歴史と素適なおつきあい

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福岡歴史散歩

歴史と素適なおつきあい番外編     2012・2・20

四日目の朝、厳原港からフェリーで博多へ。昨日まで海は荒れていたが、運よく晴れて波の高さは1m。
フェリーは揺れなかった。よかったー。
福岡空港20:50の飛行機で羽田へ。

沖ノ島

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対馬から博多までのフェリーからみえたので、うれしかった。女人禁制の島なので。
 
沖ノ島は福岡県宗像市から60キロ離れた宗像大社の沖津宮が鎮座する。
島そのものがご神体で、今でも女人禁制である。

宗像三女神の田心姫神が祀られている。

4・5世紀から9世紀までの石舞台や古代装飾品などの大量の祭祀遺物が発見されたため、海の正倉院といわれる。

佐倉の国立歴史博物館に沖ノ島の磐座(いわくら)の祭祀が再現されているので、女性はこちらで堪能する。


香椎宮 (かしいぐう)福岡市東区香椎4-16-1
祭神:仲哀天皇 、神功皇后

社伝では仲哀天皇9年(200年)、熊襲征伐の途中橿日宮(かしひのみや、記は訶志比宮)で仲哀天皇が急逝したため、神功皇后がその地に祠を建て天皇の神霊を祀ったのがはじまりとされる。
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綾杉

「綾杉」
神功皇后の三韓征伐から帰国した際、三種の宝を埋め、「永遠に本朝を鎮護すべし」と誓いを立てて鎧の袖の杉枝をその上に挿したものが現在の大木となったとされる。普通の杉と葉の形状が異なり、綾状になっていることからこの名が付いた。大宰帥に任じられた者は、香椎宮に参拝し神職からこの杉の葉を冠に挿されるのが恒例とされていた。

不老水
武内宿禰が、香椎の地でこの水を朝夕汲み取って天皇への炊飯用や、お酒を作るのにこの水を使ったとされる湧水で、そのおかげで300歳とも360歳ともいわれるほど長寿だった

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古宮跡

香椎宮からでたところにひっそりとあって寂しそうだった。

大宰府 太宰府市宰府4丁目7番1号
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      夫婦杉
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祭神:菅原道真

学問・至誠・厄除けの神様


元寇防塁跡 福岡市西区生の松原 JR筑肥線「下山門駅」徒歩10分

健治2(1276)年北条時宗の時代元寇があった。文永11(1274)年に文永の役が起こった直後、襲来に備え石の防塁が作られた。高さ1.8mから3m、幅1.8mから2.4mあった。

筥崎から今津まで20㎞の長さになった。

2度目の弘安の役(弘安4年・1281)に防塁は役にたった。

昭和43年発掘され石の種類が花崗岩と砂岩にわかれており分担する国ごとに石の種類が違うことがわかった。生の松原は肥後の国である。

「寇」は「他人の家に入り込んで棒で打つ」様を表した文字で、「外敵がかすめ取る」という意味で、侵略者の野蛮さや不当さを非難する感情が込められた表現である。

日本に対しては「倭寇」といわれている。

文永の役では10月に元は朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出発10月5日対馬小茂田浜に上陸、宋質国は八十騎で応戦するが戦死し、対馬は蹂躙された。

次に10月14日壱岐を襲撃、平景隆は百騎で、応戦するが追い詰められ自害、千人の島民が亡くなったという。
さらに16日松浦党の基地平戸、能古など襲撃され壊滅した。

19日博多湾に現れ今津に停泊。20日に百道浜に襲来、続いて地行浜、長浜、那ノ津、須崎浜(博多)、東浜、箱崎浜に上陸した。

翌21日、元の船団は日本から撤退し姿を消しており、一部の元軍の軍船が陸上に座礁していた。捕えられた元の兵は殺害されたといわれる。

ここが文献にでるのは弘安の役で「蒙古襲来絵詞」の、肥後の御家人竹崎李長が防塁の前を馬上で進む場面である。

弘安の役では兵4万と10万の二手にわかれてやってきた。

前と同様対馬、壱岐は蹂躙されたが、本土は防塁が築かれ夜になると日本側は敵船に乗り込み火をつけたりゲリラ戦を行ったという。

14万の兵にたいし日本は6万5千で迎えた。

しかし上陸前に嵐。神風で遭難して撤退した。

置き去りにされた元の兵は日本兵に襲われ捕虜となり、首をはねられた。

供養に博多周辺に蒙古塚という首塚が作られた。


参考:ウイキぺディア・宗像大社
by gannyan1953 | 2012-02-23 22:45 | 福岡県の歴史散歩 | Comments(0)

対馬歴史探訪3日目

歴史と素適なおつきあい番外編 2012・2・19


美女塚山荘9:00出発
お弁当540円で作ってもらった。豪華でおいしく金田城で浅茅湾をながめながら食べた。
宿泊は西山寺ユースホテル
 
豆酘(つつ)の朝
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豆酘崎にて朝日
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第二次世界大戦倉庫

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石塁を隠すためコンクリートで作られた松の木の幹だけ残っていた。第二次世界大戦の日本の苦渋がみえる。
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緑のケーブルを切った跡。線香がつっこまれているように見える
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軍部が作った石塁

宿のオーナーの叔父様のお話
世界大戦中の対馬は軍隊でいっぱいで要塞があるため、一時日本地図から対馬が消えたことがあった。
家族写真をとるのもままならず、軍隊の許可をとって記念写真をとった。

明治時代、伊藤博文が対馬にきた話を聞くと、確かにきたが、厳原でチフスがはやり、伊藤博文は竹敷にいた。竹敷は重要な軍部施設があった。


雷命神社
(らいめいじんじゃ) 厳原町阿連字久奈215
残念だが場所がわからなかった

 
祭神:雷大臣命(いかつおみ)

雷大臣命とは神功皇后の審神者(サニワ)を勤めた中臣烏賊使主(なかおみのいかつおみ)のこと。

『新撰姓氏録』に天児屋根命(あめのこやねにみこと)十四世孫とある。

雷命(らいめい)は、古くはイカツチノミコトという。明治までは八龍大明神といわれた。
雷大臣の住まいだった場所で、墓もある。亀卜を行いその発祥の地といわれる


雷命は旧暦9月29日に、出雲に向かうがオヒデリ様は残って村人を守り、ひと月後戻ってきた神を出迎え、また山に戻るという儀式がある。お出船・お入れませ・元山送りという。水神と日神の「神婚」により里に豊饒がもたらされるという意味があるという。

最澄が唐から帰国して立ち寄った場所である.

太祝詞神社(ふとのりとじんじゃ) 美津島町加志字京ノ原512    
鳥居に加志(かし)大明神とあってもうひとつの神社は国本神社で場所がわからなかった。

後で交番で調べたら「加志大明神」のことだとわかった。残念!


占い神事の宗家・元祖である天児屋根命を祀る源流が対馬の太祝詞神社にあるという

祭神:大詔戸(フトノリド)命・久慈麻知命(大小神社帳)/大詔戸命・雷大臣命(大帳)/大詔戸神(明細帳)

由緒(明細帳)
神功皇后が新羅を征し玉ふ時、雷大臣命は卜術が優れて長(タ)けたるにより御軍に従へり。新羅が降属して凱還の後、津島縣主(つしまのあがたぬし)たり、韓邦の入貢を掌(ツカサ)どる。対馬下県郡阿連(あれ)村に居り、祝官をして祭祀の禮(レイ)を教へ、太占亀卜(ふとまにきぼく)の術を傳ふ。後に加志村に移る。今、太詔詞社に合祭す。

銀山上神社(ぎんざんじょうじんじゃ)厳原町久根田舎字御所山507

 
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参道は苔におおわれ幻想的な場所だった


当社の祭神は、神社明細帳に「諸黒神」とある。これは樫根の銀山神社も同じで、室黒神ともいうが、鉱山(かなやま)の神として、異国から来た神だと伝わる。
 祭神は金山彦命という。「対馬島誌」も「金山彦命なるべし」とある。


建彌己己命(たけみここ)
 高魂(たかみむすび)命五世の子孫。神武天皇の時、津島県主となる。津島は対馬。

神社にはいる手前の橋は御所橋という。安徳天皇がここでひっそりと生活したという伝説が残る。

永寿4(1185年)年、幼い安徳天皇は二位の尼と共に壇ノ浦で海の藻くずと消え去ったという歴史がある。

しかし対馬の伝承では、安徳天皇は、落ちのびた九州で成人し、現在厳原町曲に住んでいる漁師(海士/海女)の祖先と共に玄海灘を渡って対馬に潜行し、その余生を過ごしたという。

また天皇に関する地名伝説も数多く、内院や内山も関連があるようだ。

明治以降、いろいろ検証が行われ、現在は安徳天皇御陵参考地の指定を受けている。(やんこもどっとこむより)

小茂田浜神社 厳原町小茂田742  
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        佐須浦

1274年文永の役で元、高麗軍の3万3000人のうち約1000人が佐須浦に上陸

、それを迎え撃った宗資国(対馬の守護代)は80余騎が激戦の果て全滅した。

のちに軍神として祀られ、毎年大祭では鎧武者がときの声を上げ、神主が海に向かって弓をならす鳴弦の儀式が行われる。

助国主従の亡骸を埋めた場所は「お首塚」厳原町下原地内・「お胴塚」厳原町樫根として供養している。
小茂田は昔鉱山があり、金田がこもだと訛ったらしい。

鉱山は対馬銀山で、674年に銀が産出した記録があり、日本最古の銀山とされる。

近代では東邦亜鉛対馬鉱業所の亜鉛鉱山も1973年まで操業していた。

また硯の原料となる「若田石」の産地でもある。佐須地名は鉄がでる地名によくある。

金田城跡(かねたのき)美津島町黒瀬
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城山頂上
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東南角石塁
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日露戦争砲台跡
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 砲座は、28センチ榴弾砲2門×2

天智天皇によって築かれた朝鮮式山城。

西暦660年、朝鮮三国のひとつ百済が唐、新羅の連合軍に負け、滅亡。百済を救援するため、天智天皇は兵を派遣したが、663年白村江で大敗。百済から連れてきた将校たちに、浅茅湾に突き出た標高275mの城山に山城を築かせた。

これを金田城と名づけ、東国から召し出された防人たちが朝鮮半島をにらみ続けた。
一の城戸、二の城戸、三の城戸と城壁が残り、防人の宿舎跡もある。


日露戦争にまた対馬は国防最前線となる。ここ金田城は要塞となり巨大な砲台が備えられた。
登山道は日露戦争時に作られた軍用道路である。



厳原八幡宮 対馬市厳原町中村字清水山645-1


祭神:応神天皇 神功皇后 仲哀天皇 姫大神 武内宿禰

神功皇后が三韓征伐からの帰り、対馬の清水山に寄り、神が宿る山であるとし、山頂に磐境を設けた。

そこで、天神地祇を祀った。655白鳳6年天武天皇の命で、社殿をを造営し、八幡神を祀ったのが、八幡宮の始まりと伝わる。

対馬には上県郡と下県郡に八幡宮があり、上県郡のものを上津八幡宮(現 海神神社)、下県郡の当社を下津八幡宮と並び称した。

現海神神社に納められた

木坂八幡本宮(海神神社)に当初納められた八旒(りゅう・八枚の意味)の旗がこの八幡宮と、黒瀬の八幡宮、宇佐八幡宮に分けられたという

宇努刀(うのと)神社

祭神:素戔嗚尊

本社は神功皇后新羅征伐畢らせ給ひ凱還の時上県郡豊村に着給ひて島大国魂神社を拝し夫より佐賀村に着せられ此の地に島大国魂神社の神霊を分つて皇后親から祭り給ふ。延喜式神名帳に載る上県郡宇努刀神社定なり。延徳三年六月十四日佐賀村より下県郡厳原町八幡神社境内に遷し祭る」と由緒が記されている。

平(ひらの)神社


祭神:天穂日命(アマノホヒノミコト)・仁徳天皇・日本武尊・菟道稚郎子皇子(ウジノワキイラツメノミコ)

本社は瓊々杵尊(ニニギノミコト)の朝天日神命津島県主たりし時に祖神天穂日命を祭られしなり其の後日武

尊仁徳天皇莵道皇子の三神を加祭す。延喜式神名帳にのる下県郡平神社是なり」と由緒が記されている。

万松院厳原町西里192番地



2代藩主宗義成が、父義智の供養のために建立された。
百雁木と呼ばれる石段を登ると徳川歴代将軍の位牌、朝鮮国王から贈られた三具足、百雁木という石段そして墓所にある樹齢1200年の杉がある
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万松院にある諌鼓(かんこ)。

領主に対し諫言しようとする時に打つもので、

「諫鼓苔蒸す」とは諫鼓を久しく用いないという意味で、「諫鼓鳥」とは諌鼓の上で

鳥が遊び諌鼓を用いる必要が無い。ということは、領主が善政を施す事を言うらしい。

閑古鳥なら知っているけど…諌鼓鳥は中国の故事らしい。

神田祭の山車に諌鼓鳥が使われたそうだ。善政の象徴として。

対馬歴史民族資料館厳原町今屋敷668-1


地図をみて行ったが、あとでみると表札が4段になって車では全部が目にはいらない。
ぐるぐるまわって探した。

「亀卜」コーナーが、対馬から始まったものなので、興味深かった。

司馬遼太郎のいう「告身」をみた。朝鮮国王から対馬の有力者に与えられた辞令である。

対馬は幕府と朝鮮の板挟みになりながら、朝鮮との外交を続けてきた。

「告身」は中国の言葉らしいが、朝鮮から米をもらうために、朝鮮国王の家臣のような立場も必要だったらしい。


西山寺
(せいざんじ)厳原町国分145

秀吉の朝鮮征伐で朝鮮との交易が破壊された。
宗氏は僧玄蘇の功労で8年かけて国交回復を果たした。
その功績をたたえて慶長16年寺を建て「以酊庵」とした。本堂には玄蘇の木像、丘には墓もある。
最後までこの西山寺で外交文書作成などが行われた。   田中健夫:「対馬以酊庵の研究」


現在はユースホステルになっており、静かで清潔な宿として評判がいい。
朝食はやさしい和食だった。

厳原の鏝絵
松崎で伊豆の長八の鏝絵をみてから鏝絵が好きになった。
ここのは、繊細で、ツシマヤマネコを描いているのか?!
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参考:HP 玄松子の記帳 対馬観光物産協会 ウイキぺディア
   海童と天童・海神と天神:永留久恵  闇の日本史:沢史生  密教の本:学研
   街道をゆく:司馬遼太郎  
by gannyan1953 | 2012-02-23 11:27 | 対馬の歴史 | Comments(2)

対馬歴史探訪2日目

対馬歴史探訪2日目  歴史と素適なおつきあい   2012・2・18

対馬グランドホテル9;00出発
昼食は豆酘産直の駅でマルタイのカップラーメン
宿泊は豆酘 美女塚山荘

内院厳原町豆酘内院
神崎灘にうつろ舟が寄り付きその中に女御がいた。女御は内院邑に住み着き、日光に感じ懐妊した。
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      内院の浜

多久頭魂神社 対馬市厳原町大字豆酘字字龍良山1250  

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祭神:天照大御神・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)・彦火火出見命ひこほほでみのみこと)・鵜茅草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)―明細帳による

摂社:高御魂神社(境内社)、淀姫神社(与止日女命=豊玉姫)、五王神社(素戔嗚尊)
境内に八丁郭と同様におそろし処といわれる塔がある。祭祀場で、不入の地とされる。


多久頭魂神の父である高皇産霊尊を祀る「高御魂神社」という高い格式の延喜式内社を当社が境内社として存在すること、稲作の伝来を伝える「赤米神事」が今でも伝わっていることから、現在の祭神(朝廷関係者)とは一致しない気がする。

ここ豆酘には前述のタカミムスビがうつろ舟にのってやってきたという伝承がある。

タカミムスビは天道の親、祖である。天神多久頭魂神社のそばにある佐護の神御魂神社の神はカミムスビで、天道の母である。

ということは、多久頭魂神は天道である。

両部神道の時代では祭神は天道法師とされていた。両部神道とは仏教が伝来したころ、元々の神と仏を習合する考えで神仏習合の基礎になった。

多久頭魂神社は天道山を神体山とするので、本殿はない。

神体山を拝する拝殿も後から作られた。三輪山の大神神社と同じである。

この神社の天道山は龍良山である。

龍良山南東の麓に天道法師塔、北西麓に天道法師祠がある。

もともと弥生期に龍良山の磐境に天神地祇を祀るところで、山麓には三か所の遥拝所がある。

これが、表八丁郭と裏八丁郭と現多久頭魂神社である。

白鳳期に天道の出現で、表八丁、裏八丁と呼ばれるようになった。

卒土山(そとやま)のおとろし所といわれ、人を寄せ付けない場所であった。

中世近世には、氏神、観音、天道が習合して神仏分離令まで、豆酘観音堂で、

両部神道がさかえ、天道信仰や、天道まつりも盛大におこなわれたと対州神社誌にある。

卒土は蘇塗と似ている。

蘇塗は古代朝鮮から伝わったものと思われる。蘇塗は祭祀にかかわるもので、鳥居の原点といわれている。

鳥居は神が鳥になって降りる場所である。天道法師塔は蘇塗と似ている。

天道法師塔―表八丁郭 浅藻地区に入ると標識あり、山側に曲がってせまい道を直進。左の橋を渡らないで直進。広くなり駐車できる。
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龍良山の南山麓にあり、鳥居の奥に石積みの塔がある。天道法師の墓とされる。

天道法師は1週間読経しながら、この地で入定したといわれる。

(雪が降り続き、凛とした空気に包まれた場所で、緊張してしまい、カメラは向けなかった。)

「おとろし所」といわれ、人を近づけなかった。

木の葉、枝木一本持ち帰ることもなく、迷ってここに差し掛かったときは、背中を見せず、
履物を頭の上にあげ、犬や猫の鳴き声を真似して、後ずさりして去るようにする。

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この木の近くまで後ずさりしてきた

子供の健康を願い祈るとき、生まれたばかりの赤ちゃんを横たえて祈るそうだ。

15歳になったとき、もう一度お参りをする。また、病で苦しむ人に元気な赤ちゃんを横に寝かせて若いエネルギーをもらうこともしたそうだ。

天道法師祠―裏八丁郭
鮎もどし公園の駐車場に龍良山原始林入口の看板があり、そこから600m先に登山口がある。登山口は通り過ぎて先にいくと左手に鳥居がみえてくる。公園から歩いた方が原始林を楽しめる。登山をするなら2週間前までに入山申請が必要。


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天道法師の母の墓であるという。龍良山の北にある。

この地に祀られた天道様はおそらく昔対馬の人々に王と呼ばれた人であった。

日神、祖霊神で、今でも赤米神事が残り、朝廷に神田を与えられた穀物神である。

海から目印になる天道山(龍良山)、そして天道法師の伝説にある海からやってきた母はわだつみの神といえる。先に述べた娘媽神女と融合する考えもある。(天道山参照)

多久頭魂神社の観音堂では赤米神事など古くから伝わる神事・祭礼を行ってきたが、明治の神仏分離令で、天道菩薩を多久頭魂の古名に戻し、観音堂を社殿としたと、「日本の神々1」にある。観音は十一面観音(天照大御神)となったようである。

この動きは明治の神仏分離によって全国の神社で祭神を変更することが多く行われた結果である。

赤米は豆酘の産直の駅で購入できる  対馬市厳原町豆酘2708
美女塚山荘がお昼が休みだったので「産直の駅」でカップラーメンを食べさせてもらった。
対馬に来て以来初めてのコンビニ感覚である。
近所の農林水産大臣賞10回連続受賞の永尾賢一氏による冬菇しいたけも購入。
http://www.tsushima-net.org/gourmet/goodsshop.php


ツツという地名考

①ツツは星か!?②ツツノオか!?③米を筒に入れて伝えたからか!?

①ここの石灯籠には星がある。ツツは星の古語で枕草子に、ゆうづつとあるのは、夕方の星、宵の明星ということである。

「星はすばる ひこぼし ゆうづつ よばひ星 すこしおかし 尾だになからましかば まいて」

すばるはプレアデス星団、六連星(むつらぼし)、ひこぼしはわし座、ゆうづつは金星、よばひ星は彗星、流れ星のことだそうだ。

沢史生氏によると、太白星のことであるという。

豆酘はつつと読み、星の意味ではないかというのである。

もともと、古代から星信仰はあったと思うが、道教や陰陽道で、いろいろな神や仏様にかわっていく。太白星は金星のことで、陰陽道ではスサノオノミコトといわれている。

共通するのは、王権守護、一族繁栄のための信仰で、アマテラスオオミカミが北極星、スサノオノミコトが金星といわれ、のちに日蓮宗では妙見信仰となり、それが庶民に広がると虚空蔵菩薩になる。(鬼の日本史:沢史生)

② 住吉神社のツツノオである。豆酘の男ではないかという説である。

豆酘に住吉はないが、都都智神社があった。雷神社の元の名である。

ツツは筒、チは蛇でツツチは雷神だという。空に光る稲妻を蛇にみたてる。

壱岐の筒城に海神社があり、雷神だという。筑前糸島市(旧前原市)が伊都の国といわれるが、背振山の麓

に昔大きな池があり竜神(雷神)がいたという。

それと地図上で伊都と、壱岐の筒城、豆酘は一直線に並ぶという。住吉三神の底筒男、中筒男、表筒男を宗像三神の女神同様に配祀したものではなかったかという。

宗像三神は玄海の辺津宮、大島の中津宮、沖ノ島の奥津宮に配されている。

和多津美わだつみが対馬発祥で、住吉のツツノオも対馬発祥なのだろうか。(参考:海童と天童:永留久恵)


③ 美女塚山荘のオーナーから聞いた話
   米(籾)を筒に入れて、この豆酘から稲作を伝えたのではないか。赤米神事が伝えられ稲作発祥の地であるかもしれない。

雷神社 豆酘西井坂2852

御祭神: 雷大臣命

由緒: 雷大臣命は神功皇后新羅を征し給ふ時、御軍に従ひ勲功あり、凱還の後、対馬県主となり豆酘に館をかまえ、韓邦の入貢を掌り祝官をして祭祀の礼を教え太古の亀卜の術を伝ふ。由りてその古跡に祠を建て亀卜の神として祭り、毎年旧正月三日に卜部氏天下国家の吉凶を卜する処の社なり。  

「嶽之神」その名は「豆豆智神社」だったという。龍良山は雷雲が湧き立つ山で、、前述のツツは筒、チは蛇を表すことからツツチが蛇の神、雷様になる。

川に沿った境内で、もともと社殿はなく磐座であった。ナギナタと呼ばれる祭事につかう棒のようなものが並んでいる。ここでは明治まで、亀卜が行われていた。

宿は豆酘の美女塚山荘。無茶苦茶親切で、きれいな宿だ。


参考:HP 玄松子の記帳 対馬観光物産協会 ウイキぺディア
   海童と天童・海神と天神:永留久恵  闇の日本史:沢史生  密教の本:学研
   街道をゆく:司馬遼太郎 天道法師の縁起:多久頭魂神社宮司 本石正久 
by gannyan1953 | 2012-02-22 21:34 | 対馬の歴史 | Comments(0)

対馬歴史探訪1日目

対馬歴史探訪1日目     歴史と素適なおつきあい番外編    2012・2・17


羽田7:20発福岡乗り換えで対馬やまねこ空港10:50着 レンタカーで出発
昼食はあがたの里で対州そば
対馬グランドホテル宿泊 口コミの評価は低かったが、部屋、料理とも価格のわりに、とてもよかった。
部屋は海のみえる過ごしやすい部屋である。温泉もある。  
対馬唯一のリゾートホテルではないかと思う。

阿麻留神社 (あまてるじんじゃ)対馬市美津島町小船越字河岸川三五二
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祭神:天日神命(ひにみたま)

阿麻氐留神社の場所は、日神命ひかみのみこと(天照魂命)が住まわれた土地であると云う。

日神命(ヒノカミ・天照魂命)はタカミムスビの末裔で、皇孫降臨の時に、お供をした神である。

由緒:天日神は対馬県主等の祖であるという。

壱岐の月神に続き、阿閇臣事代(あへのおみことしろ)が対馬に立ち寄った時に、今度は日神が人に憑依し「我が祖高皇産霊(タカミムスビノミコト)に大和の磐余に神田を十四町、献上しろ」と、託宣した。

天孫族が神田を献上しているのである。

ムスビノ神

阿麻氐留は天照(あまてる)であり、それは本来この地方の神名で、天照神、で照日神(テルヒノカミ)ともいう。日神は神代三代の神で、タカミムスビといい、「日本書紀」に、巻十五の「顕宗紀(けんぞうき)」において阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に名前が登場する。

アマテラスの子アメノオシホミミはタカミムスビの娘と結婚しニニギが生まれている。ということは、ニニギの祖父である。

豆酘の伝承に「タカミムスビはうつろ舟に乗ってやってきた」まさしく客人神(マロウドカミ)である。

ムスビノ神は八百万の神で天地の諸霊に君臨する日本神話の最高神である。
対馬は皇室と同じ神(天照魂アマテルタマと高皇産霊タカミムスビ)を昔から祀っていたのである。

アマテルは天照大神のことなのかもしれないが、永留久恵著「海童と天童」にはアマテルとアマテラスの関係を述べている。

「天照大神は別名大日孁貴(おおひるめのむち)という。貴(むち)は敬称で、日孁(ひるめ)は日の神の妻の意味である。

その後裔が日子と称したのは祖が大日孁だったからである。

天照大神という皇祖神は大日孁をモデルとして哲学的に作られた女神である。

新嘗(にいなめ)の田を営み、忌服屋(いみはたや)で、神の衣を織る女の姿は神女のことである。

その神女は神妻となり、日子の母となった。

伊勢の大日孁は天武天皇の時代、やんごとなき身分となり天照大神となった。」

梅林寺

6世紀のころ、五経博士(513年)が来日したが、朝鮮からやってきて、この小船越に上陸したそうだ。百済の使者は持ってきた仏像や、経典を一時安置する場所として梅林寺を建立したそうである。

その隣が阿麻氐留神社である。 

琴崎・胡神社(きんざき・ころくじんじゃ) 対馬市上対馬町琴1


祭神: 表津少童命(うわつわだつみのみこと)中津少童命(なかつわだつみのみこと) 底津少童命(そこつわだつみのみこと) 太田命 宇都志日金折命(うつしひかなさくのみこと) 豊玉彦命

安曇氏の祖先にあたる神々である。


「胡簶」と書いて「ころく」と読むが、「やなぐい」とも「しこ」とも読むらしい。

「やなぐい」は、「しこ」ともいい、矢を入れる道具で、腰に矢じりを収めた。

今は存在しない神だが、扁額にある山元しこ島大明神は、山元神社としこ神社の合体したものなのか。

箸墓伝説にある丹塗りの矢は三輪山のご神体蛇である。矢は蛇をさす。

神功皇后の新羅征伐の時、当社沖に停泊していたが、碇が海底に沈んだので、安曇磯良が潜って引き上げたという。

山辺(やんべ)遺跡 峰町三根1136
  
弥生時代の集落。製鉄址あり。362号線峰照寺近くに標識あり。対馬最古の製鉄遺跡である。 

峰町歴史民俗資料館に立ち寄ったが、山辺遺跡から発掘されたものはなかった。
遺跡跡も探したが現在畑の下に埋もれており、詳しい標識もなかったので、場所が特定できずこのあたりというもので、終わった。

天神多久頭魂神社(てんじんたくずだまじんじゃ)対馬市上県町佐護洲崎西里286
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祭神:多久頭魂命(タクツタマノミコト) 天神地祇(テンジンチギ)

天神多久頭魂とは、いわゆる天道と見なされており、対岸の天道山(千俵蒔山)の頂上に鎮まっているという。

境内は天道山の遥拝所にあたる。祭壇が磐座(イワクラ)である。

対馬の南端、豆酘の龍良山には多久頭魂神社があるが、北と南で対をなしている。

大嘗祭では、悠紀(ユキ)殿と主基(スキ)殿が設営され、京都以東以南の悠紀地方と、以西以北の主基地方の両地方の斎田でとれた新穀を献上する。

それで、対馬の南北にある多久頭魂神社を、当社(北)を「主基(すき)宮」といい、豆酘の多久頭魂神社(南)は「悠紀(ゆき)宮」とする。

悠紀と主基が何を意味するのかわからないが、一説に、軍事を表す靭ゆき(矢を入れる道具で背負った)と、農事を表す鋤すき(鍬より古い土壌を耕す農具)であるという。


対馬野生生物保護センター 上県町棹崎公園
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ーパンフレットのメッセージー
対馬には 今 日本から失われつつある自然と共に生きる文化と本当の豊かさがあります

このすばらしい対馬を 子供たちや孫の代にまで残していけるように 対馬に住むひとりひとりがこの島のことを気にかけてください ヤマネコの棲む島 対馬を


海神神社(かいじんじんじゃ) 長崎県対馬市峯町木坂247 
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鳥居の文字がおもしろい


祭神 豐玉姫命(とよたまひめのみこと) 
 
配祀 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと) 宗像神(むなかたしん) 道主貴神 (みちぬしむちのかみ・宗像三神のこと)鵜茅草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)

b0228416_2110767.jpg周辺の木坂山(伊豆山)は千古、斧が入らないという。

天然記念物の原生林で「野鳥の森」となっている。

伊豆山の伊豆とは「稜威」「厳」であり、不浄を許さない聖地を意味する。

 海神神社の伝説では、神功皇后が伊豆山に強い神霊を感じ、そこに鰭神(ひれがみ)を祭らせたとある。

 鰭とは羽衣説話もアジアに広く分布し、似た話が多くある。
  
羽衣とは儀礼用の頒布(ひれ)のことで、招魂、鎮魂など物忌みし、神を招く呪術儀礼に用いられた。
  
日本では絹の長い白布である。隼人は朱色を用いる。


近くの弥生時代のヨケジ遺跡から出土した銅矛の一部と海神神社の銅矛の欠損部分が一致したそうで、遺跡と関係があったと思われる。

この階段!ツシマヤマネコが横切ったかも!?
何か動物が横切った!

中世に八幡神を祀り、祭神は応神天皇と神功皇后となり、明治4年に海神神社に戻った。

継体天皇のころ八幡宮と称し、八幡様の発祥の地といわれている。

和多津美神社と同じ名称のため明治6年に海神神社となった。

仁徳天皇のころ異国の船が来襲し、この木坂の峰から雲が生じ烈風が起こって退けたという。

摂社・行先殿、摂社・濱殿御子神、摂社・乳母神を祀る祠。

木坂は両墓性が明治まで続いた。死者は村の南の保利の山に埋葬され、拝む墓はふもとの寺に作られる。

また、分娩は家でなく産屋で行われた。トヨタマヒメの出産を連想させる話である。

ヤクマ祭りは今も続き、石の塔を積んで伊豆山南西の天道山を礼拝する。

天道山とは美津島の天道山か、豆酘の龍良山のどちらなのか、わからない。

延喜式によると、卜部(うらべ)と呼ばれる主に亀卜(きぼく・亀甲を用いて吉凶を占う法)による国占いをする人々を都に召し出された。対馬から10人、壱岐・伊豆半島から5人ずつ任命された。対馬が古代の祀りごとに貢献できたのは、いち早く大陸から占いが伝わったからである。

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            波が打ち寄せる浜辺にあるヤクマ

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              海をみつめる還暦を迎えた我が夫

和多都美神社(わだつみじんじゃ)対馬市豊玉町仁位字和宮55 
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祭神: 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)

山幸彦(御祭神・彦火火出見尊)が辿り着いた「海宮」との伝承が残される地。

神代の昔、海神である「豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)」が当地に宮殿(海宮・わたづみのみや)を造った。

豊玉彦尊の御子には一男二女があり、一男を「穂高見命」、二女は「豊玉姫命」「玉依姫命」という。

ある時「彦火火出見命(山幸彦)」が、なくした釣針を探しにこの地を訪れ、この海宮に三年滞在し、豊玉姫を娶り結婚をした、との伝承が残される。

日本神話で語られる「山幸・海幸伝説」の場所といわれる。


b0228416_21162458.jpg磯良恵比寿の磐座
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      豊玉姫命の墓(磐座)


磯良恵比寿

神功皇后の道先案内人である。

潜水海人の神、精霊。磯良は、海底の磐座(竜宮)に住むエビスで、顔に牡蠣などの貝やフジツボなどがびっしりと付き醜い容貌を持つと伝えられる。

対馬の和多都美(ワダツミ)には磯良恵比寿という鱗のような亀裂の入った磐座(いわくら)がある。磯良は、また、中世の『八幡愚童訓』、『八幡宮御縁起』では阿曇氏の祖神とされている。

朝廷、平家は絶大な住吉信仰を形成していったが、源氏の時代には神仏習合により八幡信仰が進展した。その根拠地は豊前の宇佐神宮である。
 
豊玉毘売命の子で、鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある。

また、春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている(八幡宮御縁起)。

また、神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む磯良だけは、顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。

そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて磯良が現れた。

磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を借り受けて皇后に献上し、皇后は三韓出兵に成功することができたという。

志賀海神社の社伝に、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある(太平記)。

阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説がある。

宮中に伝わる磯良前(イソラガサキ)という神楽歌で、阿知女作法と呼ばれる神の呼びかけで、(袖で顔を隠した巫女が「アジメアジメ」というと磯良の返事で「オオオオ」という。磯良は亀に乗って現れるが同じように袖で顔を隠す。

海底にいて「石花ハセ」が顔に付いた姿を恥じ、なかなか姿をあらわさないが、舞を踊ると現れたという伝承に準じている。




参考:HP 玄松子の記帳 対馬観光物産協会 ウイキぺディア
   海童と天童・海神と天神:永留久恵  闇の日本史:沢史生  密教の本:学研 
   街道をゆく:司馬遼太郎 
by gannyan1953 | 2012-02-22 20:37 | 対馬の歴史 | Comments(0)

対馬の神様

歴史と素適なおつきあい番外編 
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和多津美神社


 

対馬の神様には天神(あまつかみ)と海神(わだつみ)がある。

天も海もアマと読む。水平線が天とも海とも境目がなく茫洋としたとき、海の民は神々の国、また黄泉の国と思い、漂着したものを神と考えた。折口信夫が称した客人(まれびと)信仰である。

客人は経済的、優性学で考えても島の人にとって有難いことで、神がやってきたと考えた。

沖縄のニライカナもそのひとつで、後に山岳からやってくるものは、降臨という考えになった。

海神がさきで、天神はあとだという。

海神は、目の前の海を体験しているので、縄文からあったと思われるが、天神は大陸から伝わってきた天帝という哲学思考なので、弥生に伝わったものと考える。

ということは、天神も海神も同一のもので、対馬の天神は北の天神多久頭魂神社(てんじんたくずたまじんや)、南の多久頭魂神社(たくずだまじんじゃ)で対をなし、海神は東の和多都美神社、西の海神神社などがある。


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豆酘崎の朝日


対馬の天道


天道とは太陽信仰のことで、対馬にはアマテルで日神、壱岐にはツクヨミで月神がいるといわれる。

太陽を祀ることは世界中にあり、原始宗教共通のものである。

天道地とは、不入の聖地のことで、自然が守られ今では原生林になっている。

そして母神と童神二神を祀る母子神信仰は、三韓征伐で九州に縁のある神功皇后=息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)と応神天皇=誉田別尊(ほむたわけのみこと)の母子の祭神につながり、九州にキリシタンが多いのは母子信仰に抵抗がなく、聖母マリアとイエスを受け入れやすかったとも考えられる。

天童と天道


天童は神話の時代、天道は仏教が入ってきてからの呼び名である。

少童命をわだつみのみことと読む。
なぜ、童、子供を表すのか。大昔、海の神は童形(どうぎょう)で表す原始信仰があった。

子供は生まれて死ぬまでの一生を輪にすれば、最も死に近い位置にあることから、神聖なもの、霊に近い者とみると何かの本で読んだことがある。

この考えが一寸法師、かぐや姫など、小さい子供の霊的な話が作られたという。

天道法師の伝説

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天道法師塔の前にある大きな木



高句麗王朝の始祖・朱蒙(ちゅもん)の生誕伝説のように、神気に感精して懐妊するという北方系の「日光感精型神話」が、対馬に天道法師の神話を伝えさせたと思われる。

天道法師とは、豆酘(つつ)郡内院村に照日某(てるひなにがし)という者がいて、その娘が生まれた。

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内院の浜

天武天皇の時代、娘は日の光に感じ懐妊した。その子が天道法師である。

他に、宮中の女院が懐妊し、密通の疑いでうつろ舟にのせられ、漂着したのが豆酘内院の浜であった。

そして生まれた子が天道法師だという話もある。

いずれもその子は聡明な子に育ち、9歳で都に出て、巫祝(ぶしゅくー神の言葉を伝えること)の術を得た。

そして帰郷して718霊亀2年、元正天皇が病に倒れた時、陰陽師の占いで「天道法師を呼んで、祈らせよ」と託宣がでた。この時33歳の天道法師は空中を飛んで、都に向かい見事天皇の病気は癒えたという。

*修験道の祖、役小角(えんのおづぬ)が空中飛行をしたという伝説があるが、小角は701年64歳で亡くなっている。

694年に天道法師は都に出ていることになるが、関係があったのだろうか。

空中飛行の話は実際のところ、弟子たちがあちこちに布教したため、役小角が超人的にあちこち移動したことになり、空中飛行伝説が生まれたといわれている。

病気平癒の褒美に対馬の税を免除し、天道法師の神域(龍良山)に罪人が逃げ込んだ場合、追捕しない約束をしたという。

これについて、対馬と朝廷が関係していることは、白村江の敗戦以来新羅外交に朝廷が苦心していたこと、天武、持統朝の交易にすでに対馬が絡んでいること、また、海の民の能力が必要とされていたことがある。

天武、持統朝の交易は遣新羅使のことで、この往来で天然痘が国内に流入したとも、日本から遣新羅使により、流入したともいわれているが、天然痘発生は後に奈良の大仏建立のきっかけのひとつといわれる。


天武時代に天道法師はいたのか!?


ところが、天道法師の出現は実はもっと以前で、仏教が伝えられる前から天道信仰はあったのではないか。
山を神体とする自然信仰で、全国の神社の原点である。

今ある神社の前に祖霊神と祀られていたのだ。対馬の祖霊=わだつみ=天道神=日の神だと思われる。

結局昔からあった対馬の祖と仏教を結びつけて対馬を朝廷寄りに抱き込むことが目的だったのではないか。

674年対馬は朝廷に全国はじめての国内産銀を献上している。


天道山


神の山で、航海の目印にもなる山であった。

鹿児島県野間岬の野間岳、長崎県野母崎の権現山、海の女神を祀る。

娘媽神女であるニャンマとかニャンニャン、ロウマともいう。

媽祖(まそ)は、航海、漁業の神で、台湾、福健省など華南地方海岸一帯で信仰されている。

「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」などいろいろな呼び方がある。ロウマが訛って野間になったといわれる。

 つまり海の民の象徴である。東シナ海など行き来する海洋民族で海の民(蜑民タンミン)を治めていた海洋民族は、地元に派手な媽閣廟(マーコウミウとマカオでは読み、マカオの語源)を構え、船の舳先に娘媽神を飾って船出していく。横浜中華街にも媽祖(まーそ)は祀られている。

日本神話の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日本に上陸したとき、本当に天から降りるわけがないのだから、海からやってきた海の民ではなかったかと思う。

闇の日本史:沢史生氏は、妻の阿多都比売(あたつひめ)=木花開耶姫 (このはなさくやひめ)は大山祇命(おおやまつみのみこと)が父で、その父は地の神、海の神といわれる。

海の民だった瓊瓊杵尊が日本に上陸し、娘媽が海の神の娘、木花開耶姫に変化していったのではないかという。




参考:HP 玄松子の記帳 対馬観光物産協会 ウイキぺディア
   海童と天童・海神と天神:永留久恵  闇の日本史:沢史生  密教の本:学研  
   街道をゆく:司馬遼太郎 
by gannyan1953 | 2012-02-13 22:49 | 神様の話 | Comments(0)



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