歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:神奈川県の歴史散歩( 53 )

ビール飲み放題に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・12・10


友人のお誘いで一周年記念飲み放題2500円に行ってきた





友人と戸塚から歩いた

駅の食品売り場で
たこ焼きやら餃子やら購入


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文明堂の工場近くの山田君自販機


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工場には人がいっぱい


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荷物置いてちょっとお売りできないビールを
お持ち帰りできるということで
瓶ビールゲット!


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台車の上にお惣菜置かせてもらって

んんん・・・1人平均6杯は飲んだかな・・・



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このメモは何だ?

記憶するために写真を撮ったが
大桟橋で何があるんだろう

そっちの記憶がない・・・


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なぜか30分歩いて戸塚に戻り

また寿司屋にはいって一杯!

黄色いテープを腕に貼ったままでした

ビール飲み放題のパスポートのようなテープです















by gannyan1953 | 2017-12-11 10:57 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

ユーシンブルー

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・11・25


風邪ひいた   声でない


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ユーシン渓谷行きたーい
ユーシンブルー見たい


旦那が遊んでくれなーい

電車とバスで行こうかな

うわー ・・・1人で真っ暗闇のトンネル歩けなーい

誰か誘っていこう!










by gannyan1953 | 2017-11-25 12:07 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

川崎マリエンに行ってきた


歴史と素適なおつきあい番外編  2017・9・22


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川崎マリエンの存在を知った
すぐに行ってみた

魅力は海底トンネル

大師線「小島新田」で下りて徒歩ナビでは5.3キロ

いやいや甘かった  10時に小島新田・・・11時40分に
到着6キロ以上はあった気がする

気がするのはずっと大型トレーラーとトラックと
いっしょに歩いたからか

目の前にある
川崎マリエンにたどり着くにはぐるぐる
回り道しなければたどり着けないからか

川崎駅からバスで行くか車で行くのがベスト

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跨線橋



小島新田は明治中期に成立したらしい
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工場地の線路

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夜光の交差点を左折

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夜光の由来は日本を支えるため
夜も動く京浜工業地帯の車のライト・・・

前々違った!

川崎大師のはじまりの地であった


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千鳥橋

夜景がきれいらしい




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グレーの船が見える
自衛隊かな


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また線路

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昔の橋の遺構?


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日本触媒の工場

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ウイキペディアの写真かっこいい!




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このさきに千鳥公園がある

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ここから海底トンネル

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階段を下りて
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息がつまりそう


1人でこなくてよかった
なんか怖い

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真ん中あたり


やっと終わって地上に出たら
草ぼうぼうの公園

川崎マリエンがどこかわからない


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見えた

遠い・・・
20分はかかる


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東扇島から千鳥にむかう車用海底トンネル


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歩道橋の上にきたら
今くぐった湾岸道路


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歩道橋
ここは整備されててすっきり気持ちいい

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ちょっと近づいた


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このエネルギーでバーベキューを
するみたい


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お腹空いたので川崎マリエン隣の
食肉センターの食堂へ

このあたりラーメン屋さんと
トンカツとカレーのお店

そして目指したのはミートアイランド


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ハンバーグの定食 900円

ご飯がキラキラしておいしい

カルビ定食・・サーロイン定食と悩んだが

ハンバーグ好きなので

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やっと川崎マリエン到着

ビーチバレー練習していた


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玄関はいると巨大な鮫
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どっから流れてきたんでしょうね

近海にいたのかな・・・

展望台へ


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海ほたるが見える


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さっきランチした食肉センター


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北の方


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天気悪いので

スバルの車がアメリカのタンカーに続々
入って行く様子がおもしろく

ボー・・・と見ていたら
お腹いっぱいなので
眠くなる

人いない

静・・・・

夜9時までやっているので
夜景がきれいだろうな


帰りはバスで川崎駅へ


トラックといっしょの道は疲れるので
ここに来るにはバスがいいかもね





















by gannyan1953 | 2017-09-22 16:47 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

海軍道路を歩いた




歴史と素適なおつきあい番外編   2017・8・12

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上和田と瀬谷のサバ神社めぐりをした帰り
瀬谷の海軍道路を歩いてみた
小田急に戻らず田園都市線の「南町田」をめざす
海軍道路は日本海軍が使用しいざとなれば滑走路に
使用できるよう3キロ直線に作られた道路である
戦後2015年まで米軍が使用していた
英語の標識が多く今なお痕跡を残す

瀬谷駅を右に見ながら今回約2、7キロ歩いてみた

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桜並木は片方だけ


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米軍と農業


ここからラーメン屋さんと和食レストラン、コンビニ二軒はあった・・・


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こんなにカッコいい道路になったが飲食店なし


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日本にもどされた土地があった


このあたりで南町田にむかおうとスマホでルート検索

なぜか畑に誘われ
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左手むこうが海軍道路の桜並木

素適な道だけど1人じゃ怖い


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馬頭観音あった

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この三叉路を左折という



やっと普通の道路に出て

また街道のような細い道を行く

やっと飲食店あった

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なごみ庵 恵  突如住宅街に現れ、そば屋かと思って入ったら創作料理のお店だった

なごみランチを食べた  
今日はひとりなのに贅沢した・・・美味しかった

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246号線の歩道橋銀河橋を越えたら
日本ではじめての水道管がなぜか置かれていた

南町田はアウトレットモールがなくなり
再開発中

白い塀の続く街だった

あとで調べたら米軍使用時、1960年代に
ゲイの兵隊さんがいた。
まだアメリカでは社会的にゲイが認められておらず
迫害を怖れソ連に亡命したという
亡命した二人は国家安全保障局の存在をソ連に話してしまった

軍ではこれがきっかけでゲイを条件付きで認めたという

1969年にストーンウォールの反乱とかが起きて
社会問題になっていって2015年やっと
アメリカ全土で認められた

瀬谷がゲイさんたちを認めるきっかけになったということか
瀬谷はゲイの聖地!



















by gannyan1953 | 2017-08-12 22:23 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

境川・和泉川流域のサバ神社めぐり

中川歴史ウォーキング   2017・10・14(土)

相模のサバ神社めぐり


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境川流域にあるサバ神社群
ここだけにある神社で柳田国男も注目したという
12社めぐりは20キロ以上あるので
湘南台から高座渋谷までの神社めぐり







集合:ブルーライン「湘南台駅」改札口

④⑤⑥⑧⑨を巡ります


左馬、佐波、佐婆、鯖,左間など様々な当て字表現だが、
もとは左馬(さめ・さま)ではないか・・
祭神が源義朝源満仲で両者とも左馬頭(さまのかみ)
左馬助(さまのすけ)の官位をもっていた。
そこで軍神として祀ったのではないかといわれる。
源満仲を祀っているのは和泉地域の三社である。


源義朝
八幡太郎義家の孫、源頼朝、源義経の父である。
平治の乱で敗走中愛知県野間で討たれた。
このとき随従した家来が
鎌田正清といって都筑区の山田神社が山田城跡で
その城主と伝わる。義朝の一番の家来だった。
少年だった金王丸(こんのうまる・この近くの渋谷庄の出自で
現在は渋谷の金王神社に祀られる)で、
彼はかろうじて逃げ、頼朝の母である常磐御前に
訃報を知らせている。


義朝を殺害した人は長田忠致(おさだただむね)で
鎌田正清の妻の父つまり舅である。
野間に本拠地ち、このとき平家の恩賞目当てに義朝を殺害した。

敗走した頼朝を匿う振りをして、風呂に入ったところを
殺害した。
木刀でもあれば・・・と無念だったろう。
亡くなった野間の野間大坊には今でも義朝に木刀を捧げる塚がある。


④今田鯖神社
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祭神 源義朝
元禄15年当地井上瀬兵衛発起造立

境川を向いて神社がある。湘南台から神社は見えども
ぐるりとまわりこまないと入り口が見つからなかった


⑤左馬神社 下飯田1389
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祭神 源義朝
以前は鯖神社といった。

飯田郷の飯田五郎家義が勧請したと伝わる。

また小田原北条の頃下飯田の川上藤兵衛が武運を祈願したといわれる。

天正18年(1590)の領主筧助兵衛為春は鎮守として信仰、

社殿を修復した。境内の木々は繁茂し名木古木もある。

鎌倉道(上の道)に面していたが農道整備で参道は分断されている。

(泉区HP)

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鎌倉街道らしく道祖神、道標などある


⑥七ツ木神社


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祭神 源義朝

文禄年間(1593〜1596)渋谷義重が崇敬したという。

相模風土記に七ツ木鯖神社とある。明治7年に七ツ木に改称。


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コンクリートの賽銭箱はじめてみた
このあたり治安が悪いのか・・・


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⑧佐婆神社 
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祭神 源満仲
創建は不明。寛文年間(1661〜1672)に伊予河野氏の子孫石川治右衛門が
来住・・奉斎したとある。
「和泉往来」(明治11年)には勧請は慶長年間(1596〜1615)とある。
当時の字名は神田というので神領田があったと思われる。


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飯田神社までクネクネ歩く



⑨飯田神社 上飯田 
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祭神 源義朝・ウカノミタマ・オオヤマクイの三柱

古くは中村でこの地の中心だったと思われる。
新編武蔵風土記縞に飯田明神社・鯖明神ともいうとある。

延応(えんのう)元年(1239)飯田三郎能信が地頭になり
報弊したという。
また小田原北条のころ領主だった平山源太郎も崇敬した。

寛文12年(1672)に字新田に移転したと伝わる。


ま寛政12年(1800)北野天満宮の別当が戸塚宿で「飯田明神」の護符を

上飯田村の役人に渡した。

文化13年(1816)には神祇官領が京都からきて飯田大明神に幣帛したとある。

京都の公家、神祇官領の人々を招くことができる人物がいたと思われる。



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七観音

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⑩左馬神社 下和田
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祭神 源義朝
新編相模風土記縞に鯖明神社とある。

流域の全部のサバ神社はコチラ






by gannyan1953 | 2017-04-03 12:09 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

サバ神社に行ってきた


歴史と素適なおつきあい  2017・4・2

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町田を源流とする境川、大和を源流とする引地川
この流域に12のサバ神社がある。
左馬、佐波、佐婆、鯖,左間など様々な当て字表現だが、
もとは左馬(さめ・さま)ではないか・・
祭神が源義朝源満仲で両者とも左馬頭(さまのかみ)
左馬助(さまのすけ)の官位をもっていた。
そこで軍神として祀ったのではないかといわれる。
源満仲を祀っているのは和泉地域の三社である。


源義朝
八幡太郎義家の孫、源頼朝、源義経の父である。
平治の乱で敗走中愛知県野間で討たれた。
このとき随従した家来が
鎌田正清といって都筑区の山田神社が山田城跡で
その城主と伝わる。義朝の一番の家来だった。
少年だった金王丸(こんのうまる・この近くの渋谷庄の出自で
現在は渋谷の金王神社に祀られる)で、
彼はかろうじて逃げ、頼朝の母である常磐御前に
訃報を知らせている。


義朝を殺害した人は鎌田正清の妻の父長田忠致(おさだただむね)で
野間に家があり敗走した頼朝を匿い、風呂に入っているところを
殺害した。刀があれば・・・と無念だったろう。
亡くなった野間の野間大坊には今でも義朝に木刀を捧げる塚がある。

参考:資料



長田忠致の子孫がのちにこのあたりに配属され
祀ったサバ神社もある。
瀬谷の左馬神社らしい。
家康の家臣に長田忠勝という人が瀬谷を領地として拝領した。
藤沢市葛原んも長田氏の史跡がある。
忠勝は義朝を殺害した忠致の兄で殺害に関与はしなかったという。
拝領した土地は川の氾濫で作物がとれなかった。
そこで勧請して神社を建てたが祭神は罪滅ぼしか御霊の気持ちで
源義朝にしたのかもしれない。


源満仲
多田満仲のことで多田源氏である。
900年代の人で父源経基は、平将門と揉めた人物である。
満仲が文献に出てくるのは将門の子が入京し
その探索を命じられた武士のひとりとしてである。
兵庫県川西市あたりの多田荘を開拓し、武装集団をつくった。

その子源頼光は坂田金時(金太郎さん)や渡辺綱
(東京三田に足跡あり:綱坂がある ちょっとディープな三田の歴史散歩)を
従えた。左馬助に任じられている。


①佐波大明神

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祭神 源義朝
この神社・・パワースポットになっていて
丑の刻参りの藁人形が効果があるとか・・
恐ろしや・・・・



②佐馬大明神

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祭神 源義朝
神社庁に列せられていない私有地にある神社である。



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向うに元ドリームランドの建物が見え
のんびりした農道を行く

③鯖神社 下和泉
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社殿裏の道



祭神 源満仲
慶長年間(1596〜1615)この地の郷士清水、鈴木両氏が氏神として
勧請。
神社のすぐ下に清水製糸場があった。工場の遺構は天王森公園に移築された。
(泉区HP)

和泉には和泉小次郎や巴御前の伝説がある。
和泉だけに祭神が源満仲であることと
無関係と思えない。

和泉小次郎は和泉に打倒北条のときに城を築いた。
木曾義仲の愛妾巴御前を木曽に帰すための道を
確保したという伝承があり信濃源氏に思いを込めていた。
源満仲は信濃源氏に近く左馬助に任じられている。


④今田鯖神社
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祭神 源義朝
元禄15年当地井上瀬兵衛発起造立

境川を向いて神社がある。湘南台から神社は見えども
ぐるりとまわりこまないと入り口が見つからなかった


⑤左馬神社 下飯田1389
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祭神 源義朝
以前は鯖神社といった。

飯田郷の飯田五郎家義が勧請したと伝わる。

また小田原北条の頃下飯田の川上藤兵衛が武運を祈願したといわれる。

天正18年(1590)の領主筧助兵衛為春は鎮守として信仰、

社殿を修復した。境内の木々は繁茂し名木古木もある。

鎌倉道(上の道)に面していたが農道整備で参道は分断されている。

(泉区HP)

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鎌倉街道らしく道祖神、道標などある


⑥七ツ木神社


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祭神 源義朝

文禄年間(1593〜1596)渋谷義重が崇敬したという。

相模風土記に七ツ木鯖神社とある。明治7年に七ツ木に改称。


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コンクリートの賽銭箱はじめてみた
このあたり治安が悪いのか・・・


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⑦中之宮左馬神社
祭神 源満仲
源家龍勢の頃の勧請と伝わる。
新編相模風土記稿に鯖明神社とある。
寛永2年(1625)領主能見松平昌吉が崇敬、祈願所とした。
本殿は総欅造で彫刻が美しい。

⑧佐婆神社 
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祭神 源満仲
創建は不明。寛文年間(1661〜1672)に伊予河野氏の子孫石川治右衛門が
来住・・奉斎したとある。
「和泉往来」(明治11年)には勧請は慶長年間(1596〜1615)とある。
当時の字名は神田というので神領田があったと思われる。


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飯田神社までクネクネ歩く


⑨飯田神社 上飯田 
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祭神 源義朝・ウカノミタマ・オオヤマクイの三柱

古くは中村でこの地の中心だったと思われる。
新編武蔵風土記縞に飯田明神社・鯖明神ともいうとある。

延応(えんのう)元年(1239)飯田三郎能信が地頭になり
報弊したという。
また小田原北条のころ領主だった平山源太郎も崇敬した。

寛文12年(1672)に字新田に移転したと伝わる。


ま寛政12年(1800)北野天満宮の別当が戸塚宿で「飯田明神」の護符を

上飯田村の役人に渡した。

文化13年(1816)には神祇官領が京都からきて飯田大明神に幣帛したとある。

京都の公家、神祇官領の人々を招くことができる人物がいたと思われる。



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七観音

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樹齢500年


下和田神社の手前のけやきは立派。迎えにかわいい祠とお地蔵様
読み取れないし、なぜか狭い道に車がつぎつぎ来るので
写真撮るのに苦労した
結局渋滞を引き起こした
スーパーオーケーに訪れるのか・・・
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⑩左馬神社 下和田
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祭神 源義朝
新編相模風土記縞に鯖明神社とある。

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高座渋谷駅近くのお肉屋さんモニュメント
高座豚 特徴は鼻が短い

豚さんの形の手作りソーセージがかわいい
写真撮るの忘れました



⑪左馬神社 上和田

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祭神 源義朝・アマテラス・神武天皇・スサノオ

新編相模風土記稿に佐馬明神社とある。
かつて鐘楼があったが軍に供出した。

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神社横の道



⑫左馬神社 瀬谷区
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祭神 源義朝
新編相模風土記稿に左馬明神社とある。
かつて鐘楼があったが軍に供出した。

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十二社をまわるのに全部徒歩なので3日かかった

やっと終了!

川沿いの道、田んぼの道、畑の道、のんびりした道が多かった












by gannyan1953 | 2017-04-01 15:35 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

早野の鎌倉古道

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・3・22

お天気よく風は強かったが久しぶりのひとり探索





鎌倉道は南北にあるがそれを横につなぐ道なのか・・
尊氏道 義貞道というのかよくわからないがそんなサイトがあった



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まずはプロローグとかいうイタリアンとパンのレストランを
柿生方面向いて店の裏を右折

すると宗英寺がある

ずんずん登る
突き当たり車の工場のような・・・

道なりに右! もう車が通る道ではない

左側に



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鉄火松の碑

・・・が・・・ぽつねんとある

昭和22年に老松は枯れたそうな

鎌倉街道の並木の松ともいわれる

ここは鉄(くろがね)と早野の境で

焼けた鉄の棒で境界争いの裁断をしたという伝説がある

早野の人がしっかり焼けた鉄棒をつかんだとか・・・

痛そう・・・


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鉄火松から15mくらい進むとこんな感じ

ぐるりとまわり

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鉄火松の碑を振り返った
やっぱり・・ぽつねんとある


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遠くの建物は桐蔭大学

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進むとすぐに狭くなる

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右は工事のフェンス

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フェンスで見えないので手をのばして写真だけとってみた
何の工事かわからない

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ずっとフェンス

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尾根道

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すごく狭い

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やっと抜けて振り返ったところ


早野からもみの木まで抜けました


ここから虹ヶ丘の原子力研究所へ・・・


ヘビでなくてよかった!





by gannyan1953 | 2017-03-22 23:04 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

江の島洞窟探検

歴史と素適なおつきあい  2017・4・14

以前にも訪れましたが、今回はエスカーを利用し
そしてパワースポット岩屋洞窟へ

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相州江の嶋岩屋之図 歌川広重  江の島マニアックより



集合:9:50 小田急片瀬江ノ島駅改札でたところ

江の島1DAYパスポート 1000円を購入するとエスカー・コッキング苑・展望灯台
岩屋岩窟に入場できます
帰りはお天気よければ洞窟入口から弁天橋まで遊覧船(別料金400円)があります
天気が悪ければ申し訳ありませんが頑張って歩きましょう
帰りのエスカーはありません。階段です。



江ノ島の地形


周囲4キロ、標60m陸繋(けい)島である。

三浦丘陵多摩丘陵と同第三紀層の疑灰砂岩の上に

関東ロームる地である。

古来は引き潮のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)がれて

岸の湘南海岸と地きとなって

いて渡ることができた(トンボロ現象)。


関東大震災全体が隆起して以降は地向にある。

の周は切り立った海崖にまれ、の力をく受けるの南部には

台が発達する。


大正12年(1923)関東大震災の時の隆起で

海面上に海台が姿をし、隆起海台(岩棚)となった。

ここは光客の休憩や磯遊び、磯釣りのとなり楽しまれている。


崖の下部には断層線など波による浸食み、

海蝕洞られる所があり、

「岩屋」と呼ばれている。


さらに侵食が著しくなると、海洞が崩し、

大きな谷状の地形となる。

江のの中央部には南北から侵食がんで

分断するような地形があり、

「山二つ」と呼ばれている。



江ノ島の縁起に鎌倉の深には周40里もある湖があり、

そこには五頭龍が住んでいた。

そのの行った行は山を崩す、洪水を起こす、疫病がはやる

そして生として子供まで食べていたという。


13(552)黒雲が天を覆い、

大地震が起きて高波が村をった。

大地は10間揺れ、れがまると今度は海底が大爆を起こし、

岩を吹きばすとそこには小さながあった。


江の島である。


欽明天皇のころ(6世紀)天地が揺れ

天の暗雲から天女、海から島が出現した。


龍は美しい天女に恋をして求婚したところ、

天女が言うには「龍がおとなしくなるなら」

という条件をだされ龍は結婚し、

おとなしくなったという。


その後は日照りに雨を降らせ、

を防ぎ、津波を押し返すなど、束通り村を守った。


しかしその度に弱って行き、

最期を悟ったは片瀬山となり村を守るようになった。


これが弁才天として江ノ島明神になった。



歴史

頼朝が文覚上人と戦勝祈願を岩屋で行い、弁才天を勧請した。

建保4年(1216)に隆起し陸続きになったこともある。


北条時政は子孫繁栄を願ったところ

美女に姿をかえた龍神があらわれ願いをかなえると約束した。


それが北条氏の家紋が三鱗になった由来だという。


室町時代に関東管領山内上杉氏と鎌倉公方足利成氏(しげうじ)が

鎌倉幕府主導権を争い江ノ島合戦が行われた。


その後成氏は下総古河に退去した。


16世紀になると後北条氏が治めた。


戦国時代は後北条氏の直轄か

公界所(くがいしょ・誰にも属さない俗界から離れた聖なる場所)

であったか定かでない。


徳川幕府になると岩本院と上の坊、下の坊と

本山争いが起こり


岩本院が地位を確立した。




江戸時代の江ノ島の信仰、観光は人気をよび、

観光収入を巡っての争いだった。



江ノ島は江庶民の行地として

大山- 江の鎌倉金沢八景光ルトが流行した。


明治になると神仏分離で宗像三女神を祀る

辺津宮(へつみや)、中津宮、奥津宮、岩屋は

江ノ島神社に改められた。


明治20年(1887)の通、

明治35年(1902)江之島電気鐵道通は

江のに多くの光客をぶことになり、

鎌倉まで全通すると、


江の鎌倉光ルトが立し、

修学旅行などわうようになった。


関東大震災で島全体が2m隆起し、

岸の津波被害が著しく、内のほとんどの建物は倒した。


江の島桟橋は津波で流失する。


震災の復興む中、昭和年(1929)には

小田急江ノ島線通し、

観光地発展のきっかけを作った。


現在の江ノ島サムエル・コッキング苑 (入場料200円)は

明治13年(1880)

アイルランド人貿易商サムエル・コッキングが

金亀山与願寺(現在江島神社)の菜園を買収し

2年後植物園を開館した。


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眺望



関東大震災で荒廃した。


戦後江ノ島鎌倉観光(江ノ島電鉄)による観光開発で今に至る。

和洋折衷の庭園である。


今あちこちで見られるタイワンリスは

ここで飼われていたリスである。

昭和の時代に台風のため飼育室が破壊され、

逃げたリスが繁殖してしまった。



青銅鳥居

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コック苑郷土資料館

延享4年(1747)と文政4年(1821)の銘がある。


正面の額は蒙古襲来に勝利した記念に

後宇多天皇の勅額の写しである。



岩本院

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鎌倉時代の「岩本坊」は、のちに「岩本院」となり、

江の総別めた。


文久2年、「岩本院の稚あがり、普段着なれし振袖から、

田に由比ヶ浜」の台で有名な、

河竹阿弥の「白浪五人男」の舞台として取り上げられた。


歌舞伎の白浪五人男に登する「弁天小僧」は、

岩本院の稚がモデルであるとも言われている。


その他、芝居、講談、小など、数々の名作に

岩本院の名は取り上げられ、

740年余りのきにわたってく世にがれてきた。



随神門

朱の居の正面、石段を上ったところにある龍宮城を

模した楼


人々が瑞々しい心でお参りできるようにと名付けられた。


壁や天井には、片岡華陽が描いた牡丹や唐子の画が

られていますが、

子はご祭神の守と参者に厄がふりかからないよう、

の意味がめられている。


をくぐると、江神社ご1450年を念して

奉献された「弁天童子石像」がある。



辺津宮

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祭神は田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)。


良信(鎌倉大仏の落慶供養を行っている)が実朝に願い、

創建された。


延宝3年(1675)に再建された。


屋根の社紋は江島神社の向かい波三鱗が見られる。


高低差のある江ノ島の一番低い場所にあることから

下之宮と呼ばれた。


奉安殿(200円)には日本三弁天の

八臂辨天(はっぴべんざいてん)と

裸弁天といわれる妙音弁才天が祀られている。


賽銭箱は巾着型をしており、

相模彫りといわれる独特の彫り物で

昭和34年(1959)に地元商店の奉納でお賽銭をいれると音が出る。



福石

瑞心から石段を数段上ったところにある。


出身の杉山和一(校)は、

幼少の病が原因で失明してしまい、

で身を立てようと意する。


ところがうまく覚えられず修行に入った学校を破門される。


そこで江のにこもり21の断食をして

の技を祈した。


満願の日のり道に、この石につまづき倒れを失ってしまう。


そのの中に弁天がれ、

手を合わせてもうとしたところ、チクチクと身体を刺すものがあった。


からめた和一が、手にとっていたのは

の入った竹の筒。


これをヒントに和一は、

管鍼術(くだはり・かんしんじゅつ)を考案、

開業しておおいに繁盛した。


和一の献身的な施術を受けた徳川綱吉も感心し、

「ほしい物は何か」と尋ねたら


「ひとつで良いから目が欲しい」と答え、

かわりに本所の一町を拝領した。


屋敷内には弁才天が勧請されている。

今も墨田区に江島杉山神社がある。


和一は視覚障害者の組合もつくった。



江の島弁才天道標

福石のそばにある石柱。


杉山校が、参者が道に迷わないよう、

宿から江のkmの参道に建立した48基の道のひとつ。


の正面には「ゑのしま道」、

面には「一切生」「二世安」と刻まれている。



杉山検校の墓


福石のの道を入り朱りのを渡ったところにある。


元禄七年(1694年)に没し弥勒寺(京都墨田区)に葬られるが、


一周忌に人の三浦安一が、

杉山校にゆかりの深い江のに、笠塔婆型の墓を建立。


墓の前の灯は、吉の吉保室が寄したものといわれる。



中津宮

祭神は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。


元上之宮で文徳天皇仁寿3年(853)に慈覚大師が創建した。


元禄2年(1689)五代将軍綱吉により

再建された社殿である。


奉安殿の弁才天は神仏分離前まではこの中津宮にあった。


歌舞伎「市村座」と「中村座」が奉献した一の石燈籠がある。



奥津宮

祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)。


三姉妹の長女で海を守る神様である。

岩屋に近く昔は本宮・御旅所といわれた。


社殿は壮麗だったが天保12年(1841)に

焼失、翌年再建された。


拝殿天井には酒井包一による八方睨みの亀が

描かれていて、

実物は保管されているが復元されたものが見られる。


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岩屋洞窟(入場500円)


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コック苑郷土資料館


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コック苑郷土資料館


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コック苑郷土資料館


海蝕洞「岩屋」は、昔から宗教的な修行の場となった。


奈良時代には役小角が、

平安時代には空海、円仁が、

鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、

江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。




寿永元年(1182)に源頼朝の祈願により文覚が

弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、

代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。


鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、

参詣されてきた。


弁才天は水の神という性格を有し、

歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども

数多く参拝した。


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ことに音曲に関連する職業に多い視覚障害者の参拝も見られ、

中でも関東総検校となる杉山和一の存在が大きい。



参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、

関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。



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以下コック苑郷土資料館より
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聖火が通ったんだ



参考 神奈川の歴史散歩:山川出版 

ひげの梶さん鎌倉を歩こう:梶本晃司 

岩本楼HP シーキャンドルHP 

江の島マニアック 江島神社HP 

ウィキペディア 湘南なぎさパーク

コック苑郷土資料館


by gannyan1953 | 2017-03-04 15:10 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

市が尾から早野の歴史散歩2017

中川歴史ウォーキング31  2017・5・20(土)

歴史と素適なおつきあい2005年6月10日



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線刻画古墳


集合:9:54田園都市線「市ケ尾駅」西口

市ヶ尾~(地蔵堂~市ヶ尾横穴古墳群)~広田花崖~寺下遺跡~薬王寺~稲荷前古墳~鳥見役井上家跡~女学生の家~田園の憂鬱文学碑~〜名主村田家〜桐蔭大学交流会館にてランチ~鉄火松~戒翁寺~殿様墓~義民・今蔵~横浜線画古墳~石仏群~子の神社~馬取橋(6、5キロ)
〜麻生新町からバスで市ケ尾駅




地蔵堂 

創建:江戸初期 本尊:木の地蔵菩薩 開山:宝歴元(1751)年以前。
大山道に面し十体の地蔵が並んでいる。統誉上人が千日の托鉢によって作られた
「千日堂」とよばれる本堂がある。
毎年11月30日、双盤をならし地蔵菩薩を開帳し念仏を唱える。市の無形文化財指定。


市ヶ尾横穴古墳群

6~7世紀頃の横穴式共同墓地。昭和8(1933)に発見された。
元は杉浦氏(綿屋)の山で屋敷はこの古墳の下にあった。
横穴墓の前に広場があり刀、土器などが発掘された。
先祖を祀る祭祀場であったと思われる。
この「前庭部」発見は全国でもはじめてで、以後の研究に進展をもたらした。
横穴の内部は造られた時代によりさまざまな形をしている。


*綿屋  大山道の宿屋で明冶10年ころ近くの「石橋」からの火事で焼失、
再建され現存する。

*石橋茶屋跡  江戸時代大山道の茶屋を営んでいた。
明冶10年の火事で焼失。佐藤春雄の「お絹とその兄弟」のお絹は一時ここで働いた。


広田花崖(1887~1951)山房

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廣田新聞
ひろたりあんにはしょっちゅうお世話になっています

本名:鉄五郎。明冶20年都筑郡中里村下谷本(藤が丘)に生まれる。
中郡(平塚)立農学校を卒業。下宿の傍らを流れる花水川の崖に咲く桜の花から
つけられた名前である。
陸軍技手として赴任した宮城県でトロッコから転落、下半身麻痺となり
車椅子の生活となる。
市ヶ尾に土地を買い独立、文筆生活にはいる。
33歳の時「横浜貿易新報」の通信部を開設する。
チベットといわれるこの地域をバイクのサイドカーに乗って取材した。
代表作は「田園」鉄小学校の校歌。刊行物は農業、キリスト教、
少年向け科学小説、新聞小説、短歌など広範囲であった。

64歳で他界。柿の木台に墓がある。



*横浜貿易新報

現神奈川新聞で貿易商組合の機関紙がはじまり。
神奈川県下で75%の占有があった。
横浜文化の育成に貢献した。

余談だが、横浜はジャズ発祥の地といわれる。
大正14年奇術師松旭斎天勝一座が渡米し帰朝した時の公演で
ジャズ演奏があったと横浜貿易新報が伝え、
公的に記事がでたのはこれがはじめてということで、
ジャズ発祥の地といわれる要因となった。

*広田新聞

大正12年花崖が創業した。
文化伝導のため新聞配達を天職と思えと新聞配達店を開いた。




元薬王寺と寺下遺跡
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寺下遺跡はもうない
元薬王寺は江戸時代、東泉寺といった。
その後寺が焼失し、江戸末期に薬王寺となる。
寺下遺跡は稲荷前古墳と同じ稲荷前という地名にあったが、
稲荷前古墳が先に発見されていたため寺下と名付けられた。
縄文、弥生の住居跡、13、14世紀の板碑、土器など多数出土した。
平成13年度発掘。



薬王寺 
王禅寺末 真言宗豊山派
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幡鐘

元薬王寺全焼のため現在地に移転。


稲荷前古墳

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15号 方墳
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16号 前方後円墳

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16号からの景色
ここは古墳の上に立つことができる

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これが17号かと思ったがどうも違う

高さ60mの丘に築かれた10基の古墳と9基の横穴墓が分布。
ここは前方後円、前方後方、円、方墳、横穴墓と古墳のすべての種類がそろっているので「古墳の博物館」といわれていた。

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昭和42(1967)年に住宅地造成中に発見された。
4世紀から7世紀にいたるさまざまな古墳がある。
この地域に古墳群はなくここは都筑の中心地であったと思われる。

橘郡の観音松、加瀬白山、荏原郡の田園調布、宝莱山古墳では
鏡、多数の玉類、剣や刀などの武器類が発掘されたが
一号墳の発掘品は大変質素であったため
橘郡、荏原郡の支配者より一段下位であったと思われる。

一号墳の発掘によって謎につつまれていた4~5世紀の都筑の様子がはじめて知られ、
古代横浜の歴史を書き換える発見であった。
15、16、17号古墳が残されている。

16号は最も古く4世紀後半といわれている。

*鉄(くろがね) 畦曲という意味で畦(くろ)、畦道が曲がっているという意。


鳥見役井上家跡

もとは阿部姓であったが、天正18(1590)年頃
百姓、井上として鉄に住みついたといわれる。

寛永の頃加賀百万石前田家の鳥見役、鷹師役となり
元禄6年まで50年以上鷹場の管理をした。
13代晴之助は鉄小学校初代校長。
現在17代健二氏がセブンイレブンを経営している。



女学生の家
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 佐藤春夫の著作「田園の憂鬱」にでてくる女学生、
金子美代子17才の家。

「この村に帰省していた女学生、それはY市の師範学校の生徒で、
この村の唯一の女学生は夏の終わりに、
彼の妻と友達になったが間もなく喜ばしそうに、
その学校のある都会へ彼の妻を取り残して帰っていった。」


金子家

鶴見川流域歴史散策の著者金子勤氏の生家。



田園の憂鬱文学碑
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 昭和57年金子美代子さんが建てたもので、
題字は佐藤春夫の姪竹田竜児の書。
竹田氏の奥さんは谷崎潤一郎の長女鮎子である。
姪は古くは甥の意もあった。

*佐藤春夫(1892~1964)

和歌山新宮町の医者の家に生まれる。
中学時代に生田長江(評論家)、与謝野鉄幹(歌人・詩人)と知り合い
文学をめざすようになる。

慶応大学に入るが退学。
文学に行き詰まり油絵にむかうが神経衰弱が悪化し、
療養のため中里村(鉄町)に同棲中の女優と犬2匹を連れて転居をした。

ここで「田園の憂鬱」がうまれる。

谷崎潤一郎の妻千代子と恋愛騒動を起こし谷崎と絶交する。
谷崎の浮気、家庭を顧みないことなど千代子に同情し、
恋愛にいたったものといわれる。

一旦谷崎は二人の恋愛を認めるが小田原で翻り絶交にいたる。
その後春夫はタミと結婚するが別れてしまい、
谷崎の妻千代子を譲りうける。

「谷崎千代子は谷崎潤一郎と離婚し娘鮎子をつれて佐藤春夫と再婚する」

と3者連名で発表、「細君譲渡事件」といわれた。

「あはれ 秋風は 情(こころ)あらば 伝えてよ
夕餉にひとり さんまをくらひて 思ひにふけると」秋刀魚の歌
 千代子夫人への思いを歌った歌である。新宮に碑がある。

門弟三千人といわれ、後輩から慕われた。
72才自宅でラジオ番組収録中、心筋梗塞で亡くなる。


  
名主 村田家
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 中鉄村の名主で完全に近い家系図がある。
傘状血判書、小田原北条からの古文書、高札などが保存されている。

戦国時代初期西国から村田兄弟3人が鉄、上谷本(みたけ台)に定着した。

現在当主は17代で、初代村田祥本は祥泉院を開基、
14代信十郎は近くを流れる小川の上に隠居所を建て、
明冶末期に亡くなった。

そこへ大正5年まだ無名だった佐藤春夫が引越してきて「田園の憂鬱」を書いた。

*谷本
谷川が中世にここの山根を流れていたからといわれる。

*金子 勤氏
今回の鶴見川流域散策の資料となっている「鶴見川沿い歴史散歩」の著者の生家が、
「女学生の家」の後ろにある金子家であると、
畑仕事をしている方からお聞きした。

鉄小、厚木中、高から早稲田大学卒業。
著書に「大山道今昔」「風車のまわる異人館」「佐藤春夫の作品とその背景」などがある。




桐蔭学園

創立昭和39年。
この土地は元臼井英一家他の土地で昭和30年頃日清製粉社長正田さんに売却、
後に東急電鉄の要請で桐蔭学園に売却された。
皇后になられた正田美智子さんも学生の頃、臼井家に遊びにこられたこともあった。

交流会館でランチして、トイレに入ったらドアにこんなものが・・・
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*早野

訛って「へえの」という。近くの稗原も「へえばら」という。




鉄火松 
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 鎌倉古道で鉄と早野の境の峠である。鉄火とはバクチの事で、
峠でよくバクチが行われた。

古銭が多く出土した。松は昭和18年頃枯死した。

昔 早野と鉄の境界でもめ訴えがあった
そこで熱した鉄の棒を持って持てた方が勝ちという裁断があり
早野の人が持つことができた
その裁断を行った場所が鉄火松であるという

鎌倉古道

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鎌倉街道は南北に走るがそれをつなぐ横道と思われる

義貞道 尊氏道ともいう




戒翁寺 曹洞宗
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 天正年間(1953~)草庵、開基は寛永5(1628)年
早野領主・旗本富永重吉である。

開山は貴山玄頓。本尊は如意輪観音(応永年間)。
境内には庚申塔、六地蔵、守谷宇吉句碑がある。



殿様墓
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早野領主・富永主膳安吉3代の墓がある。


早野  川崎市麻生区早野

川崎にある早野の古文書に、杢衛門の子長左衛門親子が不届きな行為をしたので、所払い、田畑取りあげの沙汰がおりたとある。

執行者は知行主富岡氏だと思われる。江戸時代は一領一家中において支障のないときは「自分仕置」をして中央にお伺いをたてる必要はなかったといわれる。
遠島の罪の場合領内に島がなかった場合牢屋にいれるか親戚お預かりとなったという。



義民・今蔵 杉本宅にあり、見学不可


 早野守谷家から夫婦養子に杉本家にはいり
百姓代として池土揚場の件で雑用金納入を不満とし、
江戸の領主に籠訴・直訴した。
3年入牢され12月30日に帰宅した。
杉本家は喜んで、31日に正月飾りを作り新年を迎えた。
当家では今でも31日に飾りを作っている。




横穴線画古墳 早野聖地公園内 見学不可
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奈良時代、8世紀の技法で昭和45年に発見された。
中には線で描いた絵が見つかっている

溜池が多い

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                五郎池 

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中ノ池

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林ヶ池



*掘敷料争い

文化5年早野をとおる用水掘の使用料をめぐっての争いで、
早野村の飛び地(中鉄曲り松)から使用料を毎年一石八斗支払うことになっていた。
この年凶作のため減石を願い出たが早野は不服としたので、
鉄は評定所に訴えたとある。(下鉄金子文書)


参考 鶴見川沿い歴史散歩:金子勤・鶴見川流域の考古学:坂本彰
   HP月間国語教育:清水節冶・HP広田新聞・HP横浜線沿線散歩
by gannyan1953 | 2017-03-03 15:21 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(4)

小田原 北原白秋の童謡散歩道「からたちの道」

歴史と素適なおつきあい          2017・2・10

日本の唱歌「からたちの花」の道を歩く
北原白秋お気に入りの散歩道である
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からたちの花





9:50 小田原駅西口集合

「いこいの森」行きのバス10:10・・・水の尾・・白秋童謡の道入口・・
野外劇場の観客席・・からたちの花碑・・御鐘台・・蓮船寺・・この道
・・砂山・・伝肇寺(でんじょうじ)・・(昼食)小田原漁港・・あわて床屋・・あめふり・・白秋童謡館


高長寺
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北原白秋と美那子の墓

北村透谷は明治27(1894)東京芝で自ら亡くなった
白金台の瑞聖寺(黄檗宗)に墓があったが、
60年後ここに移された
ここは昔からの北村家の墓地だった

自殺という亡くなり方が代々続く墓に
入れなかった理由だろうか

小野路から薬師池
北村透谷を参照



北原白秋(1885〜1942)
詩人・歌人・童謡作家


福岡県柳川の裕福な家に生まれ、南蛮文化をとりいれた
異国情緒豊かな町で育った

早稲田に入学するもすぐ退学し、与謝野鉄幹主催の

新詩社にはいる


芥川龍之介に絶賛され、文芸雑誌「朱
欒」(ザンボア)を創刊



隣家の人妻と恋に落ち姦通罪で市ヶ谷未決監に2週間勾留された

このスキャンダルで作家としての地位を失墜、
柳川大火で実家も破産し
失意の中城ヶ島に家族で移り住み

「城ヶ島の雨」を作詞

隣家の人妻だった俊子と結婚・・・俊子の病気療養で小笠原父島に転居するも

俊子と離婚

のち章子と結婚し小田原に住む

小田原で家を建て童謡の作詞を多くした

最後に結婚した菊子との間に長男が生まれている
東京下谷に住んだ


白秋童謡の道

小田原に住んでいるときに多くの童謡を作詞した白秋にちなみ
「からたちの道」として道が整備された

歩いてみたら、小田原城の外堀跡が多くあった

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この黄色の線が外堀で上部がからたちの道と重なる



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堀切
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外構の説明
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外構の説明

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小田原城の外郭最高地点




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外郭の説明
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白秋の碑



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からたちの木が一本だけあった

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野外劇場のかきねの裏側にからたちがあった
まだつぼみ
1017年4月15日撮影




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景色のよさに白秋が名付けた
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野外劇場の景色

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蓮船寺
新幹線が通るため板橋から
この地に移転した
北条時代からある古い寺


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蓮船寺の横にある堀切


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伝肇寺


正安2年(1300)に無極斎が創建した

大正時代 白秋はこの寺の住職を頼って
この地に住み着き
みみづくの家をこの寺に造った

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小田原文学館

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庭にある北村透谷の碑

島崎藤村が建てた



















by gannyan1953 | 2016-12-25 11:53 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)



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