歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:静岡県の歴史散歩( 8 )

下田であじさい祭



美しいあじさい&6月のイメージショット!
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犬走島探検して
ペリーロードの「いろり」でビール

美味しかった





by gannyan1953 | 2017-06-25 23:04 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

下田海浜ホテルに泊まって下田散策

歴史と素適なおつきあい番外編
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伊豆下田海浜ホテル
3時到着

豪雨強風のなか無事着いて安心。

この日下田から松崎への道や東道路が不通
新幹線も止まったとか・・・

バスの車窓は荒海を見ながら前方も見えないほどの天候だった


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海側和室二間タイプの部屋で4人で宿泊
夕食バイキングはうなぎ一皿付き
大きなうなぎだったが美味しかった


カラオケして就寝


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22日 雨も上がり好天候に

ホテルを出て海沿いの遊歩道を進むと水族館につながり
そこから山を登ると下田城址につながるらしいが、
きつい山道と教えられ車道で行くことにした

大きな廃墟ホテルがあった
下田グランドホテルだった

伊豆に出かける人が少なくなり東急ホテルもでき
過当競争に負けてしまったらしい


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大浦湾の遊歩道の下の石
軽石みたい

昨日の強風豪雨のせいなのかねずみやタヌキの死体が打ち上げられ145.png
早々に退散


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ホテル横の山田君の自販機


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沖を行く船を見てたんだ・・・
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賑わってましたね


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町に行くまで廃墟ばかりだった

下田グランドホテルはあまりに大きい廃墟でビックリ

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陶器屋さん

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お風呂屋さん 朝から営業 400円


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前回も訪れた犬走島

先端でサスケハナの観光船の人たちが手を振ってくるので
こちらも手を振り恥ずかしかった

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犬走島でかわいい小さなサバが釣られていた
開きにして干すととてもおいしいとか


今朝ホテルの朝食にあったとか・・しまった・・見逃した


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このさきに神様か仏像があるらしいがよくわからない
伊奴波志神社なのかもしれない・・

目の前に辻という料亭があった。


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ペリーロードで早速ビール 「いろり」にて

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了仙寺のお吉塚


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町中の竜馬


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昭和レトロな看板


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宝福寺

お吉さん美しい人だったんだ


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今は亡き大地喜和子さん

お吉さんがのりうつったような演技をしたとか


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お吉さんが使用されたもの


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竜馬の脱藩の罪を許してもらう為に
勝海舟と山内容堂が会見した部屋

ところが
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今では部屋はちょん切られていた

床の間が残るのみ

なんだか変だった



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開国みなとまで戻る道に山田君の自販機


ホテルハナミサキから伊藤園の送迎バスで
3時半出発7時半横浜駅に到着


海鮮丼ばかり食べてきたのに
横浜でまた回転寿し

好きだねエ





















伊奴波志神社

by gannyan1953 | 2017-06-23 16:29 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

下田に行ってきた②

歴史と素敵なおつきあい番外編   2015・5・1

伊藤園橤岬に宿泊しての下田歴史散歩2日目


9時に宿を出発 まずは犬走島制覇・・そして下田城址へ



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犬走島に向かった。下田湾の真ん中にどーんとある島で、現在は突堤で
歩いて行ける
犬走島

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突堤を歩いて先に洞門が
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そしてトンネル
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一番さきにある風景

下田城址(下田公園)
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伝天守閣跡

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天守閣跡からの海に海上保安庁の巡視船出港
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空堀跡
草が刈ってないのでわかりづらいが
堀は深い

開国記念碑
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開国記念碑からの景色
下岡蓮杖
下田出身の写真家。わが国の草分け的存在。お吉や鶴松とは幼なじみでその紹介でヒュースケンと知り合い、
写真の基礎を学んだ。
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三味線体験

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ペリーロードに向かって下田公園をおりたら芸者さんが
三味線体験をしてくれた
「下田節」
《伊豆の下田に 長居はおよし 縞の財布が 空になる
思い切る瀬に 切らぬ瀬に 取る瀬にやる瀬が ないわいな》
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ペリーロード

了泉寺
和親条約締結の地。


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了泉寺
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本堂に掲げてあった締結時の絵
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お吉塚

欠乏所跡

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松蔭拘禁の地  現在教育委員会の建物がある
黒船密航に失敗した松蔭は自首してここに捕われる
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大安寺
薩摩藩の悲話が伝わる


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宝福寺

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お吉の墓はお吉記念館に入らないとみられないらしい

稲田寺(とうでんじ)

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お吉と離縁した鶴松の墓
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安政大地震の津波の犠牲者供養塔
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港にある食堂
金目鯛のお刺身が美味しかった

橤岬で足湯してバスを待った




by gannyan1953 | 2015-05-02 10:59 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

下田に行ってきた①


歴史と素適なおつきあい番外編          2015・4・30・5・1

伊藤園ホテル「橤岬」(はなみさき)の往復バス利用で下田に行ってきた

橤という漢字は本来「はな」と読まない
ズイ、ニ、たれると読みおしべめしべの蕊(しべ)のことだという。
心、三つの意味知りたい。
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寝姿山のふもとにある橤岬
右側は開国下田みなと・道の駅
安さに感謝しながら、下田の歴史探訪した。
今の大河ドラマ 吉田松陰の足跡を訪ねて


伊藤園ホテル 橤岬

宿泊費7800円、往復バス代1000円、翌日の昼食は港直営の食堂で
金目鯛定食1500円 しめて約1万円の旅。

横浜駅から4時間半かけて下田に着く。


チェックインして歴史散策にでかけた。
まずは西のほうの玉泉寺周辺、吉田松陰に関する史跡めぐり

飲み放題つきバイキングのあとカラオケ(これも無料)
翌日チェックアウトして下田の主要歴史史跡を巡って
昼食、足湯、そして13時半にバスで横浜まで。

一日目

弁天堂

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松蔭が黒船に乗船する為のチャンスを待った弁天堂
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吉田松陰と金子重之輔

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二人は小舟でこの海を沖合に向かった

玉泉寺
安政3年(1856)わが国最初の領事館が置かれた。

カーター大統領も訪問している。
唐人お吉と蔑まされ、最後は川に身を投げたお吉がハリスの身の回りの世話をするために
ここに奉公した。美しい娘で奉行所に見初められたという。

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ハリスが米国領事館にした寺
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日本最初の屠殺場
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黒船乗務員の墓
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開国下田みなと

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道の駅の風車

廃墟ホテル 下田富士屋ホテル

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下田富士屋ホテルの廃墟
道の駅の前にある
右隣が火事跡のあるビルだった


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にぎやかなお店
おしるこからお酒もある
住吉楼跡
山内容堂が宝福寺に滞在していところ、勝海舟とともに時化で下田に避難した竜馬がいた。
容堂は海舟の入港を聞くと海舟を寺に招いた。
海舟はこの機会にと脱藩浪人で追われる身の竜馬の罪を許してもらおうと容堂に懇願した。
そのときドキドキしながら待っていたのがここ住吉楼である。
なぜ遊郭なのかと思うが 、余裕の竜馬である。

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竜馬が待機していた住吉楼跡
町中竜馬、竜馬と書いたりしてあるのにここには碑がなかった
現在河合医院の駐車場
近くにお吉が開業した安直楼があるので
このあたり遊郭街だったのか。

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ポートマス号
宿に戻って露天風呂 地酒、カラオケ・・・・寝る


by gannyan1953 | 2015-05-02 10:09 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

峰之沢鉱山

歴史と素適なおつきあい番外編         2014・8・6


峰之沢橋

奥天竜を秋葉山、鳳来山を目的にドライブした。
秋葉山で、昭和18年(1943)峰之沢鉱山の火災が原因で、秋葉山神社が燃えてしまった事を知った。
峰の沢鉱山は今でも残っている建物があり、廃墟好きには訪れたい場所だ。
今でも昭和全盛時のアパートや廃坑が見られるらしい。

「石の肺」を読んで

沢田猛氏の「石の肺」は、おおかた久根鉱山のことが書かれている。
遠州じん肺訴訟についての話である。副タイトルは「ある鉱山労働者たちの叫び」

峰の沢鉱山は寛文9年(1669)にその存在を示す記述がある。
その前には武田信玄が金を採掘したという話もある。
このそばを通る「塩の道」は信州和田峠の黒曜石も運び、近くに縄文街道といわれる古代遺跡をつなぐ道もあった。
古代から銅が産出していたと思う。

秋葉の地名の由来に
①梵語に阿耆尼(あぎに)という火の神があってここから秋葉のアキ、ハは場所を表す
②アオキという植物はアキバ・オオキバと呼ばれ木の葉は焙って貼ると火傷の薬になり、
分厚い葉は、火伏せの役もあったという

鉱山の火災は
明治34年(1901)3月
昭和18年(1943)3月
昭和25年(1950)3月 とある。
この昭和18年の火災で本殿が燃えてしまったので、
お参りしたい人たちのために下社が作られた。
カーナビはこのとき建てられた下社しか示さない。

秋葉山本宮神社から北2キロに峰の沢鉱山、北10キロに久根鉱山がある。
共に銅を産出する。
このあたりは中央構造線があり、鉱山は多い。
飯田線も走りこの崩れを起こしやすい地形でトンネルを掘るのに難儀したという。

峰の沢鉱山の操業が再び起こったのは
明治40年(1907)日本鉱業の創始者、久原房之助が買収し、
第一次世界大戦の不況と鉱山火災で一時休山。

昭和13年(1938)に直営を開始してからである。
鉱床は久根と同じ含銅硫化鉄鉱である。

峰之沢産の含銅硫化鉄鉱

久根は黒色片岩に緻密塊状鉱で、峰の沢は磁鉄鉱を含む珪質の縞状ガリ鉱だという。
三波川変成帯で採れる鉱物で別子銅山が有名である。

昭和16年(1941)選鉱場ができ拡張されたが、又火災でほとんどを失う。
昭和18年1943)中国人労働者が配置され197人が到着した。
しかし2ヶ月あまりで66人が死亡し、原因は栄養失調だという。

昭和21年(1946)には復興し
昭和25年(1950)に勢いを盛り返した。
昭和31年(1956)に大きな選鉱場が完成、日本屈指の鉱山となった。

従業員700人、社宅365戸、鉄筋アパート2棟24戸、千数百世帯が住み、
学校はじめ商店もでき映画館も備えた天空の町となった。
その後貧鉱となり、銅の輸入自由化により
昭和44年(1969)閉山となった。

よろけ
間宮茂輔の「あらがね」の引用である。
間宮は作家を志し、慶応大学を中退し、大正7年(1918)久根鉱山に入社。
その2年間に見てきたことが書いてある。

このころ鉱山の飯場制度も衰え、労働者は直轄鉱員制により従業員となった。
飯場制度の賃金のピンハネ、残虐な強制労働から解放されたころの話である。


『おもうように働けなくなれば容赦なく首を切られた。
 渡りの鉱夫でもそうなれば最早やよその鉱山(やま)へ移って
 はたらくことはできなくなり、
 所属の飯場頭に泣きついて「奉願帳」を作ってもらい
 飯場から飯場へと一宿一飯の仁義をうけ、わずかな草履銭をもらって
 次の鉱山を目指してゆくのである。
 こういう消耗しつくした渡り鉱夫の末路はどうなるのか。
 曽根(間宮)は咲根(久根)にきてから見学のために入坑して、約半日
 ほど切羽(採掘現場)から切羽へと廻り歩いて岡(坑外)へ出てくると、
 はげしい咳と一緒に吐いたたんがまっ黒なのに愕然とし、
 「ああ、これだ」
   と、つぶやいた。

 「これがよろけのはじまりなのだ・・・・・」』

このころからじん肺は「よろけ」と呼ばれていた。

坑内には鉄の混ざった粉塵が漂っている。
それを吸い込むと肺の中にたまり金属が肺に沈殿していく。

最初はぜんそくと診断されていたが、珪肺・じん肺という病気である。
現在ではアスベストも入る。

たまった金属で肺が繊維化し、息が苦しくなり
治る事はなく、進行して苦しんで亡くなる。
火葬場でお骨を拾うときに黒い金属が残るという。

ある人は赤みがかった直径20センチのかたまりが残り、
その奥から硫化銅のような緑色した1センチくらいの
緑青が吹いていた。という。

体の中で緑青ができていたことには驚いた。

菅江真澄は
どこの山でもかなほりの工(たくみ)になると烟(けむり)という病にかかり、寿命も短く、
四十歳まで生きる者はまれである。
と江戸時代に書いている。

古くからあった病気である。

患者たちはじん肺訴訟を起こした。
1985年に判決が出て、損害賠償金が出された。




by gannyan1953 | 2014-08-27 17:58 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

秋葉山本宮秋葉神社

歴史と素適なおつきあい番外編     2014年8月6日

夏の旅行1日目 ①

登山すると2時間弱で登れるそうだが、今回は暑いので車で山頂まで行ってしまう。
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秋葉神社(静岡県浜松市天竜区春野町領家841)

和銅2年(709)の創建
天竜川の上流にあり、標高866mの秋葉山を御神体山とする。
大昔、「岐陛保神ノ社」(きへのほのかみ)と呼ばれたが、中世両部神道の影響で「秋葉大権現」となった。
明治の教部省の通達で権現をはずし、全国秋葉神社の総本宮であることから「秋葉山本宮秋葉神社」と改称した。

祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)
イザナギ、イザナミの子で火の神である。古事記によると母イザナミはこの子を産んだときに火傷により亡くなっている。
火災消除のご利益があり台所にお札を貼る。

秋葉の地名の由来に
①梵語に阿耆尼(あぎに)という火の神があってここから秋葉のアキ、ハは場所を表す
②アオキという植物はアキバ・オオキバと呼ばれ木の葉は分厚く焙って貼ると火傷の薬になり、
火伏せの役もあったという。

ここには古く南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王の城があったという。
後に天野氏が秋葉城を建てたという。今は遺構はない。

古代から銅が採掘され銅精錬の炉に火が入った時
秋葉様が祀られたという。秋の火祭りに鍛冶屋が多く参拝したという。


宝亀9年(778)三尺坊というお坊さんが戸隠に生まれ、修行して秋葉山にやってきて秋葉寺(しゅうようじ)を建てたという。
明治になって寺は廃され本尊は可睡斎に移された。
三尺坊は空も飛べる天狗である。金属神の色が濃い。
やっぱり近くに鉱山があった。
その鉱山の出火で神社は焼けてしまう。
火除けの神様ピンチ!
その鉱山は磐田郡龍山村にあった峰之澤鉱山である。

峰之澤鉱山
明治40年(1907)に久原工業のちに日本鉱業が買収し開発がはじまった銅山である。
第一次世界大戦後の不況と鉱山火災により休山するも昭和になって再開、戦後に最盛期を迎えた。
従業員は700人いた。住宅、診療所などもあった。
その後、排出量、品位の低下で低迷し昭和44年(1969)に閉山した。今では廃墟として残る。


偶然だがその鉱山の名前の人道橋・吊り橋をあとで渡っていた。
青谷ポケットパークというバス停のある休憩所に吊り橋がある。
名前は「峰之澤橋」152号線瀬尻にある。
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峰之澤橋
火事と鉱山
1943年昭和18年3月13日の鉱山火災で本殿焼失したと神社の碑にある。

調べてみたら峰の澤鉱山は何度も火災を起こし記述もまちまちだが、やっと

昭和18年の記述が見つかった。

土木史の講演会資料で「秋葉古道の成立過程と果たしてきた役割などの研究」

にあった。



近くの久根鉱山とともに朝鮮人、中国人労働者を使役し後に塵肺訴訟を起こしているらしい。

悲しい過去があったようだ。

「石の肺」という小説が詳しいらしいのであとで読んでみる事にする。石の肺を読んで


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西ノ閽ノ神門
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神門をくぐると富士山のように奇麗に盛られた砂山があった
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あの丸い所に皿を入れる
入らなかった・・・
難しいよ
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鉄色に変色した手水舎
ここの水は鉄分多し
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本殿
金ピカの鳥居にびっくり!
あまり好きじゃないので画像なし








by gannyan1953 | 2014-08-15 14:54 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

愛鷹山(あしたかやま)・十里木街道・関所

歴史と素適なおつきあい番外編                             2013・1・2

愛鷹山からの富士山

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以前は金時山にばかり登っていたが、最近は十里木高原にも行く。
越前岳に登ったり、登らなくても展望台に登るだけでも満足できる。
晩秋は箱根より静かなススキの原を楽しめる。
愛鷹山は静岡県の富士山南麓にある山で、愛鷹連峰と呼ばれ、数々の峰がある。
写真の富士山は展望台からの眺めである。
標高1,504mの越前岳に登ったときには残念ながら富士山は雲の中だった。

第89回の箱根駅伝の日で中央大学、城南大学が強風で体温低下のため棄権した日である。
吹き飛ばされそうな風で、寒かった。箱根も同じ条件だっただろう。
愛鷹は元は足高だったが、家康が鷹狩りで愛鷹山を好み鷹を愛すから
愛鷹に変名したといわれる。

そのふもとは十里木高原といい、昔十里木街道が通っていたため、関所がある。


十里木街道

十里木街道は富士宮から須山の竹之下をつなぎ、愛鷹山と富士山にはさまれた道である。
足柄峠をこえる最も古い街道で、甲斐(かい)・駿河(するが)・相模(さがみ)をつなぐ。
地名の由来は、富士宮へ5里、竹之下へ5里はなれているところから
つけられたという。
頼朝の富士の巻狩や、豊臣時代に京都大仏殿造営用の材料を運搬するさいにも
利用された。

由比(ゆい)から由比川をさかのぼり、
大代峠をこえ有無瀬川ぞいに北松野にくだり
富士川を渡って富士宮から、この十里木越えをするのが
東海道の一番古い道筋ともいわれる。
by gannyan1953 | 2013-01-03 20:11 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

静岡市を訪ねて

静岡市を訪ねて
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            駿府公園

[久能山東照宮・登呂遺跡・慶喜の足跡・清水次郎長]



集合:2011年 6月9日(木) 10時・静岡駅 新幹線改札口
宿泊:ホテルガーデンスクエア静岡


1日目
日本平(昼食)~久能山東照宮~~登呂遺跡~静岡駅~ホテル
2日目
ホテル~慶喜の足跡~清水次郎長の足跡~静岡駅


旅のしおり
9日(木) 1日目 静岡駅10時集合

静岡南口11番乗り場 しずてつバス:10:22「日本平」行き 約35分「ホテル下」下車 560円
日本平見学~昼食「川崎屋」名物:日本平石鹸 (各自払い)

日本平ロープウェイ:10分間隔 550円
久能山東照宮 社殿参拝と博物館見学 800円

徒歩(約20分)でバス停「久能山下」しずてつバス:14:31「静岡」行き 約20分乗車 350円 登呂遺跡入口下車 徒歩5分(大谷乗換便13:22・15:22)

登呂遺跡見学:15:00到着予定 博物館16:30閉館 200円 屋外登呂遺跡見学17時閉園
しずてつバス:「静岡駅南口」行き 約8分 180円 15分間隔
夕食(各自払い)
ホテル「ガーデンスクエア静岡」(浮月楼庭園側の部屋)
朝食付き8500円・静岡市葵区紺屋町11-1・℡054-252-6500

10日(金)2日目 ホテルロビー8:30集合
浮月楼見学―宝台院 拝観料200円―駿河公園―西草深邸

静岡鉄道静岡清水線 「新静岡」~「入江岡」290円 18分所要 
「入江岡」下車 徒歩 20分 
梅蔭禅寺次郎長遺物館 宝物館300円(次郎長の墓参りは無料)―清水次郎長生家― 清水次郎長の船宿 


静岡駅に戻り帰宅。


日本平 (清水区馬走)
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赤い靴の女の子の母子像

駿河湾を望む307mの丘陵地。日本平の地名の由来は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、東夷征伐のために東国に向かう途中、 敵の包囲軍に火を放たれて危機に陥った時、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)から預かった宝剣で周囲の草を薙ぎ払って攻勢に転じたということから、 日本武尊の名に因んで「日本平」と名付けられたと言われる。このとき用いられた宝剣が有名な「草薙の剣」である。山頂から北側山麓には「草薙」の地名があり、麓にある草薙神社には日本武尊が祀られている。
有度山(うどやま)という山としての呼称もあり、これは周辺の地名に「有度」「有東坂(うとうざか)」などで用いられているものの、現在では日本平に比べ使われる機会が少ないが古来この地には駿河国有度郡(うどのこおり)と称する郡が置かれており由緒のある地名である。

赤い靴の女の子は清水生まれで、未婚の母から生まれた。きみちゃんといい、両親はが不倫関係であったため清水に住みづらく、母子で北海道に渡った。母は再婚してルスツ村の開拓に行く時にアメリカ人宣教師にきみを預けた。
宣教師がアメリカにきみも連れて渡ろうとしたが、きみは結核に冒され渡米できず、教会の孤児院で9歳の若さで亡くなってしまう。
きみの母は亡くなるまできみはアメリカに渡ったと思い込んでいたそうである。






久能山の歴史

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久能山は、推古天皇の頃(600年頃)久能忠仁が初めて山を開き、久能寺を建立した。永録十一年(1568)駿府に進出した武田信玄が、久能寺を今の清水市に移し、この山頂に砦を造って久能城としたが、武田氏の滅亡とともに徳川家のものとなった。






久能山東照宮 (駿河区根古屋390)


祭神である徳川家康は天文11年(1542)12月26日、三河国の岡崎城で生まれた。幼いころは人質になり苦労を重ねた家康だが、遂には天下を統一し征夷大将軍となった。戦国時代の混乱は家康の治世によって収まり、産業、学問、文化が花開いた「太平の世」が始まった。
晩年を駿河国駿府城で過ごした家康は、元和2年(1616)4月17日に75歳で亡くなった。亡くなる直前、家臣たちに「遺骸は久能山に埋葬すること、葬儀は増上寺、位牌は三河の大樹寺、一周忌」を遺命として託した。
遺命の通りに遺骸はただちに久能山に遷され、二代将軍徳川秀忠は久能山に徳川家康を祀る神社を造営することを命じた。大工棟梁には中井正清が選ばれ同年5月に着工、1年7ヶ月の期間で建てられたのが久能山東照宮である。5月3日、家康の神号を大明神にするか大権現にするかの論議が行われた。秀吉公が大明神で豊臣家が滅びたため大明神は不吉として大権現となった。
社殿は当時最高の建築技術・芸術が結集された「権現造」の様式で、日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は久能山東照宮が原型とされた。また、棟梁を担当した中井正清はその生涯で名古屋城(国指定特別史跡)・仁和寺(重要文化財)・二条城(国宝、世界文化遺産)など現在にも残る重要な建造物を手がけたが、久能山東照宮は中井正清の晩年の傑作であるという評価から、平成22年に国宝に指定されることが決まった。(久能山東照宮HP・WIKI)




登呂遺跡  (駿河区登呂5-10-5)



弥生時代の集落・水田遺跡。昭和27年に国の特別史跡に指定された。弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落と推定される。戦時中の1943年、軍事工場の建設の際、発見された。戦後間もない1947年には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行われ、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居(正確には竪穴系平地式住居)・高床式倉庫の遺構が検出された。この他にも、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土した。 また、1999年から5カ年計画で再発掘調査が行われ、新たに銅釧や漆が塗られた槽づくりの琴、祭殿跡などが出土している。安倍川の分流の洪水時に押し流された土砂が堆積し、自然に形成された堤防の上に造られている。ムラは、北東から南西の方向に広がる微高地を利用して住居12棟、高床倉庫2棟が建っており、水田は、その南につくられている。(Wiki)


宝台院(葵区常盤町2-13-2)



戊辰戦争のさなか、徳川慶喜はいちはやく朝廷へ恭順の態度を決め、江戸、さらに水戸で謹慎生活に入っていたが、慶応4(1868)年7月19日に水戸を離れ、海路で7月23日に清水湊に到着、同日夕刻に駿府宝台院に入った。翌明治2(1869)年10月5日までの約1年間、宝台院の一室で謹慎生活を送った。宝台院は、もとは龍泉寺と称していた。徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母・西郷局が当寺に葬られたが、寛永5(1628)年に後水尾天皇が故西郷局に従一位および宝台院と追号し、以後、寺は宝台院と称するようになった。
宝台院を謹慎場として選んだのは駿府町奉行経験もある大久保一翁である。戦災で寺は焼失し、謹慎の間も残っていない。当時10畳と6畳の二部屋を使用、遺品としてキセル、カミソリ、急須、火鉢などが残されている。西郷の局の墓も静岡大火で焼失した。

キリシタン灯籠b0228416_12192585.jpg

家康の侍女ジュリアおたあが信拝していたもので、駿河城内にあった。おたあは小西行長が朝鮮遠征のときに人質として連れてきた朝鮮貴族の娘で行長の元で切支丹になり後に家康の侍女となった。切支丹禁止令でおたあは伊豆大島に流され、家康の側室になるなら許すといわれるが、拒否した。そのため新島に移動させられ、最期をむかえたのは神津島だった。(慶喜を歩くHP)
しかし実際には「日本発信」1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父の書簡に、おたあが神津島を出て、大坂に移住して神父の援助を受けている旨の文書があり、その後、さらに大坂から長崎に移っており、ジュリアおたあが神津島で死亡したことは否定されている。1972年韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長と村議会議員らが、おたあの墓の土を埋葬し、石碑を建てた。その後、おたあは神津島で死んでいないという文書が発見された後、石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切石山の殉教博物館内で保管することになった。(Wiki)


紺屋町元代官屋敷(こうやちょう) 現在の浮月楼(葵区紺屋町11-1)


謹慎をとかれた徳川慶喜は、1869(明治2)年10月5日に宝台院から駿府紺屋町の元代官屋敷に移り、ここで生活を始めた。女中部屋を含めて12~13室の住居だったという。屋敷南側には慶喜が庭師小
川治兵衛に命じて造らせた回遊式の池が広がるが、これが現在の浮月楼の庭園である。
慶喜は近くに東海道鉄道が開通するのに先だって、1888明治21年3月6日西深草に転居した。慶喜転居後、紺屋町屋敷は1889年にいったん静岡市が7,000円で払い下げを受けたが、翌年、市内の資産家の野崎彦左衛門、尾崎伊兵衛、森作太郎3人が購入し、のちに料亭として開業した。なお、慶喜の住んだ屋敷は1892年の火災で焼失した。この紺屋町屋敷での生活以後、静岡時代の
慶喜は写真、油絵、狩猟、自転車など多彩な趣味の世界に生きた。(浮月楼HP)
西草深の慶喜邸 (葵区西草深町27)
明治19(1888)年3月、東海道線開通に先立ち転居した。紺屋町の邸が線路に近かったことが転居の理由である。東京に移ってからも巣鴨から同じ理由で小日向第六天町に転居している。
慶喜が東京に去ったあと葵ホテルとなり、日露戦争に際しロシア兵捕虜収容所として使用、後明治38(1905)年失火により焼失した。1万坪あったといわれ、エピソードに屋敷に盗賊がはいり将軍家に伝わる宝刀が盗まれたという報道がある。明治30(1897)年に静岡を離れ東京に転居した。(徳川慶喜 静岡の30年前―林孝一良著))


駿府公園  (葵区駿府公園1)


室町時代、今川範国が駿河国の守護に任ぜられ、以後今川氏の領土のひとつになった。今川全盛期9代義元の時に、家康こと松平竹千代は人質として19歳まで12年間駿府で過ごした。臨済寺の住職太原雪斎などから教えを受け家康の人間形成の上で重要な時期を駿府で過ごしたことになる。戦国争乱の中、永禄11年(1568)10代氏真は甲斐の武田信玄に攻められて掛川に落ち、駿府の町は焼き払われた。さらに、天正10年(1582)には徳川家康が駿府の武田勢を攻め、家康は駿河を領地とした。それから築城をはじめ天正17年に完成、現在の二の丸部分である。しかし秀吉により関東移封となり、家臣中村一氏が城主となった。秀吉が亡くなり、関ヶ原で勝利した家康は慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸開府した。慶長10年将軍職を秀忠に譲るも「大御所政治」の拠点とし、静岡の町の原型を作った。
徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府に移り住んだ。慶長12(1607)年,家康は、輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸の北西には5層7階の勇壮な天守を配置した城を全国の大名に命じて(天下普請)築城させた。家康在城時の駿府の町は、江戸と共にいわば2元政治が行なわれていたため、政治、経済の中心地として大いに繁栄していた。家康の死後、城主となった忠長が改易されると駿府城は城代の管理となる。寛永12(1635)年の火災により天守等の殆どの建物が焼失し、櫓、門等の建物は再建されたが天守は再建されなかった。以後江戸時代の駿府城は、建物の規模も次第に縮小していく。
 明治になると、歩兵34連隊の誘致に伴い本丸堀は埋められ、三ノ丸は官庁や学校などの公共用地となった。戦後、本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され,巽櫓、東御門が復元された。
(静岡市公園整備課HP)


徳川慶喜

江戸幕府最後の15代征夷大将軍である。在位は慶応2年12月5日~慶応3年12月9日であった。御三卿一橋家の第9代当主として将軍後見役・禁裏御守衛総督を務めた後徳川宗家を相続、将軍に就任。大政奉還・江戸城明け渡しを行い、謹慎後、従一位勲一等公爵、貴族院議員となった。


天保8(1837)に江戸小石川水戸藩邸に徳川斉昭の七男として生まれた。
将軍継嗣問題浮上で、慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の母本寿院など大奥の南紀派が対立するが、安政5(1858)年 井伊直弼が大老就任後徳川慶福に決定されると、慶喜本人は「天下を取ってから失敗するよりは取らない方がいい」と斉昭に手紙をだしている。
将軍後見職となり、京都守護職の設置、攘夷をせまる朝廷との交渉に手を尽くした。
禁裏御守衛総督となって京都に留まり会津や桑名藩主とともに勤皇志士たちの取り締まりを行う。
慶応2年7月長州征伐の中、将軍家茂が亡くなり、将軍就任の要請を拒み続けたが12月になって将軍職に就任した。フランスの援助で横須賀に製鉄所を設けるなど軍制改革を行ったり、パリ万博に弟昭武を派遣したり、幕臣の欧州留学を勧めた。
薩長同盟が成り、大政奉還となったその直後王政復古の号令で徳川家の納地、慶喜の辞官を命ぜられる。大坂城に退くが鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍の停戦も命じずに江戸に軍艦で退却、勝海舟に事態収拾を一任し寛永寺に謹慎する。江戸無血開城ののち、水戸に移され慶応4(1868)7月駿府に入った。明治2(1869)年謹慎を解かれた。引き続き駿府改め静岡に明治30(1897)年まで静岡に居住した。政治的野心はもたず写真、狩猟、投げ網、囲碁、謡曲など趣味に没頭する生活を送り「ケイキ様」と呼ばれ静岡の人々から親しまれた。
明治30(1897)年東京巣鴨に転居、翌年皇居となった江戸城に参内し、明治天皇に拝謁している。明治35(1902)年公爵に叙せられ徳川宗家とは別に慶喜家を興し貴族院議員となった。明治43(1910)年隠居し再び趣味に没頭する。大正2(1913)年感冒にて死去。享年77歳で徳川歴代将軍の中で最も長命であった。(Wiki)

渋沢栄一が駿府の慶喜に会った時三つの質問をした。
①朝廷に政権を返上したのになぜ鳥羽伏見の戦いが起きたのか
②覚悟の上戦端を開いたのであればなぜ密かに江戸に戻ったのか
③官軍が東征に入ると恭順謹慎に転じ、貫いたのはなぜか

「いまさらそのようなことについてグチを言ってもしょうがない。それより・・・」
と話題を転じたという。渋沢が慶喜を理解できるようになったのは明治20年過ぎてからでこの疑問をとくために私費を投じ完成させた「徳川慶喜公伝」である。
結局多くの対談を重ねたにもかかわらず真意を口にすることはなかったという。

晩年の慶喜の叙位叙勲

朝敵となり、無位無官の身の慶喜が明治5年に従四位を賜っているが、11歳の時に従三位なので公的な地位の浮き沈みがわかる。
明治20(1887)年徳川宗家の家達邸を明治天皇が訪問している。この行幸には皇族、伊藤博文以下閣僚、侍従長、徳川からは御三家、御三卿、松平慶永ら一族、勝海舟、山岡鉄太郎ら旧幕臣が迎えた。慶喜は見合わせ四男厚が列席した。これが天皇と徳川の仲直りである。翌年慶喜は従一位を賜る。明治33(1900)年には麝香間祗候(じゃこうのましこう)に任官し、これは維新功労者に贈られる資格である。天皇の相談役である。
弟の昭武は、明治天皇とはフランス帰国以来天皇から好かれていたので慶喜が任官してからは、二人で毎週木曜日に皇居に出かけていた。「やっと今までの罪滅ぼしができた」と慶喜を見送った天皇が、伊藤博文に語ったという。
維新後30年も慶喜を排除した形で、天皇を中心とした近代的国家が確立していた。慶喜は自分が大政奉還を講じたからこそ封建国家から近代国家に変わることができたと思っていたと思う。
皇后は慶喜に酌までしたという。慶喜の心はこのもてなしでいやされただろうか。
                        
徳川家の駿府入り
徳川宗家を相続することになったのはわずか6歳の田安亀之助だった。
駿府府中の城主で七〇万石、駿河、遠江、三河の一部が領地となった。東海道を4泊五日の道中でまず宝台院に立ち寄り慶喜と対面し、元城代屋敷にはいった。屋敷の門は、現在「田安門」と呼ばれ千代田の静岡市立高校にある。

幕臣の選ぶ道は
①徹底抗戦をする。会津、蝦夷で抗戦。
②帰農帰商する。
③家達について駿河、遠江入りする。
④朝臣、新政府の役人になる。          
であった

③を選んだ幕臣は金のあるものは陸路、無いものは徳川家がチャーターした船(アメリカの飛脚
船)で品川から清水港にはいった。座る場所もなく寿司詰めでなく目刺鰯を並べた状態だったという。約45メートルの船で乗客2600人だったという。 
(徳川慶喜 静岡の30年―前林孝一良著)


梅蔭禅寺(清水区南岡町)
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臨済宗妙心寺派の寺で足利時代の開山の寺である。清水次郎長、お蝶夫人、大政、小政、増川仙右ェ門の墓がある。墓の文字は榎本武揚の書である。
次郎長博物館には黒駒の勝蔵から贈られた水晶玉、お守りの毘沙門天道中差、時計、望遠鏡、火縄銃の遺品が展示されている。(茶 小松園HP)









清水次郎長生家(清水区美濃輪町4-16)
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「次郎長通り」の商店街にあり写真、道具、資料などを展示している。(るるぶcom)













清水次郎長船宿 末廣 (清水区港町1-2-14)
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明治19年(1886)、清水次郎長(山本長五郎)が清水波止場に営業を開始した船宿「末廣」で、明治時代の船宿の面影がしのばれる。平成11年(1999)「末廣」の部材を活用した住居が、清水市(現静岡市)鶴舞町に現存していることが判明した。そこで、次郎長が清水港の振興に尽力した晩年の姿を知る貴重な資源として復元建築するとともに、次郎長が手がけた富士山麓の開墾事業などを紹介している。(現在、清水港船宿記念館になっている)末廣は海軍士官候補生たちの定宿で、後に日露戦争で武勲をあげる広瀬武夫や小笠原長生、出羽重遠、向山慎吉らが泊まり、次郎長から武勇談を聞くのを楽しみとした。ほかにも初代県知事関口隆吉はじめ旧幕臣たち、富岡鉄斎、新村出ら知名の士がここを訪ねている。明治26年(1893)6月12日、次郎長は末廣の一室で74歳の生涯を閉じた。ここ末廣に、次郎長は明治19年(1886)より明治26年(1893)に亡くなるまで住んだ。 (末廣HP)

清水次郎長

文政3(1820)~明治26(1893)
侠客である。本名 山本長五郎。
船頭の家に生まれ叔父の米穀商山本次郎八の養子となった。幼いころ友達に「長」と呼ばれている子がいたので養父の名のように次郎長と呼ばれるようになった。養父の死後跡目を継ぐが
博打、挙句に殺人を犯し妻とも別れ出奔する。やがて清水湊に一家をかまえ江尻大熊の妹お蝶を妻に娶る。富士川舟運の権利をめぐり甲州と揉める。東征軍から街道警備を任せられる。
榎本武揚ひきいる幕府艦隊の咸臨丸が座礁、清水湊に退避修理をしたが新政府軍にみつかり乗組員が死亡した。幕府軍の死体は葬らないという新政府にたてつき、埋葬する。これに幕臣山岡鉄舟がいたく感動し、交遊をもつようになる。それから社会事業に貢献するようになる。
お茶の販路拡大のために蒸気船が出入りできるような清水湊の外港整備、囚人を使っての富士山開墾、英語教育など力を尽くした。
久能山の衛士に2番目の夫人を殺されるという事件も起きている。

つぎの話は末廣で伺った話だが2番目の妻は出自がはっきりせず吉原の出ではないかといわれている。
なぜ殺されねばならなかったのか、いまだに謎で次郎長がらみ、本人の過去のしがらみからかといわれる。
次郎長不在の出来事でその場にいた大政小政らが、追いかけて殺してしまったため真相もわからなくなったという。

その後3人目の妻を50代で迎え、風邪をこじらせ74歳で亡くなった。(Wiki)
by gannyan1953 | 2011-06-11 14:45 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)



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