歴史と素適なおつきあい

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増上寺の寺領

歴史と素適なおつきあい 番外編    2011・8・27

東京都歴史散歩

増上寺の寺領

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増上寺は、徳川家の菩提寺で、有名人の葬式で知られる。芝公園にある。

平安時代空海の弟子宗叡が千代田区紀尾井町付近に創建。当時は真言宗で、光明寺と称した。
室町時代1358年千葉氏、佐竹氏庇護のもと建物を再建して浄土宗に改め増上寺と号した。以後江戸の浄土宗寺の由緒ある寺としてその学問所となった。
天正18年(1590)、江戸城にはいった家康は増上寺を菩提寺にして現在の芝公園に移した。
1608年に朝廷の勅願所となり、幕府の保護も受け、1610年に家康から1000石を与えられた。
この時の寺領は、都筑区の池辺村、橘樹郡の師岡村、豊島郡の巣鴨村、荏原郡の中里村の四ケ村だった。
関東浄土宗の総本山となり。1650年代には120余りの建物が並び、3千名以上の学僧がいた。

勅願所とは天皇の発願によって国家と皇室の安泰を祈るために建立された寺をいう。
最初の勅願所は聖徳太子が創建した大安寺とされ、薬師寺、東大寺、延暦寺、大覚寺、仁和寺がある。
明治になって廃止された。

徳川家菩提寺なので、将軍の御霊屋が建てられている。二代将軍秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂とあわせて六人の御霊屋がつくられた。
将軍以外に夫人、側室も祀られている。

増上寺の寺領は二代秀忠のとき五千石になっており、荏原郡九ケ村、都筑郡七ケ村、橘樹郡四ケ村、豊島郡一ケ村の二十一ケ村となった。
享保三年(1718)には一万五四〇石になった。
橘樹郡二十四ケ村、荏原郡十三ケ村、都筑郡七ケ村、豊島郡一ケ村の四十五ケ村であった。
多くは多摩川流域で、池辺、師岡、荏田、東方、茅ヶ崎、川和、王禅寺、塚越、鹿嶋田、下平間、市坪、小倉、上末吉、小杉、宿河原などである。
村の全部だったり村の一部だったりする。


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秀忠・崇源院の位牌


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満願寺  横浜市青葉区あざみ野4-27-6


石川村、王禅寺村は秀忠夫人お江の御化粧料地だったが、秀忠死去とともに増上寺の御霊屋領となった。お化粧料とは夫人の小遣いを意味する。
各御霊屋の維持費を賄うための寺領は、幕府直轄でもなく旗本領、大名領でもなかった。

元禄時代には増上寺のなかに輪番所が設けられ輪番の寺僧と役人が寺領から御霊屋料の出納や村へのお触れ、領内の管理、訴訟の対応、村役人の任免を担当した。

寺領の農民は寺領特有の雑税の負担をするが、助郷役、鷹狩り人足、国役金の負担は免除された。
年貢高も低く定められ年貢米を運搬する人足、境内草刈り人足、正月、盆の御用を勤める増上寺宿坊の泊まり人足、増上寺周辺で火事があったときの人足など、人、馬を提供しなければならなかった。

金納化されたものが、年貢米を運ぶ船頭の給金、寺領の村々に通達を回す人足の給金、境内掃除に使う箒の代金などである。

正月の門松、施餓鬼の竹も現物で納めた。この門松の上納をめぐって石川村と王禅寺で争いが起きている。

寺領の農民は最初は幕府への帰属意識が天領の農民以上に強かったが、近世後期にはいると、御霊屋離れが生じてきた。
背景に増上寺の役体系の変化、村の階級分解、一番に増上寺を崇める意識の低下があった。
幕府の力が弱まり飢饉、農村の荒廃、富裕層の出現もあって没落農民が増えた。これが、不穏勢力となって関東を取り締まる八州めぐりが設けられた。

そんな農村社会の変化が増上寺寺領の支配も変化した。
寺領の村々はいろいろな請願を行うようになり、おおむね成功したらしい。

寛政四年(1792)王禅寺村では諸役負担に反対し村方騒動を起こしている。要求は認められている。

文化二年(1805)王禅寺村の名主は御霊屋領二十五ケ村の肝入名主になり、諸役の免除活動の中心になった。そのため、請願の歴史、伝えられてきた事由の考証、守護不入(領主が租税を徴収できない)、各将軍の来歴、鷹狩りをする場所、火付盗賊改め(犯罪の取り締まり)、上知(土地をお上に返上すること)などの学習に努めた。

文政十一年(1828)石川村で焼けた増上寺のための冥加金で村方騒動が起きた。

文政十二年(1829)先の王禅寺名主により、増上寺独自の組合結成が認められた。
組合村とは、領主権限を越えた治安維持を展開するため組合を設定しようとする幕府の政策だった。
これは助郷割合、年貢徴収などの組合だった。
これに断固反対し増上寺独自の組合を主張した。増上寺にとっても村々にとっても広い連帯と免除特権を守り抜く組合であった。               
増上寺上納御門松之一件(青葉区古文書之会編)
by gannyan1953 | 2011-08-27 17:55 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

中原街道 丸子の渡しから小杉御殿へ

RSO歴史と素適なおつきあい            2007・10・12
  


「中原街道」丸子の渡しから小杉御殿へ
                                  


集合場所:東急東横線「多摩川駅」改札口 
 
多摩川駅~多摩川台公園・古墳展示室~丸子橋~長屋門~石橋醤油店~小杉陣屋跡~西明寺~カギ道~小杉駅供養塔~庚申様~小杉十字路~ニヶ領用水~泉沢寺~街道地蔵~武蔵中原駅


多摩川台公園

川岸の丘陵からは多摩川の流れ、富士、丹沢、箱根を一望できる。そうした地は古代より好まれ
豪族の墓である古墳が築かれた。ここには4世紀から7世紀に」造られた古墳が10基点在し、亀甲山古墳、北側に宝来山古墳、その間にある8基の古墳は多摩川台古墳群といわれている。公園には古墳展示室が併設されている。

武蔵国造の乱 日本書記「安閑記」より

武蔵国では、笠原使主(かさはらのおみ)とその同族小杵(おき)が国造(くにのみやつこ)(国を治める豪族)の地位をめぐって争っており、年を経ても決めがたい状態であった。小杵の性格は、けわしく逆らうことがあり、心は高慢で素直さがなかった。そしてひそかに上毛野(かみつけぬの)君(きみ)小熊(おぐま)に援助を求め、使主を殺そうとした。このことを知った使主は、逃げて京へいけり、そのありさまを訴えでた。朝廷は裁断を下し、使主を国造とし小杵を誅した。国造使主はかしこまり喜んで

横停 (よこぬ)  ―多摩横山と埼玉県横美郡の2説がある

橘花 (たちばな) ―川崎市横浜市東北部 

多氷 (たま)   ―多摩

倉樔 (くらき)  ―横浜市南部


の四ヶ所の屯倉を献上した。                

古代の武蔵国

小杵(おき)の地―多摩川の中流域から下流域、鶴見川下流付近 
     笠原直小杵は使主のいとこである。出身は埼玉県鴻巣市笠原 
     野毛古墳は小杵の同族か、本人の墓ともいわれている。
    
使主(おみ)の地―埼玉県鴻巣市笠原  
   13代成務天皇のときその子、兄(え)多毛比(たもひ)命(みこと)を東国に遣わし夭邪志(むさしの)国造(く   にのみやつこ)とした。
   氷川神社の祖である。
   兄多毛比命から7代めが笠原直使主(かさはらのあたいおみ)である。
   
小熊(おくま)の地―群馬県太田市渡良瀬川流域
     10代崇神天皇の子、豊城入彦命を東国に派遣され、上野総社神社に祖を祀った。
     小熊はその末裔で、安閑9年に蒼海明神という称号を上野総社神社に祀った。


多摩川に沿って古墳が造られたのが4~6世紀で、ここ亀甲山(かめのこやま)古墳(こふん)、蓬莱山古墳から世田谷の野毛古墳(おもいはせのみちで見学)、の4キロほどの間に50もの古墳がある。その上流にいくと狛江など古墳が続くが。6世紀には大きな古墳は造られなくなる。
このあと、笠原使主の本拠地につぎつぎ古墳が造られるようになるが、それがさきたま古墳群である。                   
この古墳の流れからは5世紀まで多摩の小杵が勢力を持っていたが、武蔵国造の乱(安閑元年534年)後、勢力が使主に移ったことがよくわかる。   

小杵が力を借りた小熊の地、上毛野(かみつけぬ)の国は群馬県太田市である
。ここにある太田天神山古墳は亀甲山の4倍はある古墳で、東日本最大の前方後円墳である。天神山古墳以降大きな古墳は造られていない。

この小熊の上毛野国も武蔵国造の乱後衰退していったと思われる。
国造の位も大化の改新による国郡制でなくなってしまう。

この乱は大和朝廷にとって関東制圧の絶好の好機となり、屯倉を献上され東国に軍事拠点をもち、
もうひとつの勢力である小熊を、連帯敗北させることもできた。

小熊はのちに屯倉緑野(みどの)を献上している。
白村江の戦いでは小熊の孫の雅子が将軍として赴くことになる。

* 小熊の上毛野と世田谷の上野毛とはかかわりがあるのだろうか?


のちに上毛野は上野にかわり、上野(こうずけ)(群馬)、下野(しもつけ)(栃木)となり、ふたつあわせて両毛という。上野毛の野毛は多摩川の崖(はけ)からきた地名といわれている。

中原街道


江戸と平塚を結ぶ道は「中原街道」と呼ばれた。別名には「相州街道」、平塚で作られた酢を運んだので「お酢街道」、「江戸間道」、「小杉道」「こやし道」などがある。
中世以前からあった道で平塚には古東海道が残り、一部は鎌倉時代の下の道でもあった。
北条時代に整備され狼煙(のろし)をあげる場所があったため直線が多い道である。
家康が江戸入りしたときや、久能山から日光に遺骨が運ばれた時も利用されている。

江戸時代虎ノ門から平塚にあった中原御殿を結ぶ道だったため「中原街道」と呼ばれる。
家光の時代まで鷹狩の際、小杉御殿、中原御殿に休憩、宿泊をした。
東海道が整備されると幹線からの役目はなくなるが大名の多い東海道を嫌い庶民にはよく使われた。直線でつながれているため最速ルートの脇往還となった。
赤穂浪士も人目を避けるために利用している。

宿は設けられず継立場として小杉、佐江戸、瀬谷、用田がある。


丸子


丸子の地名は渡し守りから守る子、モリコ、マルコに変化したという説と、多摩川の流れが丸く蛇行していて丸子になった説がある。
古くは吾妻鏡に「丸子庄」とでてくる。円覚寺の文書には「丸子保」、1477年の文書には「武州稲毛庄鞠子郷」、1478年には太田道灌が「丸子城、小机城に籠もる」、1486年道興准后が丸子に詠めるうたとして「東路の丸子の里に行かかり、あしもやすめずいそぐ暮れかな」とうたっている。 (廻国雑記)

     
准后―貴人のこと
丸子城は、太田道潅に追い詰められた長尾氏の家来が立てこもったという城で、日枝神社がその跡といわれる。

丸子の渡し


中原街道を通る人々にとって昭和10年に丸子橋が完成するまで渡しが唯一の交通機関だった。
丸子の渡しの創始者は、徳川幕府の御用を承ってはじめた大貫市郎兵衛という人で
岡本かの子の祖先にあたる。

* 明冶元年、備州兵が丸子の渡しに陣を構えた。人足242人を提供する。

* 渡し場の近くに青木根、松原集落があったが、明冶43年大水があり、大正9年の築提で姿を消した。青木根と、松原には50軒ほどあり、天神町に移転させられた。

* 東横線鉄橋の河川敷にお伊勢様と親しまれた伊勢神社があった。築堤工事のおり、神社あとの高さ4メートルほどの丘から人物の埴輪が出土した。6世紀のころの古墳であることがわかり、
上丸子古墳と名付けられた。男女一対で男性には右胸に弓が、女性には盾があるとみられた。戦闘時、女性も参戦したと思われる。その埴輪は震災で消失してしまったが、神社脇に住んでいた白井家が別の土偶を所有していたことがわかり、平成8年に市民ミュージアムに寄託された。


安藤家長屋門


江戸時代の中ごろ江戸の代官屋敷より移築されたと伝わる。安藤家は小田原北条配下の武将だったが北条滅亡とともに土着して代々名主をつとめた。
安藤家は小杉宿の問屋をつとめた。

石橋醤油店

明冶3年、農業をしながら醤油作りをはじめた。大正12年には醤油醸造が専業となり商標は
「キッコー文山」であった。現在、醤油醸造は行っていないが、当時の製造蔵が残る。
* 原家は江戸時代、肥料商を手広くやっていて、方々に石橋を造ったため、石橋という屋号でよばれた。原家の親戚も好んで屋号として使ったという。
原家はもともと千葉氏の流れをくむ旧家で、二十代続いている。名主百姓だった原家は吉良氏が勢力を伸ばしてきた時、吉良氏の傘下となった。
子孫の中には紀伊国屋文左衛門と吉原で花魁道中をした人がいたらしい。

小杉御殿跡

小田原北条氏が滅んだあと、徳川家康は関東に入府し、慶長8年(1603)に幕府を開く。
それから、二代将軍秀忠は、近郊各地に御殿とよばれるものを造った。
表向きは鷹狩などの遊興のためとなっているが、実際には領内の状況視察、譜代家臣の結束のためと思われる。
慶長2(1597)年、代官になった小泉次太夫が小杉陣屋を設けた。二ヶ領用水を造営するさいの現場事務所として使った。
慶長13(1608)年、ここ小杉に御殿が造営された。
家康は、すでに将軍職を二代秀忠に譲り、駿河に退いていたが、幕府の実権はまだ握っており、駿河と江戸の往復の際、小杉御殿を宿舎として利用していた。
小杉御殿は、家康の送迎のほか、鷹狩の休憩に使われ、一度荒廃したものを西国大名の参勤交代の宿舎にも利用した。
その後東海道が主街道になると廃れていき、明歴元年(1655)品川東海寺に御殿の資材を譲り渡した。万治3(1660)年には、ことごとく廃止された。
御殿は1万2千坪におよび石橋醤油店の先から西明寺あたりまであった。

西明寺


真言宗智山派、境内の弁財天は時頼の伝説がある。小杉学舎が置かれ近代小学教育の場となった。

龍宿山金剛院西明寺縁起によると、西明寺の名は遠く弘法太子が勅命をうけて渡支した際の宿房の寺号に発し、帰国後この地に留錫し高弟泰範に命じ堂宇を建立するとある。
北条時頼が中興の祖といわれている。

時頼にちなむ弁財天がある。欄干は高村光雲の弟子の作、時頼の木像とその歯、田沼意次の妻の墓がある。

* 別説に龍宿山金剛院西明寺でもとは川崎市有馬にあった。かつて武蔵国有馬村にある有馬西明寺に霊泉があった。大化3年役小角によって霊泉の源のなる滝が発見される。聖武天皇勅願の影向寺の文書に「聖武天皇の子、安部内親王が病にかかりこの地の春日宮に祈祷に参られ泉で沐浴すると病は治り(天然痘らしい)そのお礼に西明寺を建立した。村上天皇、朱雀天皇、源頼義、義家、頼朝、北条時頼など帝、武将が療養した」と記されている。
天安2年(858)円任により影向寺の末寺となった。
1433年の地震で有馬西明寺は倒壊し、再建されないままであったが、1444年ころ鎌倉北条氏滅亡後に小杉に住んでいた鎌倉浪人によって有馬から小杉に移された。

有馬の霊泉は正嘉元年(1257)の地震により途絶えたりしていたが昭和40年源泉が発見され今は「有馬療養温泉」になっている。

この霊泉は安岡という人が八幡神のお告げで有馬の土地を購入、水道がひかれていなかったため、井戸を掘ったところ汚い水がでて半年もすると水が澄んできた。風呂水に使ったら赤い色にかわったが、妻のリュウマチが治ってしまった。驚いて調べてみたら鉱泉で古い歴史があることを知ったという。                         「有馬療養温泉旅館」

カギ道

小杉御殿を敵から守るために作られた道で城下町によくみられる。ここは背後の多摩川、さらに西明寺や近くの泉沢寺もあわせて御殿の守りが固められていた。

小杉陣屋跡 妙泉寺跡

小杉陣屋の陣屋は江戸時代はじめ小泉次太夫がニヶ領用水工事のために陣屋をもうけたことによる地名である。小杉駅供養塔によって宿になったことがわかる。

小杉駅供養塔

川崎宿より50年遅れ延宝元年(1673)に小杉も宿になった。供養塔に稲毛領小杉駅、東江戸、西中原とある。


庚申様
庚申様を祀った供養塔。昔から油屋の屋号をもつ小林家の角にあったので「油屋の庚申塔」とよばれた。台座には南大師道と刻まれている。
昔はこの地点で大師にむかう府中街道と分かれていた。

小杉十字路

明冶になって街道を整備、十字路付近は料理屋、旅館、劇場が集まり賑わっていた。

二ヶ領用水 神地(ごうじ)橋
多摩川中流の南岸、中野島から取水して稲城、川崎の二ヶ領を潤す大用水として慶長16年に完成した。多摩川北岸の六郷用水と同時に、小泉次太夫の進言と指揮により完成まで14年かかった。
この工事は、家康からの黒印状を与えられた、幕府直轄普請事業であった。黒印状は天領だけでなく、私領の農民も人足として徴発できるもので幕府権力を背景にしたものであった。
次太夫は小杉陣屋近くに妙泉寺をたて事業の完成を祈願した。
100年後に、川崎宿名主田中休愚により、多摩川、二ヶ領、六郷用水の総合的な治水が行われた。
しかし、流水量が減ると水争いが起こり訴訟、実力行使などの騒動がよく起こった。
昭和になってサイホン原理で湧き出る水を灌漑面積に応じて下流へ配分する円筒分システムがコンクリートで造られ、水騒動もなくなった。このシステムは全国に普及した。

泉沢寺

世田谷に勢力をもっていた吉良氏の菩提所として延徳3(1491)年烏山に創建された浄土宗の寺である。
諸堂焼失のため天文19(1550)年吉良頼康が上小田中に再興した。
吉良氏は税を免除して居住をうながし、門前町を開いてこの地の繁栄を図った。
吉良氏は小田原北条と強い結びつきがあり、世田谷から横浜蒔田まで勢力が及んだ。
かつて寺の周りには構え掘りとよばれる1.8mの堀があった。今それはなくなり二ヶ領用水となって姿をとどめている。吉良氏が寺を再興する時勢力南下のための拠点とする目的があったと思われる。
北条滅亡後勢力は衰えるが、上小田中に吉良氏の家来が、大谷戸(おおがやと)はその家来の原氏が開墾したといわれる。

世田谷吉良氏

吉良氏は足利氏と祖を同じくし、本家は赤穂浪士事件で有名な吉良上野介の三河吉良氏でその支流になる。鎌倉公方足利基氏より武蔵国荏原郡世田谷を拝領した。
豪徳寺が本城で支城に奥沢城(おもいはせの道で見学)がある。
道潅とともに長尾景春の乱で豊島氏と戦い江戸城を防衛している。
吉良頼康の代のとき、小田原北条の武蔵進出により、北条氏綱とは婚姻で関係をむすび、世田谷城(豪徳寺)を北条に譲り、蒔田に移った。
秀吉と小田原北条の戦い(小田原の役)では吉良氏は戦わず逃亡し、吉良氏は秀吉に領地を、没収された。
のちに家康にとりたてられ「高家」となり1125石「蒔田氏」とよばれる旗本になった。
本家三河吉良氏が赤穂の事件後断絶した時、蒔田姓から吉良姓に復姓し、明冶に知行地であった千葉県長生郡寺崎に移った。


街道地蔵

用水に落ちた子供の供養、街道で行き倒れになった人の供養、川ざらいした時にみつかった
仏像を祀るなどいろいろいわれている。


参考文献 :神奈川の歴史散歩、多摩川台古墳、
インターネット:m@ryko 坂東千年王国、歴史の道探訪 中原街道コース ウイキペデイア
        はぐれ旅、有馬療養温泉,城めぐり.com.
by gannyan1953 | 2011-08-04 19:12 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)



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