歴史と素適なおつきあい

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柴犬 朔太郎

2011年7月
橈尺骨成長板障害とうしゃっこつせいちょうばんしょうがい


橈尺骨成長板障害とは?
前足を構成する骨には上腕骨や橈骨、尺骨などがあり、これらは成長期に太く・長く伸長する。
骨が縦に伸びるとき、骨の両端にある「成長板」と呼ばれる場所を基点として骨が作られる。橈尺骨成長板障害では、橈骨または尺骨の「成長板」へなんらかの障害が加わり、橈骨と尺骨の成長が不均衡となり、足が彎曲する。

治療 
歩いたり触ったりしたときに痛みがあり、骨の変形を直す尺骨切除、変形矯正などの外科的治療を行う。

4年経って朔太郎の病名がわかった!現在、
自然治癒し、元気である。


柴犬の朔太郎がもうすぐ4才を迎える。b0228416_149655.jpg4年前の夏、寒川神社の近くで柴犬のブリーダーから購入してきた。
中原街道歩きをしていて、道端にたくさんの柴犬がサークルにはいっていた所に、「柴犬の赤ちゃん生まれました」という張り紙をみつけた。

初めて会ったのは、生後三日目で、やっと飼いたい犬に出会えたと思った。

その1年前にゴールデンレトリバーのガンジーを亡くし、深い哀しみから、だんだん立ち直っていき、
犬を飼っているとできなかった長期のの海外旅行もして、やっと1年後、犬を飼うことができた。

ところが、2ヶ月たったころ橈尺骨成長板障害という病気になった。
その時は病名もわからず治療の施しようがないので殺処分を勧められた。
痛みを伴いながら生きていくにはかわいそうだという理由からである。

実際、前足は彎曲し、とことこ歩いては倒れてしまい、かわいい時期なだけに
みていて大変つらい思いがあった。

さきほど書いた病名は何年もたってからわかった病名で、このときは訳も分からず、
3軒の獣医をまわった。うち2軒はレントゲンをとって原因がわからず様子見。
1軒が、症例はないという。

3軒目の獣医さんから一週間後、殺処分を勧めてきた。

私は動転していたので病名をいわれたかもしれないが記憶がない。
治る手立てはないといわれた。

ブリーダーに相談したら引き取ってくれるという。3ヶ月になっていた。
一番かわいいときだったし、最後まで責任がとれない自分が悔しくて、それは落ち込んだ。


結局朔太郎は、実家である寒川で両親、兄弟に囲まれ1ヶ月間ブリーダーのもとで暮らした。

それから、どういうわけか足の彎曲がなくなり歩けるようになった。
2ヶ月から4カ月までの2ヶ月間患っていたことになる。
自然治癒したのである。

ブリーダーから「回復したが再発もありうるがどうしますか?」 という連絡がはいり、すぐに迎えにいった。
無事、家に戻り、現在何事もなく元気である。

少し兇暴で、大事な時期に手放したこと、帰宅してから甘やかしたことで朔太郎のしつけに失敗してしまった。
ゴールデンのように誰にでも友好的な犬にしたかった。
ただ柴犬の特性と思えば柴犬らしい性格なので、それもよし!!とかわいがっている。
by gannyan1953 | 2011-07-28 10:15 | 前足 湾曲 柴犬朔太郎 | Comments(4)

空海と冶金

歴史と素適なおつきあい 座学 2010・7・9

           

空海と冶金(やきん)

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辰 砂  (しんしゃ)            
         
空海の生涯

空海は774年、讃岐に生まれ、密教を大成した平安初期の僧であり、日本中の人が「お大師様」として

信仰する超人的な活躍をした「弘法大師」のことである。                     

出自は蝦夷なのか

讃岐国多度郡屏風ケ浦に、佐伯直田公(さえきのあたい たぎみ)の三男として生まれた。
父は豪族でかつては国造であった名門である。

出自は多説あり、大伴氏から派生した佐伯氏、他にヤマトタケルの東征に随行した功績で
蝦夷を統括する讃岐の佐伯氏となったという説である。

当初、蝦夷征伐で三輪山付近に俘囚(ふしゅう)としておかれた蝦夷が、
行い正しからずと地方に分散され別所となる。

統括した役人は同じ蝦夷であったといわれる。
空海の先祖が蝦夷であったといわれる由縁である。
母は阿(あ)刀(と)氏で秦氏系である。


神童だった真魚(まお)


幼いころから勉学に優れ、15才(788)で新京長岡京にでて、
叔父安刀大足に漢学を学ぶ。

大足は伊予親王に学問を教える学者であった。

空海はすさまじい勢いで勉学に励み、後に空海自身が、
真理の追究、根元的な疑問のため知識を身に付けたと語っている。

そのころ奈良仏教は腐敗堕落した仏教といわれ
一般庶民からかけはなれ、農民は疲弊していた。

自身の歩む道として、庶民の上に立つ官吏や寺僧に魅力を
感じることができない状態であった。


金星を飲み込む

18歳(791年)ひとりの沙門(しゃもん・私度僧)勤操(ごんそう)に出会い、
虚空求聞持法(こくうぐもんじほう)の行法を授かる。

50、70、100日のいずれかのうちに100万回真言念誦を
唱えると8万4千の経典の智慧が備わるというもので、記憶法のことである。

ノウボウ アキャシャギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ

が虚空求聞持法の真言である。


沙門に惹かれた空海は、大学を辞め出奔する。

ここから24歳(794年)ころまで阿波、土佐、伊予など山岳修行に励む。

あるとき、四国室戸岬の崖上に座し、一心に求聞持法を修していた時、
心は澄み渡り、万象を包むような気持ちになった。

体は大自然と一体となり、彼方に明けの明星金星が勢いよく近づき、
いきなり空海の口に飛び込む。

空海は簡潔に「明星来影す」と記している。
こうした体験を記した「三教指帰(さんごうしいき)」を著す。

「三教指帰」

戯曲風につづったもので、
亀毛(きぼう)先生(儒教)
虚亡穏士(こもういんじ)(道教)
仮名乞児(けみょうこつじ)(仏教―空海自身)
がそれぞれの説を主張し、最終的に仮名乞児の唱える仏教に
全員が敬服する内容。


空海はこの真言密教の素晴らしさは仏教であると確信したが、
日本に十分伝わっていないことを、嘆いた。

入唐の決意

修行を重ねるうち、密教根本経典のひとつ「大日経」に出会う。

*密教根本経典

① 大日経・・胎蔵法
  金剛頂教と並んで密教の根本聖典。大日如来(毘廬遮那仏)が
  宮殿で金剛サッタや菩薩たちに悟りを説いたもの。

② 金剛頂経・・金剛法
  大日経で示された悟りを実践的に把握し、
  悟りの心の観察や瞑想の方法を示す。
  金剛界曼荼羅は仏の悟りの境地で、
  これを観想することにより智慧が自分のものになる。

③ 理趣経・・絶対的な現実肯定、
  すべてを空に見て悟りを開き、 
  現実にある欲望を清らかであるという。

根源的な欲望、性愛も清らかであるということから、
空海死後、立川流という真言宗も成立する。

最澄はこの経典を借用したいと申し出て空海に断られることになる。
空海は、経典の意味、修法、真理を知りたいと思った。

しかし、日本にはそれを伝える人物がいないため入唐を決意する。

遣唐使の最低条件として官僧にならなければならないので、
東大寺で得度する。

時に804年空海は31歳になっていた。

困難な旅が続き、長安についた空海は
梵語、儒教、道教、景教、イスラム教、ゾロアスター教、
その他あらゆる宗教を学ぶ。

また。書道、文学、詩、絵画、音楽にいたる唐の
最先端の文化も身につける。

きわめて優秀な日本人の噂は皇帝(順宗)にまで届き、
交流するようになる。
「五筆和尚」の話が残っている。

異国人の空海に密教を伝授

32歳(805年)青(しょう)龍寺(りゅうじ)の
恵果阿闍(あじゃ)梨(り)に会い、
10年はかかるといわれる密教の両部の灌頂(かんじょう)と、
阿闍梨位の伝法(でんぽう)灌頂(かんじょう)を、
わずか3か月という短期間で伝授してしまった。

なぜ異国人の空海に伝授されたか。

① 勉学、修行により灌頂する素質を空海が身につけていたこと

② 恵果の弟子に密教を継ぐべき弟子がいなかったこと

③ すでに中国では密教が下火になっていたこと

恵果はインドから中国に伝わった密教を空海に託し、
日本での大成を願った。

帰国した空海の使命

密教をもって衆生を救う使命を決意した空海は、
薬子の乱で乱れる都に行き、
810年(37歳)高雄山寺で鎮護国家の大法
「仁王(にんのう)経法(ぎょうほう)」を修した。

験あってか薬子一味は捕らえられ、時の帝、嵯峨天皇に認められ、
45歳(818年)高野山下賜を願い出て勅許を得た。

名声は高まり修法、教団整備、寺の造営、
膨大な著作と多忙を極めるなか、
超人的な行動力で、密教浄土の具現にむかった。

満濃池の造成、請雨など行い、東寺を下賜された。

日本ではじめての庶民の学校
「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を東寺の隣に創設した。

八葉の高野山の地形

高野山の地形は、1000メートルの山々に囲まれた深山の平地で、
八葉蓮華(はちようれんげ)に囲まれているようであった。

八葉蓮華とは泥の中に咲く蓮を、迷い(泥)の世界にあっても
染まらず悟り(種実)を開くこと。
胎蔵曼荼羅の中央に中台八葉院が描かれ、
その中央は大日如来である。

空海は高野山の土地そのものを曼荼羅と考えたので、
高野山に修行の場としての寺院を作り始めた。

59歳(832年)高野山で万灯万華会(まんとうまんげえ)を修した。

その3年後62歳(835年)高野山で入定(にゅうじょう)する。

921年 醍醐天皇より、「弘法大師」の諡号(しごう)を賜る。

入定―元々は瞑想することだったが、不死の命を得る意味になった。

空海の死についてはじめは「入滅」といわれ、
10世紀に仁海が「入定」といい、

それから空海は未だ奥の院に生きているといわれている。

弟子、実(じち)慧(え)の記録には荼毘にふされたとある。

仏陀の捨身信仰からこの伝説が生まれたと思われる。  
           (五来重著空海の足跡)

空海と水銀    

空海と同時に遣唐使として出発した最澄は留学1年、
費用は全額国家負担、金銀数百両といわれる。

空海は無名の僧で留学期間20年、費用は全額自己負担であった。

ところが空海は在唐2年で無理やり帰国してしまう。
(無断で帰国したため許しがでるまでしばらく大宰府に滞在した)
20年分の在唐費用を2年で使ったことになる。

恵果のもとで密教を学んだ際、密教道具、道具の作り方、
写経してもらう人への謝礼、他にも土木、冶金技術、医薬品の
作り方など様々な技術を学んできている。

その上短期間で準備するための人件費もあることから
莫大な費用を払ったと思われる。

その財源が、金属にかかわる人々「山の民」であった。

①空海と水銀と高野山

高野山の地中には銅や水銀が埋まっている。
高野山は中央構造線の上にあり、四国霊場、
空海開創寺院の多数が中央構造線上にある。

真言宗の霊場付近には水銀鉱床があることが多いのは
構造線に鉱物が多いことを知っていたと思われる。

高野山の開創以前は、狩場明神(かりばみょうじん)と
丹生都比売命(にゅうつひめのみこと)が地主神であった。

前者は狩猟、後者は水銀を意味する。

水銀は道教の煉丹術に珍重され丹(に・たん)、丹生(にゅう)地名は
水銀産地である。
山野を巡っているうちに高野山をみつけ、
八葉に囲まれた水銀が埋まる土地が欲しかったので、
朝廷に賜るよう申し出た。

空海自身、丹を薬として用いていたといわれる。
晩年頭に癰(よう)(悪性のできもの)ができて苦しんだといわれているが、
これが水銀中毒ではなかったか。



②山の民(鉱山特殊技能集団)

鉱山技術を持つ人々は、もとは渡来人で海の民から山の民になった人々である。
海の彼方からやってくる来訪神を崇拝し龍神、恵比寿も海神である。
この古代の海洋宗教は山岳崇拝に変容していくのだが、
海に囲まれた四国にはまだ修行の場として存在していた。

四国八十八か所の巡礼の成立の背景には、
この辺路(へじ)修行があり、海洋を遥拝修行する。

聖も「火じり」が語源で、火を熾す(おこす)人である。
火を熾して護摩壇で修することで、岬で行えば灯台の役目にもなった。
空海も幼いころからもともとあった修行者の行場で修行をしていた。

空海は厄年のとき四国を一巡したといわれ、
空海死後「空海にまみえたい」との願いから八十八か所が成立した。
そのうち遍路という文字に変わっていったという。

山の民は鉱山特殊技術集団として大仏鋳造時に富も得たことと思われる。
四国、熊野と空海の修行中彼らと接触し交流があったといわれる。

山は異界であり、異質な人々であり、
修験者、鉱山師、狩人、木地師など大和朝廷に
追われた「まつろわぬ民」の血筋もいたであろう。

すでに水銀の鉱毒がわかっていて回避できる技術や、
煉丹術、鍍金技術など、唐で学び、山の民に情報提
供する約束があったかもしれない。

空海の語学は入唐以前から堪能だったといわれ、
もともと渡来人の
血筋の山の民から語学も学んでいたのではないか。

お経の読みは呉音が多かったが「理趣経」は漢音(長安)である。

空海の死後も高野山を支えた人々は山の修験者(山の民も含む)達で、
僧たちが支える東寺と長い期間いろ
いろな権利をめぐり揉めることとなる。

弘法大師伝説は入定した空海を行基の行いと重ねて、
高野山が語ったもので、東寺資料では空海は亡くなっ
て荼毘にふしたとある。


③水銀

自然水銀の辰砂(しんしゃ)は薬として用いられ
鎮静、催眠の効用があり、毒性は低い。

辰砂HGS・・別名賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱、
日本では丹(に)と呼ばれた。
古墳の内壁や石棺の赤色顔料として用いられた。防腐作用がある。

水銀HG―汞(こう)、みずかね。各種の金属と混和し、アマルガムを作る。

古代の水銀中毒

辰砂から作られた薬を服用して不死を求める背景には、辰砂の赤色が血液
につながる思想があったと思われる。

辰砂を加熱すると硫化水銀が還元されて水銀が生じ、水銀が酸化すると
又硫化水銀になるという循環的過程に永久性を見出し、
不死不老をと結びつけたと葛洪(3世紀・道教研究家)の著書にある。

秦の始皇帝や前漢の武帝は道教の煉丹術をとりいれ仙丹を作らせた。
皮膚がかさつき高熱をだし、精神異常になったという。

唐の皇帝21人のうち6人は水銀中毒であったという。

日本の天皇のうち淳和、仁明天皇(空海の時代の天皇)は
「医心方」による金液丹を服用し効果があったとされる。

金液丹 ー水銀を仙薬にまぜ火にかけると、金ができると信じられていた。

丹薬ー 服用すれば7日で仙人となる。向精神作用があり、頭が冴えて軽くなる。

ダラニスケー陀羅尼助 古代、水銀がふくまれていたという。

五石散ー 五個の鉱物で作られ砒素を含んでいた。
     効用は覚せい剤に似ており、精神を快活、昂揚させる。

水銀、砒素を含む薬は空海がいた長安では流行していた。

丹生鉱山

三重県多気郡多気町にある鉱山。中央構造線上に位置し、
水銀を産するが多くは鶏冠石、石黄が多い。
この鶏冠石と石黄は混同されることが多いが、
石黄は雄黄のことで、いずれも薬として重用され、
ヒ素の化合物である。

ここの水銀は縄文時代から採掘されており、
奈良大仏の鍍金(水銀50トン・金9トン)にも使われ、
後の伊勢白粉が作られている。

大仏の鍍金での公害は有名な話だが、
現在蛍光灯に使われる水銀は年間5トンで、
いかに多くの水銀が使われたかわかる。
若草山に木が生えていないのも水銀によるという説がある。

伊勢白粉はそのものに毒性は低いが製造過程での
水銀中毒が起こっている。
水銀と塩を混ぜて蒸し焼きにすると白い粉になる。

鎌倉時代に中国から製法が伝えられ、
化粧品、腹痛薬、皮膚治療薬、梅毒薬、堕胎薬、
シラミ駆除薬などに使用された。

梅毒薬ではモーツアルトが梅毒になり
その薬で水銀中毒になり死亡した説がある。

空海が水銀を服用した場合の目的

即身成仏の完成を目指し、
防腐作用を体に行き渡らせるために服用した。

水銀は服用すると腎臓を冒し、
毒が体にまわりだすと肝臓が冒される。
空海には肝臓障害もあった。
日光二荒山
日光を開山した勝道上人が神橋でであったのが
深沙大王(辰砂)大王で
ふたら を にっこう と読み替えたのは
空海とおわれる。

日光には産鉄民の伝説がある。
空海と伏見稲荷
空海が東寺の五重塔を建立するのに伏見稲荷の山にある木を使った伝説がある。
今でも稲荷祭として東寺近くの御旅所、東寺、伏見稲荷と巡業する行事がある。



参考図書: 真言密教の本(学研)空海の足跡
山の宗教(五来重)
空海(三田誠広)
空海の風景・街道をゆく「高野山の道」(司馬遼太郎)
沙門空海(渡辺照宏)
真言密教と古代金属文化・空海と錬金術・空海のミステリー(佐藤任)
鬼の日本史上・下(沢史生)  
参考HP: ウイキペディア・エンサイクロメデイア空海・・坂東千年王国・伏見稲荷

by gannyan1953 | 2011-07-23 14:32 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

平将門最後の地

歴史と素敵なおつきあい 番外編 2011・7・16


坂東市・八千代町を訪ねて


西念寺辺田355-1

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もとは聖徳寺であった。
親鸞の弟子、西念が現在さいたま市の野田村に道場をたて108歳まで生きた。それで野田の道場は長命寺と名づけられた。建武の兵乱で焼けてしまい西念の出身地、信州に移ることになった際、血縁だった辺田の聖徳寺に宝物が納められた。江戸時代初期開基西念として寺号も西念寺と改められた。

この寺の伝説「泣き鐘」
将門の兵たちがこの寺の鐘を持ち出し陣鐘にして鐘をつくと「辺田村恋し、辺田村恋し」と泣くように響き渡る。
士気も上がらず、将門は腹をたてて寺へ返した。





延命院神田山715
胴塚
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首塚より贈られた碑
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天慶3(940)年、将門は岩井にて討ち死した。その胴体がここに埋められたと伝えられる。からだ山からかど山に訛り神田山となった。東京で神田明神の神田と同じである。
近くに八坂神社があり、お祭りの一週間前であった。お囃子は「将門囃子」といって、将門の本陣で奏された軍楽である。神田明神の将門囃子のルーツだそうだ。

ここは相馬御厨の神領だったことから荒らされず守られてきたと思われる。
不動堂の裏にある円墳は、言い伝えで将門山、神田山といわれている。
ここに将門の遺体をひそっりと葬ったところで胴塚といわれる。
胴塚の上に根で塚を巻き込むように大きなかやの木がある。そのわきに大手町の首塚から
移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられている。

平将門公之像ベルフォーレ


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綜合文化ホールベルフォーレに騎馬像がある。土浦出身の彫刻家一色邦彦氏作である。
折立烏帽子をかぶり狩衣に太刀を差し黒鹿毛の駒に乗った堂々とした姿である。

図書館があり、将門コーナーには将門関連本がいろいろあった。お気に入りがすぐ見つかり、帰宅してその「新編将門地誌」赤城宗徳著:筑波書林を注文した。
とてもわかりやすく詳しく書かれている。


富士見の馬場岩井2245-5




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自然の状態の馬を使役につかえるように調教するため馬場と厩が必要だった。ここはそのために開設された。将門の領地には大結牧、長洲牧があったことから官牧の牧司をしていたと思われる。
この馬場で、合戦に役立つように百騎以上の馬を走らせ訓練した。
のちの相馬の野馬追いの始まりとなった。

高声寺岩井3478

伝説では、開山した性真がこの地を通りかかり眠くなってうたた寝をしたところ、将門が「自分に罪はない」という夢をみた。性真は将門を哀れに思い霊を慰めるため開山した。夜毎「ええ、おお」という気合が聞こえ寺号を「高声寺」とした。

島広山・石井営所岩井1603

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将門が関東を制覇した拠点である。
平良兼がここを急襲して大敗させたこともあった。
ここには将門の重臣、郎党たちの住居や、軍勢が集まった時の宿舎、馬繋場など必要だった。
今の上岩井から中根一帯に施設があったと思われる。
天慶3(940)年、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍により敗退、営所の建造物は焼き払われた。


石井の井戸 岩井1627


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石井営所あたりは古代から湧水が近くにあるので人が住み、奈良時代には石井郷といわれていた。
将門は王城の地を求めて見回っていつと喉がかわき水を探した。
どこからか翁があらわれ、大きな石の傍らに立ってその石を軽々と持ち上げ大地に投げつけた。
そこから清らかな水が湧き上がり、将門と従兵は喉を潤すことができた。
「どなたか」と尋ねると

「久方の光の末の景うつる 岩井を守る翁なりけり」

といって立ち去ってしまった。
将門はこの翁を祀り、この地を城にすることにした。水田に囲まれたのどかな場所である。


延命寺  岩井1111

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相馬氏の創建で東寺に属す。将門死後に祀られたものだが、ここの薬師如来像は将門の守り本尊といわれている。
縁起書によると行基作で高野山の霊木で刻まれた像と記されている。
将門の子孫の相馬氏が大切に守ってきた寺である。九曜紋がある.



国王神社 岩井948


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祭神は平将門である。将門最後の合戦の時三女は奥州恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼となった。将門死後33年目に郷里にもどりこの地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝して父将門像を刻んだ。
小祠をたてて安置し、将門大明神として祀った。社殿の彫刻も美しくつなぎ馬も見られる。
江戸期の将門の芝居につなぎ馬の紋所がでてくるがこの彫刻に由来している。
将門の武器は馬と鉄といわれる。乱が終わり、平和な時世に騎馬は不用と、馬をつなぎ置き再び合戦はありませんようにという願いがあるという。







弓田の不動尊 (慈光寺)
弓田388-2

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昔弓田は湯田といい、豊穣な土地という意味で早くから開けた場所だったと思われる。
寺伝によると行基の弟子が道場として開き不動明王が祀られていた。将門が岩井に営所を移したとき、岩井営所の鬼門除けとして信仰したと伝えられる。
門前から200メートルほど行ったところに弓田香取神社があり将門が参拝したといわれている。
奈良時代この二つの間に兵器倉庫、軍談所があり、将門をそこを利用したと思われる。


深井地蔵尊 沓掛2205
西仁連川のに沿ってあり、将門妻子の受難の地と伝えられる。
子飼いの渡しの合戦に敗れた将門は10日ほどして堀越の渡しに布陣するも脚気を患い、退却した。
妻子を舟にのせ、葦の間に隠し自分も山を背にした入江に隠れて見守った。
良兼も将門と将門の妻子を探したがみつからず帰途についた。
妻子はその様子をみて出てきたところ、残兵に見つかって芦津江のほとりで殺された。
場所は諸説あるが、このあたりではないかと坂東市は言っている。
地蔵尊の創建は古く将門妻子の供養の地蔵尊といわれている。



尾崎前山遺跡 八千代町尾崎字前山404-4.5


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9世紀の製鉄遺跡で谷津を望む台地にある。
斜面から下の水田にかけて鉄滓が散布していた。昭和53ねんから2年間発掘された。
斜面から製鉄炉3基、木炭や炉を築く粘土の材料置き場など確認された。
出土した土器から9世紀と判断され地形を利用した風を利用した堅型炉と考えられる。
遺物は八千代町歴史民俗資料館に展示、保管されている。
 詳しくは当ブログ「将門と鉄」をご覧ください。







仏性寺 (栗山観音) 八千代市栗山


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栗楢院常羽御厩(くるすいんいくはのみまや)は官牧であり、結城郡八千代町栗山地区仏性寺付近だと考えられている。「栗山観音」の名称の方がわかりやすい。
ほかにも大結牧(おおゆいまき)があり、大間木から尾崎あたりがではないかと考えられている。
現在も牧跡が残っているという。
「良兼は下総豊田郡にある栗楢院常羽御厩と付近の百姓の舎宅を焼き払った。真っ黒に焼け焦げた柱が立ち並ぶ廃墟となった。廃墟から立ち上る煙が空を覆う雲のように覆った。そして夜になると野営する良兼軍の火が点々と星のように見えるのみであった。
ここで見学終了。


今回、時間がなくまわりきれなかったコースの紹介


八千代町民俗資料館

薬師仏がある。将門を守る仏だという。


鎌輪館 下妻市鬼怒230


香取神社と碑がある二か所  将門は相馬御厨の下司を辞した後、父親から譲り受けた鎌輪で開拓を始めたとされる。現在の鬼怒川は鎌輪と別府の間を流れている。しかし、大正時代は鎌輪は別府と同じく鬼怒川の右岸にあったとされる。そうすると宗道と鎌輪の間を流れていたらしい。将門最初の本願の地。

羽鳥天神塚桃山中学南300メートル

茨城県桜川市真壁町羽鳥に、菅原道真の遺骨の一部が散骨された。

筑波山の西北に位置する羽鳥は服織(きぬおり)の宿といわれ養蚕がさかんなところだった。
ここには「羽鳥道」が今でも残り筑波山の登山道だった。
良兼はこの地に居を構えていた。近くに真壁の源護(舅)など縁者が住んでいたからか、領地の横芝(千葉)から離れていた。
大宰府に流された菅原道真は「我死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」という遺言により、三男景行が散骨した場所といわれる。
景行は常陸介になってこの地に赴任してきた。いったんは塚を築いたものの、永遠に祭祀を行うには土地が狭く、良兼の荘園内だったため、その3年後家臣と共に飯沼湖畔に居を移したとき、羽鳥塚も移し、大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう・茨城県常総市大生郷町1234)として祀った。大生郷の東2キロに満蔵(みてぐら)があるが、神に奉ずるという意味で天満宮に奉ずる食べ物が生産されたと思われる。
明治44年羽鳥の歌女神社の境内から石碑が見つかった。移転について書かれている。

常陸羽鳥菅原神社之移
  菅原三郎景行景兼茂景茂等相共移
  従(筑波・霊地)下総豊田郡大生郷
  常陸下総菅原神社
   為菅原道真郷之菩薩供養也
  常陸介菅原景行所建也
     菅原三郎景行五十四才也
     菅原兼茂四十七才也
     菅原景茂三十才也
  菅公墓地 移従羽鳥
  定菅原景行常陸羽鳥之霊地墳墓也
  延長七年二月二十五日
景行は大生郷に学問所を作り高度な教育をしたと伝わる。その学問所に将門の弟将平が通ったという。
谷和原にいた将平は水海道にある「将門並木」を通って4キロの道のりを大生郷に通った。
後に将門が常陸国府を占領し新皇を名乗ったとき、将門に諫言した。
「それ帝王の業は、智をもって競ふべきにあらず。また力をもって争ふべきにあらず。昔より今にいたるまで、天を経とし、地を緯とするの君、業を纂ぎ(集め)、基を承しるの王は、これもっとも蒼天の与ふるところなり。何ぞたしかに推し議らざる。恐らくは物の譏(そしり)、後代にあらん」将門記より
唐の「帝範」の中の言葉であるという。帝王として模範とすべきことが書かれている。
道真の皇室中心主義の学問をしていた将平ならではの言葉である。
景行がここにとどまること24年、多くの業績を残した。今大生郷の柏木に三郎天神として祀られている。
(新編将門地誌:赤城宗徳著)

巫女の宣託 大宝八幡神社  大宝駅東


大宝八幡神社の創建は大宝元年(701)、藤原時忠が宇佐八幡宮の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。時の支配者、歴代領主に崇敬され、天慶2年(939)には平将門が当社の巫女より新皇の位を授けられ、前九年合戦の折には源頼義が戦勝祈願し、念願成就すると社領を寄進し、文治5年(1189)には源頼朝が奥州合戦の折、戦勝祈願し鶴岡八幡宮の分霊を勧請した。  

永泉寺守谷町大字守谷甲1800


寺の縁起では永泉寺は将門の古跡であり、将門が天慶の乱に負けた折り自分に似せて作った土武者を安置し堂宇を建てて代々守ってきたことが記されている。
町の中心である守谷の駅から筑波方面に1KM程車で走り細い路地を通り林をぬけるとある。上記は「沼崎山畧縁起」に記されてあるもので、現在その全文は境内横に碑となって残っている。


西林寺 守谷町大字守谷
  石神神社と愛宕中のまん中あたりにある。将門を守り本尊としている。

19世紀住職であった義鳳が小林一茶と親睦があり、鶴老(かくろう)という俳名をもち、ここ守谷を訪れた時の俳句が境内脇に残っている。


参考:新編将門地誌・八千代町HP・坂東市HP・闇の日本史HP
by gannyan1953 | 2011-07-18 09:55 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

世田谷 おもいはせの路

歴史と素適なおつきあい2004・5・14(金)9:50
2016・9・17(土)9:45

写真は2016年に写したものです。


おもいはせの路

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九品仏浄真寺山門

おもいはせの路とは世田谷区が名付けた散歩道である。

九品仏~二子玉川  全長7、5km 

九品山浄真寺~九品仏駅~寮の坂~宇佐神社(八幡塚古墳)~伝乗寺~狐塚古墳~御岳山(みたけさん)古墳~等々力不動~等々力渓谷~野毛大塚古墳~六所神社~善養寺~稲荷古墳~五島美術館~富士見橋~法徳寺~行火(あんか)坂~二子玉川駅  



 おもいはせの路
 地図                   

世田谷区

東京都南西部にある区で、南西境に多摩川が流れ台地で起伏が多い。

区名の由来

1.伊勢太神宮神領であった時「伊勢田」と呼ばれ「勢田」になり勢田の郷の谷地だったから。
2.アイヌ語説  setaは犬の意もあり、犬を連れたアイヌ民族が住んだから。
seta-桜  kaya-高台の意もある。


世田谷区の歴史

松蔭神社、豪徳寺、世田谷城址、野毛大塚古墳、亀甲山古墳など名所旧跡が多く、歴史的に吉良氏と関係が深い。


吉良氏

上野国足利庄に発する足利義氏は三河国吉良庄に守護として入国。義氏には泰氏、長氏、義継の三子があり、泰氏は足利庄に残りその5代目が尊氏となる。
長氏は三河吉良庄の西条に館を持ち「西条吉良」を名乗り、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央が出ている。足利義継の5代が世田谷吉良氏の祖となる。


世田谷吉良氏の祖

義継は同じ吉良庄の東条に館と構え「東条吉良」と名乗った。4代目貞家の時建武政権室町幕府の下、奥州に移り関東廂番(ひさしばん)や奥州探題を勤め、その子冶家は陸奥管領の要職につき14世紀中ごろには陸奥、出羽の統治に任じている。その後鎌倉公方が奥州を統治しはじめ奥州からの撤退を余儀なくされ、世田谷に戻ったと思われる。冶家が上弦巻(かみつるまき・現世田谷区)の所領を鎌倉鶴岡八幡宮に寄進(1376)していることからその頃冶家は世田谷に館を構え鎌倉に出仕していたと思われる。
世田谷吉良氏は冶家を祖とし、8代2百数十年続いている。五代政忠は叔母のために世田谷城内に豪徳寺を建立。その子成高の時代は下克上の世となった。関東では古河公方と堀越(ほりごえ)公方の2大勢力に分かれ争った。このとき太田道灌を助け武功を高めたのが成高であった。長尾景春の反乱で太田道灌の江戸城を守備した。このころ吉良氏は名門であるということで、北条氏とは婚姻、養子など戦わずして和睦した。成高は8代の中でもっとも隆盛を極め相模の蒔田(まいた・横浜市南区)にも館をもった。文武両道の武将であった。


北条氏滅亡から江戸時代

天正18年氏朝のとき北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、北条傘下にあった吉良氏の城は明け渡された。家康が江戸入りすると世田谷の殆どは幕府直轄領となる。氏朝は千葉に逃れたが名家であったため家康によりその子頼久は家臣にとりあげられ上総国長柄郡寺崎村に領地を与えられた。その後明冶まで存続する。
世田谷は代官松風助右門の支配下に置かれ、喜多見、藤川氏などの旗本7人に給地された。寛永年間大幅に領主替えがあり井伊家の彦根藩領、旗本領、増上寺領になった。

明冶
品川県となり東京、神奈川と区域がたえず変わった。
日清戦争後土木事業の進歩によって多摩川の砂利供給のため鉄道が敷かれた。
明冶40年渋谷~玉川に開通、以降住宅地として変貌する。


世田谷区の花「鷺草」

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サギソウにまつわる話がある。戦国時代の大平出羽守の娘常盤が世田谷城主吉良頼康の側室となる。正室の他13人の側室がおりその中のひとりに常盤姫がいた。寵愛をうけ子をもうけたが、正室(高源院)の嫉妬から生んだ子は頼康の子ではないとの噂がたち姫は自害。遺書を飼っていたサギにもたせる。
このあとサギは途中矢で射抜かれてしまう。サギが落ちた場所に白鷺によく似た花が咲いた。その常盤姫は常盤弁天として祀られている。



ボロ市のはじまり


天正6年(1578)氏朝のころ北条氏政は世田谷新宿に楽市掟書を発した。
吉良氏の領地であったが矢倉沢往還の新たな宿を作るためであった。北条氏には軍事上必要な伝馬の確保があり宿の繁栄のために楽市を開いた。これが今に残るボロ市である。


奥沢

現在の奥沢6~8丁目のことをいう。
奥沢新田村は奥沢村の閑地を新開せし村にしてその地は本村の西の方にあり。
世田谷郷菅苅庄に属していたと土人は言い伝えているけれど世田谷郷の唱えは廃したればこの村のみ郷というは誤なり。あるいは千束郷に属せりというも地理的にもそうは思われない。
土性、水利等はすべて本村と同じでただ本村は水陸の田がまじっているが当村は皆畑なり。家数106軒、東西凡18町(約2キロ)南北凡10町(約1キロ)南は上沼部、等々力の2村に及び、西より北へはすべて等々力村に沿っているが北の端は少し衾村へ接している。東はもとより本村の地に続いているが少し下沼村に入っている。この村は近き世までも草莽の地であったが寛文2(1662)より新墾して1村となったため同9年検地があり租税の数が定められた。
その後元禄8(1695)年織田越前守が再度検地したという。

土性は本村と同じ野土にて五穀の生殖によろしからず。ことに水利不便なる地にて用水は僅かに清水の流れを引き、用うればややもすれば旱魃ありという。以上のことから九品仏のあたりは想像に絶する荒地であったことがわかる。
「風土記稿」より


九品山浄真寺 浄土宗   延宝6(1678)年建立

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浄真寺


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奥沢城土塁
寺を土塁が取り囲んでいる
天正18年(1590)
秀吉の小田原攻めでここも廃城となった
吉良氏は下総に逃れ大平氏は等々力に潜居した


世に奥沢の九品仏と称し人の知るところなり。九品山唯在念仏院と号す。浄土宗にて京都知恩院末なり。相伝によればこの地は世田谷城主吉良頼康の家臣大平出羽守の館跡なりしが荊棘荒蕪せし地となっていたのを寛文5(1665)年に里正の七左衛門が願いでたのでその頃の代官野村彦太夫が下知を下して寺地とした。珂碵(かせき)上人は越後国村上の泰叟(たいそう)寺に住していたが開山に迎えたいと懇請したので上人はついにおれて延宝6年この地にきて住職し、その後元禄7年十月七日示寂す。「新編武蔵風土記稿」
豊臣秀吉北条攻めのころ奥沢城があった。大平出羽守の居城であった。北側に当時の土塁跡が残る。



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仁王門


仁王門   寛政5(1793)年建立。
銅板葺楼門で「紫雲楼」と称し楼上に阿弥陀如来、二十五菩薩風雷神像が安置している。


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閻魔堂


鐘楼    宝永5(1708)建立。
梵鐘は世田谷深沢の谷岡又左衛門の寄進で作は神田鍛冶町河合兵部郷藤原周徳。9体の阿弥陀仏が中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)上品上生(じょうぼんじょうしょう)と最後は下品下生(げぼんげしょう)と左まわりに鋳出してあり九品仏を表示した一種の朝鮮鐘とみられる珍しい梵鐘である。鐘楼上部には十干十二支の動物が彫刻されている。



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本堂

本堂
釈迦如来像(江戸時代)を中心に右に善導大師(7世紀の唐僧)左に法然上人像、乾漆造(かんしつぞう・麻布に漆を重ねる)坷碩(けいか)上人立像が安置されている。



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三仏堂
中央が上品堂、向かって右が中品堂、左が下品堂と称しそれぞれ向かって右から中生、上生、下生の3体ずつ計9体の阿弥陀如来坐像があり、九品仏と称せられるわけである。本堂は西向きで現世の此岸を、三仏堂は東向きで浄土の彼岸を現している。


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愛育王の碑
アショカ王のことで古代インドで
仏教を保護した王様


おめんかぶり
二十五菩薩来迎会で3年ごとに行われ多数の人出で盛況を呈する。三仏堂の上品堂と本堂の間に二河白道(にかびゃくどう)に相当する板橋をかけ仏、菩薩25面を被った人々が付き添いに手をとられながら往復。来迎引接(いんじょう)を表現する練供養を行う。全国的に珍しい行事である。


宇佐神社(八幡塚古墳)
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源頼義が永承6年、尾山台に陣をしき勝利を誓い康平5(1063)に八幡社を建てた。源頼義は義家の父である。前九年の役で阿部貞任を滅ぼし陸奥を平定した。鶴岡八幡宮を創建。神社奥に5C中葉といわれる八幡塚古墳があり、墳頂に小石祠が4つある。
この辺りの首長の墓といわれ高さ4、5mの円墳である。
直刀、槍鉋、石製模造品、袴帯金具、土師器など出土している。


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宇佐神社



宇佐と八幡と源氏


現在、神社の数をランキングすると1位は稲荷社、2位八幡社、3位神明社である。2位の八幡社の総大社は豊前国宇佐神宮(大分県宇佐市)である。宇佐神宮は応神天皇の御神霊を祀っている。人間、天皇を祀ったはじめての神社である。司馬遼太郎の「この国のかたち」によると
八幡神は5C初頭朝鮮半島から渡来し宇佐にすみついた人々によって生まれた神であるという。東大寺の鬼門にある手向山神社は東大寺の守護神として宇佐神が鎮座している。仏教との習合に積極的で、仏教側から「八幡大菩薩」の尊称を賜った。平安時代になると平安京の裏鬼門に岩清水八幡宮が勧請される。清和源氏は清和天皇の第6皇子貞純親王を祖とする。貞純親王の孫多田(源)満仲から諸家に分かれ地方の実力者として成長していく。源氏と八幡とのかかわりが深くなるのは、後々に武家の棟梁となる満仲の三男源頼信一家で、その孫義家は岩清水八幡宮で元服する。ここから「八幡太郎義家」とよばれるようになり、源氏の氏神として祀られるようになる。


寮の坂(中世の軍用道路)


後伏見天皇の正和5(1316)と刻まれた板碑が発掘されたことで知られる。松高山伝乗寺は坂の東側台地に所在し、本道と並んで僧の学寮が建てられた。尼さんの寮だという。坂の名の由来である。坂の東の雙葉学園を抱く盆地は室町時代籠谷戸と呼ばれた入り江であった。奥沢城主大平出羽守は上総から運ばれた武器、兵器を籠谷戸の寮の坂あたりに陸揚げして、城へ運ばれたと言い伝えられる。江戸時代にはいると川崎泉沢寺(小杉十字路)と奥沢浄真寺の中間拠点として小山伝乗寺がこれにあたり寮の坂は軍用道路として兵馬の往来が激しかったそうである。


狐塚古墳 (5C後半)


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円墳であるが、四角く残された。公園になっている。

見晴らしがいい。


御岳古墳 (5C後半)見学不能。

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かつて御嶽(みたけ)神社があったところ。直径40m、高さ7mの円墳。大正6(1917)年に出土した七鈴鏡は都文化財。


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道路を渡ってみた
ただの森に見える




等々力渓谷

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世田谷区桜ヶ丘を源とし用賀、中町、野毛、等々力を流れる谷沢川により等々力2丁目から等々力1丁目に及ぶ800メートルを刻んだ渓谷のことをいう。
不動の滝が落下するあたりで武蔵野地帯の地層(ローム、浮石、シルト、礫、粘土の順)が見られる。環状8号線がまたぐ玉沢橋の川上付近からは貝類の化石が出土した。不動堂あたりは桜の名所である。


等々力不動流轟山明王院  満願寺別院  


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興教大師が開山。興教大師は高野山を再興し和歌山県の根来寺を開山した。本尊不動明王は役小角作といわれる。
興教大師は覚鑁の呼び名の方が有名かも・・・
役小角(えんのおづぬ)が大好きだったとか・・・私も大好きである

役小角は伊豆に流された時毎日富士登山をしたという。
それも空中飛行で・・・すごい!
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役小角


不動の滝

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不動の滝

滝修行にはこの水量では厳しいかも

断崖の地層の間から5mほどの滝壷が修験者の行場となった。今でも白衣の行者が水垢離をする姿をみることができる。「とどろき」はこの滝の音から地名が起こったと伝えられる。

等々力渓谷横穴群(7~8C)

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ひとつだけ残されており
あとは塞がれていた


荏原台古墳群のあと奈良時代にかけて横穴墓がつくられた。ここは野毛地区の有力農民の墓と思われる。人骨と耳環、土器などが副葬されている。
谷間の崖地に横穴が掘られ玄室と羨道で構成される。
泥岩の切石でふさがれた玄室の床には河原石が敷かれていた。


野毛大塚古墳 (5C前半・大和政権と対立した?!南武蔵有力豪族の墓)

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野毛大塚古墳


明冶30(1897)年石棺が発見された。人骨、多くの副葬品が出土。
大型の帆立貝式古墳で、復元されて一部を除き立ち入り自由となっている。
日本書紀によれば6C前半笠原直使主(おみ)は同族の小杵(おぎ・おき)と国造の地位を争い、なかなか決着がつかなかった。小杵は群馬の上毛野君小熊(かみつけぬのきみおぐま)に支援を求め、使主を挟み撃ちしようとした。驚いた使主は大和朝廷に援軍を求め小杵を倒す。お礼に大和朝廷に南武蔵の土地を屯倉として献上する。ここに大和朝廷の東国支配は大きく前進することになる。このあたりの古墳群(荏原台古墳群)は南武蔵豪族の墓といわれるが、小杵一族にかかわりのある墓かもしれない。


全長82m 直径66m、高さ11mの円墳に前方部がついており帆立貝式古墳では全国で一番大きい。
多くの出土品があり(29000点)東京国立博物館で保管されている



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頂上には埋まっていたものがわかるようにしてある

そのときの写真もあったらよかった・・・

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鉄の兜と鎧

世田谷区立郷土資料館にあるらしい

訪れたことがあるが、見たことも忘れた・・・
また行ってきます



― 怖い話 ―

明冶30(1897)大塚といわれたこの塚から、好奇心にかられた村の青年たちにより石棺が発見された。その後青年たちは血を吐いて亡くなったと伝えられる。たたりを怖れた青年は、盗掘した品を返そうとした所、塚を掘った穴からは血のようなものがべったりでておりその青年も後に亡くなった。事情を知った名主の手により穴は閉じられた。騒ぎが収まったころ、村人たちにより塚の頂上に鎮魂のため吾妻社を祀った。


六所神社
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元和年間(1615〜1623)にあった洪水で小さな祠が流れ着いた。
府中の方からというので府中にあった当時六所明神、現在大国魂神社のものだと
崇め、神社を創建した。
明治になって天祖、山際、日枝、北野神社を合祀、
新たに天照大神、大山都見命、大山咋命、菅原道真も加わった。

縄文時代の貝塚、住居が見つかっている。
近くには六所東貝塚もある。

境内に水神社があり、

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砂利運搬の碑があった



善養寺

江戸時代始めに深沢から移転された。
真言宗智山派で智積院の末寺である。
本堂は奈良の唐招提寺金堂を模した建物である。
いろいろなものが境内にあり、なかなか面白い。

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樹齢700〜800年で、
東京都の指定天然記念物になった。
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神居古潭の石
旭川近くにある
なんでここにあるのだろうか?

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多摩川のたま坊!
左下は亀なのだが、たま姫である

木曽路があるかと思えば四国八十八カ所のような道標もあり、
なかなか楽しい

住職さんが合掌のあいさつをしてくださり
さらに楽しくなってきた

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ハスが一輪

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きれい・きれい


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メタボ気味の狛犬

このあと羊に中国の武士のような石像がある
なぜかと問いたくなるが・・・

まさに石像ランドの寺!

楽しみましょう






稲荷古墳  私有地のため見学不能。

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五島美術館

日本、東洋の古美術を中心にした美術館で「源氏物語絵巻」が有名。東急の五島慶太氏のコレクション。

富士見橋
大井町線の上にかかる富士山がみえる橋

法徳寺

古河公方足利政氏の家臣白井基経の子重安(瀬田で農民になった)が1558年に開基した。
北条氏の家臣、長崎家が近くのゴルフ場あたりに瀬田城を築いた。


瀬田貝塚


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行火坂

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登るだけで体が熱くなることからつけられたという。
                    大山道の一つといわれ下って多摩川にでて、二子の渡しに至った。

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行火坂に標識があり法徳寺から下りる道の坂道が行火坂なのかと
思ったが、別名行徳寺坂といわれるので
前の写真の登りきったところに行徳寺があるので
この細い趣のある坂は
行火坂ではないと思われる


近くに住む方に聞いてみたがわからないという・・・
そんなもんか・・・


ここ何年かもしかしたら10年近く二子玉川の駅周辺を訪れることがなかった
むちゃくちゃ変貌していた


参考 futako.com  おもいはせの路@等々力渓谷、九品仏 ダダの季節―神をみた中也  野毛町会 多摩ジョギング道 大田区古墳ガイドブック お江戸ランブラーズ 世田谷玉川村名所案内 ウィキペディア
by gannyan1953 | 2011-07-10 16:34 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

㹨川散歩 アラハバキ 製鉄遺跡

歴史と素敵なおつきあい 2008・5・9(金)
中川歴史ウォーキング  2015・10・24(土)
 
㹨川(いたちがわ)流域歴史散歩

㹨川流域の散歩  地図                  
 

日時: 5月9日(金曜日) 9:50 昼食:外食(ファーストフード系)または、河原でお弁当

集合: 根岸線「港南台」駅改札口集合・改札はひとつです

アクセス:桜木町・関内(20分)のりかえも便利です。 桜木町:9:07・12・22・25(関内は2分後)

港南台駅~深田製鉄遺跡~上郷猿田遺跡と上郷深田製鉄遺跡の案内板~思金神社~光明寺(親鸞、松下禅尼ゆかり)~証菩提寺(佐奈田与一ゆかり)~昼食~(公田(くでん)町上﨟塚)~アラハバキ神~本郷台駅
      
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  「人面把手(とって)」公田町遺跡から発掘・神奈川県立歴史博物館蔵


栄区の歴史

栄区に人が住むようになったのは、縄文前期からで、上郷猿田遺跡では5000年前といわれる。
都筑区と違うことは、縄文海進のころ海抜20メートルくらいまでは海だったが、貝塚がみつからないことである。
きっと、がけ状で砂浜が少なかったためと思われる。

4500年前、縄文中期のもので公田遺跡から「人面把手(とって)」が発掘された。関東地方最大のもので、顔に入れ墨がみられる。

海の水がひき、弥生時代にはいると湿田、水田、畑がつくられ金属の農機具が使用されるようになる。
古墳時代(400年~800年)になり、栄区内では古墳はみつかっていないが、上﨟塚あたりがそうかもしれない。
7世紀から9世紀前半にかけての200年間上郷深田地区で操業されたと思われる製鉄遺跡が発見された。大陸製法の須恵器もあることから渡来系の鍛冶集団と思われる。

平安時代(800年~1200年)、尺度(さかど)郷から、山之内庄、本郷と呼ばれるようになった。
源家の山内首藤が荘園主だった。平安後期になると、大庭、梶原、長尾、飯田氏などが武士団を形成した。

イタチ川流域は鎌倉の出入り口になり、出(いで)立(たち)川といわれイタチに転化したと思われる。

鎌倉開府初期、東北への交通上の重要拠点だった。この地域に「いざ鎌倉へ」の中の道、下の道が通っている。
鍛冶ヶ谷は刀工集団による武器製造工場があったらしい。公田のアラハバキ神は「荒伯耆」と記され伯耆国の鍛冶であるが、伯耆鍛冶の祖は東北の舞(も)草(くさ)ともいわれている。領主山内首藤は、山内庄を主にしていたが、奥州、伯耆、備後などにも領地があり、移住させられた伯耆の鍛冶集団がアラハバキ神を祀ったのではないか。

兼好法師は鎌倉には二度訪れており、現在の金沢区にある庵に滞在していた。
「いかにわが たちにしひより ちりのきて かぜにねやを はらわざるらん」と詠んだといわれる。

室町時代、足利尊氏の弟直良がうけつぎ政所職の高師重(師直の父)が治めた。
小田原北条の時代になると、玉縄城、長尾台(大船)に砦を築造した。

江戸時代、大半は天領となったが、一部川越藩の領地となる。比較的安定し豊かな土地であった。

明治、本郷村となって関東大震災では家屋の8割が全半壊した。

昭和、戦前にこのあたりは海軍が買い上げ航空燃料の実験、製造がおこなわれた。
「秋水」というロケットエンジンの飛行機の燃料で過酸化水素の工場もあった。

戦後は大船PXの倉庫になったが、昭和42年全面返還され区役所、学校、市営住宅など建設された。
昭和48年に根岸線が開通し、栄区が誕生した。


深田製鉄遺跡
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道路の向こうの深い谷と大半が道路の下に埋まっているという

昭和61年の発掘調査により山手学院南側に大規模な古代製鉄跡があることがわかった。
時間の制約もあり、調査は途中で埋め戻してしまったが、ほとんどが舞岡上郷線の道路の下になった。
規模は鉄炉が14基、銅炉1基、砂鉄置場、住居などがあった。発掘された鉄滓(かなくそ)などが、横浜市歴史博物館に展示されている。
このあたりの堆積層には大量の砂鉄が含まれており、ここは砂鉄を精錬したところである。関東の精錬遺跡唯一の遺跡なので、とても残念である。静かな自然の谷戸が残っているが、瀬上の森周辺は、東急による開発が予定されており、手入れができず、荒れてきているが、環境保全の運動がおこっている。

上郷猿田遺跡
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手前の緑の野原が遺跡


昭和58年、現在の上郷高校のあるところに縄文から奈良時代の遺跡がみつかった。
高校は栄高校に変わった。
高校南に製鉄遺跡とともに案内板がある。

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横堰
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上郷猿田遺跡近くに江戸時代の土のトンネルがあり、
入り口付近に貝の化石がみられる。
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思金神社
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オモイカネ神とは古事記では八意思金(やごころおもいかね)大神で、智恵の神である。
天の岩戸、天孫降臨に活躍した。
天の岩戸では八百万の神にアマテラスを誘いだす知恵を授け、蘆(あし)原中国(はらなかつくに)平定では神の選定、天孫降臨ではニニギノミコトに随行したという。
昭和3年に白山神社の拝殿として創建された。

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触るといいらしい・・・
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光明寺
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梅沢山と号し京都西本願寺の末寺。浄土真宗本願寺派。
本尊は阿弥陀如来。
光明寺の由緒によると、
聖徳太子が寵愛した秦川勝がかつて今の城山橋北側にあった
「白山」あたりの梅の林で夜光を見て、
それが聖徳太子の16歳の像であった。

そこで光明寺の前身である梅沢山仙福寺を建てたという。

秦氏は渡来人で、京都太秦を本拠に相模にも進出し、秦野の地名を残している。

この渡来系の移住者がこの鼬川流域の横穴古墳群をつくったと思われる。
寺はのちに親鸞上人の学徳にうたれ浄土真宗に改宗した。

執権北条時頼の母、松下禅尼が隠居したと伝えられ、
障子を張り替えず手直しをして時頼に倹約の心を教えた逸話が残る。
富司純子が大河ドラマで障子の張り替えをしていたのが目に浮かぶ。

その話は兼好法師の「徒然草」にある。
鎌倉幕府滅亡の際火災にあい、現在地に移った。
小田原北条氏からは、浄土真宗は一揆が多かったため、
忌避されており、寺は弾圧された。



証菩提寺
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治承4年、石橋山で戦死した佐奈田与一を弔うために。源頼朝創建と伝えられる。
かつては広大な敷地だった。鎌倉の鬼門にあたり山内本郷を守るためといわれる。
平安期の定朝流による阿弥陀三尊像、は国の重文、初期の本尊と伝えられる阿弥陀如来像は運慶流とされ県の重文、成巻文書11通が市の指定文化財になっている。
佐奈田与一は石橋山の合戦では、源頼朝方で戦い、敵の俣野五郎景尚の上に組みつき、俣野の首を斬ろうとしたが、刀が血糊で抜けず、味方に加勢を求めたが、痰がのどにつまり声がでず、無念にも後ろから別の敵方に首を斬られてしまった。今、石橋山には佐奈田霊社があり、気管支炎、ぜんそくに効くといわれる飴が売られている。

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本堂裏手に岡崎義実の墓があるという。
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岡崎義実の墓
佐奈田与一の父で義朝のころから仕えた忠誠心のある源氏の家人だった。



皇女神社・上﨟塚

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皇女神社

桓武天皇の皇子葛原(かずらはら)親王の妃、照玉姫を葬ったところがあり、その前に玉之御前神社をたてたという伝説が伝えられる。皇女神社は照玉姫を祀っている。

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上﨟塚からの眺め

公田町の共同墓地にある小高い地を土地の人は上﨟塚という。

葛原親王は、桓武天皇の五子で、幼いころから俊秀で大蔵卿、式部卿など歴任した。
そして王子女に平姓を称することを許された。
照玉姫もいっしょに東国へ下ったが、照玉姫はここで亡くなってしまった。
姫の侍女、相模局、大和局は尼になりここで菩提を弔った。
藤沢には垂木御所、綾瀬には皇子塚など史跡がある。

もう一つのいわれに頼朝の娘大姫と木曾義仲の息子義高の悲恋にまつわる話。
人質として鎌倉に来た良高は大姫と結婚することになっていた。
ところが、木曽義仲が挙兵し、京都を制圧したことで、
頼朝と敵対し滅ぼされた。
このことで、義高は殺害される事になり、大姫は女装させて逃がした。
6歳か7歳でそんなことできるのかと疑ってしまうが。
結局見つけられて殺されるのだが、
そのときに一緒に逃げた上廊の墓だという説である。

このあたりは縄文、弥生の土師器が発掘され、古墳だったともいわれている。
この近くに桂台遺跡もあり、上臈塚、皇女神社近く遺跡から、
写真の人面把手がみつかった。蛇をかたどったもので、縄文信仰、製鉄との関係もある。
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この上﨟塚の階段を登る途中に防空壕跡があるらしい。(未確認)

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            横浜市道路局より「洗井沢川せせらぎ緑道」


アラハバキ神
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荒覇吐、荒脛巾などいろいろあるが、東北に見られる民俗信仰。王権にまつらわぬ民、朝廷により東北に追われながらも守られてきた神、遮光器土偶はアラハバキであるともいう、不明な神である。

蛇神説吉野裕子:ハバキのハハは蛇の古語である。直立する樹木は蛇に見たてられ祭の中枢であった。
       伊勢神宮の波波木神社は辰巳の方角で祭祀は巳の刻に行われる。蛇神である。
川崎真治:アラハバキはシュメール語でアラは男の獅子神、ハバキは蛇の地母神である。

塞(さい)の神説

谷川健一:宮城県多賀城跡近くにあるアラハバキ社は、蝦夷制圧のために築いた多賀城を防ぐ神といわれる。
「蝦夷をもって蝦夷を制す」アラハバキを、塞の神として配した。

製鉄神説

近江雅和:氷川神社にあるアラハバキは客人(まろうど)神として祀られている。摂社は、もともと祀られていたのが、政治、権力の影響で祭神をすりかえた場合が多いそうなので、氷川神社はもともとアラハバキを祀っていたといえるかもしれない。今の祭神はスサノオであるが、出雲と氷川の繋がりを考えると、そこに製鉄地の共通点がある。塞神の多賀城も製鉄地であった。
客人神は片目が多く、アラは鉄の古語、ハバキは、鉱物採集を目的とした修験道の山伏が使用した脛巾であり、のちに足の神様になっていった。
真弓常忠:塞の神のサイはサヒで鉄の神だから塞神と鉄神は同一である。

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消防署倉庫の左がアラハバキの神様に近づける道
草はぼうぼう、蛇でも出そうな雰囲気
そうか・・・蛇の神様だった・・・
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消防署の横にアラハバキ橋

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本郷台駅に向かうとイタチがいた
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ニャンコもいた




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川の中にイタチの親子がいた
とてもかわいい

参考:ウィキぺディア・栄区HP・瀬上の森パートナーシップ・葛原親王の史跡・ひろたりあん・rekisi.sansaku
    神奈備にようこそ・鉄器時代・横浜市歴史博物館HP・文化遺産HP

by gannyan1953 | 2011-07-10 15:49 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

お寺 神社のお参りの仕方

歴史と素適なおつきあい 2011・7・8 座学 おまけ


お寺のお参りの時に言う言葉

宗教    本尊         唱える言葉      本山

華厳経 :  盧舎那仏       なし         東大寺

法相宗  :  釈迦如来     南無釈迦牟尼仏     興福寺
                南無浄瑠璃浄土薬師如来  薬師寺
 
聖徳宗  : 釈迦如来       なし 自分の宗派でよい 法隆寺

北法相宗: 十一面観音菩薩    なし         音羽山清水寺

真言宗  : 大日如来       南無大師偏照金剛   高野山金剛峯寺

日蓮宗  : 釈迦牟尼仏      南無妙法蓮華経    身延山久遠寺

律宗  :  盧舎那仏       南無釈迦牟尼     東招提寺

臨済宗 :  釈迦牟尼仏     南無釈迦牟尼仏    東山建仁寺

曹洞宗 :  釈迦如来      南無釈迦牟尼仏   吉祥山永平寺

                           諸嶽山総持寺

天台宗 :  釈迦牟尼仏     南無阿弥陀仏    比叡山延暦寺

黄檗宗 :  釈迦如来      南無阿弥陀仏    黄檗山萬福寺

浄土宗 :  阿弥陀如来     南無阿弥陀仏    華頂山知恩院

浄土真宗(西):阿弥陀如来   南無阿弥陀仏     龍谷山本願寺

浄土真宗(東):阿弥陀如来   南無阿弥陀仏     真宗本廟東本願寺

時宗  :   阿弥陀如来    南無阿弥陀仏    藤沢山清淨光寺


山号のない寺:東大寺・薬師寺・興福寺・法隆寺・唐招提寺・東本願寺
わからない宗派は電話してお聞きしました。     (参考:それぞれのお寺のHP)


私は自分の宗派の「なむあみだぶつ」を
三回心の中で唱えています

いちいち宗派による言葉は出てこないから・・

神社のお参りの作法

①鳥居をくぐり、まん中は神様が通る道なので、どちらかの柱によって一礼する。

②手水で清める。左手から清め、右手、口をすすぐ時は手のひらに水をいれてすすぐ。
 ひしゃくを立てて柄を洗ってもとにもどす。

③お賽銭はもともとは、米や野菜だったことから正式には紙に包んで納める。
  投げてはいけない。

④鈴は邪気を祓うために鳴らす。

⑤二礼二拍手一礼して、通常は参拝できたことに感謝する。
  願をかける場合は氏名、住所も述べる。
(参考:HP神社お参りインフォメーション)

私はパンパンしたら今日来れてよかった
ありがとうございます
を心の中で唱えます



by gannyan1953 | 2011-07-08 22:37 | 神様の話 | Comments(0)

天鈿女命と猿田彦

歴史と素適なおつきあい 2011・7・8 座学資料

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天鈿女
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伊勢猿田彦神社にある佐瑠女神社

太陽を復活したシャーマンであり、後裔は女官の猿女君(さるめのきみ)である。
「ウズ」は「髻華」で神事の時、髪に挿す花や葉をいう。
猿は戯るー俳優(わざおぎ)の意である。

天岩屋での踊りにはじまる彼女の性的な踊りは、生命力を生き返らせ、冬至の太陽の活力が弱まった時に天皇の魂を合わせて太陽を復活させる宮廷儀礼と考えられる。

巫女の役目は、神と笑う(神を喜ばせる)―カミアソビータマフルー神と交信することにつながる。
後に踊りは神楽に発展する。

神武東征での猿田彦との折衝役の時も胸をあらわに色仕掛けで問いただし和合させる力を持っていた。
道案内をいっしょに行った縁で二人は結婚したと伝えられる。
大和郡山にある賣太(めた)神社は稗田阿礼・天鈿女命・猿田彦を祭神とする神社である。
稗田阿礼はこの二人の子孫で、猿女の同族といわれている。

猿女君は巫女なので女性である。そこで稗田阿礼も女性説が唱えられている。


猿田彦神
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伊勢猿田彦神社

天孫降臨を予知した伊勢の土着神といわれる。
ニニギが葦原中国に天降るとき天の八衢(やちまた)で待ち受ける異様な姿の神がいた。
「鼻長七咫(あた)、背長七尺」、咫は親指と中指を広げた長さである。

「口尻(くちわき)赤く燿(て)れり、眼八咫鏡の如く、赩然赤酸醤(てりかがやけることあかかがち)に似れりと。」
という。(赤酸醤―ほうずき) 

すさまじい姿である。

天鈿女命が寄ってきて素性を問われると「名は猿田彦、天津神の御子が天降りますと聞きつる故に、御前(みさき)に仕え奉らむとして参向(まいむか)え候ぞ」と答えた。
情報収集力と勝手に迎えにくる押しの強さをもっていたと思われる。
というのは日本書紀では天鈿女命が先導役として決まっていたらしい。
猿田彦は 「あなたが先にいかれますか?それとも私が先にいきますか?」と言っている。
そして皇孫の行く先を「皇孫は筑紫の日向の高千穂の峰においでになります」と言い切っている。

国津神の猿田彦がなぜ天津神の行く先を知っていたのか、それはアマテラスの分身といわれている理由である。先導を務めた後、伊勢に戻り、五十鈴川の川上まで天鈿女命が見送ったという。

その後、阿邪訶(あざか)松阪の海で比良夫貝に手を挟まれおぼれ死んだといわれる。
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夫婦岩にある貝の展示
猿田彦が殺された説明はないが、猿田彦を祀る二見輿玉神社に置いてある
なぜ猿田彦が領地の海で貝にはさまれて死んだのかわからない。
必要がなくなったので、抹殺されたのだろうか。

出口延佳(江戸前期の神道家)は「内宮の瑞籬の外、乾の方に石段ありて古より祠なく興玉(おきたま)とて崇め奉るは猿田彦なり。宇治の郷の地主なり。」という。

倭姫が天照大御神を巡幸し、伊勢にたどり着いた時土地を提供したのが宇治土公(うじのつちぎみ)という猿田彦の後裔である。

猿田彦の登場
出雲の国譲りを承諾したオオナムチはフナトノカミ(岐神)をフツヌシとタケミカヅチに仕えさせ、フナトノカミの先導で平定を進めたとある。この神が猿田彦である。

黄泉の国から逃れるイザナギが投げた杖が衝き立て船戸神で侵入を防ぐ神であるが、これも猿田彦である。

猿田彦は高天原から地上を照らすほど光り輝くので、太陽神、先導神、防塞神、佐太神(光輝く産屋で生まれた)、沖縄のサダル神も関連づけられている。

沖縄ではアザケーという貝が祀られている。

魔除けに使われるらしい。

シャコ貝のことをアジケーという。シャコ貝の口が噛み合った時の形が十字になることに由来し一般に十字に組み合わさったものをアザカといい、それに特別な呪力があると考えられた。訛ってアジケーとなった。

現在も沖縄本島や津堅島、伊計島などに見られる。(山里純一:沖縄の魔除けとまじないより)

天鈿女命は猿田彦が亡くなったあと、ことごとくの鰭(はた)の広物、鰭の狭物を追い求め「汝は天津神に仕え
奉らんや」と問いしみな「仕え奉らん」と答えた。
海鼠(なまこ)のみ申さざりき。「この口や答えぬ口」といいて紐小刀をもちてその口を裂きき・・・・」
それで今も海鼠の口は裂けているという。

これらの話から猿田彦神は天鈿女命に殺されたかもしれず、戦いに敗れた話だと思われる。


道祖神はイザナギ、イザナミの夫婦神ともいわれるが、ほとんどは猿田彦神と天鈿女命の夫婦神といわれている。なんだかせつない。

余談 
飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)や、愛知県の田縣神社(男根)大縣神社(女陰)の祭礼は
天狗=男
おかめ=女  となり、
ええーツと顔を赤らめるような性的な神事が行われる。

そして
猿田彦=天狗 
天鈿女命=おかめ   ともいわれるので、二人ともほんとに身近な神様なのである。


日本の神々・日本のまつろわぬ神々:鎌田東二  神々と天皇の間:鳥越憲三郎
古代の都と神々:榎村寛之  神社のルーツ:戸部民夫 鬼の日本史:沢史生
by gannyan1953 | 2011-07-08 21:39 | 神様の話 | Comments(0)

スサノオノミコト

歴史と素適なおつきあい 2011・7・8 座学資料



素戔鳴尊(日本書紀表記)

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善神でも悪神でもなく破天荒な神である。スサは荒ぶるからともいう。
八岐大蛇退治は産鉄民の征服といわれる。
救ったクシナダ姫と結婚し、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」は和歌の発祥であるという。
(道草話)  ブログ歴史と素適なおつきあいー京都王城守護

出雲の語源



1.島根の出雲の語源は稜威母といい、イザナギからきた地名であるという。

2.出雲を平定したスサノオの喜びの歌 「八雲たつ 出雲八重垣 妻篭みに 八重垣作る その八重垣を」というスサノオノミコトが詠んだ歌からが語源で最初の和歌といわれている。

3.雲はあまりいい意味では使われない語といわれる。例をあげると
「雲たちわたり」といって雲がわき起こる意味で、我が子に危機が迫っていることを教えた神武の妻ホトタタライスズヒメの歌や、柿本人麻呂の「痛足(あなし)川 川波立ちぬ巻向の 斎槻(ゆづき)が岳に 雲居立てるらし」の雲居は身の危険を詠ったという。柿本人麻呂は刑死あるいは災害死ともいわれているが謎に包まれた死をとげている。
雲を蜘蛛と読みかえてみると、土蜘蛛と考えられ王権にさからった民のことをいう。
「土蜘蛛が一斉蜂起した(八雲たつ)幾重にも取り囲め。妻は手篭め(妻篭め)にせよ。蜘蛛の血を絶やせ。逃亡できぬよう幾重にも垣を作れ」(八は数が多いこと)と解釈される。

出雲はどこにあったのか?

* 相撲の発祥は桜井の穴師である。ここで当麻蹶早(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)が闘った。
当麻は二上山麓、野見は出雲の住人である。記紀に、急いで即日に当麻の対戦相手の野見宿禰を出雲に呼びに行ったとあるが島根県は遠い。大和の出雲と考えられる。
*桜井の大神神社近くに出雲がある。出雲大社の祭神オオクニヌシと大神神社の祭神オオモノヌシ(オオナムチ)は同一神であるといわれる。出雲人形がある。(埴輪の土師部)

* 神亀3年(726)の戸籍計帳に山背国愛宕郡出雲郷・雲上里、雲下里から出雲臣が
25人逃亡とある。うち半数が女性である。(スサノオの歌から女性の逃亡が多いとも考えられる)連年逃亡者をだす住み心地の悪い場所であったのか。
「大平記」に出雲路河原とある。出雲郷は河原だったのである。加茂川の氾濫で水に悩まされた土地で、やっと江戸中期に堤防が造られた土地で安心して住めるようになったのは幕末である。
 
ここに幸神社があるが出雲路の道祖神といわれるわけは?


「出雲路とは出雲郷をいう。案ずるに延喜式・出雲井上神社あり。又出雲寺あり。郷名はこの社名にちなむ。しかして盛衰記に賀茂の原西、一条北辺におはする道祖神あるを思うに出雲神社の通路なり。出雲御霊の神の荒びを中途に塞ぐ意よりでたるか。」地名辞典より

以上のことで、出雲路にはまつろわぬ(奉る=まつるの反対語)人々が閉じ込められ暮らしていたことが感じられる。古代、別所といわれた場所ではないか。島根県の出雲ではなく桜井の出雲、そして移住させられたと思われる京都の出雲、これが記紀のいう出雲なのではないか!


古事記にある国譲り神話は温和に話し合ったものではなく、大きな国家であった出雲を大和政権が滅ぼし、祟るといわれたオオモノヌシを三輪山に祀り、オオクニヌシは出雲大社に拝殿方向に向かされずそっぽを向いた形で祀られている。その奥にはもっと淋しく素鵞社にスサノオが祀られている。オオクニヌシはスサノオの息子、あるいは六世あとともいわれる。もとはスサノオが産鉄にかかわり祟り神として存在したことから始まる。

八坂、素鵞(そが)、須賀(すか)、牛頭(ごず)、祇園、みなスサノオのことである。ソガ、スカが地名にある場合タタラと関係する地名である。産鉄民、焼き物をする土部などは古代では差別された民である。民話にでてくる鬼は製鉄民であることが多い。
参考文献・「鬼の日本史」沢史生・「神々の流竄(るざん)」梅原猛

壇君神話―朝鮮建国神話の壇君と同一であるという説が対馬にあるという。朝鮮に渡るときの地を飛前(とびさき)と名付けたという。黄泉の国に向かうことから、道教の神である泰山府君・閻魔説もある。泰山府君は中国泰山を本拠とし、人の生死、禍福を司る神である。安倍清明が泰山府君を含む冥道十二神を勧請し、祈祷した。


新羅明神―しんらみょうじんーソシモリーソウル(金達寿説)のことでソは牛、モリは頭で牛頭山。日本書紀に曽尸茂梨に天降って出雲の鳥上峯に来たとあることから新羅の神とされる。(園城寺の新羅明神)
ソシモリは別に高いてっぺんという意味もあるそうだが。実際に牛頭山があったといわれる場所は
韓国慶尚北道高霊という地名で、伽耶山である。伽耶といえば古代の鉄の産地である。

ここから日本は鉄を輸入していた。スサノオが産鉄の神といわれる所以である。
そしてスサノオは子供の五十猛命(イソタケルノミコト)と樹木の種を持ち帰り日本の国を緑多き国にした。五十猛命は近隣の杉山神社の祭神である。



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牛頭天王―武搭の神が嫁取りに南海に訪れた時、日がくれてしまった。そこに蘇民将来が二人住んでいた。兄は貧しく弟は富んでいた。武搭の神が宿を求めたところ、弟は貸さなかったが、兄はもてなしてくれた。年を経て武搭の神が八柱の子を連れて兄を再訪し、子供がいるかと尋ねた。
女の子がいると言うと、茅ノ輪を腰につけておくように言われた。その夜に兄と娘を除いて悉く滅ぼしてしまった。我はスサノオなり。疫病がやってきた時蘇民将来の子孫だといい、腰に茅ノ輪をつけておくと疫病が退散すると告げた。神仏習合により、牛頭天王は祇園精舎の神であるので、京都の祇園社に祀られた。今の八坂神社である。

鎌倉時代に陰陽師によるものか、奈良時代に賀茂氏によるものか、牛頭天王は天道神(吉凶方位を支配する神)と同一とされ子供は方位神とされた。敵である弟の巨旦将来はこの方角を侵せば7人の死者がでるという金神七殺の方位神とされる。天道神とは対馬で多く信仰されており「おてんとさま」―太陽信仰である。中国の娘媽神女(にゃんまーしんめ)と同一され中華街の媽祖廟(まーそびょう)に天上媽祖として祀られている。
元旦の鏡餅は巨旦の骨肉、お雛様の草餅は皮膚、端午の節句の粽は髪、七夕の素麺は筋、重陽(菊の節句九月九日)の菊神酒は血液とされた。五節句は巨旦の死体と結び付けられたのである。明治になり迷信として遠ざけられた。

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信濃国分寺の資料によると、ソミン、コタンもタクラマカン砂漠のソミヤ城主とコータン国(ホータン国で絹をはじめて生産した国である)のことで、国家内の権力闘争ではなかったかという。ソミヤはゴーズ(牛頭天王)を頼ってコタンを殺した。恨みをもって死んだ巨旦は将門のように復活するのではと、凶神である金神とされ牛頭天王に裂かれて死ぬ。楽しんできた節句は巨旦の血祭りだった。黒石寺の蘇民祭は古来からの行事だが、裸のポスターを貼る、貼らないで揉めていたことがある


日本の神々・日本のまつろわぬ神々:鎌田東二  神々と天皇の間:鳥越憲三郎
古代の都と神々:榎村寛之  神社のルーツ:戸部民夫 鬼の日本史:沢史生
by gannyan1953 | 2011-07-08 21:29 | 神様の話 | Comments(0)

日本神話

  歴史と素適なおつきあい  20011・7・8資料  



  ささっと日本神話    
     

天地開闢  てんちかいびゃく  

天地が分かれ、大地が漂い、葦が芽をだすように別天神の神たちが現れ、イザナギ・イザナミが生まれた。

国生み    
イザナギ・イザナミは天沼矛(あめのぬぼこ)をさしおろした島で結婚した。
最初に水(ひ)蛭子(るこ)が生まれ葦舟にのせて流した。
よくない子が生まれたと神に相談しイザナミは多くの神を生み、
火之迦(ひのか)具土(ぐつちの)神(かみ)を生んだ時女陰(ほと)を焼かれて亡くなった。

カグツチは父に十(と)拳(つか)剣(のつるぎ)で斬られた。
イザナミを葬ったのちイザナギはどうしてもイザナミに会いたくなり黄泉の国に行き面会を求める。
黄泉の国の食べ物を口にしてしまったイザナミは黄泉(よもつ)神(かみ)と相談するので、私の姿をみないで欲しいという。
ところが待ちきれなくなったイザナギは妻の姿を覗いてしまう。
妻の体には、蛆がわき雷神(いかづちのかみ)が蠢いている。
驚いたイザナギは逃げるが妻に追いかけられて黄泉坂に大岩を置き、妻と岩をはさんで向き合った。
イザナミはこんな恥ずかしい目にあわされたら、地上の人間を1000人殺します。
対してイザナギは1500人の産屋を建てると応えた。


禊(みそぎ)  

黄泉国の穢れを祓うためイザナギは禊払いをした。
顔、体を洗うと様々な神が現れ、最後に左目から天照大御神、
右目から月読(つくよみの)尊、鼻から素戔鳴(すさのおの)尊(みこと)が生まれ尊い子が生まれたと喜び、
アマテラスに高天原、ツクヨミに夜の世界、スサノオに海原を与えた。

しかしスサノオは大泣きして母のいる黄泉に行きたいと叫ぶ。
怒ったイザナギはスサノオを地上から追放した。


天岩屋開き  

スサノオは地上を去る前に姉のアマテラスに挨拶に行くのだがどんどん力強く進むので震動を起こした。
姉は高天原を奪われると思い武装した。
スサノオは邪心がないあかしに宇(う)気比(けい)(吉凶占い)をして証明しようとする。
アマテラスは男神を、スサノオは宗像三女神である
多紀理毘売(たぎりひめ)命、
市寸島比売(いちきしまひめ)命、
多岐都比売(たきつひめ)命を生んだ。

これにより清い女の子を生んだスサノオの方が心が清らかだとされた。
勢いづいたスサノオは大暴れして田を壊し、馬の皮をはぎ、服屋(はたや)に落とし
織女は恐怖とともに馬の下敷きになり、殺してしまう。
呆れたアマテラスは天岩屋に籠もり、地上は闇となり大騒ぎになった。
この時思金神が考えた、祭祀を行う。
賢(さか)木(き)(榊)に珠と鏡、木綿と麻布を取り付けたものを、
太(ふと)玉(だまの)命(みこと)が捧げる。
天児屋(あまのこやねの)命(みこと)が祝詞(のりと)を奏上し、
天鈿女(あまのうずめの)命(みこと)が舞い、神懸かりして胸元あらわに神々を笑わせる。

なぜ楽しんでいるのか訝しんだアマテラスが覗きだしたとき天手(あまのた)力男(ぢからおの)神(かみ)が外に引き出した。

神々はスサノオの手足の爪を剥ぎ髭を抜いて追放した。

八(や)岐(またの)大蛇(おろち)退治  

スサノオは泣いている老夫婦と娘の櫛名田比売(くしなだひめ)と出会う。
娘が大蛇に捧げられると聞き、娘を助けることにした。
大蛇に酒を飲ませ眠ったところを十(と)拳(つかの)剣(つるぎ)(天之(あめの)尾羽(おは)張(ばり))で斬った。
尾を斬るとき、刀があたり、よくみると草薙剣があった。これをアマテラスに献上した。


国造り  

スサノオとクシナダヒメが結婚して大国主神が生まれた。少名毘古那(すくなひこなの)神(かみ)とともに国造りに励む。


国譲り  


アマテラスは地上には邪神が多いので別の神に平定させることにしたが、なかなかうまくいかない。
そこで、武(たけ)甕(みか)槌(づちの)神(かみ)と天(あまの)鳥(とり)船(ふね)神を遣わし、
国譲りを迫ると大国主神は長男の事代(ことしろ)主(ぬし)神に返事をさせるという。
事代(ことしろ)主(ぬし)神は、地上をアマテラスの御子に譲ると従った。
が、次男の建(たけ)御名方(みなかたの)神(かみ)は抵抗し、科野の諏訪湖まで追いつめられ服従した。

大国主神は壮大な社殿を建てて隠遁した。                                                     


天孫降臨  

アマテラスの孫にあたる邇邇(にに)芸(ぎの)命(みこと)が降臨した時、正体不明の神が現れた。
アメノウヅメが問いただしたところ、猿田彦(さるたひこの)神(かみ)だという。
御子を先導するためにやってきたというので、天津神とともに筑紫の日向(ひむか)の高千穂に降臨した。

大山津見神の宇気比  

降臨したニニギは木花開耶姫(このはのさくやひめの)神(かみ)に結婚の申し込みをするが、
父の大山津見は姉の磐長比売とともにもらって欲しいという。
磐長比売は醜かったので返してしまう。
磐のように常に変わらずという役目をもっていた比売だったが、
返してしまったので御子の命は人間同様短い命となった。

コノハナサクヤは一夜にして子を孕んだので、ニニギは疑いをもち無事生まれれば
天津神の子であるだろうという。
コノハノサクヤは疑いをはらすため産屋の戸を塞いで火をつけて出産、
火(ほ)照(でり)命、火須勢(ほすせ)理(り)命、火(ほ)遠理(おり)命の三柱が生まれた。


海幸彦と 山幸彦  

兄のホデリは海幸彦(海)といい漁を、弟のホオリは山幸彦(山)といい、猟をして生活した。
あるときお互いの道具を交換して漁。
猟をしてみたがうまくいかず、山幸彦は兄の釣り針までなくしてしまった。
兄は許してくれず、海辺で泣いているところ、塩椎(しおつち)神が海神の宮殿につれていった。
3年遊び戻ってくるとき針のことを思い出し海神に相談すると、鯛の喉につきささっていた針を発見。
海神の娘を連れて戻った山幸彦は許してくれなかった兄を懲らしめ娘と結婚した。
娘は豊玉比売(生まれた姿は鮫・わに)といい、姿をみられたくないので、産屋をたてたところ、
出産には間に合わず屋根がまだ葺き終えていなかった。
それで生まれた子は宇葺(うが)草葺不合(やふきあえず)命というが、
山幸彦は出産をみたくなりこっそり産屋を覗くと妻の姿は鮫になっており驚いた。
恥じた豊玉比売は海に帰り養育者として自分の妹を遣わした。
のちウガヤフキアエズは自分の養育者、玉依毘売と結婚する。


神武東征  

ウガヤフキアエズの子神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)古(こ)命は、日向から東に向かい、
熊野に入ると一行は気を失ってしまう。この時、タケミカヅチが天下平定したときの刀(布津御魂)が、
降りてきたのでもらいうけ、熊野の悪神を討った。
天から遣わされた八咫(やた)烏(がらす)の案内で進軍し,土着の那賀須泥毘(ながすねびこ)古(こ)を討った。
ナガスネヒコは先にやってきた天津神の邇芸速(にぎはや)日(ひ)命に仕えていたので、
天津神がニニギとニギハヤヒの二人いるのかと訝しんで、降伏しなかった。
ナガスネヒコの妻はニギハヤヒの妹であった。ナガスネヒコは東北に逃れアラハバキになったという説もある。
カムヤマトイワレビコは畝傍の橿原宮で即位し、初代神武天皇となる。

日本の神々・日本のまつろわぬ神々:鎌田東二 
by gannyan1953 | 2011-07-08 20:10 | 神様の話 | Comments(0)

最近脚光を浴びている神様の話

歴史と素適なおつきあい 2011・7・8(金)

最近脚光を浴びている日本の神様の話
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太古の昔から日本には八百万の神といわれ多くの神様が存在する。パワースポットブームで昔から静寂な聖域である神社が多くの若い人々で賑わう。それでも神社のもつ神々しさが変わらず存在し、引き締まった空間を作り出している。記紀神話の神々、民間信仰の神、御霊信仰の神、私たちが訪れる神々についての話である。

 








神の尊称
神の名には、~神、命、尊、大神、大御神、明神、権現などの称号がある。
命ははじめ神だった名が天津神からの命を受けることで、御言(みこと)を受けた神であるという意味になる。
尊は日本書紀に多く使われる称号である。
大神は神より、より称えられた神として働きをなしていくと大御神となる。ただし天照大御神のみ初めから大御神である。
明神は霊験の著しい神で古くは名神であり、吉田神道で用いられた。明神を祀る神社は国幣大社か官幣大社である。
権現は平安時代に神は仏が仮に姿を表したものという本地垂迹説が展開されその姿を権現という。
神社の格付けは、天皇や皇室祖先神を祭神とする神社を神宮という。大社は戦前に出雲、熊野だけだったが、戦後呼称が自由になって大社がふえた。天津神、国津神の中で古い神を祀る神社、各地の代表的な神社を大社という。







 神を祀るということ


古代から神は人の住む世俗的な世界ではなく聖域とされる場所にいると考える。
神に身近なところまできていただく祭りでは、神が降りられる神蘺(ひもろぎ)をしつらえ或いは神が落ち着かれる磐座(いわくら)を見立てる。
神が降りられたとされると、様々な食物、酒などを捧げ歌や踊りを披露する。
これまでの安寧を感謝し神をもてなし、祭りが終われば元の世界に戻っていただく。
人々は祭りを通して神にふれ、明日を生きる力をいただく。
有名なダンジリは地車と書くが、山車のことである。その中心に突き立てる飾りの標山(しめやま)=出しが神を降臨させる依代である。

現在の神社のように、いつごろから社殿ができたかというと定かではない。
社は屋代で祭祀施設のことである。
今でも社のない神社は存在している(大神神社)。

聖域には神奈備山を有しているものが多い。
聖域と人々との区分けが鳥居、注連縄などである。
これによって穢れから守られる。

注連縄のしめは占めで縄が張られたところ、神が支配するという意味になる。

鳥居は10世紀に文献に見られ、古代での実態は不明である。
鳥居は神が降臨する場所、鳥を神の使いとみなし、山幸彦が海の国を訪問するときに木を目標物とする話がある。
鳥居は大きく分けるとまっすぐな形の神明系、仏教色の強いそりのある形の明神系である。

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宗我神社 神明系鳥居
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明治神宮 明神系鳥居

天津神


高天原に由来する神で瓊瓊杵尊の子孫とされる。天皇家と深い関わりがある神である。

別天神ー天乃御中主神(あまのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすひのかみ)・神産巣日神(かみむすひのかみ)・宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)・天乃常立神(あまのとこたちのかみ)

伊奘諾尊(いざなぎのみこと)
伊奘冉尊(いざなみのみこと)
天照大御神
月読尊(つくよみのみこと)
素戔鳴尊(すさのおのみこと)
天児屋命(あまのこやねのみこと)
太玉命(ふとだまのみこと)
天鈿女命(あまのうずめのみこと)
武甕槌神(たけみかづちのかみ)
経津主神ふつぬしのかみ)
賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
住吉三神(底筒男(そこつつのお)、中筒男(なかつつのお)、表筒男(うわつつのお))
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)ほか


 国津神

天孫に地上の統治を譲った先住の神である。

大国主命(おおくにぬしのみこと)
少彦名命(すくなびこなのみこと)
事代主神(ことしろぬしかみ)
建御名方(たけみなかたの)神(かみ)
大物主(おおものぬしの)神(かみ)
大山祇神(おおやまつみのかみ)
大山咋神(おおやまくいのかみ)
宇迦(御魂神(うかのみたまのかみ)
猿田彦神(さるたひこのかみ)
木花開耶姫神(このはのさくやひめのかみ)
塩椎神(しおつちのかみ)
豊玉姫(とよたまひめ)
玉依姫(たまよりひめ)ほか。



日本の神々・日本のまつろわぬ神々:鎌田東二 
by gannyan1953 | 2011-07-08 19:52 | 神様の話 | Comments(0)



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