歴史と素適なおつきあい

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尾張戸神社・内津神社

歴史と素適なおつきあい番外編 愛知県             2012年3月2日

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東谷山(とうごくさん)

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超古代史の本に黒又山、モヤ山、位山などと並んでピラミッドであると読んだ記憶がある。

本がなんであったかわからなかったが、車で向かうときに、とても目立った山だった。

頂上の神社の裏に岩(磐座・いわくら)がたくさんあり、奈良の三輪山のようだ。

井戸は伊勢湾の潮位と関係するとか、ミステリアスなことも書いてあったと思う。

古墳の石室といわれるストーンテーブル、神社そのものが古墳の上に建っているなど、今風のパワースポットである。

古墳は平成20年(2008)に名古屋市が調査し、4世紀後半築造の円墳と断定された。

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夜景が美しいそうだ。







尾張戸神社(おわりべじんじゃ)名古屋市守山区大字志段味(しだみ)字東谷字2099  

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                尾張戸神社社殿

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                中社古墳(参道にある)
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                頂上からの景色

東谷山(とうごくさん)の頂上にある尾張平野の眺望随一の神域である。

祭神:天火明命(あめのほあかりのみこと)
   天香語山命(あまのかごやまのみこと)
   建稲種命(たけいなだねのみこと)
勧請:簀媛命(みやすひめのみこと)

大永元年(1521)に焼失したが、守護の斯波氏により、再興された。

徳川の世には藩主徳川家により、名古屋城の鬼門にあたるということで、

篤く信仰された。

天火明命

祭神は尾張氏の祖である。 

天火明命について史書によって多説ある。

古事記:天火明命 天忍穂耳命(あめのおしほみみ)と高木神(別名―高御産巣日神やかみむすひのかみ))の娘萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)の子であるという。

日本書紀:火明命(ほあかりのみこと)、天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)

先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ):天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやのみこと)素戔嗚命の五男。物部氏の祖先と同一という。

神社志料:天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

       天火明命=天照御魂神ということになると、皇祖神ということになる。

天香語山命(あまのかごやまのみこと)又の名を高倉下命(たかくらじのみこと)

天火明命の長子である。
大和国高尾張の対岸高座山に降臨し、東谷山(とうごくさん)を往来し、尾張開拓のため東谷山に落ち着いた。

麓の渓流庄内川を渡るときには常に一匹の白鹿が現れ、命を乗せたという伝承がある、そのため、鹿乗橋、鹿乗ヶ渕という地名が残る。

尾張の地名の由来は新しく墾り(はり)開かれた土地の意からつけられたという。

建稲種命(たけいなだねのみこと)

尾張国造乎止与(おとよ)命の子である。天火明命から12世にあたる。

建稲種命は日本武尊の東征に従った功績から、稲種は産業振興の意味がある。

熱田神宮にも祀られている。

内津神社を参照。

簀媛命(みやすひめのみこと)

尾張国造乎止与(おとよ)命の娘で日本武尊(やまとたける)東征の折、妻になった。

建稲種命の妹である。日本武尊は簀媛の月の障りをおして交わったという。

日本武尊が能褒野(のぼの)で亡くなると、日本武尊より預けられた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙の剣(三種の神器のひとつ)を奉斎鎮守するため熱田神宮を建立した。

この地は尾張氏本貫の地であり、東谷山西腹には多数の古墳が存在し、神社も古墳の上に作られている。

尾張戸神社は、成務天皇5年(135)簀媛命による勧請と伝わる。

大永元年(1521)に焼失するが、守護の斯波氏により、再興。名古屋城の鬼門にあたり、尾張藩徳川家の信仰も篤かった。

尾張氏

古代の地方豪族で天火明命を祖神とし、本貫地は諸説があり、葛城説、吉備播磨説などある。

もとは海人族で海からこの地にきたと思われる。



美濃、飛騨などに居住したのち乎止与命(おとよ)のとき、尾張国造となる。

なぜだか、尾張氏は皇族が新しくなるときに后をだしている。

尾張氏と皇族の婚姻

①日本武尊と簀媛命
②孝昭天皇(前475-前393)と世襲足媛(よそたらしひめ)
③崇神天皇(前97-前30)と尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)
④応神天皇(270-310)と高城入姫命(たかぎいりひめ)・弟姫命(おとひめ)・仲姫命(なかつひめ)
⑤継体天皇{507-531}と目子媛(めのこひめ)

皆、尾張氏の姫君たちである。そして崇神天皇・応神天皇・継体天皇ともに系譜が変わった天皇である。

表舞台に出る氏族ではなかったが、皇室の外戚という重要な存在であったようだ。

熱田神宮の宮司、同族の津守氏は住吉神社(大阪)、元伊勢籠神社の宮司は海部氏である。

熱田神宮の宮司職は後に、親戚の藤原季範(すえのり)に譲られた。

季範の三女由良御前は源義朝の妻となり、熱田神宮のそばで、頼朝を生んだ。頼朝は名古屋生まれなのである。

そう考えると最初に武家社会を築いた頼朝、後の信長、秀吉、家康、みんな名古屋、愛知県の生まれである。

壬申の乱のとき大海皇子の強力な味方についたのも尾張氏である。

大海という名も尾張氏族の海部をとっている。

このとき、武器を調達した伊福部氏は美濃で鍛冶をしていた。

各務原の豪族村国男依も協力者だが、各務原にも製鉄遺跡がある。

尾張氏の祖である天火明命を祖神とする氏族(新説日本古代史より)

  朝来直(あさこのあたい)
  五百木部君(いおきべのきみ)
  大炊刑部造(おおいのさかいべのみやっこ)
  川内漢人(かわちのあやひと)
  椋連(くらのむらじ)
  児部連(こべのむらじ)
  坂合部連(さかいべのむらじ)
  蝮王部首(たじひのみぶにおびと)
  丹比連(たじひびむらじ)
  襷多治比連(たすきのたじひのむらじ)
  津守連(つもりのむらじ)
  檜前舎人造(ひのくまのとねりのみやっこ)
  六人部連(むとりべのむらじ)
  海部直(あまべのあたい)


内津神社(うつつじんじゃ)内々神社 春日井市内津町上町24

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祭神 : 日本武尊命(やまとたけるのみこと)
     建稲種命(たていなだねのみこと)
     簀媛命)(みやずひめのみこと)

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南北朝時代の禅僧夢窓国師の作庭と言われている庭が奥にある。隣に妙見がある。

神社はしばらくして衰退し、妙見様として復興、のちに内津神社として再興し、庭は寺だったことによるのかもしれない。
 

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由緒は、東国の平定を終えた日本武尊が内津峠にさしかかったとき、早馬で副将軍の建稲種命(たけいなだねのみこと)が駿河湾で水死したという知らせがあった。

知らせをうけた日本武尊は絶句し

「ああ、現哉現哉」「ああ、うつつなりうつつなり」


とつぶやき、鎮魂のため建稲種命の社をたてたことがはじまりという。

建稲種命は日本武尊の妻である簀媛命の兄で、東征に付き従った。

東征の帰路、日本武尊は山道を、建稲種命は海沿いの道で別々に帰ってきた。

しかし駿河の海で尊に献上するミサゴ(野鳥)を捕らえようとした際、風波が強くなって船が沈没、自らも水死したという説と日本武尊をねらう密偵に殺害されたという説がある。

衣服が流れ着いたのが知多半島の先にある羽豆神社、遺体は吉良に流れ着き幡豆神社に祀られたとされる。
by gannyan1953 | 2012-04-22 17:29 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(5)

中川~センター南の歴史散策

歴史ウォーキング

中川〜センター南の歴史散策
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出発:都筑区 中川駅
解散:12時頃 センター南駅
中川地域ケアプラザ〜ガーデンヒルズ・E5遺跡〜中崎橋〜矢羽根不動堂〜柚木台地・矢崎山遺跡〜
道祖神〜おしゃもじ様〜杉山神社茅ヶ崎社〜境田貝塚〜センター南駅



E5遺跡 


 旧中川町1709〜1718・現在中川1丁目2番付近 現在ガーデンヒルズ。

横浜市北部、「港北ニュータウン」は旧石器時代から人々が住み、とくに縄文時代、

どこの台地の上にもその跡が残り「縄文銀座」と言われることもあった。

ここE5遺跡は縄文時代早期に、動物を捕らえるための落とし穴が多く発見され、狩猟の場となった。

縄文時代中期には、竪穴住居の小さい集落があり、弥生時代には方形周溝墓を持つ集落ができた。

家族単位で葬られることが多かったが、赤色顔料の使用などで、階層化していったと思われる。
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炉(ろ)とともに発掘された土器
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方形周溝墓で発見された鉄剣と鉄釧(鉄製の腕輪)
(E5遺跡・財団法人横浜市ふるさと歴史財団)

早淵川(水源は美しが丘西で鶴見川に合流・延長13、7キロ)

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    矢崎西遺跡にシニア施設が建っている

250万年前、丹沢山地が爆発した。(2010年早稲田、首都大学チーム発表)

そして200万年前、伊豆半島が本州に衝突! 
そのころ形成されたものが、海底に堆積し、泥が固まってできた岩盤で、「上総層群」と呼ばれる。

関東平野の基盤を成す岩盤である。早淵川「鍛冶橋」直下にそれをみることができる。

矢羽根不動堂(バス停・矢崎不動)荏田東町4280
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      ここを右に入る
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矢羽根と矢崎の地名の由来は、江田駅近くの荏田城主である荏田源三が弓矢を放った。

矢の羽根が落ちたところが矢羽根、矢の先が落ちたところが矢崎となったという。

荏田城(横浜市青葉区荏田町1288)は私有地で見学不能であるが、遺構がいい状態で残っているといわれる。 

戦国時代になると荏田城も周辺の諸城とともに小机城の支城として機能していたと思われ、

御馬廻衆の曾禰采女助という武士の領地となっている。(城郭図鑑・小田原衆所領役帳)
         
荏田源三は「新編武蔵風土記稿」に源義経配下とあり
「源平盛衰記」には信濃の人とある。

平家物語に弁慶、熊井太郎、佐藤継信、佐藤忠信とともに、「一人当千の兵」とある。

「義経記」では京都の義経の居館(堀川)で、頼朝が雇った刺客土佐坊昌俊と戦い、

矢を受けて討ち死にした。享年25歳だったという。

荏田城から約2キロあるので弓矢が飛ぶ距離ではない。

荏田城の築城方法は中世の小田原北条氏独特のものであるという。

そのため伝説の域をでない話になる。

だが、義経関連の武士が都筑の住民であることから、城主という話はあり得る話かもしれない。

住民だったと思われる人々は、都筑平太「古今著聞集」、熊井太郎「源平盛衰記」、佐々木高綱「平家物語」、鎌田正清「吾妻鏡」らで、存在がこれらの文献にみえる。

昭和41年(1966)NHK大河ドラマ「義経」に荏田源三役を俳優松本朝生さんが演じている。      

不動堂は、地形でみると堂の西には柚木谷戸が、南には渋沢谷戸があって、

谷にはさまれた台地の北端に位置する。山の端の根(はのね)の位置である。

矢羽根はこの地形から名がついたとも考えられる。

地名に使われる根は高い場所、端は突端、端根は羽根と考える。

戦国末期あるいは近世初期にかけて、開墾のためこのあたりに住んでいた人たちが、

創建したものと思われる。

所蔵するお札は天和2年(1682)のもので鮫嶋伝佐衛門、鮫嶋三良佐衛門両名の郷内安全祈願の札である。

鰐口には「武州小机恵田不動」とあり最初のころの呼称だったようである。

百万遍念仏の記録もある。数珠を回しながら念仏を唱えて祈願する。    

(「古代の立野牧と中世の武士団・都筑氏の謎」:久世辰男 ・ 歴史と素適なおつきあい座学「源平争乱と都筑の武将」)


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 ここを登ると左に鮫島家のお墓があるので、静かに歩き扉は開けたらきちんと閉めるように注意する。
登った先が矢崎遺跡で、運がよければ土器片がみつかる。










矢崎山遺跡   

 
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前方丘に住宅がみえる場所が矢崎山遺跡 (早淵川からの遠望) 

都筑区荏田東4−40 現在住宅地になっている

5世紀、古墳時代半ばころからの遺跡である。柚木台地東北部にあり、

100軒の竪穴住居がみつかり大集落があったことがわかった。

そして最新のカマドの存在が話題になった。カマドは、火力調節もできる便利なもので、

6世紀には関東に普及するが、5世紀の矢崎山遺跡のほとんどの住まいにカマドがあったことで、

関東では最先端の生活が始まっていたことになる。

そしてここの首長と思われる人々の古墳、横穴墓(おうけつぼ)もみつかった。

当時まだ珍しかった須恵器も見つかっており、渡来系の技術が早くから伝わっていたことがわかる。

また鉄製品を作る鍛冶の技術も持っており、鍛冶の道具、炉の跡、鏃も見つかった。

カマド、須恵器、鍛冶は渡来人によって伝えられたもので、外交をした倭王権と首長たちとのつながりが考えられる。                         (古墳時代の生活革命:横浜市歴史博物館企画展)

道祖神   荏田東4445付近

[ 三つ並んだ道祖神 ]

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猿田彦道祖神:ニニギノミコトが天孫降臨したときにあらわれた神で道案内を申し出た。

そこから、道の神、旅の神とされ、道祖神となった。

荏田村矢羽根組氏子によって享和3年(1803)に道の安全祈願のために建立(こんりゅう)された。


馬頭観世音:馬が水や草を余念なくむさぼるように煩悩、邪悪の世から苦しみを救うことを本願とする意味があった。

近世では馬が移動や荷運びの手段として使われたので、それに伴い道行く馬が亡くなった時に、馬を捨てる馬捨場、街道などに供養塔の意味でおかれるようになった。

安政3年(1856)に建立され、台石には澁澤(しぶさわ)と刻まれている。

地神塔(じじんとう):農業の神様で、山の神、田の神とされ五穀豊穣を願った神様である。

明治26年建立。近隣の人々の先祖の名がみられる。

[早淵川近くの道祖神と道標]

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馬頭観世音:明治3年建立

道標:正面に「しぶさわ ゆのき」、左側面に「北 えだじく」、右側面に「南 ちがさき」 裏に「東 おおだな えど」とある。

(港北の遺跡をたずねて:港北区役所 ・港北のむかし 65・WIKI )

おしゃもじ様    茅ヶ崎中央60−23付近
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石神様、そして咳、風邪の神様でしゃもじを借りてご飯を盛って食べると治る、

しゃもじで喉を撫でると楽になるといわれている。

風邪が治ったら、新しいしゃもじといっしょにお返しする。
        
石は昔から神が宿ると思われており、おしゃもじ様のご神体は自然石が多い。

この茅ヶ崎中央のおしゃもじ様は、石が三段になっている。

最初は五輪塔だったと思われ、上部の二つの石は存在しない。

本来五輪塔は大日如来の座った形を表したもので、大日如来を供養していたものと思われる。

ここでは天照大神、伊勢皇大神宮のお札が祀られている。家内安全にもご利益があるという。

旧2255番地から茅ヶ崎町2160(現在地)に移され、現在池田宅が世話をしている。 

(港北の遺跡をたずねて:港北区役所・広報ひの:日野史談会)

「おしゃもじ様」信仰の由来はわからないが、関東に多い神様で「社宮司(しゃぐじ)」ともいわれる。

諏訪の神様に、謎といわれる「みしゃぐじ様」があるが、関連があるのかもしれない。

みしゃぐじ様

「みしゃぐじ様」は現在の諏訪の神様(建御名方神・たけみなかたのかみ)の前に、祀られていた神ではないかといわれている。

出雲から逃げてきた建御名方神がみしゃぐじ様に代わって諏訪の神様になった。

諏訪には独特の祭祀や、風習が残りみしゃぐじ様のころからのものではないかと思う。

この神は社宮司、遮愚璽、杓子、舎句子、石護神、赤口神と書かれる。

武蔵を東限に尾張、伊勢、飛騨を西限に分布し、武蔵、相模には40社を数えた。

諏訪の神様の信仰圏である。

みしゃぐじとイサク

諏訪大社の御頭祭で、江戸時代中期まであった「おこう」といわれる祭祀があった。
おこうとは神使、御神と書く。

生贄にされる少年を「おこう」と呼ぶ。
まず「御贄柱」(おにえばしら)という柱に桑の木の皮でつくられた縄で縛られる。

そして柱ごと竹のむしろにの上に上げて刃物が登場する。
そこへ諏訪の国司の使者や神官が現れ少年は解き放たれる。

この話は聖書のイサクと似た話である。

創世記22章によると、神はアブラハムに、イサクを連れてモリヤの地に行くように、命じられた。
そこでイサクを「いけにえ」として捧げよ、といわれた。
アブラハムは仕方なくモリヤの地についたら、イサクを縛りたきぎの上に横たえた。
小刀でを振り下ろそうとしたとき、神は天使をよこして手をとめた。

そこで神はやぶにいた羊を示された。
イサクのかわりに羊を生贄とした。
アブラハムは神から祝福され子孫は繁栄した。

諏訪大社の御頭祭では羊ではなく、鹿が生贄にされた。

みしゃぐじはミサクチ、そしてイサクであるという説である。
諏訪大社の山の名は守屋山で、御頭祭を行ってきた氏族の名は守矢氏である。
やりすぎ都市伝説のような話だが、なかなか面白い。


杉山神社  (茅ヶ崎社) 茅ヶ崎中央58

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祭神:五十猛命
配神:天照大神、倉稲魂神、素戔嗚尊

「地名辞書」吉田東伍著 によると、「当社のご神体は円径10センチの銅鏡に不動の像を刻んだもの」という。

「新編武蔵風土記稿」には式内社であることと、忌部勝麻呂(いんべのすぐろまろ)が天武天皇の世(白鳳3年・674年)に、神託(しんたく)によって武蔵国杉山の地に高御産巣日大神、天火和志命、由布津主命の三柱の神を祀り、「杉山神社」と號すとある。現在の祭神と、まったく変わっている。

忌部氏は天太玉命を祀り、神事にかかわってきた有力氏族である。

その一派の阿波忌部氏のことをいい、四国から房総にやってきて、またその一派が都筑にきたことになる。

続日本紀(しょくにほんぎ)承和5年(838)2月に「武蔵国都筑郡枌山神社が霊験あらたかなため官弊にあずかった」という記事がみえる。

平安時代に作成された、格式度を証明する「延喜式神名帳」にも記載されているため、格式のある神社であるといえる。

ちなみに、このあたりの式内社は他に存在しない。

又、杉山神社は武蔵国惣社(現府中大国魂神社)に勧請された六所宮のひとつであった。

一宮小野社(多摩)・二宮小河社(あきるの)・三宮氷川社(大宮)四宮秩父社(秩父)・五宮金佐奈社(児玉)・六宮杉山社(都筑)となっている。

こうした歴史をもっているのに本社(ほんじゃ)がどこなのかがわからない。

大棚、新吉田、茅ヶ崎、西八朔、勝田などが候補にあがっている。


それぞれが本社であると主張する意見を論じているが、結論をだすまでの証拠がない。

代表作「杉山神社考」:戸倉英太郎著と、平成21年に発行された「私説杉山神社考」飯田俊郎著が詳しいので、興味のあるかたはご覧ください。

境田貝塚(さかいだかいづか)  都筑中央公園

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縄文時代前期(6000年~5500年前)の貝塚である。

今より温暖な気候でこのあたりまで海があった。

縄文海進という。

ムラが作られそのごみ捨て場であったが、この貝塚を作ったムラの住居はまだ確認されていない。
by gannyan1953 | 2012-04-10 21:45 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

富岡製糸場 岩宿遺跡

歴史と素適なおつきあい 一泊旅行              2012年5月10・11日

群馬県を訪ねて

集合:10:45 高崎駅改札口

1日目 富岡製糸場 ・ 達磨寺(夕方高崎からタクシー移動)

宿泊 : 高崎市 「ホテル123高崎 」 夕食 : 居酒屋「ひろき」

2日目 岩宿遺跡 ・ 岩宿博物館 ・ 群馬県立歴史博物館で、 解散
     それぞれ博物館からのバスでJRもよりの駅にむかう。
     

富岡製糸場

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製糸場の概要

我が国最初の官営模範製糸場。

最主力輸出品である生糸の品質改良と増産をはかるため明治3年(1870)に器械製糸場設立の方針を固めた。

フランス人技師ブリュナを雇い、初代所長尾高淳忠や、渋沢栄一(尾高の妹が渋沢の妻)らの努力で群馬県富岡に工場が完成した。

明治5年(1872)に操業、蒸気エンジン300台を設置、当時では世界最新の器械だった。

工女は松代藩士の娘をはじめ士族の娘が多かった。

明治26年(1893)優良な生糸を生産したが、採算がとれず、三井家に払い下げられた。

その後明治35年(1902)¥に片倉製糸として営業を続けたが、昭和62年(1987)操業を停止した。


製糸場を建設した背景



安政5年(1858)アメリカの圧力にやむを得ず開国したが、綿糸、毛糸、毛織物が大量に輸入された。

日本から輸出できるものはお茶と生糸で、このころヨーロッパで蚕の病気が蔓延し、日本の生糸が重宝された。

この蚕の病気を解決したのはパスツールである。

しかし、日本の生糸は評価されず、生糸の太さの均一を求められていた。

それが器械製糸導入となった。


生糸の輸送


高崎線、上信鉄道ができる前にどうしていたのか。

舟運を使用した。倉賀野から利根川へ、関宿で江戸川に入って東京湾を横浜へというルートである。

しかし帰りの舟を川上にひっぱることが大変だった。


製糸場の役割


渋沢栄一は当初から富岡製糸場建設にかかわってきた。

多くの企業、を設立、経営を行ったが、のちに

「富岡は国営で、採算無視できたから、成功した。

日本の製糸に貢献したのは富岡に刺激されて近代化を目指した民間の人々である」といった。

富岡を模範した工場は全国で26におよび、富岡で器械製糸を学んだ工女たちが、全国の工場に行って技術を伝えた。

作られた工場が9工場と最も多かったのが長野県諏訪湖近辺の工場である。

第二次大戦後、製糸業から精密機械工業に転身し、現在の工場の基となった。


世界遺産への登録


建物は、平成19年に世界遺産暫定一覧表に選定され、 審査待ちである。



富岡製糸場エピソード


①工女募集に苦労したがあるデマのせいだという。

「工場に行くと外国人に血を吸われる」

「蒸気で顔が青くなる」

「腰掛に針金が引いてあって油を搾られる」


という噂がとんだ。

これは日ごろフランス人がワインを飲むかことからの誤解であった。

富岡製糸場のブリューナの家の地下にはワイン蔵があった。


② 「富岡日記」の著作者・横田英の家は優秀な家系であった。

英の兄弟は10人ほどいたが、大審理長・
現在の最高裁判所長官にあたる役職、

鉄道大臣、貴族院議員、朝鮮の地方院長、そして甥には最高裁判所長官、一ツ橋大学教授などである。

松代藩士が明治にこれだけ出世した例は稀有である。

英は60歳をすぎて「富岡日記」を書いた。

明治初期の町の様子、勤務状況などよくわかり面白い。







岩宿遺跡 群馬県みどり市笠懸町阿佐美1946-1

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尖頭器を発見した場所

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岩宿ドーム 内部にはいると保存された地層や説明映像が見られる

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遺跡の説明板

岩宿遺跡の発見は縄文時代以前に、人は住んでいなかったと思われていた学説をくつがえすものであった。

戦前までは発掘をしても赤土・関東ローム層が出てくると、

それが自然のままの地盤(地山)と考えられていたため、それ以上掘られることはなかった。

それまでは縄文時代(世界史では新石器時代にあたる)の人々が土器を使い、

日本最初の人間であると思われていた。

(明石原人発見が昭和6年にあったが、信憑性がないと研究されず、

東京大空襲で発見された腰骨は焼けてしまった。

今では縄文時代の人骨といわれているが、わからないままである。)

ところが、岩宿遺跡から土器を含まない地層に石槍を発見したことから、

関東ローム層が堆積する以前に人が住んでいたのではないかと証明する人があらわれた。

1946年切通しの道沿いに露出した赤土から石器を発見したのが

相沢忠洋(あいざわ ただひろ・1926年~1989年)である。


相沢氏はそれから何度もその切通しの崖を調査した。石器は見つかるのだが、土器は出てこない。

やがて赤土・関東ローム層から、黒曜石の石槍がみつかり、縄文以前の時代があったことを確信した。

相沢は、納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていた。

考古学者ではない相沢は、明治大学の学者に槍先形尖頭器を見せ、

人工のものであると確信され、岩宿発掘が行われることになる。

相沢忠洋の生い立ち

幼いころ鎌倉で過ごしていた。

父は笛をたしなむ芸人で、収入が少なく、巡業で不在が多かった。

その父にかわって母が生活を支えていたが、妹が風邪をこじらせて亡くなってしまった。

これを機に両親の仲が悪くなり、離婚話が持ち上がっていた。

このころ寂しかった相沢は、自宅裏の土地から土器片など掘り起し、

古代人が家族で身を寄せ合って暮らす暖かさを感じ、古代に夢を馳せるようになった。

母がいなくなってから、兄弟はバラバラによその家にもらわれていき、

相沢は鎌倉の杉本寺に預けられた。

ところが、長くいられず浅草の履物屋に奉公することになった。

そこでは商売人には学問はいらないと本を読むことも禁止されたため、

ひと月に二度の休みは、帝室博物館(国立博物館)に熱心に通った。

あまりに熱心だったので、守衛の数野さんと親しくなり、いっしょに小豆沢遺跡を発掘したりした。

戦争になると海軍に志願し駆逐艦に乗っていた。

戦後の発見


戦後、考古学を自分で学び遺物がたくさん出土する赤城山麓に

「赤城山麓における縄文文化早期初頭遺跡の基礎資料の集成」を

目的としてたったひとりの東毛考古学研究所を昭和22年に設立した。

そして切通しで石器、のちに大発見となる完形の槍先形尖頭器を見つけた。


芹沢との出会い

槍先形尖頭器を持って、東京の学者江坂輝弥の自宅を訪ねたおり、明治大学院生・芹沢長介と出会った。


意気投合した芹沢が、明治大学助教授杉原庄介に相沢を紹介した。

そして岩宿遺跡発掘の運びとなる。

芹沢長介は静岡の染色工芸家の芹沢銈介(けいすけ)の息子である。

発見の報道後、芹沢長介は、杉原庄介と袂を分かち東北大学に移った。

相沢の発見を相手にしなかった学者が多くいたなか、耳を貸し、手を貸したのが芹沢だった。

相沢は芹沢に会うために交通費節約のためといい、桐生から東京まで、

120キロの道のりを自転車で通った。

岩宿遺跡の意義

発掘で明らかになったことは、関東ローム層の上にある黒土から土器が出て、

下のローム層からは石器だけがでる。

明らかに石器は縄文時代よりも前の時代であるということが証明された。
 
少なくとも約3万年前の石器であることがわかった。

発見の報道


当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。

明治大学編纂の発掘報告書でも、

相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、

代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。

芹沢は発表原稿に相沢の功績がないことを抗議し訂正を求めた。

そこで、「地元のアマチュア考古学者が発見した石器から杉原助教授が発見した」と訂正された。

さらに地元でも相沢忠洋の功績を売名、詐欺師などの、事実ではない誹謗中傷があった。

学者ではない行商人風情がなんだという考えがこのころにはまだ強かったと思われる。


その後の岩宿

その後岩宿遺跡では、発見された時代よりも古い石器を求めて発掘調査が行われた。

その結果、「珪岩製旧石器」が発見されたが、その資料の評価については、

問題視する意見も多く、現在も論争が続いている。

1979年、岩宿遺跡は、重要な遺跡として国指定の史跡となり、保存と整備が進められた。

旧石器時代

一時は100万年前に遡るのではといわれた旧石器時代も、

結局東北の遺跡の藤村新一の旧石器捏造事件で、

旧石器時代が何年前に遡れるかということが、はっきりしないままになっている。

現在のところ確実なことは、3万年前から10万年前までといわれている。

日本列島では、後期旧石器時代を遡る確実な人類化石は知られていない。

日本の土壌は酸性が強いので人骨が残りにくい土壌であるという。

しかし、最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は

野尻湖湖底遺跡はじめ各地から報告されており、

そうした動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してきた可能性は充分考えられる。

つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さえも想像される。

この期の遺跡の調査例は少ない。

石器や生活道具類が発見される程度である。

参考:相沢忠洋記念館・岩宿博物館・ウィキぺディア 

        
杉原庄介と芹沢長介の論争 

1987年6月16日毎日新聞記事から

東京都稲城市の多摩ニュータウン建設予定地の

埋蔵文化財を発掘調査している都教委と都埋蔵文化財センターは十五日、

「南関東ローム層の中から初めて前期旧石器時代の石器群を発見した」と発表した。

少なくとも三万年以上前の前期旧石器とみられる石器は東北や九州でも発掘されているが、

考古学界には「前期」の石器は日本にはないとする説も根強く。大論争となっていた。


地層の年代に定説がある南関東ローム層での発見で、

考古学者間の永年の論争は事実上、終止符が打たれた。
 
この遺跡は、標高百三十メートルの丘陵尾根にある「多摩ニュータウンNO471―B遺跡」。

発見された石器は、

流紋岩製の尖頭器(ポイント)掻(そう)器(スクレイパー)、石核(コア)など九点と、

砂岩製の敲(たたき)石(ハンマー)一点の計十点。

地表から約二・五メートル掘り下げた東京軽石層(厚さ十五センチ)の

直上のローム層中にほぼ一列に並んでいた。

 東京軽石層は、約四万九千年前後の箱根地方の

火山活動で噴出した火山礫(れき)灰がたい積してできた。

東京周辺では、多摩丘陵、狭山丘陵など古い地層だけに残っており、

出土遺物の年代を決める上で、「決定的な基準」となる。

同層の直上から発見されたことで、

今回の石器群は「古くて五万年前、新しくても三万年以上前に使われていたのは

確実」と都教委は説明している。

 人類は、猿人(オーストラロピテクスなど)―原人(ホモ・エレクトゥス)

人(ホモ・ネアンデルターレンシス)―新人(ホモ・サピエンス)の

進化をたどってきたとされるが、

今回発見の石器を使っていたのは旧人たち

多摩丘陵の先住民たちは、流紋岩製のヤリのホ先や皮はぎ器を使い、

落とし穴やワナで、オオツノシカやナウマンゾウなどを狩猟していたと見られる。

都教委は

「黒曜石の交易が広く行われていた旧石器時代後期の新人たちとは、異質の文化があった」

と、想定している。

 考古学界を二分した論争にようやく決着がついた。

「前期旧石器はある」と主張し続けてきた東北大名誉教授の芹沢長介さん(六七)=仙台市在住=

も発掘に立ち会い、前期旧石器を自分の目で確かめた。

 発掘現場の広さは約三百平方メートル。

芹沢さんは教え子からの連絡で今月八日、同ニュータウンに駆けつけた。

長さ約五センチの土まみれの尖頭器を手にした芹沢さんは

「間違いない。旧人の文化のあかしです」と喜んだ。


 都教委は今回の現場を、遺跡とは見なさず、

未調査のまま今月下旬、建築工事に引き渡す予定だった。

しかし、芹沢門下の「石器文化懇話会」のメンバーが調査を都教委に迫り、歴史的発見につながった。

 日本の旧石器研究は昭和二十四年、相沢忠洋氏が

群馬県の「岩宿遺跡」(後期旧石器)を発見したのが始まり。

旧石器文化はどの時代までさかのぼれるか。

杉原荘介・明治大学教授(故人)は、

昭和三十年代に青森県・金木遺跡などの調査をもとに、

「日本の旧石器文化は三万年前が上限。旧人による前期旧石器時代は存在しない」と発表した。

これに対し、芹沢氏は三十九年に、

大分県・早水(そうず)台遺跡出土の石器を「前期旧石器文化の証拠」

と主張し論争を巻き起こした。


 杉原説を支持する一部の学者は

「地層の年代が確立している南関東地方で発見されなければ、信頼できない」

と反論してきた。

、「南関東ローム層の中から初めて前期旧石器時代の石器群を発見した」

というニュースは芹沢説を証明することになった。


 二十三年にわたる論争の終結に、

杉原氏の後継者の戸沢充則・明大教授(五四)=考古学=は

「杉原仮説が敗れたのは確か。しかし、先生は、地層解釈がしっかりしている

関東ロームでの発見に、十分納得され、あの世で喜んでおられるはず」


と語った。(杉原庄介記念室より)

しかし

(現在多摩ニュータウン471B遺跡発見の前期旧石器については捏造であるという疑惑があり、東京都からも灰色であるという報告がなされています。なお、同遺跡の発掘調査報告書は刊行されておりません。)


その後、このようなことが付け加えられており、考古学のむつかしさとねつ造疑惑
の騒ぎで素人にはわからない話になってしまった

2015年 石の虚塔を読んだ。
ねつ造とは何かを考えたがロマンに浸りすぎた結果だったのだろうか。

by gannyan1953 | 2012-04-06 23:23 | 群馬県の歴史散歩 | Comments(0)



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