歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:岐阜県の歴史散歩( 7 )

印食(いんじき)城

歴史と素適なおつきあい番外編   2016・7・28

岐阜から各務原に向かった
途中
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昨日も印食地名見た

ここは「かみいんじきながれ」という

妙に気になり
調べてみた

ここより西の方に
専光寺
がある

ここが印食城だった

地名の由来はわからないが
鎌倉時代の城だった

村上義光といって
ここに乳母がいて、戦いに行くため
妻をここでかくまってもらった

義光は信濃の人で護良親王の忠臣だった

吉野にむかう護良親王に付き従うため
向かっているところだった

窮地に陥り義光は護良親王に化け
討たれた・・・

という美談である

乳母は嘆き後を追った
預けられていた妻はこの地で 
天寿をまっとうした・・・という







by gannyan1953 | 2016-08-31 23:02 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)

千本松原に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編           2015・6・2

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長良川と揖斐川の下流に千本松原がある
そこには薩摩藩の治水工事の悲話が伝わる

長島温泉から各務原まで川沿いにドライブすることにした
以前東海道歩きをしたときに熱田の七里の渡しから桑名まで
現在渡しがないために
陸地を歩こうとしたとき、津島から桑名まで木曽三川公園を通った
そこに治水神社がある

宝暦3年(1753)幕府は水と戦うこの地の治水工事を
薩摩藩に命じた
薩摩藩は平田靫負(ひらたゆきえ)を奉行におよそ千人の藩士を派遣、
治水工事にとりかかった
工事の費用の増額、設計変更、そして苦労した
藩士の死・・・大きな犠牲を出しての工事だった

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そもそも尾張藩は大藩で美濃と尾張の堰の高さが尾張藩の方が高く
美濃は低く洪水被害は美濃がひどくなるようになっていたらしい。
油島締切堤のあたりは、木曽川と揖斐川が合流し、木曽三川の水害の大きな原因となった。
木曽川と揖斐川の川床の高さが揖斐川の方が1mほど低く美濃側側に水が流れ氾濫を起こしていた。
そのため木曽三川を分離する事にしたのだが、この油島締切の工事が難航した。
実際の工事の奉行に幕府の役人が立ち、使用するわらじなど近辺の農民に高く売るつけるように
したり、食事も粗末な食事になったため薩摩の武士は体が衰弱し赤痢をおこし
30余人が亡くなったり、幕府の理不尽な行動に切腹で抗議したりした。

それでも木曽川から川床の低い揖斐川に絶えず流れ込み、洪水が起こり
やっと一部を残し松を植えた堰が完成した。

薩摩の奉行平田靫負は完成した直後工事の難航に責任を感じ切腹した。
尾張の生まれの私は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

のち明和5年(1768)徳島藩が通船のための食い違いを持った洗い堰を工事。
明治20年に完全な締切が完成した。
現在道路として利用されているのが明治改修にあたる部分である。

映画の 『千本松原 川と生きる少年たち』(1992)がある
いいアニメだった


参考:水と生きる 薩摩義士の史跡を訪ねて:海津市観光情報センター
   千本松原:岸武雄 あかね書房









by gannyan1953 | 2015-06-02 23:27 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)

美濃の歴史③

歴史と素適なおつきあい番外編     2014・11・12

美濃の歴史

上有知城(鉈尾山城)こうずちじょう・なたおやまじょう

天文年間、斎藤氏に仕えていた佐藤清信により築城。
清信の子秀方は織田信長に服属し、本能寺の変以降秀吉に仕え、鉈尾山城主となる。
秀方の子方政は秀吉が亡くなると岐阜の織田秀信(信長の孫)に付いて、関ヶ原の戦いの前哨戦米野の戦いで
敗走。佐藤氏は滅亡した。
その後金森長近が上有知に関を作り武儀郡全体を領し、小倉山城を築いたため廃城となった。


小倉山城

金森長近が築城。金森氏の出自は土岐氏で、近江野洲に移った後織田信秀(信長の父)に仕え
柴田勝家の配下となる。
柴田勝家が秀吉に滅ぼされると、秀吉配下となる。
関ヶ原では東軍になり郡上八幡城を落城させた。
そして美濃の小倉山城主となり、今のうだつの上がる町並みを残す。

長良川には上有知湊を開いた。

頼錦のとき、郡上一揆が起こり改易され秋田に移る。
美濃は青山氏の所領となり江戸屋敷が青山にあったので東京に青山の名を残す。

うだつの上がる町
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うだつとは
屋根に取り付けられた小柱、防火壁、装飾のことをいう。

お金がないとうだつがつけられないためうだつをつけることが、
お金持ちになる願望といわれる。
「うだつがあがる」の言葉が生まれた。

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長良川鉄道越美南線の美濃市駅
月に行く舟のロケ地になった

この線には、駅に温泉がある「みなみ子宝温泉駅」がある
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美濃市駅で飼われていた猫
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旧名鉄美濃駅
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昔岐阜市内で乗った事がある
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客席がなかったことが残念
 





by gannyan1953 | 2014-11-27 13:25 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)

美濃歴史編② 宿泊

歴史と素適なおつきあい番外編         2014・11・11

古民家宿&カフェ 陽がほら

神奈川から美濃市の瀧神社に向かうため、美濃に宿をとった。

古民家に泊まりたくて格安だったが行ってみた。
〒501-3711 岐阜県美濃市樋ヶ洞3808 TEL&FAX 0575-35-0250
ホームページから宿泊予約ができる。

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左の庭でバーベキュー
寒かったので鍋にした

オーナーは静かな方で今日は貸し切り!
夕食は鳥団子の鍋。

無茶苦茶おいしくて帰宅後すぐ真似して作ってみたが
再現できず。

昆布と鰹節のだしで薄口醤油、味醂、酒などで
味をつけると聞いたが、薄味でゆずを絞っていただくと
とてもおいしい。
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昼間はカフェ

お風呂は薪でわかした五右衛門風呂。
ふたは沈んでいたので普通のお風呂と変わらない。

ギシギシ音のする床もあって静かな里に響く。

夜は、ピアノを囲んで息子がギターで
アンサンブルしてくれ、姉が歌う。

薪のストーブが暖かい

夜更けまでといっても11時消灯だが、
音楽談義が続いた。

早朝いつまでも森が続く道を散歩。
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外の洗面所で顔を洗う
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かまどの煙


かまどで炊いたご飯をいただき、お櫃はからっぽ!

また、泊まりたいと思いました。

陽がほらさん  お世話になりました。

朝食付き1人3500円  
夕食希望すれば1500円でバーベキューか鍋。


by gannyan1953 | 2014-11-27 11:00 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)

美濃の歴史編①  瀧神社

歴史と素適なおつきあい番外編      2014・11・11

ドラマ「月に行く舟」ロケ地に行ってみた。

瀧神社   美濃市乙狩神矢洞

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急な参道だが、日が暮れそうで、車で登ってしまった

祭神 瀬織津姫神 もとは権現滝
ご神体 矢と剣
創建 天歴年間 藤原高光

伝説
この地に妖怪さるとらへび
が住み付き、村人に危害を加えているのを聞いた朝廷が、
藤原高光をこの地に遣わし、妖怪を退治させたという。
この時、高賀山大本神宮大行事神社(現・高賀神社)を再建し、
7昼夜妖怪退治の祈願をしたという。
高光が妖怪を追い求めて高賀から乙狩谷に来た時、
山全体が黒雲に包まれて進めなくなってしまった。
そのとき矢を黒雲の中に放つと雲が無くなり、やがて滝にたどり着く。
この滝の近くの洞が妖怪の棲家であった。
高光はこの滝で野宿をすると、滝の神々が妖怪を追い払う夢を見る。
そこで滝のほとりに祠を建立したのが、瀧神社の始まりという。


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滝壺に近づく事もできる
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ご神木
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さすが!
御幣は美濃紙
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猿丸大夫
参道脇に猿丸大夫の碑がある。
高光は矢を作るため村人を集めた。
その中にあきよという娘がいた。
その娘を見初めのつに猿丸が生まれる。
のちに和歌の歌人となり猿丸大夫である。
猿丸大夫の出自は不明であるが有名な父の名を
汚さぬよう語らなかったという。

「おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こえきくときぞ あきはかなしき」
                             古今和歌集より

円空
愛知県生まれなので円空は身近なお坊さんである。
円空はこの滝を三度訪れたという。
修験道の修行をこの高賀山で行ったという。
円空の精神の原点がこの滝なのか。

円空の歌
「文(あや)なれや 予(わが)ことなさて 滝の宮 心の声を 神かそと念」

円空は瀧神社の祭神は矢であると言っていたそうである。




by gannyan1953 | 2014-11-15 18:31 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)

岐阜の関と三重県の関

歴史と素適なおつきあい番外編     2014・3・28


母を連れて岐阜の関市円空館を訪ねた

関市円空館
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岐阜県関市
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三重県亀山市関 百六里亭で撮影


関市円空館パンフレットより

円空終焉の地が岐阜県関市である。
円空は5000体以上の仏様を遊行しながら彫り続けた人である。
ここ長良河畔で元禄8年(1695)入定したという。

関市内にはこれまで330体の円空仏があったという。
弥勒寺には数百体あったというが大正9年の火災で焼失した。

隣に白山神社がありここに16体あった。今はこの関市円空館で展示されている。

反対側には弥勒寺跡があり飛鳥時代の壬申の乱で活躍したムゲツ氏(身毛君広)という豪族の
活動拠点だった。(壬申の乱の詳しくは岐阜県・村国男依を参照)
発掘により武儀郡の役所跡が見つかった。
「弥勒寺官衙遺跡群」という。

翌日所用で三重県に向かい、三重県亀山市関に宿泊した。
偶然だが岐阜の関と三重の関訪問になり、可笑しかった。

三重県の関は東海道の宿が残ることで有名で「関宿」という。
6年前東海道歩きをしたときは、疲れていて、ゆっくり見学できなかった。

今回は鏝絵探し!!

関宿の鏝絵
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絵ではないけど漆喰の看板

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時間がなく関宿の半分ほど歩いて鏝絵を探した。
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向こうにかすんで見えるのが鈴鹿峠
東海道はあの山を越えて「あいの土山」に向かう。

今回の宿泊
1日目 宿泊 犬山サンパーク(愛知県犬山市) 1人素泊まり3900円 
    レストランがある。夕食800円〜2500円朝はモーニング
2日目 宿泊 関ロッジ(三重県亀山市関市新所)1人2食6700円くらい
    食事はおいしかった  関富士・観音山そして新池をバックに、関宿も歩いてすぐの場所で
    気持ちのいい国民宿舎である。トイレも新しくよかった。以前東海道歩きでお世話になった。


by gannyan1953 | 2014-03-28 20:08 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)

村国男依

歴史と素適なおつきあい           2012・7月


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村国神社

壬申の乱と鉄




天智天皇が大津の宮で病に倒れると、大王(おおきみ)継承をめぐるさまざまな思惑が動き始めた。


後を継ぐ者は大友皇子(おおとものおうじ)か、大海人皇子(おおあまのおうじ)か?

皇位継承をめぐり、古代史最大の戦乱がはじまった壬申の乱という。

壬申の乱とは、病にふせる天智天皇の見舞いをした弟の大海人皇子が、


「継承者を皇后の倭姫(やまとひめ・古人大兄皇子の娘)に譲り大友皇子が政治を行うように」と言い残し、吉野に隠遁したはずの大海人皇子の蜂起にはじまった戦いである。

❋古人大兄皇子は天智天皇(中大兄皇子)に謀反の疑いで殺されている

状況

天智天皇と大海人皇子兄弟の微妙な対立を調整してきた藤原鎌足が669年に亡くなった。

大友皇子の母は、伊賀采女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)という地方豪族出身であり、

身分が卑しいとされ、父と同母弟である大海人皇子を押しのけて王位継承者になることが困難であった。

671年、天智天皇は実子の大友皇子を太政大臣(だいじょうだいじん)に任命した。

これは、大海人皇子が権力ラインからはずされたことになる。そして大海人皇子は職を辞して、

吉野に下ることになるのだが、日本書紀はこのことを「虎に翼を着けて放てり」と評している。

672年暮れに天智天皇が崩御した。

半年後「天智天皇の山科稜築造のために、美濃、尾張から農民を動員しているが、その者達に兵器を
とらせている」
と大海人皇子に報告があった。

その動員は吉野を攻めるためではないかと思い、反乱の決意を固めたという。

大海人皇子が頼った湯沐邑(ゆのむら)は、皇太子の領地のことで、古くは「壬生部」(みぶべ)といわれた。

この時代の湯沐邑は、私領地として大海人皇子との結びつきが強かったと思われる。

大垣から安八郡、さらに揖斐郡にわたり南北に広い地域であった。

湯沐邑の責任者・湯沐令(ゆのうながし)は多臣品治(おおのおみほむじ)という。

多の一族で、一族の中に太安万侶がいる。太安万侶の父であるという説もある。

❋太安万侶とは古事記の編纂者


展開

大海人皇子は、側近の村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつきみひろ)和珥部臣君手(わにべのおみきみて)3名を湯沐邑に派遣し、兵の動員を求めた。

大海人皇子は吉野を脱出、伊賀に向かい、息長横河(おきながよこかわ)の戦い、そして琵琶湖の瀬田川で最終決戦し、大友皇子の自害に至って勝利した。


大海人皇子の名前にある海部は、乳母の出自が海部氏だったからである。

海部氏は、尾張氏や安曇氏(あずみし)と同族で安曇氏は、開鑿(かいさく)伝説にも関係し、金属に深くなじんだ氏族である。

凡海麁鎌(おおあまのあらかま)が大海人皇子の養育に関係したといわれ、「かま」は金属と関係する。(谷川健一)

美濃の地、そして尾張氏は、古代から製鉄を多くする地で、その氏族であった。

もともと大海人皇子の養育を海部氏にしたこと自体、この金属になじむ氏族を選んでいたのではないかと考えられる。

そしてこの戦いを勝利に導いたのは尾張、美濃の豪族たちであった。

各務原の英雄 村国男依(むらくにのおより)


岐阜県各務原(かがみはら)の地名は古代の鏡からつけられたと思われる。

古代に鏡作部(かがみつくりべ、銅鏡などの鏡を作る特殊技能集団)がいたことからと言い伝えられている。

また、別の説では、各務地域のほぼ中央にある村国真墨田神社に鏡作部の祖神である天糠戸命(あまのぬかどのみこと)が祀られているからとも言われている。

このアマノヌカドは、奈良の磯城郡にある多氏一族の神社・鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)の祭神でもある。

多氏も金属にかかわる氏族で、その移動に伴い各務原に鏡作部を設置したのだろうか。

各務原は、愛知県と岐阜県の境にあり、今では木曽川が県境になる。

古代の木曽川は支流が多くいまのような境ではなかったらしい。

村国男依の領した村国郷も愛知県の江南から、北へ岐阜県の各務原に至る。

壬申の乱最高の功労者といわれるが、あまり知られていない。

生年不詳で、天武天皇5年(676)7月に亡くなっている。


村国男依の活躍

6月22日に吉野を発った3人の舎人(村国男依たち)は、4日後26日に伊勢国朝明評家(あさけのこほりのみやけ)まで進んできた大海人皇子一行に「美濃勢3000人」を動員し不破(関ヶ原)を確保したことを伝えた。

その湯沐邑までの往復の道程を考えるとわずか1日か2日での動員出動したことになり、大海人皇子の事前の準備があったことがうかがわれる。
 
不破(関ヶ原)では、尾張国守小子部連鉏鉤(おわりのくにのかみちいさこべのむらじさひち)が率いた2万の兵が帰服した。

このサヒチという人物、壬申の乱の終了後山に隠れ、自殺をして亡くなっている。
なぜだろうか。
大友皇子サイドだったサヒチが大海人皇子に寝返ったため大友皇子サイドだった仲間に
会わせる顔がなかったのか、国学者伴信友によると、サヒチはもともと大海人皇子を殺害するために
わざと大海人皇子に帰服したといい、その失敗による自殺だったのか。

不破には桃配山があり、大海人皇子が兵士にねぎらいの桃を配ったことに由来する。

のちに、家康が陣営を張った場所である。

大海人皇子は野上行宮(のがみあんぐう)からは動かず戦況を見守った。

その後7月2日将軍となった村国男依は数万の兵を率いて進発した。

7月7日息長横河(米原市梓河内付近)の狭い谷間で村国男依は勝利した。

❋行宮とは、天皇が行幸、政変なので仮に使用した施設

大友軍は70キロ先の大津宮に敗走する。

7月22日瀬田橋の戦いで橋の両側に対峙していたが、大海軍の勇者大分稚臣(おおきだのわかみ)が橋を駆け抜け、斬りこんだことを契機に大友軍は総崩れとなった。

敗走した大友皇子は大津付近か京都の天王山か定かではないが、山前(やまさき)で自害する


大海人皇子は天武天皇となり功労者村国男依は連を賜り、中央下級貴族に加わり各務原にも一族は残った。

このあたりの農民たちは位階をもつものがいなかったが、乱後は位階をもつ農民が多数みられることから、男依だけでなく冠位を授けられ優遇されたことがわかる。

この処遇は701年の大宝律令制定まで続き後に解消された。

この時期各務原周辺には仏教寺院が多く建立されているので、その一族の豊かさを表しているといえる。


村国真墨田神社(各務原市鵜沼山崎町1丁目108)

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祭神:金山彦命(南宮大社)天火明命(あまのほあかりのみこと)後に村国男依

❋金山彦命とは金属の神(南宮大社の祭神)

❋天火明命とは尾張氏の祖先神(尾張、美濃の神社の祭神に多い)

秀吉の時代に南の木曽川沿い(現在の御旅所・「大脇グループ木曽川寮」の駐車場)から現在地に移転した。

村国神社 (各務原市各務おがせ町3-85)おがせは苧ケ瀬と書く

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村国神社裏の森
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村国神社裏の森のストーンサークルのように石が並んでいる
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村国座


祭神:天火明命(あまのほあかりのみこと)・御子石凝老命(みこいしこりどめのみこと)・

後に村国男依

❋御子石凝老命とは、鏡作りの神

明治15年(1882)になって奉納芝居を行う場所として村国座(芝居小屋)ができた。

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男依の伝承墓

東南200mに御旅所があり、村国男依の墳墓であるという言い伝えがある。

椋の大木を御神木として祀る。


尾張氏


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東谷山 尾張氏本願の地


古代の地方豪族で天火明命を祖神とし、本貫地は諸説があり、葛城説、吉備播磨説などある。

もとは海人族で海からこの地にきたと思われる。

美濃、飛騨などに居住したのち乎止与命(おとよ)のとき、尾張国造となる。

尾張の由来は、新しく墾り(はり)開かれた土地の意からつけられたといわれる。

なぜだか、尾張氏は皇族が新しくなるときに后をだしている。

尾張氏と皇族の婚姻

①日本武尊と簀媛命
②孝昭天皇(前475-前393)と世襲足媛(よそたらしひめ)
③崇神天皇(前97-前30)と尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)
④応神天皇(270-310)と高城入姫命(たかぎいりひめ)・弟姫命(おとひめ)・仲姫命(なかつひめ)
⑤継体天皇{507-531}と目子媛(めのこひめ)

皆、尾張氏の姫君たちである。

そして崇神天皇・応神天皇・継体天皇ともに系譜が変わった天皇である。

系譜が変わった時に尾張から姫を娶る。

どういう意味があるのだろうか。畿内にいる豪族は全王朝に関わっている豪族ばかりなので、地方の実力派豪族との結びつきを求めたのだろうか。

尾張氏は表舞台に出る氏族ではなかったが、皇室の外戚という重要な存在であったようだ。

熱田神宮の宮司、同族の津守氏は住吉神社(大阪)、元伊勢籠神社の宮司は海部氏である。

熱田神宮の宮司職は後に、親戚の藤原季範(すえのり)に譲られた。

季範の三女由良御前は源義朝の妻となり、熱田神宮のそばで、頼朝を生んだ。

頼朝は名古屋生まれなのである。そう考えると最初に武家社会を築いた頼朝、後の信長、秀吉、家康、みんな名古屋、愛知県の生まれである。

草薙剣の祟り

天武天皇が病に倒れたため占ったところ、草薙剣の祟りだという。



話は、天智天皇のころ新羅の僧が草薙剣を盗んだことにはじまる。

新羅に持ち帰ろうとするが、船は難破し捕えられる。

まだ「三種の神器」は存在していなかったので、天智天皇は手元に置いていた。

そして近江朝が滅び、今度は天武天皇の手元に置かれた。占いがでてから、すぐに熱田神宮に戻されたが、天武天皇の病は癒えなかった。

熱田神宮に今でも続く神事がある。「酔笑人神事」(えようどしんじ)という。

草薙剣が熱田神宮にもどされて神官たちが喜んだ様子だそうだが、真っ暗闇の中、熱田の神職たちが、喜んで、酔って、笑って、歩きまわった様子が、「酔笑人神事」になった。

古くより見てはならないと語り伝える神面を、神職各自が装束の袖に隠し持ち、中啓という扇で神面を軽く叩いた後、全員が一斉に「オホホ」と笑う神秘的な神事である。

新羅の僧が盗んで逃げた門は「清雪門」といい、事件以来不吉の門とされ一度も開けられたことがない「開かずの門」になっている。

なぜ祟りという占いがでたのか諸説あるが、正当な後継者だった大友皇子を自殺に追いやり、大王になった天武天皇を非難するための話ではないかといわれている。


日本武尊命(やまとたけるのみこと)と大海人皇子

ヤマトタケルは、熊襲征伐を終え、東征に向かうとき、伊勢神宮の叔母である倭比売(やまとひめ)に会いに行き、草薙剣をもらった。

東征の帰りに尾張のミヤスヒメと再び会い、剣をミヤスヒメに預ける。剣をもたずに向かった伊吹山の神に痛めつけられ、醒ヶ井の水で意識はもどるが、鈴鹿で足がたぎたぎしくなり三重に折れた(三重の語源)。能褒野(のぼの・亀山市)で亡くなって白鳥となったヤマトタケル。


大海人皇子は伊吹山麓不破の尾張氏の私弟に行宮を置き、勝利をあげたのち都である近江には寄らず往路を戻って飛鳥にもどる。即位してのち熱田神宮の草薙の剣の祟りによって亡くなる。
両者には似通ったところがある。


伊吹山周辺の鉄

なぜ両者とも伊吹山なのか。草薙の剣と関係するのか。

伊吹山の近くに伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1)がある。

中山道沿いに大きな鳥居があり、少し奥まった場所にある。「いぶき」とは伊福部氏であり、尾張氏と同族で、伊吹山麓周辺で鉄を生産していた。
大海人皇子の行宮とした尾張氏の館もその管理のためにあったと思われる。

現在伊吹山では石灰が掘られているが、古代ではこのあたり、鉄生産がさかんであった。


南宮大社 (岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1)

伊吹山の南にある美濃国一宮で、鍛冶の神である。

祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)。

鞴(ふいご)祭では、実際に野鍛冶による鍛錬を神官が行い小刀を作成して、奉納する金属の行事があり、今でも金属に携わる人々が集まる。

節分の行事で、的の裏に「鬼」と書かれた大的に12本の矢を射る大的神事がある。

鬼とは平将門のことで、京都から飛んできた将門の首を南宮大社の祭神隼人神が射落としたという。

近くに「御首神社」がある。

金生山(きんしょうざん)岐阜県大垣市赤坂町金生山(かなぶやまが正しい)

伊吹山の東麓にある、

石灰岩の山で現在石灰岩や大理石が、掘り出され山容が変わっている。

赤坂駅には石灰を運ぶ貨物があり、石灰の製品が積み上げられている。

昔は、鉄鉱石の質が高く自然の丹としては最高のものでそのままベンガラとして使えたという。

第二次世界大戦時も軍隊が褐鉄鉱を掘り出している。麓の赤坂、青墓は刀鍛冶が多くいた。

多度大社 三重県桑名市多度町多度1681

養老山地に南にあり、摂社に一目連神社があり、祭神は天目一箇命(あめのまひとつのみこと)である。

鍛冶の神である。現在でも祭祀に刀鍛冶の奉納がある。

尾張の鉄

内々神社(うつつじんじゃ)内々神社 春日井市内津町上町24

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内々神社 本殿      


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内々神社横の内津川支流の鉄分が流れる様子


祭神は、日本武尊命(やまとたけるのみこと)建稲種命(たけいなだねのみこと)・簀媛命(みやずひめのみこと)

南北朝時代の禅僧、夢窓国師の作庭と言われている庭が奥にある。隣に妙見がある。

神社はしばらくして衰退し、妙見様として復興、のちに内々神社として再興し、庭は寺だったことによるのかもしれない。

由緒は、東国の平定を終えたヤマトタケルが内津峠にさしかかったとき、早馬で副将軍のタケイナダネが駿河湾で水死したという知らせがあった。

知らせをうけたヤマトタケルは絶句し「ああ、現哉現哉」「ああ、うつつなりうつつなり」

とつぶやき、鎮魂のためタケイナダネの社をたてたことがはじまりという。

タケイナダネはヤマトタケルの妻であるミヤヅヒメの兄で、東征に付き従った。

東征の帰路、ヤマトタケルは山道を、タケイナダネは海沿いの道で別々に帰ってきた。

しかし駿河の海で尊に献上するミサゴ(野鳥)を捕らえようとした際、風波が強くなって船が沈没、自らも水死したという説とヤマトタケルをねらう密偵に殺害されたという説がある。

衣服が流れ着いたのが知多半島の先にある羽豆神社、遺体は吉良に流れ着き幡豆神社に祀られたとされる。

後ろの山は茶褐色のチャートで、渇鉄鉱が含まれている。近くにマンガンも出るという。

ここは下街道(善光寺街道)という古くからの街道がある。現在の19号線である。

また、新撰組結成に関わった清河八郎が母と伊勢参りに通ったといわれる。

尾張戸神社(おわりべじんじゃ)名古屋市守山区大字志段味(しだみ)字東谷字2099

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尾張部神社 本殿
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頂上からの眺望


東谷山(とうごくさん)の頂上にある尾張平野の眺望随一の神域である。尾張氏の祖を祀り、尾張氏本願の地であり、熱田神宮の奥ノ院と言い伝えがある。

祭神は、天火明命(あめのほあかりのみこと)―尾張氏の祖

天香語山命(あまのかごやまのみこと)―尾張開拓の祖

建稲種命(たけいなだねのみこと)―ヤマトタケルの副将軍

創建は、簀媛命(みやずひめのみこと)―草薙剣を祀るため熱田神宮を創建したヤマトタケルの妻

東谷山は古代のピラミッドといわれる超古代史では有名な山である。

頂上に磐座、ストーンテーブルがあり、古墳がある。古代祭祀の残る山である。

社殿も古墳の上に鎮座し麓には古墳群がある。

壬申の乱で活躍した尾張の物部氏(朴井 雄君・えのい の おきみ・物部氏で守屋の子ともいわれる)たちの古墳といわれる。


各務原の鉄


各務原の製鉄遺跡・村国男依を祀る神社の地図


村国男依のいた各務原には飛鳥時代の製鉄遺跡がある。

伊木山の八熊遺跡と野口廃寺跡である。

桃太郎神社(愛知県犬山市栗栖字古屋敷)

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桃太郎伝説を伝える面白い神社である。

桃太郎が退治した鬼とは、古代のたたらが行われた場所、

あるいは鉄の原料がとれた場所にいた古代製鉄民を、奪取し、支配したことではないかと考えている。

岡山の桃太郎神社は鬼である温羅を鉄釜で、地面に封じ込めている。



境内には関ヶ原のウォ―ランドにもあるコンクリートの伝説に因んだ人形が数多く配置されている。

コンクリート群像作家として知られる浅野祥雲による作品である。

宝物殿が焼失し、古物は写真のみになってしまった。

名古屋在住のころ私はみたが、河童の手や鬼のミイラがあった。

愛知B級スポットといわれている。

神社の山はチャート層で、チャートは酸化鉄、褐鉄鉱などが重なった岩石である。

古代のストーンサークルもあるという。

このあたりを流れる木曽川はチャートの露頭が見える場所である。

犬山周辺には、桃太郎伝説に由来する地名が多くある。

犬山(現・犬山市):家来の犬がいた地

猿洞(現・犬山市):家来の猿がいた地

雉ケ棚(現・犬山市):家来の雉がいた地

今渡(現・可児市):鬼が桃太郎の乗った船を見つけた地

取組(現・坂祝町):桃太郎と鬼が取っ組み合いをした地

勝山(現・坂祝町):桃太郎が勝どきをあげた地。猿が噛みついた伝説から猿琢(さるばみ)城と名付けられた戦国時代の城が頂上にあった。

宝積寺(現・各務原市):鬼から奪った宝を積み上げた地


参考
「新説壬申の乱大海人皇子」週刊戦乱の日本史・「壬申の乱」:遠山美都男著・「各務原市史」・
「大垣市史」・春日井シンポジウム「壬申の乱」、「渡来人」:森浩二、門脇禎二著・
「白虎と青竜」、「本当は怖ろしい万葉集」:小林惠子・「壬申の乱の謎」、「消された王権」、「おとぎ話に隠された日本のはじまり」:関裕二 「青銅の神の足跡」:谷川健一 
HP:ウィキぺディア・桃太郎神社・桃太郎伝説
by gannyan1953 | 2012-06-05 09:38 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)



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