歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:鎌倉の歴史( 10 )

やまざきから梶原の里へ

中川歴史ウォーキング36        2017・12・16(土)

ちょっとディープな鎌倉深沢散歩


鎌倉街道が通り交通の要衝だったため戦場にもなった旧深沢村をめぐります
観光客が訪れることのない静かな里が続きます


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集合:9:45 「北鎌倉駅」ホーム後方
大船方面寄り改札口からでます
(トイレに行かれる方は前方に行き
線路を渡るとあります。
またホームにもどってください)

北鎌倉駅・・雲頂庵・・八雲神社・・光照寺・・稲荷神社・・神明神社
・・其中山房・・山崎天神・・泣塔・・大慶寺・・駒形神社
・・東光寺・・梶原屋敷・・御霊神社・・等覚寺・・湘南深沢駅(モノレール)


雲頂庵
北鎌倉駅のトンネルが通行不可になり、
ホームを大船方面に戻り改札を出る


北鎌倉からすぐの雲頂庵から山ノ内の里をみる


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拝観不可

雲頂庵は古くは大崎山長勝寺といったが鎌倉幕府滅亡、室町幕府と鎌倉公方の戦いで衰退し
文亀元年(1501)長尾忠景により再興、江戸時代円覚寺の塔頭となった。
本尊は木像宝冠のお釈迦様

八雲神社


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祭神は素戔嗚尊
山内上杉氏が文明年間(1469~1486)京都八坂神社から勧請した

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境内に清明石がある

清明とは陰陽師安倍晴明のことで
言い伝えによると
鎌倉に入った頼朝が住んだ家は
山ノ内にあった知家事兼道という人の館を
移築して住んだ(吾妻鏡 治承元年)
家には「清明朝臣鎮宅の符」があったため
200年間火災がなかったという

この清明石は十王堂橋(北鎌倉駅前の鎌倉街道)近くにあったらしいが
山ノ内には大火がなかったといわれる

もうひとつ清明石にはいわれがあります
訪問したときに明かしますのでお楽しみを


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なんと小径を進むと

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立派な庚申塔
鎌倉で最古の庚申塔といわれる


光照寺

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門にはクルスがある
昔キリシタンを受け入れていたらしい


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境内にあったキリシタン灯籠と思われる灯籠
90度傾けると
文字がlhqになる

調べるとイエズス会やエホバなどでてきて
「主よ」とか
「集会」という意味があるという
ホントかなあ・・・


台の里 稲荷神社


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幻想的でした

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地蔵堂があった場所

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台の里  神明神社



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元亀年間(1570年〜1573年)に創建されたといわれる。
疫病が流行した際に、村人4人が伊勢詣に出向いて賜った神札を祀ったのが起源とされている。
祭神は天照大神・須佐之男命など



山崎の里 其中山房(きちゅうさんぼう)

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北王路魯山人が孤独を楽しむために生活した場所である
骨董と自然を師に芸術生活を送った人である
昭和2年 ここに魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本
格的な作陶活動を開始する

イサムノグチと当時の妻山口淑子が一時期滞在した

話がそれるが
魯山人で思い出すのは京都の二条城の乳金具といって
形がおっぱいで門によくある金具である



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クサマンさんのフォト

母を慕って二条城の金具をさわったりしていたらしい
それからあちこち寺社でみられる乳金具が
おっぱい金具と思ってしまうようになった
固いおっぱいだ

母屋は昭和40年に笠間に春風萬里荘に移築
残った建物は平成10年管理人の放火そして自殺により今はない


‥‥僕がはじめてここに窯をつくった時には、北鎌倉の駅もなかったし、
もちろんバスもない、
電灯もなければ、薬屋、豆腐屋、なんでも不便。
田舎どころの騒ぎではない、
野と山とがあっただけだ。
近所に家がないから、煙が出ても文句を言う奴がない。
つまり景勝の地で、うるさくないというのでここを選んだのだ。
二十五年前のことである‥‥。
  昭和二十七年(一九五二)の『芸術新潮』十月号で北大路魯山人がこう語った。

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昔の姿

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藤沢から移築された魯山人邸 (黒田草臣ブログ)

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臥龍峡:(黒田草臣ブログ)
昭和3年に久邇宮邦彦殿下を慶雲閣に迎えるために手堀した切通し
戦前には電柱がなく、夜は真っ暗闇となった。(写真は『星岡』より転載)

棚田もあったが、現在は小学校






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マンション前にきれいに移されている







昌清院

残念ながら拝観不可だが、
荒れているといより
とても自然で拝観してみたかった

裏手には新田義貞の子 義興が一時隠れていた弁天様があるという

後醍醐天皇側だった義興はその後多摩川で戦い亡くなった

(中先代の乱)

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山崎天神






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州崎古戦場の碑

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新田義貞の鎌倉攻めで60回もの戦いの末鎌倉方が破れ、
90人以上が自殺したという



陣立の泣塔


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新田義貞に負けた州崎の戦いで亡くなった
武士たち北条軍の慰霊の五輪塔である
昔からオカルトスポットといわれており
移動すると泣く・・近所の人が貧乏になる・・
訪れると一週間以内に幽霊を見る
爆破しようとしたら事故が起きた
将門首塚と似ている

銘文は、深沢文和五年銘塔という名称である

“願主行浄」預造立」石塔婆」各々檀那」現世安穏」後生善処」
文和五年申丙」二月廿日」供養了”

と刻まれていて、
これは、“塔は、願主(塔を建てようと思った人)の行浄(人の名前)が、
各々檀那(塔を建てるのに力をかしてくれた人たちのこと)たちの
現生での安穏、後生(来世)での善処を願って
文和五年二月二十日に建てて供養した、という意味のもの

ハマレポより

文和元年とは1355年のことである
その寺は手広の青蓮寺のことだという
ここより江ノ島よりにある

「荒俣宏日本妖怪巡礼団」に詳しくある
(1989年刊行)

訪れた時はまだJR大船工場だった時である
元寇三年
両軍多数の死者が出て北条は数万騎で対抗したが
激戦のあとわずか三百騎が残っただけである

戦後20年ほどして地元民が戦死者を供養するために建てた
法印塔がこの泣塔である
巨大な岩山の中腹に、いま泣塔の一部が祀られ、
まさしく「やぐら」の不気味さを残している

だだっ広いJRの工場内に、そこだけこんもり山がある
たぶん泣塔はこの岩山にこしらえたやぐらとワンセットに
なっていたのだろう

「不気味ですわ いまでも北条の怨霊を感じます」と歩き巫女
泣塔は近所の噂によれば
このあたりに土地を持つと貧乏したり、不運がつきまとう
だから地主が年中変わる
そこで泣塔を青蓮寺という寺に移したところ、
毎晩夜泣きをはじめたので、
こわくなって元の場所へ戻したそうだ
昭和になると軍需工場ができ、塔と岩山を
爆破しようとしたところ、事故が発生し死者がでた
さらに岩山から奇怪な煙が発したという

戦後は旧国鉄の工場になったが、
塔を移転するたびに事故が起き
多数の死者がでた

そこで移転や爆破を断念し、毎年12月1日を
供養の日とし、今も礼拝をかかしていない

青蓮寺さんの話では
祟りを怖れた結果残され、文化財として
貴重なものになった

現在はスポーツ広場になっている
やたらカラスが多く泣塔を守っているように
みえる
私はヒチコックの「鳥」を思い出し
そちらの方が怖かった・・・

私は2度訪れたことがあるが、
幽霊は見ていない


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ウイキペディアより

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ウイキペディアより




大慶寺




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臨済宗円覚寺派の寺で北条時宗の子貞時(9代執権)の法要が行われた
そのとき出席した僧は83名と伝わる
五つの塔頭を持つ関東十刹に数えられ
大きな寺だった

新田義貞の鎌倉攻めで焼かれ
その後の戦乱でも被害を受け荒廃した

塔頭のひとつ方外庵が今の大慶寺となった

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駒形神社

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大庭景親(おおばかげちか)の所領地にあり景親により祀られたといわれる
本来馬を守る神であるが天候不順の折
大庭氏の代参の者がお参りに来たという

東光寺

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天照山薬王院東光寺といい、真言宗である
寺は大庭景親創建と伝わる
景親は頼朝挙兵の折は平家方の武将で
藤沢大庭に大庭城があった
頼朝の鎌倉入府後に滅ぼされた
寺は一時荒廃し
永享3年(1431)高野山の僧により
再建された

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御霊神社


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中学のあるあたりは梶原景時の屋敷跡である
歌舞伎「暫」で有名になった権五郎景正が祭神である





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梶原景時の父子墓

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正治2年(1200)一族郎党が、京都にむかう途中
静岡市の清見ヶ原にさしかかったとき
武士団に襲われ自害したと伝わる

非業の死をとげた景時の供養を
村人たちが行ったという

深沢小学校内にある



等覚寺



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真言宗の寺で新田義貞の鎌倉攻めで
亡くなった多くの人をここで供養したという











by gannyan1953 | 2017-08-17 23:16 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

まんだら堂やぐらから中世の城住吉城へ

中川歴史ウォーキング21      2016・3・19(土)

2016年3月20日にご案内します
参加ご希望の方は中川歴史ウォーキングでお申し込みください

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集合:鎌倉駅東口改札口  9:30 バス3番乗場「緑が丘入口」乗車
昼食:小坪 できれば「ゆうき食堂」他2軒あり

緑が丘入口・・まんだら堂やぐら群公開中・・小坪・・和賀江島・・正覚寺・住吉城址
・・昼食・・OP大崎公園・・披露山庭園住宅通過・・浪子不動・・(盧花記念公園)
・・六代の墓・・逗子駅
昼食後のコースは盧花記念公園までバス停がありません。
逗子駅まで歩く方、駅前に人気の魚屋さんがありますので
買い物される方はクーラーバッグの準備を・・・ない場合氷をつめてくれます。

まんだら堂やぐら

2m四方の横穴が150以上集まったやぐら群で、
その穴には多数の火葬した骨が納められた五輪塔が設置されており、
中世の集団墓地であった。
武士や僧侶、富裕な商人などが中心であったと考えられる。

平場では火葬跡があり、斬首された頭蓋骨も出土している。
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名越切通しがあり、みせしめの処刑場があったと思われる。
戦国末期には地名はまんだら堂と呼ばれており、
近くの法性寺が日蓮宗であることから、
日蓮宗の「法華曼荼羅」からついた地名ではないかと思われる。

名越切り通し

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法性寺

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法性寺の大切岸



小坪
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古東海道が通り交通の要所であった。
ここから三浦半島走水に出て、舟で房総半島に渡った。
狭い湾で坪のようだと由来にある。

和賀江島

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わが国最古の築港跡といわれる。
貞永元年(1232)執権北条泰時の時代、7月15日に工事がはじまり、
8月9日に工事が終了、非常に短期間で完成した。

僧の往阿が進言し、幕府の要人や多くの人の助けで作られた。
極楽寺が管理し関米を徴収した。
何度も高波などで崩落し修理されながら、唐船、宋船など来航したという。
江戸時代には鶴岡八幡宮の修繕の石材運搬や、小坪の漁船が係留された。
明治のころには水没していた。
干潮時に往時を偲ばせる半円状の跡が見え、
石柱は船の係留に使われたものである。

六角の井
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鎌倉十井の一つで、源為朝伝説が残る。
伊豆大島に流された為朝が光明寺の裏山天照山を狙って射った矢が
18里の距離を飛んでこの井戸に落ちたという。
保元の乱で後白河天皇と崇徳上皇の対立のとき、為朝は崇徳側についたが、
後白河の勝利で捕縛され肘を切られ伊豆大島に流された。
とても強く体も大きく、弓矢で為朝に勝てる者はいなかったという。

正覚寺

戦国時代はじめの住吉城址で、1243年に然阿良忠(ねんなりょうちゅう)上人が
光明寺を建てる前に、留まったといわれる浄土宗の寺である。
然阿良忠は、ここで荼毘にふされたといわれる。

住吉城跡
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住吉神社

北条早雲が築城したとき「故城」に作ったと「小田原記」にある。
すると北条早雲築城前に城があったことになる。
昭和55年逗子市教育委員会の調査で
北条泰時が名越切り通しを中心に要害を構築したとき、
この丘陵に大切岸(斜面を削って断崖とすること)を作り、
北条早雲が一時先端部を城郭としたがのちに放棄、
そのあと三浦道寸が再興した城である。
三浦道寸と弟道香が籠もり、北条早雲を迎えて戦った。
奮戦むなしく落城し、道寸は新井城に逃れ、
道香は逗子の延命寺で主従七騎とともに自刃した。

道寸は平安時代から続く三浦氏で、鎌倉時代に滅ぼされてから
その子孫が相模三浦氏となる。
その末裔にあたり平塚の岡崎城主だったが、
のち新井城で相模三浦氏は滅亡する。

そのとき海に流れた血が広がり油壺の名称になったという説がある。


住吉城は、しばらく場所も特定されず明治まで遺構を残していたが、
やっと昭和55年頃に調査された。
光明寺裏山から逗子にかけての丘陵全体が城の遺構だったが、
まわりはほとんど開発され海も埋め立てられた。

明治になり正覚寺東の高台平場が「げんじやと」とよばれ邸宅が建った。
本丸と思われる場所である。

玄関の扁額は西園寺公望の筆で大正天皇が葉山御用邸を利用する頃は
幣原喜重郎の別荘だった。時に大臣たちが集まり会議も行われたという。
住吉神社から「げんじやと」に通じる隧道はこの邸宅が建ったときに閉じられた。
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住吉神社右にある閉じられた隧道

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大崎公園

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眺望のよい公園で泉鏡花の文学碑がある。
陽だまりの彼女・流星の絆(どちらも嵐のメンバー)のロケ地である。

披露山公園
将軍への献上品を置く為の場所があったとか、披露したという話が残る。
憲政の神尾崎行雄の碑がある。

浪子不動
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白滝山高養寺・真言宗の寺。昭和28年(1953)に葉山の慶増院から
移築されたものだが、
高橋是清、犬養毅の援助により建てられたので
その名が残る寺名になっている。

古くから浪切不動として漁師から信仰されていたが、
徳富蘆花の小説「不如帰」のヒロイン浪子から
今では浪子不動と呼ばれるようになった。

海に碑があるが、盧花の死後兄の蘇峰の字で書かれ、
石碑の石は、江戸初期江戸城築城のための石材を
鍋島藩が運搬中沈没し、海に沈んでいた石を引き上げて
使われた。

盧花記念公園
この上に逗子郷土資料館がある。
大正元年に横浜の実業家の別邸として建築されたと伝えられ、
大正6年からは、徳川宗家第16代当主家達の別邸として使われた由緒がある。

六代御前の墓
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平維盛(これもり)の子で平清盛の曾孫である。
平家滅亡時、母と京都の菖蒲谷に隠れ
捕縛されたが、文覚上人の嘆願で助命された。
その後高雄の神護寺で僧となったが、頼朝の死後文覚上人が
反逆罪で佐渡に流されると六代は関東に連れてこられ
田越川のほとりで斬首された。六代の家来が墓守になった。

参考:神奈川県の歴史散歩
   逗子市教育委員会の「住吉城」

by gannyan1953 | 2016-01-06 23:06 | 鎌倉の歴史 | Comments(1)

鎌倉光明寺に精進料理をいただきに

歴史と素適なおつきあい         2015・11・13

集合:9:50 鎌倉駅東口 

バス7番のりばから逗子行き10時5分発乗車・・光明寺前バス停降車
・・和賀江島(11:35干潮)・・鎌倉十井 六角の井・・飯島崎
・・正覚寺住吉城跡・・(住吉神社)・・光明寺11時に受付・拝観・・
昼食11時半(4500円)

和賀江島
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和賀江島の碑


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少し干潮

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わが国最古の築港跡といわれる。貞永元年(1232)執権北条泰時の時代、7月15日に工事がはじまり、8月9日に工事が終了、非常に短期間で完成した。
僧の往阿が進言し、幕府の要人や多くの人の助けで作られた。極楽寺が管理し関米を徴収した。何度も高波などで崩落し修理されながら、唐船、宋船など来航したという。江戸時代には鶴岡八幡宮の修繕の石材運搬や、小坪の漁船が係留された。明治のころには水没していた。
干潮時に往時を偲ばせる半円状の跡が見え、石柱は船の係留に使われたものである。

六角の井
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残念なことにゴミが多い

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鎌倉十井の一つで、源為朝伝説が残る。伊豆大島に流された為朝が光明寺の裏山天照山を狙って射った矢が18里の距離を飛んでこの井戸に落ちたという。保元の乱で後白河天皇と崇徳上皇の対立のとき、為朝は崇徳側についたが、後白河の勝利で捕縛され肘を切られ伊豆大島に流された。とても強く体も大きく、弓矢で為朝に勝てる者はいなかったという。

飯島崎
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正覚寺


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夏は草に覆われ奥に進めない
秋に再挑戦


戦国時代はじめの住吉城址で、1243年に然阿良忠(ねんなりょうちゅう)上人が光明寺を建てる前に、留まったといわれる浄土宗の寺である。然阿良忠は、ここで荼毘にふされたといわれる。

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住吉城は北条早雲が築城してとき、「故城」に作ったと「小田原記」にある。
すると北条早雲の築城前に城があったことになる。
昭和55年逗子市教育委員会の調査で
北条泰時が名越切り通しを中心に要害を構築したとき、
この丘陵に大切岸(斜面を削って断崖とすること)を作ったと
推察した。
その後北条早雲が築城し、一時先端部を城郭としたがのちに放棄、
そして三浦道寸が再興した城である。
三浦道寸と弟道香が籠もり、北条早雲を迎えて戦った。
奮戦むなしく落城し、道寸は新井城に逃れ、道香は逗子の延命寺で主従七騎とともに自刃した。
道寸は平安時代から続く三浦氏で、鎌倉時代に滅ぼされてからその子孫が相模三浦氏となる。
その末裔にあたり平塚の岡崎城主だったが、
のち新井城で相模三浦氏は滅亡する。

そのとき海に流れた血が広がり油壺の名称になったという説がある。


住吉城は、しばらく場所も特定されず明治まで遺構を残していたが、
やっと昭和55年頃に調査され、鎌倉時代の築城とわかった。

光明寺裏山から逗子にかけての丘陵全体が城の遺構だったが、
まわりはほとんど開発され海も埋め立てられた。

明治になり正覚寺東の高台平場が「げんじやと」とよばれ邸宅が建った。
本丸と思われる場所である。
玄関の扁額は西園寺公望の筆で大正天皇が葉山御用邸を利用する頃は
幣原喜重郎の別荘だった。

時に大臣たちが集まり会議も行われたという。

住吉神社から「げんじやと」に通じる隧道はこの邸宅が建ったときに閉じられた。

住吉神社
正覚寺本堂の右側から登るか、正覚寺の左の道を登ってすぐにある細い通路
を行くと住吉神社がある。
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  隧道がある

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隧道を覗いてみた
どこまで行くとふさがれているのか見えないが
入るのは躊躇する


光明寺 天照山蓮華院光明寺 浄土宗

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山門





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大堂



寛元元年(1243)に然阿良忠上人により開基された。良忠は浄土宗3世で鎌倉幕府に帰依を受け、後土御門天皇から関東総本山の称号を与えられ国、国民のための祈願所となった。
徳川家康は関東十八壇林の筆頭におき、念仏信仰と仏教研鑽の根本道場となった。壇林とは徳川幕府が定めた学問所のことである。今でも引声念仏(歌うような念仏)が10月に行われている。大殿は元禄11年(1698)建立で100本柱といわれ鎌倉最大の九間堂である。本尊は阿弥陀如来三尊。山門は弘化4年(1847)に再建された鎌倉最大の門。以前の門は鶴岡八幡宮から移築した門だったといわれる。二階には釈迦三尊、四天王、十六羅漢が祀られる。山門に掲げられた額は永享8年(1436)後花園天皇の筆だが、現在は拝観できない。夏になると古代蓮を含め庭がとても美しい。
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光明寺では精進料理「蓮月御膳」4500円をいただいた。
少し煮びたしが甘かった
こんにゃくの刺身の白和えが美味しかった

食後に本堂と幼稚園の間の道から天照山に向かった
曇っていたが景色がよく道なりに下りてくると右側に内藤家墓所がある。


内藤家墓所
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延岡藩主内藤家の歴代墓所があり見応えのある墓所である。



参考:ひげの梶さん鎌倉を歩こう・逗子市住吉城60.4MB
光明寺HP・風雅庵の日々
by gannyan1953 | 2015-10-07 17:35 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

鎌倉十三仏めぐり

歴史と素適なおつきあい番外編               2014・10・19
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チベットの閻魔様(やま)

十三仏とは

仏教で十王をもとに作られた日本独自の信仰である。
人が亡くなると冥界の十三の仏様がその人を裁決する。
又、13回の追善供養をそれぞれ司る仏様である。
南北朝に成立し鎌倉では昭和58年(1983)に定められた。

残された人々が亡くなった人を供養する事によって
自分が亡くなったとき冥界の裁きから救済されるそうだ。
怖いからお参りしたくなる。
毎年行うことがよいとされる。

が・・・
私の家は浄土真宗なので冥界に行く事はない。
死去するともう仏様になれる宗教である。そのままで浄土に行けるのだ。
「ご冥福をお祈りいたします」も言わなくていい。冥界にいかないのだから。

浄土真宗の場合の遺族への言葉

「謹んで慶弔の意を表します」とか
「しばらくのお別れですが、長い間お世話になりありがとうございました」
(いつか自身も浄土に迎えられるのだから)
「御遺徳をしのび、哀悼の意を表します」などなど。いやァ 難しい!

閻魔様とは会わなくていい!

自分で選んだ宗教ではないが、なぜかホッとする。

といいながら、ウォーキングしてみた。寄り道含めて20キロくらいだと思う。
 
北鎌倉駅から歩いた順番で右往左往しながらのコースである。


浄智寺
六番 弥勒菩薩  9:40
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ここから海蔵寺に向かうのに葛原岡ハイキングコースから分かれていく
道をいこうとしたが、わからず葛原岡神社に到達してしまった。
 
葛原岡神社   10:00

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祭神:日野俊基
後醍醐天皇の側近で鎌倉末期の文章博士である。
鎌倉幕府に不満をもつ武将が多く後醍醐天皇を中心とした
倒幕計画を進めた。修験者に身をかえ勤王武士を集めるが、
密告により失敗する。(正中の変)

首謀者として鎌倉に送られ佐渡に流された。
再び失敗する。(元弘の変)
後醍醐天皇は隠岐に流され日野俊基はここ葛原が岡で処刑された。
(葛原岡神社由緒より)

浄智寺に戻り、亀ケ谷切り通しを通って海蔵寺へ
あとでわかったが建長寺の前に円応寺があった・・・・・

海蔵寺   10:55
七番 薬師如来
那須の殺生石の源翁禅師で知られる。
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寿福寺   11:10
四番 普賢菩薩

政子、実朝の墓がある。

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浄光明寺   11:25
九番 勢至菩薩

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鉄の井
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円応寺   12:10
五番 地蔵菩薩

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昼食 12:45 鎌倉宮の前にある定食屋さん
   豆腐ハンバーグ定食 730円
   ヘルシーで安くてよかった
   鎌倉夫人っていうお店かな?


覚園寺  13:15
十一番 阿閦如来(あしゅくにょらい)
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明王院  13:50
一番 不動明王
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浄妙寺  14:10
二番 釈迦如来
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報国寺  14:15
八番 観世音菩薩
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文覚上人屋敷跡

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釈迦堂切り通し
もう少し見られるかと思って立ち寄ったが随分手前で
立ち入り禁止になっていた。残念・・・・

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来迎寺    15:05
十番 阿弥陀如来
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本覚寺   15:30
三番 文殊菩薩
恵比寿様で有名
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ここから下馬に出て御霊神社へ
キョンキョンのドラマファンが多く
ロケ地を楽しんでいた。
権五郎の力餅をみやげに
煎餅を歩きながら食べた

虚空蔵堂 ・成就院  16:30
十三番 虚空蔵菩薩
  

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成就院に行く坂道を振り返らず黙々と登る
登ったところで振り返る 
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すごくいい景色

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成就院にあるパワースポットとして人気の縁結びのお不動様

極楽寺  16:40
十二番 大日如来
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閉まってました・・・・終了
柴犬朔太郎が待っているのでジョージア至福の微糖を飲んで
超レトロの極楽寺駅から江ノ電に乗って帰宅。



















by gannyan1953 | 2014-10-20 11:37 | 鎌倉の歴史 | Comments(1)

1192つくろう?!で覚えた鎌倉幕府成立から滅亡まで②

歴史と素適なおつきあい番外編           2014・9・

英勝寺・・寿福寺(政子・実朝の墓)・・正宗の屋敷稲荷・・巽神社・・小町通で自由昼食・・段葛・・鶴岡八幡宮・・畠山重忠屋敷跡・・
大蔵幕府跡・・白旗神社・・法華堂跡(頼朝の墓)・・宝戒寺・・土佐坊昌俊の屋敷跡・・東勝寺やぐら・・鎌倉駅


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亀谷山寿福寺 臨済宗建長寺派  (きこくさんじゅふくじ)
鎌倉五山の第3位。開基は北条政子、栄西。本尊は釈迦如来。

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寿福寺参道

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実朝の墓
やぐらの中には彩色された跡があるという

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政子の墓


義朝の邸跡で、頼朝はここに館を建てようとしたが、少々手狭でとりやめた。
仏殿は非公開だが、釈迦像、菩薩、実朝像、栄西像などある。
政子、実朝の墓の他、高浜虚子、大仏次郎、睦奥宗光らの墓がある。

北条政子
伊豆に流されていた頼朝と恋に落ち、頼朝が鎌倉幕府を開くと、御台所と呼ばれた。
頼朝が亡くなると尼になるが、幕政の実権はにぎっていたので今度は尼将軍と呼ばれた。
長男頼家が伊豆で幽閉殺害、次男実朝は鶴岡八幡で頼家の息子一幡に殺害、大姫は早くに亡くなり
頼朝の血脈は途絶えた。しかし政子は実家北条一門を繁栄させることはできた。
エピソード
夫の浮気を許さず相手の家に火をつけたこともある。
義経が奥州平泉に逃亡したとき静御前は捕縛され、鶴岡八幡で舞いを踊る。
頼朝は機嫌をそこなうが、政子が諌めている。
鎌倉で静御前は男子を産むが、すぐに引き離され男児は殺害されている。


正宗稲荷・焼刃稲荷
鎌倉の刀工正宗の屋敷稲荷と伝わる。
正応の頃、執権北条氏に招かれた刀工が各地より集まり、鎌倉鍛冶の基礎を築いた。
五郎入道正宗は相州鍛冶の祖となった。後に小田原北条に仕えその後徳川家御用鍛冶として栄えた。
現在も子孫が24代刀工として続いている。(正宗工芸美術製作所より)

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正宗の屋敷稲荷

巽神社 

寿福寺の巽(たつみ)の方角にあり、寿福寺の鎮守とされる。坂上田村麻呂によって葛原岡(くずはらおか)に勧請されたものを
八幡太郎義家の父源頼義がこの地に移したと伝わる。
源頼義は平安時代、前九年の役の陸奥鎮守府将軍である。


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巽神社

段葛  (だんかずら)
鶴岡八幡宮の参道である。
鎌倉幕府設立時、屋敷を作るため平地の少ない鎌倉の山を削り、平地を作る行程で山の保水力が減り
雨が降ると道がぬかるんだ。政子の安産祈願で御家人たちで石を積んだという。
八幡宮に近づくと、道がだんだん狭くなっていく。遠近法で軍事上道が長く見えるようにつくられている。
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段葛
 鶴岡八幡宮

明治までは寺であった。
源頼義が石清水八幡宮を材木座に勧請したのが始まりで頼朝がこの地にうつした。

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鳩サブレの名前の由来
豊島屋の久保田久次郎が鶴岡八幡宮を崇敬しており、
本宮の掲額の「八」が鳩の向き合わせであることと、
宮鳩が多数いるところから着想を得た

太鼓橋の左右に源平池がある。
右が源氏池で島が三つある。三は産で産むの意。
左は平家池で島は四つある。四は死で滅亡の意。
昔は源氏の白旗で白い蓮、平家は赤旗で赤い蓮だったという。

鎌倉幕府成立から滅亡まで

後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)は治承4年(1180)に平家追討の令旨(りょうじ)を出した。
諸国の源氏や諸寺社に届けられ、呼応した木曾義仲が挙兵し京都に登る。
が、義仲は朝廷とうまく折り合わず同じく挙兵した頼朝に滅ぼされる。
当時頼朝は伊豆に流されていたので、まず伊豆の目代(もくだい・国守の代理)山木兼隆を滅ぼした。
石橋山で平家に味方する在郷武士に完敗、千葉に逃亡するが、千葉氏、三浦氏の加勢で
鎌倉入りした。令旨から半年後のことである。
ここに鎌倉幕府が成立、武士政権が生まれた。
ここで「1192つくろう鎌倉幕府」の暗記言葉が生まれたわけだが、
鎌倉幕府は、1192年征夷代将軍に任官して始まったとされていた。
しかし頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、実質的な成立は
1192年より前の1185年とする説が、2006年頃からは優勢となっている。

治承4年(1180)に大蔵御所が置かれ、朝廷は頼朝に東国の荘園、年貢納入を保証し、東国支配権を与えた。
文治の勅許(1185)には、与えられた諸国の守護、地頭職の設置、任免を許可した。
そして(1192)に征夷大将軍に任官した。

といわけで「いいはこつくろう鎌倉幕府」に変わったという。

その後、3代将軍までは頼朝のの血をひいた将軍だったが、それからは摂関家の頼朝の遠縁からの幼児が迎えられた。
以降将軍は傀儡で、実際の政治は北条一族が執権として続いた。
元弘3年(1333)に北条高時のとき新田義貞軍に攻められ、ここに鎌倉幕府は崩壊した。


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若八幡遥拝所

若八幡とは元八幡のことで、康平6年(1063)に源義家が石清水八幡宮に前九年の役の戦勝祈願し、
勝利したそのお礼にユ由比の地に勧請した。
治承4年(1180)に頼朝が安房から鎌倉入りしたときに参拝している。
そして現在の鶴岡八幡宮の地に移した。ここがその遥拝所である。



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白旗神社

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畠山重忠屋敷跡

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大蔵幕府跡

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清泉小学校によるガイド

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白旗神社



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頼朝の墓
なぜか訪れたとき外国人が多かった。


北条義時法華堂跡

平成17年、頼朝の墓東隣に北条義時ののものといわれる法華堂が発掘された。政子の弟である。
頼朝が亡くなり御家人の政権争いに深く関わったとされる人物で父時政を追放し二代執権になった。
実朝を暗殺した公暁も操っていたのではないかと言われる。承久の乱を鎮圧した。
62歳で亡くなるが側室伊賀の局に毒殺されたという暗殺説もある。跡継ぎ争いだったという。
伝わる死因は酩酊し縁側から落下、頭を打って昏睡の末亡くなったという。

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大江広元の墓
大江広元
早く幕府成立のころから頼朝から文筆を認められ側近だった。頼朝の死後政権争いにくれる幕府の中
一貫して義時につき幕府を支えた。

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島津忠久の墓
島津忠久
鎌倉の御家人で薩摩島津氏の祖である。
頼朝の乳母の子であり、早くから頼朝に重用された。
重用されたために、頼朝の子という話もあるが、学会では認めていない。
重用された理由として
出身の惟宗家は近衛家に務めてきた家で近衛家に仕えながら頼朝の御家人であった。比企氏、畠山氏と関係し、儀礼に通じていたため
頼朝の信任を得ていたことがあげられる。



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北条義時法華堂跡



金龍山釈満院円頓 宝戒寺   天台宗
北条義時からの執権の屋敷跡といわれる。
鎌倉幕府最後の執権北条高時の慰霊のため後醍醐天皇が建立とあるが、
実際は後醍醐天皇による建武の新政の崩壊により、足利尊氏が開山したのではないかと
推定される。本尊は子育て地蔵である。萩寺といわれている。
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土佐坊昌俊屋敷跡

土佐坊昌俊 
興福寺の堂衆で、年貢の件で代官を襲い土肥実平に預けられ、のち御家人となる。
頼朝の命で義経暗殺を計り失敗、六条河原で梟首(きょうしゅ・さらし首)された。
金王丸と同一人物かどうかを金王神社の宮司さんに尋ねたら同一人物だと言われた。
金王丸については、当ブログ「渋谷荘を訪ねて」「閑静な渋谷の歴史散歩」参照


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青砥藤綱の碑

青砥藤綱
公正、硬直な人物といわれる。
エピソード
夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。
「採算が合わないのではないか」というと、
「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる
よって50文は自分の損になるが、松明を買ったお金は人の利益になる」と答えた。
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東勝寺跡
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腹切りやぐら

東勝寺
3代執権北条泰時が創建。
元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めで新田軍が迫ったことを知った14代執権北条高時は
一族郎党870名余りと立てこもり火をかけた。
腹切りやぐらで自刃したわけではない。
東勝寺はすぐに再興されたが、戦国時代には廃寺になった。

釈迦堂切り通しのそばを最近発掘した所多くの焼けた人骨と元弘3年銘の宝塔があったという。
由比ケ浜も多くの人骨が埋まっていた。
東勝寺跡から人骨がみつかっていないので、釈迦堂や由比ケ浜に
時宗僧により葬られたとも考えられる。
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腹切りやぐら
2014年11月22日に再度訪れたら
先日亡くなった高倉健さんの卒塔婆がずらり
健さんがいたので怖くなかった



by gannyan1953 | 2014-08-31 14:39 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

1192つくろう?!で覚えた鎌倉幕府成立から滅亡まで①

歴史と素適なおつきあい番外編             2014・9・24

北鎌倉駅集合
北鎌倉・・東慶寺・・亀ヶ谷切り通し・・薬王寺・・岩船地蔵堂・・扇の井(見学不能)・・阿仏尼の墓・・英勝寺



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東慶寺
  松岡山東慶総持禅寺
建立・弘安8年(1285)臨済宗円覚寺派
開山:覚山志道尼  開基:北条貞時

北条時宗の夫人覚山尼が開創、ここに駆け込めば夫婦別れができると
開山以来600年近く女性を守ってきた。
覚山尼は時宗の死後、実家の安達家が滅亡した(霜月騒動)。
寺を開創するときに、女性が夫と縁を切りたいときこの寺で3年間修行すれば
縁が切れるという寺法を作った。(これも家康が千姫と豊臣家の縁を切るために
寺法を作ったともいわれる。)

後醍醐天皇の皇女・用堂尼が入られてから「松岡御所」と呼ばれ
寺格の高い尼寺とされた。
用堂尼は兄の大塔宮護良親王の菩提を弔うためにこの寺に入った。
その後秀吉の孫千姫も夫の豊臣家との縁を切るため、もう一つの駆け込み寺である
群馬の満徳寺に入山するが、身代わり説もある。
そして本多忠刻(ただとき)に再嫁した。

大阪城から逃れる時秀頼が側室とのあいだに生まれた姫を千姫は擁護している。
そしてその姫は天秀尼となって東慶寺の20代目の住職になった。
8歳で寺に入り、豊臣家の縁を切るためと思われるが、
豊臣の血をひく天秀尼に対し徳川幕府の保護も厚かったという。
境内の奥にやぐらがあり、右に用堂尼の墓、柵を越えて右奥が覚山尼の墓、
大きな卵塔が天秀尼の墓である。




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亀ヶ谷切り通は右に入る
亀ヶ谷切り通
あまりの急坂に亀も音をあげることからつけられた。
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坂の途中にある六地蔵


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薬王寺手前にあった仏様

大乗山 薬王寺 日蓮宗 本尊は釈迦牟尼
寛永年間(1624〜1644)創建
2代将軍秀忠の次男忠長の供養塔がある。
忠長は、父の死後兄家光によって自刃に追い込まれた。
母親はお江様である。
忠長の妻は日蓮宗を信仰していたので、ここに建立したと言われる。
寺が販売しているパワーストーンのグッズはご利益があると言われている。

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境内

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忠長供養塔

 
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左にある階段を登ると観音堂がある
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観音堂の奥には、やぐらがある
永代供養墓らしい・・「久遠廟」という・・販売中
やぐらにあるお墓ってカッコいい

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久遠廟からの眺め

岩船地蔵堂
源頼朝の長女大姫の墓と伝わっている。
義仲と頼朝は従兄弟の関係だが過去に父親同士が敵対し、義仲の父は討取られた。
それで義仲は幼くして木曽に逃れていた。その後義仲は頼朝と悶着があり、義仲の長男義高は
鎌倉に人質として送られた。その義高と大姫は許嫁になり、仲が良かった。
ところが義仲が挙兵し、京都を治めるが、朝廷と折り合いが悪く、頼朝の命で義経に滅ぼされると
頼朝は義高殺害を決める。
大姫は義高を助けようとするが、無念にも義高は殺害された。享年12歳だった。
大姫はそれから10年以上鬱々と暮らし20歳で亡くなる。

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大姫の守り本尊

このお堂の床下にお地蔵様があり、その光背が船形だったことから岩船地蔵の名がついた。

相馬師常やぐら
鎌倉幕府設立のころの御家人である。奥州征伐など戦功を挙げている。


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阿仏尼の墓

阿仏尼は歌人・女御で「十六夜日記」(いざよいにっき)の作者である。
失恋を機に尼になるが、のちに還俗し、藤原定家の息子藤原為家の側室になる。
為家は正室の子を差し置いて、側室の阿仏尼の子に相続すると遺言を残したため、
その死後正室の子と相続争いが起こった。
所領よりも、和歌の名家の相続争いであった。その訴えを起こしに鎌倉にやってきた。
30年かけての判決は勝訴であったが、その前に阿仏尼は亡くなっている。
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東光山 英勝寺 浄土宗
寛永13年(1636)に英勝院によって開山。尼寺である。本尊は阿弥陀三尊。
英勝院は家康の側室でお勝といい、太田道灌4代目の娘である。この地は太田道灌邸の跡である。
英勝院は家康の子頼房の養母になり、頼房は初代水戸藩主となった。
その娘玉峯清因尼を門主に迎え開山した。そのため水戸御殿とも呼ばれた。
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関東大震災で壊れてしまった山門は篤志家によって山王ヶ谷に保存されていたが、
解体し、英勝寺に再建された。
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本堂
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阿弥陀像
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山門
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唐門

















































by gannyan1953 | 2014-08-31 10:16 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

鎌倉七福神めぐりに行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編          2014・1・29

鎌倉七福神

北鎌倉〜浄智寺〜鶴岡八幡宮〜宝戒寺〜妙隆寺〜本覚寺〜長谷寺〜御霊神社

11時北鎌倉ー16時半鎌倉 徒歩

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浄智寺ー布袋
おん まいたれや そわか
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鶴岡八幡宮ー弁財天
おん そらばていえい そわか
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宝戒寺の写真を撮ることを忘れてしまった
宝戒寺が管理している北条腹切りやぐら

今日は晴れてていいけど鎌倉を訪れ始めたころここに来た。
天気は曇りで、ドヨドヨしていた。
あまりの怖さにしばらく鎌倉にきたくなかった原因となった場所である。
今じゃすっかりオドロオドロしい場所に慣れてしまった
といいながら遠巻きにしか写真がとれなかった
よろしければ当ブログ「鎌倉の歴史」参照
オドロオドロしい鎌倉の闇が見える!

宝戒寺は「はぎ寺」といわれているが、今の時期すいせんの香りでいっぱい
宝戒寺ー毘沙門天
おん べいしら まんだや
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妙隆寺 寿老人
おん じゅろうそんてん そわか
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本覚寺ー恵比寿
おん いんだらや そわか
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長谷寺ー大黒天
おん まきゃらや そわか
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御霊神社ー福禄寿
おん ふくろくじゅそん そわか
面掛行列のお面のひとつに福禄寿がいる

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御霊神社から海岸伝いに鎌倉駅まで
犬の散歩が多い
早く帰って柴犬朔太郎の散歩をしてあげなくては・・・
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朔太郎

by gannyan1953 | 2014-01-30 13:06 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

鎌倉駅西口~極楽寺駅

歴史と素適なおつきあい          平成15・6・13

鎌倉                
JR鎌倉駅西口~御成小学校前~六地蔵~甘縄神社~(高徳院 露座の大仏)~(御霊神社)~長谷寺~極楽寺坂切通し~極楽寺~江ノ電極楽寺駅

御成小学校


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昭和8(1933)年創立の小学校で武家屋敷から御用邸になり、明治天皇皇女の避寒地であった。関東大震災で壊れ、跡地は払い下げられ、小学校が建てられた。宮大工が造った校舎だったが老朽化したため、現在木造を中心とした一部鉄骨造りの校舎が3棟並ぶ。日本と西洋の様式をとりまぜた造りで旧校舎のおもかげを伝える。昭和12(1937)年ヘレンケラーが講演した講堂があり、開校当時の建物で今も残る。二つの塔屋をもつ入母屋造りで、内部は寺院によくある格天井がある。宮大工が腕を競って造られた。門も御成門といわれ貫禄を漂わせ、門札は高浜虚子の文字である。


佐助稲荷神社

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佐助稲荷入口 ちょっと一人で入るのは雰囲気がありすぎて怖い
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拝殿右横にあり、今でも水が湧き出る霊狐泉
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奥にある拝殿

銭洗い弁天の近くで鎌倉隠れ里といわれる。
頼朝の挙兵を勧めたことで、佐殿を助けるから佐助となった。

訪れる人は少なく緑に囲まれた落ち着いた気のある場所である。
鎌倉ではとてもやさしいパワースポットといえる。


六地蔵

由比ガ浜の大通りと今大路の交差する所に赤いよだれかけをした六地蔵がある。鎌倉時代裁許橋のあたりに刑場があった。処刑された罪人を供養したのがはじまりである。人間のもつ六つの苦しみから救ってくれる。背後に芭蕉の「夏草や つわものどもが夢の跡」の句碑があることから芭蕉の辻とも呼ばれる。
*仏教では、いっさいの衆生は生前の業によってつねに生死を繰り返す輪廻思想がある。まわる世界は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六つで、これを六道という。地獄、餓鬼、畜生は3悪道という。11世紀以降、死者が六道に迷うことのないように辻や墓地の入り口に六道のそれぞれで人を守り、案内する六道地蔵が置かれた。そうした辻を六道の辻という。


甘縄神社
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鎌倉最古の社である。710年、染屋太郎太夫時忠の創建といわれる。
時忠は藤原鎌足の玄孫で、東大寺良弁僧正の父である。
東8カ国の総追捕使となり東夷を鎮めた。永く鎌倉に居住し、「由比の長者」といわれた。祭神は天照大神で、源氏の義家誕生の地といわれる。義家は1081年社殿を再建、以降義家が氏神になった。
その後、北条時頼の母松下禅尼の実家である安達泰盛邸が建てられ、その跡である。安達は霜月騒動で平頼綱に攻められ激しい戦闘が行われ、一族は滅亡した。時宗の誕生地で、産湯の井戸がある。
裏山は御興ヶ嶽(見越ヶ岳)といい、
都には はや吹きぬらし かまくらの見越ヶ崎 秋の初風
と詠われている。

源義家(1039~1106)


八幡太郎義家と称し、前9年後3年の役で活躍した。永保3(1083)年陸奥守兼鎮守府将軍となる。父頼義が由比に建てた由比若宮(元八幡)を修復した。

北条時頼  (1227~1263) 


鎌倉幕府五代執権。宝治合戦で三浦泰村一族を排除。執権職を北条長時に譲るが、権力を保持し、政治を操った。36歳で若くして死去。有能な政治家として知られ、得宗専制の道を開くが、御家人の意思をくみあげ負担の軽減もはかった。質実剛健な鎌倉武士として説話にのこる。時頼回国伝説は吾妻鏡にはみあたらず、疑わしい。が、政道の乱れは上下の遠きことにあると、考えた。謡曲「鉢の木」にある時頼の諸国巡業は下の者、庶民の実情を知るためとある。墓は明月院。時宗の父。

安達泰盛  (1231~1285) 

鎌倉幕府有力御家人。五代将軍藤原頼嗣の側近となって力をつけ、訴訟審理にあたる引付衆、評定衆として活躍。娘が執権時宗の妻となり九代執権貞時を生み北条氏との血縁が深くなる。しかし北条嫡流の得宗に仕える御家人平頼綱と対立、急襲(霜月騒動)され、一族滅亡する。

平頼綱   (?~1293) 

八代執権北条時宗に用いられ、九代執権北条貞時の時代、内官僚(御家人筆頭)として専制的な政治を行った。時宗死後、政敵安達泰盛を滅ぼし、安達関係者500名あまりを粛清したといわれる。若い貞時の陰で政治を操った。しかし正応6(1293)年貞時に急襲(平弾門の変)され、討ち死にした。

北条時宗  (1251~1284) 

五代執権時頼の嫡男。9歳で小侍所別当、13歳で連署、18歳で執権。しかし、文永11(1274)年と弘安4(1281)年元寇があった。御家人以外の出陣要請をした。元の国使の処刑、派兵も計画、防塁を築いたりしたが神風台風の恩恵もあり難局を乗り切った。その間腹違いの兄時輔らを討ったり、幕府に批判的な日蓮を処刑しようとした専制的な面もあったが、禅宗に深く帰依し、文永、弘安の役の戦死者敵味方の霊を慰めるため円覚寺を創建した。墓は円覚寺。


高徳院 

  
宗派:浄土宗                山号:大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)    
創建:暦仁元(1238)年         本尊:阿弥陀如来(国宝指定)

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大仏様の内部 20円で胎内にはいれる

開山、開基は不明。源頼朝の侍女・稲多野局(いなだのつぼね)が思い立ち、僧浄光が資金集めをして作ったといわれている。
奈良の大仏は勅命によって作られたが、鎌倉大仏は民衆の浄財によって完成にいたったといわれている。

暦仁元年に着工し、6年後に木造の大仏が完成。
しかし、大風で倒壊、建長4(1252)に現在の青銅像が鋳造され大仏殿に安置された。
大仏殿はその後、2度の大風で倒れその都度復興されたものの、明応7(1498)年、津波で流されてからは露座の大仏として今に至る。

鋳造した人物として大野五郎右エ門、丹次久友の名が伝えられる。総高約13m、総重量121tの大仏は宋の影響をうけ当時の工法としては最高の水準で造られている。

境内観月院に与謝野晶子の歌碑がある。

「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」


御霊神社  

大庭御厨(おおばみくりや)の開発領主であった鎌倉五郎景政が氏神である。

吾妻鏡にもよく出てきており当初は関東平氏の五家である大庭、梶原、長尾、村田、鎌倉の祖先を祀る五霊
だったが、のちに景政一人になり御霊、ごんごろう様とよばれるようになった。

本殿は大正年間に建てられ屋根は銅葺きである。
境内には国木田独歩が居住していたこともある。
面掛け行列は県無形民族文化財に指定されている。
祭礼は毎年9月18日に行われる。
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面掛け行列は当ブログ「鎌倉の歴史」をご覧下さい。


長谷寺


宗派:浄土宗(単立)               山号:海光山慈照院長谷寺
創建:天平8(736)年              開山:徳道上人
開基:藤原房前(ふささき)           本尊:十一面観世音菩薩

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散策路 良縁を願うお地蔵様
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散策路からの鎌倉、由比ヶ浜

日本最大級(9,18m)の十一面観世音菩薩像で知られる。伝承では本尊は奈良の長谷寺の尊像と同じ、一本の楠の霊木より彫られたという縁起をもつ。長い石段を登ると境内には観音堂、阿弥陀堂、大黒堂、経蔵といった堂宇が建つ。また坂東三十三観音霊場第四番札所に数えられ、往古より庶民の信仰を集めてきた。見晴台からは海や三浦半島まで一望できる。春はボタン、モクレン、サクラ、フジ、夏はアジサイ、ハナショウブ、サルスベリ、フヨウと草花が美しい。境内に鎌倉文士久米正雄の胸像がある。長谷の別荘で震災にあい、長谷寺の高台に避難した様子が「鎌倉震災日記」に記されている。また俳人高浜虚子の句碑、評論家高山樗牛の住居跡がある。

極楽寺坂

御霊神社をすぎ星の井を右手にみながら上がる坂である。かつては成就院の山門の高さまで上がる坂であったが現在はより低く切り開かれている。坂の頂上付近に上杉憲方の墓がある。七層の塔で宝筺印塔の基本形の層塔である。
元弘(1333)年、新田軍大将大館次郎宗氏10万の兵と、北条軍大将大仏貞道甲斐、信濃、駿河の5万の兵が激突した。新田軍の大館宗氏は討ち死にした。新田義貞が2万の兵を率いて深沢、津村を経て腰越に迂回し、援軍にかけつけたが、北条軍は強固な陣を構え、海上には大船を浮かべ、一部の隙もなかった。いくどとなく両軍の攻防は繰り返され多数の死者をだした。義貞は極楽寺坂の突破を諦め、稲村ガ崎からの攻略に切り替えた。

成就院

宗派:真言宗大覚寺派              山号:普(ふ)明山法(みょうざんほう)立寺(りゅうじ)成就院(じょうじゅいん)
創建:承久元(1219)年             開山:弘法大師
開基:北条泰時(伝)                本尊:不動明王

極楽坂切通しの旧道沿いにあり、アジサイが美しい。本尊の不動明王は縁結びのご利益がある。弘法大師が諸国巡業の折、100日間にわたり虚空菩薩をまつる修法を行ったと伝えられる。そのとき香の煙、鈴の音の響きに付近の人は感激し涙した。以来作物はよくみのり暮らしが楽になったといわれる。その後承久元年、鎌倉幕府3代執権北条泰時が都から高僧を招いて寺を創建したという。新田義貞により幕府が滅んだとき戦火で焼け落ちたが江戸時代に再建。法隆寺の夢殿を思わせる八角堂がある。門前からは鎌倉の街並み、由比ガ浜がみわたせる。恋愛成就のご祈祷があるらしい。ヨン様来訪の写真もあった。

極楽寺

宗派:真言律宗                 山号:霊(れい)鷲山(しゅうざん)感応院(かんのういん)極楽寺(ごくらくじ)
創建:正元元(1259)年            開山:忍性菩薩
開基:北条重時                 本尊:釈迦如来

正嘉年間(1257~59)一人の老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置し極楽寺ろ称した。老僧死後、義時の三男重時が再建したと伝えられる。6代執権になった重時の子、長時と業時兄弟が、当時多宝寺に入山していた忍性(にんしょう)を招き
開山した。忍性はここで施薬院、非田院、施益院、福田院の四田院を設け、不幸な人を救済する福祉事業にとりくんだ。人間だけでなく病気や年老いた牛馬の面倒をみる病舎も建てた。人々から医王如来と崇められた。橋をかけるなど土木事業にも力をそそいだ。完成当時は七堂伽藍と四十九の塔頭をもつ大寺院だったが自然災害、火事に見舞われ、現在は本堂のみ残る。境内に製薬鉢、千服茶臼がある。

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極楽橋


参考    鎌倉の寺小事典 かまくら春秋社・鎌倉ぶらぶら・Area2.よくわかる鎌倉
ekamakura.cool.ne.jp   http://kuniomi.gr.jp/html 

                                       
和田塚


高塚式古墳。明治中期まで、「無常堂塚」と呼ばれていた。和田合戦の死者を弔うために建てられた塚であろうといわれている。20基の五輪塔が並ぶ。



和田氏


三浦氏の系統。建保元(1213)年信濃の泉親衡が、源頼家の遺児千寿を擁して北条打倒を企てた。未遂のまま発覚しその中に和田義盛の子義直と甥の胤長が加わっていたことが判明。義盛は二人の赦免を願い出たが、胤長は許されず、陸奥に配流された。北条義時が専制政治を行うには三浦氏、和田氏の抹殺が必要であった。1213年5月2日和田義盛は北条打倒の準備をした。当初、三浦吉村も協力することになっていたが、土壇場で裏切られる。三浦氏は謀反を北条に訴えた。和田一族は軍兵150騎で攻撃し、幕府の建物は全焼、源実朝、北条義時は法華堂へ逃れた。翌日幕府軍の数が増えたため、和田氏は劣勢となり、67歳だった義盛は討ち死にした。
その後三浦氏も権威失墜した。明治25年、新道路建設のため掘り起こしたところ、たくさんの人骨埴輪片が出土した。人骨は和田合戦のものだろうと碑が建てられた。和田氏の中で越後に名を残すものがあった。重茂の子次郎実茂で、幕府方についたため鎌倉に残ったが、1247年「三浦の乱」で、越後に移り、越後三浦和田と称し、黒川、中条、関沢と続いた。

朝比奈三郎伝説

この合戦で和田義盛の三男で、安房の国で生まれた朝比奈三郎がいる。母は、木曽義仲の妾で、義仲死後和田の世話になっていた巴御前である。執権北条泰時は自ら陣頭に立つほど朝比奈の切通し開削に熱心であった。和田氏は北条支配の前に六浦を支配しており、朝比奈の切通し開削に参加、湧き水の多い難工事のためか朝比奈三郎が一夜にきりひらいたとの伝説を残す。
朝比奈三郎は和田氏滅亡の時五百騎の兵と6隻の船で安房に逃れ行方不明になった。
そのため、伝説を残すこととなる。宮城の七ツ森や木曽には墓が、海で遊んだ折潜ってサメをかかえて浮き上がるなどがある。

別説 御霊神社 権五郎神社 

権五郎景政は鎌倉党であった。景政は大庭御厨の開発領主で在地領主であった。もともとこのあたりは佐助稲荷、銭洗い弁天など金属ゆかりの場所があり、産鉄民がいたと思われる。田畑に使われる金属器、鎌倉党の武器製作に携わっていた。天養年(1141あたり)源義朝が御厨を襲う。
「天養記」はその惨状を伝える。この侵略で鎌倉党の怨恨をかい、御霊本来の意味の神社となったのかもしれない。銭洗弁天には頼朝が湧き水を汲んだ伝承があるが、佐助稲荷にも伝承が残る。銭洗いを「かねあらい」といいかえると真砂(まさご)とよばれる砂鉄をこの水で洗いタタラで吹き上げる。炉からだした灼熱のコロ(鉄塊)を冷やし、ケラ割り(鋼を採取する)するための金池だったと思われる。佐助稲荷は頼朝が蛭ヶ小島にいたころ、この地の宇賀福神が夢枕に立ち挙兵をすすめ神霊の加護を約束したといわれ、のち梶原景時に命じ社殿建立したと伝えられる。頼朝がこの土地の娘を身ごもらせた話は、長吏頭弾左衛門とかかわりがあるという。最後の弾左衛門は浅草にいたがその前は鎌倉の景政の配下であった。弾左衛門頼兼の祖は秦武虎で、鎌倉権五郎の片腕となり産鉄、漁業にたずさわり、弾左衛門を世襲名とした。頼朝と契った菜摘御前の父矢野弾左衛門は秦武虎から3代目くらいと思われる。菜摘御前の父が頼兼とも、子が頼兼ともいわれるが定かではない。頼という字は鎌倉党を頼ったということからか、頼朝から頼の字を賜ったかわからないが、その後弾左衛門一党には頼の字のつく名が多い。 
            
参考文献: 鎌倉ぶらぶら 氏名辞典 徳川将軍家の謎宝島社  闇の日本史沢史生 
by gannyan1953 | 2011-12-30 09:31 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

逗子大師と六代の墓

歴史と素適なおつきあい 番外編 2011.11.13

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                     秋谷海岸の夕日


逗子大師延命寺逗子3-1-17

天平時代に行基によって作られた延命地蔵尊を安置したことによる創建である。

そして弘法大師が立ち寄り延命地蔵尊の逗子を設立され地名の逗子の由来となる。

道香主従の墓

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三浦 義同(みうら よしあつ)は、戦国時代初期の東相模の武将、小大名。通常、出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。その子道香主従の墓である。
道寸は北条早雲と敵対し滅ぼされて平安時代から続いた三浦氏最後の当主である。
早雲は永正9年(1512)古河公方家と山内上杉家の内紛に乗じて扇谷上杉家方の道寸の岡崎城(平塚)を落城させた。三浦道寸、道香父子は住吉城(逗子小坪)に籠るがここも落城、新井城(油壷)三崎城に立てこもった。早雲は玉縄城を築き糧を断つ攻めを行った。そして永正13年(1516)新井城も落城した。
道香主従はこの寺で自害した。


六代御前最後之故址

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             六代の墓

六代は「平高清」といい、平維盛の子である。父維盛は義仲の攻勢で都落ちしたときに、都を離れるのは可哀想だと思い、妻子を都に残した。
六代は、母とともに大覚寺の北に潜伏していたが、平家が滅亡してから、北条時政の捜索で捕えられてしまった。
文覚上人の計らいで頼朝に助命された。頼朝は自分の境遇と似た立場であると同情したかもしれない。

六代は文覚庇護のもと、僧になり、母は頼朝の信頼する公家に再嫁した。
ところが、頼朝が亡くなり、文覚が土御門通親襲撃計画を企てたとして隠岐国に流罪に処される。(三左衛門事件)この事件の連座で、六代は捕えられ、田越川のほとりで処刑された。  享年26歳という。

六代が僧になったとき、六代は「僧になって翻意はない」と頼朝に挨拶にでかけている。
頼朝は、整った顔立ちとその聡明さに気づき、危険視したともいわれている。

その後、碑には「付近の住民が、夜毎に平家公達の処刑の夢を見て、きっとこれは、六代及平家の供養を絶った祟りではないかと、おののき、逗子佛教会の協力を得て、当刑場の露と消えた平家一門の大法要を行なった」とある。

六代の死で、清盛の嫡流は途絶えた。
by gannyan1953 | 2011-11-15 09:11 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

古都鎌倉の歴史

鎌倉  ―歴史と素適なおつきあい― 2003年6月 座学
                     
鎌倉は100メートル前後の山に囲まれ、南は海に面した美しい町である。関東平野を海にむかい忽然と屏風のように立ちはだかり、入るのを拒むかのごとく行く手を遮られる。地名の語源はいろいろいわれるが、ともに山と海水に侵食された地形に由来する。

1.藤原鎌足の鎌を埋めた。

2.神庫(カミクラ) 

3.竈(かまど)

4.屍蔵(かばねくら) 

5.谷を封鎖の意 カムクル(漢語)

6.高座―コクル、コムクル、カムクラ(神の人)

7.山を越すの意 カマクラン(アイヌ語)などがある。

鎌倉の歴史

頼朝が鎌倉に入ったのは治承4年(1180)のことである。大蔵(雪ノ下)にできた屋敷に入り、日本ではじめての武家政権の政治の中心地として歩み始める。元八幡を現在の鶴岡八幡宮に移し、町作りの中心とした。政治体制を整え弟義経らを討ち取り権力強化をはかった。しかし源氏の世は続かず頼朝死後、御家人たちは、御家人中心の政治を求め、権力闘争が繰り広げられ、血で血を洗うドラマの舞台となった。御家人の中で梶原、比企、畠山などの各氏は滅ぼされた。頼朝の子頼家(2代将軍)も、祖父北条時政に後見の比企能員を滅ぼされた。頼家は伊豆修善寺に幽閉され翌年暗殺された。弟実朝は3代将軍となったが、兄頼家の子公暁に鶴岡八幡宮で殺された。その後頼朝の妻政子の実家北条氏(伊豆の在庁官人出身)が実権を握った。北条氏は代々執権となり、将軍は名ばかりの存在であるが、京都から迎えた。鎌倉は北条氏のもとで繁栄し、最盛期には人口3万人を数えたといわれる。
元弘3年(1333)幕府は新田義貞に滅ぼされ、武士たちの間で権力闘争が続き、足利尊氏が京都に室町幕府を開いた。鎌倉は東国10カ国を支配する鎌倉府が置かれ、それなりに賑わいは保たれた。康正元年(1455)鎌倉府の長、足利成氏は下総国古河に逃れ鎌倉は急速に活気をなくし、もとの農業と漁業の町になってしまった。その後観光地、保養地、別荘地としての鎌倉に変貌していく。

中世のおもかげ  

                 
鎌倉は、鎌倉武士たちが一瞬の光芒を放ち、その残光に照らされた中世のきらめきが埋葬された巨大墳墓という雰囲気を明治前期まで保有していた。
死の記憶を伝えるやぐら 
やぐらとよばれる横穴は昔の墳墓だったといわれる。大倉山にあるやぐらは宝治元年(1247)北条時頼に滅ぼされた三浦一族の墓。さらに登ると大江広元、その子の毛利季光、頼朝の庶子と言い伝えのある島津忠久の墓。毛利と島津の時空を隔てた縁の発端がここにある。薬師ヶ谷の百八やぐら、東慶寺、明月院、報国寺のやぐら。寿福寺の3代将軍実朝、母政子の墓など。鎌倉のやぐらを象徴するのが東勝寺跡にある北条一族のやぐらである。元弘3年(1333)幕府に反旗を翻した新田義貞の軍勢に追い詰められた北条一族とその家臣たちは菩提寺である東勝寺に立て篭もる。総勢870余人が次々自害したといわれる。北条一族を供養するためのやぐらが東勝寺跡の北条一族腹切りやぐらと瑞泉寺裏手の胡桃山を下った北条首やぐらだといわれている。木立に覆われたやぐらの周囲は昼なお暗く、冷気をおびた風は滅びし都の風情を今に伝え、北条一族の無念が感じられる。
昭和28年(1953)由比ガ浜を発掘、三千体以上の人骨が掘り出された。その数、状態から幕府滅亡時の戦死者のものだと人類学者の鈴木尚はいっている。


隔絶された鎌倉と切通し 

鎌倉に入った頼朝は真っ先に鶴岡八幡宮を拝し、父の旧館跡を訪れたという。源氏と鎌倉の関係は頼朝5代前の頼義からはじまる。頼義は永承6年(1051)からはじまる前九年の役を平定した武将で八幡太郎義家の父である。頼義は、岩清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮の前身由比若宮を建立する。屋敷もあったのではないかと推定されている。頼朝の父義朝は亀ヶ谷に屋敷を持っていた。
頼朝が鎌倉入りしてから政子は海沿いの稲村ガ崎をまわり、吉日に鎌倉入りをした。山を越える道は整備されていなかったと思われる。山越えの道が整備され、「切通し」といわれる7ヶ所の道「鎌倉七口」が切り開かれていった。極楽坂切通し、化粧(けわい)坂切通し、巨福呂(こぶくろ)坂切通し、亀ヶ谷切通し、大仏坂切通し、名越切通し、朝比奈切通しのことである。要害都市鎌倉の防衛機能を考慮して整備された道なので、外からの侵入を許さない造りとなっている。
鎌倉攻めをした新田義貞は化粧坂口と極楽寺坂口で苦戦を強いられる。結局、切通し突破を諦め、稲村ガ崎をまわり、海上の竜神を拝み黄金作りの太刀を神に捧げ、現れた干潟を突破した。
化粧坂、朝比奈、名越の切通しは樹木が茂り、苔むしていて中世のおもかげを残している。


鎌倉の名水 

山に囲まれ大河川が流入しないため、鎌倉は昔から飲料水、農業用水の確保に苦労してきた。しかし、名水といわれる井戸があり、鎌倉十井と呼ばれ、切通しの麓に名水をたたえた井戸や湧き水が存在する。広葉樹林が貯えた水が伏流水となり、麓まで豊かに水流が保たれているからである。急な切通しを通る人々の喉を潤したことであろう。水に苦労してきた分、水を守るため地域社会の結束もなされ、大切である水の伝承、文化も発達したと思われる。
民族学者大藤ゆきがまとめた「鎌倉の民族」には鎌倉の水の売買が記録されている。「常盤御前の硯水」と呼ばれる一種のブランド水として販売していた常盤地区、星月夜ノ井の水は、坂ノ下村の現金収入であった。


御霊神社に残る伝説 

頼朝の鎌倉入り以前からあった御霊神社は、五穀豊穣を願った湯花神楽や、ハラミット行列(無形重要文化財)で知られている。御霊信仰は本来非業の死を遂げた人を祀る事で悪疫、災難を祓うという信仰である。だがここは、鎌倉五郎景政を祖とする大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の五家の霊「五霊」や、五郎が御霊(ごりょう)に音韻変化したものといわれる。
鎌倉五郎景政は後三年の役(1083~87)に参加、清原方がこもる金沢柵(秋田横手)を攻めた時の逸話が残る。景政16歳の時先陣を争い、右目を射抜かれる。貫く矢を抜こうともせず敵を追いかけ殺害し、本陣に引き返す。そこで三浦為次が、矢を抜くのを手伝おうとわらじを履いた足を景政の額にかけて、矢を抜こうとした。突如景政は為次を刺そうとし、「生きながら顔を踏まれるのは武士の恥辱」と言い放った。為次はその剛毅に驚嘆し、景政の脇に膝をついて矢を引き抜いたといわれる。その間景政は平然としていたという。こうした超越した豪胆さに人々は驚き崇拝したのである。鎌倉武士にとって景政の豪胆で猛々しいふるまいは誇りであり理想像とされ、神格化された。


ハラミット行列 

孕み女を先頭に爺、異形、鼻長、烏天狗、翁、火吹き男(ひょっとこ)、布袋、おかめ、取り上げ女(産婆)の行列である。おかめがハラミット役で取り上げ女が大きな腹を撫でたり、さすったりしながら歩く。孕み女=豊作といわれている。
一説に頼朝が被差別部落の娘に子を孕ませ、村は将軍のお胤が宿ったと大喜びし、この娘を押したて街を行進してまわったという由来説がある。他に行列の内容が金属と結びつくことから、(火吹き男―炉を吹く、天狗、異形、鼻長―赤鬼は鉄・青鬼は銅、産婆―産鉄する時に炉からでてくる鉄の溶けた様子をお産と重ねる)頼朝が入る前からもともといた鎌倉党の武器製作に携わった人々ではないかと考えられる。


生育儀礼 

鎌倉には独特な生育儀礼がある。大藤ゆきの「鎌倉の民族」や「子供の民俗学」には、生後3日目に牡丹餅を作って祝うミツメ。11日目に小豆飯とお頭付きの魚で祝う井戸マイリ。「臼入れ」と呼ばれる儀礼は、お宮参りの帰りに臼のある家に立ち寄り臼に座布団を入れ子を入れる。その家のおじいさん、おばあさんが杵を3回振り上げ子供を搗く真似をする。穀物の霊力に対する古来からの信仰と思われる。特に餅米には粘り強さがあり、強い力があると信じられた。唱えられる詞は

「三浦の大介百六つ 鶴は千年 亀は万年」

大介とは頼朝挙兵の際功績があった三浦義明のことである。頼朝は石橋山(小田原市)の合戦で敗北し、手勢僅かで房総の千葉氏のもとへ向かう途中応援の三浦勢と海上で出会うという縁がある。それは、義明が石橋山の合戦に台風のため間に合わず、居城衣笠城に僅かな兵と籠もり、残りの全兵力を海上にやり頼朝との合流を命じたためであった。その後、畠山重忠率いる追討軍とよく戦い自決する。89歳であった。頼朝はこの功績を終生忘れず菩提寺(現来迎寺)を建て、義明17回忌に墓前で今まで生きていたものとみなすと語ったことから、義明は106歳まで生きたという伝承が生まれた。義明の長寿、義明が頼朝の運を開いた開運力、義の篤さから臼を搗くときの詞となった。


古都鎌倉の誕生と文明開化

古都として認識されるようになったのは、近世中期以降のことである。鎌倉は戦国時代から、都以前の静けさを取り戻していた。寛永10年(1633)沢庵和尚が鎌倉五山を訪れ、建長寺の塔頭が獣の住処となっていると驚きを「鎌倉巡礼記」に記している。限られた文化人のみが古都として訪れていたようである。
江戸中期には庶民の旅が一般化し、大山、富士山の帰りに江ノ島、鎌倉、金沢八景を訪れる人が増加した。江戸の商人扇雀亭陶枝の「鎌倉日記」にあるのは、江戸から東海道を西に権太坂を通り、翌日江ノ島弁才天に着く。江ノ島岩本楼に宿泊し、稲村ガ崎のばばが茶屋で休憩、ここで名所旧跡のガイドマップを購入し、極楽寺切通しから鎌倉入りした様子がわかる。鎌倉の英雄の活躍、悲劇、人々の語りの記憶につながる場所を内在している鎌倉を描いた本が出版される。万治2年(1659)中川喜雲の「鎌倉物語」は当時ベストセラーになり、人々に鎌倉を訪れる憧れを抱かせた。「義経記」から題材をとった文芸作品も数多く浄瑠璃、謡曲、読み物などから古都鎌倉として人々の中に観光地としてのイメージが定着していった。
明治以降鎌倉にも変革の波が押し寄せる、神仏分離政策により、鶴岡八幡宮寺から鶴岡八幡宮に変わる。護良親王の鎌倉宮も明治になってから、建立された。一時は大仏も売りに出された時があり、廃寺が多くでた。
その後、海を擁する鎌倉として大磯とともに保養地としての注目を浴びることになる。逗子を舞台にしたラブロマンスで女性の涙を誘った徳富蘇峰の「不如帰」は湘南の保養地としての憧れをもたせた。明治10年ころ西洋の保健衛生の観念から大磯、鎌倉には海水浴場が作られ、結核患者の療養にも適すということで療養所も作られた。これは結果的に療養を目的とした文化人を集めることとなった。
高山樗牛、国木田独歩、萩原朔太郎、倉田百三、中原中也、平塚らいてう、八木重吉、木下利玄、吉野秀雄らは、結核などの病気療養で湘南に滞在、あるいは住み着いた文化人たちである。鎌倉で療養した作家有島武郎の「或る女」「カインの末裔」「惜しみなく愛は奪ふ」は結核療養に関係した作品である。「七里ガ浜の哀歌」の作詞者である鎌倉女学校教諭三角錫子も結核療養中であった。
谷崎潤一郎の「痴人の愛」では大正時代の避暑地、別荘地としての鎌倉が登場した。
夏目漱石は材木座の河内屋に滞在し「こころ」で「これ程の都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた」とある。
芥川龍之介、岡本かの子、その子の岡本太郎、川端康成は平野屋に滞在していた。平野屋は旧駅舎のトンガリ屋根の時計台が保存されている鎌倉駅西口公園にあった平屋造りの貸し別荘のような旅館であった。中世の残照に照らされた町から、避暑地、海浜保養地として高級感の漂う町へと変化していった。横須賀線開通(明治22年・1889)で東京から近くなったことも影響した。
別荘地鎌倉として別荘が林立するようになり、御用邸まで建設された。鎌倉市立御成小学校の門は御用邸の門を模している。関東大震災後は別荘地から住宅地へと変化していく。現在鎌倉は全国でも屈指の高級住宅街の一つに数えられている。高級イメージを定着させたのは昭和初期に開発された鎌倉山に負うところが大きい。鎌倉が別荘地から高級住宅地に移り変わる中で、深み、寂び、幽玄さをかもし出し、古都鎌倉が存在することになる。
鎌倉の人々が環境を大切に保存維持し、新しくできる建物にも古都らしさを失わないように演出されている。
鎌倉にも自然破壊の波がおしよせたが、文化人、住民たちで「鎌倉の自然を守る会」を結成、その後。「鎌倉風致保存会」を結成し、奈良京都を誘って「古都保存法」の制定へと結実していく。特徴であった、鎌倉のまわりを囲む山を存続、守ることが古都鎌倉のイメージを守ることになった。 


参考文献 古都鎌倉案内 加藤理   日本地名学研究 中島利一郎
日本妖怪巡礼図 荒俣宏  鎌倉市観光協会
by gannyan1953 | 2011-05-22 10:54 | 鎌倉の歴史 | Comments(1)



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