歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:東京都 歴史散歩( 60 )

お江戸の赤坂と六本木


歴史と素適なおつきあい                        2010・10.8
中川歴史ウォーキング 32                      2017・6・17

お江戸の赤坂と六本木

日 時  : 2010年10月8日(金)9:50  2017年6月17日(土)9:45
集合場所 : 永田町 8番出口方面改札口(進行方向後方)


永田町~豊川稲荷~大山道~牛鳴坂~丹後坂~円通寺坂~円通寺~
TBS敷地・2・26事件近衛兵第三連隊~三分坂~報土寺~種徳寺~
本氷川坂~氷川神社~氷川坂~勝海舟邸跡地~南部坂~松平三河守忠直邸跡~市三坂~
檜町公園・長州藩下屋敷~六本木ヒルズ・赤穂浪士切腹の地




豊川稲荷東京別院 曹洞宗 (港区元赤坂1-4-7)
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愛知県にある豊川稲荷の直轄別院。本尊は荼枳尼天。稲荷といっても寺院である。
大岡越前守忠相が、赤坂一ツ木にあった自邸に勧請していたものを、1887年現在地に移転し、創建された。忠相は南町奉行から寺社奉行に異動し、三河国西大平藩1万石の大名になった。その時に勧請したと思われる。

荼枳(だき)尼天(にてん)とは、ヒンズーでは人肉、心臓を食べる夜叉である。インド密教では性を瞑想するヨーガとして伝えられている。日本の真言密教では、大日如来の霊力で善神となり、胎蔵界の外金剛界にあり、白狐にまたがる辰狐(しんき)王菩薩、貴狐天王(きこうてんのう)といわれる。
本来、稲荷信仰とダキニ信仰とは別のものであったが、「狐」を介して習合が進み、鎌倉時代には神仏両系の稲荷が並存することになった。

豊川稲荷では開運出世の福徳神といわれ、人を選ばず願望をかなえてくれるといい、江戸時代では遊女、博徒、被差別民など広く信仰を集めた。

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大岡越前が勧請した

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銭洗弁天


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叶稲荷

ここにあるお金の封筒を持ち帰り財布に入れ
一年後にお賽銭をそえてお帰しするシステム

お金に困らないという

牛鳴坂


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大山道で路面が悪く、車をひく牛が苦しんだといわれる。江戸時代、定火消しの組屋敷があり、火の見櫓があった。

丹後坂

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近くに米倉丹後守邸があった。金沢藩米倉家は横浜市に唯一本拠を置く大名で金沢区六浦に陣屋を構えていた。武州金沢藩といったが、明治になって六浦藩になった。横浜市金沢区、平塚、秦野あたりが領地で、初代藩主は米倉家四代目で柳沢吉保の息子である。

円通寺坂 

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近くに円通寺があったので名前の由来となる。  
             (港区標識)
円通寺(港区赤坂5-2-39)

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時の鐘


寛永2年(1625)赤坂三分坂上の松平安芸守中屋敷内の拝領地に開創し、時の鐘を撞いていた。
元禄8年(1695)2月の大火で焼失し、替地を他の場所に賜ることが内定していたが、時の鐘を撞くため、近くに賜ることを願い出て、現在地に寺地180坪あまりを拝領し移転した。
円通寺の梵鐘は、「十二支の鐘」とよばれ、銘文中に「鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪」の文字を使った七言律詩が刻まれている。宝暦(1751-64)ころまでは、時の鐘を撞き、地域に親しまれていた。太平洋戦争のため供出されたが、昭和50年に板橋区の寺院にあることがわかり譲り受けた。                                                              (港区文化財のしおり)

時の鐘 
城鐘、寺鐘、市中の鐘の三種類あり、江戸末期には江戸城内で本丸西丸に土圭の間があり、大きな時計があった。城中の諸行事や城門の開閉は太鼓の時報により行われた。幕府の武士の登城は朝四つ時だったが時を司る坊主はその時ごとに只今は何時と各部屋に触れまわったという。
江戸市中の鐘は江戸本石町3丁目に時の太鼓が作られ、後に鐘に取り替えられた。家康の時代には明け暮れの六つ時だけだったが、秀忠の時代に明け暮れだけでは役に立たないということで、12時を知らせるようになり、太鼓から鐘にかわった。初期の江戸中心地はこの鐘が聞こえる範囲で、その範囲の町人から一カ月一文徴収したという。     
川柳「石町でだしても同じ時の割」

寺院の鐘は仏事を修する時の合図の鐘で晨朝、日中、日没、初夜、昼夜、後夜の六つの時刻で
江戸時代中ごろには江戸庶民は寺院の鐘で時刻を知ることが多かった。現在のような定時ではなく日没を基準とする。不定時刻であった。時刻を知るには定香盤や水時計を用いた。
                                  (富山市科学博物館)

近衛兵第三連隊跡地・安芸広島浅野家屋敷跡
(赤坂サカス)


TBS、赤坂サカスの敷地は、浅野家(秀吉の正室の弟の血筋が藩祖・赤穂藩は分家)の中屋敷の跡、明治になり陸軍裁判所、監獄になっていた。その後、近衛兵第三連隊が置かれた。この第三連隊は2・26事件に加わった連隊である。昭和11年2月26日未明、前夜からの雪の中、この近衛歩兵第三連隊(TBS)第一師団歩兵第一連隊(ミッドタウン)、歩兵第三連隊(国立新美術館)の将兵を使いクーデターを起こした。
永田町と青山の中間あたりに、2・26事件で殺害された大蔵大臣高橋是清邸があった。

2・26事件は、大日本帝国陸軍内の派閥である皇道派の影響をうけた一部青年将校らによるクーデターで、元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村困窮が収まると考えていた。「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令が下されこの時点で「昭和維新」は終わった。首謀者17名は死刑、69名が有罪となった。
クーデターそのものは失敗に終わり、これ以降軍部の要望を聞き入れないと再びクーデターが起こるという危惧があった。やがてその影響で太平洋戦争にむかうことになる大きな事件であった。

三分坂
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急坂のため、通る車賃が銀三分(百円余り)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある 
読み方はさんぷん坂である。                              (港区 標識)


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山田君自販機


報土寺 浄土真宗大谷派 (港区赤坂7-6-20)

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雷電の墓


慶長19(1614)に赤坂一ツ木に創建され幕府の用地取り上げにより安永9(1780)に移転した。このころ造られた築地塀が立ち港区の文化財である。      (東京都教育委員会)
江戸時代の大関雷電為右衛門の墓がある。

「雷電為右衛門の墓」の標識の説明
 
明和4年(1767)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。天明4年(1784)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政2年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化11年(1814)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。文政8年(1825)江戸で没した。                       (東京都教育委員会)

種徳寺 単立(港区赤坂7-6-29)
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小田原北条の菩提寺早雲寺の流れの寺、で湯本の近くにあったが秀吉の小田原攻めで焼失し、文禄2(1593)年ここに移転。北条氏康の弟・為昌(玉縄城、川越城、小机城、三崎城主)の菩提寺といわれるが、北条との縁は薄いと住職が言われた。元の寺名は本光寺、のち種徳寺に改めた。
墓は高台にあり、立派なものが多い。

分部光實―分部家9代、近江大溝羽藩8代藩主

狩野定信―江戸初期の画家で、秋田狩野派の祖
堀直虎――廣顕院殿前少府令祐道靖忠大居士神儀―
信州須坂藩の13代藩主で、漢学、蘭学、兵学、砲術に長け、藩の建て直しと早くから洋式軍隊を取り入れた名君であったといわれる。外様であるが、優れた能力を認められ慶応3年26歳で、若年寄兼外国総奉行に任じられた。大政奉還後の末期の幕府で、誰もが辞退したい役といわれた。直後鳥羽伏見の戦いで大坂から逃れ、朝敵となった慶喜を迎えいれた。
幕府の今後の方針会議で慶喜に意見し、その後江戸城内で喉をついて自刃した。意見の内容は、恭順を勧めたとも、絶対抗戦を勧めたとも真相はわからない。ただ藩では恭順を勧めた諌死であるとし、官軍に同行し、東北征伐に出兵、藩の存続は認められた(HP 珈琲ブレイク・名墓録)

勝海舟邸跡 (港区6-10-39 ソフトタウン赤坂)
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海舟37歳のとき安政6(1859)年から10年ここに住んだ。龍馬が千葉重太郎と訪ねた屋敷である。土方歳三も流山で捕縛された近藤勇の助命嘆願を求めにここを訪れている。
明治元年、海舟の留守中に官軍が襲ったとき、海舟邸にいた妹の佐久間象山未亡人が毅然と応対し、危急を救ったといわれる。       (HP 土佐の歴史散歩・ソフトタウン赤坂管理組合)

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氷川神社 (赤坂6)

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立派なご神木


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勝海舟が近くの神社をここに合祀し、名付けた四合(しあわせ)稲荷



祭神―スサノオノミコト・クシイナダヒメノミコト・オオナムチノミコト
由緒は951年、一ツ木に大宮氷川神社を勧請した。境内に勝海舟ゆかりの四合(しあわせ)稲荷がある。近隣四社の稲荷を明治三一年合祀したもので、海舟が「四合稲荷」と称した。

一ツ木にあった氷川明神を徳川吉宗が現在地に遷し、社殿はそのとき造営されたものである。江戸の宮大工は東照宮の影響か装飾が多いが、この氷川神社はすっきりした佇まいになっている。
神社が遷される前は、浅野内(あさの)匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)夫人の阿久里(瑶(よう)泉院(ぜいいん))の実家である三次三万石浅野土佐守の中屋敷があった。28歳で未亡人となり、江戸本邸ひきはらいなど沈着に行い、43歳までここ中屋敷で夫の菩提を弔いつつ静かに余生を送った場所である。   (赤坂散歩・司馬遼太郎)

勝海舟邸跡 
(赤坂6-6-14)

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竜馬と海舟

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勝海舟の邸跡からでてきた茶碗など

さきほどの邸跡から持ってきた物もあれば
竜馬や土方歳三が使った茶碗があるかも



海舟が明治5(1872)年49歳から76歳まで住んでいた。この間参議、海軍卿、枢密顧問官、伯爵として生活を送った。晩年は海軍、陸軍の歴史記事を編纂し談話を速記した「氷川清話」などを遺した。                           (HP kan karu 日記)
現在「プラザ赤坂なんでーも」になっている。


南部坂

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江戸時代初期、氷川神社あたりに南部家屋敷があったため、この名がつけられた。
明暦2(1656)年に赤穂藩浅野家との間で屋敷の取り替えがあり、南部家は現在の有栖川宮祈念公園のある場所に移った。
忠臣蔵では大石内蔵助が瑶泉院に暇乞いに訪れた「南部坂 雪の別れ」の場面に設定されている。

大石は後日瑶泉院の身に災禍がおよぶことをおそれてそういう軽率なことをしなかった。ただ討ち入りの前日大石は書類を送っている。あてさきは瑶泉院付きの落合与左衛門である。赤穂藩の財務整理で残された690両を長矩の弟大学を立て、お家再興の資金としていたが、再興の望みが消え討ち入りの資金とした。その金の使途いっさいを記入した明細帳と領収書であった。
瑶泉院はこの内容で大石の復仇の意思をさとったにちがいない。   (赤坂散歩・司馬遼太郎)

南西に駐日アメリカ合衆国大使館官舎がある。

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南部坂の石碑とともにある山田君自販機



松平三河守忠直下屋敷跡(六本木4-2-27)




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忠直は家康の次男、越前宰相秀康の子であり家康の孫にあたる。父秀康はなぜか家康に嫌われ(双子説もある)三歳まで家康と対面していなかったという。兄信康の計らいで対面を果たすが、のちに信康が殺され、次男であるのに、秀吉の養子(人質)になる。秀吉に子供が生まれると結城氏の養子になる。関ヶ原の戦いの前哨戦である上杉景勝征伐に参戦する。のち越前北の庄に入封した。

その嫡男忠直は二代将軍秀忠の三女勝姫の婿である。12歳から29歳まで越前67万石を領していた。大坂夏の陣では真田勢と正面から死闘を繰り返し、真田幸村を討ち取り、大坂城に一番乗りした。しかし家康からも秀忠からも恩賞の沙汰がないのを不服とし、次第に酒食におぼれご乱行の噂がたった。血塗られた殺人者として有名になり、勝姫は江戸に帰った。元和9(1623)年忠直29歳は北の庄より豊後萩原に配流された。その時幸村の愛馬も伴っていった。いまなお萩原では一伯さんと呼ばれ親しまれている。菓子や民謡の題材になり領民と交わり「乱行」とは程遠い姿であった。

萩原に海路で護送された忠直は府内城主竹中重義によって築造された萩原館で侍女たちと暮らした。男子の従者は許されず警護は厳しかった。
侍女のお蘭とお糸を大切にして静かな日々を送ったといわれる。
「豊後よさら節」は愛するお蘭、お糸との逢瀬に託して生きる忠直の姿を豊かに歌い上げたものである。
1 お蘭様 いかにかねつけ   しゃんしゃらめけど   夜さら寒いもんじゃ雨じゃもの 

 2 おとのさま ふりくる雨に   しょんしょぼぬれて  夜さらしのびのやみじゃもの 

3 お糸様よごとこがれて  ねむらず待てば  夜さら長いもんじゃ秋だもの
      
しばらくして、お蘭さまと娘が亡くなり、津守館に移り、56歳で亡くなった。(HP 府内観光)

市三坂
明治20年に開かれた坂で、名主の市兵衛、三河守からついた名前。

檜町公園(長州藩下屋敷)(港区赤坂9-7-9)

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突如現れた富士山 
フェアが終わると撤収

この公園は草薙君が騒動を起こした公園


長州藩の麻布下屋敷があった場所で庭園は清水園といわれ江戸の大名屋敷の中で名園といわれた。
その後第一師団歩兵第一連隊の駐屯地となり、2・26事件に加わっている。大戦後、米軍に接収、その後防衛庁の敷地になり、防衛庁が市ヶ谷に転出したあと2007年ミッドタウンとして開発され、今では池に面影を偲ぶ。

江戸時代初期に手狭になったため、幕府に願い出て、麻布龍土町に新しい屋敷を拝領した。
付近の山や谷も取り込み見事な檜林があった。
元治元年(1864)禁門の変の処分として長州藩江戸屋敷没収となった。そのとき、屋敷にいた藩士は諸藩に預けられ、うち50名ほどは病気などで命を落とした。

今の日比谷公園の北部が上屋敷、麻布下屋敷、江東区にあった中屋敷、世田谷には抱え屋敷もあった。ことごとく破壊され金、米は籾蔵へ、町火消しによる解体、書物は越中島で焚書された。




長州府中藩上屋敷跡(六本木ヒルズ)


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毛利庭園


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長府藩は萩藩の支藩である。
龍馬と寺田屋遭難のときいっしょにいた三吉慎蔵が長府藩士である。龍馬の警護を長州藩から命じられ、龍馬の死後もその妻お龍を長府で預かっていたこともある。
そして乃木希典の生誕地である。
低い湿地で、外様の小藩の屋敷は江戸中心から離れていた。

赤穂浪士は討ち入りのあと、幕命によって、その身柄を四家にあずけられた。細川家、松平家、水野家、そして長府毛利家である。細川家などは忠義義胆の士としてかれらを篤く礼遇し、その礼遇ぶりは江戸中がほめそやすほどの美談になり、そのことは講釈ダネのなかでももっともよろこばれるくだりの一つになっているが、長府毛利家が最も冷遇した。
 長府毛利家は武林唯七ら十人を藩邸の長屋に押しこめ、そのうえ、長屋の往来に面した窓に板をうちつけ、窓をつぶし、文字どおり罪人のあつかいをした。この冷遇が江戸中の評判になり、町人たちの批難をあび、のちその待遇をあらためた。それもこれもべつに底意があってのことではなく、この藩が幕府の威権をおそれ、幕命を忠実に解釈してのことにすぎず、あとになってその監禁の度あいをゆるめたのも、幕府が存外この浪士たちに好意をもっているということを知ったからにすぎない。
武林唯七は帰化人の孫である。その祖父は中国杭州武林の人で、秀吉の朝鮮ノ役で捕虜になり、日本に移住した。その子は浅野家の医官になり、唯七を生む。唯七は元禄のころの下級武士としてはめずらしく詩に長じた。その韻律が日本人離れしたほどに自然だったのは家伝として中国音を知っていたからにちがいない。

三十年来一夢ノ中
生ヲ捨テ義ヲ取ル幾人カ同ジキ
家郷病ニ臥シテ双親アリ
膝下歓ヲ奉ジテ恨ムラクハ終ラザルコトヲ
と、これは武林唯七の辞世の詩である。病床にいる両親に先立たねばならぬ哀しみを、「恨むらくは」とのべている。唯七は他の九人の同志とともにこの藩邸の広庭で切腹した。
切腹にあたって、話がある。元禄のころの長府毛利家は士風がよほどおとろえていたのか、江戸詰めで剣を使える者がすくなく、浪士の切腹にあたってそれを介錯―――首を落す―――ことができる者はわずか五人しかいなかった。唯七は切腹の座につき、長府毛利家の家士榊正右衛門の介錯をうけた。榊は唯七の背後にまわり、唯七が腹に短刀を突き入れるや、あわただしく太刀をふりおろした。しかし太刀は唯七の頭蓋の下辺に激しくあたったのみで刃が跳ねかえり、落せなかった。唯七は前へ倒れ、しかし起きあがり、血みどろのまま姿勢を正し、「お静かに」と、榊に注意した。二度目の太刀で唯七の首が落ちた。                   (殉死 司馬遼太郎)

参考:HP・ウィキペディア
        HP・江戸の散歩
by gannyan1953 | 2017-05-13 15:54 | 東京都 歴史散歩 | Comments(2)

国立科学博物館  常設展のオオカミ 

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・4・26


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大好きな日本オオカミ

私はオオカミが好きである

狼信仰




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さきほど大英自然史博物館展にいたフクロオオカミ

こちらのは少し小ぶり


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ハイイロオオカミ

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名前がわからない
左がフェイフェイかな  右がランランかな

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忠犬ハチ公
いとおしく思う


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南極犬じろちゃん

北海道に行った時訓練された場所をバスで通った

映画は泣けた・・・


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山梨県の甲斐犬





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渋谷で見つかったナウマン象の下あご



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建物が素晴らしい


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お腹がすいたので

過門香で麻婆豆腐ランチ

美味しいけど量が多かった












by gannyan1953 | 2017-04-27 14:01 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

大英自然史博物館展に行ってきた③

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・4・26


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サーベルタイガー

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大ナマケモノ  象のようにでかい



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ドードーの模型

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ドードーは不思議な国のアリスに登場する

人間が入り込んだことで絶滅した


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フクロオオカミ又はタスマニアタイガー

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動物園にいたころ・・精悍に見える
イヌ科でなくネコ科

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とにかくでかい  オオツノシカの頭骨

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美しい

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イヌイットの刀  隕石で作られている


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火星の隕石


以上

楽しかったです













by gannyan1953 | 2017-04-27 12:06 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

大英自然史博物館展に行ってきた②

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・4・26


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キウイの剥製

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ペンギンのヒナの剥製




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日本アシカ
絶滅している


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大きなタカアシガニ


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何だこれはと思ったら
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粘菌・・・南方熊楠が思い浮かびます



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おむすびみたいだけど
立派な隕石
1800年代に日本に落ちた隕石だが
なぜかイギリスに保管

日本にはないので貴重なもの


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薩摩・・鹿児島に落ちた隕石



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山梨県の水晶


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愛媛県西条市の輝安鉱


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これはすごく小さなゾウムシを顕微鏡で見ながら書いたという
すごい絵

本物のゾウムシ ノミみたいに小さく私には認識できなかった


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なんともきれいな昆虫


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プラチナコガネ

金属のような光を放つ










by gannyan1953 | 2017-04-27 11:42 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

大英自然史博物館展に行ってきた①

歴史と素適なおつきあい番外編        2017・4・26

自然史博物館はロンドンに行った時宿から近かったのに
大英博物館ばかり行っていて訪問していない

今回国立科学博物館に行って満喫してきた


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音声ガイドは山田孝之君
時々あるクイズに超真面目に取り組み
全問正解!

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猫のミイラ


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サファイアのターバン留め


帰宅して気づいた
呪われたアメジスト見るの忘れた・・・

大失敗・・・・・・145.png145.png145.png


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イグアノドンの骨盤

恐竜研究の最初の頃発見された


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モア

確か手塚治虫のマンガでみたような気がする

三つ目がとおる・・・・だった


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イギリスの地質図の一部
ソールズベリーあたりで
右の方にダウントンがある

ダウントンアビーとは違うらしい


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ダーウイン筆


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始祖鳥



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始祖鳥


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すごく奇麗だった
船で世界一周しながら観察した花を書いた水彩画








by gannyan1953 | 2017-04-26 20:19 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

江戸吉原 おいらん道中を見に行った

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・4・8


おいらん道中を見に浅草に出かけた。

ところが特別公開ので伝法院の入口にむかう途中
ホッピー通りを見た
いつも並んでいるのに朝11時すぎ・・・空いてる・・・

朝からホッピー通りで飲むことに
「もつくし」に入ってまずはビールと
塩味牛モツ煮込み  すごく美味しかった
鯵のなめろうは小田原で食べた品よりおいしい。

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つきだしのウズラ  もつくし

気持ちよくなったところで伝法院へ

絵馬は写真がとれないが見応えあるものだった

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静かな庭で美しい


つぎはおいらん道中
13時からとあったが
13時半出発になったもよう


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1人目の花魁



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二人目の花魁

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助六


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吉原の狐舞い

江戸時代吉原で大晦日に狐さんが門付をしたという

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吉原の狐舞い
なかなかかわいい

かわいい!と声かけたらじっと止まってくれた

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Amazonで売ってるベビーメタルのお面
いやぁ・・・怖いな

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BABYMETAL

外国人はこの狐面がお好きらしい
浅草も外国人がいっぱい



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終わり
小雨の中 ご苦労様でした
見ることができ・・ほんとに良かった

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見物人に囲まれる犬たち
着物がよく似合う

待乳山聖天によって、花見をして


アモールへ

昭和レトロな喫茶店
地元の人も多い

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おいしいチョコレートパフェでした


おしまい

















by gannyan1953 | 2017-04-09 08:56 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

西郷山公園

歴史と素適なおつきあい番外編  2017・1・29

西郷山

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竹田城主のお抱え屋敷があり回遊式庭園があった。

明治になり西郷従道が兄の西郷隆盛のために土地を購入した。
しかし西南戦争で隆盛は亡くなり従道は別宅を建てた。
その建物は現在明治村に移築されている。
当時の面影はないが頂上の眺めが素晴らしい。


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菅刈公園
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ここに西郷従道邸があった
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池尻大橋
池尻の由来は池が終わって目黒川に流れ込む境めで、
尻は地名で境界という意味。

このさき目黒川は暗渠になり緑道となっている。



by gannyan1953 | 2017-01-29 22:58 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

ちょっとディープな目黒歴史散歩

中川歴史ウォーキング 30         2017・3・18(土) 

3月18日(土)開催します
詳しくは  中川歴史ウォーキング3月

 

 
桜にはちょっと早いけど・・江戸時代の観光地目黒を巡ります
美しくなりたい方おしろい(今ならパウダーファンデーション)ご持参で・・
14歳の円仁さん、夢にでてきたお不動さんを上手に彫ってしまった・・
お不動さんは酉年守護の仏さま
秘仏だけど酉年の秋にオープン!予定・・・酉年最強スポットへ

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目黒不動境内(目黒不動尊サイト)



集合:目黒駅・・行人坂・・大円寺・・太鼓橋・・蟠龍寺・・海福寺・・五百羅漢寺・・成就院・・目黒不動尊・・大鳥神社・・寄生虫博物館

権之助坂 
由来は①権之助さんが年貢の取り立てに苦情を訴え刑に処せられた  
②行人坂のこう配がきついので少しゆるやかな坂道を許可なく開き、刑に処せられたと伝わる。
いずれにせよ悲しい話である。

行人坂

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 大円寺で修行する修験道の行者が往来した坂で、
目黒不動の参詣道になり寺社参りが盛んになると町並みができ坂の中程には
「富士見茶屋」がつくられていた。

この坂は明和の大火と天和の大火と二つの大火と関係していることが
印象的である。

大円寺
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寛永年間(1624〜44)に湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を祀り
道場を開いたことがはじまりである。
江戸の三大大火の一つ明和の大火(行人坂大火)の火元である。
ここに五百羅漢の石像がある。
大火の犠牲者の供養のために当時つくられた。
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西運の碑

釈迦堂には鎌倉初期清涼寺式の釈迦如来立像がまつられている。

本堂には藤原期の十一面観音、山手七福神の大黒天、
阿弥陀堂には西運上人像がある。


西運は天和の大火の八百屋お七が恋をした吉三郎であるといわれている。
隣の明王院(廃寺)に住し、行人坂の改修、橋の架設を行った。
吉三(きちざ)はお七の供養に明王院から浅草まで往復約40キロを、
鉦をたたき念仏を唱えながら参る「一万日の業」を27年5ヶ月で成し遂げたといわれる。
おかげでお七が夢枕にたち成仏したと告げたので「お七地蔵尊」をつくった。

江戸の火事について

明和の大火
   江戸三大大火
明和9年(1772)大円寺の寺僧による本堂の放火から
江戸市中628町(934町とも)が燃えた。
死者1万4700人、行方不明4000名という惨事だった。

行人坂の大火ともいわれる

寺僧とあるが無宿僧による放火といわれる。
江戸に出てきて職もなく無宿僧となり、
やけになり火事場泥棒を企てたという。
真秀といい、火付盗賊改長官の長谷川平蔵の父により
捕縛され小塚原で処刑された。


火元の大円寺は76年再建を許されなかった。
幕末になって島津氏の菩提寺となりようやく再興された。

天和の大火


天和2年(1683)に駒込の大円寺から出火、死者は3500名と伝わる。

八百屋お七火事ともいわれる。
この大火で焼けだされたお七の一家は本郷の寺に避難したが
ここで寺の小姓と恋に落ちる。
家が再建され寺から戻っても忘れられず
もう一度家が焼けたら小姓に会えるかもしれないと
自宅に火をつけた。

お七は捕縛され鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた。
お七が本当に火をつけたかどうかはわからない。
井原西鶴の話にでてくる女性で実在していないかもしれない。

ただ凛とした態度で刑に処せられたことが伝わる。

長津田にも「お七稲荷」がある
ここは処刑に関係したお役人が供養したものである
長津田の歴史探訪


明暦の大火
    江戸三大大火
明暦3年(1657)江戸の大半を焼失する大きな火事になり
三カ所から順に燃え、火元のひとつは本郷の本妙寺だった。

別名「振袖火事」ともいわれ、
ある娘が寺の小姓に一目惚れ、恋煩いで寝込んでしまった。
両親は娘が哀れと思い、小姓がきていた着物の柄だった
荒磯と菊柄の振袖を仕立ててやった。

このころの小姓は娘のような派手な柄の着物をきていた。

ところがじき娘はなくなり、両親は棺桶に振袖をかけてやった。

当時は埋葬する寺男たちがそれをもらい、
それを売る習慣があり振袖は他の娘の手に渡った。

ところがその娘は病で亡くなり、次に手に入れた娘も亡くなり、
さすがに寺男たちも気になって供養に振袖を焼くことになった。

ところがたちまち強風が吹き、火のついた振袖は空高く舞い上がり
それが火事の原因になった。

この話は小泉八雲も小説(振袖)にしているがどうも真実ではなかったらしい。

明暦の大火の真実

実際のところ火元は本妙寺ではなく、
隣接した老中の阿部家であったといわれている。

老中宅が火元では、幕府の威信失墜になると、
本妙寺が罪をかぶったというのである。
本妙寺は大火から3年後に再建され、
関東大震災まで阿部家から明暦の大火の供養料として
260年に渡り奉納されていたことから推測されている。



文化の大火
    江戸三大大火

文化3年(1806)に芝から出火神田浅草まで530町に燃えひろがり
翌日降雨によって鎮火した。
家屋の焼失12万6000戸、死者1200人、
町奉行所は被災者救済のため救出小屋や炊き出し、被災者に御救出銭を与えた。

雅叙園
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雅叙園の前にお七の井戸があった

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おひな様が百階段に飾られるイベント開催中

雅叙

雅叙の前にお七ゆかりの井がある。西運がお七の菩提を念じながら水垢離をした井戸だという。雅叙園の創始者は細川力蔵という人で、銭湯に奉公し芝で銭湯を開き、不動産業で財産を築き料亭を開いたことが始まりである。国内最初の総合結婚式場である。





太鼓橋

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明和6年(1769)に石造りの太鼓の形の橋がつくられた。

つくった人は諸説ある・・・

① 西運といわれている。

② 木喰上人が1700年代につくられたといわれている。

橋は大正9年(1920)に豪雨で流された。
明王院、大円寺一帯は夕日の岡といわれ紅葉、桜の名所で
江戸の清遊の地であった。歌川広重の名所百景の浮世絵がある。


蟠龍寺
 浄土宗
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霊雲山と号し宝永6年(1709)に称明院から増上寺の僧により改名された。
弁才天は山手七福神の弁天様である。

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この中にある
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弁天様
江戸の裏鬼門で、表鬼門は不忍池の弁天様で対をなし江戸を護る弁天様である。
岩窟に石像があり、江戸時代の人気は高かったそうである。
本堂の阿弥陀如来は藤原期の寄木造で秀作である。(目黒区文化財サイト)

以前は金属の阿弥陀如来もあったらしいが、
明治初期にフランスに渡りバラバラにされた体はロダンの鋳造家によって再現され
ウィーン万博(1873)で展示された。
現在パリのチェルニスキー美術館にある。蟠はわだかまる・とぐろをまくという意味がある。龍のとぐろ?


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美しくなりたい方
このお白い地蔵に自分のファンデーションを
塗って自分も塗るときれいになれる



調べてみたら蟠龍とは


今にも飛びたとうとする龍の姿・・屋根瓦に使われるとのこと
伝説 蟠龍の北の国のお話


甘藷先生の墓
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青木昆陽の墓で享保20年(1735)に「蛮薯考」を著わし
さつまいもを飢饉の時の備荒作物とすることを
大岡忠相の援助により目黒で試作
全国に普及させた。

海福寺 黄檗宗


明から来朝した隠元隆琦(いんげんりゅうき)が万治元年(1658)に
深川に開創した寺で、明治43年(1910)に移転してきた。

本尊の釈迦牟尼仏は平安末期の作である。

隠元はインゲン豆を日本に伝えたので豆の名になったと伝わるが、
関西ではインゲン豆は藤豆のことをいい、いわゆるインゲン豆のことではないという。

隠元の教えは日本の禅宗に大きな影響を及ぼし、
豆は普茶料理に利用された。

山門前に永代橋が落ちた時犠牲になった人々の供養碑がある。
文化4年(1807)に富岡八幡宮の祭礼に人出が多く橋が落ちる事件があり
1400人が亡くなった。

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供養塔

「わぁ 橋が落ちた」
「危ない」
「押すな 押さないでくれ」

怒号も悲鳴も、はるか後方に犇めく大群衆の耳には届かない。
つかえていた前が急になめらかに動きだしたのに勢いづいて、
やみくもに寄せてくる。

押し出された心太さながら、
とめどなくこのために人が落下した。

橋杭の根元は泥深い。

あとからあとから落下してくる人体に、先に堕ちたものは押しつぶされ、
泥に埋まって窒息したし、

かろうじて泳ぎだした者も八方からからみつかれ、
動きがとれなくなって共倒れに沈んだ」。     杉本苑子著「永代橋崩落」


天和3年(1683)の梵鐘がある。
中国と日本の鐘の特徴があり珍しいものだという。


五百羅漢寺


元禄8年(1695)鉄眼禅師が開山、京都の仏師松雲元慶が木彫した。
現在305体の羅漢が安置されている。
五百羅漢を中心に深川に開創された寺で
洪水のため明治41年(1908)に移転してきた。

この寺は戦中から戦後にかけ桂太郎の愛妾お鯉が妙照尼として守った。

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お鯉(写真)とは本名安藤照という美しい芸者で、
歌舞伎役者市村羽左衛門と結婚するも花柳界のしきたりが面倒で離婚、
のち桂太郎の妾になった。

伊藤博文ら政治家たちの歴史的な事柄など身近でみてきた女性だった。
日露戦争の賠償にまつわる決定がなされ、それを不服とみなした人々が決起した
「日比谷焼討ち事件」では桂邸とともにお鯉邸も狙われたという。

桂の死後カフェを経営し政治家たちのサロンともなった。
その後帝人事件関係の小山松吉(法律家)の収賄罪で小山の収賄の証言をし、
それが偽証だとされ偽証罪に問われた。

事件後尼になりこの寺を守ったという。

成就院 天台宗 蛸薬師
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本尊がタコに支えられていることから蛸薬師とよばれる。

境内に保科正之の聖母お静の方が我が子のための
大願成就のお礼に奉納したお静地蔵がある。

保科正之は2代将軍秀忠の子だが、
嫉妬深いといわれた正室お江様から隠され、
保科家の養子になって育てられ、のち会津の大名となり
家光や幕府を支えた人である。

目黒不動尊参道は
店で賑わい
幕末には志士の隠れ家となった。

名物は筍飯で、今でも縁日の28日は賑わう。

比翼塚
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正面手前に白井権八、小紫の比翼塚がある。

白井権八は平井権八といい、お金に困ったあげく
辻斬りを働き捕縛されて鈴ヶ森刑場で磔刑になると

遊女小紫はあとを追った。

歌舞伎「鈴ヶ森」で上演され有名になった。


目黒不動尊 泰叡山瀧泉寺 天台宗


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大同3年(808)慈覚大師円仁開創と伝わる。

不動尊が夢に出てきて夢の像を彫り、
のちに中国修行中よく似た不動尊をみて
帰朝後いち早くこの目黒にきて開創したという。

湧水があり古くから不動信仰の霊地になった。

元和元年(1615)にほとんど焼失したが、
三代将軍家光の帰依で復興造営された。

家光は迷子になった鷹が戻るよう祈願したら
鷹が戻り大喜び。

目黒のさんまの話が残るほど目黒好きである。
そしておかげで江戸時代の参拝行楽の地として栄えた。

戦災で焼失し再建されたが開創以来という不動明王像は
本堂に秘仏としてまつられている。

酉年に御開張される。

戦災を免れた前不動堂、勢至堂は江戸中期の仏堂建築を残している。

弁天、恵比寿、愛染明王など数多くの仏を祀る。

独鈷の滝は湧水で水垢離し祈願成就を祈る。

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大鳥神社
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目黒の総鎮守である。

景行天皇の時代国常立命(クニノトコタチ)を祀った社があり
その子日本武尊(ヤマトタケル)が立ち寄り東夷祈願をした。

その後日本武尊の霊が白鳥となってこの地におり鳥明神となって、
大同元年(806)に社殿が建てられ、それから主祭神は日本武尊になった。

寄生虫博物館

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こんなのがお腹にいたら・・・

三田用水

江戸の6上水のひとつで寛文4年(1664)に開削、
玉川上水から分水し給水した。

明治になると水車利用や海軍の火薬工場、
明治23年恵比寿にヱビスビールを製造する日本麦酒の工場が建てられた。

開設当時は給水をめぐり周辺農家とトラブルもあった。
昭和49年(1974)に利用が少なくなり廃止された。


目黒の自衛隊駐屯地に三田用水の一部が残されており
当時の水が残っているとブラタモリにあった。

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ウイキペディアより
緑の長い屋根の建物に水路がある

田道(でんどう)

目黒村の小字で新編武蔵風土記は傳道とある。
平将門が決起するときに目黒氏を味方に誘ったが
それを断った。
その配下に田道源吾という名が出ており
田道の由来かもしれない。

あと水田の道と言う説もある。




目黒川を池尻大橋まで歩き途中西郷山公園まで
歩いた。15キロは歩いた気がするが
昔ながらの古本屋・・・おしゃれな古本屋など
興味深いお店などあり飽きさせない








参考 東京との歴史散歩:山川出版
   TOKYOパワースッポトを歩く:鈴子
   東京ディープ散歩:町田忍
   目黒区役所
   世田谷区役所


by gannyan1953 | 2017-01-25 19:03 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

高尾山にまた行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・1・14


今日は稲荷山コースで登って 琵琶滝の第6コースで下山
せせらぎに足を入れる感じで下りるので
スニーカーじゃ無理な道

でも面白かった

寒波がきているので

山頂は寒かった
おにぎりと熱いみそ汁食べて
ビジターセンターで少し暖まってから下山

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琵琶滝

滝行したい人がいて
ちょっと見てみたかった
まあまあの水量

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岩屋のお地蔵さん


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 登山口にある道標





by gannyan1953 | 2017-01-14 17:39 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

新春の浅草から吉原へ

歴史と素適なおつきあい番外編  2017・1・4

駒形堂


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今日は大好きな浅草まずは駒形堂から
この地は浅草寺のご本尊聖観音が網にひっかかり
打ち上げられた場所
船着き場があり船で参詣に訪れた人は
ここで船を降りて
最初にお参りしたのがこの駒形堂である

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駒形堂からみた景色

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境内にある古い碑
この碑、震災で埋もれてしまったのを
昭和2年に掘り出されたもの

浅草観音戒殺碑
といって
元禄5年(1692)にこのあたりで
殺生したらいけないという
御法度が発令された
その記念碑


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浅草文化センター
立ち寄ってパンフレットをゲット


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雷門から仲見世へ
少しいくと右の通りに
日本駄右衛門
弁天小僧菊之助
南郷力丸
赤星十三郎
忠信利平
白浪五人男の登場
探してみて下さい


知らざあ言って聞かせやしょう
で有名ですね

白浪五人男



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浅草の弁天堂

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ここには時の鐘があり
除夜の鐘で鳴らします

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観音のいらか見やりつ花の雲


芭蕉句碑


花の雲鐘は上野か浅草か



これは翌年の句でこちらが有名



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このわらじ足の健康を願ってと思っていたら
魔除けだそうだ

大きなわらじで重さ2500kg

仁王様の力をみせつけこんな大きな人が護っているお寺
であるという
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とても近寄れない浅草寺

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滝廉太郎のはとぽっぽ

歌詞もメロディも違うので
前で歌ってみて下さい

ぽっぽっぽ
じゃなく
はとぽっぽからはじまります

浅草寺左側 花屋敷に行く道の方に

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元禄時代からいらした阿弥陀様

存在を知らなかった
失礼しました

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日限地蔵尊
震災、戦災にもめげず残ったお堂
 浅草メロンパンを求める人の行列がすごい

あまーいにおいをかぐだけにして
反対側 浅草神社の方へ

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イチョウの木の足元はてきやさんがずらりと
並ぶ

このいちょう源頼朝が浅草寺にお参りしたときに
挿した枝から発芽したいちょうらしい
天然記念物だったが戦災で大半を失い指定を取り消されている
ところが今またよみがえっている
すごい
てきやさんの荷物置き場にして欲しくない

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待乳山聖天
の二股大根
大根を奉納するのだが
準備されてる大根はきれいな大根

以前それは艶かしい
二股大根を見た時は


これぞ聖天様にふさわしい夫婦和合の大根と
感激した

・・・だからちょっとエッチな神様だよ
って教えたのに・・・・


今では大根は体の毒素を取り除くから
健康にいいからと・・・

そうだったけ・・・

ちなみに一本250円で準備されている




奉納済みの大根はお持ち帰り下さいと
袋にはいって置かれていることがある

重いけど欲ツッパて
いただいてきた

美味しかったです



本日はありませんでした・・・


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賑わってましたから


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山谷堀

吉原に船で来たひとはここでおりて
歩いて行く道


吉原にちかづくと


土手の伊勢屋(てんぷら)並んでた

中江屋(さくら鍋)

を通り過ぎ

ジョーが待っている


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ジョーがいたのはこのいろは商店街ではなく

南千住に近い泪橋

でも今は交差点しかない

ジョーにさよならして


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もどって見返り柳

S字の衣紋坂

この道は江戸時代から変わっていない

連れが客引きに連れ込まれないよう

ガードして

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吉原神社・・吉原弁才天まできた

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関東大震災で多くの遊女が亡くなった
大門を開けなかったからといわれ非難されたが
そうじゃないという話が書いてある


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鷲神社

長蛇の列

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七福神と八社と両方あるから大変だ


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飛不動

酉年にはもってこいのお不動様

羽ばたくぞ・・・とお参り


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樋口一葉の記念館


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このあたりの門松
なかなかかっこいい


最後に行きたかった浄閑寺は
四時半でおしまい

間に合いませんでした




このあと

ちょっとディープな浅草散歩


もどうぞ

同じ道ですがちょっとディープな解説です









by gannyan1953 | 2017-01-05 18:29 | 東京都 歴史散歩 | Comments(1)



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by gannyan1953 at 21:41
長津田の大火の事を調べて..
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