歴史と素適なおつきあい

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多摩の新選組

多摩の新選組を訪ねて    2004・4・9
                                        

JR日野駅9:50―(宝泉寺)(大昌寺)(八坂神社)-(井上源三郎資料館)(とうがらし地蔵)―

日野宿本陣―ふるさと博物館―土方歳三資料館―(石田寺・とうかんの森)-高幡不動



宝泉寺    
 新選組副長助勤井上源三郎の墓

大昌寺      
新選組後援者佐藤彦五郎と妻ノブ(土方の姉)の菩提寺。
                  
彦五郎は初代南多摩郡長。

八坂神社    

天然理心流剣士たちが剣の上達を願って奉納した額がある。

井上源三郎資料館     

井上源三郎の生家。兄松五郎は八王子千人同心。

とうがらし地蔵  

沖田総司が多摩時代よく参ったといわれる。

日野宿本陣   

日野宿名主佐藤彦五郎邸。長屋門あたりに天然理心流道場があった。
土方が昼寝した部屋、土方の遺品を届けた市村鉄之助が 匿われた部屋がある。
甲州街道で残る数少ない本陣。

土方資料館   

土方歳三生家。
                  
手植えの矢竹、刀の和泉守兼定など遺品や薬の行商をした道具類などを展示 
  
石田寺      

土方歳三の墓がある。
           
とうかんの森   

土方が生まれた元生家があった場所。洪水で、移転。

高幡不動     
殉節両雄の碑、土方の位牌、土方の像がある。
 
碑は明冶21(1888)年新選組 の親戚知己門人らの長い努力により建設。

篆額は会津藩主松平容保、撰文は仙台藩濡者大槻磐渓、
                   
書は元幕府御典医松本良順。



近藤 勇(1834~1868)  上石原村宮川久次郎の3男。4代目天然理心流宗家を継いだ。芹沢鴨暗殺後新選組を掌握し局長となる。池田屋で名を馳せてから政治にかかわり永井尚志に随行、朝彦親王の提言で京洛政治の支柱をなした。墨染で襲撃されけがのため鳥羽伏見の戦いには参戦していない。江戸に帰ってから甲陽鎮撫隊での敗走後五兵衛新田をへて流山に駐屯中官軍に投降。板橋にて斬首。板橋、大阪千日前、京都粟田口にて梟首。

土方歳三(1835~1869)  石田村土方義諄の四男。父は生まれる前に、母は6歳の時に亡くなっているので、兄の喜六夫妻に育てられた。近藤勇の天然理心流入門後、門人と共に新選組を発足、法の番人的役割を厳しく実行。組織の悪役を一手にひきうけ隊内の粛清を行い、妥協を許さなかった。鳥羽伏見で京の新選組崩壊後、新選組を立て直しながら北へ転戦。函館で、弁天台場の新選組同志を救援にむかう途次、攻防戦で壮烈な戦死を遂げた。

沖田総司(1844か1846~1868)  白川藩士沖田勝次郎の子。義兄林太郎は1859年11月まで白河藩に在籍。総司16歳である。9~11歳ころ天然理心流道場の内弟子となりのちに塾頭となる。一番の使い手といわれ活躍するが結核を患い、江戸敗走後新選組から離れ良順のいた今戸から千駄ヶ谷にて病没。

井上源三郎―(1829~1868)八王子千人同心井上藤左衛門3男。次兄松五郎と共に天然理心流3世近藤周助の門人。穏やかな人柄といわれる。鳥羽伏見の戦いで淀千両松の激戦で最後まで踏みとどまり討死。甥の井上泰助が首をもって退却したが重くて果たせなかった。


時代背景
幕末期、徳川幕府はロシア使節ラックスマンをはじめ、あいつぐ異国船来航に手をこまねいている状態であった。その無能ぶりが露呈してしまったのが黒船騒ぎで有名なペリー来航であった。国内は開国か攘夷かと揺れていた。結局幕府は日米和親条約を締結。時の天皇孝明天皇は攘夷論であった。幕府の開国策に反対する攘夷論は尊皇論と結びつきやがて長州、薩摩、土佐などの雄藩を中心とした倒幕運動へと発展していく。日米修好通商条約を締結した大老井伊直弼は反対する尊攘派や幕府改革派を弾圧した。安政の大獄である。井伊直弼の専制政治に対する不満は桜田門外の変を引き起こす。白昼に起こった大老殺害はますます幕府の衰退への転機となる。王城の地京都では尊皇攘夷を唱える志士たちの天誅という言葉のもとに幕府要人や幕府寄りの公暁らの暗殺が横行していた。

*攘夷論 ―開国に反対して外人排斥を主張した意見。 * 日米和親条約―1854 再度来航したペリーが武力を背景に幕
府にせまり締結された。下田、函館の開港、漂流民保護、欠乏品の給与、米領事の駐在など。 * 尊王論―皇室崇拝の思想。 * 尊皇攘夷論―欧米列強との接触により危機意識が高まり1863を頂点とし倒幕派の下級武士を中心に運動は激化。薩英戦争、下関砲撃での経験で攘夷不可能が明白になっても幕府批判の政策として高唱され、維新の実現となった。 * 日米修好通商条約―1858 勅許を待たずに締結された最初の不平等通商条約。国内経済不安定を招き尊皇攘夷論は激化。

新選組結成
文久2(1862)年 将軍警護のため江戸浪士組募集が行われた。14代将軍家茂は攘夷を強く迫る孝明天皇に拝謁し、緩和するために上洛することとなった。そこで治安の悪い京都で将軍の身辺を守ることとなった。文久3(1863)年上洛した浪士組の一部は、提唱者であった清河八郎の裏切りともいえる反幕府の爆弾宣言に反発、壬生浪士組として一部京都に残留する。清河ら東帰した浪士は清河が暗殺されたあと、庄内藩預かりの新徴組になる。
残留した壬生浪士組は京都守護職を拝命していた会津藩を後ろ盾に市中見回りの役にあたることになる。これが新選組の前身である。のち武家伝奏より「新選組」の名を拝名する。「撰」の字で「新撰組」ともいうが、書簡では両方とも使われている。

新選組の活動
新選組として活躍したのは6年間のことである。京都での全盛時代から鳥羽伏見の戦いで敗戦し、関東での戦い、近藤勇を失ってからの東北蝦夷へと新選組は北へ転戦していった。

京都 ―文久3(1863)年2月~明冶1(1868)年1月―

京都守護職お預かりの組織として、京都の治安を守るため壬生に屯所を置いて京都守護職預壬生浪士組として活動。八・一八の政変ののち、武家伝奏方から活躍をたたえられ「新選組」という名を賜った。
最初中心となっていたのは芹沢鴨、近藤勇であったが芹沢の行状が粗暴なため粛清される。ここに多摩出身天然理心流一派が新選組の実権を握ることになった。
池田屋騒動で一躍有名になる。寄せ集めの集団であるため隊の規律を厳しくし、強い集団に仕立て上げるため局中法度という隊規を作りこれにより隊内の粛清も多く行われた。活躍するにつれ、会津藩から離れ幕府直参に取り立てられる。ここまでが新選組全盛時代となる。鳥羽伏見の戦いでは幕府軍、会津軍とともに戦うが敗走。軍艦で、江戸に退却する。


* 武家伝奏―室町幕府から設けた諸家の奏請を朝廷にとりつぐ公武間の重職。
* 天然理心流―近藤内蔵之助が祖で、近藤勇は4代目宗家。神道流の流れと伝わる。3代目周助が市谷に道場試衛館を開き、勇は土方の義兄日野宿名主佐藤彦五郎宅と小野路村名主小島鹿之助宅の道場に出稽古した。通常の3倍の木刀で稽古をしたという。天然理心流と新選組剣法とは違っており、新選組は実戦に強く集団剣法である。
*鳥羽伏見の戦いー1868 薩長の武力倒幕派が徳川慶喜に辞官納地を要求し、江戸の治安を乱し挑発した結果、旧幕府軍、会津、桑名は激怒し鳥羽と伏見の街道から京都に進発、敗退した。倒幕派の計画どおり旧幕府側を朝敵とした。

関東 ―明冶1(1868)年1月~4月―

品川に戻った新選組は恭順を唱える将軍徳川慶喜の警衛にあたる。勝海舟に甲府城奪取を言い渡され甲陽鎮撫隊を編成し甲府に向かうが敗退する。流山で屯集したが、官軍にみつかり近藤勇は投降する。のち、4月板橋で斬首になる。

*恭順を唱える幕府(勝海舟)は抗戦派を江戸から遠ざけたかった。大鳥圭介率いる伝習隊は関東平野を北に、撤兵隊(さっぺいたい)は房総、遊撃隊は箱根、彰義隊は上野で抗戦した。東北では会津、庄内の恭順は受け入れられず奥羽皆敵とされ戊辰戦争に突入していく。
*甲府敗退後永倉新八は靖兵隊を組織し新選組から離れるが、生き残り貴重な資料を残す。

東北・蝦夷 ―明冶1(1868)年4月~明冶2(1869)年5月―

会津如来堂では会津に殉じると願う新選組の一部斎藤一らが戦っている。斎藤はのち生き残り警視庁に奉職。土方歳三はこの後宇都宮、会津で、戦い、仙台、蝦夷と新選組の再編成を繰り返しながら北上、函館で降伏直前に戦死。函館の五稜郭を本拠とした蝦夷共和国では陸軍奉行並という役であったので新選組の隊長ではなかった。脱走軍として新政府軍に降伏後、捕縛された隊士で竜馬暗殺の容疑で刑死、獄死した隊士もいた。

*蝦夷共和国―幕臣榎本武楊が総裁となり作り上げた共和国。幕臣救済目的で蝦夷開拓を朝廷に訴えた。

多摩出身ということ
・武州多摩はほとんどが幕府直轄領
天領「徳川家危急の折には馳せ参ず」比較的税も少なく豊かで質実剛健、おおらかな気風があった。
・剣道好き
多摩は江戸への敵侵入の道筋にあたるため防禦地にあたる。治安を守るためにも武道が
さかんであった。幕末には30~40の道場があったといわれる。
・八王子千人同心の報恩 
八王子千人同心とは日光東照宮の防火見回り、蝦夷地の警備開拓を勤める。武田家滅亡後その遺臣団が中核をなし、平時は農民として暮らした。10人の千人頭に100人の同心を置いた。新選組には千人同心出身者もおり、左幕どおしの交流があった。                  

(余話)蝦夷地開拓のため千人同心80人は1858年七重村に入植した。函館奉行の命で桑を栽培、成功し郡内織を織り出した。ようやく軌道に乗り出したころ、維新がおき千人同心は新政府任命の函館知事の支配下にはいった。榎本軍と戦うため出兵命令がおりたがあくまでも徳川忠誠を叫ぶ数人は榎本軍に合流、同胞合い撃つ非情な戦いになった。(多摩の100年朝日新聞)

・多摩の豪農
近藤や土方は豪農出身で、農民でも豊かな環境に育っている。多摩には豪農が農民を支配し、代官所とも深く結びついていた。1835年伊豆韮山代官江川太郎佐衛門英竜は農民に小銃をもたせたいという意見書を幕府に提出。農民の非武装化は鉄則であったため、却下されたがその28年後1863年江川太郎佐衛門英武が多摩の直轄領で試験的に行うことが許された。幕府は農民層の手を借りなければならないほど追い詰められていた。もともとこのような進言をしていた背景には、多摩の富裕層豪農をとおしての農民支配に自信があったからである。代官所からゲベール銃を渡され農閑期には近代兵器の訓練がなされた。農兵隊結成である。いまでも名主格の家には武具が保管されているところもある。新選組のパトロンとして存在する佐藤彦五郎、小島鹿之助も多摩の豪農であった。農兵隊を指揮するまとめ役でもあった。

(余話)維新の2年前の慶応2年多摩で、武州一揆が起こった。一揆勢は入間郡名栗村から日野まで迫り、日野農兵隊がこの一揆勢を壊滅させた。農民が農民をゲベール銃で撃つ悲惨な事件であった。これは開国をしたためにおきた物価上昇や天災による飢饉で苦しんだ貧農が、外国の脅威から守るために編成された農兵隊にうちとられるという皮肉な結果となった。(多摩の100年 朝日新聞)

会津との関係
新選組は京都の治安を守るための警察隊であった。江戸、京都に浪士があふれ攘夷だ、尊皇だと殺戮が繰り返される世情に浪士を浪士でもって制する幕府の思惑もあった。京都守護職である会津藩のお預かりになったことは当然と考えられるが、東山黒谷に屯集させた会津藩士は1000名にのぼる。それだけの藩士が在京しているのに、なぜたった24人の新選組を預かるのかという疑問がある。
それは初代会津藩主保科正之までさかのぼる。2代将軍秀忠の庶子として生まれたが正室お江与の方に遠慮して江戸城外で育てられた。その養育係が信玄の六女であり、その後信州高遠藩主保科正光に養育された。この保科家は祖父の時代信玄家臣であったころ武田武士の精華ともいうべき一族であった。会津には「高遠以来」という言葉が残るほど会津の名家は武田遺臣団であった。田中玄清、西郷頼母、山川浩、佐川官兵衛の会津4家老はいずれも「高遠以来」の者たちであった。武田の血を受け継ぐ者どおしという関係であったからではないか。(歴史群像シリーズ新選組 中村彰彦)

自由民権運動
なぜ新選組が甲陽鎮撫隊を編成し甲府を守ったか。甲州武田家の血の記憶が甲州に向かわせたのではないか。進軍途中あきれ返るほど、内藤新宿や日野で酒宴を催し戦機を逸したことも故郷回帰の凱旋ムードに浸ったからだろう。
明冶にはいり自由民権運動が盛んになり、その一大拠点が多摩であった。徳川への忠誠心が強かったためか、明冶政府の左翼急進思想となった。小島鹿之助も新選組のスポンサーから、自由民権運動の擁護者となる。ただつけ加えると豪農が擁護する民権はのちに下層農民からのつきあげで行き詰まっていくことになる。(歴史群像シリーズ新選組 中村彰彦)
歴史と素適なおつきあい 東京都「

参考文献    歴史群像シリーズ(新撰組・幕末剣心伝・土方歳三・徳川慶喜)学研
          日本史辞典・「新選組のすべて」新人物往来社・「幕末を駆け抜けた男たち」今川徳三・「多摩の百年」朝日新聞
by gannyan1953 | 2011-06-11 14:58 | 新撰組 | Comments(0)

静岡市を訪ねて

静岡市を訪ねて
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            駿府公園

[久能山東照宮・登呂遺跡・慶喜の足跡・清水次郎長]



集合:2011年 6月9日(木) 10時・静岡駅 新幹線改札口
宿泊:ホテルガーデンスクエア静岡


1日目
日本平(昼食)~久能山東照宮~~登呂遺跡~静岡駅~ホテル
2日目
ホテル~慶喜の足跡~清水次郎長の足跡~静岡駅


旅のしおり
9日(木) 1日目 静岡駅10時集合

静岡南口11番乗り場 しずてつバス:10:22「日本平」行き 約35分「ホテル下」下車 560円
日本平見学~昼食「川崎屋」名物:日本平石鹸 (各自払い)

日本平ロープウェイ:10分間隔 550円
久能山東照宮 社殿参拝と博物館見学 800円

徒歩(約20分)でバス停「久能山下」しずてつバス:14:31「静岡」行き 約20分乗車 350円 登呂遺跡入口下車 徒歩5分(大谷乗換便13:22・15:22)

登呂遺跡見学:15:00到着予定 博物館16:30閉館 200円 屋外登呂遺跡見学17時閉園
しずてつバス:「静岡駅南口」行き 約8分 180円 15分間隔
夕食(各自払い)
ホテル「ガーデンスクエア静岡」(浮月楼庭園側の部屋)
朝食付き8500円・静岡市葵区紺屋町11-1・℡054-252-6500

10日(金)2日目 ホテルロビー8:30集合
浮月楼見学―宝台院 拝観料200円―駿河公園―西草深邸

静岡鉄道静岡清水線 「新静岡」~「入江岡」290円 18分所要 
「入江岡」下車 徒歩 20分 
梅蔭禅寺次郎長遺物館 宝物館300円(次郎長の墓参りは無料)―清水次郎長生家― 清水次郎長の船宿 


静岡駅に戻り帰宅。


日本平 (清水区馬走)
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赤い靴の女の子の母子像

駿河湾を望む307mの丘陵地。日本平の地名の由来は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、東夷征伐のために東国に向かう途中、 敵の包囲軍に火を放たれて危機に陥った時、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)から預かった宝剣で周囲の草を薙ぎ払って攻勢に転じたということから、 日本武尊の名に因んで「日本平」と名付けられたと言われる。このとき用いられた宝剣が有名な「草薙の剣」である。山頂から北側山麓には「草薙」の地名があり、麓にある草薙神社には日本武尊が祀られている。
有度山(うどやま)という山としての呼称もあり、これは周辺の地名に「有度」「有東坂(うとうざか)」などで用いられているものの、現在では日本平に比べ使われる機会が少ないが古来この地には駿河国有度郡(うどのこおり)と称する郡が置かれており由緒のある地名である。

赤い靴の女の子は清水生まれで、未婚の母から生まれた。きみちゃんといい、両親はが不倫関係であったため清水に住みづらく、母子で北海道に渡った。母は再婚してルスツ村の開拓に行く時にアメリカ人宣教師にきみを預けた。
宣教師がアメリカにきみも連れて渡ろうとしたが、きみは結核に冒され渡米できず、教会の孤児院で9歳の若さで亡くなってしまう。
きみの母は亡くなるまできみはアメリカに渡ったと思い込んでいたそうである。






久能山の歴史

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久能山は、推古天皇の頃(600年頃)久能忠仁が初めて山を開き、久能寺を建立した。永録十一年(1568)駿府に進出した武田信玄が、久能寺を今の清水市に移し、この山頂に砦を造って久能城としたが、武田氏の滅亡とともに徳川家のものとなった。






久能山東照宮 (駿河区根古屋390)


祭神である徳川家康は天文11年(1542)12月26日、三河国の岡崎城で生まれた。幼いころは人質になり苦労を重ねた家康だが、遂には天下を統一し征夷大将軍となった。戦国時代の混乱は家康の治世によって収まり、産業、学問、文化が花開いた「太平の世」が始まった。
晩年を駿河国駿府城で過ごした家康は、元和2年(1616)4月17日に75歳で亡くなった。亡くなる直前、家臣たちに「遺骸は久能山に埋葬すること、葬儀は増上寺、位牌は三河の大樹寺、一周忌」を遺命として託した。
遺命の通りに遺骸はただちに久能山に遷され、二代将軍徳川秀忠は久能山に徳川家康を祀る神社を造営することを命じた。大工棟梁には中井正清が選ばれ同年5月に着工、1年7ヶ月の期間で建てられたのが久能山東照宮である。5月3日、家康の神号を大明神にするか大権現にするかの論議が行われた。秀吉公が大明神で豊臣家が滅びたため大明神は不吉として大権現となった。
社殿は当時最高の建築技術・芸術が結集された「権現造」の様式で、日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は久能山東照宮が原型とされた。また、棟梁を担当した中井正清はその生涯で名古屋城(国指定特別史跡)・仁和寺(重要文化財)・二条城(国宝、世界文化遺産)など現在にも残る重要な建造物を手がけたが、久能山東照宮は中井正清の晩年の傑作であるという評価から、平成22年に国宝に指定されることが決まった。(久能山東照宮HP・WIKI)




登呂遺跡  (駿河区登呂5-10-5)



弥生時代の集落・水田遺跡。昭和27年に国の特別史跡に指定された。弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落と推定される。戦時中の1943年、軍事工場の建設の際、発見された。戦後間もない1947年には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行われ、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居(正確には竪穴系平地式住居)・高床式倉庫の遺構が検出された。この他にも、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土した。 また、1999年から5カ年計画で再発掘調査が行われ、新たに銅釧や漆が塗られた槽づくりの琴、祭殿跡などが出土している。安倍川の分流の洪水時に押し流された土砂が堆積し、自然に形成された堤防の上に造られている。ムラは、北東から南西の方向に広がる微高地を利用して住居12棟、高床倉庫2棟が建っており、水田は、その南につくられている。(Wiki)


宝台院(葵区常盤町2-13-2)



戊辰戦争のさなか、徳川慶喜はいちはやく朝廷へ恭順の態度を決め、江戸、さらに水戸で謹慎生活に入っていたが、慶応4(1868)年7月19日に水戸を離れ、海路で7月23日に清水湊に到着、同日夕刻に駿府宝台院に入った。翌明治2(1869)年10月5日までの約1年間、宝台院の一室で謹慎生活を送った。宝台院は、もとは龍泉寺と称していた。徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母・西郷局が当寺に葬られたが、寛永5(1628)年に後水尾天皇が故西郷局に従一位および宝台院と追号し、以後、寺は宝台院と称するようになった。
宝台院を謹慎場として選んだのは駿府町奉行経験もある大久保一翁である。戦災で寺は焼失し、謹慎の間も残っていない。当時10畳と6畳の二部屋を使用、遺品としてキセル、カミソリ、急須、火鉢などが残されている。西郷の局の墓も静岡大火で焼失した。

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家康の侍女ジュリアおたあが信拝していたもので、駿河城内にあった。おたあは小西行長が朝鮮遠征のときに人質として連れてきた朝鮮貴族の娘で行長の元で切支丹になり後に家康の侍女となった。切支丹禁止令でおたあは伊豆大島に流され、家康の側室になるなら許すといわれるが、拒否した。そのため新島に移動させられ、最期をむかえたのは神津島だった。(慶喜を歩くHP)
しかし実際には「日本発信」1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父の書簡に、おたあが神津島を出て、大坂に移住して神父の援助を受けている旨の文書があり、その後、さらに大坂から長崎に移っており、ジュリアおたあが神津島で死亡したことは否定されている。1972年韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長と村議会議員らが、おたあの墓の土を埋葬し、石碑を建てた。その後、おたあは神津島で死んでいないという文書が発見された後、石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切石山の殉教博物館内で保管することになった。(Wiki)


紺屋町元代官屋敷(こうやちょう) 現在の浮月楼(葵区紺屋町11-1)


謹慎をとかれた徳川慶喜は、1869(明治2)年10月5日に宝台院から駿府紺屋町の元代官屋敷に移り、ここで生活を始めた。女中部屋を含めて12~13室の住居だったという。屋敷南側には慶喜が庭師小
川治兵衛に命じて造らせた回遊式の池が広がるが、これが現在の浮月楼の庭園である。
慶喜は近くに東海道鉄道が開通するのに先だって、1888明治21年3月6日西深草に転居した。慶喜転居後、紺屋町屋敷は1889年にいったん静岡市が7,000円で払い下げを受けたが、翌年、市内の資産家の野崎彦左衛門、尾崎伊兵衛、森作太郎3人が購入し、のちに料亭として開業した。なお、慶喜の住んだ屋敷は1892年の火災で焼失した。この紺屋町屋敷での生活以後、静岡時代の
慶喜は写真、油絵、狩猟、自転車など多彩な趣味の世界に生きた。(浮月楼HP)
西草深の慶喜邸 (葵区西草深町27)
明治19(1888)年3月、東海道線開通に先立ち転居した。紺屋町の邸が線路に近かったことが転居の理由である。東京に移ってからも巣鴨から同じ理由で小日向第六天町に転居している。
慶喜が東京に去ったあと葵ホテルとなり、日露戦争に際しロシア兵捕虜収容所として使用、後明治38(1905)年失火により焼失した。1万坪あったといわれ、エピソードに屋敷に盗賊がはいり将軍家に伝わる宝刀が盗まれたという報道がある。明治30(1897)年に静岡を離れ東京に転居した。(徳川慶喜 静岡の30年前―林孝一良著))


駿府公園  (葵区駿府公園1)


室町時代、今川範国が駿河国の守護に任ぜられ、以後今川氏の領土のひとつになった。今川全盛期9代義元の時に、家康こと松平竹千代は人質として19歳まで12年間駿府で過ごした。臨済寺の住職太原雪斎などから教えを受け家康の人間形成の上で重要な時期を駿府で過ごしたことになる。戦国争乱の中、永禄11年(1568)10代氏真は甲斐の武田信玄に攻められて掛川に落ち、駿府の町は焼き払われた。さらに、天正10年(1582)には徳川家康が駿府の武田勢を攻め、家康は駿河を領地とした。それから築城をはじめ天正17年に完成、現在の二の丸部分である。しかし秀吉により関東移封となり、家臣中村一氏が城主となった。秀吉が亡くなり、関ヶ原で勝利した家康は慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸開府した。慶長10年将軍職を秀忠に譲るも「大御所政治」の拠点とし、静岡の町の原型を作った。
徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府に移り住んだ。慶長12(1607)年,家康は、輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸の北西には5層7階の勇壮な天守を配置した城を全国の大名に命じて(天下普請)築城させた。家康在城時の駿府の町は、江戸と共にいわば2元政治が行なわれていたため、政治、経済の中心地として大いに繁栄していた。家康の死後、城主となった忠長が改易されると駿府城は城代の管理となる。寛永12(1635)年の火災により天守等の殆どの建物が焼失し、櫓、門等の建物は再建されたが天守は再建されなかった。以後江戸時代の駿府城は、建物の規模も次第に縮小していく。
 明治になると、歩兵34連隊の誘致に伴い本丸堀は埋められ、三ノ丸は官庁や学校などの公共用地となった。戦後、本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され,巽櫓、東御門が復元された。
(静岡市公園整備課HP)


徳川慶喜

江戸幕府最後の15代征夷大将軍である。在位は慶応2年12月5日~慶応3年12月9日であった。御三卿一橋家の第9代当主として将軍後見役・禁裏御守衛総督を務めた後徳川宗家を相続、将軍に就任。大政奉還・江戸城明け渡しを行い、謹慎後、従一位勲一等公爵、貴族院議員となった。


天保8(1837)に江戸小石川水戸藩邸に徳川斉昭の七男として生まれた。
将軍継嗣問題浮上で、慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の母本寿院など大奥の南紀派が対立するが、安政5(1858)年 井伊直弼が大老就任後徳川慶福に決定されると、慶喜本人は「天下を取ってから失敗するよりは取らない方がいい」と斉昭に手紙をだしている。
将軍後見職となり、京都守護職の設置、攘夷をせまる朝廷との交渉に手を尽くした。
禁裏御守衛総督となって京都に留まり会津や桑名藩主とともに勤皇志士たちの取り締まりを行う。
慶応2年7月長州征伐の中、将軍家茂が亡くなり、将軍就任の要請を拒み続けたが12月になって将軍職に就任した。フランスの援助で横須賀に製鉄所を設けるなど軍制改革を行ったり、パリ万博に弟昭武を派遣したり、幕臣の欧州留学を勧めた。
薩長同盟が成り、大政奉還となったその直後王政復古の号令で徳川家の納地、慶喜の辞官を命ぜられる。大坂城に退くが鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍の停戦も命じずに江戸に軍艦で退却、勝海舟に事態収拾を一任し寛永寺に謹慎する。江戸無血開城ののち、水戸に移され慶応4(1868)7月駿府に入った。明治2(1869)年謹慎を解かれた。引き続き駿府改め静岡に明治30(1897)年まで静岡に居住した。政治的野心はもたず写真、狩猟、投げ網、囲碁、謡曲など趣味に没頭する生活を送り「ケイキ様」と呼ばれ静岡の人々から親しまれた。
明治30(1897)年東京巣鴨に転居、翌年皇居となった江戸城に参内し、明治天皇に拝謁している。明治35(1902)年公爵に叙せられ徳川宗家とは別に慶喜家を興し貴族院議員となった。明治43(1910)年隠居し再び趣味に没頭する。大正2(1913)年感冒にて死去。享年77歳で徳川歴代将軍の中で最も長命であった。(Wiki)

渋沢栄一が駿府の慶喜に会った時三つの質問をした。
①朝廷に政権を返上したのになぜ鳥羽伏見の戦いが起きたのか
②覚悟の上戦端を開いたのであればなぜ密かに江戸に戻ったのか
③官軍が東征に入ると恭順謹慎に転じ、貫いたのはなぜか

「いまさらそのようなことについてグチを言ってもしょうがない。それより・・・」
と話題を転じたという。渋沢が慶喜を理解できるようになったのは明治20年過ぎてからでこの疑問をとくために私費を投じ完成させた「徳川慶喜公伝」である。
結局多くの対談を重ねたにもかかわらず真意を口にすることはなかったという。

晩年の慶喜の叙位叙勲

朝敵となり、無位無官の身の慶喜が明治5年に従四位を賜っているが、11歳の時に従三位なので公的な地位の浮き沈みがわかる。
明治20(1887)年徳川宗家の家達邸を明治天皇が訪問している。この行幸には皇族、伊藤博文以下閣僚、侍従長、徳川からは御三家、御三卿、松平慶永ら一族、勝海舟、山岡鉄太郎ら旧幕臣が迎えた。慶喜は見合わせ四男厚が列席した。これが天皇と徳川の仲直りである。翌年慶喜は従一位を賜る。明治33(1900)年には麝香間祗候(じゃこうのましこう)に任官し、これは維新功労者に贈られる資格である。天皇の相談役である。
弟の昭武は、明治天皇とはフランス帰国以来天皇から好かれていたので慶喜が任官してからは、二人で毎週木曜日に皇居に出かけていた。「やっと今までの罪滅ぼしができた」と慶喜を見送った天皇が、伊藤博文に語ったという。
維新後30年も慶喜を排除した形で、天皇を中心とした近代的国家が確立していた。慶喜は自分が大政奉還を講じたからこそ封建国家から近代国家に変わることができたと思っていたと思う。
皇后は慶喜に酌までしたという。慶喜の心はこのもてなしでいやされただろうか。
                        
徳川家の駿府入り
徳川宗家を相続することになったのはわずか6歳の田安亀之助だった。
駿府府中の城主で七〇万石、駿河、遠江、三河の一部が領地となった。東海道を4泊五日の道中でまず宝台院に立ち寄り慶喜と対面し、元城代屋敷にはいった。屋敷の門は、現在「田安門」と呼ばれ千代田の静岡市立高校にある。

幕臣の選ぶ道は
①徹底抗戦をする。会津、蝦夷で抗戦。
②帰農帰商する。
③家達について駿河、遠江入りする。
④朝臣、新政府の役人になる。          
であった

③を選んだ幕臣は金のあるものは陸路、無いものは徳川家がチャーターした船(アメリカの飛脚
船)で品川から清水港にはいった。座る場所もなく寿司詰めでなく目刺鰯を並べた状態だったという。約45メートルの船で乗客2600人だったという。 
(徳川慶喜 静岡の30年―前林孝一良著)


梅蔭禅寺(清水区南岡町)
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臨済宗妙心寺派の寺で足利時代の開山の寺である。清水次郎長、お蝶夫人、大政、小政、増川仙右ェ門の墓がある。墓の文字は榎本武揚の書である。
次郎長博物館には黒駒の勝蔵から贈られた水晶玉、お守りの毘沙門天道中差、時計、望遠鏡、火縄銃の遺品が展示されている。(茶 小松園HP)









清水次郎長生家(清水区美濃輪町4-16)
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「次郎長通り」の商店街にあり写真、道具、資料などを展示している。(るるぶcom)













清水次郎長船宿 末廣 (清水区港町1-2-14)
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明治19年(1886)、清水次郎長(山本長五郎)が清水波止場に営業を開始した船宿「末廣」で、明治時代の船宿の面影がしのばれる。平成11年(1999)「末廣」の部材を活用した住居が、清水市(現静岡市)鶴舞町に現存していることが判明した。そこで、次郎長が清水港の振興に尽力した晩年の姿を知る貴重な資源として復元建築するとともに、次郎長が手がけた富士山麓の開墾事業などを紹介している。(現在、清水港船宿記念館になっている)末廣は海軍士官候補生たちの定宿で、後に日露戦争で武勲をあげる広瀬武夫や小笠原長生、出羽重遠、向山慎吉らが泊まり、次郎長から武勇談を聞くのを楽しみとした。ほかにも初代県知事関口隆吉はじめ旧幕臣たち、富岡鉄斎、新村出ら知名の士がここを訪ねている。明治26年(1893)6月12日、次郎長は末廣の一室で74歳の生涯を閉じた。ここ末廣に、次郎長は明治19年(1886)より明治26年(1893)に亡くなるまで住んだ。 (末廣HP)

清水次郎長

文政3(1820)~明治26(1893)
侠客である。本名 山本長五郎。
船頭の家に生まれ叔父の米穀商山本次郎八の養子となった。幼いころ友達に「長」と呼ばれている子がいたので養父の名のように次郎長と呼ばれるようになった。養父の死後跡目を継ぐが
博打、挙句に殺人を犯し妻とも別れ出奔する。やがて清水湊に一家をかまえ江尻大熊の妹お蝶を妻に娶る。富士川舟運の権利をめぐり甲州と揉める。東征軍から街道警備を任せられる。
榎本武揚ひきいる幕府艦隊の咸臨丸が座礁、清水湊に退避修理をしたが新政府軍にみつかり乗組員が死亡した。幕府軍の死体は葬らないという新政府にたてつき、埋葬する。これに幕臣山岡鉄舟がいたく感動し、交遊をもつようになる。それから社会事業に貢献するようになる。
お茶の販路拡大のために蒸気船が出入りできるような清水湊の外港整備、囚人を使っての富士山開墾、英語教育など力を尽くした。
久能山の衛士に2番目の夫人を殺されるという事件も起きている。

つぎの話は末廣で伺った話だが2番目の妻は出自がはっきりせず吉原の出ではないかといわれている。
なぜ殺されねばならなかったのか、いまだに謎で次郎長がらみ、本人の過去のしがらみからかといわれる。
次郎長不在の出来事でその場にいた大政小政らが、追いかけて殺してしまったため真相もわからなくなったという。

その後3人目の妻を50代で迎え、風邪をこじらせ74歳で亡くなった。(Wiki)
by gannyan1953 | 2011-06-11 14:45 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

高麗氏系図からみた姓名 渡来系の地名

歴史と素適なおつきあい(座学)
                                       2002・7・12
姓名    〈高麗・新羅郡の設置〉 2002 6・14資料より


高麗氏系図からみた姓名  
 
6月に見学した高麗神社で家系図のレプリカを見せていただいた。高麗家の家宝である「高麗氏系図」は朝鮮の「族譜(ぞくぽ)」で千数百年つづいてきたものである。鎌倉中期1259年正元11月8日出火のため、その他高麗からの家宝とともに焼失。そこで高麗一門からでた各氏族が自家の系図を持ち寄って再編集されたものである。この系図から別派した苗字は高麗、高麗井、(駒井)、井上、新井、神田、丘登(岡登、岡上)、本所、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、金子、中山、武藤、芝木の各氏などに、わかれている。



吉志 
  
吉志は新羅の官職のことで、吹田には吉志部神社がある。須恵器を作っていた吉志が中央窯として朝廷に大切にされていた。外国使節団の接待役として活躍。難波についた、外国船を岸まで誘導する水先案内人だったという説もある。「吉志の船」とよばれ高度な操船技術をもっていた。もともと、阿倍氏の別派で、大和の有力豪族の阿倍氏は臣を姓とし、684年朝臣となる。 四道将軍として派遣された大彦を始祖とし、膳(かしわで)、宍人(ししびと)、阿閉(あへ)、吉志(きし)など多くの同族をもった。
四道将軍とは崇神天皇が任命し、全国に派遣した4人のことである。古事記中巻54によると次の4人が派遣されたとある。
大彦命(おおひこのみこと)-北陸 ・・・(父)親子の関係(子)・・・武淳川別命(たけぬなかわけのみこと)-東海
吉備津彦命(きびつひこのみこと)-山陽     丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)-丹波


壬生吉志 みぶきし

「新羅郡」ができる前に「武蔵国」にはいった。寺の瓦を作る土師部と深いかかわりがある。承和8年(842)男衾郡榎津郷の郡司を務めた福正は、二人の息子の終身にわたる税を前納したいと願い出て許可されている。そればかりか、数年前不審火で焼失した武蔵国分寺の七重塔を、私費で再建したいと願い出て、これも許可されている。埼玉の江南町の寺内廃寺から、武蔵国分寺に使われた瓦と同じ窯の瓦が、出土しており、壬生氏の氏寺と推定される。


多胡吉志 

 多胡碑は建郡記念として造られ「羊様とよばれ、神様として大切にされた。多胡碑には、和銅4年(711年)に甘良(から)の郡、織裳(おりも)、韓級(からしな)、矢田、大家(おおや)の4郷がさかれ、緑野郷から武美(むみ)郷、片正(かたおか)の郷から山等(やまら)郷の6郷で新郡とされた。ここには羊という名が書かれ、郡司は羊太夫という人で羊の日、羊の刻に生まれたといわれる。辛科の辛は韓で、科は谷あい、尾根と谷が入りくんだ所の意。胡は中国西方の民族の意。多胡は多くの渡来人という意味。辛科神社は701~704年に創建され、711年の建郡により多胡郡の総鎮守となった。


阿倍氏


1.本拠地は、桜井。      
2.阿倍寺を菩提寺とする。   
3.桜井から阿倍野に移った。   
4.土御門の文献に「海」に関するものが多い。
5.志摩の海女は桔梗紋をつけて海に潜る。   
6.紀州とかかわりがある。

阿倍は饗(あえ)で天皇の食事のせわをした。
阿倍御主人(みうし)   大化の改新時、左大臣になり、倉橋麻呂の子。文武天皇時、右大臣になり、「竹取物語」のモデルといわれる。
キトラ古墳の埋葬者か?といわれている。明日香村の阿倍山で発掘された古墳で星宿図がある。阿倍御主人か、天武の皇子忍壁かといわれる。

大彦(おおひこの)命(みこと)・武淳川(たけぬなかわけの)別命(みこと)  


親子で崇神天皇に仕え、大彦は北陸に、武淳川別命は東海に派遣されたが、東北南部で合流。地名「会津」となる。

阿倍比羅夫   (658)蝦夷征伐をする。船180艘を連ね日本海を北上。秋田、津軽、北海道と進んだ。


阿倍仲麻呂   遣唐使

阿倍貞任(さだとう)     (1019~1062)前九年の役を起こした人。源頼義に討たれた。ここから明治まで阿倍家の中で続いた家柄もある。

丈部不破麻呂 (はせつかべのふわまろ)

足立郡出身。皇族の警護のため都に上がるが、恵美押勝の乱に遭遇。鎮圧し、その功で武蔵(むさし)宿禰(すくね)の姓を賜り、武蔵の国造となった。

阿倍宿奈麻呂 
718年、長屋王とともに大納言に任ぜられる。


石上麻呂

物部氏で壬申の乱では近江方につき、皇子の首を吉野方に渡した。が、天武朝でも重用され、遣
新羅使になった。

橘諸兄

玄昉、吉備(きびの)真備(まきび)らと、国政を立ち直す。


福信 

正倉院の宝物の署名にその名がある。高倉の名をもらっている。日高の高麗家の系図にはなく、
相模の高倉郡と関係しているといわれる。


広成

天平宝字8年(764)恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で仲麻呂を愛発駅で討ち取った功績により
入間宿禰」を賜った。物部直(もののべのあたい)広成といい、出自は物部である。
物部兄(もののべえ)麻呂(まろ)が大化の改新後聖徳太子側につき、太子の舎人(とねり)となった。入間の勝呂(すぐろ)廃寺(はいじ)は七堂伽
藍を構えた立派な寺で物部氏の氏寺と思われる。

地名 

神奈川の山 

高麗山 大磯は朝鮮語で「いらっしゃい」の意味だという。渡来人の上陸により、高麗文化をもたらした大磯。その目標であった、高麗山。

箱根   ハコは朝鮮の古語で神仙、ネは山嶺。

塔の峰 中腹の岩屋に光がさし、掘ってみるとインドの宝塔が三つでてきた。

火打石岳 ヒウチはアイヌ語でビウチ、この山には玄武岩は光沢があり黒曜石とみまちがうほどである。この山から千石原にかけて古代遺跡が多く、土器、石器が発見されている。   当時の先住民が生活必需品である燧石を探し出したところから。

足柄峠  この山の巨木で作った船は船足が軽いといわれた。古風土記には足軽とある。峠には新羅三郎 義光の名笙(しょう)を伝える。笛吹塚がある。

矢倉岳 近くに浜居場城跡があり、櫓があった。櫓は物見、矢の貯蔵、矢の発射などに使われた。
 
乙女峠 箱根の古道で最古の碓氷道は静岡方面から乙女峠を越え、千石原に下る。御厨、うとう、御留峠とも呼んだ。千石原に関所があったころ、調べの都合で旅人はここで足止めされたという。いいつたえの悲話がある。父の病気の平癒祈願に峠を越えて、竹之下の地蔵尊に毎夜お参りしたことで、村人は浮いたうわさを流した。心配した父親が後を追うと、冷たくなっている娘をみつけた。その日は満願の日であった。いつしか孝行娘として
乙女峠といわれるようになったが、語源は御留から乙女に転化。

駒ケ岳 全国に駒ケ岳はあり、馬にちなんだところが多いが、箱根の駒ケ岳は駒方神社が祀られているのでそこからきたものと思われる。が、高麗人から名づけられたものではないか。
      箱根と大磯の深い関係を思うと、高麗山の転化ではないか。

神山
   駒ケ岳とともに山岳信仰の山で神の住む山からの名称と思われる。

丹沢
  古朝鮮語で、丹はタニ、サワは深い谷の渓流。

大山  大山は阿夫利山ともいわれる。古朝鮮語でアは大とか一を意味する。夫利のフリはムリで山、相模一の山、大きい山からきたのではないか。アフリと大山が同義語になる。

ヤビツ峠 道路改修の折、峠付近から矢櫃(やびつ)が発見された。峠をはさんで血なまぐさい地名がある。

殺生ヶ原、地獄沢、城山、門戸口、千人隠れなど

二の塔 大平山、鷹休みの別名がある。南麓に横野という集落があって、鎮守として唐子神社がある。号を唐子明神という。その神は南にのびる山稜に一、二、三の御神灯を灯したという。二の灯の転化と思われる。
三の塔 菩提山ともいう。ここも三の灯の転化。


烏(からす)尾山(おさん) 厳しい修行を積んだ行者たちが、「ミサキガミ」といわれる烏に化身したといわれる先祖の霊に、これからの厳しい修行に耐えられるように,加護を祈った。

行者岳 役行者(役小角(えんのおづぬ))をまつったからといわれる。

新大日 現在の木の又大日にまず大日如来がまつられ、その後山の山頂に大日如来をまつったことから新大日といわれたのではないか。大日如来は修験道の本尊である。

塔の岳 尊仏山といわれる。中腹に大石があり、仏体に似ていたところから尊仏岩という。昔から立岩をお塔といい、お塔があるからといわれる。関東大震災で尊仏岩は転げ落ち、のちに探したが見つからなかった。

大丸  古朝鮮では高い山をマル,モイといった。


鍋割山 北側の鍋割沢のナベはナメ、滑が割れる、歩きにくい、滑らかなところがないという意味

か。鍋を半分に割ったような山の形ともいわれる。

蛭ヶ岳 ヒルが多いという説。猟師の山頭巾をヒルと呼んだというが、山の形が頭巾に似ているからという説。

毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)をまつったためという説。


姫次(ひめつぐ)  昔、どこからか追われてきた長者と娘の折花姫が住んでいた。巨万の富を抱えたこの一家。近くの鐘撞山に見張り番を置いていたが、突然襲われた。追っ手とも盗賊ともいわれる。姫は神の川に身を投げた。爺は社宮司沢(しゃぐうじさわ)で、婆はエビラ沢で殺された。爺は離れ離れに逃げた姫を思い、かわいそうだと叫んだところは河愛尾根、ササ原に姫が突き落とされたと思いそこを姫突といった。時移り姫突が、姫次になったという説。

焼山  かやや、草を刈り、人がたくさんはいったので、たびたび失火があったので焼山という説もあるが、失火ではなく、カヤは屋根を葺く大切なものであったから、上質なカヤを繁殖させるため山焼きをしたからではないか。

大群山 古朝鮮語でムレは山、大牟礼から大牟連、大群オオムレに転化。

富士山 アイヌ語のプシ(噴火する)ではないか。               

相模―サンガモ 相はサン、模はモ 。サネサシ(真城)         
武蔵―モシシ、苧(韓モシ)の種子、麻。ムネサシ(宗城) 胸刺、宗城、主城
飯能―ハンナラ ハンは韓、ナラは大国            
新堀―ホリはプル プルは都で新しい都       
志木―新羅の転化。磯城(シキ)の説。
日暮里―ポリはプル                    
駒沢 狛江 秋留(狭山) 
白髭―クナラ、クは白、百済をクナラという      
勝呂―村主をスグリという                
牟礼・牟婁・毛呂―ムレ・ムロ・モロ  村をムレというのでその転化       
人里(ヘンポリ)-ヘルヨン血縁、ポリは里
野火止
鶴巻、弦巻―ドル、牧、原野               
麻―フサは麻の古語で下総、上総。麻布、麻羽、麻生など
絹―ケンがケヌ、キヌとなる。鬼怒川          
海―ハタ、バタ、秦氏。  
群馬―クルベ、文部から
妙義神社―波己曾社(はこそ)―コソがあるので新羅系。コソは居世(コセ)で、敬称。
        江戸時代の伴信友は「神社を許曾(コソ)という事。」といっている。
寒河江―サガはわたしの家、社の意で、寒川は寒河の当て字。

「かながわの山」かもめ文庫、「日本知名学研究」中島利一郎、「日本の中の朝鮮文化」
キムタルインターネット、飛鳥資料館他                           
by gannyan1953 | 2011-06-08 14:44 | 高麗氏 渡来人 地名 | Comments(0)

赤穂浪士 討ち入り帰還の道



東京都歴史散歩

歴史と素適なおつきあい     2004・12・10(金) 


赤穂浪士 討ち入り帰還の道


JR両国駅 西口改札出た所 ― 回向院 ― 吉良邸跡 ― 赤穂浪士休息の碑(ちくま味噌)― 永代橋 ― 霊岸島 ― 鉄砲州 ― 赤穂藩浅野家上屋敷跡(聖路加病院)― 間新六の墓所(築地本願寺)― 浅野大学蟄居跡(歌舞伎座)― 東銀座 (都営浅草線)― 泉岳寺

                                
忠臣蔵

元禄14(1701)年3月14日 江戸城「松の廊下」で、高家筆頭・吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか・よしひさ)に勅使御馳走役・赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が斬りかかった。この日は年賀の答礼として、勅使、院使が登城し将軍綱吉と謁見する大切な日であった。
「この間の遺恨、覚えたか!」と叫びながら初太刀で眉間を傷つけ、二の太刀を右肩に浴びせたが、軽症で刃傷(にんじょう)は失敗した。判決文に「折柄と申し、殿中を憚らざる理不尽・・・」とあるように勅使への非礼、殿中の秩序維持の上から最悪の状況下であり浅野内匠頭は即刻切腹、赤穂藩お取り潰しとなった。
刃傷に及ぶ理由はいろいろいわれたが、「吉良上野介はおかまいなし」という喧嘩両成敗でなかった結果に、元禄16年12月14日 (旧暦1・30)本所吉良邸において大石内蔵介義雄(おおいしくらのすけよしお)を筆頭に赤穂藩士四十七士による仇討ちが決行された。
その後浪士たちは 謹慎ののち切腹をした。
 忠義だけでなく、江戸藩邸明渡しからはじまり、赤穂城明渡し、領民への心配り、討ち入り後の藩士たちのすみやかなな対応、態度は痛快なことであった。
 世は犬公方の治下である。足元に吠えつく犬を追えない時代であった。民衆はその抑圧された気分が隊伍堂々と旗本屋敷へ攻め入って、亡君の意趣をはらしてきたこの事件によって、自分達の憂さをはらすことにもなったのである。おびただしい落首が作られ、吉良をあざけり、義士をたたえた。のちに「仮名手本忠臣蔵」として人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本の題材になり、今にいたっても人気のある、日本人の好む話となった。


回向院   墨田区両国2-8

上野介の首を槍の柄にくくりつけ吉良邸をでたあと回向院に向かうが、かかわりあうことを怖れたか開門されず、泉岳寺に向かった。回向院は明歴の大火で亡くなった人々の供養にと築かれた万人塚が起源。江戸後期の劇作家や鼠小僧次郎吉の墓、江戸勧進相撲の開催地として知られる。


吉良邸   墨田区両国3-13 本所松阪公園
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高家筆頭・吉良上野介義央の屋敷は、刃傷事件当時江戸城和田蔵門外、呉服橋内にあった。
(千代田区丸の内1-8 鉄鋼ビル)赤穂藩士の仇討ちが噂され隣近所からの苦情でこの地本所に元禄14年8月に屋敷替えをした。

2014年12月13日
回向院から吉良屋敷までバザー会場となり大変なにぎわいで、観光協会のツアーが大勢集まっていた。
観光協会から泉岳寺までいくツアーは無かった模様。
* 吉良家

吉良家は、足利氏の一門として、愛知県播豆群三河の吉良庄、4200石の領地であった。室町時代以来つづく名家で幕府の儀式をつかさどり、将軍の名代として伊勢、日光、朝廷にも使いをした。上野助が中小大名に驕慢な態度をとったとしても、上野介自身不遜とは考えていなかったはずである。
上野介は知行地吉良ではよい殿様として領民にも慕われていた。現在吉良では銅像も建てられ、12月14日松阪公園では吉良祭も催されている。

* 刃傷の理由

内匠頭の「遺恨がある」といったのは何かわからないが、上野介の高家としての指導ぶりが怒りを買ったものであろうということは間違いないと思われる。3年前津和野の藩主亀井玆親(これちか)も、上野介の態度を怒って斬ろうとしたが、家老の多胡主人(たこもんど)が賂(まいない)してから上野介の態度が軟化し、無事にすんだということもあった。

津和野の銘菓「源氏巻」のいわれ

頃は元禄11年、赤穂の浅町内匠守の刃傷が起きる前のこと。

当時の津和野藩主、亀井滋親公が勅使接待役を命じられ、

吉良上野介に典儀故例の指導を受けていたが、

浅野同様、数々の辱めをうけて大いに憤り、吉良を斬って自らも自害する決意をした。

それを知り、国家老多胡外記が、御家の一大事と早速吉良家に進物を贈りつけたところ、

吉良の態度は一変、殿様は無事大役を果たす事ができた。

その時の進物、「小判を包んだ形のお菓子」が源氏巻の原型になった。

巻きというが、うすっぺらくした巻物で下に小判上にお菓子を

のせて2段式の菓子箱にしたらしい。(津和野・沙羅の木より)


これをみると、賄賂を送らなかったので適切な指導をせず、内匠頭に恥をかかせることが多かったという説もあたっているかもしれない。内匠頭の性格は短気な所もあったそうだが、学問好きで遊芸はきらいであったという。江戸藩邸にいたものが仇討ち強硬派の中心になっていることからも内匠頭の気持が通じていたのかもしれない。赤穂の塩の生産を上野介が羨み、生産方法を内匠頭が教えなかったことへの吉良の腹立ちともささやかれた。

* 上野介と上杉家

上野介の子・綱憲は上野介の夫人の実家である米沢藩主上杉家の養子となり、綱憲の子・義周(よしちか)を上野介の養子としてもらいうけている。義周は血筋のうえでも上野介の孫にあたる。娘たちも名家に嫁いでいる。養子の縁で米沢上杉家からの援助も多く、上杉氏の記録によると養子縁組してからは万事が奢侈(しゃし)になったことがわかり、上杉氏の財政難は綱憲の時代につくられたものであるといわれる。

* 討ち入り

討ち入り当時、近所には高田の馬場の仇討ちで有名な堀部安兵衛、杉野拾平次、前原伊助の家があり、以前から見張り、探索、そして討ち入りの集合場所ともなった。
午前4時ごろ、東の正門から大石蔵之介ら23人、西の裏門からは大石主税ら24人が入った。家中のもの16人を斬り、20余人を傷つけてもなかなか上野介をみつけられなかった。
2時間ほど戦いがつづき、物置にひそんでいるところを、探し出され首をとられた。
近隣の旗本屋敷でも討ち入りに気付いていたが、だれも吉良を助けるものはいなかった。
朝もしらみかけてきて、一同首をかかげて出発。両国橋を越えると旗本屋敷が多いので、ここを避けて永代橋をわたり町人の町筋を通って泉岳寺にむかった。


*赤穂浪士四十七士
 

討ち入りした藩士は四十七人であるが、討ち入り後、四家(細川越中守綱利・松平隠岐守定直・毛利甲斐守綱元・水野監物忠之)にお預けになった。内蔵介ら17人が預けられた細川家では、江戸にすんでいる縁者と連絡もしてくれ、「平家物語」「大平記」「三国志」など持ってきて、つれづれを慰めてくれた。馳走役であった堀内伝左衛門は「堀内伝左衛門覚書」を残して大事な史料になっている。

以下 歴史と素適なおつきあい「赤坂と六本木」より抜粋

長州府中藩上屋敷跡(六本木ヒルズ)

長府藩は萩藩の支藩である。
龍馬と寺田屋遭難のときいっしょにいた三吉慎蔵が長府藩士である。龍馬の警護を長州藩から命じられ、龍馬の死後もその妻お龍を長府で預かっていたこともある。
そして乃木希典の生誕地である。
低い湿地で、外様の小藩の屋敷は江戸中心から離れていた。

赤穂浪士は討ち入りのあと、幕命によって、その身柄を四家にあずけられた。細川家、松平家、水野家、そして長府毛利家である。細川家などは忠義義胆の士としてかれらを篤く礼遇し、その礼遇ぶりは江戸中がほめそやすほどの美談になり、そのことは講釈ダネのなかでももっともよろこばれるくだりの一つになっているが、長府毛利家が最も冷遇した。
 長府毛利家は武林唯七ら十人を藩邸の長屋に押しこめ、そのうえ、長屋の往来に面した窓に板をうちつけ、窓をつぶし、文字どおり罪人のあつかいをした。この冷遇が江戸中の評判になり、町人たちの批難をあび、のちその待遇をあらためた。それもこれもべつに底意があってのことではなく、この藩が幕府の威権をおそれ、幕命を忠実に解釈してのことにすぎず、あとになってその監禁の度あいをゆるめたのも、幕府が存外この浪士たちに好意をもっているということを知ったからにすぎない。
武林唯七は帰化人の孫である。その祖父は中国杭州武林の人で、秀吉の朝鮮ノ役で捕虜になり、日本に移住した。その子は浅野家の医官になり、唯七を生む。唯七は元禄のころの下級武士としてはめずらしく詩に長じた。その韻律が日本人離れしたほどに自然だったのは家伝として中国音を知っていたからにちがいない。

三十年来一夢ノ中
生ヲ捨テ義ヲ取ル幾人カ同ジキ
家郷病ニ臥シテ双親アリ
膝下歓ヲ奉ジテ恨ムラクハ終ラザルコトヲ
と、これは武林唯七の辞世の詩である。病床にいる両親に先立たねばならぬ哀しみを、「恨むらくは」とのべている。唯七は他の九人の同志とともにこの藩邸の広庭で切腹した。
切腹にあたって、話がある。元禄のころの長府毛利家は士風がよほどおとろえていたのか、江戸詰めで剣を使える者がすくなく、浪士の切腹にあたってそれを介錯―――首を落す―――ことができる者はわずか五人しかいなかった。唯七は切腹の座につき、長府毛利家の家士榊正右衛門の介錯をうけた。榊は唯七の背後にまわり、唯七が腹に短刀を突き入れるや、あわただしく太刀をふりおろした。しかし太刀は唯七の頭蓋の下辺に激しくあたったのみで刃が跳ねかえり、落せなかった。唯七は前へ倒れ、しかし起きあがり、血みどろのまま姿勢を正し、「お静かに」と、榊に注意した。二度目の太刀で唯七の首が落ちた。                   (殉死 司馬遼太郎)


* 寺坂吉衛門の行方

四十七士は後世「仮名手本忠臣蔵」でいろは四十七文字になぞらえたもので、一般的になったが、実は切腹したのは46人であった。
足軽の寺坂吉衛門が討ち入り直後にいなくなったのである。討ち入りの顛末を後世に残すために上意によりぬけたことを浪士たちは後で知る事になる。が、吉衛門の身の安全のためか逃がしたことは口にしなかった。100年後討ち入りに参加していないという文書がみつかり逃亡説がささやかれ不名誉なことであった。

ところが昭和になって吉衛門は名誉挽回した。吉田忠左衛門縁戚の伊藤十太夫の末裔である伊藤家から資料(伊藤家文書)が発見され「赤穂義士寺坂冤録」が世にだされた。吉衛門の行方が書いてあったのである。大石らから播州赤穂に赴き事の次第を伝えるために抜けるようにいわれた。その後播州に現れている。その後江戸にもどり自首するが、赦され8歳から仕えていた吉田忠左衛門の縁戚である伊藤家に仕える。
その後麻布曹渓寺(港区南麻布2)の世話になり山内家にも仕え83才まで生きぬいた。
泉岳寺の墓は慶応4年芸州藩御用商3名に寄進された供養墓である。

一番身分の低い吉衛門なら詮議も軽く、その忠孝に対し大石たちは吉衛門を選んだといわれる。

*その後の吉良家
 
上野介の子の義周は、戦わず逃げ回ったとされる。そのため赤穂浪士一同が切腹したあと義周の知行を没収し、信濃高島・諏訪安芸守忠虎にお預けとした。上杉綱憲は42才で隠居。
義周は4年後に亡くなり名門吉良家は絶えた。


 
赤穂浪士休息の碑 乳熊(ちくま)ビル 江東区佐賀1-6

永代橋を渡る手前にあるちくま味噌店で、一行は甘酒粥を振舞ってもらう。四十七士の中の俳人としても名高い大高源吾は、初代店主の竹口作兵衛と其角の門下生として俳人仲間であったと伝えられる。麹が多いので粥といったそうだが、現在通販で粥を購入することができる。近所の佐賀1-16は新選組から御陵衛士になった伊東甲子太郎の江戸の道場があった。

2014年12月13日  碑の横で甘酒が配られ、江戸味噌、甘酒の販売があった。

赤穂藩浅野家上屋敷跡   中央区明石町10 聖路加病院内




ここに八千九百坪の藩邸があった。赤穂の塩の生産で豊かであった赤穂藩の豪壮な生活ぶりが偲ばれる。
浅野家の先祖は浅野長政で、その夫人は秀吉夫人北の政所の弟である。秀吉没後、石田三成が勢力をもったことから家康方につき紀州を経て安芸備後に封ぜられた。広島浅野家の総本家である。

*赤穂藩先祖
赤穂浅野家の先祖は浅野長政の3男長成である。下野真岡から常陸真壁(隠居した長政の知行地)、常陸笠間、そして内匠頭の祖父長直の時代に赤穂5万3千石となった。赤穂藩士の中で吉田忠左衛門、小野寺十内、堀部弥兵衛は笠間で生まれている。祖父長直は城下町の整備に努め左白山頂にある藩庁まで藩士が往復する困苦を配慮して山麓に下屋敷をつくり政務をとった。白壁の壮麗なもので、幕府に新城建築と誤解され赤穂への国替えになったといわれている。
内匠頭長矩には子がなかったため、実弟の浅野大学が相続することになっていた。


間新六(はざましんろく)供養塔   中央区築地3-15-1 築地本願寺


築地本願寺は浅草横山町にあったが、明歴の大火で消失、跡地は区画整理のため八丁堀海上を与えられた。佃島の門徒により埋め立てられ土地を造成、延宝7(1679)年再建。ところが、関東大震災で崩壊し、昭和9(1934)年再建された。建物はインド様式で、本堂内は桃山形式をとっている。聖路加病院が近くにあるため、太平洋戦争では空襲を免れた。

* 間新六
 当時の切腹は形式的で腹を切るまねごとを行っているあいだに介錯される。が、間新六は脇差を手にしたらいきなり左腹につきさした。驚いた介錯人はあわてて首をはねたという。
亡骸は姉婿の中堂又介がもらい受けこの築地本願寺に埋葬された。泉岳寺に合墓された義士の中では唯一遺髪のみの墓であった。後年分骨された。

鉄砲洲稲荷神社
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富士塚
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蒋介石来日


赤穂藩上屋敷 聖路加大学
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上屋敷は築地鉄砲州屋敷といわれ、赤坂南部坂に下屋敷(赤坂6-10-12・氷川神社付近・幕末には勝海舟邸となる)、本所に蔵屋敷があった。


* 南部坂 雪の別れ 大石と揺泉院

この赤坂南部坂は歌舞伎「南部坂 雪の別れ」の場面で有名である。有栖川公園にも南部坂があるが、有栖川公園ではなく赤坂2丁目の南部坂(氷川神社近く)である。
討ち入り前夜大石蔵之助が揺泉院(ようぜいいん)に律儀にもその日までの会計報告を届けるため南部坂を登った。実は吉良方に討ち入りの情報が漏れることを怖れ、明日討ち入り決行のことは告げず、大石は藩主夫人に暇乞いに向かったのである。告げられない大石、それとなく察する揺泉院というくだりである。
揺泉院は内匠頭夫人で内匠頭切腹、赤穂藩断絶直後に髪を切り、義弟浅野大学と義絶して生家である三次浅野家の下屋敷に移っていた。その後義士の子供15才以上4名が遠島(大島)になることで、揺泉院は助けるべく奔走する(3年後返されるが間瀬久太夫の次男・定八は島で亡くなる)が、40才の若さで三次浅野家下屋敷で亡くなる。
赤坂氷川神社境内にあった。神社の境内に「史跡 浅野土佐守邸跡」の碑がある。


*松の廊下事件のあと
伝奏屋敷(千代田区丸の内1-4・日本工業倶楽部ビル)につめていた藩士から「松の廊下刃傷事件」の報がはいり、午後2時ごろ第一回目の使者がこの上屋敷から赤穂にむかった。
一行は6日目の19日に赤穂についた。そのあと内匠頭切腹、浅野家取り潰しの報が届き第2回目の使者は深夜になって赤穂にむかった。翌15日浅野大学は閉門、鉄砲州屋敷は16日には引き払い、17日には幕府の役人に引き渡された。赤坂も17日、蔵屋敷は22日に引渡し一週間で江戸屋敷はことごとくなくなった。
伝奏屋敷にいたっては刃傷のあった当日は馳走役であったため、浅野家が用意した家具調度、食器など多く、道三橋の下につないだ小舟に積み込み午後2時には下総佐倉藩戸田能登守に引き継いだ。



浅野大学蟄居跡   中央区銀座4-12  歌舞伎座


浅野大学は内匠頭が家督を継ぐときに、新田3千石を分けられて旗本になっている。兄の罪で閉門になっているが、もし許されれば旗本の身分にもどれる。いったん分家をしたのであるから内匠頭の名跡は残らない。大石は名跡相続を願ったのか、名跡をたてることを目的とする手紙は残っている。大石の手紙によると「大学様が赦免になって吉良氏が勤役して大学様と並んでおかれたのでは、大学様がいかほどよくなっても人前があがらない。吉良父子の出勤もないようにしなければ大学様も人交わりができない」(江戸の祐海にあてた手紙)
吉良父子を罰すれば目的が達せられるがそれはむつかしい。

*仇討ちまでの藩士
大学の処置が決まるまで仇討ちにはやる藩士を抑えてきた大石であったが、15年7月に大学は閉門をとかれ知行3千石は召し上げられて、広島浅野家お預かりのなった。ここで浅野家再興の望みは消え、藩士を抑える口実はなくなった。その間脱落者もふえ、蓄えもなく扶持もなく生きていくことはむつかしい。心中するもの、他藩にいる家族への災いを考え苦衷の末仇討ちが待ちきれず切腹してしまうものもいた。
後にこのふたつの史実をヒントに「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平の話が創作された。

*討ち入り後の浅野大学
綱吉の死後に、大赦があって、浅野大学長広も赦され、宝永7(1710)年に旗本と
なって安房で5百石の知行を与えられた。

泉岳寺駅
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泉岳寺   港区高輪2

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撮影2014年12月13日

曹洞宗の寺で曹洞宗江戸三大寺のひとつといわれる。徳川家康が慶長17年外桜田に創建したが、寛永の大火で消失。寛永18年現在地に再建された。

浅野家の菩提寺である。山門脇に大石内蔵介の銅像、墓に通じる道には大石主税が切腹した時に屋敷にあった梅、内匠頭が切腹した時に血がとんだ梅と石、吉良上野介の首を洗った首洗いの井戸がある。奥に内匠頭、揺泉院、大石ら四十七士の墓がある。
 12月14日は毎年義士祭が催され縁日や、、法要が営まれる。

茶屋には切腹最中も売られていた。おいしい。


参考 「日本の歴史 元禄時代 」中央公論社 「東京との歴史散歩」東京歴史研究会
   HP 「板東千年王国」「忠臣蔵の散歩道」「泉岳寺」               
by gannyan1953 | 2011-06-08 14:26 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

東海道 平塚宿~大磯宿

歴史と素適なおつきあい               2007・3・9



東海道「平塚宿・大磯宿」
JR「平塚」改札口2007年 3月9日 (金) 9:50 集合


JR平塚~お菊塚(番町皿屋敷)~江戸城の井戸枠~江戸口見附跡~脇本陣跡~高札場跡~東組問屋場跡~西組問屋場跡~平塚の塚(地名の起こり)~広重の絵~高来神社(高麗寺)~化粧井戸~松並木~地福寺(藤村の墓)~延台寺(虎御石)~小島本陣跡~尾上本陣跡~新島襄終鴛の地~鴫立庵~島崎藤村旧宅~OP[滄浪閣(旧伊藤博文邸)~郷土資料館(旧三井邸跡地)~旧吉田邸(銅像)]~大磯駅


平塚宿
人口 : 2038人
本陣 :    1軒
脇本陣:    1軒
旅籠 :   54軒  (1744年)

平塚の歴史は相模川(馬入川)と金目川(花水川)にはさまれ恵まれた地形と温暖な風土で平安後期から武士集団が住んでいた。
鎌倉に滞在していた易性法親王の書状に正和5(1316)年「平塚宿」とある。
そのころすでに宿を形成していたと思われる。
近世は幕府直轄領で、天保14(1843)年以降は小田原藩領だった。
慶長6年東海道整備の時7番目の宿として指定され、慶安4(1651)年には平塚新宿を加宿した。平塚宿による西組問屋場と新宿による東組問屋場があった。

馬入川の名の由来は建久9年頼朝の妻政子の妹である稲毛重成の亡妻の追善にと重成が相模川橋供養を催した。頼朝も供養に鎌倉から出向いていた。ところが悪霊が現れ雷鳴が轟き、頼朝の馬がその音に驚き、頼朝を振り落とし川に落ち亡くなってしまったことからつけられたという。


お菊塚

紅谷公園に昭和22年有志により碑が建てられた。伝承ではお菊は平塚宿の役人真壁源右衛門の娘で行儀作法見習のため江戸の青山修膳方へ奉公にいった。家宝の皿を割り手打ちにされ、死骸は長持ちに納められ馬入りの渡しで父親に引き渡された。
このとき父親は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と絶句したという。
父親は刑死人の例にならい墓を作らずセンダンの木を植え墓標とした。
のちに怪談「番町皿屋敷」の素材となった。


本陣跡

寛永12(1635)街道筋の豪家であった、小島家が勤めた。初代鞠木彦右衛門尉邦忠(まりきひこうえもんのじょうくにただ)といい小田原北条氏に仕え天平18(1590)年北条氏滅亡後大磯に移り住んだ。



要法寺

日蓮宗で身延山をでて武蔵国池上にむかう日蓮を当館に招聘した。
説法を聴聞した平塚左ヱ門尉泰知入道松雲(北条泰時の次男といわれる)らは感動しそのまま居館を寺とし、日蓮開山とした。
泰知はこの11年前に龍ノ口の日蓮の処刑の不思議な現象をみて以来、日蓮に帰依していた。江ノ島方面から光り物がきて処刑人の刀が折れ日蓮の処刑が未遂になった怪事件のことである。



平塚の塚

要法寺西側にある平らな塚のことで、「土人曰く、昔高見王の子政子東国に下向あり天安元年(857)2月25日逝く。其の柩を当所に埋め、塚を築いて印とす。塚上平かなるより地名起これリ」風土記稿
伝説に昔女体天神社があったといわれる。



大磯宿

人口  :2702人
本陣  :   3軒
大旅籠 :   4軒
中旅籠 :  12軒
小旅籠 :  69軒       (享保3年1803・宿方絵図面書上控)

鎌倉時代にすでに鎌倉、京都を結ぶ上洛道として発展しており東海道のはじまりといわれている。鎌倉時代の中心地は化粧坂あたりである。
東海道整備後では8番目の宿場に制定された。
江戸時代の中心地は地福寺周辺で南本町、北本町で9割の旅籠があった。
飯盛女を置いていたのもこの両町であった。伝馬役は通常、地子を免除された屋敷の間口に応じて賦課される間口銀によって賄われる。この間口銀は宿の中心ほど高額になる。大磯宿宿場絵図によると地福寺大門両側が最も高く、中心部から離れる毎にだんだん下がっていく。江戸時代に、いくどか大火に見舞われ、安政2年には火除け土手が築かれた。
大磯は海側に裏町あるいは下町といわれた漁師町がある。廻船をもち魚介類は江戸新肴場へつけ出し廻船は御城米、地頭米、年貢米、その他商人荷物を積み出す県下有数の湊であった。
明冶になると宿駅制廃止で大火もあり、経済的にも疲弊した。
ところが明冶18年、西洋の公衆衛生学に興味があった元陸軍軍医総監松本順が大磯を訪れる。

<海水浴場の条件>
「第一に東南にむかって西北に背き、第二に砂場広くて貝殻なく、第三に海底は小石か砂石の大なるものより成り、第四に潮水は澄んで河水の混入なく、第五に波は激しく身体にあたって危険なく、第六に潮汐の干満がとくに大なること」
当時は海で泳ぐのではなく波で体を打つことによって医療効果が高まるとされていた。松本は適地を求めて伊豆から帰る途中たまたま大磯に宿泊、照ヶ崎を紹介されることになった。
松本順はおおいに気に入り大磯の照ヶ崎海岸を初の海水浴指定地として紹介した。
大磯はこれで経済打開の機会を得ることになった。鉄道開設後は政治家たちの別荘地となり、大磯で閣議が開けるとまでいわれた。
大磯の別荘事情を人物、屋敷の規模で考慮すると3期にわけることができる。
第一期は、明冶中期から後期にかけて高級官僚、華族など大邸宅が多かった。
第2期は、明冶末期から震災までで実業家、会社役員などの別荘で中規模な洋風住宅であった。
第3期は、震災から戦後までで震災から逃れてきた人、庶民派の中規模、小規模の和風住宅になっていった。



唐ヶ原もろこしがはら

昔から花水川河口付近のことを「もろこしが原」とよんだ。このあたりは5世紀それ以前から大陸や半島からの渡来人が住んだところである。渡来人を「もろこしひと」とよんだことから地名になったと思われる。


高麗寺村

大磯の高麗1~3丁目の旧称。村名は天台宗の高麗寺より起こったと伝えられる。
地名、社名より渡来人が多く住んでいたことを物語っている。
高麗とは朝鮮半島の高句麗のことで朝鮮半島北部に興った古代国家である。4世紀広開土王の時最盛期を迎えたが、4世紀末南に興った新羅、百済その背後にある唐、日本と対抗したが668年唐、新羅の連合軍に滅ぼされた。その頃日本に逃亡してきた者も多くその中に高句麗の王子若光もいた。若光は一族とともに大磯に上陸、優れた大陸の技術(鍛冶、建築、工芸9を伝えた。若光は文武天皇から従五位下の位と「王」
(こきし)の姓を賜った。その後霊亀2年(716)相模国をはじめ東国七州の高麗人を武蔵国に移して高麗郡が置かれたので大磯の高麗人もそこに移住した。


高久神社

高麗山(こまやま)に鎮座し中央の上宮、左右に白山権現、毘沙門天を勧請しているので三社権現と称していた。
垂仁天皇の時代磯長国造(しながのくにみやつこ)の創建と伝えられる。神仏混合で高麗寺となったが明冶になり分離、高麗神社からのち高久神社に改名した。
境内にある地蔵堂には虎御前の位牌がある。
平成12年旧高麗寺から、神像群が発見され一部郷土資料館で公開している。



化粧井戸

松並木の途中に大磯一の美女といわれた遊女虎御前が化粧した井戸と伝わる。
室町以前の遊女は知識人であり、歌舞など技芸をこなし教養があった。



延台寺

虎御石がある。曽我十郎の身代わりとなった石といわれる。
曽我兄弟とは、河津三郎という伊豆の豪族の子で、祖父は祐親といって頼朝を討とうとしたが自決した地元武士である。ある日祖父の祐親は頼朝を伊東に招き、余興に相撲大会を催した。つねづね領地問題で祐親と対立していた工藤祐経の家来と曽我兄弟の父河津三郎が対戦し、三郎が勝った。これが遺恨となり工藤祐経の家来は河津三郎を暗殺した。父を殺された曽我兄弟は富士の裾野で仇討ちとなった。虎御前と恋仲だった兄の十郎は討死。弟の五郎は翌日処刑された。
この虎御石は、虎御前の親である山下長者が子に恵まれず虎池弁才天にお参りしたときに授かった石で、毎日お参りして虎御前を授かった。工藤の刺客に襲われたとき救ってくれた石である。



地福寺

船着山円如院と号し東寺真言宗の寺である。
寺伝に承和4(837)年僧杲隣(こうりん)の開基と伝わる。戦国時代は小田原北条氏の保護を受けていたが北条氏滅亡後一時衰微した。慶長10(1605)年中興した僧宥養(ゆうよう)は幕府が浄土宗と日蓮宗に命じて行わせた宗論の立会人の一人となっている。本陣のひとつ尾上家ならびに島崎藤村の墓がある。


新島襄の碑

同志社大学の創始者で明冶22年病気療養のため百足屋に滞在した。翌23年腹膜炎を起こしこの地で没した。昭和15年徳富蘇峰筆の碑が建てられた。


鴫立庵(しぎたつあん)


西行が東遊の際、「心なき身にもあはれは知れけり 鴫立沢の秋の夕暮れ」
と詠じたことに由来する。
寛文4(1664)小田原の崇雪が庵をむすび五智如来の石像を造り、鴫立庵の標石をたてたという。元禄8(1695)年俳人大淀三千風が江戸よりこの地に移り住み、鴫立庵の土地の売買禁止、檀那寺は地福寺とすること、居住者は麻木綿を着るなど庵規を定めた。文覚上人鉈造りという西行の像を安置し、今でも俳諧道場として有名で3月の最終日曜には西行祭が行われる。



島崎藤村旧宅

作家の島崎藤村が大磯の左儀長をみてとても気に入りこの地に居を構えた。
当時の貸家に比べ玄関、広縁にゆとりがあり書斎が設けられている特徴がある。
高田保の話に引越し好きの高田があるとき、とてもきれいな借家に引っ越した。
庭の手入れ、家の掃除はもちろん押入れには新聞紙も敷かれており、ていねいに縫い上げた雑巾、新しい障子紙に手紙が添えられていた。「つぎにお住いくださる奥様、御元へ」(ブラリひょうたんより)
もとの家主は島崎藤村夫妻であった。高田保はプロレタリアの劇作家だったが転向後、大磯の社会教育に携わった。


滄浪閣

伊藤博文旧別荘邸で現在大磯プリンスホテル別館となっている。


大磯城山公園

縄文時代の遺跡、横穴墓、鎌倉古道などの遺跡が発見されている。中世には小磯城があった。明冶31(1898)年財閥三井の別荘地となった。財閥解体後三井の手を離れ放置されていたが平成2年跡地を公園にした。


大磯町郷土資料館

大磯城山公園にある。
大磯の歴史、民俗が展示されている。


吉田茂別荘旧宅

吉田茂の養父にあたる貿易商吉田健三郎氏が明冶18年に建てた別荘である。第二次大戦後、吉田茂が外国賓客を招く為新築、改築をした。敷地一万坪に住居、賓客室、七賢堂、庭園がある。七賢堂には岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂の7人が祀られている。
伊藤博文のもとに伊藤、西園寺、吉田を除く四賢堂がありのち伊藤が加わり五賢堂、それを吉田が移し西園寺を加え、吉田の死後佐藤栄作が吉田を加え七賢堂となった。
現在見学はできないが一般公開されたり、旅行社のツアーで企画されることもある。
(平成21年3月残念だが、全焼した。現在再建の計画で募金活動をしている。平成23年6月)

焼け残った施設を大磯町が管理し公園となって公開された (平成27年・2015現在)
邸宅外にサンフランシスコ方向をむく吉田の銅像がある。
by gannyan1953 | 2011-06-08 14:01 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)



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