登戸研究所はベールに包まれていたが
解放された

このさきどんな人骨だったのか
解明される時がくるかもしれない











by gannyan1953 | 2017-06-30 22:41 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

お江戸の赤坂と六本木


歴史と素適なおつきあい                        2010・10.8
中川歴史ウォーキング 32                      2017・6・17

お江戸の赤坂と六本木

日 時  : 2010年10月8日(金)9:50  2017年6月17日(土)9:45
集合場所 : 永田町 8番出口方面改札口(進行方向後方)


永田町~豊川稲荷~大山道~牛鳴坂~丹後坂~円通寺坂~円通寺~
TBS敷地・2・26事件近衛兵第三連隊~三分坂~報土寺~種徳寺~
本氷川坂~氷川神社~氷川坂~勝海舟邸跡地~南部坂~松平三河守忠直邸跡~市三坂~
檜町公園・長州藩下屋敷~六本木ヒルズ・赤穂浪士切腹の地




豊川稲荷東京別院 曹洞宗 (港区元赤坂1-4-7)
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愛知県にある豊川稲荷の直轄別院。本尊は荼枳尼天。稲荷といっても寺院である。
大岡越前守忠相が、赤坂一ツ木にあった自邸に勧請していたものを、1887年現在地に移転し、創建された。忠相は南町奉行から寺社奉行に異動し、三河国西大平藩1万石の大名になった。その時に勧請したと思われる。

荼枳(だき)尼天(にてん)とは、ヒンズーでは人肉、心臓を食べる夜叉である。インド密教では性を瞑想するヨーガとして伝えられている。日本の真言密教では、大日如来の霊力で善神となり、胎蔵界の外金剛界にあり、白狐にまたがる辰狐(しんき)王菩薩、貴狐天王(きこうてんのう)といわれる。
本来、稲荷信仰とダキニ信仰とは別のものであったが、「狐」を介して習合が進み、鎌倉時代には神仏両系の稲荷が並存することになった。

豊川稲荷では開運出世の福徳神といわれ、人を選ばず願望をかなえてくれるといい、江戸時代では遊女、博徒、被差別民など広く信仰を集めた。

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大岡越前が勧請した

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銭洗弁天


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叶稲荷

ここにあるお金の封筒を持ち帰り財布に入れ
一年後にお賽銭をそえてお帰しするシステム

お金に困らないという

牛鳴坂


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大山道で路面が悪く、車をひく牛が苦しんだといわれる。江戸時代、定火消しの組屋敷があり、火の見櫓があった。

丹後坂

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近くに米倉丹後守邸があった。金沢藩米倉家は横浜市に唯一本拠を置く大名で金沢区六浦に陣屋を構えていた。武州金沢藩といったが、明治になって六浦藩になった。横浜市金沢区、平塚、秦野あたりが領地で、初代藩主は米倉家四代目で柳沢吉保の息子である。

円通寺坂 

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近くに円通寺があったので名前の由来となる。  
             (港区標識)
円通寺(港区赤坂5-2-39)

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時の鐘


寛永2年(1625)赤坂三分坂上の松平安芸守中屋敷内の拝領地に開創し、時の鐘を撞いていた。
元禄8年(1695)2月の大火で焼失し、替地を他の場所に賜ることが内定していたが、時の鐘を撞くため、近くに賜ることを願い出て、現在地に寺地180坪あまりを拝領し移転した。
円通寺の梵鐘は、「十二支の鐘」とよばれ、銘文中に「鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪」の文字を使った七言律詩が刻まれている。宝暦(1751-64)ころまでは、時の鐘を撞き、地域に親しまれていた。太平洋戦争のため供出されたが、昭和50年に板橋区の寺院にあることがわかり譲り受けた。                                                              (港区文化財のしおり)

時の鐘 
城鐘、寺鐘、市中の鐘の三種類あり、江戸末期には江戸城内で本丸西丸に土圭の間があり、大きな時計があった。城中の諸行事や城門の開閉は太鼓の時報により行われた。幕府の武士の登城は朝四つ時だったが時を司る坊主はその時ごとに只今は何時と各部屋に触れまわったという。
江戸市中の鐘は江戸本石町3丁目に時の太鼓が作られ、後に鐘に取り替えられた。家康の時代には明け暮れの六つ時だけだったが、秀忠の時代に明け暮れだけでは役に立たないということで、12時を知らせるようになり、太鼓から鐘にかわった。初期の江戸中心地はこの鐘が聞こえる範囲で、その範囲の町人から一カ月一文徴収したという。     
川柳「石町でだしても同じ時の割」

寺院の鐘は仏事を修する時の合図の鐘で晨朝、日中、日没、初夜、昼夜、後夜の六つの時刻で
江戸時代中ごろには江戸庶民は寺院の鐘で時刻を知ることが多かった。現在のような定時ではなく日没を基準とする。不定時刻であった。時刻を知るには定香盤や水時計を用いた。
                                  (富山市科学博物館)

近衛兵第三連隊跡地・安芸広島浅野家屋敷跡
(赤坂サカス)


TBS、赤坂サカスの敷地は、浅野家(秀吉の正室の弟の血筋が藩祖・赤穂藩は分家)の中屋敷の跡、明治になり陸軍裁判所、監獄になっていた。その後、近衛兵第三連隊が置かれた。この第三連隊は2・26事件に加わった連隊である。昭和11年2月26日未明、前夜からの雪の中、この近衛歩兵第三連隊(TBS)第一師団歩兵第一連隊(ミッドタウン)、歩兵第三連隊(国立新美術館)の将兵を使いクーデターを起こした。
永田町と青山の中間あたりに、2・26事件で殺害された大蔵大臣高橋是清邸があった。

2・26事件は、大日本帝国陸軍内の派閥である皇道派の影響をうけた一部青年将校らによるクーデターで、元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村困窮が収まると考えていた。「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令が下されこの時点で「昭和維新」は終わった。首謀者17名は死刑、69名が有罪となった。
クーデターそのものは失敗に終わり、これ以降軍部の要望を聞き入れないと再びクーデターが起こるという危惧があった。やがてその影響で太平洋戦争にむかうことになる大きな事件であった。

三分坂
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急坂のため、通る車賃が銀三分(百円余り)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある 
読み方はさんぷん坂である。                              (港区 標識)


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山田君自販機


報土寺 浄土真宗大谷派 (港区赤坂7-6-20)

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雷電の墓


慶長19(1614)に赤坂一ツ木に創建され幕府の用地取り上げにより安永9(1780)に移転した。このころ造られた築地塀が立ち港区の文化財である。      (東京都教育委員会)
江戸時代の大関雷電為右衛門の墓がある。

「雷電為右衛門の墓」の標識の説明
 
明和4年(1767)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。天明4年(1784)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政2年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化11年(1814)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。文政8年(1825)江戸で没した。                       (東京都教育委員会)

種徳寺 単立(港区赤坂7-6-29)
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小田原北条の菩提寺早雲寺の流れの寺、で湯本の近くにあったが秀吉の小田原攻めで焼失し、文禄2(1593)年ここに移転。北条氏康の弟・為昌(玉縄城、川越城、小机城、三崎城主)の菩提寺といわれるが、北条との縁は薄いと住職が言われた。元の寺名は本光寺、のち種徳寺に改めた。
墓は高台にあり、立派なものが多い。

分部光實―分部家9代、近江大溝羽藩8代藩主

狩野定信―江戸初期の画家で、秋田狩野派の祖
堀直虎――廣顕院殿前少府令祐道靖忠大居士神儀―
信州須坂藩の13代藩主で、漢学、蘭学、兵学、砲術に長け、藩の建て直しと早くから洋式軍隊を取り入れた名君であったといわれる。外様であるが、優れた能力を認められ慶応3年26歳で、若年寄兼外国総奉行に任じられた。大政奉還後の末期の幕府で、誰もが辞退したい役といわれた。直後鳥羽伏見の戦いで大坂から逃れ、朝敵となった慶喜を迎えいれた。
幕府の今後の方針会議で慶喜に意見し、その後江戸城内で喉をついて自刃した。意見の内容は、恭順を勧めたとも、絶対抗戦を勧めたとも真相はわからない。ただ藩では恭順を勧めた諌死であるとし、官軍に同行し、東北征伐に出兵、藩の存続は認められた(HP 珈琲ブレイク・名墓録)

勝海舟邸跡 (港区6-10-39 ソフトタウン赤坂)
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海舟37歳のとき安政6(1859)年から10年ここに住んだ。龍馬が千葉重太郎と訪ねた屋敷である。土方歳三も流山で捕縛された近藤勇の助命嘆願を求めにここを訪れている。
明治元年、海舟の留守中に官軍が襲ったとき、海舟邸にいた妹の佐久間象山未亡人が毅然と応対し、危急を救ったといわれる。       (HP 土佐の歴史散歩・ソフトタウン赤坂管理組合)

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氷川神社 (赤坂6)

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立派なご神木


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勝海舟が近くの神社をここに合祀し、名付けた四合(しあわせ)稲荷



祭神―スサノオノミコト・クシイナダヒメノミコト・オオナムチノミコト
由緒は951年、一ツ木に大宮氷川神社を勧請した。境内に勝海舟ゆかりの四合(しあわせ)稲荷がある。近隣四社の稲荷を明治三一年合祀したもので、海舟が「四合稲荷」と称した。

一ツ木にあった氷川明神を徳川吉宗が現在地に遷し、社殿はそのとき造営されたものである。江戸の宮大工は東照宮の影響か装飾が多いが、この氷川神社はすっきりした佇まいになっている。
神社が遷される前は、浅野内(あさの)匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)夫人の阿久里(瑶(よう)泉院(ぜいいん))の実家である三次三万石浅野土佐守の中屋敷があった。28歳で未亡人となり、江戸本邸ひきはらいなど沈着に行い、43歳までここ中屋敷で夫の菩提を弔いつつ静かに余生を送った場所である。   (赤坂散歩・司馬遼太郎)

勝海舟邸跡 
(赤坂6-6-14)

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竜馬と海舟

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勝海舟の邸跡からでてきた茶碗など

さきほどの邸跡から持ってきた物もあれば
竜馬や土方歳三が使った茶碗があるかも



海舟が明治5(1872)年49歳から76歳まで住んでいた。この間参議、海軍卿、枢密顧問官、伯爵として生活を送った。晩年は海軍、陸軍の歴史記事を編纂し談話を速記した「氷川清話」などを遺した。                           (HP kan karu 日記)
現在「プラザ赤坂なんでーも」になっている。


南部坂

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江戸時代初期、氷川神社あたりに南部家屋敷があったため、この名がつけられた。
明暦2(1656)年に赤穂藩浅野家との間で屋敷の取り替えがあり、南部家は現在の有栖川宮祈念公園のある場所に移った。
忠臣蔵では大石内蔵助が瑶泉院に暇乞いに訪れた「南部坂 雪の別れ」の場面に設定されている。

大石は後日瑶泉院の身に災禍がおよぶことをおそれてそういう軽率なことをしなかった。ただ討ち入りの前日大石は書類を送っている。あてさきは瑶泉院付きの落合与左衛門である。赤穂藩の財務整理で残された690両を長矩の弟大学を立て、お家再興の資金としていたが、再興の望みが消え討ち入りの資金とした。その金の使途いっさいを記入した明細帳と領収書であった。
瑶泉院はこの内容で大石の復仇の意思をさとったにちがいない。   (赤坂散歩・司馬遼太郎)

南西に駐日アメリカ合衆国大使館官舎がある。

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南部坂の石碑とともにある山田君自販機



松平三河守忠直下屋敷跡(六本木4-2-27)




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忠直は家康の次男、越前宰相秀康の子であり家康の孫にあたる。父秀康はなぜか家康に嫌われ(双子説もある)三歳まで家康と対面していなかったという。兄信康の計らいで対面を果たすが、のちに信康が殺され、次男であるのに、秀吉の養子(人質)になる。秀吉に子供が生まれると結城氏の養子になる。関ヶ原の戦いの前哨戦である上杉景勝征伐に参戦する。のち越前北の庄に入封した。

その嫡男忠直は二代将軍秀忠の三女勝姫の婿である。12歳から29歳まで越前67万石を領していた。大坂夏の陣では真田勢と正面から死闘を繰り返し、真田幸村を討ち取り、大坂城に一番乗りした。しかし家康からも秀忠からも恩賞の沙汰がないのを不服とし、次第に酒食におぼれご乱行の噂がたった。血塗られた殺人者として有名になり、勝姫は江戸に帰った。元和9(1623)年忠直29歳は北の庄より豊後萩原に配流された。その時幸村の愛馬も伴っていった。いまなお萩原では一伯さんと呼ばれ親しまれている。菓子や民謡の題材になり領民と交わり「乱行」とは程遠い姿であった。

萩原に海路で護送された忠直は府内城主竹中重義によって築造された萩原館で侍女たちと暮らした。男子の従者は許されず警護は厳しかった。
侍女のお蘭とお糸を大切にして静かな日々を送ったといわれる。
「豊後よさら節」は愛するお蘭、お糸との逢瀬に託して生きる忠直の姿を豊かに歌い上げたものである。
1 お蘭様 いかにかねつけ   しゃんしゃらめけど   夜さら寒いもんじゃ雨じゃもの 

 2 おとのさま ふりくる雨に   しょんしょぼぬれて  夜さらしのびのやみじゃもの 

3 お糸様よごとこがれて  ねむらず待てば  夜さら長いもんじゃ秋だもの
      
しばらくして、お蘭さまと娘が亡くなり、津守館に移り、56歳で亡くなった。(HP 府内観光)

市三坂
明治20年に開かれた坂で、名主の市兵衛、三河守からついた名前。

檜町公園(長州藩下屋敷)(港区赤坂9-7-9)

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突如現れた富士山 
フェアが終わると撤収

この公園は草薙君が騒動を起こした公園


長州藩の麻布下屋敷があった場所で庭園は清水園といわれ江戸の大名屋敷の中で名園といわれた。
その後第一師団歩兵第一連隊の駐屯地となり、2・26事件に加わっている。大戦後、米軍に接収、その後防衛庁の敷地になり、防衛庁が市ヶ谷に転出したあと2007年ミッドタウンとして開発され、今では池に面影を偲ぶ。

江戸時代初期に手狭になったため、幕府に願い出て、麻布龍土町に新しい屋敷を拝領した。
付近の山や谷も取り込み見事な檜林があった。
元治元年(1864)禁門の変の処分として長州藩江戸屋敷没収となった。そのとき、屋敷にいた藩士は諸藩に預けられ、うち50名ほどは病気などで命を落とした。

今の日比谷公園の北部が上屋敷、麻布下屋敷、江東区にあった中屋敷、世田谷には抱え屋敷もあった。ことごとく破壊され金、米は籾蔵へ、町火消しによる解体、書物は越中島で焚書された。




長州府中藩上屋敷跡(六本木ヒルズ)


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毛利庭園


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長府藩は萩藩の支藩である。
龍馬と寺田屋遭難のときいっしょにいた三吉慎蔵が長府藩士である。龍馬の警護を長州藩から命じられ、龍馬の死後もその妻お龍を長府で預かっていたこともある。
そして乃木希典の生誕地である。
低い湿地で、外様の小藩の屋敷は江戸中心から離れていた。

赤穂浪士は討ち入りのあと、幕命によって、その身柄を四家にあずけられた。細川家、松平家、水野家、そして長府毛利家である。細川家などは忠義義胆の士としてかれらを篤く礼遇し、その礼遇ぶりは江戸中がほめそやすほどの美談になり、そのことは講釈ダネのなかでももっともよろこばれるくだりの一つになっているが、長府毛利家が最も冷遇した。
 長府毛利家は武林唯七ら十人を藩邸の長屋に押しこめ、そのうえ、長屋の往来に面した窓に板をうちつけ、窓をつぶし、文字どおり罪人のあつかいをした。この冷遇が江戸中の評判になり、町人たちの批難をあび、のちその待遇をあらためた。それもこれもべつに底意があってのことではなく、この藩が幕府の威権をおそれ、幕命を忠実に解釈してのことにすぎず、あとになってその監禁の度あいをゆるめたのも、幕府が存外この浪士たちに好意をもっているということを知ったからにすぎない。
武林唯七は帰化人の孫である。その祖父は中国杭州武林の人で、秀吉の朝鮮ノ役で捕虜になり、日本に移住した。その子は浅野家の医官になり、唯七を生む。唯七は元禄のころの下級武士としてはめずらしく詩に長じた。その韻律が日本人離れしたほどに自然だったのは家伝として中国音を知っていたからにちがいない。

三十年来一夢ノ中
生ヲ捨テ義ヲ取ル幾人カ同ジキ
家郷病ニ臥シテ双親アリ
膝下歓ヲ奉ジテ恨ムラクハ終ラザルコトヲ
と、これは武林唯七の辞世の詩である。病床にいる両親に先立たねばならぬ哀しみを、「恨むらくは」とのべている。唯七は他の九人の同志とともにこの藩邸の広庭で切腹した。
切腹にあたって、話がある。元禄のころの長府毛利家は士風がよほどおとろえていたのか、江戸詰めで剣を使える者がすくなく、浪士の切腹にあたってそれを介錯―――首を落す―――ことができる者はわずか五人しかいなかった。唯七は切腹の座につき、長府毛利家の家士榊正右衛門の介錯をうけた。榊は唯七の背後にまわり、唯七が腹に短刀を突き入れるや、あわただしく太刀をふりおろした。しかし太刀は唯七の頭蓋の下辺に激しくあたったのみで刃が跳ねかえり、落せなかった。唯七は前へ倒れ、しかし起きあがり、血みどろのまま姿勢を正し、「お静かに」と、榊に注意した。二度目の太刀で唯七の首が落ちた。                   (殉死 司馬遼太郎)

参考:HP・ウィキペディア
        HP・江戸の散歩
by gannyan1953 | 2017-05-13 15:54 | 東京都 歴史散歩 | Comments(2)

国立科学博物館  常設展のオオカミ 

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・4・26


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大好きな日本オオカミ

私はオオカミが好きである

狼信仰




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さきほど大英自然史博物館展にいたフクロオオカミ

こちらのは少し小ぶり


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ハイイロオオカミ

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名前がわからない
左がフェイフェイかな  右がランランかな

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忠犬ハチ公
いとおしく思う


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南極犬じろちゃん

北海道に行った時訓練された場所をバスで通った

映画は泣けた・・・


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山梨県の甲斐犬





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渋谷で見つかったナウマン象の下あご



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建物が素晴らしい


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お腹がすいたので

過門香で麻婆豆腐ランチ

美味しいけど量が多かった












by gannyan1953 | 2017-04-27 14:01 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

大英自然史博物館展に行ってきた③

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・4・26


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サーベルタイガー

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大ナマケモノ  象のようにでかい



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ドードーの模型

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ドードーは不思議な国のアリスに登場する

人間が入り込んだことで絶滅した


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フクロオオカミ又はタスマニアタイガー

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動物園にいたころ・・精悍に見える
イヌ科でなくネコ科

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とにかくでかい  オオツノシカの頭骨

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美しい

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イヌイットの刀  隕石で作られている


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火星の隕石


以上

楽しかったです













by gannyan1953 | 2017-04-27 12:06 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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