歴史と素適なおつきあい

カテゴリ:愛知県尾張の歴史( 8 )

豊国神社に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編


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豊国神社


山本屋の味噌煮込みを食べに名古屋駅の裏の方に行った

昔母に駅裏には行かないようにと言われていたので
あまり出かけたことがない

今行ってみると,戦争で焼け残ったのか、レトロな家が多い

昭和 昭和してて楽しい
ほとんど長屋で昔の風景が残っている

大門本店という店だったと思う

漬け物も味噌煮込みも堪能し

中村公園があったことを思い出した

中村公園の中に豊国神社はある

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秀吉さんここで生まれた 感動


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常泉寺

豊国神社の隣


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by gannyan1953 | 2017-03-30 11:43 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

名古屋城に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・3・29


前に訪れたときより本丸御殿の建設が進んでいた

多くのスタッフが並びそちらの方が騒然


私は幼い時から名古屋城のお堀で
よく遊んだ

日曜になると朝早く
兄と配達された牛乳瓶を自転車のかごにのせ
あちこちでかけた

現在の放浪癖は
このころからだった・・・

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明治12年 立派なお城

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昭和15年

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戦争で焼けたシャチホコの金を使って
作った釜

返還の意味がわからず調べてみたら
焼け残った金の塊をGHQが持って行った・・
のちに返還されこの塊じゃどうしようもないので
茶釜を作ったということだった

シャチホコは明治になり3度も盗難にあったそうだが
なかなか換金はできず
お縄になったという

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直径30センチくらいあったかと・・


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空襲中


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現在のお城を写真撮るの忘れた











by gannyan1953 | 2017-03-30 11:32 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

国府宮に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編  2017・1・19



愛知県稲沢の国府宮駅近くに尾張大國霊神社がある
おわりおおくにたまじんじゃという

府中の大国魂神社と読みはいっしょだが
祭神も違う


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楼門 ウイキペデイアより
室町時代の門である




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大國魂神社拝殿



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別宮 大御霊神社


尾張開拓した祖先が祀られている。
古代祭祀の神社で本殿後ろに磐座がある。

磐座を見に行ったのだが裸祭り(平成29年2月9日開催)の準備か
プレハブが建っており後ろを覗くことができない。
普段なら隙間からみえるのだそうだ。
ちゃんとみるにはご祈祷を申し込んで拝殿に上がれば見られるという。
時間がなかったので残念だが
公開してくれればいいのに・・・

この近くに尾張の国府(国衙)があり 駅名が国府宮となっている。
祭神は尾張大國霊神・境内別宮の大御霊神社(大国御魂神)・
宗形神社(田心姫命)の三神で国府宮三社という。

大國霊神社

ホームページに磐座の写真がある

尾張の国府(国衙)はこの神社のまわりにあったと推定されている


尾張の国府に赴任した国司が
納税者(配下に百姓がいる)から悪い国司だよと
朝廷にちくられたことで有名になった
藤原元命(もとなが)がいる。

江戸時代岐阜県で郡上一揆があり
大名を首にしたことがある
中部地方のの住民強し!

藤原元命が何をしたかというと

「術つきて東寺門にて乞食をしけるが、終いには餓死したりけり」
『地蔵霊験記」

料地の農民が一生懸命努力したが食べていかれず結局死んだ
とある

悪政を行った
ほかに

元命は地獄沢に氷が張って渡れず
近くの卒塔婆を橋にして渡った
そこには地蔵菩薩が掘ってあり
地蔵を踏みつけた

その後尾張の百姓に憎まれ・・・

と尾張の鳴海にある頭護山如意寺の由来にある

具体的にはわからないが訴状が残ってしまった
他国でも訴えは多くあったけど
元命の訴状文だけが全部残ってしまった

古文書として大切にされた

なので今でも悪人と伝わる

尾張国郡司百姓等解文という
大須観音所蔵


結局・・・職から追われた

 歴史に悪名を残した不運な人である

その後・・・また尾張に・・・
有名人がやってきた

百人一首で赤染右衛門という人を
ご存知だろうか

女性歌人で


やすらはで 寝なまじものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

を歌った

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赤染右衛門のご主人は、文章博士の大江匡衡(まさひろ)

夫婦で文系ってこと・・

夫の仕事も支え、子の任官にも努力し
教育ママぶりも発揮

平安時代の良妻賢母である

このような人たちが

尾張の国司だった















by gannyan1953 | 2017-01-20 12:02 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

名古屋港駅 ハーバーロッジ名古屋

歴史と素適なおつきあい番外編   2016・6・12

今回はハーバーロッジ名古屋に宿泊

名古屋港からすぐにある船員さん向けのちょっと古いホテル

ツイン バストイレ付きの部屋。





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朝散歩


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猫多し


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昭和基地のざくろ石


その日は母の面会に



帰りは新しくできた第2東名へ

はじめてのサービスエリア

「長篠設楽原」

トイレ休憩だけなので
ゆっくりできないが、戦国一色がお気に入りになった

下りはもっとおもしろいらしい

ここの戦国っぽい食事を今度は食べたい

名前が面白い

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下りは武田軍のイメージ


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  丁寧な布陣の図





by gannyan1953 | 2016-06-11 22:10 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

円頓寺に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編 2016・3・15

名古屋駅を郵便局の方に行って那古野に向かった
まず見つけたのが

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迦具土神とある。
カグツチは火の神様、鍛冶の神様で、おかあさんのイザナミは
カグツチを産み落としたとき火傷をして死んでしまう・・・
あげくに怒ったおとうさんに殺されてしまった・・・
というかわいそうな神様である

もう少し行くと
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桂芳院という寺に愚痴聞き地蔵様

入って左にひっそり奥まっておられるので
グチグチ訴えてもよさそう・・・

円頓寺に向かっているのになかなか面白いものと出会える

右手に円頓寺のアーケードが見えてきた
大昔 七夕で賑わっていたが今はどうしてるのだろう
まだ続いていた・・・名物ハリボテや阿波踊りもある
幼い頃よく遊びに行き七夕は人でいっぱいだった

商店はじめ飲食店も多く映画館、寄席、カイケイ座という
ストリップ劇場まであった
ダンサーに金髪の人がいて私はずっと外人だと思ってきた
明治20年頃からの古い商店街であった

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七夕のハリボテ?

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ゴジラもいた
おおきな通りにでたら

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負けいくさにビビった家康様


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なぜか水戸黄門様

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無茶苦茶凛々しい秀吉様

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岐阜駅にもあったような・・・金ピカ信長様
 私は信長が好きだ
信長様は金ピカが似合う

やっぱ名古屋の商店街は面白い

この4体の像は、ご近所の不動産会社の社長さんの寄贈だそうだ


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円頓寺商店街の由来となったお寺さんかな・・円頓寺
もともとはこの寺の門前町として商店街が作られたらしい

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金比羅さん
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名古屋弁おみくじ
吉でした!

声を出して名古屋弁で読んでみた
おもしろい
古道具屋のおじさんが話しかけてくれた
昔の名古屋弁はね  なもを最後につけて
きれいな言葉だったよ
と・・・名古屋の言い方で・・・


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五条橋 
清洲越えのときに清洲から移したという由緒ある橋
開削された堀川にかかり昭和30年代はメタンガスがでる臭い川だった
川に落ちたら死んでしまう気がして怖かった
川をじっと見ているとポコッポコッとあちこち水面に輪が広がった
それがメタンガスが出る時だ

戦前は人が泳いだというので驚いた
今はそこまで汚れていない


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五条橋の円頓寺よりにある合体神社

喫茶店nishiasahi 西アサヒ


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たまごサンド これ有名
おいしかった

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キーマカレーのランチ

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日替わりサンドイッチ

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もらったDVD
ゆがみや

帰宅して鑑賞してビビった
わけわからんし・・・
うるさいし・・・
でもこれ昔流行った「サイケ」っていうものかな
河村市長も出演!!
地域おこしの最初の映画らしい

もう一度見たらなんだか燃えてきた
名古屋人の底力見た感じ


最近・・・四間道(しけみち)もおしゃれなお店ができて
観光ブームになっているらしい

大須に負けるな!円頓寺










by gannyan1953 | 2016-03-17 16:39 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

大須商店街

歴史と素適なおつきあい番外編               2012・11・18


 大須商店街


幼いころ、お正月に家族みんなで初詣にきた。
久しぶりに母の介護帰省のついでに、寄ってみた。
実は、私の子供が幼いころによく遊んだ友人と連絡がとれない。
大須でアクセサリーの店を開いていたのだが、あちこち尋ね歩いたがもういないみたいだった。

矢場町~清浄寺(小林城址)~万松寺~たんすのばあば~大須観音~柳下水


大須とは


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関ヶ原の戦いのあと、家康の命により「清州越し 」という名古屋城を築城したとき清州から町の移転を行ったことをいう。
清洲越しにより、家臣・町人・神社3社・寺110寺・清洲城下の町屋約2700戸が移転したという。
慶長17年(1612)頃から元和2年(1616)までのころに行われた。

そのとき美濃国長岡荘大須郷にあった真福寺(現在大須観音)も移転され門前町として栄えた。

大須の賑わいはなぜ?

今では全国の商店街がシャッター街になっていくのに、大須は元気!おもしろい!

なぜかというと、大須も栄に押されて一時寂しくなっていた。
そこで大学生も巻き込んで大道芸などイベントを開始した。人が集まるようになると・・・・

門前町しての元々の姿、そして秋葉系、下北沢の古着屋系、個人的に好きなのはエスニック系、アジアン系だが、そんな雰囲気が今現在の大須の姿である!

食べ物も世界中のお食事ができそう。

商店街に入りすぐにマップをもらい、さまよった。


小林城跡(清浄寺) 名古屋市中区大須4丁目  

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現在の清浄寺で、尾張六地蔵第2番札所である。
牧長清の墓がある。

牧長清とは

斯波高経(尾張流足利家嫡流、牧家祖・南北朝の武将)の流れで、信長の時代の牧長正の弟にあたる。

小林城はこの牧長清が23年居城しており、信長の妹を妻にした。夫人は小林殿と呼ばれた。
長清は老後に僧となり、城は廃城したが、尾張藩主徳川光友の剣術師範を務めた柳生兵庫の屋敷となり、元禄時代に清浄寺が建てられた。


万松寺中区大須3丁目

天文9年(1540年)、織田家の菩提寺として織田信秀建立。
信秀の叔父にあたる雲興寺八世・大雲永瑞和尚を開山に迎えた。
当時は現在の中区錦と丸の内2丁目・3丁目にまたがる広大な寺領を持っていたが、慶長15年(1610年)、名古屋城を築く際に小林邑(現在の大須3丁目)に移建した。

尾張徳川家朱印寺として篤く信仰されたが、幕末に衰退、大正時代に所有する山林を開放し町は開拓され、賑わいを戻した。

空襲で焼け野原となり、本堂が再建されたのは平成になってからである。

逸話

☆ 信長が父の信秀の葬式で抹香を投げた寺だが、場所は旧地のことである。

☆ これも旧地だが、家康は6歳で人質として駿河に送られるとき、信秀に一時引き取られ9歳までここで過ごした。

☆名古屋千種区にある日泰寺だが、日本とタイ国の親善の寺である。明治にシャムから分骨された仏舎利が日泰寺に運ばれるとき万松寺から行列がでた。

☆ 身代わり不動明王は加藤清正が命名したという。

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本堂 ビルである。

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身代わり不動明王 大須商店街に向いていてとてもにぎやかで、市が開かれている。

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織田信秀の墓所

たんすのばあば

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なでると衣服に困らないそうである。



大須観音





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今年はめでたいことから大変なことまで色々あった。
今更ながら今年私は厄年になっている。もう厄はないと思ったのに。
遅ればせながら護摩木で厄払い。
久しぶりに墨をすった。

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大須観音は、国宝の『古事記』の最古写本「真福寺本古事記」をはじめ、貴重な古典を所蔵している。

「真福寺文庫」といい、仁和寺、根来寺の文庫と合わせて本朝三文庫といわれる。
そのためか、家康が名古屋への移転を決めた理由は、水害の多い清州から移転して古典を守るという目的があったもいう。

真言宗智山派別格本山である。




清寿院の柳下水(りゅうかすい)
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尾張三名水のひとつ。
清寿院は修験道当山派・富士山観音寺といった。
寛文7年(1667) 藩命により清寿院(しょうじゅいん)となった。
見世物小屋、芝居など境内で行われ大変な賑わいだったが、明治の廃仏毀釈で、廃寺となった。
柳下水は中門前にあり、将軍上洛のときには飲用水として用いられた。

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からあげやさん
by gannyan1953 | 2012-11-18 17:13 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

壬申の乱と鉄・村国男依

歴史と素適なおつきあい           2012・7月


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村国神社

壬申の乱と鉄




天智天皇が大津の宮で病に倒れると、大王(おおきみ)継承をめぐるさまざまな思惑が動き始めた。


後を継ぐ者は大友皇子(おおとものおうじ)か、大海人皇子(おおあまのおうじ)か?

皇位継承をめぐり、古代史最大の戦乱がはじまった壬申の乱という。

壬申の乱とは、病にふせる天智天皇の見舞いをした弟の大海人皇子が、


「継承者を皇后の倭姫(やまとひめ・古人大兄皇子の娘)に譲り大友皇子が政治を行うように」と言い残し、吉野に隠遁したはずの大海人皇子の蜂起にはじまった戦いである。

❋古人大兄皇子は天智天皇(中大兄皇子)に謀反の疑いで殺されている

状況

天智天皇と大海人皇子兄弟の微妙な対立を調整してきた藤原鎌足が669年に亡くなった。

大友皇子の母は、伊賀采女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)という地方豪族出身であり、

身分が卑しいとされ、父と同母弟である大海人皇子を押しのけて王位継承者になることが困難であった。

671年、天智天皇は実子の大友皇子を太政大臣(だいじょうだいじん)に任命した。

これは、大海人皇子が権力ラインからはずされたことになる。そして大海人皇子は職を辞して、

吉野に下ることになるのだが、日本書紀はこのことを「虎に翼を着けて放てり」と評している。

672年暮れに天智天皇が崩御した。

半年後「天智天皇の山科稜築造のために、美濃、尾張から農民を動員しているが、その者達に兵器を
とらせている」
と大海人皇子に報告があった。

その動員は吉野を攻めるためではないかと思い、反乱の決意を固めたという。

大海人皇子が頼った湯沐邑(ゆのむら)は、皇太子の領地のことで、古くは「壬生部」(みぶべ)といわれた。

この時代の湯沐邑は、私領地として大海人皇子との結びつきが強かったと思われる。

大垣から安八郡、さらに揖斐郡にわたり南北に広い地域であった。

湯沐邑の責任者・湯沐令(ゆのうながし)は多臣品治(おおのおみほむじ)という。

多の一族で、一族の中に太安万侶がいる。太安万侶の父であるという説もある。

❋太安万侶とは古事記の編纂者


展開

大海人皇子は、側近の村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつきみひろ)和珥部臣君手(わにべのおみきみて)3名を湯沐邑に派遣し、兵の動員を求めた。

大海人皇子は吉野を脱出、伊賀に向かい、息長横河(おきながよこかわ)の戦い、そして琵琶湖の瀬田川で最終決戦し、大友皇子の自害に至って勝利した。


大海人皇子の名前にある海部は、乳母の出自が海部氏だったからである。

海部氏は、尾張氏や安曇氏(あずみし)と同族で安曇氏は、開鑿(かいさく)伝説にも関係し、金属に深くなじんだ氏族である。

凡海麁鎌(おおあまのあらかま)が大海人皇子の養育に関係したといわれ、「かま」は金属と関係する。(谷川健一)

美濃の地、そして尾張氏は、古代から製鉄を多くする地で、その氏族であった。

もともと大海人皇子の養育を海部氏にしたこと自体、この金属になじむ氏族を選んでいたのではないかと考えられる。

そしてこの戦いを勝利に導いたのは尾張、美濃の豪族たちであった。

各務原の英雄 村国男依(むらくにのおより)


岐阜県各務原(かがみはら)の地名は古代の鏡からつけられたと思われる。

古代に鏡作部(かがみつくりべ、銅鏡などの鏡を作る特殊技能集団)がいたことからと言い伝えられている。

また、別の説では、各務地域のほぼ中央にある村国真墨田神社に鏡作部の祖神である天糠戸命(あまのぬかどのみこと)が祀られているからとも言われている。

このアマノヌカドは、奈良の磯城郡にある多氏一族の神社・鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)の祭神でもある。

多氏も金属にかかわる氏族で、その移動に伴い各務原に鏡作部を設置したのだろうか。

各務原は、愛知県と岐阜県の境にあり、今では木曽川が県境になる。

古代の木曽川は支流が多くいまのような境ではなかったらしい。

村国男依の領した村国郷も愛知県の江南から、北へ岐阜県の各務原に至る。

壬申の乱最高の功労者といわれるが、あまり知られていない。

生年不詳で、天武天皇5年(676)7月に亡くなっている。


村国男依の活躍

6月22日に吉野を発った3人の舎人(村国男依たち)は、4日後26日に伊勢国朝明評家(あさけのこほりのみやけ)まで進んできた大海人皇子一行に「美濃勢3000人」を動員し不破(関ヶ原)を確保したことを伝えた。

その湯沐邑までの往復の道程を考えるとわずか1日か2日での動員出動したことになり、大海人皇子の事前の準備があったことがうかがわれる。
 
不破(関ヶ原)では、尾張国守小子部連鉏鉤(おわりのくにのかみちいさこべのむらじさひち)が率いた2万の兵が帰服した。

不破には桃配山があり、大海人皇子が兵士にねぎらいの桃を配ったことに由来する。

のちに、家康が陣営を張った場所である。

大海人皇子は野上行宮(のがみあんぐう)からは動かず戦況を見守った。

その後7月2日将軍となった村国男依は数万の兵を率いて進発した。

7月7日息長横河(米原市梓河内付近)の狭い谷間で村国男依は勝利した。

❋行宮とは、天皇が行幸、政変なので仮に使用した施設

大友軍は70キロ先の大津宮に敗走する。

7月22日瀬田橋の戦いで橋の両側に対峙していたが、大海軍の勇者大分稚臣(おおきだのわかみ)が橋を駆け抜け、斬りこんだことを契機に大友軍は総崩れとなった。

敗走した大友皇子は大津付近か京都の天王山か定かではないが、山前(やまさき)で自害する


大海人皇子は天武天皇となり功労者村国男依は連を賜り、中央下級貴族に加わり各務原にも一族は残った。

このあたりの農民たちは位階をもつものがいなかったが、乱後は位階をもつ農民が多数みられることから、男依だけでなく冠位を授けられ優遇されたことがわかる。

この処遇は701年の大宝律令制定まで続き後に解消された。

この時期各務原周辺には仏教寺院が多く建立されているので、その一族の豊かさを表しているといえる。


村国真墨田神社(各務原市鵜沼山崎町1丁目108)

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祭神:金山彦命(南宮大社)天火明命(あまのほあかりのみこと)後に村国男依

❋金山彦命とは金属の神(南宮大社の祭神)

❋天火明命とは尾張氏の祖先神(尾張、美濃の神社の祭神に多い)

秀吉の時代に南の木曽川沿い(現在の御旅所・「大脇グループ木曽川寮」の駐車場)から現在地に移転した。

村国神社 (各務原市各務おがせ町3-85)おがせは苧ケ瀬と書く

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村国神社裏の森
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村国神社裏の森のストーンサークルのように石が並んでいる
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村国座


祭神:天火明命(あまのほあかりのみこと)・御子石凝老命(みこいしこりどめのみこと)・

後に村国男依

❋御子石凝老命とは、鏡作りの神

明治15年(1882)になって奉納芝居を行う場所として村国座(芝居小屋)ができた。

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男依の伝承墓

東南200mに御旅所があり、村国男依の墳墓であるという言い伝えがある。

椋の大木を御神木として祀る。


尾張氏


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東谷山 尾張氏本願の地


古代の地方豪族で天火明命を祖神とし、本貫地は諸説があり、葛城説、吉備播磨説などある。

もとは海人族で海からこの地にきたと思われる。

美濃、飛騨などに居住したのち乎止与命(おとよ)のとき、尾張国造となる。

尾張の由来は、新しく墾り(はり)開かれた土地の意からつけられたといわれる。

なぜだか、尾張氏は皇族が新しくなるときに后をだしている。

尾張氏と皇族の婚姻

①日本武尊と簀媛命
②孝昭天皇(前475-前393)と世襲足媛(よそたらしひめ)
③崇神天皇(前97-前30)と尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)
④応神天皇(270-310)と高城入姫命(たかぎいりひめ)・弟姫命(おとひめ)・仲姫命(なかつひめ)
⑤継体天皇{507-531}と目子媛(めのこひめ)

皆、尾張氏の姫君たちである。

そして崇神天皇・応神天皇・継体天皇ともに系譜が変わった天皇である。

系譜が変わった時に尾張から姫を娶る。

どういう意味があるのだろうか。畿内にいる豪族は全王朝に関わっている豪族ばかりなので、地方の実力派豪族との結びつきを求めたのだろうか。

尾張氏は表舞台に出る氏族ではなかったが、皇室の外戚という重要な存在であったようだ。

熱田神宮の宮司、同族の津守氏は住吉神社(大阪)、元伊勢籠神社の宮司は海部氏である。

熱田神宮の宮司職は後に、親戚の藤原季範(すえのり)に譲られた。

季範の三女由良御前は源義朝の妻となり、熱田神宮のそばで、頼朝を生んだ。

頼朝は名古屋生まれなのである。そう考えると最初に武家社会を築いた頼朝、後の信長、秀吉、家康、みんな名古屋、愛知県の生まれである。

草薙剣の祟り

天武天皇が病に倒れたため占ったところ、草薙剣の祟りだという。



話は、天智天皇のころ新羅の僧が草薙剣を盗んだことにはじまる。

新羅に持ち帰ろうとするが、船は難破し捕えられる。

まだ「三種の神器」は存在していなかったので、天智天皇は手元に置いていた。

そして近江朝が滅び、今度は天武天皇の手元に置かれた。占いがでてから、すぐに熱田神宮に戻されたが、天武天皇の病は癒えなかった。

熱田神宮に今でも続く神事がある。「酔笑人神事」(えようどしんじ)という。

草薙剣が熱田神宮にもどされて神官たちが喜んだ様子だそうだが、真っ暗闇の中、熱田の神職たちが、喜んで、酔って、笑って、歩きまわった様子が、「酔笑人神事」になった。

古くより見てはならないと語り伝える神面を、神職各自が装束の袖に隠し持ち、中啓という扇で神面を軽く叩いた後、全員が一斉に「オホホ」と笑う神秘的な神事である。

新羅の僧が盗んで逃げた門は「清雪門」といい、事件以来不吉の門とされ一度も開けられたことがない「開かずの門」になっている。

なぜ祟りという占いがでたのか諸説あるが、正当な後継者だった大友皇子を自殺に追いやり、大王になった天武天皇を非難するための話ではないかといわれている。


日本武尊命(やまとたけるのみこと)と大海人皇子

ヤマトタケルは、熊襲征伐を終え、東征に向かうとき、伊勢神宮の叔母である倭比売(やまとひめ)に会いに行き、草薙剣をもらった。

東征の帰りに尾張のミヤスヒメと再び会い、剣をミヤスヒメに預ける。剣をもたずに向かった伊吹山の神に痛めつけられ、醒ヶ井の水で意識はもどるが、鈴鹿で足がたぎたぎしくなり三重に折れた(三重の語源)。能褒野(のぼの・亀山市)で亡くなって白鳥となったヤマトタケル。


大海人皇子は伊吹山麓不破の尾張氏の私弟に行宮を置き、勝利をあげたのち都である近江には寄らず往路を戻って飛鳥にもどる。即位してのち熱田神宮の草薙の剣の祟りによって亡くなる。
両者には似通ったところがある。


伊吹山周辺の鉄

なぜ両者とも伊吹山なのか。草薙の剣と関係するのか。

伊吹山の近くに伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1)がある。

中山道沿いに大きな鳥居があり、少し奥まった場所にある。「いぶき」とは伊福部氏であり、尾張氏と同族で、伊吹山麓周辺で鉄を生産していた。
大海人皇子の行宮とした尾張氏の館もその管理のためにあったと思われる。

現在伊吹山では石灰が掘られているが、古代ではこのあたり、鉄生産がさかんであった。


南宮大社 (岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1)

伊吹山の南にある美濃国一宮で、鍛冶の神である。

祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)。

鞴(ふいご)祭では、実際に野鍛冶による鍛錬を神官が行い小刀を作成して、奉納する金属の行事があり、今でも金属に携わる人々が集まる。

節分の行事で、的の裏に「鬼」と書かれた大的に12本の矢を射る大的神事がある。

鬼とは平将門のことで、京都から飛んできた将門の首を南宮大社の祭神隼人神が射落としたという。

近くに「御首神社」がある。

金生山(きんしょうざん)岐阜県大垣市赤坂町金生山(かなぶやまが正しい)

伊吹山の東麓にある、

石灰岩の山で現在石灰岩や大理石が、掘り出され山容が変わっている。

赤坂駅には石灰を運ぶ貨物があり、石灰の製品が積み上げられている。

昔は、鉄鉱石の質が高く自然の丹としては最高のものでそのままベンガラとして使えたという。

第二次世界大戦時も軍隊が褐鉄鉱を掘り出している。麓の赤坂、青墓は刀鍛冶が多くいた。

多度大社 三重県桑名市多度町多度1681

養老山地に南にあり、摂社に一目連神社があり、祭神は天目一箇命(あめのまひとつのみこと)である。

鍛冶の神である。現在でも祭祀に刀鍛冶の奉納がある。

尾張の鉄

内々神社(うつつじんじゃ)内々神社 春日井市内津町上町24

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内々神社 本殿      


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内々神社横の内津川支流の鉄分が流れる様子


祭神は、日本武尊命(やまとたけるのみこと)建稲種命(たけいなだねのみこと)・簀媛命(みやずひめのみこと)

南北朝時代の禅僧、夢窓国師の作庭と言われている庭が奥にある。隣に妙見がある。

神社はしばらくして衰退し、妙見様として復興、のちに内々神社として再興し、庭は寺だったことによるのかもしれない。

由緒は、東国の平定を終えたヤマトタケルが内津峠にさしかかったとき、早馬で副将軍のタケイナダネが駿河湾で水死したという知らせがあった。

知らせをうけたヤマトタケルは絶句し「ああ、現哉現哉」「ああ、うつつなりうつつなり」

とつぶやき、鎮魂のためタケイナダネの社をたてたことがはじまりという。

タケイナダネはヤマトタケルの妻であるミヤヅヒメの兄で、東征に付き従った。

東征の帰路、ヤマトタケルは山道を、タケイナダネは海沿いの道で別々に帰ってきた。

しかし駿河の海で尊に献上するミサゴ(野鳥)を捕らえようとした際、風波が強くなって船が沈没、自らも水死したという説とヤマトタケルをねらう密偵に殺害されたという説がある。

衣服が流れ着いたのが知多半島の先にある羽豆神社、遺体は吉良に流れ着き幡豆神社に祀られたとされる。

後ろの山は茶褐色のチャートで、渇鉄鉱が含まれている。近くにマンガンも出るという。

ここは下街道(善光寺街道)という古くからの街道がある。現在の19号線である。

また、新撰組結成に関わった清河八郎が母と伊勢参りに通ったといわれる。

尾張戸神社(おわりべじんじゃ)名古屋市守山区大字志段味(しだみ)字東谷字2099

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尾張部神社 本殿
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頂上からの眺望


東谷山(とうごくさん)の頂上にある尾張平野の眺望随一の神域である。尾張氏の祖を祀り、尾張氏本願の地であり、熱田神宮の奥ノ院と言い伝えがある。

祭神は、天火明命(あめのほあかりのみこと)―尾張氏の祖

天香語山命(あまのかごやまのみこと)―尾張開拓の祖

建稲種命(たけいなだねのみこと)―ヤマトタケルの副将軍

創建は、簀媛命(みやずひめのみこと)―草薙剣を祀るため熱田神宮を創建したヤマトタケルの妻

東谷山は古代のピラミッドといわれる超古代史では有名な山である。

頂上に磐座、ストーンテーブルがあり、古墳がある。古代祭祀の残る山である。

社殿も古墳の上に鎮座し麓には古墳群がある。

壬申の乱で活躍した尾張の物部氏(朴井 雄君・えのい の おきみ・物部氏で守屋の子ともいわれる)たちの古墳といわれる。


各務原の鉄


各務原の製鉄遺跡・村国男依を祀る神社の地図


村国男依のいた各務原には飛鳥時代の製鉄遺跡がある。

伊木山の八熊遺跡と野口廃寺跡である。

桃太郎神社(愛知県犬山市栗栖字古屋敷)

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桃太郎伝説を伝える面白い神社である。

桃太郎が退治した鬼とは、古代のたたらが行われた場所、

あるいは鉄の原料がとれた場所にいた古代製鉄民を、奪取し、支配したことではないかと考えている。

岡山の桃太郎神社は鬼である温羅を鉄釜で、地面に封じ込めている。



境内には関ヶ原のウォ―ランドにもあるコンクリートの伝説に因んだ人形が数多く配置されている。

コンクリート群像作家として知られる浅野祥雲による作品である。

宝物殿が焼失し、古物は写真のみになってしまった。

名古屋在住のころ私はみたが、河童の手や鬼のミイラがあった。

愛知B級スポットといわれている。

神社の山はチャート層で、チャートは酸化鉄、褐鉄鉱などが重なった岩石である。

古代のストーンサークルもあるという。

このあたりを流れる木曽川はチャートの露頭が見える場所である。

犬山周辺には、桃太郎伝説に由来する地名が多くある。

犬山(現・犬山市):家来の犬がいた地

猿洞(現・犬山市):家来の猿がいた地

雉ケ棚(現・犬山市):家来の雉がいた地

今渡(現・可児市):鬼が桃太郎の乗った船を見つけた地

取組(現・坂祝町):桃太郎と鬼が取っ組み合いをした地

勝山(現・坂祝町):桃太郎が勝どきをあげた地。猿が噛みついた伝説から猿琢(さるばみ)城と名付けられた戦国時代の城が頂上にあった。

宝積寺(現・各務原市):鬼から奪った宝を積み上げた地


参考
「新説壬申の乱大海人皇子」週刊戦乱の日本史・「壬申の乱」:遠山美都男著・「各務原市史」・
「大垣市史」・春日井シンポジウム「壬申の乱」、「渡来人」:森浩二、門脇禎二著・
「白虎と青竜」、「本当は怖ろしい万葉集」:小林惠子・「壬申の乱の謎」、「消された王権」、「おとぎ話に隠された日本のはじまり」:関裕二 「青銅の神の足跡」:谷川健一 
HP:ウィキぺディア・桃太郎神社・桃太郎伝説
by gannyan1953 | 2012-11-12 09:37 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

尾張戸神社・内津神社

歴史と素適なおつきあい番外編 愛知県             2012年3月2日

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東谷山(とうごくさん)

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超古代史の本に黒又山、モヤ山、位山などと並んでピラミッドであると読んだ記憶がある。

本がなんであったかわからなかったが、車で向かうときに、とても目立った山だった。

頂上の神社の裏に岩(磐座・いわくら)がたくさんあり、奈良の三輪山のようだ。

井戸は伊勢湾の潮位と関係するとか、ミステリアスなことも書いてあったと思う。

古墳の石室といわれるストーンテーブル、神社そのものが古墳の上に建っているなど、今風のパワースポットである。

古墳は平成20年(2008)に名古屋市が調査し、4世紀後半築造の円墳と断定された。

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夜景が美しいそうだ。







尾張戸神社(おわりべじんじゃ)名古屋市守山区大字志段味(しだみ)字東谷字2099  

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                尾張戸神社社殿

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                中社古墳(参道にある)
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                頂上からの景色

東谷山(とうごくさん)の頂上にある尾張平野の眺望随一の神域である。

祭神:天火明命(あめのほあかりのみこと)
   天香語山命(あまのかごやまのみこと)
   建稲種命(たけいなだねのみこと)
勧請:簀媛命(みやすひめのみこと)

大永元年(1521)に焼失したが、守護の斯波氏により、再興された。

徳川の世には藩主徳川家により、名古屋城の鬼門にあたるということで、

篤く信仰された。

天火明命

祭神は尾張氏の祖である。 

天火明命について史書によって多説ある。

古事記:天火明命 天忍穂耳命(あめのおしほみみ)と高木神(別名―高御産巣日神やかみむすひのかみ))の娘萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)の子であるという。

日本書紀:火明命(ほあかりのみこと)、天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)

先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ):天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやのみこと)素戔嗚命の五男。物部氏の祖先と同一という。

神社志料:天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

       天火明命=天照御魂神ということになると、皇祖神ということになる。

天香語山命(あまのかごやまのみこと)又の名を高倉下命(たかくらじのみこと)

天火明命の長子である。
大和国高尾張の対岸高座山に降臨し、東谷山(とうごくさん)を往来し、尾張開拓のため東谷山に落ち着いた。

麓の渓流庄内川を渡るときには常に一匹の白鹿が現れ、命を乗せたという伝承がある、そのため、鹿乗橋、鹿乗ヶ渕という地名が残る。

尾張の地名の由来は新しく墾り(はり)開かれた土地の意からつけられたという。

建稲種命(たけいなだねのみこと)

尾張国造乎止与(おとよ)命の子である。天火明命から12世にあたる。

建稲種命は日本武尊の東征に従った功績から、稲種は産業振興の意味がある。

熱田神宮にも祀られている。

内津神社を参照。

簀媛命(みやすひめのみこと)

尾張国造乎止与(おとよ)命の娘で日本武尊(やまとたける)東征の折、妻になった。

建稲種命の妹である。日本武尊は簀媛の月の障りをおして交わったという。

日本武尊が能褒野(のぼの)で亡くなると、日本武尊より預けられた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙の剣(三種の神器のひとつ)を奉斎鎮守するため熱田神宮を建立した。

この地は尾張氏本貫の地であり、東谷山西腹には多数の古墳が存在し、神社も古墳の上に作られている。

尾張戸神社は、成務天皇5年(135)簀媛命による勧請と伝わる。

大永元年(1521)に焼失するが、守護の斯波氏により、再興。名古屋城の鬼門にあたり、尾張藩徳川家の信仰も篤かった。

尾張氏

古代の地方豪族で天火明命を祖神とし、本貫地は諸説があり、葛城説、吉備播磨説などある。

もとは海人族で海からこの地にきたと思われる。



美濃、飛騨などに居住したのち乎止与命(おとよ)のとき、尾張国造となる。

なぜだか、尾張氏は皇族が新しくなるときに后をだしている。

尾張氏と皇族の婚姻

①日本武尊と簀媛命
②孝昭天皇(前475-前393)と世襲足媛(よそたらしひめ)
③崇神天皇(前97-前30)と尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)
④応神天皇(270-310)と高城入姫命(たかぎいりひめ)・弟姫命(おとひめ)・仲姫命(なかつひめ)
⑤継体天皇{507-531}と目子媛(めのこひめ)

皆、尾張氏の姫君たちである。そして崇神天皇・応神天皇・継体天皇ともに系譜が変わった天皇である。

表舞台に出る氏族ではなかったが、皇室の外戚という重要な存在であったようだ。

熱田神宮の宮司、同族の津守氏は住吉神社(大阪)、元伊勢籠神社の宮司は海部氏である。

熱田神宮の宮司職は後に、親戚の藤原季範(すえのり)に譲られた。

季範の三女由良御前は源義朝の妻となり、熱田神宮のそばで、頼朝を生んだ。頼朝は名古屋生まれなのである。

そう考えると最初に武家社会を築いた頼朝、後の信長、秀吉、家康、みんな名古屋、愛知県の生まれである。

壬申の乱のとき大海皇子の強力な味方についたのも尾張氏である。

大海という名も尾張氏族の海部をとっている。

このとき、武器を調達した伊福部氏は美濃で鍛冶をしていた。

各務原の豪族村国男依も協力者だが、各務原にも製鉄遺跡がある。

尾張氏の祖である天火明命を祖神とする氏族(新説日本古代史より)

  朝来直(あさこのあたい)
  五百木部君(いおきべのきみ)
  大炊刑部造(おおいのさかいべのみやっこ)
  川内漢人(かわちのあやひと)
  椋連(くらのむらじ)
  児部連(こべのむらじ)
  坂合部連(さかいべのむらじ)
  蝮王部首(たじひのみぶにおびと)
  丹比連(たじひびむらじ)
  襷多治比連(たすきのたじひのむらじ)
  津守連(つもりのむらじ)
  檜前舎人造(ひのくまのとねりのみやっこ)
  六人部連(むとりべのむらじ)
  海部直(あまべのあたい)


内津神社(うつつじんじゃ)内々神社 春日井市内津町上町24

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祭神 : 日本武尊命(やまとたけるのみこと)
     建稲種命(たていなだねのみこと)
     簀媛命)(みやずひめのみこと)

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南北朝時代の禅僧夢窓国師の作庭と言われている庭が奥にある。隣に妙見がある。

神社はしばらくして衰退し、妙見様として復興、のちに内津神社として再興し、庭は寺だったことによるのかもしれない。
 

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由緒は、東国の平定を終えた日本武尊が内津峠にさしかかったとき、早馬で副将軍の建稲種命(たけいなだねのみこと)が駿河湾で水死したという知らせがあった。

知らせをうけた日本武尊は絶句し

「ああ、現哉現哉」「ああ、うつつなりうつつなり」


とつぶやき、鎮魂のため建稲種命の社をたてたことがはじまりという。

建稲種命は日本武尊の妻である簀媛命の兄で、東征に付き従った。

東征の帰路、日本武尊は山道を、建稲種命は海沿いの道で別々に帰ってきた。

しかし駿河の海で尊に献上するミサゴ(野鳥)を捕らえようとした際、風波が強くなって船が沈没、自らも水死したという説と日本武尊をねらう密偵に殺害されたという説がある。

衣服が流れ着いたのが知多半島の先にある羽豆神社、遺体は吉良に流れ着き幡豆神社に祀られたとされる。
by gannyan1953 | 2012-04-22 17:29 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(5)



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