歴史と素適なおつきあい

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送電線を追って・港北ニュータウン

歴史と素適なおつきあい番外編     2012・7



送電線を追ってみようと市境の尾根を自転車ででかけた。

ボッシュの先を右折して変電所や有馬小学校の横をとおる市境の尾根道を行く

中川駅~ボッシュ小山田交差点~川崎横浜市境の道 送電線がある道右折~有馬古墳~打越交差点におりる~川沿いの道を行く~観音寺~第三京浜をくぐって中原街道へ ここで送電線から離れる~鎌田堂~のちめ不動~山田神社~新吉田杉山神社
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 有馬古墳


有馬古墳川崎市宮前区東有馬5ー15

有馬の由来
①二つの丘陵の間にある地形から在間~有間~有馬。
②馬の産地の馬絹が隣にあるので、有馬。

有馬古墳の 出土品 川崎考古学研究所・川崎ミュージアム所蔵

蔵骨器 (奈良時代)
蔵骨器 (平安時代)
板碑 (南北朝時代)
常滑蔵骨器 (室町時代)
椀 (室町時代)         頂上にお稲荷さんがある。

尾根道の終点、坂を降りると打越交差点。信号を渡って、まっすぐ桜並木をいく。

美里橋 かわいい人道橋でした。

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気になる電柱広告があり、矢印の方向に行ってみた。

休日だったので休みだったが、薬の命名は後醍醐天皇だそうだ。

本店は御所にある。漢方胃腸薬で戦国時代の武士も重宝したらしい・

土方歳三の家に伝わる石田散薬は今はないが、ここまで続く薬ってすごい。


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観音寺山門

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宝永の石造物がある

観音寺 都筑区東山田4-32-30 

天台宗で、「諏訪山普門院」という。深大寺の末で、本尊は諏訪から旅をしてきたお坊さんが諏訪明神の像を彫り、体内に聖観音を納めたものである。

中原街道にでて、中原方面に向かう。

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 鎌田堂

鎌田堂都筑区東山田1393

正清の住まいの跡である。

 「堂の背後に鎌田兵衛正清の館ありし故 土人 鎌田堂と云う。
 二間に三間なり。
  印子の観音を安置しありしが奪われ、 霊元天皇、 寛文十三年、 現在の石地蔵建立さる。
 寛永の頃 佛誉ぶつよ常心じょうしん止住とどまりてすむ 。
 以来 安政の頃迄 念佛道場として繁栄 道場坂の名を残す。
 尚、子育こそだて地蔵 、諸願しょがん成就じょうじゅの地蔵として庶民の信仰厚き聖地なり。」



鎌田正清 

平将門を討ち取った藤原秀郷の流れ(七代目)の首藤助清の一族でその孫の相模国の住人鎌田通清の子で

ある。父は鎌田氏の祖である。正清は源義朝の一番の郎党である。

歴史と素適なおつきあい 「渋谷庄・海老名」から源義朝の若い郎党渋谷金王丸から抜粋

平治の乱で敗戦した義朝一行は、近江、青墓(大垣)、舟で愛知県知多の野間の長田忠致(おさだただむね)の屋敷へと平治物語にはある。

ここからは内海のタクシーの運転手の話である。

「青墓から桑名あるいは伊勢から舟で内海へ、それから山中を進み岡部の大岩で腰掛け休憩をした。

農民たちからいろいろ世話をしてもらったため、義朝は、農民たちに大岩の姓を賜った。」


実際その運転手も大岩さんだが、やたら、大岩姓が多い。そして山中を野間に向かったという伝承である。


とにかく野間に到着したが、なぜ野間に行ったかというと、

長田氏は源義朝の家来、鎌田正清の妻の実家である。

道中4人といわれるが、義朝、正清、金王丸らは、馬、馬具の調達を頼み、急いで東国に落ちのびるつもりだったが、

「ゆっくりしていけ」と長田忠致に引き留められる。

長田は義朝を裏切るつもりであった。

鎌田正清は山田城主である。都筑区の山田神社の地にあった。

義朝は金王丸に背中を流してもらい湯につかっている。

正清は酒の歓待をうけていた。

金王丸は刀をもってはいっていたため、長田の郎党は襲うことができない。

金王丸は着代えがないので郎党に声をかけたが返事がない。

長田の郎党は、あえて着代えは用意しなかった。

しかたなく金王丸は、着代えを取りに外にでた。

そこへ、長田の郎党たちが義朝を襲い殺してしまう。

正清は異変に気付き、かけ出すが郎党に囲まれ殺される。

正清の妻は自らの父の裏切りを嘆き、夫の後を追う。

金王丸は急いで戻って戦うが劣勢になるや、馬で飛び出し京都まで戻る。

義朝の愛妾常盤御前に知らせ、僧となって義朝の菩提を弔う。

知多半島の野間には役小角が創建、中興が行基といわれる野間大坊がある。

のちに頼朝はここに父義朝、自分の助命をしてくれた池の禅尼、鎌田正清夫妻の供養塔を建てた。

文治元年(1185年)9月3日、政清の首は義朝の遺児・頼朝によって義朝の遺骨と共に鎌倉の勝長寿院に葬られた。

建久5年(1194年)10月25日、政清の娘が勝長寿院で父・政清と義朝の追善供養を行っている。

政清に男子が無かった事から、頼朝はこの娘に尾張国篠木庄、丹波国名部庄の地頭職を与えている(『吾妻鏡』)。




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のちめ不動

のちめ不動 東山田3-18

平成3年に新築された。縁起は古く文久4年の上棟の木札がある。

本尊は不動明王で、甲州武田の守り神であったと伝わる。

文久4年に、二〆(のちめ)城山の住人が八王子の武田遺臣居住地から、背負ってきたといわれる。


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山田神社一の鳥居

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弥平次谷戸の碑

漆原弥平次の名に由来した地名 山田神社の参道の左の車道を登っていくとある。

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山田神社

山田神社南山田3795
明治43年村社神明社と諏訪神社など13社を合祀した。

祭神は大日孁命(おおひるめ)・武御名方命(たけみなかた)・神皇産霊神(かみむすひのかみ)

貞観2年(860)、天台宗の延暦寺慈覚大師の弟子である安然和尚が諏訪神社を祀ったのが始まりである。

文政2年(1445年)、諏訪山大普門院観音教寺(観音寺)の僧、正応が秩父の妙見社から分祀した。

神仏合祀の名残で梵鐘がある。


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山田神社五の鳥居から四の鳥居をみる。参道は長く緑でいっぱいである。 6年前朝早く訪れた時参道に、タヌキがいた。



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山田神社からサレジオがみえる

杉山神社 新吉田 (横浜市港北区新吉田町4509)

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祭神   五十猛命 (いたけるのみこと)

配神   権五郎景政霊、北野聖廟、素戔嗚尊

摂社 稲荷様、天神様


都筑郡新田村吉田の郷社である。

「都筑郡吉田と云うに杉山という小地名ありて其の処に座す社実蹟なり」(武蔵式社記)


「除地二段五畝、村の北方にあり、石階数級を登りて社前に鳥居を立つ、本社二間に二間半、拝殿三間に二間、南向、神体不動、村内正福寺の持」(新編武蔵風土記稿)

とあり、式内社の有力候補のひとつである。

小字の地名に杉山があり、近くに千年以上住んでいるという伝承をもつ森家が存在する。

森家の背後には浅間塚という円墳があるこのから、式内社ではないかといわれている。

又近くに北川貝塚遺跡があり、縄文時代の貝塚、炉穴、住居、弥生時代の住居跡など発掘されている。

台地中央には2万年前の旧石器時代の石器製作跡が見つかっている。


色々な杉山神社に出かけたが、ここだけは他と違う雰囲気がある。

まずまわりが森のようにうっそうと茂った緑に包まれていること。

神職がいないそうで、近くの人々が守っていること。

荒れた感じはするが、本当に静かで神域の空気を保っている。

途中の道にまったく道しるべもない。ひっそりと山の上にある。


以前も道に迷ってしまったが、社まで三つの道がある。

鳥居のある正面は車が通ることのできる道なのでそちらを道案内する。

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都筑インターに向かう道でコンビニの手前、北川橋を左折 

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道なりに進む

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注意信号を右折

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ここを左折

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ここを入る あッ侵入禁止だった ごめんなさい 私は歩きでした(>_<)

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右手に鳥居
by gannyan1953 | 2012-07-12 20:50 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

ユーシン渓谷の暗闇のトンネル・女郎小屋沢の伝説

歴史と素適なおつきあい番外編       2012・6・30(土)

ユーシン渓谷   

玄倉ビジターセンター~小川谷出合~女郎小屋沢出合~青崩隧道~石崩隧道~玄倉ダム~ユーシンロッジ~帰路~玄倉ビジターセンター

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神奈川県足柄上郡山北町の玄倉川の渓谷である。

ユーシンという名は有信、友信、湧津、幽神(これはなんだか怖い)の字が当てられる。

明治のはじめに小田原藩の武士が入植したことに由来するそうだ。

現在はカタカナ表記で、付近は諸土平という。


丹沢湖の玄倉から上流にむかって玄倉川にそって林道を歩いていく道で、標高差は400mくらいなので

ハイキング気分で行ける。距離は往復12キロある。

2012年現在通行できるのは人と自転車だが、6月末に訪れた時は土砂崩れしたままの場所が2か所あったので、自転車も大変そうだ。


中央構造線上にある青崩峠と同じ名称の青崩隧道もある。ここは懐中電灯なしで歩くとものすごく怖い!


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真っ暗闇からやっと見えたトンネル入り口


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玄倉ダム  ユーシンブルー




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落石だと思うが、磐座のようにみえるユーシンの森


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ユーシンロッジ 2012年現在休館

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女郎小屋沢の地名の由来

林道に入って少し行くと女郎小屋沢という場所がある。

地名の由来は伝承によると、明治時代女郎を身請けした炭焼きがいた。

もう一つ、昔女郎小屋があった。などといわれるが、鉱山関係の由来ではないかと思う。

近くに芋ノ沢があり、芋はイモ、鋳物となり金属関連の言葉である。鉱山に女郎はつきものである。

女郎小屋沢は玄倉川に北側から流れ込む沢の一つであるが、その沢上流に武田信玄の隠し金山があったという。
 

「東沢」という。

明治になり、この東沢に200人ほどの坑夫や、女郎が住んでいたという。

地元の人の立ち入りを禁じていたため、詳細はわからない。

関東大震災で埋め尽くされ誰一人戻ってきたものはいないという。

他のサイトに信玄の隠し金山 東沢というのがあってそれを見ると昭和にも発掘が続き、

トロッコのレールも残っているという。

埋まっていなかったのか、場所が違うのかわからないが、一度東沢に行ってみようと思う。


6年前2006年夏に山梨県の増富の信玄の隠し金山にいってみたことを思い出した。

山梨県の増冨温泉の奥に金山平というキャンプ場がある。

民宿もやっていたが、民宿の方は、今は廃業してしまった。その民宿のオーナーによると、

「この裏手の山に信玄の隠し金山があって大学の先生はちょくちょくきなさる。」とのこと。

早速主人と登ってみた。

鉱穴がたくさんあった。

みな奥に水がたまっていたが、深いものもあった。



ユーシン渓谷は、表丹沢という塔ノ沢あたりは山ガールで賑わうのに、西丹沢というこのあたりは人も少ない。いるのは蛇だけだった。

最初の川の写真をとっていたとき、足元に茶色の蛇がきた。 怖かった。

というわけでとても静かなハイキングコースである。 

熊木沢の秋



by gannyan1953 | 2012-07-01 15:49 | ユーシン渓谷 | Comments(0)



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