歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:東京都 歴史散歩( 70 )

新宿旭町の貧民窟


歴史と素適なおつきあい番外編2017・11・18(土)






大正12年頃林芙美子は旭町(南町)にいた。




『新宿の旭町あさひまちの木賃宿へ泊った。
石崖いしがけの下の雪どけで、
道があんこのようにこねこねしている通りの旅人宿に、

一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。

三畳の部屋に豆ランプのついた、
まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、

明日の日の約束されていない私は、

私を捨てた島の男へ、

たよりにもならない長い手紙を書いてみた。



みんな嘘っぱちばかりの世界だった

甲州行きの終列車が頭の上を走ってゆく

百貨店マーケットの屋上のように寥々りょうりょうとした全生活を振り捨てて

私は木賃宿の蒲団に静脈を延ばしている

列車にフンサイされた死骸を

私は他人のように抱きしめてみた

真夜中に煤けた障子を明けると

こんなところにも空があって月がおどけていた。

みなさまさよなら!

私はゆがんだサイコロになってまた逆もどり

ここは木賃宿の屋根裏です

私は堆積たいせきされた旅愁をつかんで

飄々ひょうひょうと風に吹かれていた。』

林芙美子の「放浪記」の
一節である


林芙美子はこのあと
売春婦に間違えられそうになる

そんな場所であった・・・


ここで新宿裏町三代記を読み始めた・・
詳しい・・・

新宿旭町の貧民窟










内藤新宿南町にかつてあった
青梅街道と甲州街道の追分があり、
南に玉川上水が流れ
その上水の南が天龍寺で
南町となった

大正9年四谷区になり

旭町になった 



旭町の真ん中に天龍寺がある

東京3大スラムには はいっていないが
木賃宿が多くあった

成立は新しい

天龍寺の門前町だった新宿南町に明治20年(1887)
木賃宿営業許可がおりた

芝新網町、上野万年町、下谷山伏町、四谷鮫ヶ橋などの中心部に近い

貧民窟を少しでも遠ざけようとしたからである。

ここから南町は貧民窟になっていった。




今でも
安いビジネスホテルがある

都会の死角のように
存在する

かつては売春婦 芸人 労働者などの人々が
泊まり、その家族まで住んでいたという


江戸時代この地は普通の門前町だった

ここで暮らしていた人々は
明治になって

急速にスラム化していく町にとまどった

「新宿裏町三代記」の作者

野村敏雄さんは三代前からここに住んでいたという

昭和7年「東京市広報」によると

「旭町は誰でも知っている細民街だ
木賃宿30軒
三畳一部屋40銭
どの部屋にもナンキン虫つきで
布団にはシラミがいる

一軒平均30室以上の部屋がある
子供の泣き声
夫婦喧嘩の声
日がなけたたましい

常泊者の多くは
自由労働者
流し
テキ屋
行商人
コモソ
貰い屋など」



天龍寺は格式高い寺で開山は大雄山最乗寺で
開基は家康の側室於愛とその父戸塚忠春である

於愛の方は二代将軍秀忠を生んだ

美しい音色の時の鐘もある

幻の東京オリンピック(1940)開催のとき

マラソン選手が走るだろうと
明治通に面して立派な山門を造った


戦争で開催は中止になった


寺は明治維新の廃仏毀釈で衰退し

寺地を町民に売り
細分化された

天龍寺の前の天龍寺橋のそばに
地蔵があった

旭地蔵という

寛政12年(1800)に建てられた地蔵様だが

新宿遊郭の遊女と心中した人々の供養塔だった

それが明治12年
北にある成覚寺(じょうかくじ)に移された

成覚寺は遊女を葬った寺、投げ込み寺といわれる寺で

旭地蔵はその寺の方が居心地はいいのかもしれない



雷電稲荷神社

むかし源義家が奥州征伐にむかう途中
雷雨にあい
ここで雨宿りした

どこからか白狐があらわれ
義家に3度おじぎをした

たちまち雷雨がやみ晴天になった

それで雷電という

嘉永のころ天龍寺門前に芝居小屋があった

「熊谷」が評判だったという

雷電様の前にある玉川上水のまわりに桜を植え
花見客も増え
遊郭も客引きをした

そんなに繁盛していた雷電様だったが

街のスラム化で収入も減り
維持が難しくなり
花園神社に合祀された

それでも跡地には神社が存在する


ここに突如「花王石鹸」の話がでてくる

新宿に鉄道ができた
明治18年

品川線といわれのちの山手線になる

駅は角筈村にあった
この旭町のすぐそばである

そのころ駅の周りに家はなかった
明治になって
失業士族の授産産業のひとつ
桑畑の開墾があり
その桑畑があった

そのころ越前から
飾り職人の「村田亀太郎」が上京した

飾り職人では不況の時代生きていくことが
できず

石鹸の製造工場「鳴春舎」に入社した

そして独立

旭町に工場兼住いを決めた

ひとりで手作り石鹸を作り始めた

牛込の長瀬商店に買収され
そこで石鹸の専属技術者となる

工場長となった亀太郎はここで

「花王石鹸」第一号を作り上げた

高級洗顔石鹸である

桐箱に3個を納めて35銭で販売した

米国のコルゲート石鹸は1ダース28銭だったから、
飛び抜けて高価な商品だった

販売に成功し
工場を大きくするため
旭町から向島に移って行った

読み始めて38ページ

なかなか興味深い本である


参照:新宿裏町三代記ー野村敏雄
東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く 藤木TDC

           







































by gannyan1953 | 2017-11-18 18:36 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

新宿の闇市

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・11・10


新宿の闇市は終戦の5日後に開かれている
スゴイ!







テキ屋飯島一家の小倉二代目関東尾津組親分・・尾津喜之助が
「光は新宿より」という言葉で募集した
テキ屋なのでやくざ業ではないが
その筋には顔が利いたらしい
衆議院議員に立候補し
次選で落ちたそうだ







戦中に建物疎開地といって空き地になっていた

新宿通り南側で、高野フルーツからビックカメラのビルまであった
地図①から②
ビックカメラの場所には竜宮マーケットがあった

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ヤミ市跡を歩くより



やがて新宿通りの南北にびっしり露店が広がった

和田組は現在のルミネエストあたりにマーケットを作った

昭和24年(1949)に撤去命令がでて
甲州街道沿い
錦糸町
歌舞伎町
百人町などに移転

和田組マーケットの半数は花園神社裏あたりに
移転し

歌舞伎町、新宿ゴールデン街など
青線営業をする店もあった

青線とは赤線廃止以降の
非合法売春のことである

ラッキーマーケットは安田組が仕切り
300店ほどあった
地図④〜⑤

これらの闇市のの中心部分には
営団の土地で昭和32年営団は立ち退き訴訟を起こす

現在の新宿パレットビル(地図⑥)の地にあった
新宿西口会館の地下部分に
小型飲食店を入れることで決着する

この北の部分が現在も存在する
思い出横町である
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もともとここは個人所有の土地で
店舗に分譲されたため土地が細分化され
開発が難しく

ゴールデン街とともに今では
外国人が訪れる街になった

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by gannyan1953 | 2017-11-12 18:35 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

東海七福神めぐり 江戸を守護する二大他界ゾーン 品川編

中川歴史ウォーキング36  2018・1・20(土)

東海七福神めぐり

江戸を守護する二大他界ゾーン 品川編


もうひとつの千住編はこちらを↓




中川歴史ウォーキングで開催

募集中です






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東海七福神は品川が東京市に編入された時、

その繁栄を願って創設された



七福神めぐりをしながら品川宿に残る幕末日本を感じましょう

土方歳三や竜馬の足跡も辿って、最後に鈴が森刑場跡を訪れます

以前訪問した「小塚原」と、対をなす「鈴が森」を

「江戸を守護する二大他界ゾーン」と名付けました



                  集合:9:45 京急「北品川駅」改札口



北品川駅・・『寿老人』一心寺・・『布袋尊』養願寺・・『大黒天』品川神社・・

『恵比寿』荏原神社・・『毘沙門天』品川(ほんせん)寺・・

『福禄寿』天祖諏訪神社・・『弁財天』磐井神社・・大森海岸駅


約8キロのコースで くたびれてしまっても大丈夫

京浜急行の駅がすぐあります


土蔵相模跡


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江戸時代から旅籠「相模屋」があり土蔵相模といわれた。

御殿山のイギリス公使館焼討ち事件の首謀者高杉晋作。


久坂玄瑞、伊藤博文など幕末志士が密議をした妓楼である。

桜田門外の変の浪士もここから出発している。


戦後は「さがみホテル」となりフランキー堺主演「幕末太陽傳」のロケに使われた。


このあたりは赤線地帯だったが今、面影はない。



問答河岸の碑

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沢庵和尚は紫衣事件で出羽に流罪になった。


紫衣とは・・朝廷から高僧に紫色の法衣などを賜ることで朝廷の収入源のひとつだった。


慶長20年(1615)江戸幕府は禁中並公家諸法度を定め、

みだりに紫衣を与えてはいけないとされた。


これに反し朝廷は紫衣を与え幕府がそれを阻止したという事件で、

幕府が朝廷よりも上に立ったということを示した事件である。


その後家光は大赦で許された沢庵と接見し沢庵は家光の信頼を得た。


この河岸に家光を迎えた沢庵とのエピソードがある。


家光「海近うして 東海寺(遠海寺)はいかに」 


沢庵「大君にして将軍(小軍)と称し奉るがごとし」


その後家光は沢庵が開基した東海寺を何度も訪れた。


近くの「居残り連」は落語「居残り佐平次」に登場する店である。
人をだますことを「おお恐」といい、「おこわ」になったという。

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古今亭志ん朝の落語をYouTubeで聞いてみたが面白かった。


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人気の天ぷら屋さん  10時過ぎなのにもう開店していた


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利田神社


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寛永3年(1626)東海寺の沢庵が弁財天を勧請した。


安永3年(1774)から天保5年(1834)にかけ

南品川の利田吉左衛門により開発され利田新地といわれた。


寛永10年(1798)に暴風雨で品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑がある。

品川の港は鎌倉時代には出入りする船から帆別銭をとって、

円覚寺の造営費に当てられた。江戸時代には貝や多くの魚、海苔養殖と栄えた漁師町だった。


鯨はさすがに穫れる場所ではなかったので、

見たことも仕留めたことのない漁師たちが大勢で囲んで、

迷い込んだ鯨を仕留めた。


沖合につないだので船で見に行く人も増え、

とうとう将軍様にお目見えすることとなり、芝の浜御殿までひっぱって将軍に見せた。


その後品川にもどってきたが、腐り始めたので入札で払い下げられ解体した。

その頭部の骨がここに埋められた。


鯨はまれびと(漂着するもの)とされ死後儀礼をする文化があった。(鯨と捕鯨文化史:森田勝昭


御殿山下台場砲台跡


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台場小学校に幕末の防衛のために築かれた品川台場のひとつである。

資金不足のため海岸沿いに五稜形の砲台が築かれ、

154門の大砲が備えられた。


膨大な費用を使って築かれたが、大砲が火を噴いたのは試射の時のみとなった。


灯台は明治3年(1870)に第二台場に造られた品川灯台(現在明治村)のレプリカである。

 

埋め立てられたが周囲は道となって五角形がわかる(好奇心いっぱい心旅)


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辿ってみたが本当に五角形に道が残されている

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(好奇心いっぱい心旅)より



 一心寺  寿老人

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真言宗智山派で安政2年(1855)後に大老となる井伊直弼の開山と伝わる。

本尊は不動明王。


養願寺 布袋尊


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正安元年(1299)創建、汁慶が寛文年中に中興した。

本尊は虚空蔵菩薩で空海作と伝わる。


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お寺の煉瓦塀
ロケに使われる



小泉

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公園の碑
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井戸


寛文4年(1664)に旗本板倉主税の抱地になった地で

その後祐心の所持となり百姓地になった。

寛延(1748〜50)のころ小泉屋金左衛門の所持となり長屋を建てた。


今もレトロ感があり、あちこちに井戸がある。



品川神社  大黒天


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文治3年(1187)源頼朝が阿波から勧請し品川大明神といった。

北条高時が稲荷神、太田道灌が素戔嗚尊を祀った。

徳川家康が関ヶ原の戦勝祈願をしたことから社紋は丸に三つ葉葵とし、

家光の頃東海寺の鎮守となった。


明治になって東京鎮護の神社となった。



立派な双龍鳥居や備前焼の狛犬、富士塚は景色がいい。


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富士山に向かって合掌。

パワースポットと言われるところは一粒萬倍の泉で稲荷の奥にある。



天と地の恵みを祀りお金を洗ったり、

霊水を持ち帰って家を清めたりする。



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洗ってみました♫
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洗ったお金は隣のお稲荷さんのお賽銭に使いました


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陶製の狛犬




板垣退助の墓がある。


正徳寺

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「サチのお寺ごはん」のロケ地。

雷豆腐がお気に入りで簡単でおいしい。


水を切った豆富を油でバリバリ炒め、ネギや天かすを加え、

醤油、好みで砂糖を加える。だしつゆが簡単。



品川本陣の跡


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東海道1番目の宿で大名や公家などが宿泊した本陣跡である。

跡地は公園となって明治元年(1868)に明治天皇が行幸の際の

行在所(あんざいしょ・天皇の休憩,宿泊)となったことから聖蹟公園とよばれる。


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荏原神社 恵比寿

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和銅2年(709)丹生川上神社より高龗神(たかおかみ・水神)を勧請し、

長元2年(1029)に伊勢より天照大神・豊受大神を、

宝治元年(1274)に京都八坂より牛頭天王を、

康平5年(1062)に源頼義、義家が奥州征伐の際に当社と大国魂神社に参籠した。


今でも大国魂神社の神職はくらやみ祭の際、

当社に参詣し品川の海で禊をする。


以後源氏、上杉、徳川と信仰が続いた。


明治になり品川貴船社から荏原神社になった。


狛犬は江戸ぼたんと言われとても美しいと評判である。拝殿の屋根の龍も美しい。



品川宿問屋場 (金子ビル)正面左


継立業務を行う宿場の役所で建物内には人馬の荷物の重さを

検査する貫目改所も設けられた。

幕末の「江戸うちこわし」はここからはじまった。

慶応2年(1866)米価高騰のため近くの本覚寺境内に農民が集まり、

墓地裏の火防稲荷から太鼓を持ち出し打ち鳴らし、

むしろ旗を掲げて気勢を挙げたという。(しながわ観光協会)


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2017年に終了したジョージ秋山のマンガ

「浮浪雲(はぐれぐも)」は品川の問屋場の話である。



江戸時代の護岸遺跡

海岸線の跡



畳 松岡

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安永8年(1779)創業の畳屋で仙台藩下屋敷のお抱え職人から現在は7代目である。

神社、料亭、旅館がお得意様で江戸千家御用達である。

建物は大正6年に建てられ浜風を防ぐ形をしている。




品川寺(ほんせんじ)毘沙門天


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大同年間(806〜810)弘法大師しより創建され

本尊は観世音菩薩(水月観音・聖観音)である。

弘法大師が東国にきてこの地の領主品河氏に

水月観音を授け代々600年伝わった。


足利と上杉の戦いで品川氏は滅び町の人々に守られてきた。


太田道灌が持仏の聖観音といっしょに観音堂に安置した。


永禄9年(1566)武田信玄の北条攻めで焼失、

水月観音は甲州に持ち出されたが持ち出した武士が発狂したため戻された。




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帰国した梵鐘

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江戸六地蔵


江戸時代になると徳川家の庇護を受け大梵鐘、

江戸六地蔵といわれる地蔵菩薩も寄進された。


明治になり廃仏毀釈で梵鐘は海外に搬出したが、

大正8年(1919)スイスジュネーブのアリアナ美術館にあることが確認された。


昭和5年(1930)ジュネーブより返された。



幕府御用宿 釜屋跡 新撰組土方歳三宿泊



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建場茶屋は旅籠より安価であったためよく繁盛したといわれ、

とくに釜屋は本陣同様の門構えで幕府関係者が多く利用した。


釜屋と歳さん


歳さんは元治2年(1865)3月21日午後、

隊士募集で江戸に下りここに到着している。


4月27日新人52名を引き連れ京都にもどった。


慶応4年(1868)1月10日鳥羽伏見の戦いで破れ、

負傷者とともに富士山丸で天保沖を出航、

1月14日横浜に入港。負傷者を横浜の病院に入院させ、

15日品川に到着した。


すぐに歳さんは近藤、沖田につきそい和泉橋医学所に行く。


江戸城に登城、報告し横浜の入院費用に100両を準備、

会津藩より2000両を受け取り、

先に順動丸で釜屋に宿泊していた隊士たちに手当が支給された。


隊士たちは1月23日元日向高鍋藩主秋月右京亮邸(三菱UFJ銀行本店)に移動。


2月12日から上の寛永寺大慈院で謹慎中の徳川慶喜の護衛についている。


3月1日に甲陽鎮撫隊として甲府に向かった。


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なかなか粋な家のそばにあった山田君

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続けてあった山田君


浜川砲台跡

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商店街にある龍馬さん


土佐藩の抱え屋敷(個人で購入)があったため土佐藩も砲台の築造をした。

そのとき坂本龍馬が警備をしていたことから

20歳の龍馬像や砲台がつくられた。



浜川橋(涙橋・泪橋)

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鈴ヶ森刑場で処刑される罪人を護送する時親族たちが見送った橋といわれる。

村松友視の小説「泪橋」の舞台である。



天祖諏訪神社 福禄寿


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神明宮と諏訪社は海に面し立会川をはさんであった。神明宮は天祖神社で平安時代、

諏訪社は江戸時代といわれる。昭和40年にいっしょになった。


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カッコいい家があった
家の方が写真とっていいよと言って下さった

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浜川神社なるもの発見
入ることはできない
何か・・怪しい

調べたら


修験道寺院として天明頃(1781-1789)に
厄神大権現を祀り創祀、
明治維新で神社となり浜川神社と称した

現在先ほどの天祖諏訪神社が管理

怪しくなかった・・・ところが

了善という人が羽黒修験となり、
自宅に厄神大権現を祀ったのが当社の始まり

江戸城大奥の女中や、諸大名から篤い尊信を受けていた

天保13年(1842)に了善は町奉行鳥居甲斐神のために穽られて
流罪となった
嘉永3年(1850)放免、
嘉永5年(1852)に了善の孫大野良顕が再興
明治維新の神仏分離の際に当社は神社となって浜川神社と称し、
良顕が還俗して神職となって奉仕した。

元来地元の鎮守でないため氏子がなく、
信徒が各地に散在し講を結成している

信徒が特に多いのは、東京湾を隔てた対岸の房総沿岸地域で、
木更津から佐貫、鴨川にかけての漁村の人々の信仰を得ている

江戸期には祭日にこれらの人達が舟で東京湾を横断して
当社の前に上陸し、
その日当社に参籠して翌日
高尾山に参拝登山したといわれている
「品川区の文化財」より)

やっぱり変わった神社だった





鈴ヶ森刑場跡

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日光街道の小塚原と対をなす刑場で東海道沿いにあった。

海近くに老松があったので一本松と言われたが、

磐井神社の社に鈴石(振ると音がする)があったため

鈴ヶ森といわれるようになった。

鈴石とは鳴石、高師小僧の類いである・・・

褐鉄鉱で中の感想した粘土が遊離し音がする。


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慶安4年(1651)に開設、

10〜20万人の罪人が処刑されたといわれている。


近くの海で水磔も行われたという。

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丸橋忠也と八百屋お七が処刑された台石
 


最初の処刑者は丸橋忠弥とされる。


丸橋忠弥・・由井正雪の乱の首謀者の1人である。


関ヶ原の戦いが終わり浪人が多くなり召し抱えられないことへの不満が

ご政道への否定につながり乱が起きた。


平井権八・・同僚を殺害し逃亡するが吉原の遊女と懇意になる。

金品目的で130人の人を辻斬りしたという。

遊女小紫は目黒で自害し目黒不動の前に比翼塚がある。


天一坊・・徳川吉宗の御落胤と名乗り吉宗が否定したため処刑された。 


八百屋お七・・火事に会い疎開先で知り合った僧に恋し、

また会うために火付けをしたと処刑された。


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磐井神社 弁財天


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敏達天皇(572〜585在位)のころ創建、

貞観元年(859)に武州八幡社となった。

応神天皇を祀る。境内社に笠島弁天が祀られる。


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「三代実録」に徳川家将軍の参詣が記されている。

万葉集の


「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路超ゆらむ」


の笠島は、

磐井神社の笠島弁天のことだと大田区教育委員会は言っている。


宮城の名取愛島という意見もある。


笠島はどこも弁財天と関係するという。


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磐井の井戸


磐井の地名となった井戸があり、東海道を行く人々の喉をうるおした。

清水であれば心正しい人、塩味がすれば悪しき人といわれる。


鈴石について

磐井神社で聞いてみた・・・


鈴石と鳥石はいまでもあり、大切に祀られている。

鈴石の大きさは手で形を教えて下さった

想像より大きくサッカーボールより大きい


高師小僧ではないと思う。そんなに大きな高師小僧はないと思う。

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高師小僧  小さい・・・「ええじゃないか豊橋」より


あったあった
写真拝借

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大田区史 資料編

(大森町界隈あれこれ kan-haruの日記より)






by gannyan1953 | 2017-11-05 12:02 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

雑司ヶ谷七福神

歴史と素適なおつきあい    2017

雑司ヶ谷七福神歩き

まだ湯気が立つほど新しい七福神
歩きやすく楽しい


集合:有楽町線「護国寺駅」1番出口方面改札口


鬼子母神堂 ・・菊池寛旧居跡・・雑司ヶ谷霊園・・恵比寿 神社 ・・毘 清立院 ・・吉祥天(寿老人の代替) 清土鬼子母神堂 ・・弁 静院 ・・布袋尊 中野ビル・・ 福禄寿 仙行寺








大黒天
鬼子母神堂



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菊池寛旧居跡
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明治21年高松で出生
京大卒業後文芸春秋を立ち上げ
直木賞や芥川賞の設立者
戦争中も戦争反対を唱えた

代表作:父帰る 無名作家の日記
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山田君の自販機
夏目漱石の墓を目指す途中



雑司ヶ谷霊園

夏目漱石の墓
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他にサトウハチロー、島村抱月,ジョン万次郎、竹久夢二、泉鏡花、金田一京助、小栗忠順(ただまさ)、岩瀬忠震(ただなり)、小泉八雲、永井荷風、羽仁もと子(順不同)の墓がある。

雑司ヶ谷霊園は三代将軍家光のころお薬園となり八代将軍吉宗のころ鷹の飼育場所だった。明治7年(1874)東京府により共同墓地となった。広さは10万㎡ある。




毘沙門天
清立院

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雨乞いの松
昔雨乞いと皮膚病の祈願寺だった
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昔稲荷社は金山稲荷といわれ
ここに刀鍛冶が居住していたという


恵比寿
大鳥神社
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鬼子母神境内に鷲明神としてあったが明治の神仏分離により
この地に遷座
祭神は日本武尊


並木ハウス 裏側
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並木ハウス
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雑司ヶ谷鬼子母神の案内所
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並木ハウスの様子が2階に展示されている


学問所雑司寮明哲院
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ここではドイツ哲学のお勉強会があるらしい


大黒天
鬼子母神堂
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だんごやさんといっしょになっている
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人気の駄菓子屋さん
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弘仁元年(810)真言宗威光寺として開山、正和元年(1312)

                        

日蓮上人の弟子日源承認が日蓮宗に改宗し、

                             

威光山法明寺となった。


           

境内には「鬼子母神」(きしもじん)の石像があり安産、子育)こやす)の神として

信仰されされている

                    

鬼子母神は伊インドの神で訶梨帝母(かりていも)とよばれ、

鬼神般闇迦(はんしか)の妻になり、子供を多く生んだ。

なんと500人から千人といわれている

                           


しかし性質が凶暴で人間の子供を

奪い取っては食べてしまったので怖れられていた。



困ったお釈迦様は
鬼子母神の末子を隠し
子を失う悲しみを実感させ改心させた

お昼は境内横の「旬」
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 弁才天
観静院 

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法明寺の境内に鬼子母神や観静院がある。法明寺の塔頭として元禄年間に創立し、池袋御嶽神社の別当だった。




途中お稲荷さんがあった

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布袋尊 中野ビル  

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布袋尊像は、大正6年(19177代当主中野岩雄の弟により子像として

建立された後、中野岩雄による株式会社中野石材商店の店に祀られた。



福禄寿  仙業寺

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日蓮宗で
明治41年(1908)善行院と仙応院が合併した
 
工事中で様子わからず

どうもビルになるらしい


by gannyan1953 | 2017-09-24 18:48 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

よこやまの道

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・9・20

神奈川歩け歩けに参加  12キロ
永山駅10時10分出発  唐木田駅13時25分の新百合ケ丘行き乗車で帰宅

早い ひたすら歩く会で
余りの早さと立ち止まると歩行を妨げる
ゆえに シャッターがうまくきれない






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永山駅から永山北公園に行く陸橋

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諏訪岳三角点

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分倍河原の戦い前夜、北条軍がいた

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防人見返りの峠
「赤駒を山野に放し捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」
宇遅部黒女(万葉集 20巻4417)

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古代の古道が5方向から集まってきて交差していた、と考えられている

ここは小野路町別所と多摩市永山の境界にあたり、古道が集る五差路です。
堀切を持つ関所跡のような場所(現在消滅)、頼朝の弟・源範頼の念持仏をまつったと伝わるお寺や
鎌倉時代初期(弘安4年・1281)の大板碑、源氏の戦いの伝承地(鶴川団地)などが近くにあります。
南北朝時代頃から鎌倉や小田原などへの近道として発達したと考えられるこの鎌倉道は、
古戦場伝説や古墳が残る別所の高台(三社大権現、富士塚古墳)を乗り越えて、
野津田や金井、本町田へと続いています。
交通の要衝である小野路の宿や野津田上ノ原の先へ回り込む早道であったと考えられます。

多摩市散歩より

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鎌倉街道
両脇は大妻女子大



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土方歳三が歩いた小野路への道
いつか歩こう


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奥州につながる道

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昭和30年刀傷のある頭蓋骨が発見され
古戦場の伝説があったことから
元弘3年(1333)
新田義貞の鎌倉攻めのときの
頭蓋骨ではないかと推定された

付近の地名に

供養塚・勝負塚・対象塚、小山田小太郎隠れ穴、ひうち池などある

新田義貞は分倍河原、関戸の戦いで勝利し
関戸にて逗留し60万7千騎に膨れ上がり
三つに分けて進軍

そのひとつがこの尾根をいったと
推測されている

ここで待機していた敵軍と激戦になった


おしまい

唐木田駅から帰宅


次回は最後尾についてゆっくり写真をとることにする


ほとんどピンぼけでした





by gannyan1953 | 2017-09-20 22:30 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

麻布十番から歴史散歩

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・7・23


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ハリスさんがヒュースケンとアメリカ行使館として入った善福寺


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とてもわかりやすい


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越路吹雪さんと岩谷時子さんの碑

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福沢諭吉の墓

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逆さイチョウ

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仙台坂近くの山田君自販機

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仙台藩邸の湧き水がこの喫茶店で見ることができる

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日向(ひゅうが)坂


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三井倶楽部


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簡易保険の建物らしいが使用されていなそう・・

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イタリア大使館
ここは赤穂浪士が切腹した場所で
ムッソリーニが赤穂浪士に深く感銘し、
当時の大使により碑が建てられている
(見学不能)


以下ことらを参照
コースが同じなので





























by gannyan1953 | 2017-07-26 10:21 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

本郷歴史散歩


中川歴史ウォーキング33           2017・9・16(土)


台風の影響で雨が降るところ降りませんでした

涼しくて路地はやはり楽しかったです

いろいろな人と出会いいい一日でした



東大と本郷の文人の足跡を辿ります



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この素適な場所でめぐりあった人
私の近所で都筑民家園で琵琶演奏をなさるとのこと

できれば参加したいなと思います







集合:9:45 南北線「東大前」駅改札口(ひとつしかありません)

東大前駅・・ハチ公と上野英三郎博士像・・本郷追分一里塚跡・・鳳明館森川別館
・・本郷館跡・・求道会館・・鳳明館本館台町別館・・胸突坂・・菊坂・・旧伊勢屋質店
・・樋口一葉旧家跡・・金田一京介旧家跡・・鐙坂・・宮沢賢治旧家跡・・本妙寺跡
・・赤心館跡・・菊富士ホテル跡・・法真寺・・東大赤門
・・安田講堂・・三四郎池・・麟祥院・・かねやす





東大農正門
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ハチ公と上野英三郎博士像


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主人を8年以上渋谷駅で待ち続けたハチ公と博士の像が2015年に造られた


本郷追分一里塚
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中山道と日光御成街道の分れ道でかつては日本橋から出発して中山道最初の一里塚があった。高崎屋は江戸時代から続く酒屋で両替商も兼ねた


鳳明館森川別館
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おかみさんが玄関を見せて下さり
ご親切にしてくださりありがとうございます

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木造2階建の近代和風建築。下宿屋として建設されたが,昭和初期に下宿屋兼旅館に改造し、さらに昭和20年に旅館建築に模様替えした。各室毎に異なったつくりで,部屋の銘木に合わせた部屋名とする。下宿・旅館が多かった本郷地区の歴史的な景観を伝える。(文化遺産オンライン)


本郷館跡

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壊された本郷館

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現在の本郷館 賃貸住宅

東大生や芸大生が多く下宿した
明治38年(1905)に岐阜県出身の高橋千代三郎により本郷旅館として建築されのち
御茶の水大学女子寮になり終戦前に人手に渡り下宿となった。
2006年住人に退去を申し出たが、受け入れられず裁判になり住人が敗訴、
惜しまれる中20011年に解体された。(ウィキペディア)


求道(きゅうどう)会館
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近角常観(ちかずみじょうかん)の創設した団体が浄土真宗大谷派の教えを
寝食共にして信仰を語り合う場として建築家武田五一により建てられた。
しばらく使用されていなかったが平成14年に修理改修が行われコンサートなど行われている。



鳳明館本館台町別館
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本館が文化遺産に指定されている。
最近では純和風旅館として外国人ツァー客も多い
昔修学旅行で宿泊した人いるかも

今回も外人(白人さん)ばかりでした
英語の話せない私は寂しいかも

胸突坂
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急な坂道で昔はこちらが菊坂と言った。

本郷倶楽部
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素適な和風の建物だが
多分どこかの会社の所有


菊坂
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昔は菊畑が広がっていた。


みんなでおまんじゅうを買って立ち食い
大福は塩の利いたあんこでした

旧伊勢質店
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樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、
生活が苦しくなるたびに通った質屋。
下谷区竜泉町に移ってからも通った。
一葉が亡くなったときの香典帳に、
伊勢屋から香典が届けられたことが記されている。
伊勢屋は1860年の創立であった。

土日12寺から喫茶あり



樋口一葉旧居跡

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路地と井戸だけが昔のまま




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樋口一葉が使った共同井戸


樋口一葉(1872~1896)の旧居跡。24年間の短い生涯のうち、約10年間現在の文京区内に住んだ。
この地には、父の死後移り、母と妹を養いながらこの地の貸家で小説家として立つ決意をし、半井桃水の指導を受けながら、『闇桜』『たま襷』『別れ霜』『五月雨』などの小説を執筆した。
『大つごもり』『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』など今も読み継がれる作品や多くの和歌を残している。




金田一京助旧居跡

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言語学者で南部藩の名家に生まれ東京帝大に入学している。
ここでアイヌの知里幸恵さんが住み込みアイヌ語研究の手助けをした。
親友は石川啄木で奥さんは啄木が紹介している。


宮沢賢治旧居跡

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宮沢賢治旧居跡

大正10年(1921)25歳のとき信仰のことで父と折り合わず家出をしてここに下宿した。
東大赤門前の文信堂(現大学堂メガネ店)で筆耕や校正などで働き、
日蓮宗(国柱会)の布教活動とともに、
童話や詩を書いた。
『注文の多い料理店』の中の
「かしわばやしの夜」「どんぐりと山猫」なども執筆された。



本妙寺跡
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本妙寺跡のマンションの玄関

明暦の大火の火元ともいわれる


明暦の大火
    江戸三大大火
明暦3年(1657)江戸の大半を焼失する大きな火事になり
三カ所から順に燃え、火元のひとつは本郷の本妙寺だった。

別名「振袖火事」ともいわれ、
ある娘が寺の小姓に一目惚れ、恋煩いで寝込んでしまった。
両親は娘が哀れと思い、小姓がきていた着物の柄だった
荒磯と菊柄の振袖を仕立ててやった。

このころの小姓は娘のような派手な柄の着物をきていた。

ところがじき娘はなくなり、両親は棺桶に振袖をかけてやった。

当時は埋葬する寺男たちがそれをもらい、
それを売る習慣があり振袖は他の娘の手に渡った。

ところがその娘は病で亡くなり、次に手に入れた娘も亡くなり、
さすがに寺男たちも気になって供養に振袖を焼くことになった。

ところがたちまち強風が吹き、火のついた振袖は空高く舞い上がり
それが火事の原因になった。

この話は小泉八雲も小説(振袖)にしているがどうも真実ではなかったらしい。

明暦の大火の真実

実際のところ火元は本妙寺ではなく、
隣接した老中の阿部家であったといわれている。

老中宅が火元では、幕府の威信失墜になると、
本妙寺が罪をかぶったというのである。
本妙寺は大火から3年後に再建され、
関東大震災まで阿部家から明暦の大火の供養料として
260年に渡り奉納されていたことから推測されている。




一葉桜木の宿跡

法真寺隣に樋口一葉が父親と幸せに暮らしていた家があった。
「腰衣の観音さま、濡れ仏にておはします御肩のあたり、
膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、
前に供へし樒の枝につもれるもをかしく」と、
当時の法真寺の情景を「ゆく雲」の中で書いている。

住職さんにお会いしました
Tシャツにジーンズのいでたちで

本堂を見せていただきました


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本堂前にお狐さんが・・・なんで
家にきたいというもんだから・・・でした


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ご寄付のステンドグラス

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これはお寺の自前

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畳でなく教会のイスになっています


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仁王様は迫力あり

住職はアメリカに・・もしかしたら布教のためか
いろいろな宗教の影響も受けられたようです
ホームページにいっぱいご紹介されています







東京大学


東大の前身は徳川幕府の学問所昌平黌で、
洋学の研究機関である開成所、
西洋医学の三つがベースになり明治10年(1877)最初の大学として
東京大学が誕生その後東京帝国大学、
東京大学と改称平成16年「国立大学法人 東京大学」となった。
ここにはかつて加賀藩前田家の上屋敷があった。
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大賀ハス

東大のお土産屋さんに入ったらハスの香水の香りがしていた

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た 高い!
しかし
沖縄の戦争で泡盛の黒麹がなくなり幻の酒といわれたが、
黒麹が東大に残っていたことがわかり
1999年に作られた古酒だそうだ
ありがたいお酒だった



安田講堂
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安田財閥の安田善次郎の寄付により建設され安田講堂と呼ばれる。
反戦運動、70年安保闘争に揺れるなか帝国主義支配体制の一翼だとして
大学解体を訴える運動家を中心に全国で大学紛争が発生、
東大では安田講堂に立てこもる学生を機動隊が排除した。
20年ほど物置になっていたが1989年改修工事終了し、
スティーブン ホーキング博士の来日でこけら落としが行われた

高いビルの中のレストランへ

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窓の向うはスカイツリーです
撮れてない・・

美味しかったです
イタリアン カポ・ペリカーノ


今回は学食が空いてて
赤門ラーメンを食べてきました

完食したため少し胃もたれしました
学生と同じ量を食べてはいけませんね

中央食堂は改修中で
メトロ食堂で食べました

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三四郎池

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前田家3代のと利常が秀忠。家光父子のお成りに庭園を整備した。
心字池といわれた。夏目漱石の三四郎の舞台となったので
三四郎池とよばれるようになった

私は数年前まで三四郎は姿三四郎のことと思っていた
とても笑われた・・・
まだ夏目漱石の三四郎を読んでいない

夏休みに読もう
感想
なんだかイジイジした青年の話だった






赤門 加賀藩屋敷御守殿
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11代将軍家斉の娘溶姫が十二代前田斉泰に嫁ぐにあたり加賀藩が建造した。
屋根瓦大棟に三葉葵、軒丸瓦に梅鉢、鬼瓦は學とある



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前田家の煉瓦


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山田君の自販機

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山田君の自販機





麟祥院

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春日局(1579〜1643)は家光の乳母として有名でここは隠棲所として作られた。
墓は無縫塔(卵塔9で四方に穴があいており特異な形をしている




かねやす

享保年間乳香散という歯磨き粉を売って有名になった。
大岡越前が耐火のためかねやすを境に南は土蔵作りの塗屋にすることを命じ、
本郷もかねやすまでは江戸の内といわれた。


東京都水道歴史館

東京の水道は世界有数の水質と規模である。
家康が江戸に来て最初に行った小石川上水(神田上水)の整備に遡る。
上水道の発展の歴史を展示





by gannyan1953 | 2017-07-13 15:30 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

鎧神社〜皆中稲荷

鎧神社

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平将門に由来する
将門魔法陣
北斗七星のひとつである










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天仰ぐ狛犬



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わきの出入り口


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境内の天神社

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むかって右の狛犬正面
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右の狛犬 横から


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むかって左の狛犬




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左の狛犬 横から

皆中稲荷

当たるというので
参拝客は宝くじが当たることを
願う人が多い

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皆中稲荷は大久保と新大久保の間にあり
混雑している
 この大久保通りをまっすぐ進むと戸山公園がある

以前から気になっていた場所なので訪問

いざ戸山公園へ
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         途中の道に山田君自販機







by gannyan1953 | 2017-07-02 11:50 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

ちょっとディープな新宿散歩

中川歴史ウォーキング

な人が行きかう新宿は文人や芸術家など好んで集まり

学生運動でも有名になるなど若者の叫びが聞こえた時代もありました

今でも眠らない街といわれるディープな新宿を歩きます


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これが見たかった
ゴジラ



集合:伊勢丹正面改札口 9:45



新宿の歴史

旧石器時代の遺跡があり古くから人が住んでいた。

平安時代から平将門が関わる鎧神社や鬼王神社があり、

文献に残るものに、1340年の足利義詮から預かった「牛込文書」がある。

江戸時代、甲州街道が整備され、日本橋から次の宿の高井戸まで距離があるので、

名主高松喜六らの願いにより「内藤新宿」という宿場があいだにできた。

甲州街道を護る武士集団も四谷、新宿と配置され笹寺には抜け穴伝説もある。

宿(しゅく)は岡場所も多く飯盛り女、遊女など多く置かれ、江戸時代からすでに歓楽街の気質があった。

関東大震災の時、銀座や浅草に比べ岩盤が強かったので被害が軽微だったことから、震災後に発展をする。

戦後いち早く闇市ができ、人が多く集まった。5年後には闇市は撤去され、

跡地に雑多な店ができゴールデン街など新宿独特の繁華街が形成された。

百貨店も多くありさまざまな人々が集客し「眠らない街」といわれる。

天龍寺は江戸の町の裏鬼門の護りで、二代将軍秀忠の母方の菩提寺であり、渋谷川の水源である。

角筈(つのはず)は北条氏家臣の渡辺与兵の髪型が変だったので角筈といわれた。

大久保は大きな窪地で湿地帯だったことがわかる。

天龍寺あたりは江戸時代から芸人など身分の低い人たちが住み明治になっても貧民窟と言われた場所である。





太宗寺

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太宗寺 浄土宗 本尊:阿弥陀如来

慶長元年(1596)太宗がむすんだ草庵からはじまった。内藤氏の菩提寺として太宗寺となり、内藤氏が高遠藩に移封されても関係は続いた。湧き水があり池があったが埋め立てられたが今でも湧き水はある。

閻魔様の話

子守をしていた赤ちゃんをおんぶしていた乳母が、泣き続ける子供を連れて閻魔様のそばにきた。

「そんなに泣くと閻魔様に食べられてしまうよ」というと泣き声がピタリと止まった。乳母はホッとしたが背中の赤ちゃんがいないことに気づいた。あわてて境内をさがすと閻魔様の口におんぶ紐がぶら下がっていた・・・

閻魔像は文化11年(1814)に安置され内藤新宿のお閻魔さんと親しまれた。



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成覚寺


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文禄3年(1594)創建で内藤新宿の飯盛女を死後埋葬したことから投込寺といわれる。

飯盛女の共同墓、その供養碑である子供合埋碑(ごうまい碑)、遊女白糸塚がある。

橋本屋白糸は青山百人町の鈴木主水と情死し、

主水は家名断絶となった話を瞽女(ごぜ)のヤンレイクドキや盆踊唄に歌われ流行した。






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新宿ゴールデン街

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新宿ゴルデン街

闇市のあとが青線地帯となり飲屋街になった。多くの有名人が飲みにきていた。

昭和初期には永井荷風、直木三十五、泉鏡花、菊池寛、川端康成、大佛次郎、林芙美子。

戦後は佐木隆三、中上健次、タモリを九州から呼んだ会があり、

赤塚不二夫、山下洋輔、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊

など森田を呼ぶ会によってタモリは1975年に上京した。

ブラタモリは大変参考になる番組で森田を呼ぶ会には感謝する。


あまりに出入りする有名人が多いのでウイキペデイアを参考にしてください。


私的には好きなドラマ「深夜食堂」がここにあるという定で、実際のロケはスタジオだったらしい。

歌舞伎町

歌舞伎町

「東京産業文化博覧会」のアトラクションのひとつとして新宿コマの前身となった。

阪急の小林一三が新しい国民演劇をめざし梅田コマの姉妹劇場として建設された。

新歌舞伎といわれたのが歌舞伎町の地名になった。

昔は新宿コマの南東に鴨池があり弁天様があった。

歌舞伎町弁天といわれ今もある。


蟹川が大久保病院あたりからを水源として流れ戸山から神田上水に流れていた。

鴨池は淀橋浄水場建設ででた土で明治末には埋め立てられた。

その西には大久保町といわれ地名をみてもわかるとおり窪地があった。


そこに十二社熊野社があり、森の奥の池には美しい娘が大蛇となって住むという伝説があった。
いかにも新宿の街を象徴するように水、森、蛇、弁天とエロチシズムを感じる土地である。

新宿コマはなくなり現在ホテルグレイスリー新宿になり東宝シネマがある。

そこでゴジラが登場することになった。

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もっと離れればゴジラの顔まで写ったかも

都庁

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職員食堂スペシャル定食

「名古屋めし」


冷きしめん
味噌かつ丼
食べたら下までおりて


北展望室へ

下までおりて
南展望室へ

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真ん中の緑は
明治神宮



成子天神社


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成子天神社 祭神:菅原道真

昔柏木成子の地といわれたところに大神宮があり天照大神を祀っていた。


延喜3年(903)に太宰府で菅原道真公が亡くなり、

その徳を慕い菅公神社から像を持ち帰り、

勧請した。


春日局よりこの地を賜り平成26年に現在の社殿の造営が行われた。


富士山にみたてた富士塚がある。



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鎧神社にいく途中の
山田君の自販機


鎧神社

醍醐天皇のころ(898〜929)行基作の薬師如来が祀られた円照寺が創建され、

その鬼門鎮護のため社が創建された。


ヤマトタケルが東国平定の折立ち寄り、甲冑を隠したと伝わる。


それに加え天慶3年(940)に平将門が藤原秀郷に討たれ、

この地の人々はその死を悼み天歴元年(947)に将門の鎧を埋めたと伝わる。


またその後重病になった藤原秀郷が、将門の祟りと恐れ、薬師如来のある円照寺に参り、

この社に将門の鎧を埋めたらたちまち病が治ったと伝わる。



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天仰ぐ狛犬



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わきの出入り口


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境内の天神社

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むかって右の狛犬正面
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右の狛犬 横から


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むかって左の狛犬




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左の狛犬 横から


皆中稲荷


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皆中稲荷は大久保と新大久保の間にあり

混雑している

 この大久保通りをまっすぐ進むと戸山公園がある


以前から気になっていた場所なので訪問

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途中の道に山田君自販機





そんなには歩いていないと思うが

27884歩 18.4km
とスマホはいう

































by gannyan1953 | 2017-07-01 16:16 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

戸山公園 陸軍戸山学校跡

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・6・30



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戸山学校跡の碑


戸山公園に行ってきた


ちょっと怖くてなかなか行けなかったが
多くの人が歩き、学校帰りの小学生、
幼稚園のお迎えのおかあさんたち・・
戸山ハイツの住民なのか、ベンチなどで
固まっておしゃべり、
箱根山などまわりを
手をつないだ老夫婦が散歩していて
挨拶してくれた

もう怖くない


なぜ怖かったかというと


この近くの国立感染症研究所は
陸軍が戦時中医療の研究をした
陸軍軍医学校があった場所で
1989年に大量の人骨が発見されている

戦時中の総監は石井四郎氏




かなり恐ろしい想像ができる

発掘された人骨は

どんな人たちだったかは解明されていない

どこの国の人かもわからない

何やら税金を使って火葬をするなと
裁判になったらしい

真意は調査する為に火葬するなという意味だと思うが
敗訴し
火葬せずに納骨されたという

火葬されなかったので
目的は達成できた



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案内板

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箱根山登山口


まず現れるのが

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陸軍将校があれやこれや話をした集会場だった建物

その上に戸山幼稚園が建つ
土台に使われている


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標高44.6m

山手線内では一番高いらしい

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発行してもらわなかった

眺望はあまりない


反対側に下りてぐるりとまわってみた


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この碑はもう一段低い場所にあり
探すのに苦労した

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説明文


このあたりは
鎌倉武士和田義盛の領地だった
頼朝が亡くなってから非業の死を遂げている


江戸時代尾張藩の下屋敷となり
東海道小田原宿などの様子を造った
庭園が造られた


池を造るため掘った土を積み上げて
できた山が箱根山である

箱根山とよばれるようになったのは
陸軍用地になってからである




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これも戦争遺跡で
戸山学校の野外演奏場であった



最寄りの駅は
東新宿駅


生田の明治大学構内にある
登戸研究所はベールに包まれていたが
解放された

このさきどんな人骨だったのか
解明される時がくるかもしれない











by gannyan1953 | 2017-06-30 22:41 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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