歴史と素適なおつきあい

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鎌倉駅西口~極楽寺駅

歴史と素適なおつきあい          平成15・6・13

鎌倉                
JR鎌倉駅西口~御成小学校前~六地蔵~甘縄神社~(高徳院 露座の大仏)~(御霊神社)~長谷寺~極楽寺坂切通し~極楽寺~江ノ電極楽寺駅

御成小学校


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昭和8(1933)年創立の小学校で武家屋敷から御用邸になり、明治天皇皇女の避寒地であった。関東大震災で壊れ、跡地は払い下げられ、小学校が建てられた。宮大工が造った校舎だったが老朽化したため、現在木造を中心とした一部鉄骨造りの校舎が3棟並ぶ。日本と西洋の様式をとりまぜた造りで旧校舎のおもかげを伝える。昭和12(1937)年ヘレンケラーが講演した講堂があり、開校当時の建物で今も残る。二つの塔屋をもつ入母屋造りで、内部は寺院によくある格天井がある。宮大工が腕を競って造られた。門も御成門といわれ貫禄を漂わせ、門札は高浜虚子の文字である。


佐助稲荷神社

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佐助稲荷入口 ちょっと一人で入るのは雰囲気がありすぎて怖い
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拝殿右横にあり、今でも水が湧き出る霊狐泉
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奥にある拝殿

銭洗い弁天の近くで鎌倉隠れ里といわれる。
頼朝の挙兵を勧めたことで、佐殿を助けるから佐助となった。

訪れる人は少なく緑に囲まれた落ち着いた気のある場所である。
鎌倉ではとてもやさしいパワースポットといえる。


六地蔵

由比ガ浜の大通りと今大路の交差する所に赤いよだれかけをした六地蔵がある。鎌倉時代裁許橋のあたりに刑場があった。処刑された罪人を供養したのがはじまりである。人間のもつ六つの苦しみから救ってくれる。背後に芭蕉の「夏草や つわものどもが夢の跡」の句碑があることから芭蕉の辻とも呼ばれる。
*仏教では、いっさいの衆生は生前の業によってつねに生死を繰り返す輪廻思想がある。まわる世界は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六つで、これを六道という。地獄、餓鬼、畜生は3悪道という。11世紀以降、死者が六道に迷うことのないように辻や墓地の入り口に六道のそれぞれで人を守り、案内する六道地蔵が置かれた。そうした辻を六道の辻という。


甘縄神社
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鎌倉最古の社である。710年、染屋太郎太夫時忠の創建といわれる。
時忠は藤原鎌足の玄孫で、東大寺良弁僧正の父である。
東8カ国の総追捕使となり東夷を鎮めた。永く鎌倉に居住し、「由比の長者」といわれた。祭神は天照大神で、源氏の義家誕生の地といわれる。義家は1081年社殿を再建、以降義家が氏神になった。
その後、北条時頼の母松下禅尼の実家である安達泰盛邸が建てられ、その跡である。安達は霜月騒動で平頼綱に攻められ激しい戦闘が行われ、一族は滅亡した。時宗の誕生地で、産湯の井戸がある。
裏山は御興ヶ嶽(見越ヶ岳)といい、
都には はや吹きぬらし かまくらの見越ヶ崎 秋の初風
と詠われている。

源義家(1039~1106)


八幡太郎義家と称し、前9年後3年の役で活躍した。永保3(1083)年陸奥守兼鎮守府将軍となる。父頼義が由比に建てた由比若宮(元八幡)を修復した。

北条時頼  (1227~1263) 


鎌倉幕府五代執権。宝治合戦で三浦泰村一族を排除。執権職を北条長時に譲るが、権力を保持し、政治を操った。36歳で若くして死去。有能な政治家として知られ、得宗専制の道を開くが、御家人の意思をくみあげ負担の軽減もはかった。質実剛健な鎌倉武士として説話にのこる。時頼回国伝説は吾妻鏡にはみあたらず、疑わしい。が、政道の乱れは上下の遠きことにあると、考えた。謡曲「鉢の木」にある時頼の諸国巡業は下の者、庶民の実情を知るためとある。墓は明月院。時宗の父。

安達泰盛  (1231~1285) 

鎌倉幕府有力御家人。五代将軍藤原頼嗣の側近となって力をつけ、訴訟審理にあたる引付衆、評定衆として活躍。娘が執権時宗の妻となり九代執権貞時を生み北条氏との血縁が深くなる。しかし北条嫡流の得宗に仕える御家人平頼綱と対立、急襲(霜月騒動)され、一族滅亡する。

平頼綱   (?~1293) 

八代執権北条時宗に用いられ、九代執権北条貞時の時代、内官僚(御家人筆頭)として専制的な政治を行った。時宗死後、政敵安達泰盛を滅ぼし、安達関係者500名あまりを粛清したといわれる。若い貞時の陰で政治を操った。しかし正応6(1293)年貞時に急襲(平弾門の変)され、討ち死にした。

北条時宗  (1251~1284) 

五代執権時頼の嫡男。9歳で小侍所別当、13歳で連署、18歳で執権。しかし、文永11(1274)年と弘安4(1281)年元寇があった。御家人以外の出陣要請をした。元の国使の処刑、派兵も計画、防塁を築いたりしたが神風台風の恩恵もあり難局を乗り切った。その間腹違いの兄時輔らを討ったり、幕府に批判的な日蓮を処刑しようとした専制的な面もあったが、禅宗に深く帰依し、文永、弘安の役の戦死者敵味方の霊を慰めるため円覚寺を創建した。墓は円覚寺。


高徳院 

  
宗派:浄土宗                山号:大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)    
創建:暦仁元(1238)年         本尊:阿弥陀如来(国宝指定)

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大仏様の内部 20円で胎内にはいれる

開山、開基は不明。源頼朝の侍女・稲多野局(いなだのつぼね)が思い立ち、僧浄光が資金集めをして作ったといわれている。
奈良の大仏は勅命によって作られたが、鎌倉大仏は民衆の浄財によって完成にいたったといわれている。

暦仁元年に着工し、6年後に木造の大仏が完成。
しかし、大風で倒壊、建長4(1252)に現在の青銅像が鋳造され大仏殿に安置された。
大仏殿はその後、2度の大風で倒れその都度復興されたものの、明応7(1498)年、津波で流されてからは露座の大仏として今に至る。

鋳造した人物として大野五郎右エ門、丹次久友の名が伝えられる。総高約13m、総重量121tの大仏は宋の影響をうけ当時の工法としては最高の水準で造られている。

境内観月院に与謝野晶子の歌碑がある。

「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」


御霊神社  

大庭御厨(おおばみくりや)の開発領主であった鎌倉五郎景政が氏神である。

吾妻鏡にもよく出てきており当初は関東平氏の五家である大庭、梶原、長尾、村田、鎌倉の祖先を祀る五霊
だったが、のちに景政一人になり御霊、ごんごろう様とよばれるようになった。

本殿は大正年間に建てられ屋根は銅葺きである。
境内には国木田独歩が居住していたこともある。
面掛け行列は県無形民族文化財に指定されている。
祭礼は毎年9月18日に行われる。
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面掛け行列は当ブログ「鎌倉の歴史」をご覧下さい。


長谷寺


宗派:浄土宗(単立)               山号:海光山慈照院長谷寺
創建:天平8(736)年              開山:徳道上人
開基:藤原房前(ふささき)           本尊:十一面観世音菩薩

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散策路 良縁を願うお地蔵様
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散策路からの鎌倉、由比ヶ浜

日本最大級(9,18m)の十一面観世音菩薩像で知られる。伝承では本尊は奈良の長谷寺の尊像と同じ、一本の楠の霊木より彫られたという縁起をもつ。長い石段を登ると境内には観音堂、阿弥陀堂、大黒堂、経蔵といった堂宇が建つ。また坂東三十三観音霊場第四番札所に数えられ、往古より庶民の信仰を集めてきた。見晴台からは海や三浦半島まで一望できる。春はボタン、モクレン、サクラ、フジ、夏はアジサイ、ハナショウブ、サルスベリ、フヨウと草花が美しい。境内に鎌倉文士久米正雄の胸像がある。長谷の別荘で震災にあい、長谷寺の高台に避難した様子が「鎌倉震災日記」に記されている。また俳人高浜虚子の句碑、評論家高山樗牛の住居跡がある。

極楽寺坂

御霊神社をすぎ星の井を右手にみながら上がる坂である。かつては成就院の山門の高さまで上がる坂であったが現在はより低く切り開かれている。坂の頂上付近に上杉憲方の墓がある。七層の塔で宝筺印塔の基本形の層塔である。
元弘(1333)年、新田軍大将大館次郎宗氏10万の兵と、北条軍大将大仏貞道甲斐、信濃、駿河の5万の兵が激突した。新田軍の大館宗氏は討ち死にした。新田義貞が2万の兵を率いて深沢、津村を経て腰越に迂回し、援軍にかけつけたが、北条軍は強固な陣を構え、海上には大船を浮かべ、一部の隙もなかった。いくどとなく両軍の攻防は繰り返され多数の死者をだした。義貞は極楽寺坂の突破を諦め、稲村ガ崎からの攻略に切り替えた。

成就院

宗派:真言宗大覚寺派              山号:普(ふ)明山法(みょうざんほう)立寺(りゅうじ)成就院(じょうじゅいん)
創建:承久元(1219)年             開山:弘法大師
開基:北条泰時(伝)                本尊:不動明王

極楽坂切通しの旧道沿いにあり、アジサイが美しい。本尊の不動明王は縁結びのご利益がある。弘法大師が諸国巡業の折、100日間にわたり虚空菩薩をまつる修法を行ったと伝えられる。そのとき香の煙、鈴の音の響きに付近の人は感激し涙した。以来作物はよくみのり暮らしが楽になったといわれる。その後承久元年、鎌倉幕府3代執権北条泰時が都から高僧を招いて寺を創建したという。新田義貞により幕府が滅んだとき戦火で焼け落ちたが江戸時代に再建。法隆寺の夢殿を思わせる八角堂がある。門前からは鎌倉の街並み、由比ガ浜がみわたせる。恋愛成就のご祈祷があるらしい。ヨン様来訪の写真もあった。

極楽寺

宗派:真言律宗                 山号:霊(れい)鷲山(しゅうざん)感応院(かんのういん)極楽寺(ごくらくじ)
創建:正元元(1259)年            開山:忍性菩薩
開基:北条重時                 本尊:釈迦如来

正嘉年間(1257~59)一人の老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置し極楽寺ろ称した。老僧死後、義時の三男重時が再建したと伝えられる。6代執権になった重時の子、長時と業時兄弟が、当時多宝寺に入山していた忍性(にんしょう)を招き
開山した。忍性はここで施薬院、非田院、施益院、福田院の四田院を設け、不幸な人を救済する福祉事業にとりくんだ。人間だけでなく病気や年老いた牛馬の面倒をみる病舎も建てた。人々から医王如来と崇められた。橋をかけるなど土木事業にも力をそそいだ。完成当時は七堂伽藍と四十九の塔頭をもつ大寺院だったが自然災害、火事に見舞われ、現在は本堂のみ残る。境内に製薬鉢、千服茶臼がある。

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極楽橋


参考    鎌倉の寺小事典 かまくら春秋社・鎌倉ぶらぶら・Area2.よくわかる鎌倉
ekamakura.cool.ne.jp   http://kuniomi.gr.jp/html 

                                       
和田塚


高塚式古墳。明治中期まで、「無常堂塚」と呼ばれていた。和田合戦の死者を弔うために建てられた塚であろうといわれている。20基の五輪塔が並ぶ。



和田氏


三浦氏の系統。建保元(1213)年信濃の泉親衡が、源頼家の遺児千寿を擁して北条打倒を企てた。未遂のまま発覚しその中に和田義盛の子義直と甥の胤長が加わっていたことが判明。義盛は二人の赦免を願い出たが、胤長は許されず、陸奥に配流された。北条義時が専制政治を行うには三浦氏、和田氏の抹殺が必要であった。1213年5月2日和田義盛は北条打倒の準備をした。当初、三浦吉村も協力することになっていたが、土壇場で裏切られる。三浦氏は謀反を北条に訴えた。和田一族は軍兵150騎で攻撃し、幕府の建物は全焼、源実朝、北条義時は法華堂へ逃れた。翌日幕府軍の数が増えたため、和田氏は劣勢となり、67歳だった義盛は討ち死にした。
その後三浦氏も権威失墜した。明治25年、新道路建設のため掘り起こしたところ、たくさんの人骨埴輪片が出土した。人骨は和田合戦のものだろうと碑が建てられた。和田氏の中で越後に名を残すものがあった。重茂の子次郎実茂で、幕府方についたため鎌倉に残ったが、1247年「三浦の乱」で、越後に移り、越後三浦和田と称し、黒川、中条、関沢と続いた。

朝比奈三郎伝説

この合戦で和田義盛の三男で、安房の国で生まれた朝比奈三郎がいる。母は、木曽義仲の妾で、義仲死後和田の世話になっていた巴御前である。執権北条泰時は自ら陣頭に立つほど朝比奈の切通し開削に熱心であった。和田氏は北条支配の前に六浦を支配しており、朝比奈の切通し開削に参加、湧き水の多い難工事のためか朝比奈三郎が一夜にきりひらいたとの伝説を残す。
朝比奈三郎は和田氏滅亡の時五百騎の兵と6隻の船で安房に逃れ行方不明になった。
そのため、伝説を残すこととなる。宮城の七ツ森や木曽には墓が、海で遊んだ折潜ってサメをかかえて浮き上がるなどがある。

別説 御霊神社 権五郎神社 

権五郎景政は鎌倉党であった。景政は大庭御厨の開発領主で在地領主であった。もともとこのあたりは佐助稲荷、銭洗い弁天など金属ゆかりの場所があり、産鉄民がいたと思われる。田畑に使われる金属器、鎌倉党の武器製作に携わっていた。天養年(1141あたり)源義朝が御厨を襲う。
「天養記」はその惨状を伝える。この侵略で鎌倉党の怨恨をかい、御霊本来の意味の神社となったのかもしれない。銭洗弁天には頼朝が湧き水を汲んだ伝承があるが、佐助稲荷にも伝承が残る。銭洗いを「かねあらい」といいかえると真砂(まさご)とよばれる砂鉄をこの水で洗いタタラで吹き上げる。炉からだした灼熱のコロ(鉄塊)を冷やし、ケラ割り(鋼を採取する)するための金池だったと思われる。佐助稲荷は頼朝が蛭ヶ小島にいたころ、この地の宇賀福神が夢枕に立ち挙兵をすすめ神霊の加護を約束したといわれ、のち梶原景時に命じ社殿建立したと伝えられる。頼朝がこの土地の娘を身ごもらせた話は、長吏頭弾左衛門とかかわりがあるという。最後の弾左衛門は浅草にいたがその前は鎌倉の景政の配下であった。弾左衛門頼兼の祖は秦武虎で、鎌倉権五郎の片腕となり産鉄、漁業にたずさわり、弾左衛門を世襲名とした。頼朝と契った菜摘御前の父矢野弾左衛門は秦武虎から3代目くらいと思われる。菜摘御前の父が頼兼とも、子が頼兼ともいわれるが定かではない。頼という字は鎌倉党を頼ったということからか、頼朝から頼の字を賜ったかわからないが、その後弾左衛門一党には頼の字のつく名が多い。 
            
参考文献: 鎌倉ぶらぶら 氏名辞典 徳川将軍家の謎宝島社  闇の日本史沢史生 
by gannyan1953 | 2011-12-30 09:31 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)



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