歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:古代製鉄・鉱物( 7 )

鶴見川流域の鉄と俘囚

歴史と素適なおつきあい 室内学習  2015・7・10

清水寺 アテルイ・モレの碑

征夷大将軍となった坂上田村麻呂は蝦夷を攻め
そこに住んでいた人を東国から西に少しずつ隔離する状態で住まわせた。
都筑郡には古代製鉄の跡がみられる。
この地にその人々はきたのだろうか・・・・


鶴見川の鉄

柿生にある鶴見川の支流「片平川」には鉄渋が多くみられ,地層に含まれる鉄成分が、
水酸化鉄となって溶け出し堆積したものである。
赤褐色や黄色で褐鉄鉱と呼ばれる。
水酸化鉄は葦や稲科の植物の根元に円筒形の鉱物をつくる。
「高師小僧」といわれ多摩川でも発見されたそうだ。鉄と神

この鉄渋を採集し乾燥粉末化し1000度で加熱すると鮮やかな赤褐色に変化した。
東柿生小学校の体育館建設のときベンガラの土師器が出土、祭祀のときに使われたと推測されている。
水銀からできる辰砂(しんしゃ)ではないかと分析した結果地元由来のベンガラとわかった。
他に粘度にベンガラを練り込んで作られた土器も出土し、
古代の柿生ではベンガラの交易が行われていたのではないかと推測された。

魏志倭人伝に、「倭人は朱丹(しゅに)を体に塗る風習がある」
「生口(奴隷)倭錦、綿布、丹、弓矢を献上した」とある。
古代より日本は水酸化鉄の顔料が多く作られ、この地域の重要な特産品だった・・・と、
この実験で裏付けられたのではないか。

柿生郷土資料館では平成22年たたらによる製鉄で鶴見川の砂鉄40キロから4キロの玉鋼を取り出した。
砂鉄が多くみられたのは市ケ尾高校裏手で、これは50m上流に黒須田川が合流している場所だった。

黒須田とは黒砂(砂鉄)からきたもので砂鉄由来の地名と思われる。
黒須田川流域は剣山、鉄町という鉄関連の地名がある。

調査で鶴見川の砂鉄の成分は火山灰由来のものだとわかった。

柿生には平安末期の遺跡に鉄製品、小鍛冶(精錬された鉄で製品を作る)で使用された
羽口(送風ふきこみ口)の跡が見つかっている。
これは成分から鉄鉱石由来とわかり、手間ひまのかかる砂鉄より原料鉄を
利用した方が合理的だったからと思われる。

この背景にはこの地域の武士の起こりが関係していると思う。                            参考:柿生郷土資料館の情報誌「柿生文化」

古代東国の武士

東国はヤマト政権のころから、軍事的役割を担ってきた。
行田の稲荷山古墳出土の辛亥年銘鉄剣に5世紀この地のリーダーが
杖刀人(じょうとうにん・大王を守る親衛隊)として仕えたことを伝える。

関東の古墳には武装した人形埴輪が多く見られ、
青葉区の朝光寺遺跡の三角板鋲留短甲(よろい・かぶと)や武具が多く出土している。

東北地方に居住した蝦夷を支配するため8世紀から9世紀にかけて大きな軍事行動を起こり、
その武器、物資、兵は東国で負担した。

茨城県石岡市の鹿の子C遺跡は長い竪穴式の建物に炉が整然と並び鍛冶、漆塗りの作業が行われていた。
多量の武器、武具がここで生産され蝦夷との戦いに使われた事がわかっている。

蝦夷が帰属した人を俘囚という。

俘囚はあちこちに移住させられ時に反抗した。
このころ東国には盗賊も多く僦馬(しゅうば)の党など、それらの鎮圧に武芸に秀でた
貴族、王族が東国に土着し武士が生まれた。

平将門の乱の後、征伐した貞盛、秀郷は都の官職を任じられ京にも兵を置き、
子孫たちは東国に地位を確立していった。


鶴見川の鍛冶遺跡

年代     遺跡名                      遺物場所
  •  4〜5世紀  観福寺北小型鍛冶の炉         早淵川   青葉区荏田町
  •  5〜6世紀  矢崎山大規模鍛冶工房跡        早淵川   都筑区荏田南
  •  6〜7世紀  北川表の上精錬〜鍛冶工房跡      早淵川   都筑区早淵
  •  7〜8世紀  権田原精錬〜鍛冶工房跡        早淵川   都筑区早淵
  •  7〜8世紀  上谷本第二精錬〜鍛冶工房跡      谷本川   緑区上谷本
  •  8〜9世紀  受地だいやま精錬・鍛冶炉       恩田川   青葉区奈良町
  •  8〜9世紀  上郷深田精錬             㹨川    栄区上郷町 
  • 10〜12世紀  西ノ谷精錬炉・武具・馬具の製作    早淵川   都筑区南山田
  • 14〜15世紀  茅ヶ崎 小机城内の鍛冶工房跡     早淵川   都筑区・港北区


           伊藤薫:「鶴見川流域の鉄分かシンポジウムⅡ」資料参照


西ノ谷遺跡


    西ノ谷遺跡出土の鉄製品

都筑区南山田2丁目1〜4・15に所在した遺跡で造成工事のため大半は削られ
現在一部は大善寺の新設墓地、また南の邸宅の裏山として面影を残している。

大善寺墓地あたりにオミネ屋敷(近世の住宅)があり、
北には西ノ谷貝塚、東北には南堀貝塚、南西に古梅谷遺跡と遺跡が多い。

1987〜1988年に発掘調査され、先土器時代から現代までの遺構が発見された。

注目されたのは鍛冶跡がみつかったことである。
8世後半の集落跡には鍛冶跡はなかったが、10世紀にはいると中央に断層を
利用した大溝が掘られ鍛治工房があり、11世紀になると拡大されていた。

特徴は搬入された銑鉄塊を素材とした精錬、製品が作られていたことである。

この一貫した製造過程は近辺では見られない。

鎧に使用する小札(こざね)鏃(やじり)武具、武器、農具、釘など作られ、
特に小札が珍しかった。
小札が製作される鍛冶工房を確認したのは初めてのことだという。
それまでは小札製作は近江、京都といわれてきたが、東国での生産地が発見された。
             (兵の時代古代末期の東国社会:横浜市歴史博物館)

鍛治工房の経営者は誰だったのか?

坂本彰氏の推測は、都筑氏、秩父平氏の榛谷重朝、稲毛重成、師岡重経、
多田行綱、武蔵守藤原公信があげられている。

残念なことに否定要素が強い人は都筑氏、多田行綱でいずれもこの都筑関係者であった。

伝説、多くの文献にみられない人なのでこの地域のことが詳しく書かれている
文献、史料はみつからないものだろうか。

また注文者がわからないのは11、12世紀の集落が都筑、橘樹、
久良岐郡に発見されていないからだという。
坂本氏は平忠常の乱に対応して西ノ谷で小札製作がはじまったのではないかとみている。

11世紀前半長元元年(1028)に上総介平忠常が安房国守を殺害し、内乱が続いた。
同4年(1031)に収束し、活躍した多田満仲の子頼信は東国に名を馳せた。
そこに頼信の軍事力の中心が西ノ谷だったかもしれないという見方もしている。
                     (参考:坂本彰:鶴見川流域の考古学)

この製鉄技術者はどこからきたのか・・・
さきほどの俘囚が最初に製鉄技術を東国にもたらしたのではないか。
青葉区のあざみ野南にはあざみ野南鍛冶谷公園・、赤田東と西公園など製鉄地名があり、
あざみ野南宇たり公園はアイヌ地名ではないかと考えた。

ただなぜウタリなのか未だにわからない。
ウタリはアイヌ語で同胞、仲間という意味がある。このあたり、古代に俘囚がきたのではないか。

俘囚とは
古代の蝦夷のことで、蝦夷征伐が行われ王化した従属したものをいう。

俘囚の用語の初見は
「神亀2年(725)陸奥国俘囚144人を伊予国に配し、578人を筑紫に配し、15人を和泉監に配す。」

そもそも蝦夷はアイヌなのか既存の東北住民なのかも意見が分かれる。

ここでいう俘囚は、産鉄が得意な民だったという見方で考える事にする。

平泉近く白山岳ふもとに舞草(まいくさ)神社がある。
その裏手から多くの鉄滓が出土した。
鍛冶場だったと推測される。

舞草(もくさ)刀は平安時代に直刀から湾刀に移行するが、日本刀のルーツといわれている。
蝦夷からの献上品として正倉院にも納められている。


   正倉院の舞草刀

「将門と鉄」より将門と鉄

将門の武器は毛抜形太刀といわれ柄の部分が毛抜のような透かし彫りになり、
物を切る衝撃から手を守るために透かしてある。

蕨手刀という蝦夷の刀は彎曲し、 騎馬で戦うには使いやすいものであった。
柄が蕨のような形をしているのでそうよばれている。
日本刀の原型といわれ、北上川流域の餅鉄を原料に、
舞草(もぐさ)、月山、宝寿という鍛冶集団があった。

この蕨手刀からより日本刀に近づいたものが毛抜形太刀である。

俘囚たちは全国に移住させられその生活は狩猟や武芸訓練であった。
9世紀の国内治安維持には主要な軍事力であった。
俘囚の中から長を選び俘囚社会を治めさせた。

9世紀ころから俘囚らによる改善要求の乱が多く起こり、
将門の父良持は鎮守府将軍として出羽や陸奥に赴いたときこの蕨手刀の威力を認識したことと思う。



俘囚の住む所が別所であるという説を菊池山哉(郷土史家)が唱え、
産鉄に詳しい柴田弘武がその後に他の全国の別所地名調査を行なった。

それによると共通点があり、必ずしも一致するものではないが、うなずけることが多い。


別所という地の共通点

①山間、僻地に多く、白山権現を祀る白山神社がある

白山神社は加賀の一宮白山比咩神社で祭神は菊理媛命(くくりひめ)である。
全国の白山神社の祭神は菊理媛命、イザナギ、国常立命、十一面観音など様々である。
東日本に多い理由は「オシラサマ」からきているのではないかという推測がある

②慈覚大師の開基した寺がある 

蝦夷の服属に信仰心でもって静めようと考えた朝廷は、
国分寺に五大尊を置いた。松島の五大堂もその一つである。
そして慈覚大師は武蔵と上野の国から600石を賜り各地に寺院を
建立するよう清和天皇に命じられたという。
清和天皇の時代に元慶の乱(出羽俘囚の反乱)が起きている。

蝦夷はもともと偶像崇拝だったのでその効果があったといわれる。
別所に多く薬師堂を建立し、毛越寺の吉祥堂の観音は大原別所の
補陀洛寺(ふだらくじ)の観音を模したといわれる(吾妻鏡)。
平泉の基衡(奥州藤原2代)が大原別所の観音を選んだ事は
別所と俘囚の関係を物語るのではないか(菊池山哉)


③東光寺、東光院がある

東方浄瑠璃の世界を意味し、薬師如来を本尊とすることが多い。
東光院も同じ。関東では白山社がいっしょになっていることが多いが、
神社合祀のとき多く廃されている。
関東ではハンセン病や、行き倒れ、遊女、罪人、動物供養を行ってきた歴史が多く残る。

④古くから存在する「和名抄」に載っているような集落で古い神社や勅願寺がある

⑤製鉄、鍛冶遺跡がある

蝦夷が製鉄、鍛冶に長けていた事が別所での製鉄、鍛冶が行われる事になる。

柴田広武氏は産鉄と名付けたが陸奥における産鉄の地が多くあることが
それを立証している。

蝦夷は反抗する荒ぶる人々ということで征夷が行われたが
朝廷は鉄の技術を求めて征夷したのではないか。
 
⑥奥羽六カ国と薩摩の隼人のいた地域、特殊な国といわれる飛騨国には存在しない

飛騨国はなぜ特殊なのか・・律令時代山国で租庸調で出せるものがなく
木挽きや大工が徴用され、平城京や東大寺の建設に携わった。
現在でも飛騨の匠と言われている所以である。過酷な労務に逃亡するもの者も出て
平安初期の太政官は「飛騨人の言語容顔は他国
と異なりすぐわかるので、早速捕まえて差し出せ」と諸国に命じた。飛騨には両面宿儺の
伝説が伝えられこの異形の人物から「異なる人」といわれたのだろうか。

 日本書紀・仁徳天皇65年に両面宿儺が登場する


飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。ひとつの胴体にふたつの顔がありそれぞれ反対側を向いていた・・略・・皇命に従わず人民から略奪することを楽しみ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した。

久良伎郡 大岡別所
入り込んだ谷間にあり別所村として存在する。白山権現を祀り薬師堂がある。墓場は共葬で丸石を置いた。入り口の村は最戸(さえど)村という。塞戸のこと。石棒を石神として祀り、山の頂上にあったという。

久良伎郡 鶴見別所
末吉村に属し鶴見の西北一里。


久良伎郡 寺尾別所
北寺尾村に属し別所谷と呼ばれる。鎮守は熊野神社で昔は師岡に属していたらしい。鶴見とは隣接して近いのだが、昔は付き合いがなかった。
久良伎郡の頭領は白山堂のある大岡か、十一面観音のある弘明寺だったのではないか。

橘樹郡 長尾別所
長尾村と上作延村の境にあり、別所台には十三塚が残る。妙楽寺は慈覚大師開山で薬師三尊の日光菩薩から威光寺といい、慈覚大師のことが書いてある墨書が発見された。威光寺は俘囚の長がいたといわれる。将門郎党の墓と信じてきた五所塚はやはり十三塚だったのか。別所には境に十三塚が多く残る。

橘樹郡 野川別所
別所は影向寺をはさんだ両脇にふたつある。長弁僧都の「私案抄」に薬師如来を安置とある。
寺伝では行基開山、慈覚大師彫刻の勅使が納めたとある。

橘樹郡 綱島別所
昔は氾濫の多い島だったと思われる。綱島駅西北すぐのところである。
近くに東照寺があり本尊は薬師如来である。
陽林寺は十一面観音秘仏がある。大倉山の麓に観音堂があったという。



長野県  別所 
別所温泉として有名であり、北向観音の本尊は千手観音で慈覚大師の草創と伝わる。北向の観音は他にもよくあるが、蝦夷静謐祈願と思われる。

長野県秋山郷  結東村・穴藤村 と境村・現在栄村
秋山郷とは新潟の津南町と長野の栄村にまたがる秘境で、昔から中津川結東村は新潟に属す。
長野に属す栄村とつながっているが、里どうし交際がなく、結婚もしないという関係である。
近年まで積雪のため隔絶されることもあり、何度も飢饉、飢餓は起こり天明の飢饉で村が絶えたこともある。
生活は幕末にようやく稲作が行われ、それでもなお狩猟と焼畑で生活を支えた。
結東村には3軒のみ屋敷があり他は竪穴住居であった。
赤沢部落に十一面観音(白山信仰)、阿弥陀如来、聖徳太子黒駒像は職人が祀るもの、十三塚がある。
江戸時代に良質の銅石が出るというが、栄村の和山に銅の製錬跡が見られるくらいで秘密に行われ未だに謎の銅山といわれる。
赤沢は鉄分の多い温泉がでる。ここが別所であると思われるのは、地勢から中津川流域は越後に属してもいいと
思われるのになぜか分断され、付き合いがないということから栄村の方に数戸の俘囚を配し、
これを管理する長野側と俘囚を嫌った新潟側に別れ、塞がれたのではないかと菊池山哉は考えた。


別所地名のない製鉄地名

剣神社ー大蛇と剣の伝説
昔陸奥国より炭商人が鎌倉街道を歩いて鍛冶に炭を売りにきた。
久しぶりに来たので喜んで鍛冶が作った刀を一振り与えた。
商人は喜んで国に帰る途中、泉で喉を潤した。
それが酒のようにおいしく、眠気を催し寝てしまった。
そこへ大蛇がやってきて呑み込まれそうになった。
さきほどもらった刀で大蛇を刺し命が助かった。
その刀は祀られ剣明神とよばれた。

菊名池ーダイダラボッチ伝説
やさしい大男が水浸しになった村を救う話で働きすぎて
しりもちをついた所が菊名池だそうだ。(篠原池にもある)

師岡熊野神社ー片目の鯉の伝説
いの池に片目の鯉がいたという。片目、片葉は製鉄地名。

長津田・成瀬ー東光寺
東光寺がかつて存在した。江戸時代東光寺と長津田との境界争いがあった。
境界と思われる場所に木炭を埋めた。
原嶋源右衛門が木炭が証拠であると幕府の役人に伝え、境界は定められた。
その後木炭を埋めたのは最近であるとわかり境界を偽り詐称した罪で
源右衛門一家がこの地で処刑されたという。
崖山と呼ばれる所で崖山地蔵が供養に置かれている。

鎌倉街道中道編より
中世このあたり東光寺村があり鎌倉街道、刑場があった。
家康が入国する村を分断しそこに新たに幕府の役人井上主水が配属され境界のもめ事に発展、
土着していた源右衛門が処刑されたが、当地では義民原嶋源右衛門といわれている。
恨み籠る場所として鎌倉街道を行く人に怖れられたが、
街道は大山街道にとってかわり、長津田に宿が移った。
鎌倉時代この道は畠山重忠が通った道である。

杉山神社
茅ヶ崎杉山神社は懸け仏がある。懸け仏は製鉄地の寺に多くある。



参考 別所と俘囚:菊池山哉(1890〜1966)鶴見川流域の考古学:坂本彰  
鉄と俘囚の古代史 産鉄族オオ氏:柴田弘武 秋山紀行・北越雪譜:鈴木牧之
栄村秋山郷観光協会HP 鎌倉街道中道編:芳賀善次郎
by gannyan1953 | 2015-06-25 14:03 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

峰之澤鉱山

歴史と素適なおつきあい番外編         2014・8・6

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峰之沢橋

奥天竜を秋葉山、鳳来山を目的にドライブした。
秋葉山で、昭和18年(1943)峰之澤鉱山の火災が原因で、秋葉山神社が燃えてしまった事を知った。
峰の澤鉱山は今でも残っている建物があり、廃墟好きには訪れたい場所だ。
今でも昭和全盛時のアパートや廃坑が見られるらしい。

「石の肺」を読んで

峰の澤は寛文9年(1669)にその存在を示す記述がある。
その前には武田信玄が金を採掘したという話もある。
このそばを通る「塩の道」は信州和田峠の黒曜石も運び、近くに縄文街道といわれる古代遺跡をつなぐ道もあった。
古代から銅が産出していたと思う。

秋葉の地名の由来に
①梵語に阿耆尼(あぎに)という火の神があってここから秋葉のアキ、ハは場所を表す
②アオキという植物はアキバ・オオキバと呼ばれ木の葉は焙って貼ると火傷の薬になり、
分厚い葉は、火伏せの役もあったという

鉱山の火災は
明治34年(1901)3月
昭和18年(1943)3月
昭和25年(1950)3月 とある。
この昭和18年の火災でお参りするために、下社が作られた。
カーナビはこの下社しか示さない。

秋葉山本宮神社から北2キロに峰の澤鉱山、北10キロに久根鉱山がある。
共に銅を産出する。
このあたりは中央構造線があり、鉱山は多い。
飯田線も走りこの崩れを起こしやすい地形でトンネルを掘るのに難儀したという。

峰の澤鉱山の操業が再び起こったのは
明治40年(1907)日本鉱業の創始者、久原房之助が買収し、
第一次世界大戦の不況と鉱山火災で一時休山。

昭和13年(1938)に直営を開始してからである。
鉱床は久根と同じ含銅硫化鉄鉱である。

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峰之沢産の含銅硫化鉄鉱

久根は黒色片岩に緻密塊状鉱で、峰の澤は磁鉄鉱を含む珪質の縞状ガリ鉱だという。
三波川変成帯で採れる鉱物で別子銅山が有名である。

昭和16年(1941)選鉱場ができ拡張されたが、又火災でほとんどを失う。
昭和18年1943)中国人労働者が配置され197人が到着した。
しかし2ヶ月あまりで66人が死亡し、原因は栄養失調だという。

昭和21年(1946)には復興し
昭和25年(1950)に勢いを盛り返した。
昭和31年(1956)に大きな選鉱場が完成、日本屈指の鉱山となった。

従業員700人、社宅365戸、鉄筋アパート2棟24戸、千数百世帯が住み、
学校はじめ商店もでき天空の町となった。
その後貧鉱となり、銅の輸入自由化により
昭和44年(1969)閉山となった。

よろけ
間宮茂輔の「あらがね」の引用である。
作家を志し慶応大学を中退し大正7年(1918)久根鉱山に入社。
その2年間に見てきたことが書いてある。

『このころ鉱山の飯場制度も衰え、労働者は直轄鉱員制により従業員となった。
飯場制度の賃金のピンハネ、残虐な強制労働から解放されたころの話である。


おもうように働けなくなれば容赦なく首を切られた。
渡りの鉱夫でもそうなれば最早やよその鉱山(やま)へ移ってはたらくことはできなくなり、
所属の飯場頭に泣きついて「奉願帳」を作ってもらい
飯場から飯場へと一宿一飯の仁義をうけ、わずかな草履銭をもらって
次の鉱山を目指してゆくのである。
こういう消耗つくした渡り鉱夫の末路はどうなるのか。
さらに悲惨なのはよろけになった者の運命であった。
曽根(間宮)は咲根(久根)にきてから見学のために入坑して、約半日
ほど切羽(採掘現場)から切羽へと廻り歩いて岡(坑外)へ出てくると
、はげしい咳と一緒に吐いたたんがまっ黒なのに愕然とし、
「ああ、これだ」
と、つぶやいた。
「これがよろけのはじまりなのだ・・・・・」』

このころからよろけと呼ばれていた。
坑内には鉄の混ざった粉塵が漂っている。
それを吸い込むと肺の中にたまり金属が沈殿していく。
最初はぜんそくと診断されていたが、珪肺・じん肺という病気である。
現在ではアスベストも入る。
たまった金属で肺が繊維化し、息が苦しくなり
治る事はなく、進行して苦しんで亡くなる。
火葬場でお骨を拾うときに黒い金属が残るという。

菅江真澄は
どこの山でもかなほりの工(たくみ)になると烟(けむり)という病にかかり、寿命も短く、
四十歳まで生きるのは者はまれである。
と江戸時代に書いている。

古くからあった病気である。

患者たちはじん肺訴訟を起こした。
1985年に判決が出て、損害賠償金が出された。


















by gannyan1953 | 2014-08-22 17:15 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

鉄と神

歴史と素敵なおつきあい2008・7・11・金曜  座学
鉄と神
                                       
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ケラ
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お台場の未来館展示
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未来館でたたらをしたときにできたケラ
2014・4・11撮影


人間と鉄との出会い

隕鉄―小惑星の核のニッケルを多く含む鉄。核の冷却速度が遅いため特異な組織をもつ
砂鉄、鉄鉱石―山火事、たき火などで鉄に還元され、偶然発見されたと考えられる。

製鉄のはじまり

鉄の精錬技術を独占していたBC20世紀ヒッタイト(トルコ)からといわれる。ヒッタイト帝国はBC19世紀に歴史に登場する。エジプトの全盛時代、ラムゼス2世と互角に戦うが、BC12世紀に衰退する。それを契機に製鉄技術が広まったといわれる。

日本の製鉄のはじまりの通説

日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入(韓鍛冶)しており、石器時代から青銅器時代を飛び越え鉄器時代に突入したと言われている。しかしながら、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入(鉄挺・鉄素材)に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、たたら製鉄の原型となる製鉄技術が確立した6世紀の古墳時代に入ってからだと考えられており、たたらによる製鉄は近世まで行われる。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在する。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及する。


古代製鉄の条件

1.日本列島の地質は砂鉄が多い!
    花崗岩から構成され」花崗岩には磁鉄鉱が多く含まれる。
    日本の場合、ユーラシアプレート、太平洋プレート、
    北米プレート、フィリピンプレートがぶつかり、
    巨大な圧力によって近くの花崗岩が砕かれる。
    それでもろく風化しやすい。
    結果、磁鉄鉱が粒になった砂鉄が多く、
    世界の三大砂鉄産地といわれる。(ニュージーランド、カナダ)
     (関岡正弘)
 
2、森林が多い!
    朝鮮に木が少ないのは古代製鉄のためであると
    司馬遼太郎はいっているが、
    日本は森林を伐採し、植林することで再生が早い気候である。

3、風通しのよい丘陵!    
     鞴(ふいご)など風を送る装置が考えられる前は自然風を利用した。

4、水が多い!         
      鉧(けら)の冷却、砂鉄の鉄穴流しに利用。


鉄の発見

砂鉄―地表に近い所に砂鉄があり、その地表で土器を焼いた時、砂鉄から還元された鉄が得られた可能性がある。
砂鉄のたくさん含まれる浜辺で焼いて偶然鉄を発見したかもしれない。

餅鉄(もちてつ・べいてつ)―東北には餅鉄という純度の高い(鉄分70%)磁鉄鉱がある。
大槌町(岩手・遠野、釜石に隣接)あたりに古代製鉄遺跡がみられる。
明神平では3600年前のカキ殻の付着した鉄滓が出土している。
明神平には小槌神社があり、現在の祭神はヤマトタケルだが、
もとは、古代の製鉄を普及した先人が祀られていたという。
この縄文人はお盆状の野焼き炉に餅鉄とカキ殻をいれて火をかけ、
矢鏃、釣り針を作ったらしい。
ちなみに舞草鍛冶は、岩手県一ノ瀬の舞川あたりでとれる餅鉄の製鉄が
発祥といわれる。(HP劇場国家日本より)


高師小僧(たかしこぞう)


愛知県豊橋にある高師原で発見された褐鉄鉱の塊のことである。水辺の植物の根に鉄バクテリアの作用で水酸化鉄の殻を作る。時を経て植物が枯れ中央に穴のあいた塊が残る。高師原に戦前陸軍の演習場があって雨が降ると頭を出し、幼児が並んでいるようにみえたことから名付けられた。
全国の製鉄遺跡がみつかった場所に多くみられる。
代表的なところが諏訪地方、大阪府泉南市、滋賀県日野町別所などがある。
諏訪の川には葦が茂り、諏訪湖のほとりも葦がたくさんある。ここにスズといわれる塊が製鉄原料として使われた

スズ=褐鉄鉱の塊=高師小僧=みすず=鳴石
「三薦(みすず)(水薦(みこも))刈る 信濃の真弓 わが引けば 貴人(うまひと)さびて いなと言わかも」
みすずは信濃国の枕言葉で、「みこもかる」は「みすずかる」ではないのかと賀茂真淵が唱えたことからみすずは、スズ竹のことであるといわれた。スズ竹は、篠竹で諏訪に多く産する。
うたの意味は「この弓を引いてあなたの気を引くのは貴人みたいで、あなたはいやがるかしら!?」という意味である。

湛え神事

諏訪大社の古い神事のことで、高鉾につけられた鉄鐸が使用される。
鉄鐸は、てったく・さなぎと呼ばれ銅鐸の原形といわれる。湛え神事は作物の豊穣を願う神事といわれているが、スズの増殖、鈴なりに地中に生成されることを願ったのではないかと考えられてきている。



諏訪大社

祭神は建(たけ)御名方(みなかた)命(のかみ)(南方刀美命)で、出雲の国譲りで納得できず諏訪に逃げてきた神である。
土着の洩(もり)矢(や)神(しん)を制し祭神となった。洩矢神は鉄輪を使い、建御名方命は藤の枝を使って戦った。
藤は砂鉄を取り出す鉄穴流しで使うザルで、この話は製鉄技術の対決だったという。



古代鉄関連地名・関連語

砂鉄 : スサ(須坂)・スハ(諏訪)・スカ(横須賀)・サナ(真田、猿投)

錆 : サヒ(犀川)・サム(寒川)・サヌ(讃岐) 

鍛冶:鍛冶ヶ谷、梶ヶ谷 
         
ズク、銑鉄 : スク~ツク(筑波)・チク(千曲川)

穴に住む人、鉄クズ : クズ(国栖)・クド(九度山)  
     
踏鞴 : タタラ(多々良浜)・ダイダラ(太平山・秋田)―ダイダラボッチ伝説


吹く : フク(吹浦)・イフク(伊吹山)・吹田 
 
鉄穴流し : カンナ(神奈川・神流(かんな)川) 鉄の古語 : ヒシ~イヒシ(揖斐川)

朝鮮語で刀 : カル(軽井沢)・カリバ(狩場)  

溶けた鉄 : ユ(湯沐村)・ヌカ(額田) 水銀 : ニ(丹生、新田)

葉山―羽山―羽黒―鉄漿 
 
芋―鋳物―イモー溶鉱炉―炭―鋳物師(いもじ)村―鋳母(けら) 


別所 : 浮囚 、製鉄地 
百足:東北地方の鉱物の呼び名―赤百足(金、銅)・白百足(銀)・黒百足(鉄)・縞百足(その他の金属)

砂鉄を熔解し、湯出口(ゆじぐち)からノロ(鉄滓)を吐き出す。これを沸ぎ間(たぎま)という。
最初のノロを初花という。
頭領は砂鉄を扱うのが村下、木炭投入が炭坂という。
丸三日のかかり一夜(ひとよ)という。
初日の炎の色は朝日の色、中日は昼間の色、三日目は夕日の色になる。鉄塊をコロといい、叩き割って鉧(けら)と銑(ずく)を分ける。
鉧は鋼鉄、銑は銑鉄の原料となる。
青と呼ばれる真砂からは、鉧が多く赤目という砂からは銑が多い。
真砂は鉧押法(けらおしほう)といい、赤目は銑押法(ずくおしほう)という。
これを踏鞴吹き(たたらふき)といい、大きな鞴を使った。
火炉(ほど)は女陰、風の吹き込み口を羽口というがそれを陽根にみたて、鉄の生産=出産にみたてる。
ところが、人の出産は、忌避され女房が出産するとひと月近く夫も高殿(たたら)には入らない。
女も高殿には入れず、山内にいる女性は飯炊きのみである。
番子(送風を足踏みで行うこと)で足を痛めるので「ビッコ」をひく。
火炉を見つめ、目を悪くするので目鍛冶から「めっかち」「がんち」といわれる。
口で火を吹くさまから「ひょっとこ」といわれる。


金屋子信仰―白鷺にのって出雲に降り立ち、桂の木(神木)で休んでいたところ、土地の宮司の祖先阿倍氏に会い、製鉄を教えた。
中国地方各地に伝説があり、村下となった。

一般に女神とされる。麻につまずいて死んだので麻が嫌い。
犬に追いかけられて蔦に登って逃れようとしたが蔦が切れて落ち、犬にかまれて死んだので蔦と犬は嫌い。

他説では犬に追いかけられみかんの木に登り、藤に掴まって助かったのでみかんと藤は好き。
死体を桂の木に下げると大量に鉄が生産できるので、死体を好んだ。
自分が女性なので、嫉妬からか女性が嫌い。村下は女性のはいった湯にはつからない。

鉄・鍛冶の神


稲・・稲妻・・雷神・・餅・・武甕槌大神タケミカヅチ(宮城・塩釜神社)賀茂別雷命(京都・上賀茂神社・葛城を本拠にした渡来人で製鉄技術を伝えた秦氏の氏神)・・建御雷神(塩釜神社)

稲・・鋳成り(いなり)・・稲荷・・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)豊宇気毘売(とようけびめ))・御饌津神(みけつのかみ)・・三尻神・・三狐神・・伏見稲荷

蛇・・龍・雷・虹・菖蒲の葉・刀―建御名方神タケミナカタノカミ(大国主の子)・・諏訪大社

蛇・・三輪山・・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大巳貴神(おおなむちのかみ)・・大神(おおみわ)神社

金山彦・・イザナミの子・・南宮大社(岐阜)・・黄金山神社(宮城・金崋山)

金屋子神(かなやこのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・金屋子神社(島根)

一つ目小僧・・片目伝説・・一目連(いちもくれん)・・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・天津麻羅(あまつまら)・・多度大社(三重県桑名)・・天目一神社(兵庫県西脇)

風の神・・一目連(いちもくれん)・・多度大社・・龍田神社(奈良県生駒にあり、法隆寺の鎮守)

風の神・・蚩尤(しゆう)(武器の神・風を支配)・・兵主神(ひょうずのかみ)・・穴師坐兵主(あなにいますひょうず)神社(奈良)・・伊太祁曽(いたきそ)神社(和歌山)・・五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神)


天日槍(あめのひぼこ)・・新羅の王家の者と伝えられる・・韓鍛冶集団の渡来・・出石(いずし)神社(兵庫県豊岡・但馬国一之宮)


火・・たたら・・火之迦大神(ひのかぐつちのおおかみ)・・秋葉神社(静岡県浜松)愛宕神社(京都右京区)

百足:三上山(天目一箇神)・赤城山(大巳貴神)・信貴山(毘沙門天)・二荒山(大巳貴神)

東南風・・イナサー東南風は黒金をも通す(鹿島)・・武甕槌大神タケミカヅチノカミ(物部の神)・・鹿島神宮

経津主(ふつぬし)・・星神・・鉱山は星が育成すると考えた・・香取神宮(千葉)鹿島神宮(茨城)春日大社(奈良)塩釜神社(宮城)

山の神・・大山祇命(おおやまつみのみこと)・・大山祇神社(愛媛)三島大社(静岡)大山阿夫利神社(神奈川)寒川神社(神奈川・古代の祭神が大山祇といわれている)

小人・・小さ子・・小人部・・一寸法師・・少彦名神スクナヒコノカミ(体が小さく大国主とともに国造りに関わる・温泉・酒)・・大国主系、淡島系神社・・出雲大社・・気多神社・・大神神社・・伊福部氏

河童・・川子大明神・・水天狗・・海御前(二位の尼と安徳天皇の後を追って入水し、河童になった伝説)・・水天宮


巨人・・ダイダラボッチ・・デイタラボッチ・・たたら・・榛名湖・・富士山・・浅間山・・筑波山・・赤城山・・浜名湖・・世田谷区代田・・相模大野の鹿沼・・鬼怒川・・利根川・・秋田太平山・・羽黒山など。

跛者・・びっこ・・足萎え・・恵比寿・・西宮神社(兵庫県西宮)

吹く・・伊吹・・伊福部・・銅鐸・・スズ・・諏訪系神社

吹く・・できもの・・疱瘡神(牛頭天王)・・素戔嗚尊・・八坂神社(京都)

丹生タンショウ・・誕生―出産、安産の神・・丹生神社(にゅうじんじゃ)(和歌山)・・丹生津姫(紀元前8世紀春秋戦国時代に渡来した呉の太白の血筋の姫)・・丹生津姫神社(和歌山)

八大天狗・・山伏・・愛宕山(太郎坊、京都)・鞍馬山(僧正坊、京都)・比良山(次朗坊、滋賀)・英彦山(豊前坊、福岡)・飯縄山(三郎、長野)・大峰山(前鬼坊、奈良)・白峰山(相模坊、香川)・相模大山(伯耆坊、神奈川)

天狗・・秋葉山(三尺坊)羽黒山(金光坊)高尾山(飯縄権現)大雄山最乗寺(金太郎)など
    出羽三山・・月読命月山神社・・羽黒権現出羽(いでは)神社・・大巳貴命・・大山祇命・・湯殿山神社

鬼・・温羅(うら)・・吉備津(きびつ)神社の鳴釜神事の竈の下に温羅の首を埋めた・・死体を南方の柱に結び付けると鉄がわく(たたら)

吉備津彦命(四道将軍・温羅伝説・桃太郎伝説)吉備津神社(岡山・備中一之宮・矢立神事)・・大江山の鬼退治(銅鉱脈)・・鬼嶽稲荷神社稲荷大神


一寸法師・・清水寺(十一面千手観音)の音羽の滝、音羽山(金、銀、銅がとれ元清水寺の地といわれる・京都)

坂上田村麻呂(清水寺寄進)・・鬼退治伝説の地は、東北の鉱脈が多い

湯・・湯立神事・・大湯坐―唖(ホムツワケ火持別で、火中生誕)・・白鳥が鳴いたら唖が治った・・天湯河板挙(神(あめのゆかわたなのかみ)(白鳥を献じた人)天湯河田神社(鳥取)・・金屋子神の乗った白鷺―客神(まろうど)・・白鳥・・餅・・矢・・矢にまつわる神事(弓矢は釣針と同一・幸福をもたらし、霊力がある)


朝日・・日吉・・日野・・猿・・日光二荒山・・俵藤太・・三上山・・百足山・・炭焼藤太・・淘汰―金、砂鉄を水で淘る(ゆる)

木地師・・惟喬親王・・小野・・小野氏・・小野氏の流れの柿本人麻呂・・鍛冶・・米餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)小野神社製鉄地に多くある神社

お歯黒・・鉄漿(かね)・・鉄・・羽黒山神社・・鉄を多く含むハグロ石・・鉄鉱泉・・修験道・・出羽三山・・湯殿山神社(大巳貴神)

修験道・・鉱山・・もともと修験道は神仙薬を探し求めた(水銀、ヒ素)・・不老長寿薬・・中央構造線

水銀―・・丹生・・丹生津姫(大陸から渡来した姉妹でのちに天照大神と丹生津姫になった)・・お遠敷(おにう)明神(二月堂のお水取りで若狭から水を送る神)・・罔象女(みずはのめ)(天照大神の子で漂う神)水神・・ミズハー水刃(金属)

毘沙門天・・製鉄神・・鞍馬山(鞍馬寺)、愛宕山、信貴山(朝護孫子寺・毘沙門天・奈良)

妙見神・・秩父神社(埼玉)千葉神社(千葉)日蓮宗の寺(妙見菩薩)

不動明王・・産鉄地に多い 真言宗、天台宗の寺院

虚空蔵菩薩・・妙見神・・北辰信仰・・虚空蔵山(佐賀、水銀・波佐見鉱山)虚空蔵尊(高知、金)虚空蔵尊(三重、金剛証寺、銅、クロム、コバルト、鉄、ニッケル)能勢妙見(大阪、金、銀、銅)磐裂(いわさく)神社(栃木・足尾銅山)七面天女―吉祥天―妙見神(山梨・敬慎院・甲州金)清澄寺(虚空蔵菩薩・妙見尊・金剛薩埵―ダイヤモンドのように堅く不変の金属・角閃石・斜長石・黒雲母・丹生など)

東北のキリシタン・・南蛮製鉄を伝え、伊達藩では産業擁護のため、キリシタンの多い製鉄民を保護していたが、幕府に逆らえず、処罰した。(岩手県東磐井郡大籠)



参考:金属と地名、青銅の神の足跡:谷川健一 
隠された古代:近江雅和 
黄金と百足、金属鬼人柱:若尾五男 
日本古代祭祀と鉄、古代の鉄と神々:真弓常忠 
風と火の古代史(よみがえる産鉄民):柴田弘武 
鉄の民俗史:窪田蔵郎 
神々と天皇の間:鳥越憲三郎 
杉山神社考:戸倉英太郎 
古代山人の興亡:井口一幸  
弥生時代のはじまり:春成秀爾  
ながされびと考:杉本苑子
伊勢の神宮ヤマトヒメ御遷幸のすべて:大阪府神社庁 
古代の製鉄:山本博 
古代伝説の旅(電車・バス・徒歩でたどる東急沿線):新井恵美子 
靖国刀:トム岸田 
鉄から読む日本の歴史、 新羅花苑(壬申の乱異聞):宇田伸夫 
日本科学古典書(鉄山秘書):三枝博音  
まぼろしの鉄の旅:倉田一良 
古代東北エミシの謎 日本の神々:鎌田東二 
鬼の日本史:沢史生 
鶴見川流域の考古学:坂本彰  
空海と錬金術:佐藤仁 
空海の風景:司馬遼太郎 
古代史を解く九つの謎:黒岩十吾 
日本神話の謎がわかる:松前健 

HP:中央構造線と古代史を考える 
  伊太祁曾さんの風土記 
  博物館ニュース 
  坂東千年王国  
  日立金属 和鋼博物館  
  ウイキペデイア




by gannyan1953 | 2012-11-20 09:35 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

壬申の乱 大海人皇子 村国男依

歴史と素適なおつきあい           2012・7月


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村国神社

壬申の乱と鉄




天智天皇が大津の宮で病に倒れると、大王(おおきみ)継承をめぐるさまざまな思惑が動き始めた。


後を継ぐ者は大友皇子(おおとものおうじ)か、大海人皇子(おおあまのおうじ)か?

皇位継承をめぐり、古代史最大の戦乱がはじまった壬申の乱という。

壬申の乱とは、病にふせる天智天皇の見舞いをした弟の大海人皇子が、


「継承者を皇后の倭姫(やまとひめ・古人大兄皇子の娘)に譲り大友皇子が政治を行うように」と言い残し、吉野に隠遁したはずの大海人皇子の蜂起にはじまった戦いである。

❋古人大兄皇子は天智天皇(中大兄皇子)に謀反の疑いで殺されている

状況

天智天皇と大海人皇子兄弟の微妙な対立を調整してきた藤原鎌足が669年に亡くなった。

大友皇子の母は、伊賀采女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)という地方豪族出身であり、

身分が卑しいとされ、父と同母弟である大海人皇子を押しのけて王位継承者になることが困難であった。

671年、天智天皇は実子の大友皇子を太政大臣(だいじょうだいじん)に任命した。

これは、大海人皇子が権力ラインからはずされたことになる。そして大海人皇子は職を辞して、

吉野に下ることになるのだが、日本書紀はこのことを「虎に翼を着けて放てり」と評している。

672年暮れに天智天皇が崩御した。

半年後「天智天皇の山科稜築造のために、美濃、尾張から農民を動員しているが、その者達に兵器を
とらせている」
と大海人皇子に報告があった。

その動員は吉野を攻めるためではないかと思い、反乱の決意を固めたという。

大海人皇子が頼った湯沐邑(ゆのむら)は、皇太子の領地のことで、古くは「壬生部」(みぶべ)といわれた。

この時代の湯沐邑は、私領地として大海人皇子との結びつきが強かったと思われる。

大垣から安八郡、さらに揖斐郡にわたり南北に広い地域であった。

湯沐邑の責任者・湯沐令(ゆのうながし)は多臣品治(おおのおみほむじ)という。

多の一族で、一族の中に太安万侶がいる。太安万侶の父であるという説もある。

❋太安万侶とは古事記の編纂者


展開

大海人皇子は、側近の村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつきみひろ)和珥部臣君手(わにべのおみきみて)3名を湯沐邑に派遣し、兵の動員を求めた。

大海人皇子は吉野を脱出、伊賀に向かい、息長横河(おきながよこかわ)の戦い、そして琵琶湖の瀬田川で最終決戦し、大友皇子の自害に至って勝利した。


大海人皇子の名前にある海部は、乳母の出自が海部氏だったからである。

海部氏は、尾張氏や安曇氏(あずみし)と同族で安曇氏は、開鑿(かいさく)伝説にも関係し、金属に深くなじんだ氏族である。

凡海麁鎌(おおあまのあらかま)が大海人皇子の養育に関係したといわれ、「かま」は金属と関係する。(谷川健一)

美濃の地、そして尾張氏は、古代から製鉄を多くする地で、その氏族であった。

もともと大海人皇子の養育を海部氏にしたこと自体、この金属になじむ氏族を選んでいたのではないかと考えられる。

そしてこの戦いを勝利に導いたのは尾張、美濃の豪族たちであった。

各務原の英雄 村国男依(むらくにのおより)


岐阜県各務原(かがみはら)の地名は古代の鏡からつけられたと思われる。

古代に鏡作部(かがみつくりべ、銅鏡などの鏡を作る特殊技能集団)がいたことからと言い伝えられている。

また、別の説では、各務地域のほぼ中央にある村国真墨田神社に鏡作部の祖神である天糠戸命(あまのぬかどのみこと)が祀られているからとも言われている。

このアマノヌカドは、奈良の磯城郡にある多氏一族の神社・鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)の祭神でもある。

多氏も金属にかかわる氏族で、その移動に伴い各務原に鏡作部を設置したのだろうか。

各務原は、愛知県と岐阜県の境にあり、今では木曽川が県境になる。

古代の木曽川は支流が多くいまのような境ではなかったらしい。

村国男依の領した村国郷も愛知県の江南から、北へ岐阜県の各務原に至る。

壬申の乱最高の功労者といわれるが、あまり知られていない。

生年不詳で、天武天皇5年(676)7月に亡くなっている。


村国男依の活躍

6月22日に吉野を発った3人の舎人(村国男依たち)は、4日後26日に伊勢国朝明評家(あさけのこほりのみやけ)まで進んできた大海人皇子一行に「美濃勢3000人」を動員し不破(関ヶ原)を確保したことを伝えた。

その湯沐邑までの往復の道程を考えるとわずか1日か2日での動員出動したことになり、大海人皇子の事前の準備があったことがうかがわれる。
 
不破(関ヶ原)では、尾張国守小子部連鉏鉤(おわりのくにのかみちいさこべのむらじさひち)が率いた2万の兵が帰服した。

不破には桃配山があり、大海人皇子が兵士にねぎらいの桃を配ったことに由来する。

のちに、家康が陣営を張った場所である。

大海人皇子は野上行宮(のがみあんぐう)からは動かず戦況を見守った。

その後7月2日将軍となった村国男依は数万の兵を率いて進発した。

7月7日息長横河(米原市梓河内付近)の狭い谷間で村国男依は勝利した。

❋行宮とは、天皇が行幸、政変なので仮に使用した施設

大友軍は70キロ先の大津宮に敗走する。

7月22日瀬田橋の戦いで橋の両側に対峙していたが、大海軍の勇者大分稚臣(おおきだのわかみ)が橋を駆け抜け、斬りこんだことを契機に大友軍は総崩れとなった。

敗走した大友皇子は大津付近か京都の天王山か定かではないが、山前(やまさき)で自害する


大海人皇子は天武天皇となり功労者村国男依は連を賜り、中央下級貴族に加わり各務原にも一族は残った。

このあたりの農民たちは位階をもつものがいなかったが、乱後は位階をもつ農民が多数みられることから、男依だけでなく冠位を授けられ優遇されたことがわかる。

この処遇は701年の大宝律令制定まで続き後に解消された。

この時期各務原周辺には仏教寺院が多く建立されているので、その一族の豊かさを表しているといえる。


村国真墨田神社(各務原市鵜沼山崎町1丁目108)

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祭神:金山彦命(南宮大社)天火明命(あまのほあかりのみこと)後に村国男依

❋金山彦命とは金属の神(南宮大社の祭神)

❋天火明命とは尾張氏の祖先神(尾張、美濃の神社の祭神に多い)

秀吉の時代に南の木曽川沿い(現在の御旅所・「大脇グループ木曽川寮」の駐車場)から現在地に移転した。

村国神社 (各務原市各務おがせ町3-85)おがせは苧ケ瀬と書く

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村国神社裏の森
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村国神社裏の森のストーンサークルのように石が並んでいる
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村国座


祭神:天火明命(あまのほあかりのみこと)・御子石凝老命(みこいしこりどめのみこと)・

後に村国男依

❋御子石凝老命とは、鏡作りの神

明治15年(1882)になって奉納芝居を行う場所として村国座(芝居小屋)ができた。

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男依の伝承墓

東南200mに御旅所があり、村国男依の墳墓であるという言い伝えがある。

椋の大木を御神木として祀る。


尾張氏


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東谷山 尾張氏本願の地


古代の地方豪族で天火明命を祖神とし、本貫地は諸説があり、葛城説、吉備播磨説などある。

もとは海人族で海からこの地にきたと思われる。

美濃、飛騨などに居住したのち乎止与命(おとよ)のとき、尾張国造となる。

尾張の由来は、新しく墾り(はり)開かれた土地の意からつけられたといわれる。

なぜだか、尾張氏は皇族が新しくなるときに后をだしている。

尾張氏と皇族の婚姻

①日本武尊と簀媛命
②孝昭天皇(前475-前393)と世襲足媛(よそたらしひめ)
③崇神天皇(前97-前30)と尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)
④応神天皇(270-310)と高城入姫命(たかぎいりひめ)・弟姫命(おとひめ)・仲姫命(なかつひめ)
⑤継体天皇{507-531}と目子媛(めのこひめ)

皆、尾張氏の姫君たちである。

そして崇神天皇・応神天皇・継体天皇ともに系譜が変わった天皇である。

系譜が変わった時に尾張から姫を娶る。

どういう意味があるのだろうか。畿内にいる豪族は全王朝に関わっている豪族ばかりなので、地方の実力派豪族との結びつきを求めたのだろうか。

尾張氏は表舞台に出る氏族ではなかったが、皇室の外戚という重要な存在であったようだ。

熱田神宮の宮司、同族の津守氏は住吉神社(大阪)、元伊勢籠神社の宮司は海部氏である。

熱田神宮の宮司職は後に、親戚の藤原季範(すえのり)に譲られた。

季範の三女由良御前は源義朝の妻となり、熱田神宮のそばで、頼朝を生んだ。

頼朝は名古屋生まれなのである。そう考えると最初に武家社会を築いた頼朝、後の信長、秀吉、家康、みんな名古屋、愛知県の生まれである。

草薙剣の祟り

天武天皇が病に倒れたため占ったところ、草薙剣の祟りだという。



話は、天智天皇のころ新羅の僧が草薙剣を盗んだことにはじまる。

新羅に持ち帰ろうとするが、船は難破し捕えられる。

まだ「三種の神器」は存在していなかったので、天智天皇は手元に置いていた。

そして近江朝が滅び、今度は天武天皇の手元に置かれた。占いがでてから、すぐに熱田神宮に戻されたが、天武天皇の病は癒えなかった。

熱田神宮に今でも続く神事がある。「酔笑人神事」(えようどしんじ)という。

草薙剣が熱田神宮にもどされて神官たちが喜んだ様子だそうだが、真っ暗闇の中、熱田の神職たちが、喜んで、酔って、笑って、歩きまわった様子が、「酔笑人神事」になった。

古くより見てはならないと語り伝える神面を、神職各自が装束の袖に隠し持ち、中啓という扇で神面を軽く叩いた後、全員が一斉に「オホホ」と笑う神秘的な神事である。

新羅の僧が盗んで逃げた門は「清雪門」といい、事件以来不吉の門とされ一度も開けられたことがない「開かずの門」になっている。

なぜ祟りという占いがでたのか諸説あるが、正当な後継者だった大友皇子を自殺に追いやり、大王になった天武天皇を非難するための話ではないかといわれている。


日本武尊命(やまとたけるのみこと)と大海人皇子

ヤマトタケルは、熊襲征伐を終え、東征に向かうとき、伊勢神宮の叔母である倭比売(やまとひめ)に会いに行き、草薙剣をもらった。

東征の帰りに尾張のミヤスヒメと再び会い、剣をミヤスヒメに預ける。剣をもたずに向かった伊吹山の神に痛めつけられ、醒ヶ井の水で意識はもどるが、鈴鹿で足がたぎたぎしくなり三重に折れた(三重の語源)。能褒野(のぼの・亀山市)で亡くなって白鳥となったヤマトタケル。


大海人皇子は伊吹山麓不破の尾張氏の私弟に行宮を置き、勝利をあげたのち都である近江には寄らず往路を戻って飛鳥にもどる。即位してのち熱田神宮の草薙の剣の祟りによって亡くなる。
両者には似通ったところがある。


伊吹山周辺の鉄

なぜ両者とも伊吹山なのか。草薙の剣と関係するのか。

伊吹山の近くに伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1)がある。

中山道沿いに大きな鳥居があり、少し奥まった場所にある。「いぶき」とは伊福部氏であり、尾張氏と同族で、伊吹山麓周辺で鉄を生産していた。
大海人皇子の行宮とした尾張氏の館もその管理のためにあったと思われる。

現在伊吹山では石灰が掘られているが、古代ではこのあたり、鉄生産がさかんであった。


南宮大社 (岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1)

伊吹山の南にある美濃国一宮で、鍛冶の神である。

祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)。

鞴(ふいご)祭では、実際に野鍛冶による鍛錬を神官が行い小刀を作成して、奉納する金属の行事があり、今でも金属に携わる人々が集まる。

節分の行事で、的の裏に「鬼」と書かれた大的に12本の矢を射る大的神事がある。

鬼とは平将門のことで、京都から飛んできた将門の首を南宮大社の祭神隼人神が射落としたという。

近くに「御首神社」がある。

金生山(きんしょうざん)岐阜県大垣市赤坂町金生山(かなぶやまが正しい)

伊吹山の東麓にある、

石灰岩の山で現在石灰岩や大理石が、掘り出され山容が変わっている。

赤坂駅には石灰を運ぶ貨物があり、石灰の製品が積み上げられている。

昔は、鉄鉱石の質が高く自然の丹としては最高のものでそのままベンガラとして使えたという。

第二次世界大戦時も軍隊が褐鉄鉱を掘り出している。麓の赤坂、青墓は刀鍛冶が多くいた。

多度大社 三重県桑名市多度町多度1681

養老山地に南にあり、摂社に一目連神社があり、祭神は天目一箇命(あめのまひとつのみこと)である。

鍛冶の神である。現在でも祭祀に刀鍛冶の奉納がある。

尾張の鉄

内々神社(うつつじんじゃ)内々神社 春日井市内津町上町24

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内々神社 本殿      


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内々神社横の内津川支流の鉄分が流れる様子


祭神は、日本武尊命(やまとたけるのみこと)建稲種命(たけいなだねのみこと)・簀媛命(みやずひめのみこと)

南北朝時代の禅僧、夢窓国師の作庭と言われている庭が奥にある。隣に妙見がある。

神社はしばらくして衰退し、妙見様として復興、のちに内々神社として再興し、庭は寺だったことによるのかもしれない。

由緒は、東国の平定を終えたヤマトタケルが内津峠にさしかかったとき、早馬で副将軍のタケイナダネが駿河湾で水死したという知らせがあった。

知らせをうけたヤマトタケルは絶句し「ああ、現哉現哉」「ああ、うつつなりうつつなり」

とつぶやき、鎮魂のためタケイナダネの社をたてたことがはじまりという。

タケイナダネはヤマトタケルの妻であるミヤヅヒメの兄で、東征に付き従った。

東征の帰路、ヤマトタケルは山道を、タケイナダネは海沿いの道で別々に帰ってきた。

しかし駿河の海で尊に献上するミサゴ(野鳥)を捕らえようとした際、風波が強くなって船が沈没、自らも水死したという説とヤマトタケルをねらう密偵に殺害されたという説がある。

衣服が流れ着いたのが知多半島の先にある羽豆神社、遺体は吉良に流れ着き幡豆神社に祀られたとされる。

後ろの山は茶褐色のチャートで、渇鉄鉱が含まれている。近くにマンガンも出るという。

ここは下街道(善光寺街道)という古くからの街道がある。現在の19号線である。

また、新撰組結成に関わった清河八郎が母と伊勢参りに通ったといわれる。

尾張戸神社(おわりべじんじゃ)名古屋市守山区大字志段味(しだみ)字東谷字2099

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尾張部神社 本殿
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頂上からの眺望


東谷山(とうごくさん)の頂上にある尾張平野の眺望随一の神域である。尾張氏の祖を祀り、尾張氏本願の地であり、熱田神宮の奥ノ院と言い伝えがある。

祭神は、天火明命(あめのほあかりのみこと)―尾張氏の祖

天香語山命(あまのかごやまのみこと)―尾張開拓の祖

建稲種命(たけいなだねのみこと)―ヤマトタケルの副将軍

創建は、簀媛命(みやずひめのみこと)―草薙剣を祀るため熱田神宮を創建したヤマトタケルの妻

東谷山は古代のピラミッドといわれる超古代史では有名な山である。

頂上に磐座、ストーンテーブルがあり、古墳がある。古代祭祀の残る山である。

社殿も古墳の上に鎮座し麓には古墳群がある。

壬申の乱で活躍した尾張の物部氏(朴井 雄君・えのい の おきみ・物部氏で守屋の子ともいわれる)たちの古墳といわれる。


各務原の鉄


各務原の製鉄遺跡・村国男依を祀る神社の地図


村国男依のいた各務原には飛鳥時代の製鉄遺跡がある。

伊木山の八熊遺跡と野口廃寺跡である。

桃太郎神社(愛知県犬山市栗栖字古屋敷)

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桃太郎伝説を伝える面白い神社である。

桃太郎が退治した鬼とは、古代のたたらが行われた場所、

あるいは鉄の原料がとれた場所にいた古代製鉄民を、奪取し、支配したことではないかと考えている。

岡山の桃太郎神社は鬼である温羅を鉄釜で、地面に封じ込めている。



境内には関ヶ原のウォ―ランドにもあるコンクリートの伝説に因んだ人形が数多く配置されている。

コンクリート群像作家として知られる浅野祥雲による作品である。

宝物殿が焼失し、古物は写真のみになってしまった。

名古屋在住のころ私はみたが、河童の手や鬼のミイラがあった。

愛知B級スポットといわれている。

神社の山はチャート層で、チャートは酸化鉄、褐鉄鉱などが重なった岩石である。

古代のストーンサークルもあるという。

このあたりを流れる木曽川はチャートの露頭が見える場所である。

犬山周辺には、桃太郎伝説に由来する地名が多くある。

犬山(現・犬山市):家来の犬がいた地

猿洞(現・犬山市):家来の猿がいた地

雉ケ棚(現・犬山市):家来の雉がいた地

今渡(現・可児市):鬼が桃太郎の乗った船を見つけた地

取組(現・坂祝町):桃太郎と鬼が取っ組み合いをした地

勝山(現・坂祝町):桃太郎が勝どきをあげた地。猿が噛みついた伝説から猿琢(さるばみ)城と名付けられた戦国時代の城が頂上にあった。

宝積寺(現・各務原市):鬼から奪った宝を積み上げた地


参考
「新説壬申の乱大海人皇子」週刊戦乱の日本史・「壬申の乱」:遠山美都男著・「各務原市史」・
「大垣市史」・春日井シンポジウム「壬申の乱」、「渡来人」:森浩二、門脇禎二著・
「白虎と青竜」、「本当は怖ろしい万葉集」:小林惠子・「壬申の乱の謎」、「消された王権」、「おとぎ話に隠された日本のはじまり」:関裕二 「青銅の神の足跡」:谷川健一 
HP:ウィキぺディア・桃太郎神社・桃太郎伝説
by gannyan1953 | 2012-11-12 09:38 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

上郷深田製鉄遺跡 アラハバキ神

歴史と素敵なおつきあい 2008・5・9(金)
 
鼬川流域歴史散歩(いたちがわ)


日時: 5月9日(金曜日) 9:50 昼食:外食(ファーストフード系)または、河原でお弁当

集合: 根岸線「港南台」駅改札口集合・改札はひとつです

港南台駅~深田製鉄遺跡~上郷猿田遺跡と上郷深田製鉄遺跡の案内板~思金神社~光明寺(親鸞、松下禅尼ゆかり)~証菩提寺(佐奈田与一ゆかり)~昼食~(公田(くでん)町上﨟塚)~アラハバキ神~本郷台駅
      
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 「人面把手(とって)」公田町遺跡から発掘・神奈川県立歴史博物館蔵


栄区の歴史

栄区に人が住むようになったのは、縄文前期からで、
上郷猿田遺跡では5000年前といわれる。
都筑区と違うことは、縄文海進のころ海抜20メートルくらいまでは海だったが、
貝塚がみつからないことである。
きっと、がけ状で砂浜が少なかったためと思われる。

4500年前、縄文中期のもので公田遺跡から「人面把手(とって)」が発掘された。
関東地方最大のもので、顔に入れ墨がみられる。

海の水がひき、弥生時代にはいると湿田、水田、畑がつくられ金属の農機具が使用されるようになる。
古墳時代(400年~800年)になり、栄区内では古墳はみつかっていないが、
上﨟塚あたりがそうかもしれない。

7世紀から9世紀前半にかけての200年間上郷深田地区で操業されたと思われる
製鉄遺跡が発見された。
大陸製法の須恵器もあることから渡来系の鍛冶集団と思われる。

平安時代(800年~1200年)、尺度(さかど)郷から、
山之内庄、本郷と呼ばれるようになった。

源家の山内首藤が荘園主だった。平安後期になると、
大庭、梶原、長尾、飯田氏などが武士団を形成した。

イタチ川流域は鎌倉の出入り口になり、出(いで)立(たち)川といわれイタチに転化したと思われる。

鎌倉開府初期、東北への交通上の重要拠点だった。
この地域に「いざ鎌倉へ」の中の道、下の道が通っている。

鍛冶ヶ谷は刀工集団による武器製造工場があったらしい。
公田のアラハバキ神は「荒伯耆」と記され伯耆国の鍛冶であるが、
伯耆鍛冶の祖は東北の舞(も)草(くさ)ともいわれている。

領主山内首藤は、山内庄を主にしていたが、奥州、伯耆、備後などにも領地があり、
移住させられた伯耆の鍛冶集団がアラハバキ神を祀ったのではないか。

兼好法師は鎌倉には二度訪れており、現在の金沢区にある庵に滞在していた。

「いかにわが たちにしひより ちりのきて かぜにねやを はらわざるらん」と詠んだといわれる。

室町時代、足利尊氏の弟直良がうけつぎ政所職の高師重(師直の父)が治めた。

小田原北条の時代になると、玉縄城、長尾台(大船)に砦を築造した。

江戸時代、大半は天領となったが、一部川越藩の領地となる。比較的安定し豊かな土地であった。

明治、本郷村となって関東大震災では家屋の8割が全半壊した。

昭和、戦前は、このあたりは海軍が買い上げ航空燃料の実験、製造がおこなわれた。

戦後は大船PXの倉庫になったが、昭和42年全面返還され区役所、学校、市営住宅など建設された。
昭和48年に根岸線が開通し、栄区が誕生した。


深田製鉄遺跡

昭和61年の発掘調査により山手学院南側に
大規模な古代製鉄跡があることがわかった。
時間の制約もあり、調査は途中で埋め戻してしまったが、
ほとんどが舞岡上郷線の道路の下になった。

規模は鉄炉が14基、銅炉1基、砂鉄置場、住居などがあった。
発掘された鉄滓(かなくそ)などが、横浜市歴史博物館に展示されている。

このあたりの堆積層には大量の砂鉄が含まれており、ここは砂鉄を精錬したところである。
関東の精錬遺跡唯一の遺跡なので、とても残念なことである。

静かな自然の谷戸が残っているが、瀬上の森周辺は、東急による開発が予定されており、
手入れができず、荒れてきているが、環境保全の運動がおこっている。

上郷猿田遺跡


昭和58年、現在の上郷高校のあるところに縄文から奈良時代の遺跡がみつかった。
高校南に製鉄遺跡とともに案内板がある。


横堰

上郷猿田遺跡近くに土のトンネルがあり、貝の化石がみられる。



思金神社

オモイカネ神とは古事記では八(や)意思(ごころおもい)金(かね)大神(おおかみ)で、
智恵の神である。
天の岩戸、天孫降臨に活躍した。

天の岩戸では八百万の神にアマテラスを誘いだす知恵を授け、
蘆原中国(あしはらなかつくに)平定では神の選定、天孫降臨ではニニギノミコトに随行したという。

昭和3年に白山神社の拝殿として創建された。


光明寺

梅沢山と号し京都西本願寺の末寺。
浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。


光明寺の由緒によると、聖徳太子が寵愛した秦川勝が
かつて今の城山橋北側にあった「白山」あたりの梅の林で夜光を見、
それが聖徳太子の16歳の像であった。

そこで光明寺の前身である梅沢山仙福寺を建てたという。

秦氏は渡来人で、京都太秦を本拠に相模にも進出し、秦野の地名を残している。
この渡来系の移住者がこの鼬川流域の横穴古墳群をつくったと思われる。

寺はのちに親鸞上人の学徳にうたれ浄土真宗に改宗した。

執権北条時頼の母、松下禅尼が隠居したと伝えられ、
障子を張り替えず手直しをして時頼に倹約の心を教えた逸話が残る。
その話は兼好法師の「徒然草」にある。
鎌倉幕府滅亡の際火災にあい、現在地に移った。
小田原北条氏からは、浄土真宗は一揆が多かったため、忌避されており、寺は弾圧された。



証菩提寺

治承4年、石橋山で戦死した佐奈田与一を弔うために、源頼朝創建と伝えられる。
かつては広大な敷地だった。
鎌倉の鬼門にあたり山内本郷を守るためといわれる。

平安期の定朝流による阿弥陀三尊像、は国の重文、初期の本尊と
伝えられる阿弥陀如来像は運慶流とされ県の重文、成巻文書11通が市の指定文化財になっている。
佐奈田与一は、石橋山の合戦では、源頼朝方で戦い、
敵の俣野五郎景尚の上に組みつき、俣野の首を斬ろうとしたが、
刀が血糊で抜けず、味方に加勢を求めたが、
痰がのどにつまり声がでず、無念にも後ろから別の敵方に首を斬られてしまった。
今、石橋山には佐奈田霊社があり、気管支炎、ぜんそくに効くといわれる飴が売られている。


上﨟塚・皇女神社

公田町の共同墓地にある小高い地を土地の人は上﨟塚という。
このあたりは縄文、弥生の土師器が発掘され、古墳だったともいわれている。

この近くに桂台遺跡もあり、上臈塚、皇女神社近く遺跡から、写真の人面把手がみつかった。
蛇をかたどったもので、縄文信仰、製鉄との関係もある。

塚の近くに桓武天皇の皇子葛原(かずらはら)親王の妃、照玉姫を葬ったところがあり、
その前に玉之御前神社をたてたという伝説が伝えられる。
皇女神社は照玉姫を祀っている。

葛原親王は、桓武天皇の五子で、幼いころから俊秀で大蔵卿、式部卿など歴任した。
そして王子女に平姓を称することを許された。
照玉姫もいっしょに東国へ下ったが、照玉姫はここで亡くなってしまった。
姫の侍女、相模局、大和局は尼になりここで菩提を弔った。
藤沢には垂木御所、綾瀬には皇子塚など史跡がある。

アラハバキ神

荒覇吐、荒脛巾などいろいろあるが、東北に見られる民俗信仰。
王権にまつろわぬ民、朝廷により東北に追われながらも守られてきた神、
遮光器土偶はアラハバキであるともいう、不明な神である。

蛇神説
吉野裕子:ハバキのハハは蛇の古語である。
直立する樹木は蛇に見たてられ祭の中枢であった。

伊勢神宮の波波木神社は辰巳の方角で祭祀は巳の刻に行われる。
蛇神である。

川崎真治:アラハバキはシュメール語でアラは男の獅子神、ハバキは蛇の地母神である。

塞(さい)の神説

谷川健一:宮城県多賀城跡近くにあるアラハバキ社は、蝦夷制圧のために築いた多賀城を防ぐ神といわれる。
「蝦夷をもって蝦夷を制す」アラハバキを、塞の神として配した。

製鉄神説

近江雅和:氷川神社にあるアラハバキは客人(まろうど)神として祀られている。
摂社は、もともと祀られていたのが、政治、権力の影響で祭神をすりかえた場合が
多いそうなので、氷川神社はもともとアラハバキを祀っていたといえるかもしれない。
今の祭神はスサノオであるが、出雲と氷川の繋がりを考えると、
そこに製鉄地の共通点がある。塞神の多賀城も製鉄地であった。
客人神は片目が多く、アラは鉄の古語、ハバキは、鉱物採集を目的とした修験道の山伏が
使用した脛巾であり、のちに足の神様になっていった。

真弓常忠:塞の神のサイはサヒで鉄の神だから塞神と鉄神は同一である。

参考:ウィキぺディア・栄区HP・瀬上の森パートナーシップ・葛原親王の史跡・ひろたりあん・rekisi.sansaku
 神奈備にようこそ・鉄器時代・横浜市歴史博物館HP・文化遺産HP
by gannyan1953 | 2012-11-11 18:46 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

将門と鉄

歴史と素適なおつきあい      2009・7・10(金)  座学

平安時代中期、東国では都から派遣された国司たちの暴政が続いていた。民衆たちは大飢饉や重税で飢餓や貧困にあえぎ、そこで立ち上がったのが平将門。
将門は民衆を救うため武装し、各地の国司を次々と追放、東国独立政権を樹立、八幡大菩薩を象徴とし、菅原道真の怨霊を召還して朝廷に挑んだ。
朝廷も前代未聞の全国寺社祈祷命令、征伐した者は貴族にするという秘策で将門政権打倒に躍起になる。たった数ヶ月の東国政権であったが、各地に残る将門史跡、伝説が、多くの人々に畏敬、信仰されていることを物語る。

将門年表     (その時歴史が動いたより)

901(延喜元)1月①菅原道真、太宰府に左遷
903(延喜3)2月道真死去 このころ将門生まれる
917(延喜17)②将門の父(良持)死去
918(延喜18)将門、都の藤忠平に仕える
930(延長8)将門帰郷、醍醐天皇から朱雀天皇即位
935(承平5)2月将門、源護を襲撃・叔父国香を敗死させる
       8月蚕飼川の戦いで妙見菩薩が将門を助ける
      12月源護、将門を告訴
936(承平6)7月将門、下野で勝ち戦
       10月源護の告訴により上京する
937(承平7)8月源護の告訴
         藤原忠平、太政大臣となる
       11月③富士斜面よち噴火、溶岩流が
        山中湖をせき止める 
938(承平8)2月将門、国香の嫡男貞盛を 信濃に追撃 
938(天慶元)5月4月地震あり。占いで不吉とあり、改元した
939(天慶2)6月叔父の平良兼が将門の反撃に敗走、病死
       夏④藤原玄明、将門の元へ逃げ込む
       11月⑤将門挙兵
       12月11日将門、下野国府を襲う
       15日 将門、上野国府を襲う
       12月26日藤原純友の乱起こる
941(天慶3)1月朝廷、「太政官府」発令、将門追討の命
       下旬将門、兵を田起こしのため帰す
       2月14日貞盛、藤原秀郷連合して岩井に進撃
       ⑦午後3時 激突  夕刻 将門死去
       4か月後に将門記を作成―作者不明
941(天慶4)6月藤原純友死去

①菅原道真との関係
下野権少掾(しもつけごんのしょうじょう)だった道真の三男景行は常陸介になった。
父の遺骨とともに常陸に赴任、羽鳥天神塚を築いた。平良兼が保護し、将門たちとは身近な関係であった。後に新皇宣言の折、道真が登場する。


②亡父の遺産騒動の理由
890年ころ桓武天皇の孫高望王が上総介として赴任してきた。その子が良持で、将門の父である。将門は桓武天皇から五代目にあたる。母は犬飼春枝の娘。
他の兄弟は、源護の娘と結婚しているが、良持だけが源氏とつながらないことになる。
将門が京にのぼり藤原忠平に仕えて理由はわからないが、故郷に帰る。
*父の所領をめぐり、伯父良兼ともめる(今昔物語)。
*良兼の娘を妻にしたことで、結婚に反対する舅の良兼ともめる。
*源護が平真樹という人物の所領を奪おうとして困った真樹が将門に助けを乞うた。
真樹の領地は桑、麻の栽培がさかんで良質の絹がとれた。
以上のような理由で親戚との小競り合いが戦いのはじまりといわれる。



③民衆の苦悩
背景として国司の重税、富士山噴火により作物がとれなくなっても同じような課税で農民が逃亡し疲弊していくのをみて、民衆のための政治をめざした。


④内輪争いから他人の仲裁
武蔵権守興世王(おきよ)・介源経基(清和源氏の祖)と足立郡司武蔵武芝の争いの仲介をして失敗する。 興世王&経基×武芝 → 興世王&武芝×経基という関係になり、興世王と武芝が仲間に加わることになる。次に頼ってきたのが国司に訴えられている藤原玄明(はるあき)で、将門は罪人を匿うことになる。


⑤乱
将門の本来の目的である国香の子、平貞盛(のちに伊勢平氏になり平清盛の先祖)との決着がつかず、なぜか結果的に国の機関を襲い将門本人が反逆者となってしまった。



⑥将門を助ける者、離れていく者
ここでは妙見菩薩ではなく、菅原道真の霊魂が八幡大菩薩を招き「新皇」の号を授ける。


妙見:泰山府君と同一で、北極星を神格化したものである。泰山府君は寿命を司る神である。妙見信仰はもともと渡来系の宗教で金属神である。将門末裔を名乗る相馬藩の家紋は九曜紋だが、中心は北極星、周りは北斗七星+輔星(ほせい)で妙見神を信奉する。
輔星も寿命を司る星である。


八幡:北極星+北斗七星で金属神である。原信仰は対馬でヤハタはシャーマンのひれ(旗)が神の依り代となったからともいわれる。宇佐氏が信奉し現在では祭神は応神天皇である。
星は鉱山を育成する。(鉄と神より)


新皇を名乗った将門にあいそをつかした妙見神が去り八幡神に移行したことになる。妙見神はどこに行ったかというと伯父の平良文のもとに行く。村岡五郎といわれ、将門とは同盟関係にあったといわれる。子孫は千葉氏、上総氏、秩父氏、三浦氏、鎌倉氏の祖となる。


将門の除目による国司

下野守: 平将頼 (将門の弟)

上野守: 多治経明(常羽御厩の別当)

常陸介: 藤原玄茂(常陸掾)

上総介: 興世王 (武蔵守)

安房守: 文屋好立(上兵)

相模守: 平将文 (将門の弟)

伊豆守: 平将武 (将門の弟)

下総守: 平将為 (将門の弟)


*国司とは地方に中央から派遣された官吏、四等官で、守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)をいう。武蔵守はなぜか選任されていない。

⑦ 死

岩井にて平貞盛、藤原秀郷(俵藤太)により討ち死。こめかみに矢を射られた。
「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太の 謀りごとにて」
将門の笑い:言葉のシャレなのか、謀られたことで将門の正当性を喜んだのか?!
平安京東の市に晒される。その場所に神田神宮がある。

将門と鉄


1 官牧と尾崎前山製鉄遺跡

昭和53年に発掘された、9世紀の製鉄遺跡で、将門が戦った地域のほぼ真ん中に位置する。将門の武具、馬に使用する鉄製品(あぶみ・くつわ)など供給した、たたら場跡とみられる。この地域は、官牧「大結牧」の比定地で、軍馬の飼育をした「栗栖院常羽御厩」(くるすいんいくはのみまや)があり、将門の領地であった。砂鉄はおそらく鬼怒川あたりから採取し、近くのくぬぎで炭をつくり自然風でたたらを行ったといわれる。
出雲のたたらと違う点は、出雲の砂鉄はチタンを多く含まない。ここの砂鉄は多く含む。鉄の還元でチタンをどう除去するかでよしあしが決まるので、チタンを効率よく除去するにはあまり高温でない、低温の野だたらの方がうまくいくらしい。小さい箱型製鉄炉をたくさん作り土地にあったたたらが行われたようである。隣接して馬場があり、今でも野犬から守ったり、馬が逃げないようにした土塁跡が残っている。(古代日本の鉄と社会・東工大)
親戚との小競り合いから始まった戦いの理由のひとつに領地の侵害がある。このたたら場が、国香は欲しかったのではないか。将門が相続した土地は水田には適さない湿地帯で、軍馬の放牧場として御牧が二つあったといわれる。製鉄場があったのは大結牧の近くである。


2 武蔵守が選任されていない理由

なぜか、武蔵守が任命されていない。武蔵の北秩父が同盟者、叔父良文の領地だからか?!
秩父は銅、金、銀、鉄などの産地である。良文の息子忠頼に将門の娘が嫁いだといわれる。


3 将門と武器と俘囚の乱

将門の武器は毛抜形太刀といわれ柄の部分が毛抜のような透かし彫りになり、物を切る衝撃から手を守るために透かしてある。蕨手刀という蝦夷の刀は彎曲し、騎馬で戦うには使いやすいものであった。柄が蕨のような形をしているのでそうよばれている。日本刀の原型といわれ、北上川流域の餅鉄を原料に、舞草、月山、宝寿という鍛冶集団があった。この蕨手刀からより日本刀に近づいたものが毛抜形太刀である。
将門が強かったといわれる理由には良い武器を製造できたことがあげられる。強すぎるので鉄身とまで言われた。


俘囚とは、7世紀から9世紀にかけ断続的にあった大和と蝦夷との戦いの末、大和に服属した者をいう。この俘囚たちは全国に移住させられその生活は狩猟や武芸訓練であった。9世紀の国内治安維持には主要な軍事力であった。俘囚の中から長を選び俘囚社会を治めさせた。9世紀ころから俘囚らによる改善要求の乱が多く起こり、将門の父良持は鎮守府将軍として出羽や陸奥に赴いたときこの蕨手刀の威力を認識したことと思う。

羽黒山五重塔は将門創建といわれる。鎮守府将軍である父といっしょに出羽に赴いたのだろうか?!出羽三山の出羽神社にあり、古くは湯殿山瀧水寺(りゅうすいじ)の五重塔といわれ周囲には多くの寺院があった。
出羽三山も金属神である。のちに藤原秀郷の末、武藤氏が出羽三山の社家となる。



4 星信仰と将門の母

将門の母は犬飼春枝の娘で、犬飼氏は茨城県北相馬郡に広く分布する氏族である。それで将門は相馬小次郎と名乗っていた。犬飼氏は戸隠神社の宮司、犬を連れている高野明神、狩場明に繋がる山師で、蝦夷ともいわれる。金属と関係する氏族である。





   ☯  ♘  ☯   ☯  ♘ 


将門魔方陣 北斗七星の形になる将門史跡(加門七海)



       水稲荷神社
        6☆    筑土八幡神社            鳥越神社
鎧神社             5 ☆         神田明神   1☆
   7☆                         4☆
        鬼王神社
          8☆                  将門首塚
                     江戸城   3☆      兜神社
                                 2☆     



1 鳥越神社(台東区鳥越2-4-1) 
                   
  将門の首が神社を飛び越えた。社紋が「九曜紋」(千葉氏)で、宮司も鏑木氏で千葉氏の系統である。徳川家光の時代に朝敵将門の罪が許されている。江戸の鬼門除けか!?


2 兜神社(中央区日本橋兜町)

  秀郷が首と兜をいっしょに運んできて兜はここで埋めて塚にした。義家の戦勝祈願ともいわれる。


3 将門首塚(千代田区大手町1-1)


京都で晒された首がこの地に落ちて埋められた。
のち蓋をされた石が鳴動したりして人々を怖れさせた。時宗の僧が法名「蓮阿弥陀仏」を与え卒塔婆をたてて供養した。
江戸時代、酒井雅楽頭、一橋家に守られていた。明治になって塚は残されたが、関東大震災で樹木は焼け塚も壊れた。古墳の調査をしたところすでに盗掘されており、塚をなくして大蔵省の仮庁舎を建てた。それから足を悪くするものが続出、慰霊祭を行い今度は戦災にあう。そしてGHQが駐車場にしようとブルドーザーで工事を始めたら、日本人の運転手が横転して死亡、近くの保存会が陳情して工事を中止した。
  今でも怖れられ、塚にお尻をむけてはいけないなど、近くのオフィスビルからの献花が絶えない。


4 神田明神(千代田区外神田2-16-2)

  正式名称は神田神社。創建は天平2年730年。首塚のあった場所柴崎(大手町)に大巳貴命(オオナムチノミコト)が鎮座した。もともと安房忌部氏の海民が祀った神ともいわれる。
その後 将門の首塚のあたりで天変地異が起こり将門を供養した。戦国時代に北条氏、大田道灌らに崇敬された。江戸幕府開府に伴い江戸城鬼門の地として柴崎から現在の地に遷座した。明治になって朝敵将門といわれ、祭神からはずされたが、昭和59年に3番目の祭神としてもどった。
ここの名物柴崎納豆はもともとは金含豆(こんがんず)といった。柴崎に「柴崎道場」とよばれる時宗の僧の修行場があり、そこの修行僧の大切な食物であった。その納豆を天海が家康に不老長寿の秘薬として献上した。家康の時代に柴崎納豆として有名になる過程で、将門伝説も民衆に広まり、歌舞伎にも登場するようになったといわれる。

  
5 筑土八幡神社(新宿区筑土八幡町2-1)

嵯峨天皇(809~823)のころ信仰心の篤い老人が八幡神のお告げをうけ祀ったといわれる。850年ころ慈覚大師が祠をたて、江戸期にもともと大手町首塚にあった観音堂をはじめとする田安明神が隣にやってきた。それが筑土明神といわれ戦災後明神は九段下に移り、筑土神社になった。筑土神社は将門を祭神としている。

6 水稲荷神社(新宿区西早稲田3-5-43)

  藤原秀郷が富塚稲荷として勧請した。江戸期に水が湧き出し水稲荷となった。将門と敵対した藤原秀郷勧請の神社であるが、北斗七星の形になるには鬼王神社の位置より水稲荷の位置の方がきれいな形になる。北斗七星を分断して将門の霊を鎮めたか?!


7 鎧神社(新宿区北新宿3-16-18)

  醍醐天皇(898~928)日本武命(ヤマトタケル)東征の折、鎧を埋めたといわれる。一説に藤原秀忠が病になり、将門の鎧をここに埋め祠を建てたら病が治ったといわれる。


8 鬼王神社(新宿区歌舞伎町2-17-5)


  神社に将門のことが忘れられているのか隠されているのか、史料はない。将門の幼名は「外都鬼王・鬼王丸」である。全国にひとつしかないここ鬼王神社が関係しているのではないかと思われている。平将門古蹟考(明治40年織田完之著)には「将門の霊を祀り幼名外都鬼王を以って社号とす」とある。



参考文献 : 平将門の乱(川尻秋生)その時歴史が動いた(NHK)日本の歴史(中央公論)千葉県の歴史・茨城県の歴史・埼玉県の歴史(山川出版)・平将門(北島茂夫)平将門伝説ハンドブック・将門記(村上春樹)・中央構造帯(内田康夫)・大江戸魔方陣・平将門魔方陣・東京魔方陣(加門七海)
参考HP : 江戸東京ものがたり・闇の日本史・平将門の乱と関連伝承・平将門と鉄王伝承・東京都神社庁・ウイキペディア                   
by gannyan1953 | 2012-11-11 18:37 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

空海と冶金

歴史と素適なおつきあい 座学 2010・7・9

           

空海と冶金(やきん)

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辰 砂  (しんしゃ)            
         
空海の生涯

空海は774年、讃岐に生まれ、密教を大成した平安初期の僧であり、日本中の人が「お大師様」として

信仰する超人的な活躍をした「弘法大師」のことである。                     

出自は蝦夷なのか

讃岐国多度郡屏風ケ浦に、佐伯直田公(さえきのあたい たぎみ)の三男として生まれた。
父は豪族でかつては国造であった名門である。

出自は多説あり、大伴氏から派生した佐伯氏、他にヤマトタケルの東征に随行した功績で
蝦夷を統括する讃岐の佐伯氏となったという説である。

当初、蝦夷征伐で三輪山付近に俘囚(ふしゅう)としておかれた蝦夷が、
行い正しからずと地方に分散され別所となる。

統括した役人は同じ蝦夷であったといわれる。
空海の先祖が蝦夷であったといわれる由縁である。
母は阿(あ)刀(と)氏で秦氏系である。


神童だった真魚(まお)


幼いころから勉学に優れ、15才(788)で新京長岡京にでて、
叔父安刀大足に漢学を学ぶ。

大足は伊予親王に学問を教える学者であった。

空海はすさまじい勢いで勉学に励み、後に空海自身が、
真理の追究、根元的な疑問のため知識を身に付けたと語っている。

そのころ奈良仏教は腐敗堕落した仏教といわれ
一般庶民からかけはなれ、農民は疲弊していた。

自身の歩む道として、庶民の上に立つ官吏や寺僧に魅力を
感じることができない状態であった。


金星を飲み込む

18歳(791年)ひとりの沙門(しゃもん・私度僧)勤操(ごんそう)に出会い、
虚空求聞持法(こくうぐもんじほう)の行法を授かる。

50、70、100日のいずれかのうちに100万回真言念誦を
唱えると8万4千の経典の智慧が備わるというもので、記憶法のことである。

ノウボウ アキャシャギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ

が虚空求聞持法の真言である。


沙門に惹かれた空海は、大学を辞め出奔する。

ここから24歳(794年)ころまで阿波、土佐、伊予など山岳修行に励む。

あるとき、四国室戸岬の崖上に座し、一心に求聞持法を修していた時、
心は澄み渡り、万象を包むような気持ちになった。

体は大自然と一体となり、彼方に明けの明星金星が勢いよく近づき、
いきなり空海の口に飛び込む。

空海は簡潔に「明星来影す」と記している。
こうした体験を記した「三教指帰(さんごうしいき)」を著す。

「三教指帰」

戯曲風につづったもので、
亀毛(きぼう)先生(儒教)
虚亡穏士(こもういんじ)(道教)
仮名乞児(けみょうこつじ)(仏教―空海自身)
がそれぞれの説を主張し、最終的に仮名乞児の唱える仏教に
全員が敬服する内容。


空海はこの真言密教の素晴らしさは仏教であると確信したが、
日本に十分伝わっていないことを、嘆いた。

入唐の決意

修行を重ねるうち、密教根本経典のひとつ「大日経」に出会う。

*密教根本経典

① 大日経・・胎蔵法
  金剛頂教と並んで密教の根本聖典。大日如来(毘廬遮那仏)が
  宮殿で金剛サッタや菩薩たちに悟りを説いたもの。

② 金剛頂経・・金剛法
  大日経で示された悟りを実践的に把握し、
  悟りの心の観察や瞑想の方法を示す。
  金剛界曼荼羅は仏の悟りの境地で、
  これを観想することにより智慧が自分のものになる。

③ 理趣経・・絶対的な現実肯定、
  すべてを空に見て悟りを開き、 
  現実にある欲望を清らかであるという。

根源的な欲望、性愛も清らかであるということから、
空海死後、立川流という真言宗も成立する。

最澄はこの経典を借用したいと申し出て空海に断られることになる。
空海は、経典の意味、修法、真理を知りたいと思った。

しかし、日本にはそれを伝える人物がいないため入唐を決意する。

遣唐使の最低条件として官僧にならなければならないので、
東大寺で得度する。

時に804年空海は31歳になっていた。

困難な旅が続き、長安についた空海は
梵語、儒教、道教、景教、イスラム教、ゾロアスター教、
その他あらゆる宗教を学ぶ。

また。書道、文学、詩、絵画、音楽にいたる唐の
最先端の文化も身につける。

きわめて優秀な日本人の噂は皇帝(順宗)にまで届き、
交流するようになる。
「五筆和尚」の話が残っている。

異国人の空海に密教を伝授

32歳(805年)青(しょう)龍寺(りゅうじ)の
恵果阿闍(あじゃ)梨(り)に会い、
10年はかかるといわれる密教の両部の灌頂(かんじょう)と、
阿闍梨位の伝法(でんぽう)灌頂(かんじょう)を、
わずか3か月という短期間で伝授してしまった。

なぜ異国人の空海に伝授されたか。

① 勉学、修行により灌頂する素質を空海が身につけていたこと

② 恵果の弟子に密教を継ぐべき弟子がいなかったこと

③ すでに中国では密教が下火になっていたこと

恵果はインドから中国に伝わった密教を空海に託し、
日本での大成を願った。

帰国した空海の使命

密教をもって衆生を救う使命を決意した空海は、
薬子の乱で乱れる都に行き、
810年(37歳)高雄山寺で鎮護国家の大法
「仁王(にんのう)経法(ぎょうほう)」を修した。

験あってか薬子一味は捕らえられ、時の帝、嵯峨天皇に認められ、
45歳(818年)高野山下賜を願い出て勅許を得た。

名声は高まり修法、教団整備、寺の造営、
膨大な著作と多忙を極めるなか、
超人的な行動力で、密教浄土の具現にむかった。

満濃池の造成、請雨など行い、東寺を下賜された。

日本ではじめての庶民の学校
「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を東寺の隣に創設した。

八葉の高野山の地形

高野山の地形は、1000メートルの山々に囲まれた深山の平地で、
八葉蓮華(はちようれんげ)に囲まれているようであった。

八葉蓮華とは泥の中に咲く蓮を、迷い(泥)の世界にあっても
染まらず悟り(種実)を開くこと。
胎蔵曼荼羅の中央に中台八葉院が描かれ、
その中央は大日如来である。

空海は高野山の土地そのものを曼荼羅と考えたので、
高野山に修行の場としての寺院を作り始めた。

59歳(832年)高野山で万灯万華会(まんとうまんげえ)を修した。

その3年後62歳(835年)高野山で入定(にゅうじょう)する。

921年 醍醐天皇より、「弘法大師」の諡号(しごう)を賜る。

入定―元々は瞑想することだったが、不死の命を得る意味になった。

空海の死についてはじめは「入滅」といわれ、
10世紀に仁海が「入定」といい、

それから空海は未だ奥の院に生きているといわれている。

弟子、実(じち)慧(え)の記録には荼毘にふされたとある。

仏陀の捨身信仰からこの伝説が生まれたと思われる。  
           (五来重著空海の足跡)

空海と水銀    

空海と同時に遣唐使として出発した最澄は留学1年、
費用は全額国家負担、金銀数百両といわれる。

空海は無名の僧で留学期間20年、費用は全額自己負担であった。

ところが空海は在唐2年で無理やり帰国してしまう。
(無断で帰国したため許しがでるまでしばらく大宰府に滞在した)
20年分の在唐費用を2年で使ったことになる。

恵果のもとで密教を学んだ際、密教道具、道具の作り方、
写経してもらう人への謝礼、他にも土木、冶金技術、医薬品の
作り方など様々な技術を学んできている。

その上短期間で準備するための人件費もあることから
莫大な費用を払ったと思われる。

その財源が、金属にかかわる人々「山の民」であった。

①空海と水銀と高野山

高野山の地中には銅や水銀が埋まっている。
高野山は中央構造線の上にあり、四国霊場、
空海開創寺院の多数が中央構造線上にある。

真言宗の霊場付近には水銀鉱床があることが多いのは
構造線に鉱物が多いことを知っていたと思われる。

高野山の開創以前は、狩場明神(かりばみょうじん)と
丹生都比売命(にゅうつひめのみこと)が地主神であった。

前者は狩猟、後者は水銀を意味する。

水銀は道教の煉丹術に珍重され丹(に・たん)、丹生(にゅう)地名は
水銀産地である。
山野を巡っているうちに高野山をみつけ、
八葉に囲まれた水銀が埋まる土地が欲しかったので、
朝廷に賜るよう申し出た。

空海自身、丹を薬として用いていたといわれる。
晩年頭に癰(よう)(悪性のできもの)ができて苦しんだといわれているが、
これが水銀中毒ではなかったか。



②山の民(鉱山特殊技能集団)

鉱山技術を持つ人々は、もとは渡来人で海の民から山の民になった人々である。
海の彼方からやってくる来訪神を崇拝し龍神、恵比寿も海神である。
この古代の海洋宗教は山岳崇拝に変容していくのだが、
海に囲まれた四国にはまだ修行の場として存在していた。

四国八十八か所の巡礼の成立の背景には、
この辺路(へじ)修行があり、海洋を遥拝修行する。

聖も「火じり」が語源で、火を熾す(おこす)人である。
火を熾して護摩壇で修することで、岬で行えば灯台の役目にもなった。
空海も幼いころからもともとあった修行者の行場で修行をしていた。

空海は厄年のとき四国を一巡したといわれ、
空海死後「空海にまみえたい」との願いから八十八か所が成立した。
そのうち遍路という文字に変わっていったという。

山の民は鉱山特殊技術集団として大仏鋳造時に富も得たことと思われる。
四国、熊野と空海の修行中彼らと接触し交流があったといわれる。

山は異界であり、異質な人々であり、
修験者、鉱山師、狩人、木地師など大和朝廷に
追われた「まつろわぬ民」の血筋もいたであろう。

すでに水銀の鉱毒がわかっていて回避できる技術や、
煉丹術、鍍金技術など、唐で学び、山の民に情報提
供する約束があったかもしれない。

空海の語学は入唐以前から堪能だったといわれ、
もともと渡来人の
血筋の山の民から語学も学んでいたのではないか。

お経の読みは呉音が多かったが「理趣経」は漢音(長安)である。

空海の死後も高野山を支えた人々は山の修験者(山の民も含む)達で、
僧たちが支える東寺と長い期間いろ
いろな権利をめぐり揉めることとなる。

弘法大師伝説は入定した空海を行基の行いと重ねて、
高野山が語ったもので、東寺資料では空海は亡くなっ
て荼毘にふしたとある。


③水銀

自然水銀の辰砂(しんしゃ)は薬として用いられ
鎮静、催眠の効用があり、毒性は低い。

辰砂HGS・・別名賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱、
日本では丹(に)と呼ばれた。
古墳の内壁や石棺の赤色顔料として用いられた。防腐作用がある。

水銀HG―汞(こう)、みずかね。各種の金属と混和し、アマルガムを作る。

古代の水銀中毒

辰砂から作られた薬を服用して不死を求める背景には、辰砂の赤色が血液
につながる思想があったと思われる。

辰砂を加熱すると硫化水銀が還元されて水銀が生じ、水銀が酸化すると
又硫化水銀になるという循環的過程に永久性を見出し、
不死不老をと結びつけたと葛洪(3世紀・道教研究家)の著書にある。

秦の始皇帝や前漢の武帝は道教の煉丹術をとりいれ仙丹を作らせた。
皮膚がかさつき高熱をだし、精神異常になったという。

唐の皇帝21人のうち6人は水銀中毒であったという。

日本の天皇のうち淳和、仁明天皇(空海の時代の天皇)は
「医心方」による金液丹を服用し効果があったとされる。

金液丹 ー水銀を仙薬にまぜ火にかけると、金ができると信じられていた。

丹薬ー 服用すれば7日で仙人となる。向精神作用があり、頭が冴えて軽くなる。

ダラニスケー陀羅尼助 古代、水銀がふくまれていたという。

五石散ー 五個の鉱物で作られ砒素を含んでいた。
     効用は覚せい剤に似ており、精神を快活、昂揚させる。

水銀、砒素を含む薬は空海がいた長安では流行していた。

丹生鉱山

三重県多気郡多気町にある鉱山。中央構造線上に位置し、
水銀を産するが多くは鶏冠石、石黄が多い。
この鶏冠石と石黄は混同されることが多いが、
石黄は雄黄のことで、いずれも薬として重用され、
ヒ素の化合物である。

ここの水銀は縄文時代から採掘されており、
奈良大仏の鍍金(水銀50トン・金9トン)にも使われ、
後の伊勢白粉が作られている。

大仏の鍍金での公害は有名な話だが、
現在蛍光灯に使われる水銀は年間5トンで、
いかに多くの水銀が使われたかわかる。
若草山に木が生えていないのも水銀によるという説がある。

伊勢白粉はそのものに毒性は低いが製造過程での
水銀中毒が起こっている。
水銀と塩を混ぜて蒸し焼きにすると白い粉になる。

鎌倉時代に中国から製法が伝えられ、
化粧品、腹痛薬、皮膚治療薬、梅毒薬、堕胎薬、
シラミ駆除薬などに使用された。

梅毒薬ではモーツアルトが梅毒になり
その薬で水銀中毒になり死亡した説がある。

空海が水銀を服用した場合の目的

即身成仏の完成を目指し、
防腐作用を体に行き渡らせるために服用した。

水銀は服用すると腎臓を冒し、
毒が体にまわりだすと肝臓が冒される。
空海には肝臓障害もあった。
日光二荒山
日光を開山した勝道上人が神橋でであったのが
深沙大王(辰砂)大王で
ふたら を にっこう と読み替えたのは
空海とおわれる。

日光には産鉄民の伝説がある。
空海と伏見稲荷
空海が東寺の五重塔を建立するのに伏見稲荷の山にある木を使った伝説がある。
今でも稲荷祭として東寺近くの御旅所、東寺、伏見稲荷と巡業する行事がある。



参考図書: 真言密教の本(学研)空海の足跡
山の宗教(五来重)
空海(三田誠広)
空海の風景・街道をゆく「高野山の道」(司馬遼太郎)
沙門空海(渡辺照宏)
真言密教と古代金属文化・空海と錬金術・空海のミステリー(佐藤任)
鬼の日本史上・下(沢史生)  
参考HP: ウイキペディア・エンサイクロメデイア空海・・坂東千年王国・伏見稲荷

by gannyan1953 | 2011-07-23 14:32 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)



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