歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:宮城県の歴史( 1 )

閖上~多賀城~奥松島~石巻

歴史と素適なおつきあい番外編                       2011.10.30
b0228416_1134574.jpg

            閖上の日和山より海をみる

閖上(ゆりあげ)

宮城県の日和山(ひよりやま)が三つある。
石巻(標高56,4m)、仙台の蒲生(日本低山第二位標高)、閖上である。

閖上の日和山は明治に作られた高台で漁師が沖をみるために作られたという。

震災で日和山も被災し、鳥居も根元でちぎれていた。

現在、富士主姫神社と湊神社が仮設で祀られている。
卒塔婆もあり、花束もお供えされており、神仏習合の鎮魂の場となっている。 合掌。

b0228416_1171667.jpg

                日和山山頂

b0228416_1172560.jpg

              津波に流された松で立てられた鳥居

この浜は名取の浦と呼ばれていたが、ある日里人が、光るものをみつけた。
それは霊験あらたかな十一面観音であった。

陶する、揺するからゆりあげられる、陶上、揺上そして閖上となった。
 
閖という漢字になった説は二つある。

① 湊神社は水門という意味で水門神社のお告げで、この神の名を地名にすれば災いを除くというものであった。

承応年間(1652~1654)のころ火災がたびたびあり、困っていたので、水門を「閖」の漢字にした。

② 仙台藩侯の綱村が寺建立したら、その門からゆりあげ浜が見えた。門から海が見えるのでゆりの字を閖にしたという説もある。、

閖という漢字はゆり、どんどと読み「どんど」は姓にみられる。石川県小松市や白峰村にその姓がみられる。。(名前由来ネット)

だが、確認できないでいる
あるブログに石川県出身のどんどさんが、カンボジアでボランティアをしているとある。どんど姓は珍しいが石川県には、ほかにどんどさんはいないという。どんどの漢字もわからない。「闐々」を「どんど」と読むのかもしれない。
今後調査を続ける。

閖は海がみえるという意味がある。
ほかに女陰からでる液体という意味も古くからあったそうである。(ブログJUGEMU)

水門明神は明治になって湊神社に改称した。  
 十一面観音がなぜ流されてきたか。熊野信仰が盛んになったころ那智の神様を陸奥に勧請することが多くあった。きっと難破した船から流れてきたと思われる。その後、名取老女という巫女さんのお告げで高舘山の飛龍権現と称されたという。

高舘山の山頂に熊野那智神社があるが、ここに高舘山古墳という宮城県で一番古い古墳が見つかった。(名取市文化振興課)

[私説]
閖上には産鉄の跡があるのではないか。十一面観音、陶する、女陰、近くに須賀地名があるなど、鍛冶にかかわる用語がある。
近くの高校のデータでは閖上浜の砂鉄は製鉄にむいているという。



b0228416_21262938.jpg

                  井土浜 八坂神社の跡


b0228416_21273199.jpg

                  名取貞山堀



多賀城碑

b0228416_20475963.jpg多賀城の名が文献に出てくるのは「続日本紀」で宝亀11年(780)である。
陸奥の国の国府があり、蝦夷征伐の鎮守府が置かれた。
宝亀11年に伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)の反乱で焼失するが、再建された。
延暦21年(802)坂上田村麻呂によって鎮守府が岩手の胆沢に移されたあとも国府として栄えた。

その後源頼義、義家父子の治めるところとなり、頼朝も滞在した。南北朝には北顕家の奥州小幕府となるが、しだいに衰退していった。



壺の碑(つぼのいしぶみ)に惹かれて栄華の日を思いこの世の無常を語った芭蕉の足跡が残る。

多胡碑、那須国造碑、多賀城碑は日本三古碑といわれる。(多賀城市観光協会)

b0228416_21342778.jpg

                    震災後の仙石線

野蒜築港跡
b0228416_21435871.jpg



b0228416_2144294.jpg

明治に入って東北地方の経済は遅れをとっていた。

大久保利通は経済発展のためには、交通、運輸の便を良くすることが必要だと感じた。

彼は、明治天皇御巡業に先駆けて東北視察にでかけていた。そのとき石巻を視察していた。

そこで、オランダ人ファンドゥルンを石巻に派遣し、新港の候補地を調査させた。
その結果、横浜より先駆けて野蒜が新港の候補地となった。

明治11年に着工し、北上川運河の開削と水門の築造が行われた。同時に人々の住む市街地を建設した。

警察、電信局、銀行、港に携わる人々の住まい、店などであった。
市街地の権利を購入するものは、
大手企業、三菱や共同運輸などで、地元の会社がなかなか参加しなかった。

築港により、地元の経済発展を狙っての事業だけにこの現象に将来の不安もあった。

次に外港建設に入ったのだが、明治17年の台風により、突堤が破壊され土砂が入り込み、内港に船の出入りができなくなった。
山県有朋はただちに調査をさせたが、野蒜は新港にはむいていないという結果がでた。

野蒜がだめなら女川にという意見もあったが、そのころには東北本線が開通しようという時期になっていた。

野蒜にくるはずだった鉄道は変更され仙台から塩釜に鉄道がとおることになった。

野蒜築港はまぼろしに終わった。(図説宮城県の歴史;河出書房)

b0228416_2257465.jpg



b0228416_22581349.jpg

















石巻 日和山

文治5年(1189)の奥州合戦で頼朝の家人葛西清重は恩賞として牡鹿郡ほか数か所の所領を給わった。

それから、天正18年(1590)に滅ぼされるまで、葛西氏の居城があったという伝承がある。昭和58年(1983)の調査で大規模な中世城郭のあることがわかり「石巻城」として保存されることになった。


b0228416_2311122.jpg


b0228416_23113874.jpg

       日和山より海をみる

震災地をまわるバスツアーが到着し、外国人も多かった。
経済支援として参加する人も多い。

鹿島御児神社

b0228416_23162188.jpg


日和山山頂にある神社で、芭蕉など文人が訪れている。
由緒は鹿島、香取の両神の御子が、奥州へ下向し、東夷征伐と辺土開拓経営にむかうこととなった。
たまたま石巻に到着し、錨を操作したら、石を巻き上げた。
これが石巻の地名の由来である。
大和民族の先達として開拓した祖先神である。(鹿島御児神社サイト)


b0228416_2330682.jpg


日和山のふもとにある門脇小学校で、スポーツ大会が行われていた
津波で流されてきたガスボンベが引火し校舎を焦がしてしまった。
by gannyan1953 | 2011-11-09 09:56 | 宮城県の歴史 | Comments(0)



横浜周辺の歴史散歩
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
> 歴史好きさん ご訪..
by gannyan1953 at 23:57
始めまして。 阿豆佐..
by 歴史好き at 19:53
> rollingwes..
by gannyan1953 at 14:13
初めまして、ローリングウ..
by rollingwest at 16:31
できればメールでお話しし..
by gannyan1953 at 09:08
新横浜スパインクリニック..
by gannyan1953 at 18:23
読めないんですね。申し訳..
by gannyan1953 at 18:09
> ださぶろうさん ご..
by gannyan1953 at 21:44
楽しんでいただけて大変嬉..
by gannyan1953 at 21:41
長津田の大火の事を調べて..
by shin344 at 21:41
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧