歴史と素適なおつきあい

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平将門と蝦蟇

歴史と素適なおつきあい番外編          2012・11・25


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筑波山のガマガエル 口にあたる所に小石が投げられており、後ろを向いて口の中に石を投げると願いが叶うという。

平将門の首塚にカエルの置物がたくさん奉納されている。



なぜ、将門とカエルなのか

1 京で晒された将門の首が胴体を求めて飛んできた伝説から、カエルとなった。
   実際、近くのサラリーマンが海外に出張、転勤などで遠く離れるとき

  「無事帰る」とお参りする語呂合わせ説。

2  将門の三女といわれる「五月姫」が、戦乱を逃れ、奥州の恵日寺で
    出家した。
    将門の三十三回忌天禄3年(972)に岩井市の国王神社の地にやってきて
    霊木に将門を刻み祠を建てた。国王神社のはじまりである。

   この時点ではまだカエルと縁はない。
   江戸時代になって、山東京伝の読本「善知鳥安方忠義伝」
   (うとうやすかたちゅうぎでん)で、

   「将門の娘、滝夜叉姫が、父の復讐にたちあがり、筑波のがまの毒気を浴びて
     妖術使いとなった。
     魑魅魍魎の妖怪を連れて、朝廷転覆を謀るもその姿は鬼で
     蝦蟇にのって現れる」
        
     という創作話から、将門と蝦蟇のご縁ができたという説

     2013年4月 東京歌舞伎座のこけら落としの演目に
     「忍夜恋曲者」(しのぶよるこいはくせもの)がある。
     坂東玉三郎さんが滝夜叉姫を演じている。復讐するお相手の
     大宅太郎光圀は  4代目松緑さん38歳である。
     みたいな。みにいこうかな。まだやってるな。
     玉三郎さんは好きです。
     
   
3 平将門の本拠地茨城にある昔からの信仰の山にガマ石があったので、
  将門とご縁があったカエルという説

3番目のガマ石と将門の関係を考えるため、いざ筑波山へ!
「白雲コース」を歩いた。

その日の筑波山は紅葉を求めた観光客が多すぎて山の中で、人の渋滞、頂上までたどりつけない。

山ガール、山ボーイ、小さい子供もわんさかいて、にぎやかな山登りだった。

もちろん登山なので、ケーブルなどは使わない。


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筑波大学 でかい!

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筑波山 標高877mの双峰。東側の頂が女体山で標高877m、西側の頂が男体山で標高871m。

約2億年前このあたりは深い海の底で、泥や砂の厚い地層ができた。
約7500万年前 地層にマグマが入り込みゆっくり冷えて斑レイ岩ができた。
約6000万年前 再びマグマが入り込み冷えて花崗岩となった。
約5000万年前 隆起して地表が浸食されて今の筑波山の形になった。

登山道でよくみられるのは斑レイ岩でヒビが入り直線で割れたり面が平らになったりした石でとても
歩きづらかった。登山道の階段に多く使われている。

標高が低くなると花崗岩で山麓にみられる。近くの加波山では採石場があり墓石、工芸品に使われる。

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筑波山神社入り口

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公衆電話の上にカエルがいた。

筑波山神社
祭神;イザナギノミコト・イザナミノミコト

崇神天皇の時代、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城に物部氏の一族筑波命が
筑波国造に任じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。
景行天皇の皇太子日本武尊が、東征の帰途登山したことが古事記に書かれ、
その歌によって連歌岳の名が残る。

奈良時代には万葉集に筑波の歌が25首載せられている。

神仏習合で、筑波山神社にも堂塔が建てられた。

江戸時代家康が鬼門を護る山として信仰を深め、1500石を献じた。

幕末には藤田小四郎らが、尊皇攘夷を唱え筑波山事件が起きた。

筑波山事件

1864年水戸藩の尊王攘夷急進派・天狗党が攘夷の実行を幕府に迫り、筑波山で挙兵した事件。
「天狗党の乱」のはじまりで、その後敦賀まで進軍し結局降伏して悲惨な大量処刑が行われた。

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筑波山神社楼門

寛永10年11月(1633)徳川家光が寄進した。その後焼失し、

文化8年(1811)に再建された。ここからご神体である筑波山を望み、古くはここから遥拝したという。 

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なぜか本殿脇に「宇宙の卵」というものがあった。強化プラスティックで60トンあり、当時は銀色で
卵は無の象徴だという。つくば万博の折安全祈願をしたのが筑波山神社だった。

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御神橋

 茨城県指定文化財。切妻造柿葺屋根付。間口1間、奥行4間。通常は渡れない。
春と秋の御座替祭(4月1日、11月1日)、年越祭(2月10・11日)のときのみ参拝者は渡ることができる。
江戸時代、1633(寛永10)年家光の寄進である。
1702(元禄15)には、徳川綱吉によって改修されている。
安土桃山時代の様式を残す。

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楠正勝の墓

楠正成の孫で虚無僧の祖といわれる。昔白雲橋があるところに古通寺があり、寺に立ち寄ったという。

古通寺は昭和13年(1938)山津波で流された。

千手沢 (せんじゅざわ)
 筑波山神社の東側を流れる沢。下流で逆川に合流してから桜川に流入する。

普段は小さな沢だが、昭和前期、大雨で山津波が発生、2人が死亡する事故が発生している。

その後、砂防ダムが整備されている。又、下流では寺川と呼ばれる。

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筑波山千寺川(せんじゅがわ)砂防堰堤群 昭和13年の災害から5年後の昭和18年竣工
石積みの趣ある砂防堰は土木遺産に指定されている

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道標


筑波山の怪石群

磐座が好きなので興味をもって登山したがパンフレットには磐座の文字はなく、
「怪石群」とあって少しショック!

古代信仰の巨石というイメージはなかった。

だがそこかしこ石の線がペトログリフに見えてくるから、悩みながら登った。

ペトログリフとは古代に石に刻まれた岩絵、線刻文字、線刻画のことである。

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白蛇弁天
祭神は高淤加美神(たかおかみのかみ)で、昔白蛇を見た人がお金持ちになったといういわれがある。
白蛇は弁天様の化身といわれる。

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お稲荷様

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途中の景色

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弁慶七戻り

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岩が落ちるかと弁慶も七回戻ったといういわれがある

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高天原

天孫降臨の高天原である。ちなみに全国にある高天原は 奈良県葛城山、宮崎県高千穂、
熊本県山都町の幣立神社、岡山県蒜山、群馬県上野村、茨城県多賀郡、長崎県壱岐市、鳥取県氷の山、
霊石山・伊勢ヶ平、和歌山県高野山の天野神社などある。

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高天原の岩の上にある稲村神社

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胎内くぐり
岩をくぐると生まれた姿に立ち返られるるという。少しは若返ったのかな。

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国割石
住吉の神様が集い、線を引いて神々の行く地方を割り振ったという。

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出船入船
熊野の鳥居石といわれ、船玉神を祀る。船玉とは船霊のことで、航海を護り、船が作られたときに勧請する。
多くは女性の神で、媽祖(まそ)、にゃんま神と同一と思われる。

媽祖とは、娘媽神女であるニャンマとかニャンニャン、ロウマともいう。
媽祖(まそ)は、航海、漁業の神で、台湾、福健省など華南地方海岸一帯で信仰されている。

「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」などいろいろな呼び方がある。ロウマが訛って野間になったといわれる。

 つまり海の民の象徴である。東シナ海など行き来する海洋民族で海の民(蜑民タンミン)を治めていた海洋民族は、地元に派手な媽閣廟(マーコウミウとマカオでは読み、マカオの語源)を構え、船の舳先に娘媽神を飾って船出していく。横浜中華街にも媽祖(まそ)は祀られている。


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裏面(りめん)大黒
大黒様の後ろ姿

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北斗岩  
北極星のように不動の岩

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大仏岩
ほんとに大仏様に見える

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女体山からの景色

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今回これを見に来たわけで、ガマ石
人気があって近寄れない

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平将門公史跡 嬥歌の碑
古代東国にあった風習で男女が春秋二回、山や市(いち)などに集まって歌い合ったり、踊ったりした行事をいう。
「風と雲と虹と」という大河ドラマでそういうシーンがあったという。
残念ながらみていない。

司馬遼太郎の燃えよ剣に大国魂神社のくらやみ祭りのことがでてくるが、似たようなものなのか。
ほんとに昔には男女の一夜の自由恋愛があったのだろうか。

もともと持統天皇のころ歌垣といって貴族の男女が踊る行事が伝わってきたらしいが、
神事としての自由恋愛はおもしろい。

1のかえるの語呂合わせは平凡。2の滝夜叉姫はあくまで創作。

古代信仰のあった神様の山である筑波山、将門が近くに感じられ、こじつけでも
首塚のカエルは「筑波山」のガマ石があったことからからお供えされることになったということにしましょうか

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ガマの油売りの口上。 現在では400円で軟膏が売られている。
by gannyan1953 | 2012-11-30 19:03 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

鉄と神

歴史と素敵なおつきあい2008・7・11・金曜  座学
鉄と神
                                       
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ケラ
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お台場の未来館展示
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未来館でたたらをしたときにできたケラ
2014・4・11撮影


人間と鉄との出会い

隕鉄―小惑星の核のニッケルを多く含む鉄。核の冷却速度が遅いため特異な組織をもつ
砂鉄、鉄鉱石―山火事、たき火などで鉄に還元され、偶然発見されたと考えられる。

製鉄のはじまり

鉄の精錬技術を独占していたBC20世紀ヒッタイト(トルコ)からといわれる。ヒッタイト帝国はBC19世紀に歴史に登場する。エジプトの全盛時代、ラムゼス2世と互角に戦うが、BC12世紀に衰退する。それを契機に製鉄技術が広まったといわれる。

日本の製鉄のはじまりの通説

日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入(韓鍛冶)しており、石器時代から青銅器時代を飛び越え鉄器時代に突入したと言われている。しかしながら、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入(鉄挺・鉄素材)に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、たたら製鉄の原型となる製鉄技術が確立した6世紀の古墳時代に入ってからだと考えられており、たたらによる製鉄は近世まで行われる。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在する。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及する。


古代製鉄の条件

1.日本列島の地質は砂鉄が多い!
    花崗岩から構成され」花崗岩には磁鉄鉱が多く含まれる。
    日本の場合、ユーラシアプレート、太平洋プレート、
    北米プレート、フィリピンプレートがぶつかり、
    巨大な圧力によって近くの花崗岩が砕かれる。
    それでもろく風化しやすい。
    結果、磁鉄鉱が粒になった砂鉄が多く、
    世界の三大砂鉄産地といわれる。(ニュージーランド、カナダ)
     (関岡正弘)
 
2、森林が多い!
    朝鮮に木が少ないのは古代製鉄のためであると
    司馬遼太郎はいっているが、
    日本は森林を伐採し、植林することで再生が早い気候である。

3、風通しのよい丘陵!    
     鞴(ふいご)など風を送る装置が考えられる前は自然風を利用した。

4、水が多い!         
      鉧(けら)の冷却、砂鉄の鉄穴流しに利用。


鉄の発見

砂鉄―地表に近い所に砂鉄があり、その地表で土器を焼いた時、砂鉄から還元された鉄が得られた可能性がある。
砂鉄のたくさん含まれる浜辺で焼いて偶然鉄を発見したかもしれない。

餅鉄(もちてつ・べいてつ)―東北には餅鉄という純度の高い(鉄分70%)磁鉄鉱がある。
大槌町(岩手・遠野、釜石に隣接)あたりに古代製鉄遺跡がみられる。
明神平では3600年前のカキ殻の付着した鉄滓が出土している。
明神平には小槌神社があり、現在の祭神はヤマトタケルだが、
もとは、古代の製鉄を普及した先人が祀られていたという。
この縄文人はお盆状の野焼き炉に餅鉄とカキ殻をいれて火をかけ、
矢鏃、釣り針を作ったらしい。
ちなみに舞草鍛冶は、岩手県一ノ瀬の舞川あたりでとれる餅鉄の製鉄が
発祥といわれる。(HP劇場国家日本より)


高師小僧(たかしこぞう)


愛知県豊橋にある高師原で発見された褐鉄鉱の塊のことである。水辺の植物の根に鉄バクテリアの作用で水酸化鉄の殻を作る。時を経て植物が枯れ中央に穴のあいた塊が残る。高師原に戦前陸軍の演習場があって雨が降ると頭を出し、幼児が並んでいるようにみえたことから名付けられた。
全国の製鉄遺跡がみつかった場所に多くみられる。
代表的なところが諏訪地方、大阪府泉南市、滋賀県日野町別所などがある。
諏訪の川には葦が茂り、諏訪湖のほとりも葦がたくさんある。ここにスズといわれる塊が製鉄原料として使われた

スズ=褐鉄鉱の塊=高師小僧=みすず=鳴石
「三薦(みすず)(水薦(みこも))刈る 信濃の真弓 わが引けば 貴人(うまひと)さびて いなと言わかも」
みすずは信濃国の枕言葉で、「みこもかる」は「みすずかる」ではないのかと賀茂真淵が唱えたことからみすずは、スズ竹のことであるといわれた。スズ竹は、篠竹で諏訪に多く産する。
うたの意味は「この弓を引いてあなたの気を引くのは貴人みたいで、あなたはいやがるかしら!?」という意味である。

湛え神事

諏訪大社の古い神事のことで、高鉾につけられた鉄鐸が使用される。
鉄鐸は、てったく・さなぎと呼ばれ銅鐸の原形といわれる。湛え神事は作物の豊穣を願う神事といわれているが、スズの増殖、鈴なりに地中に生成されることを願ったのではないかと考えられてきている。



諏訪大社

祭神は建(たけ)御名方(みなかた)命(のかみ)(南方刀美命)で、出雲の国譲りで納得できず諏訪に逃げてきた神である。
土着の洩(もり)矢(や)神(しん)を制し祭神となった。洩矢神は鉄輪を使い、建御名方命は藤の枝を使って戦った。
藤は砂鉄を取り出す鉄穴流しで使うザルで、この話は製鉄技術の対決だったという。



古代鉄関連地名・関連語

砂鉄 : スサ(須坂)・スハ(諏訪)・スカ(横須賀)・サナ(真田、猿投)

錆 : サヒ(犀川)・サム(寒川)・サヌ(讃岐) 

鍛冶:鍛冶ヶ谷、梶ヶ谷 
         
ズク、銑鉄 : スク~ツク(筑波)・チク(千曲川)

穴に住む人、鉄クズ : クズ(国栖)・クド(九度山)  
     
踏鞴 : タタラ(多々良浜)・ダイダラ(太平山・秋田)―ダイダラボッチ伝説


吹く : フク(吹浦)・イフク(伊吹山)・吹田 
 
鉄穴流し : カンナ(神奈川・神流(かんな)川) 鉄の古語 : ヒシ~イヒシ(揖斐川)

朝鮮語で刀 : カル(軽井沢)・カリバ(狩場)  

溶けた鉄 : ユ(湯沐村)・ヌカ(額田) 水銀 : ニ(丹生、新田)

葉山―羽山―羽黒―鉄漿 
 
芋―鋳物―イモー溶鉱炉―炭―鋳物師(いもじ)村―鋳母(けら) 


別所 : 浮囚 、製鉄地 
百足:東北地方の鉱物の呼び名―赤百足(金、銅)・白百足(銀)・黒百足(鉄)・縞百足(その他の金属)

砂鉄を熔解し、湯出口(ゆじぐち)からノロ(鉄滓)を吐き出す。これを沸ぎ間(たぎま)という。
最初のノロを初花という。
頭領は砂鉄を扱うのが村下、木炭投入が炭坂という。
丸三日のかかり一夜(ひとよ)という。
初日の炎の色は朝日の色、中日は昼間の色、三日目は夕日の色になる。鉄塊をコロといい、叩き割って鉧(けら)と銑(ずく)を分ける。
鉧は鋼鉄、銑は銑鉄の原料となる。
青と呼ばれる真砂からは、鉧が多く赤目という砂からは銑が多い。
真砂は鉧押法(けらおしほう)といい、赤目は銑押法(ずくおしほう)という。
これを踏鞴吹き(たたらふき)といい、大きな鞴を使った。
火炉(ほど)は女陰、風の吹き込み口を羽口というがそれを陽根にみたて、鉄の生産=出産にみたてる。
ところが、人の出産は、忌避され女房が出産するとひと月近く夫も高殿(たたら)には入らない。
女も高殿には入れず、山内にいる女性は飯炊きのみである。
番子(送風を足踏みで行うこと)で足を痛めるので「ビッコ」をひく。
火炉を見つめ、目を悪くするので目鍛冶から「めっかち」「がんち」といわれる。
口で火を吹くさまから「ひょっとこ」といわれる。


金屋子信仰―白鷺にのって出雲に降り立ち、桂の木(神木)で休んでいたところ、土地の宮司の祖先阿倍氏に会い、製鉄を教えた。
中国地方各地に伝説があり、村下となった。

一般に女神とされる。麻につまずいて死んだので麻が嫌い。
犬に追いかけられて蔦に登って逃れようとしたが蔦が切れて落ち、犬にかまれて死んだので蔦と犬は嫌い。

他説では犬に追いかけられみかんの木に登り、藤に掴まって助かったのでみかんと藤は好き。
死体を桂の木に下げると大量に鉄が生産できるので、死体を好んだ。
自分が女性なので、嫉妬からか女性が嫌い。村下は女性のはいった湯にはつからない。

鉄・鍛冶の神


稲・・稲妻・・雷神・・餅・・武甕槌大神タケミカヅチ(宮城・塩釜神社)賀茂別雷命(京都・上賀茂神社・葛城を本拠にした渡来人で製鉄技術を伝えた秦氏の氏神)・・建御雷神(塩釜神社)

稲・・鋳成り(いなり)・・稲荷・・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)豊宇気毘売(とようけびめ))・御饌津神(みけつのかみ)・・三尻神・・三狐神・・伏見稲荷

蛇・・龍・雷・虹・菖蒲の葉・刀―建御名方神タケミナカタノカミ(大国主の子)・・諏訪大社

蛇・・三輪山・・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大巳貴神(おおなむちのかみ)・・大神(おおみわ)神社

金山彦・・イザナミの子・・南宮大社(岐阜)・・黄金山神社(宮城・金崋山)

金屋子神(かなやこのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・金屋子神社(島根)

一つ目小僧・・片目伝説・・一目連(いちもくれん)・・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・天津麻羅(あまつまら)・・多度大社(三重県桑名)・・天目一神社(兵庫県西脇)

風の神・・一目連(いちもくれん)・・多度大社・・龍田神社(奈良県生駒にあり、法隆寺の鎮守)

風の神・・蚩尤(しゆう)(武器の神・風を支配)・・兵主神(ひょうずのかみ)・・穴師坐兵主(あなにいますひょうず)神社(奈良)・・伊太祁曽(いたきそ)神社(和歌山)・・五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神)


天日槍(あめのひぼこ)・・新羅の王家の者と伝えられる・・韓鍛冶集団の渡来・・出石(いずし)神社(兵庫県豊岡・但馬国一之宮)


火・・たたら・・火之迦大神(ひのかぐつちのおおかみ)・・秋葉神社(静岡県浜松)愛宕神社(京都右京区)

百足:三上山(天目一箇神)・赤城山(大巳貴神)・信貴山(毘沙門天)・二荒山(大巳貴神)

東南風・・イナサー東南風は黒金をも通す(鹿島)・・武甕槌大神タケミカヅチノカミ(物部の神)・・鹿島神宮

経津主(ふつぬし)・・星神・・鉱山は星が育成すると考えた・・香取神宮(千葉)鹿島神宮(茨城)春日大社(奈良)塩釜神社(宮城)

山の神・・大山祇命(おおやまつみのみこと)・・大山祇神社(愛媛)三島大社(静岡)大山阿夫利神社(神奈川)寒川神社(神奈川・古代の祭神が大山祇といわれている)

小人・・小さ子・・小人部・・一寸法師・・少彦名神スクナヒコノカミ(体が小さく大国主とともに国造りに関わる・温泉・酒)・・大国主系、淡島系神社・・出雲大社・・気多神社・・大神神社・・伊福部氏

河童・・川子大明神・・水天狗・・海御前(二位の尼と安徳天皇の後を追って入水し、河童になった伝説)・・水天宮


巨人・・ダイダラボッチ・・デイタラボッチ・・たたら・・榛名湖・・富士山・・浅間山・・筑波山・・赤城山・・浜名湖・・世田谷区代田・・相模大野の鹿沼・・鬼怒川・・利根川・・秋田太平山・・羽黒山など。

跛者・・びっこ・・足萎え・・恵比寿・・西宮神社(兵庫県西宮)

吹く・・伊吹・・伊福部・・銅鐸・・スズ・・諏訪系神社

吹く・・できもの・・疱瘡神(牛頭天王)・・素戔嗚尊・・八坂神社(京都)

丹生タンショウ・・誕生―出産、安産の神・・丹生神社(にゅうじんじゃ)(和歌山)・・丹生津姫(紀元前8世紀春秋戦国時代に渡来した呉の太白の血筋の姫)・・丹生津姫神社(和歌山)

八大天狗・・山伏・・愛宕山(太郎坊、京都)・鞍馬山(僧正坊、京都)・比良山(次朗坊、滋賀)・英彦山(豊前坊、福岡)・飯縄山(三郎、長野)・大峰山(前鬼坊、奈良)・白峰山(相模坊、香川)・相模大山(伯耆坊、神奈川)

天狗・・秋葉山(三尺坊)羽黒山(金光坊)高尾山(飯縄権現)大雄山最乗寺(金太郎)など
    出羽三山・・月読命月山神社・・羽黒権現出羽(いでは)神社・・大巳貴命・・大山祇命・・湯殿山神社

鬼・・温羅(うら)・・吉備津(きびつ)神社の鳴釜神事の竈の下に温羅の首を埋めた・・死体を南方の柱に結び付けると鉄がわく(たたら)

吉備津彦命(四道将軍・温羅伝説・桃太郎伝説)吉備津神社(岡山・備中一之宮・矢立神事)・・大江山の鬼退治(銅鉱脈)・・鬼嶽稲荷神社稲荷大神


一寸法師・・清水寺(十一面千手観音)の音羽の滝、音羽山(金、銀、銅がとれ元清水寺の地といわれる・京都)

坂上田村麻呂(清水寺寄進)・・鬼退治伝説の地は、東北の鉱脈が多い

湯・・湯立神事・・大湯坐―唖(ホムツワケ火持別で、火中生誕)・・白鳥が鳴いたら唖が治った・・天湯河板挙(神(あめのゆかわたなのかみ)(白鳥を献じた人)天湯河田神社(鳥取)・・金屋子神の乗った白鷺―客神(まろうど)・・白鳥・・餅・・矢・・矢にまつわる神事(弓矢は釣針と同一・幸福をもたらし、霊力がある)


朝日・・日吉・・日野・・猿・・日光二荒山・・俵藤太・・三上山・・百足山・・炭焼藤太・・淘汰―金、砂鉄を水で淘る(ゆる)

木地師・・惟喬親王・・小野・・小野氏・・小野氏の流れの柿本人麻呂・・鍛冶・・米餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)小野神社製鉄地に多くある神社

お歯黒・・鉄漿(かね)・・鉄・・羽黒山神社・・鉄を多く含むハグロ石・・鉄鉱泉・・修験道・・出羽三山・・湯殿山神社(大巳貴神)

修験道・・鉱山・・もともと修験道は神仙薬を探し求めた(水銀、ヒ素)・・不老長寿薬・・中央構造線

水銀―・・丹生・・丹生津姫(大陸から渡来した姉妹でのちに天照大神と丹生津姫になった)・・お遠敷(おにう)明神(二月堂のお水取りで若狭から水を送る神)・・罔象女(みずはのめ)(天照大神の子で漂う神)水神・・ミズハー水刃(金属)

毘沙門天・・製鉄神・・鞍馬山(鞍馬寺)、愛宕山、信貴山(朝護孫子寺・毘沙門天・奈良)

妙見神・・秩父神社(埼玉)千葉神社(千葉)日蓮宗の寺(妙見菩薩)

不動明王・・産鉄地に多い 真言宗、天台宗の寺院

虚空蔵菩薩・・妙見神・・北辰信仰・・虚空蔵山(佐賀、水銀・波佐見鉱山)虚空蔵尊(高知、金)虚空蔵尊(三重、金剛証寺、銅、クロム、コバルト、鉄、ニッケル)能勢妙見(大阪、金、銀、銅)磐裂(いわさく)神社(栃木・足尾銅山)七面天女―吉祥天―妙見神(山梨・敬慎院・甲州金)清澄寺(虚空蔵菩薩・妙見尊・金剛薩埵―ダイヤモンドのように堅く不変の金属・角閃石・斜長石・黒雲母・丹生など)

東北のキリシタン・・南蛮製鉄を伝え、伊達藩では産業擁護のため、キリシタンの多い製鉄民を保護していたが、幕府に逆らえず、処罰した。(岩手県東磐井郡大籠)



参考:金属と地名、青銅の神の足跡:谷川健一 
隠された古代:近江雅和 
黄金と百足、金属鬼人柱:若尾五男 
日本古代祭祀と鉄、古代の鉄と神々:真弓常忠 
風と火の古代史(よみがえる産鉄民):柴田弘武 
鉄の民俗史:窪田蔵郎 
神々と天皇の間:鳥越憲三郎 
杉山神社考:戸倉英太郎 
古代山人の興亡:井口一幸  
弥生時代のはじまり:春成秀爾  
ながされびと考:杉本苑子
伊勢の神宮ヤマトヒメ御遷幸のすべて:大阪府神社庁 
古代の製鉄:山本博 
古代伝説の旅(電車・バス・徒歩でたどる東急沿線):新井恵美子 
靖国刀:トム岸田 
鉄から読む日本の歴史、 新羅花苑(壬申の乱異聞):宇田伸夫 
日本科学古典書(鉄山秘書):三枝博音  
まぼろしの鉄の旅:倉田一良 
古代東北エミシの謎 日本の神々:鎌田東二 
鬼の日本史:沢史生 
鶴見川流域の考古学:坂本彰  
空海と錬金術:佐藤仁 
空海の風景:司馬遼太郎 
古代史を解く九つの謎:黒岩十吾 
日本神話の謎がわかる:松前健 

HP:中央構造線と古代史を考える 
  伊太祁曾さんの風土記 
  博物館ニュース 
  坂東千年王国  
  日立金属 和鋼博物館  
  ウイキペデイア




by gannyan1953 | 2012-11-20 09:35 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

中川と八王子千人同心

歴史と素適なおつきあい番外

港北ニュータウン中川と八王子千人同心


徳川家康が天正18年(1590)江戸入りした。
すぐに家臣への知行地の配分に取り組んだ。
知行高の少ない者を江戸城近くにおいた。

甲州を江戸のの防衛線とすべく、旧来からの山城である八王子城を廃城して、
城下を南に移し関東の代官を18人常駐させた。

その配下に置いたのが八王子千人同心である。

八王子千人同心と中川の関係は深い。

久志本氏は勝田村、野々山氏の増上寺領を別として牛久保、大棚、山田の村々は
旗本の複雑な采地(さいち・領地)であった。

牛久保村ー安藤氏・久志本氏・代官領
大棚村ー12(のちに9)の旗本采地・代官領
山田村ー10の旗本采地・代官領

旗本で一番多いのが曾根氏の五百石であった。


ほかは曾根氏を含め、甲斐出身である。この甲斐出身者が八王子千人同心である。

新編武蔵風土記稿によると、

千人頭は八王子に常駐し、家康家臣団の中では独自の地位を保っていたという。
例えば山田村の領主山本氏をみてみる。

山本氏は中川地区では山田村で二百四十石、大棚村では十一石合わせて二百五十一石の石高でそれぞれの采地に名主がいる。(安政二年)
山田村の名主は平七、大棚村の名主は重左衛門で、山本氏は八王子に住んでいた。

一つの村にたくさんの領主が存在したため、警察権、裁判権などうまくかみ合わず問題が多かったという。
そこで文化二年(1805)関八州を取り締まる「八州まわり」と呼ばれる警察組織が作られた。

旧中川村の領主一覧 新編武蔵風土記稿による

茅ヶ崎村(血ヶ崎村)

増上寺領・野々山新兵衛

勝田村

久志本左京亮常範

山田村(矢股村)

伊那半十郎忠治・野村彦太夫・小野田三郎右衛門信利・山本伝次郎・石坂勘兵衛

志村又左衛門・中村弥左衛門・河野伝之允・萩原五左衛門・久保田庄兵衛

山本金右衛門・原伝左衛門・曾根半兵衛

大棚村

野村彦太夫・小野田三郎右衛門信利・石坂勘兵衛・石坂彦三郎・萩原伝左衛門

窪田助之允(窪田辨二郎)・萩原五左衛門昌泰(萩原信太郎)・中村弥左衛門(中村万吉)

原権左衛門(原半左衛門)・山本金右衛門(山本橘次郎)・久保田庄兵衛(久保田忠兵衛)

志村又左衛門(志村内蔵助)・河野伝之允(河野四郎左衛門)  

牛久保村

小野田三郎右衛門信利・久志本左京亮常範・安藤太郎右衛門基定


新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)とは、文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌。


領主の出自

調べることができた領主について書きました。

曾根氏は甲斐の武田の有力家臣で、その一族と思われる。

久志本氏は伊勢出身

野々山氏・安藤氏は三河出身


石坂勘兵衛(千人同心)
八王子市千人町にある萬松山興岳寺は、文禄元年(1592年)石坂勘兵衛が菩提寺として建てた寺である。

中村氏(千人同心) 甲斐中村庄から興った

久保田氏・窪田氏(千人同心)

甲斐の大族三枝、石原氏の一派で、甲斐国山梨郡窪八幡の地より起こる。
三枝守国の時に甲斐国石坂に住して石坂と称し、忠次の時に武田家に仕えるようになり、
忠廉の時に武田信玄の命により窪田と改めたという。
忠廉は後に徳川家康に仕え幕臣旗本となっている。ただし『寛政譜』では紀氏と称している。(『寛政重修諸家譜』)

志村氏

先祖が志村将監と伝わっており、北条家臣だったという。八王子城落城の際八王子に隠れ住んだ。
千人頭の志村又左衛門貞盈は、天正三年(1575)の長篠合戦の時山縣昌景の首を背旗に包んで必死に逃げ帰ったと伝えられる。
天正十年三月武田家滅亡の後に千人頭河野但馬守通重と共に北条氏に仕えたと思われる。

河野氏 北条家臣

原氏(千人同心) 武田家臣

小野田三郎(千人同心)寛政4年に関東代官を辞任している。

山本氏 (千人同心)武田家臣

伊奈氏(千人同心) 甲斐の国志に八代郡御前山の村の岡に砦あり。
若彦路の守りか。小山合戦で、伊奈三郎、城の加勢として陣を取ったとある。
                                                                                                      港北区史より

八王子千人同心とは? Web八王子事典より抜粋

近世初頭,甲州口防備・北条旧臣監視の目的で徳川幕府の命により設置された千人から構成される
半士半農の軍事集団.同心分布は八王子を中心として周辺地域に及んでいる.

1590年(天正18)の八王子城落城後の治安維持警備のため,徳川家康の命ににより甲州から移動して
八王子城下に配置された長柄組と称する武士団が始まり.
もとは武田氏旧臣で,武田氏滅亡後,家康に仕え,甲州九口の道筋を衝っていた小禄武士団だった.

当初250人,翌91年250人増員し,現在の千人 99年(慶長4)に更に500人を増員し,千人同心としての組織が確立.100人に1人の千人頭,10人に1人の組頭,平同心90人を以って構成された.

千人頭は200石から500石未満の俸禄を受け,将軍に謁見できる旗本,組頭は30俵,平同心は平均13俵の俸禄を受けていた.

当初の主要任務は甲州口の警固であったが,1652年(承応1)から幕末まで日光東照宮の警備(日光勤番),1800年(寛政12)から2回にわたり北海道の湧仏(現・苫小牧市)・白糠と58年(安政5)の
函館附近の開拓警備,更に,幕末の将軍上洛供奉,長州征伐,横浜警備など
多方面にわたり江戸幕府の警備の一端を担ってきた.

また,文化・文政期から幕末にかけて『桑都日記』『鎌倉紀行』など著した塩野適斎,
『新編武蔵風土記稿』編さんに従事した植田孟晋,
更に,江川太郎左衛門とともに開国論を唱え『献芹徴衷』などの名著を著した松本斗機蔵など
多くの学者・文化人を輩出した.
1866年(慶応2)八王子千人隊と改称している.
by gannyan1953 | 2012-11-20 09:24 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

大須商店街

歴史と素適なおつきあい番外編               2012・11・18


 大須商店街


幼いころ、お正月に家族みんなで初詣にきた。
久しぶりに母の介護帰省のついでに、寄ってみた。
実は、私の子供が幼いころによく遊んだ友人と連絡がとれない。
大須でアクセサリーの店を開いていたのだが、あちこち尋ね歩いたがもういないみたいだった。

矢場町~清浄寺(小林城址)~万松寺~たんすのばあば~大須観音~柳下水


大須とは


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関ヶ原の戦いのあと、家康の命により「清州越し 」という名古屋城を築城したとき清州から町の移転を行ったことをいう。
清洲越しにより、家臣・町人・神社3社・寺110寺・清洲城下の町屋約2700戸が移転したという。
慶長17年(1612)頃から元和2年(1616)までのころに行われた。

そのとき美濃国長岡荘大須郷にあった真福寺(現在大須観音)も移転され門前町として栄えた。

大須の賑わいはなぜ?

今では全国の商店街がシャッター街になっていくのに、大須は元気!おもしろい!

なぜかというと、大須も栄に押されて一時寂しくなっていた。
そこで大学生も巻き込んで大道芸などイベントを開始した。人が集まるようになると・・・・

門前町しての元々の姿、そして秋葉系、下北沢の古着屋系、個人的に好きなのはエスニック系、アジアン系だが、そんな雰囲気が今現在の大須の姿である!

食べ物も世界中のお食事ができそう。

商店街に入りすぐにマップをもらい、さまよった。


小林城跡(清浄寺) 名古屋市中区大須4丁目  

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現在の清浄寺で、尾張六地蔵第2番札所である。
牧長清の墓がある。

牧長清とは

斯波高経(尾張流足利家嫡流、牧家祖・南北朝の武将)の流れで、信長の時代の牧長正の弟にあたる。

小林城はこの牧長清が23年居城しており、信長の妹を妻にした。夫人は小林殿と呼ばれた。
長清は老後に僧となり、城は廃城したが、尾張藩主徳川光友の剣術師範を務めた柳生兵庫の屋敷となり、元禄時代に清浄寺が建てられた。


万松寺中区大須3丁目

天文9年(1540年)、織田家の菩提寺として織田信秀建立。
信秀の叔父にあたる雲興寺八世・大雲永瑞和尚を開山に迎えた。
当時は現在の中区錦と丸の内2丁目・3丁目にまたがる広大な寺領を持っていたが、慶長15年(1610年)、名古屋城を築く際に小林邑(現在の大須3丁目)に移建した。

尾張徳川家朱印寺として篤く信仰されたが、幕末に衰退、大正時代に所有する山林を開放し町は開拓され、賑わいを戻した。

空襲で焼け野原となり、本堂が再建されたのは平成になってからである。

逸話

☆ 信長が父の信秀の葬式で抹香を投げた寺だが、場所は旧地のことである。

☆ これも旧地だが、家康は6歳で人質として駿河に送られるとき、信秀に一時引き取られ9歳までここで過ごした。

☆名古屋千種区にある日泰寺だが、日本とタイ国の親善の寺である。明治にシャムから分骨された仏舎利が日泰寺に運ばれるとき万松寺から行列がでた。

☆ 身代わり不動明王は加藤清正が命名したという。

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本堂 ビルである。

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身代わり不動明王 大須商店街に向いていてとてもにぎやかで、市が開かれている。

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織田信秀の墓所

たんすのばあば

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なでると衣服に困らないそうである。



大須観音





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今年はめでたいことから大変なことまで色々あった。
今更ながら今年私は厄年になっている。もう厄はないと思ったのに。
遅ればせながら護摩木で厄払い。
久しぶりに墨をすった。

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大須観音は、国宝の『古事記』の最古写本「真福寺本古事記」をはじめ、貴重な古典を所蔵している。

「真福寺文庫」といい、仁和寺、根来寺の文庫と合わせて本朝三文庫といわれる。
そのためか、家康が名古屋への移転を決めた理由は、水害の多い清州から移転して古典を守るという目的があったもいう。

真言宗智山派別格本山である。




清寿院の柳下水(りゅうかすい)
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尾張三名水のひとつ。
清寿院は修験道当山派・富士山観音寺といった。
寛文7年(1667) 藩命により清寿院(しょうじゅいん)となった。
見世物小屋、芝居など境内で行われ大変な賑わいだったが、明治の廃仏毀釈で、廃寺となった。
柳下水は中門前にあり、将軍上洛のときには飲用水として用いられた。

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からあげやさん
by gannyan1953 | 2012-11-18 17:13 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

壬申の乱 大海人皇子 村国男依

歴史と素適なおつきあい           2012・7月


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村国神社

壬申の乱と鉄




天智天皇が大津の宮で病に倒れると、大王(おおきみ)継承をめぐるさまざまな思惑が動き始めた。


後を継ぐ者は大友皇子(おおとものおうじ)か、大海人皇子(おおあまのおうじ)か?

皇位継承をめぐり、古代史最大の戦乱がはじまった壬申の乱という。

壬申の乱とは、病にふせる天智天皇の見舞いをした弟の大海人皇子が、


「継承者を皇后の倭姫(やまとひめ・古人大兄皇子の娘)に譲り大友皇子が政治を行うように」と言い残し、吉野に隠遁したはずの大海人皇子の蜂起にはじまった戦いである。

❋古人大兄皇子は天智天皇(中大兄皇子)に謀反の疑いで殺されている

状況

天智天皇と大海人皇子兄弟の微妙な対立を調整してきた藤原鎌足が669年に亡くなった。

大友皇子の母は、伊賀采女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)という地方豪族出身であり、

身分が卑しいとされ、父と同母弟である大海人皇子を押しのけて王位継承者になることが困難であった。

671年、天智天皇は実子の大友皇子を太政大臣(だいじょうだいじん)に任命した。

これは、大海人皇子が権力ラインからはずされたことになる。そして大海人皇子は職を辞して、

吉野に下ることになるのだが、日本書紀はこのことを「虎に翼を着けて放てり」と評している。

672年暮れに天智天皇が崩御した。

半年後「天智天皇の山科稜築造のために、美濃、尾張から農民を動員しているが、その者達に兵器を
とらせている」
と大海人皇子に報告があった。

その動員は吉野を攻めるためではないかと思い、反乱の決意を固めたという。

大海人皇子が頼った湯沐邑(ゆのむら)は、皇太子の領地のことで、古くは「壬生部」(みぶべ)といわれた。

この時代の湯沐邑は、私領地として大海人皇子との結びつきが強かったと思われる。

大垣から安八郡、さらに揖斐郡にわたり南北に広い地域であった。

湯沐邑の責任者・湯沐令(ゆのうながし)は多臣品治(おおのおみほむじ)という。

多の一族で、一族の中に太安万侶がいる。太安万侶の父であるという説もある。

❋太安万侶とは古事記の編纂者


展開

大海人皇子は、側近の村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつきみひろ)和珥部臣君手(わにべのおみきみて)3名を湯沐邑に派遣し、兵の動員を求めた。

大海人皇子は吉野を脱出、伊賀に向かい、息長横河(おきながよこかわ)の戦い、そして琵琶湖の瀬田川で最終決戦し、大友皇子の自害に至って勝利した。


大海人皇子の名前にある海部は、乳母の出自が海部氏だったからである。

海部氏は、尾張氏や安曇氏(あずみし)と同族で安曇氏は、開鑿(かいさく)伝説にも関係し、金属に深くなじんだ氏族である。

凡海麁鎌(おおあまのあらかま)が大海人皇子の養育に関係したといわれ、「かま」は金属と関係する。(谷川健一)

美濃の地、そして尾張氏は、古代から製鉄を多くする地で、その氏族であった。

もともと大海人皇子の養育を海部氏にしたこと自体、この金属になじむ氏族を選んでいたのではないかと考えられる。

そしてこの戦いを勝利に導いたのは尾張、美濃の豪族たちであった。

各務原の英雄 村国男依(むらくにのおより)


岐阜県各務原(かがみはら)の地名は古代の鏡からつけられたと思われる。

古代に鏡作部(かがみつくりべ、銅鏡などの鏡を作る特殊技能集団)がいたことからと言い伝えられている。

また、別の説では、各務地域のほぼ中央にある村国真墨田神社に鏡作部の祖神である天糠戸命(あまのぬかどのみこと)が祀られているからとも言われている。

このアマノヌカドは、奈良の磯城郡にある多氏一族の神社・鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)の祭神でもある。

多氏も金属にかかわる氏族で、その移動に伴い各務原に鏡作部を設置したのだろうか。

各務原は、愛知県と岐阜県の境にあり、今では木曽川が県境になる。

古代の木曽川は支流が多くいまのような境ではなかったらしい。

村国男依の領した村国郷も愛知県の江南から、北へ岐阜県の各務原に至る。

壬申の乱最高の功労者といわれるが、あまり知られていない。

生年不詳で、天武天皇5年(676)7月に亡くなっている。


村国男依の活躍

6月22日に吉野を発った3人の舎人(村国男依たち)は、4日後26日に伊勢国朝明評家(あさけのこほりのみやけ)まで進んできた大海人皇子一行に「美濃勢3000人」を動員し不破(関ヶ原)を確保したことを伝えた。

その湯沐邑までの往復の道程を考えるとわずか1日か2日での動員出動したことになり、大海人皇子の事前の準備があったことがうかがわれる。
 
不破(関ヶ原)では、尾張国守小子部連鉏鉤(おわりのくにのかみちいさこべのむらじさひち)が率いた2万の兵が帰服した。

不破には桃配山があり、大海人皇子が兵士にねぎらいの桃を配ったことに由来する。

のちに、家康が陣営を張った場所である。

大海人皇子は野上行宮(のがみあんぐう)からは動かず戦況を見守った。

その後7月2日将軍となった村国男依は数万の兵を率いて進発した。

7月7日息長横河(米原市梓河内付近)の狭い谷間で村国男依は勝利した。

❋行宮とは、天皇が行幸、政変なので仮に使用した施設

大友軍は70キロ先の大津宮に敗走する。

7月22日瀬田橋の戦いで橋の両側に対峙していたが、大海軍の勇者大分稚臣(おおきだのわかみ)が橋を駆け抜け、斬りこんだことを契機に大友軍は総崩れとなった。

敗走した大友皇子は大津付近か京都の天王山か定かではないが、山前(やまさき)で自害する


大海人皇子は天武天皇となり功労者村国男依は連を賜り、中央下級貴族に加わり各務原にも一族は残った。

このあたりの農民たちは位階をもつものがいなかったが、乱後は位階をもつ農民が多数みられることから、男依だけでなく冠位を授けられ優遇されたことがわかる。

この処遇は701年の大宝律令制定まで続き後に解消された。

この時期各務原周辺には仏教寺院が多く建立されているので、その一族の豊かさを表しているといえる。


村国真墨田神社(各務原市鵜沼山崎町1丁目108)

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祭神:金山彦命(南宮大社)天火明命(あまのほあかりのみこと)後に村国男依

❋金山彦命とは金属の神(南宮大社の祭神)

❋天火明命とは尾張氏の祖先神(尾張、美濃の神社の祭神に多い)

秀吉の時代に南の木曽川沿い(現在の御旅所・「大脇グループ木曽川寮」の駐車場)から現在地に移転した。

村国神社 (各務原市各務おがせ町3-85)おがせは苧ケ瀬と書く

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村国神社裏の森
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村国神社裏の森のストーンサークルのように石が並んでいる
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村国座


祭神:天火明命(あまのほあかりのみこと)・御子石凝老命(みこいしこりどめのみこと)・

後に村国男依

❋御子石凝老命とは、鏡作りの神

明治15年(1882)になって奉納芝居を行う場所として村国座(芝居小屋)ができた。

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男依の伝承墓

東南200mに御旅所があり、村国男依の墳墓であるという言い伝えがある。

椋の大木を御神木として祀る。


尾張氏


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東谷山 尾張氏本願の地


古代の地方豪族で天火明命を祖神とし、本貫地は諸説があり、葛城説、吉備播磨説などある。

もとは海人族で海からこの地にきたと思われる。

美濃、飛騨などに居住したのち乎止与命(おとよ)のとき、尾張国造となる。

尾張の由来は、新しく墾り(はり)開かれた土地の意からつけられたといわれる。

なぜだか、尾張氏は皇族が新しくなるときに后をだしている。

尾張氏と皇族の婚姻

①日本武尊と簀媛命
②孝昭天皇(前475-前393)と世襲足媛(よそたらしひめ)
③崇神天皇(前97-前30)と尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)
④応神天皇(270-310)と高城入姫命(たかぎいりひめ)・弟姫命(おとひめ)・仲姫命(なかつひめ)
⑤継体天皇{507-531}と目子媛(めのこひめ)

皆、尾張氏の姫君たちである。

そして崇神天皇・応神天皇・継体天皇ともに系譜が変わった天皇である。

系譜が変わった時に尾張から姫を娶る。

どういう意味があるのだろうか。畿内にいる豪族は全王朝に関わっている豪族ばかりなので、地方の実力派豪族との結びつきを求めたのだろうか。

尾張氏は表舞台に出る氏族ではなかったが、皇室の外戚という重要な存在であったようだ。

熱田神宮の宮司、同族の津守氏は住吉神社(大阪)、元伊勢籠神社の宮司は海部氏である。

熱田神宮の宮司職は後に、親戚の藤原季範(すえのり)に譲られた。

季範の三女由良御前は源義朝の妻となり、熱田神宮のそばで、頼朝を生んだ。

頼朝は名古屋生まれなのである。そう考えると最初に武家社会を築いた頼朝、後の信長、秀吉、家康、みんな名古屋、愛知県の生まれである。

草薙剣の祟り

天武天皇が病に倒れたため占ったところ、草薙剣の祟りだという。



話は、天智天皇のころ新羅の僧が草薙剣を盗んだことにはじまる。

新羅に持ち帰ろうとするが、船は難破し捕えられる。

まだ「三種の神器」は存在していなかったので、天智天皇は手元に置いていた。

そして近江朝が滅び、今度は天武天皇の手元に置かれた。占いがでてから、すぐに熱田神宮に戻されたが、天武天皇の病は癒えなかった。

熱田神宮に今でも続く神事がある。「酔笑人神事」(えようどしんじ)という。

草薙剣が熱田神宮にもどされて神官たちが喜んだ様子だそうだが、真っ暗闇の中、熱田の神職たちが、喜んで、酔って、笑って、歩きまわった様子が、「酔笑人神事」になった。

古くより見てはならないと語り伝える神面を、神職各自が装束の袖に隠し持ち、中啓という扇で神面を軽く叩いた後、全員が一斉に「オホホ」と笑う神秘的な神事である。

新羅の僧が盗んで逃げた門は「清雪門」といい、事件以来不吉の門とされ一度も開けられたことがない「開かずの門」になっている。

なぜ祟りという占いがでたのか諸説あるが、正当な後継者だった大友皇子を自殺に追いやり、大王になった天武天皇を非難するための話ではないかといわれている。


日本武尊命(やまとたけるのみこと)と大海人皇子

ヤマトタケルは、熊襲征伐を終え、東征に向かうとき、伊勢神宮の叔母である倭比売(やまとひめ)に会いに行き、草薙剣をもらった。

東征の帰りに尾張のミヤスヒメと再び会い、剣をミヤスヒメに預ける。剣をもたずに向かった伊吹山の神に痛めつけられ、醒ヶ井の水で意識はもどるが、鈴鹿で足がたぎたぎしくなり三重に折れた(三重の語源)。能褒野(のぼの・亀山市)で亡くなって白鳥となったヤマトタケル。


大海人皇子は伊吹山麓不破の尾張氏の私弟に行宮を置き、勝利をあげたのち都である近江には寄らず往路を戻って飛鳥にもどる。即位してのち熱田神宮の草薙の剣の祟りによって亡くなる。
両者には似通ったところがある。


伊吹山周辺の鉄

なぜ両者とも伊吹山なのか。草薙の剣と関係するのか。

伊吹山の近くに伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1)がある。

中山道沿いに大きな鳥居があり、少し奥まった場所にある。「いぶき」とは伊福部氏であり、尾張氏と同族で、伊吹山麓周辺で鉄を生産していた。
大海人皇子の行宮とした尾張氏の館もその管理のためにあったと思われる。

現在伊吹山では石灰が掘られているが、古代ではこのあたり、鉄生産がさかんであった。


南宮大社 (岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1)

伊吹山の南にある美濃国一宮で、鍛冶の神である。

祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)。

鞴(ふいご)祭では、実際に野鍛冶による鍛錬を神官が行い小刀を作成して、奉納する金属の行事があり、今でも金属に携わる人々が集まる。

節分の行事で、的の裏に「鬼」と書かれた大的に12本の矢を射る大的神事がある。

鬼とは平将門のことで、京都から飛んできた将門の首を南宮大社の祭神隼人神が射落としたという。

近くに「御首神社」がある。

金生山(きんしょうざん)岐阜県大垣市赤坂町金生山(かなぶやまが正しい)

伊吹山の東麓にある、

石灰岩の山で現在石灰岩や大理石が、掘り出され山容が変わっている。

赤坂駅には石灰を運ぶ貨物があり、石灰の製品が積み上げられている。

昔は、鉄鉱石の質が高く自然の丹としては最高のものでそのままベンガラとして使えたという。

第二次世界大戦時も軍隊が褐鉄鉱を掘り出している。麓の赤坂、青墓は刀鍛冶が多くいた。

多度大社 三重県桑名市多度町多度1681

養老山地に南にあり、摂社に一目連神社があり、祭神は天目一箇命(あめのまひとつのみこと)である。

鍛冶の神である。現在でも祭祀に刀鍛冶の奉納がある。

尾張の鉄

内々神社(うつつじんじゃ)内々神社 春日井市内津町上町24

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内々神社 本殿      


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内々神社横の内津川支流の鉄分が流れる様子


祭神は、日本武尊命(やまとたけるのみこと)建稲種命(たけいなだねのみこと)・簀媛命(みやずひめのみこと)

南北朝時代の禅僧、夢窓国師の作庭と言われている庭が奥にある。隣に妙見がある。

神社はしばらくして衰退し、妙見様として復興、のちに内々神社として再興し、庭は寺だったことによるのかもしれない。

由緒は、東国の平定を終えたヤマトタケルが内津峠にさしかかったとき、早馬で副将軍のタケイナダネが駿河湾で水死したという知らせがあった。

知らせをうけたヤマトタケルは絶句し「ああ、現哉現哉」「ああ、うつつなりうつつなり」

とつぶやき、鎮魂のためタケイナダネの社をたてたことがはじまりという。

タケイナダネはヤマトタケルの妻であるミヤヅヒメの兄で、東征に付き従った。

東征の帰路、ヤマトタケルは山道を、タケイナダネは海沿いの道で別々に帰ってきた。

しかし駿河の海で尊に献上するミサゴ(野鳥)を捕らえようとした際、風波が強くなって船が沈没、自らも水死したという説とヤマトタケルをねらう密偵に殺害されたという説がある。

衣服が流れ着いたのが知多半島の先にある羽豆神社、遺体は吉良に流れ着き幡豆神社に祀られたとされる。

後ろの山は茶褐色のチャートで、渇鉄鉱が含まれている。近くにマンガンも出るという。

ここは下街道(善光寺街道)という古くからの街道がある。現在の19号線である。

また、新撰組結成に関わった清河八郎が母と伊勢参りに通ったといわれる。

尾張戸神社(おわりべじんじゃ)名古屋市守山区大字志段味(しだみ)字東谷字2099

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尾張部神社 本殿
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頂上からの眺望


東谷山(とうごくさん)の頂上にある尾張平野の眺望随一の神域である。尾張氏の祖を祀り、尾張氏本願の地であり、熱田神宮の奥ノ院と言い伝えがある。

祭神は、天火明命(あめのほあかりのみこと)―尾張氏の祖

天香語山命(あまのかごやまのみこと)―尾張開拓の祖

建稲種命(たけいなだねのみこと)―ヤマトタケルの副将軍

創建は、簀媛命(みやずひめのみこと)―草薙剣を祀るため熱田神宮を創建したヤマトタケルの妻

東谷山は古代のピラミッドといわれる超古代史では有名な山である。

頂上に磐座、ストーンテーブルがあり、古墳がある。古代祭祀の残る山である。

社殿も古墳の上に鎮座し麓には古墳群がある。

壬申の乱で活躍した尾張の物部氏(朴井 雄君・えのい の おきみ・物部氏で守屋の子ともいわれる)たちの古墳といわれる。


各務原の鉄


各務原の製鉄遺跡・村国男依を祀る神社の地図


村国男依のいた各務原には飛鳥時代の製鉄遺跡がある。

伊木山の八熊遺跡と野口廃寺跡である。

桃太郎神社(愛知県犬山市栗栖字古屋敷)

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桃太郎伝説を伝える面白い神社である。

桃太郎が退治した鬼とは、古代のたたらが行われた場所、

あるいは鉄の原料がとれた場所にいた古代製鉄民を、奪取し、支配したことではないかと考えている。

岡山の桃太郎神社は鬼である温羅を鉄釜で、地面に封じ込めている。



境内には関ヶ原のウォ―ランドにもあるコンクリートの伝説に因んだ人形が数多く配置されている。

コンクリート群像作家として知られる浅野祥雲による作品である。

宝物殿が焼失し、古物は写真のみになってしまった。

名古屋在住のころ私はみたが、河童の手や鬼のミイラがあった。

愛知B級スポットといわれている。

神社の山はチャート層で、チャートは酸化鉄、褐鉄鉱などが重なった岩石である。

古代のストーンサークルもあるという。

このあたりを流れる木曽川はチャートの露頭が見える場所である。

犬山周辺には、桃太郎伝説に由来する地名が多くある。

犬山(現・犬山市):家来の犬がいた地

猿洞(現・犬山市):家来の猿がいた地

雉ケ棚(現・犬山市):家来の雉がいた地

今渡(現・可児市):鬼が桃太郎の乗った船を見つけた地

取組(現・坂祝町):桃太郎と鬼が取っ組み合いをした地

勝山(現・坂祝町):桃太郎が勝どきをあげた地。猿が噛みついた伝説から猿琢(さるばみ)城と名付けられた戦国時代の城が頂上にあった。

宝積寺(現・各務原市):鬼から奪った宝を積み上げた地


参考
「新説壬申の乱大海人皇子」週刊戦乱の日本史・「壬申の乱」:遠山美都男著・「各務原市史」・
「大垣市史」・春日井シンポジウム「壬申の乱」、「渡来人」:森浩二、門脇禎二著・
「白虎と青竜」、「本当は怖ろしい万葉集」:小林惠子・「壬申の乱の謎」、「消された王権」、「おとぎ話に隠された日本のはじまり」:関裕二 「青銅の神の足跡」:谷川健一 
HP:ウィキぺディア・桃太郎神社・桃太郎伝説
by gannyan1953 | 2012-11-12 09:38 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

壬申の乱と鉄・村国男依

歴史と素適なおつきあい           2012・7月


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村国神社

壬申の乱と鉄




天智天皇が大津の宮で病に倒れると、大王(おおきみ)継承をめぐるさまざまな思惑が動き始めた。


後を継ぐ者は大友皇子(おおとものおうじ)か、大海人皇子(おおあまのおうじ)か?

皇位継承をめぐり、古代史最大の戦乱がはじまった壬申の乱という。

壬申の乱とは、病にふせる天智天皇の見舞いをした弟の大海人皇子が、


「継承者を皇后の倭姫(やまとひめ・古人大兄皇子の娘)に譲り大友皇子が政治を行うように」と言い残し、吉野に隠遁したはずの大海人皇子の蜂起にはじまった戦いである。

❋古人大兄皇子は天智天皇(中大兄皇子)に謀反の疑いで殺されている

状況

天智天皇と大海人皇子兄弟の微妙な対立を調整してきた藤原鎌足が669年に亡くなった。

大友皇子の母は、伊賀采女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)という地方豪族出身であり、

身分が卑しいとされ、父と同母弟である大海人皇子を押しのけて王位継承者になることが困難であった。

671年、天智天皇は実子の大友皇子を太政大臣(だいじょうだいじん)に任命した。

これは、大海人皇子が権力ラインからはずされたことになる。そして大海人皇子は職を辞して、

吉野に下ることになるのだが、日本書紀はこのことを「虎に翼を着けて放てり」と評している。

672年暮れに天智天皇が崩御した。

半年後「天智天皇の山科稜築造のために、美濃、尾張から農民を動員しているが、その者達に兵器を
とらせている」
と大海人皇子に報告があった。

その動員は吉野を攻めるためではないかと思い、反乱の決意を固めたという。

大海人皇子が頼った湯沐邑(ゆのむら)は、皇太子の領地のことで、古くは「壬生部」(みぶべ)といわれた。

この時代の湯沐邑は、私領地として大海人皇子との結びつきが強かったと思われる。

大垣から安八郡、さらに揖斐郡にわたり南北に広い地域であった。

湯沐邑の責任者・湯沐令(ゆのうながし)は多臣品治(おおのおみほむじ)という。

多の一族で、一族の中に太安万侶がいる。太安万侶の父であるという説もある。

❋太安万侶とは古事記の編纂者


展開

大海人皇子は、側近の村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつきみひろ)和珥部臣君手(わにべのおみきみて)3名を湯沐邑に派遣し、兵の動員を求めた。

大海人皇子は吉野を脱出、伊賀に向かい、息長横河(おきながよこかわ)の戦い、そして琵琶湖の瀬田川で最終決戦し、大友皇子の自害に至って勝利した。


大海人皇子の名前にある海部は、乳母の出自が海部氏だったからである。

海部氏は、尾張氏や安曇氏(あずみし)と同族で安曇氏は、開鑿(かいさく)伝説にも関係し、金属に深くなじんだ氏族である。

凡海麁鎌(おおあまのあらかま)が大海人皇子の養育に関係したといわれ、「かま」は金属と関係する。(谷川健一)

美濃の地、そして尾張氏は、古代から製鉄を多くする地で、その氏族であった。

もともと大海人皇子の養育を海部氏にしたこと自体、この金属になじむ氏族を選んでいたのではないかと考えられる。

そしてこの戦いを勝利に導いたのは尾張、美濃の豪族たちであった。

各務原の英雄 村国男依(むらくにのおより)


岐阜県各務原(かがみはら)の地名は古代の鏡からつけられたと思われる。

古代に鏡作部(かがみつくりべ、銅鏡などの鏡を作る特殊技能集団)がいたことからと言い伝えられている。

また、別の説では、各務地域のほぼ中央にある村国真墨田神社に鏡作部の祖神である天糠戸命(あまのぬかどのみこと)が祀られているからとも言われている。

このアマノヌカドは、奈良の磯城郡にある多氏一族の神社・鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)の祭神でもある。

多氏も金属にかかわる氏族で、その移動に伴い各務原に鏡作部を設置したのだろうか。

各務原は、愛知県と岐阜県の境にあり、今では木曽川が県境になる。

古代の木曽川は支流が多くいまのような境ではなかったらしい。

村国男依の領した村国郷も愛知県の江南から、北へ岐阜県の各務原に至る。

壬申の乱最高の功労者といわれるが、あまり知られていない。

生年不詳で、天武天皇5年(676)7月に亡くなっている。


村国男依の活躍

6月22日に吉野を発った3人の舎人(村国男依たち)は、4日後26日に伊勢国朝明評家(あさけのこほりのみやけ)まで進んできた大海人皇子一行に「美濃勢3000人」を動員し不破(関ヶ原)を確保したことを伝えた。

その湯沐邑までの往復の道程を考えるとわずか1日か2日での動員出動したことになり、大海人皇子の事前の準備があったことがうかがわれる。
 
不破(関ヶ原)では、尾張国守小子部連鉏鉤(おわりのくにのかみちいさこべのむらじさひち)が率いた2万の兵が帰服した。

不破には桃配山があり、大海人皇子が兵士にねぎらいの桃を配ったことに由来する。

のちに、家康が陣営を張った場所である。

大海人皇子は野上行宮(のがみあんぐう)からは動かず戦況を見守った。

その後7月2日将軍となった村国男依は数万の兵を率いて進発した。

7月7日息長横河(米原市梓河内付近)の狭い谷間で村国男依は勝利した。

❋行宮とは、天皇が行幸、政変なので仮に使用した施設

大友軍は70キロ先の大津宮に敗走する。

7月22日瀬田橋の戦いで橋の両側に対峙していたが、大海軍の勇者大分稚臣(おおきだのわかみ)が橋を駆け抜け、斬りこんだことを契機に大友軍は総崩れとなった。

敗走した大友皇子は大津付近か京都の天王山か定かではないが、山前(やまさき)で自害する


大海人皇子は天武天皇となり功労者村国男依は連を賜り、中央下級貴族に加わり各務原にも一族は残った。

このあたりの農民たちは位階をもつものがいなかったが、乱後は位階をもつ農民が多数みられることから、男依だけでなく冠位を授けられ優遇されたことがわかる。

この処遇は701年の大宝律令制定まで続き後に解消された。

この時期各務原周辺には仏教寺院が多く建立されているので、その一族の豊かさを表しているといえる。


村国真墨田神社(各務原市鵜沼山崎町1丁目108)

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祭神:金山彦命(南宮大社)天火明命(あまのほあかりのみこと)後に村国男依

❋金山彦命とは金属の神(南宮大社の祭神)

❋天火明命とは尾張氏の祖先神(尾張、美濃の神社の祭神に多い)

秀吉の時代に南の木曽川沿い(現在の御旅所・「大脇グループ木曽川寮」の駐車場)から現在地に移転した。

村国神社 (各務原市各務おがせ町3-85)おがせは苧ケ瀬と書く

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村国神社裏の森
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村国神社裏の森のストーンサークルのように石が並んでいる
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村国座


祭神:天火明命(あまのほあかりのみこと)・御子石凝老命(みこいしこりどめのみこと)・

後に村国男依

❋御子石凝老命とは、鏡作りの神

明治15年(1882)になって奉納芝居を行う場所として村国座(芝居小屋)ができた。

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男依の伝承墓

東南200mに御旅所があり、村国男依の墳墓であるという言い伝えがある。

椋の大木を御神木として祀る。


尾張氏


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東谷山 尾張氏本願の地


古代の地方豪族で天火明命を祖神とし、本貫地は諸説があり、葛城説、吉備播磨説などある。

もとは海人族で海からこの地にきたと思われる。

美濃、飛騨などに居住したのち乎止与命(おとよ)のとき、尾張国造となる。

尾張の由来は、新しく墾り(はり)開かれた土地の意からつけられたといわれる。

なぜだか、尾張氏は皇族が新しくなるときに后をだしている。

尾張氏と皇族の婚姻

①日本武尊と簀媛命
②孝昭天皇(前475-前393)と世襲足媛(よそたらしひめ)
③崇神天皇(前97-前30)と尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)
④応神天皇(270-310)と高城入姫命(たかぎいりひめ)・弟姫命(おとひめ)・仲姫命(なかつひめ)
⑤継体天皇{507-531}と目子媛(めのこひめ)

皆、尾張氏の姫君たちである。

そして崇神天皇・応神天皇・継体天皇ともに系譜が変わった天皇である。

系譜が変わった時に尾張から姫を娶る。

どういう意味があるのだろうか。畿内にいる豪族は全王朝に関わっている豪族ばかりなので、地方の実力派豪族との結びつきを求めたのだろうか。

尾張氏は表舞台に出る氏族ではなかったが、皇室の外戚という重要な存在であったようだ。

熱田神宮の宮司、同族の津守氏は住吉神社(大阪)、元伊勢籠神社の宮司は海部氏である。

熱田神宮の宮司職は後に、親戚の藤原季範(すえのり)に譲られた。

季範の三女由良御前は源義朝の妻となり、熱田神宮のそばで、頼朝を生んだ。

頼朝は名古屋生まれなのである。そう考えると最初に武家社会を築いた頼朝、後の信長、秀吉、家康、みんな名古屋、愛知県の生まれである。

草薙剣の祟り

天武天皇が病に倒れたため占ったところ、草薙剣の祟りだという。



話は、天智天皇のころ新羅の僧が草薙剣を盗んだことにはじまる。

新羅に持ち帰ろうとするが、船は難破し捕えられる。

まだ「三種の神器」は存在していなかったので、天智天皇は手元に置いていた。

そして近江朝が滅び、今度は天武天皇の手元に置かれた。占いがでてから、すぐに熱田神宮に戻されたが、天武天皇の病は癒えなかった。

熱田神宮に今でも続く神事がある。「酔笑人神事」(えようどしんじ)という。

草薙剣が熱田神宮にもどされて神官たちが喜んだ様子だそうだが、真っ暗闇の中、熱田の神職たちが、喜んで、酔って、笑って、歩きまわった様子が、「酔笑人神事」になった。

古くより見てはならないと語り伝える神面を、神職各自が装束の袖に隠し持ち、中啓という扇で神面を軽く叩いた後、全員が一斉に「オホホ」と笑う神秘的な神事である。

新羅の僧が盗んで逃げた門は「清雪門」といい、事件以来不吉の門とされ一度も開けられたことがない「開かずの門」になっている。

なぜ祟りという占いがでたのか諸説あるが、正当な後継者だった大友皇子を自殺に追いやり、大王になった天武天皇を非難するための話ではないかといわれている。


日本武尊命(やまとたけるのみこと)と大海人皇子

ヤマトタケルは、熊襲征伐を終え、東征に向かうとき、伊勢神宮の叔母である倭比売(やまとひめ)に会いに行き、草薙剣をもらった。

東征の帰りに尾張のミヤスヒメと再び会い、剣をミヤスヒメに預ける。剣をもたずに向かった伊吹山の神に痛めつけられ、醒ヶ井の水で意識はもどるが、鈴鹿で足がたぎたぎしくなり三重に折れた(三重の語源)。能褒野(のぼの・亀山市)で亡くなって白鳥となったヤマトタケル。


大海人皇子は伊吹山麓不破の尾張氏の私弟に行宮を置き、勝利をあげたのち都である近江には寄らず往路を戻って飛鳥にもどる。即位してのち熱田神宮の草薙の剣の祟りによって亡くなる。
両者には似通ったところがある。


伊吹山周辺の鉄

なぜ両者とも伊吹山なのか。草薙の剣と関係するのか。

伊吹山の近くに伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1)がある。

中山道沿いに大きな鳥居があり、少し奥まった場所にある。「いぶき」とは伊福部氏であり、尾張氏と同族で、伊吹山麓周辺で鉄を生産していた。
大海人皇子の行宮とした尾張氏の館もその管理のためにあったと思われる。

現在伊吹山では石灰が掘られているが、古代ではこのあたり、鉄生産がさかんであった。


南宮大社 (岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1)

伊吹山の南にある美濃国一宮で、鍛冶の神である。

祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)。

鞴(ふいご)祭では、実際に野鍛冶による鍛錬を神官が行い小刀を作成して、奉納する金属の行事があり、今でも金属に携わる人々が集まる。

節分の行事で、的の裏に「鬼」と書かれた大的に12本の矢を射る大的神事がある。

鬼とは平将門のことで、京都から飛んできた将門の首を南宮大社の祭神隼人神が射落としたという。

近くに「御首神社」がある。

金生山(きんしょうざん)岐阜県大垣市赤坂町金生山(かなぶやまが正しい)

伊吹山の東麓にある、

石灰岩の山で現在石灰岩や大理石が、掘り出され山容が変わっている。

赤坂駅には石灰を運ぶ貨物があり、石灰の製品が積み上げられている。

昔は、鉄鉱石の質が高く自然の丹としては最高のものでそのままベンガラとして使えたという。

第二次世界大戦時も軍隊が褐鉄鉱を掘り出している。麓の赤坂、青墓は刀鍛冶が多くいた。

多度大社 三重県桑名市多度町多度1681

養老山地に南にあり、摂社に一目連神社があり、祭神は天目一箇命(あめのまひとつのみこと)である。

鍛冶の神である。現在でも祭祀に刀鍛冶の奉納がある。

尾張の鉄

内々神社(うつつじんじゃ)内々神社 春日井市内津町上町24

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内々神社 本殿      


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内々神社横の内津川支流の鉄分が流れる様子


祭神は、日本武尊命(やまとたけるのみこと)建稲種命(たけいなだねのみこと)・簀媛命(みやずひめのみこと)

南北朝時代の禅僧、夢窓国師の作庭と言われている庭が奥にある。隣に妙見がある。

神社はしばらくして衰退し、妙見様として復興、のちに内々神社として再興し、庭は寺だったことによるのかもしれない。

由緒は、東国の平定を終えたヤマトタケルが内津峠にさしかかったとき、早馬で副将軍のタケイナダネが駿河湾で水死したという知らせがあった。

知らせをうけたヤマトタケルは絶句し「ああ、現哉現哉」「ああ、うつつなりうつつなり」

とつぶやき、鎮魂のためタケイナダネの社をたてたことがはじまりという。

タケイナダネはヤマトタケルの妻であるミヤヅヒメの兄で、東征に付き従った。

東征の帰路、ヤマトタケルは山道を、タケイナダネは海沿いの道で別々に帰ってきた。

しかし駿河の海で尊に献上するミサゴ(野鳥)を捕らえようとした際、風波が強くなって船が沈没、自らも水死したという説とヤマトタケルをねらう密偵に殺害されたという説がある。

衣服が流れ着いたのが知多半島の先にある羽豆神社、遺体は吉良に流れ着き幡豆神社に祀られたとされる。

後ろの山は茶褐色のチャートで、渇鉄鉱が含まれている。近くにマンガンも出るという。

ここは下街道(善光寺街道)という古くからの街道がある。現在の19号線である。

また、新撰組結成に関わった清河八郎が母と伊勢参りに通ったといわれる。

尾張戸神社(おわりべじんじゃ)名古屋市守山区大字志段味(しだみ)字東谷字2099

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尾張部神社 本殿
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頂上からの眺望


東谷山(とうごくさん)の頂上にある尾張平野の眺望随一の神域である。尾張氏の祖を祀り、尾張氏本願の地であり、熱田神宮の奥ノ院と言い伝えがある。

祭神は、天火明命(あめのほあかりのみこと)―尾張氏の祖

天香語山命(あまのかごやまのみこと)―尾張開拓の祖

建稲種命(たけいなだねのみこと)―ヤマトタケルの副将軍

創建は、簀媛命(みやずひめのみこと)―草薙剣を祀るため熱田神宮を創建したヤマトタケルの妻

東谷山は古代のピラミッドといわれる超古代史では有名な山である。

頂上に磐座、ストーンテーブルがあり、古墳がある。古代祭祀の残る山である。

社殿も古墳の上に鎮座し麓には古墳群がある。

壬申の乱で活躍した尾張の物部氏(朴井 雄君・えのい の おきみ・物部氏で守屋の子ともいわれる)たちの古墳といわれる。


各務原の鉄


各務原の製鉄遺跡・村国男依を祀る神社の地図


村国男依のいた各務原には飛鳥時代の製鉄遺跡がある。

伊木山の八熊遺跡と野口廃寺跡である。

桃太郎神社(愛知県犬山市栗栖字古屋敷)

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桃太郎伝説を伝える面白い神社である。

桃太郎が退治した鬼とは、古代のたたらが行われた場所、

あるいは鉄の原料がとれた場所にいた古代製鉄民を、奪取し、支配したことではないかと考えている。

岡山の桃太郎神社は鬼である温羅を鉄釜で、地面に封じ込めている。



境内には関ヶ原のウォ―ランドにもあるコンクリートの伝説に因んだ人形が数多く配置されている。

コンクリート群像作家として知られる浅野祥雲による作品である。

宝物殿が焼失し、古物は写真のみになってしまった。

名古屋在住のころ私はみたが、河童の手や鬼のミイラがあった。

愛知B級スポットといわれている。

神社の山はチャート層で、チャートは酸化鉄、褐鉄鉱などが重なった岩石である。

古代のストーンサークルもあるという。

このあたりを流れる木曽川はチャートの露頭が見える場所である。

犬山周辺には、桃太郎伝説に由来する地名が多くある。

犬山(現・犬山市):家来の犬がいた地

猿洞(現・犬山市):家来の猿がいた地

雉ケ棚(現・犬山市):家来の雉がいた地

今渡(現・可児市):鬼が桃太郎の乗った船を見つけた地

取組(現・坂祝町):桃太郎と鬼が取っ組み合いをした地

勝山(現・坂祝町):桃太郎が勝どきをあげた地。猿が噛みついた伝説から猿琢(さるばみ)城と名付けられた戦国時代の城が頂上にあった。

宝積寺(現・各務原市):鬼から奪った宝を積み上げた地


参考
「新説壬申の乱大海人皇子」週刊戦乱の日本史・「壬申の乱」:遠山美都男著・「各務原市史」・
「大垣市史」・春日井シンポジウム「壬申の乱」、「渡来人」:森浩二、門脇禎二著・
「白虎と青竜」、「本当は怖ろしい万葉集」:小林惠子・「壬申の乱の謎」、「消された王権」、「おとぎ話に隠された日本のはじまり」:関裕二 「青銅の神の足跡」:谷川健一 
HP:ウィキぺディア・桃太郎神社・桃太郎伝説
by gannyan1953 | 2012-11-12 09:37 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

丹那トンネル 旧東海道線

歴史と素適なおつきあい番外編         2011・9・29(木)



丹那トンネル 旧東海道線 将門


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丹那盆地

御殿場線に乗りたくて、横浜駅から御殿場線経由で戸塚駅まで戻り、運賃210円の旅をしてきた。
本当にできるのかドキドキした。
家からは市営地下鉄一日乗車券(740円)を購入、あわせて950円でまわってきた。

ただし、途中の改札はでられない。

コース:市営地下鉄〜横浜駅10:18発〜国府津駅11:08着 
御殿場線国府津駅11:29発〜御殿場線まわりで沼津駅12:59着〜東海道本線沼津駅発13:08発〜戸塚駅14:39着〜市営地下鉄で帰宅


御殿場線


明治から昭和にかけて東海道本線の一部だったが、昭和9年(1934)12月1日に丹那トンネルが開通し、東海道本線は熱海駅経由となって短縮された。国府津駅から沼津駅間は「御殿場線」と名を変えた。戦争中には不要路線とされ単線化された。今でもトンネル、橋桁、線路跡など複線時の遺構が残っている。
鉄道唱歌は、丹那トンネルの開通前にできた歌なので、東海道線としての駅名がある。

「鉄道唱歌」   大和田建樹作歌


12 国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とほからず
   箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より 「国府津駅」

13 いでてはくぐるトンネルの 前後は山北小山驛
   今もわすれぬ鐵橋の 下ゆく水のおもしろさ 「山北小山駅」

14 はるかにみえし富士の嶺は はや我そばに来りたり
   雪の冠雲の帶 いつもけだかき姿にて

15 ここぞ御殿場夏ならば われも登山をこころみん
   高さは一萬数千尺 十三州もただ一目 「御殿場駅」

16 三島は近年ひらけたる 豆相線路のわかれみち
   驛には此地の名をえたる 官弊大社の宮居あり 「下土狩駅」(三島)

17 沼津の海に聞こえたる 星は牛伏我入道
   春は花さく桃のころ 夏はすずしき海のそば     「沼津駅」

今でも歌詞のとおりの景色である。

丹那トンネル

東海道本線は、御殿場経由は勾配がきつく、登坂専用の補助機関車を連結したり、食堂車をはずしたりしたが、速度低下は避けられず、その上に山間部の土砂崩れも起き、トンネルが必要とされた。

地質


丹那盆地の地質は火山性で、溶岩流層と十分固まっていない礫や砂でできた層がある。そして大量の地下水をためこんでおり、水田、わさびなど作られ豊かな土地であった。
活断層もあり、1930年の北伊豆地震はこの丹那断層が震源となって発生、工事は地下水や地質に悩まされ、難航した。

完成
大正7年(1918)に着手され7年後に完成予定だったが、北伊豆地震、湧水のため、16年後の昭和9年(1934)に、予算の4倍以上の総工費をかけて完成した。犠牲者は熱海口31名函南口36名計67名であった。

湧水


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湧水であふれる工事現場



トンネル全体が大量の湧水であふれかえることもあり、水抜き坑を掘って地下水を抜いた。その量は芦ノ湖の貯水量の3倍とされる。その結果豊かだった地下水が枯渇し、
水田もわさび沢も消失してしまった。住民の水道を引いたり、補償費などに追われることになった。


事故


大正9年(1920)と大正12年(1923)、北伊豆地震の昭和5年(1930)には大規模な崩落事故が発生した。関東大震災はトンネルそのものには甚大な被害はなかった。

地震

北伊豆地震で断層が動き熱海側の地面が函南側に対し北へ2メートルずれたため本来直線のトンネルだったが、わずかにS字型になった。

温泉余土

温泉余土とよばれる湧水をふくむと柔らかくなってしまう緑色の地層に悩まされた。
膨張すると鉄も曲げてしまうので崩壊の危険があった。

工法

これらの難工事からセメント注入法や圧搾空気掘削工法、水平ボーリングなど日本で初めてトンネルでの検討、実用化された工法があった。
しっかり地質がわからないまま遮二無二トンネルを掘ろうとしたことが難工事を生んだことは、これからの教訓となった。

丹那神社 静岡県熱海市西山町43-1

熱海の梅園の近くに神社があり、丹那トンネルの熱海からの入り口の真上にあたる。神社からは真下に東海道線、横に新丹那トンネルを新幹線が通るのがみえる。
梅園近くで崩落事故があり、全体での犠牲者67名の鎮魂のために祀られた神社である。

救命石

神社の横に救命石とよばれる石がある。崩壊事故の直前、トロッコで残土を運び出すため、じょうごで残土を受け取っていた。そのじょうごに大石がひっかかり、総掛かりで石の取り除き作業をしていた。
その直後崩壊がおこった。彼らはその場に閉じ込められ結局8日間後に救出された。
もし大石がひっかからなかったら、作業は順調に進み崩壊現場にむかっていたら、直撃をうけていたことになる。この石のおかげで救われたと考え救命石と名付けられた。


丹那断層公園 静岡県田方郡函南町畑

北伊豆地震でずれた断層をここでみることができる。断層の説明も詳しい

酪農王国オラッチェ 函南町丹那349−1

明治14年「伊豆産馬会社」を名主であった川口氏が起こした。
いまでは丹那牛乳として知られる。オラッチェでは乳製品、丹那盆地でとれた特産品を売っている。

将門の駒形堂
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軽井沢に駒形堂があり、将門と頼朝の由来がある。伝承が残るのみである。
もっと山の方の街道のわきにあったそうだが、現在地に移転した。

承平2年(932)、将門が関東に下るとき弦巻山で馬が病になったため観音に祈願した。
ただちに病が癒えたので、弘法大師が刻んだ守り本尊を安置した。

建久4年(1180)には頼朝が富士裾野で巻き狩りをした。
その際に観音堂に参拝すると愛馬摺墨(するすみ)がしきりに嘶いた。
すると遠く離れた場所から馬の嘶く声が返ってきた。

その山を探すと大成池の畔で7尺を超える馬を捕らえて池好(いけづき)と名付けた。

この名馬を得られたので、駒形堂を建立し将門の納めた馬頭観音を本尊とした。
そして秩父の畠山重忠が鏃を使ってかたわらの石に頼朝の騎馬像を刻み駒形権現とした。

弘化4年(1848)に大きく破損したため名主五右衛門らの発案で修復したが、明治維新のころ又破損し、大正6年(1917)この地の人たちが協力して堂を建立した。  

           伊豆国田方郡函南村軽井沢  駒形堂


参考 wiki・丹那神社・酪農王国オラッチェ・函南町・闇を裂く道:吉村昭
by gannyan1953 | 2012-11-11 19:41 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

日野 新撰組

歴史と素適なおつきあい  東京都歴史散歩


多摩の新選組を訪ねて
    2004・4・9
                                        

JR日野駅9:50―(宝泉寺)(大昌寺)(八坂神社)-(井上源三郎資料館)(とうがらし地蔵)―

日野宿本陣―ふるさと博物館―土方歳三資料館―(石田寺・とうかんの森)-高幡不動



宝泉寺
  
 新選組副長助勤井上源三郎の墓

大昌寺      
新選組後援者佐藤彦五郎と妻ノブ(土方の姉)の菩提寺。
                  
彦五郎は初代南多摩郡長。

八坂神社    

天然理心流剣士たちが剣の上達を願って奉納した額がある。

井上源三郎資料館     

井上源三郎の生家。兄松五郎は八王子千人同心。

とうがらし地蔵  

沖田総司が多摩時代よく参ったといわれる。

日野宿本陣   

日野宿名主佐藤彦五郎邸。長屋門あたりに天然理心流道場があった。
土方が昼寝した部屋、土方の遺品を届けた市村鉄之助が 匿われた部屋がある。
甲州街道で残る数少ない本陣。

土方資料館   

土方歳三生家。
                  
手植えの矢竹、刀の和泉守兼定など遺品や薬の行商をした道具類などを展示 
  
石田寺      

土方歳三の墓がある。
           
とうかんの森   

土方が生まれた元生家があった場所。洪水で、移転。

高幡不動     
殉節両雄の碑、土方の位牌、土方の像がある。
 
碑は明冶21(1888)年新選組 の親戚知己門人らの長い努力により建設。

篆額は会津藩主松平容保、撰文は仙台藩濡者大槻磐渓、
                   
書は元幕府御典医松本良順。



近藤 勇(1834~1868)  

上石原村宮川久次郎の3男。4代目天然理心流宗家を継いだ。芹沢鴨暗殺後新選組を掌握し局長となる。池田屋で名を馳せてから政治にかかわり永井尚志に随行、朝彦親王の提言で京洛政治の支柱をなした。墨染で襲撃されけがのため鳥羽伏見の戦いには参戦していない。江戸に帰ってから甲陽鎮撫隊での敗走後五兵衛新田をへて流山に駐屯中官軍に投降。板橋にて斬首。板橋、大阪千日前、京都粟田口にて梟首。

土方歳三(1835~1869)  

石田村土方義諄の四男。父は生まれる前に、母は6歳の時に亡くなっているので、兄の喜六夫妻に育てられた。近藤勇の天然理心流入門後、門人と共に新選組を発足、法の番人的役割を厳しく実行。組織の悪役を一手にひきうけ隊内の粛清を行い、妥協を許さなかった。鳥羽伏見で京の新選組崩壊後、新選組を立て直しながら北へ転戦。函館で、弁天台場の新選組同志を救援にむかう途次、攻防戦で壮烈な戦死を遂げた。

沖田総司(1844か1846~1868) 

 白川藩士沖田勝次郎の子。義兄林太郎は1859年11月まで白河藩に在籍。総司16歳である。9~11歳ころ天然理心流道場の内弟子となりのちに塾頭となる。一番の使い手といわれ活躍するが結核を患い、江戸敗走後新選組から離れ良順のいた今戸から千駄ヶ谷にて病没。

井上源三郎(1829~1868)

八王子千人同心井上藤左衛門3男。次兄松五郎と共に天然理心流3世近藤周助の門人。穏やかな人柄といわれる。鳥羽伏見の戦いで淀千両松の激戦で最後まで踏みとどまり討死。甥の井上泰助が首をもって退却したが重くて果たせなかった。


時代背景

幕末期、徳川幕府はロシア使節ラックスマンをはじめ、あいつぐ異国船来航に手をこまねいている状態であった。その無能ぶりが露呈してしまったのが黒船騒ぎで有名なペリー来航であった。国内は開国か攘夷かと揺れていた。結局幕府は日米和親条約を締結。時の天皇孝明天皇は攘夷論であった。幕府の開国策に反対する攘夷論は尊皇論と結びつきやがて長州、薩摩、土佐などの雄藩を中心とした倒幕運動へと発展していく。日米修好通商条約を締結した大老井伊直弼は反対する尊攘派や幕府改革派を弾圧した。安政の大獄である。井伊直弼の専制政治に対する不満は桜田門外の変を引き起こす。白昼に起こった大老殺害はますます幕府の衰退への転機となる。王城の地京都では尊皇攘夷を唱える志士たちの天誅という言葉のもとに幕府要人や幕府寄りの公暁らの暗殺が横行していた。

*攘夷論 ―開国に反対して外人排斥を主張した意見。 * 日米和親条約―1854 再度来航したペリーが武力を背景に幕
府にせまり締結された。下田、函館の開港、漂流民保護、欠乏品の給与、米領事の駐在など。 * 尊王論―皇室崇拝の思想。 * 尊皇攘夷論―欧米列強との接触により危機意識が高まり1863を頂点とし倒幕派の下級武士を中心に運動は激化。薩英戦争、下関砲撃での経験で攘夷不可能が明白になっても幕府批判の政策として高唱され、維新の実現となった。 * 日米修好通商条約―1858 勅許を待たずに締結された最初の不平等通商条約。国内経済不安定を招き尊皇攘夷論は激化。

新選組結成

文久2(1862)年 将軍警護のため江戸浪士組募集が行われた。14代将軍家茂は攘夷を強く迫る孝明天皇に拝謁し、緩和するために上洛することとなった。そこで治安の悪い京都で将軍の身辺を守ることとなった。文久3(1863)年上洛した浪士組の一部は、提唱者であった清河八郎の裏切りともいえる反幕府の爆弾宣言に反発、壬生浪士組として一部京都に残留する。清河ら東帰した浪士は清河が暗殺されたあと、庄内藩預かりの新徴組になる。
残留した壬生浪士組は京都守護職を拝命していた会津藩を後ろ盾に市中見回りの役にあたることになる。これが新選組の前身である。のち武家伝奏より「新選組」の名を拝名する。「撰」の字で「新撰組」ともいうが、書簡では両方とも使われている。

新選組の活動

新選組として活躍したのは6年間のことである。京都での全盛時代から鳥羽伏見の戦いで敗戦し、関東での戦い、近藤勇を失ってからの東北蝦夷へと新選組は北へ転戦していった。

京都 ―文久3(1863)年2月~明冶1(1868)年1月―

京都守護職お預かりの組織として、京都の治安を守るため壬生に屯所を置いて京都守護職預壬生浪士組として活動。八・一八の政変ののち、武家伝奏方から活躍をたたえられ「新選組」という名を賜った。
最初中心となっていたのは芹沢鴨、近藤勇であったが芹沢の行状が粗暴なため粛清される。ここに多摩出身天然理心流一派が新選組の実権を握ることになった。
池田屋騒動で一躍有名になる。寄せ集めの集団であるため隊の規律を厳しくし、強い集団に仕立て上げるため局中法度という隊規を作りこれにより隊内の粛清も多く行われた。活躍するにつれ、会津藩から離れ幕府直参に取り立てられる。ここまでが新選組全盛時代となる。鳥羽伏見の戦いでは幕府軍、会津軍とともに戦うが敗走。軍艦で、江戸に退却する。


* 武家伝奏―室町幕府から設けた諸家の奏請を朝廷にとりつぐ公武間の重職。
* 天然理心流―近藤内蔵之助が祖で、近藤勇は4代目宗家。神道流の流れと伝わる。3代目周助が市谷に道場試衛館を開き、勇は土方の義兄日野宿名主佐藤彦五郎宅と小野路村名主小島鹿之助宅の道場に出稽古した。通常の3倍の木刀で稽古をしたという。天然理心流と新選組剣法とは違っており、新選組は実戦に強く集団剣法である。
*鳥羽伏見の戦いー1868 薩長の武力倒幕派が徳川慶喜に辞官納地を要求し、江戸の治安を乱し挑発した結果、旧幕府軍、会津、桑名は激怒し鳥羽と伏見の街道から京都に進発、敗退した。倒幕派の計画どおり旧幕府側を朝敵とした。

関東 ―明冶1(1868)年1月~4月―

品川に戻った新選組は恭順を唱える将軍徳川慶喜の警衛にあたる。勝海舟に甲府城奪取を言い渡され甲陽鎮撫隊を編成し甲府に向かうが敗退する。流山で屯集したが、官軍にみつかり近藤勇は投降する。のち、4月板橋で斬首になる。

*恭順を唱える幕府(勝海舟)は抗戦派を江戸から遠ざけたかった。大鳥圭介率いる伝習隊は関東平野を北に、撤兵隊(さっぺいたい)は房総、遊撃隊は箱根、彰義隊は上野で抗戦した。東北では会津、庄内の恭順は受け入れられず奥羽皆敵とされ戊辰戦争に突入していく。
*甲府敗退後永倉新八は靖兵隊を組織し新選組から離れるが、生き残り貴重な資料を残す。

東北・蝦夷 ―明冶1(1868)年4月~明冶2(1869)年5月―

会津如来堂では会津に殉じると願う新選組の一部斎藤一らが戦っている。斎藤はのち生き残り警視庁に奉職。土方歳三はこの後宇都宮、会津で、戦い、仙台、蝦夷と新選組の再編成を繰り返しながら北上、函館で降伏直前に戦死。函館の五稜郭を本拠とした蝦夷共和国では陸軍奉行並という役であったので新選組の隊長ではなかった。脱走軍として新政府軍に降伏後、捕縛された隊士で竜馬暗殺の容疑で刑死、獄死した隊士もいた。

*蝦夷共和国―幕臣榎本武楊が総裁となり作り上げた共和国。幕臣救済目的で蝦夷開拓を朝廷に訴えた。

多摩出身ということ

・武州多摩はほとんどが幕府直轄領
天領「徳川家危急の折には馳せ参ず」比較的税も少なく豊かで質実剛健、おおらかな気風があった。
・剣道好き
多摩は江戸への敵侵入の道筋にあたるため防禦地にあたる。治安を守るためにも武道が
さかんであった。幕末には30~40の道場があったといわれる。
・八王子千人同心の報恩 
八王子千人同心とは日光東照宮の防火見回り、蝦夷地の警備開拓を勤める。武田家滅亡後その遺臣団が中核をなし、平時は農民として暮らした。10人の千人頭に100人の同心を置いた。新選組には千人同心出身者もおり、左幕どおしの交流があった。                  

(余話)蝦夷地開拓のため千人同心80人は1858年七重村に入植した。函館奉行の命で桑を栽培、成功し郡内織を織り出した。ようやく軌道に乗り出したころ、維新がおき千人同心は新政府任命の函館知事の支配下にはいった。榎本軍と戦うため出兵命令がおりたがあくまでも徳川忠誠を叫ぶ数人は榎本軍に合流、同胞合い撃つ非情な戦いになった。(多摩の100年朝日新聞)

多摩の豪農

近藤や土方は豪農出身で、農民でも豊かな環境に育っている。多摩には豪農が農民を支配し、代官所とも深く結びついていた。1835年伊豆韮山代官江川太郎佐衛門英竜は農民に小銃をもたせたいという意見書を幕府に提出。農民の非武装化は鉄則であったため、却下されたがその28年後1863年江川太郎佐衛門英武が多摩の直轄領で試験的に行うことが許された。幕府は農民層の手を借りなければならないほど追い詰められていた。もともとこのような進言をしていた背景には、多摩の富裕層豪農をとおしての農民支配に自信があったからである。代官所からゲベール銃を渡され農閑期には近代兵器の訓練がなされた。農兵隊結成である。いまでも名主格の家には武具が保管されているところもある。新選組のパトロンとして存在する佐藤彦五郎、小島鹿之助も多摩の豪農であった。農兵隊を指揮するまとめ役でもあった。

(余話)維新の2年前の慶応2年多摩で、武州一揆が起こった。一揆勢は入間郡名栗村から日野まで迫り、日野農兵隊がこの一揆勢を壊滅させた。農民が農民をゲベール銃で撃つ悲惨な事件であった。これは開国をしたためにおきた物価上昇や天災による飢饉で苦しんだ貧農が、外国の脅威から守るために編成された農兵隊にうちとられるという皮肉な結果となった。(多摩の100年 朝日新聞)

会津との関係
新選組は京都の治安を守るための警察隊であった。江戸、京都に浪士があふれ攘夷だ、尊皇だと殺戮が繰り返される世情に浪士を浪士でもって制する幕府の思惑もあった。京都守護職である会津藩のお預かりになったことは当然と考えられるが、東山黒谷に屯集させた会津藩士は1000名にのぼる。それだけの藩士が在京しているのに、なぜたった24人の新選組を預かるのかという疑問がある。
それは初代会津藩主保科正之までさかのぼる。2代将軍秀忠の庶子として生まれたが正室お江与の方に遠慮して江戸城外で育てられた。その養育係が信玄の六女であり、その後信州高遠藩主保科正光に養育された。この保科家は祖父の時代信玄家臣であったころ武田武士の精華ともいうべき一族であった。会津には「高遠以来」という言葉が残るほど会津の名家は武田遺臣団であった。田中玄清、西郷頼母、山川浩、佐川官兵衛の会津4家老はいずれも「高遠以来」の者たちであった。武田の血を受け継ぐ者どおしという関係であったからではないか。(歴史群像シリーズ新選組 中村彰彦)

自由民権運動

なぜ新選組が甲陽鎮撫隊を編成し甲府を守ったか。甲州武田家の血の記憶が甲州に向かわせたのではないか。進軍途中あきれ返るほど、内藤新宿や日野で酒宴を催し戦機を逸したことも故郷回帰の凱旋ムードに浸ったからだろう。
明冶にはいり自由民権運動が盛んになり、その一大拠点が多摩であった。徳川への忠誠心が強かったためか、明冶政府の左翼急進思想となった。小島鹿之助も新選組のスポンサーから、自由民権運動の擁護者となる。ただつけ加えると豪農が擁護する民権はのちに下層農民からのつきあげで行き詰まっていくことになる。(歴史群像シリーズ新選組 中村彰彦)

多摩の民権運動については、歴史と素適なおつきあい 東京都「小野路と薬師池」を参照

参考文献    歴史群像シリーズ(新撰組・幕末剣心伝・土方歳三・徳川慶喜)学研 ・日本史辞典・「新選組のすべて」新人物往来社・「幕末を駆け抜けた男たち」今川徳三・「多摩の百年」朝日新聞
by gannyan1953 | 2012-11-11 19:08 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

上郷深田製鉄遺跡 アラハバキ神

歴史と素敵なおつきあい 2008・5・9(金)
 
鼬川流域歴史散歩(いたちがわ)


日時: 5月9日(金曜日) 9:50 昼食:外食(ファーストフード系)または、河原でお弁当

集合: 根岸線「港南台」駅改札口集合・改札はひとつです

港南台駅~深田製鉄遺跡~上郷猿田遺跡と上郷深田製鉄遺跡の案内板~思金神社~光明寺(親鸞、松下禅尼ゆかり)~証菩提寺(佐奈田与一ゆかり)~昼食~(公田(くでん)町上﨟塚)~アラハバキ神~本郷台駅
      
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 「人面把手(とって)」公田町遺跡から発掘・神奈川県立歴史博物館蔵


栄区の歴史

栄区に人が住むようになったのは、縄文前期からで、
上郷猿田遺跡では5000年前といわれる。
都筑区と違うことは、縄文海進のころ海抜20メートルくらいまでは海だったが、
貝塚がみつからないことである。
きっと、がけ状で砂浜が少なかったためと思われる。

4500年前、縄文中期のもので公田遺跡から「人面把手(とって)」が発掘された。
関東地方最大のもので、顔に入れ墨がみられる。

海の水がひき、弥生時代にはいると湿田、水田、畑がつくられ金属の農機具が使用されるようになる。
古墳時代(400年~800年)になり、栄区内では古墳はみつかっていないが、
上﨟塚あたりがそうかもしれない。

7世紀から9世紀前半にかけての200年間上郷深田地区で操業されたと思われる
製鉄遺跡が発見された。
大陸製法の須恵器もあることから渡来系の鍛冶集団と思われる。

平安時代(800年~1200年)、尺度(さかど)郷から、
山之内庄、本郷と呼ばれるようになった。

源家の山内首藤が荘園主だった。平安後期になると、
大庭、梶原、長尾、飯田氏などが武士団を形成した。

イタチ川流域は鎌倉の出入り口になり、出(いで)立(たち)川といわれイタチに転化したと思われる。

鎌倉開府初期、東北への交通上の重要拠点だった。
この地域に「いざ鎌倉へ」の中の道、下の道が通っている。

鍛冶ヶ谷は刀工集団による武器製造工場があったらしい。
公田のアラハバキ神は「荒伯耆」と記され伯耆国の鍛冶であるが、
伯耆鍛冶の祖は東北の舞(も)草(くさ)ともいわれている。

領主山内首藤は、山内庄を主にしていたが、奥州、伯耆、備後などにも領地があり、
移住させられた伯耆の鍛冶集団がアラハバキ神を祀ったのではないか。

兼好法師は鎌倉には二度訪れており、現在の金沢区にある庵に滞在していた。

「いかにわが たちにしひより ちりのきて かぜにねやを はらわざるらん」と詠んだといわれる。

室町時代、足利尊氏の弟直良がうけつぎ政所職の高師重(師直の父)が治めた。

小田原北条の時代になると、玉縄城、長尾台(大船)に砦を築造した。

江戸時代、大半は天領となったが、一部川越藩の領地となる。比較的安定し豊かな土地であった。

明治、本郷村となって関東大震災では家屋の8割が全半壊した。

昭和、戦前は、このあたりは海軍が買い上げ航空燃料の実験、製造がおこなわれた。

戦後は大船PXの倉庫になったが、昭和42年全面返還され区役所、学校、市営住宅など建設された。
昭和48年に根岸線が開通し、栄区が誕生した。


深田製鉄遺跡

昭和61年の発掘調査により山手学院南側に
大規模な古代製鉄跡があることがわかった。
時間の制約もあり、調査は途中で埋め戻してしまったが、
ほとんどが舞岡上郷線の道路の下になった。

規模は鉄炉が14基、銅炉1基、砂鉄置場、住居などがあった。
発掘された鉄滓(かなくそ)などが、横浜市歴史博物館に展示されている。

このあたりの堆積層には大量の砂鉄が含まれており、ここは砂鉄を精錬したところである。
関東の精錬遺跡唯一の遺跡なので、とても残念なことである。

静かな自然の谷戸が残っているが、瀬上の森周辺は、東急による開発が予定されており、
手入れができず、荒れてきているが、環境保全の運動がおこっている。

上郷猿田遺跡


昭和58年、現在の上郷高校のあるところに縄文から奈良時代の遺跡がみつかった。
高校南に製鉄遺跡とともに案内板がある。


横堰

上郷猿田遺跡近くに土のトンネルがあり、貝の化石がみられる。



思金神社

オモイカネ神とは古事記では八(や)意思(ごころおもい)金(かね)大神(おおかみ)で、
智恵の神である。
天の岩戸、天孫降臨に活躍した。

天の岩戸では八百万の神にアマテラスを誘いだす知恵を授け、
蘆原中国(あしはらなかつくに)平定では神の選定、天孫降臨ではニニギノミコトに随行したという。

昭和3年に白山神社の拝殿として創建された。


光明寺

梅沢山と号し京都西本願寺の末寺。
浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。


光明寺の由緒によると、聖徳太子が寵愛した秦川勝が
かつて今の城山橋北側にあった「白山」あたりの梅の林で夜光を見、
それが聖徳太子の16歳の像であった。

そこで光明寺の前身である梅沢山仙福寺を建てたという。

秦氏は渡来人で、京都太秦を本拠に相模にも進出し、秦野の地名を残している。
この渡来系の移住者がこの鼬川流域の横穴古墳群をつくったと思われる。

寺はのちに親鸞上人の学徳にうたれ浄土真宗に改宗した。

執権北条時頼の母、松下禅尼が隠居したと伝えられ、
障子を張り替えず手直しをして時頼に倹約の心を教えた逸話が残る。
その話は兼好法師の「徒然草」にある。
鎌倉幕府滅亡の際火災にあい、現在地に移った。
小田原北条氏からは、浄土真宗は一揆が多かったため、忌避されており、寺は弾圧された。



証菩提寺

治承4年、石橋山で戦死した佐奈田与一を弔うために、源頼朝創建と伝えられる。
かつては広大な敷地だった。
鎌倉の鬼門にあたり山内本郷を守るためといわれる。

平安期の定朝流による阿弥陀三尊像、は国の重文、初期の本尊と
伝えられる阿弥陀如来像は運慶流とされ県の重文、成巻文書11通が市の指定文化財になっている。
佐奈田与一は、石橋山の合戦では、源頼朝方で戦い、
敵の俣野五郎景尚の上に組みつき、俣野の首を斬ろうとしたが、
刀が血糊で抜けず、味方に加勢を求めたが、
痰がのどにつまり声がでず、無念にも後ろから別の敵方に首を斬られてしまった。
今、石橋山には佐奈田霊社があり、気管支炎、ぜんそくに効くといわれる飴が売られている。


上﨟塚・皇女神社

公田町の共同墓地にある小高い地を土地の人は上﨟塚という。
このあたりは縄文、弥生の土師器が発掘され、古墳だったともいわれている。

この近くに桂台遺跡もあり、上臈塚、皇女神社近く遺跡から、写真の人面把手がみつかった。
蛇をかたどったもので、縄文信仰、製鉄との関係もある。

塚の近くに桓武天皇の皇子葛原(かずらはら)親王の妃、照玉姫を葬ったところがあり、
その前に玉之御前神社をたてたという伝説が伝えられる。
皇女神社は照玉姫を祀っている。

葛原親王は、桓武天皇の五子で、幼いころから俊秀で大蔵卿、式部卿など歴任した。
そして王子女に平姓を称することを許された。
照玉姫もいっしょに東国へ下ったが、照玉姫はここで亡くなってしまった。
姫の侍女、相模局、大和局は尼になりここで菩提を弔った。
藤沢には垂木御所、綾瀬には皇子塚など史跡がある。

アラハバキ神

荒覇吐、荒脛巾などいろいろあるが、東北に見られる民俗信仰。
王権にまつろわぬ民、朝廷により東北に追われながらも守られてきた神、
遮光器土偶はアラハバキであるともいう、不明な神である。

蛇神説
吉野裕子:ハバキのハハは蛇の古語である。
直立する樹木は蛇に見たてられ祭の中枢であった。

伊勢神宮の波波木神社は辰巳の方角で祭祀は巳の刻に行われる。
蛇神である。

川崎真治:アラハバキはシュメール語でアラは男の獅子神、ハバキは蛇の地母神である。

塞(さい)の神説

谷川健一:宮城県多賀城跡近くにあるアラハバキ社は、蝦夷制圧のために築いた多賀城を防ぐ神といわれる。
「蝦夷をもって蝦夷を制す」アラハバキを、塞の神として配した。

製鉄神説

近江雅和:氷川神社にあるアラハバキは客人(まろうど)神として祀られている。
摂社は、もともと祀られていたのが、政治、権力の影響で祭神をすりかえた場合が
多いそうなので、氷川神社はもともとアラハバキを祀っていたといえるかもしれない。
今の祭神はスサノオであるが、出雲と氷川の繋がりを考えると、
そこに製鉄地の共通点がある。塞神の多賀城も製鉄地であった。
客人神は片目が多く、アラは鉄の古語、ハバキは、鉱物採集を目的とした修験道の山伏が
使用した脛巾であり、のちに足の神様になっていった。

真弓常忠:塞の神のサイはサヒで鉄の神だから塞神と鉄神は同一である。

参考:ウィキぺディア・栄区HP・瀬上の森パートナーシップ・葛原親王の史跡・ひろたりあん・rekisi.sansaku
 神奈備にようこそ・鉄器時代・横浜市歴史博物館HP・文化遺産HP
by gannyan1953 | 2012-11-11 18:46 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

将門と鉄

歴史と素適なおつきあい      2009・7・10(金)  座学

平安時代中期、東国では都から派遣された国司たちの暴政が続いていた。民衆たちは大飢饉や重税で飢餓や貧困にあえぎ、そこで立ち上がったのが平将門。
将門は民衆を救うため武装し、各地の国司を次々と追放、東国独立政権を樹立、八幡大菩薩を象徴とし、菅原道真の怨霊を召還して朝廷に挑んだ。
朝廷も前代未聞の全国寺社祈祷命令、征伐した者は貴族にするという秘策で将門政権打倒に躍起になる。たった数ヶ月の東国政権であったが、各地に残る将門史跡、伝説が、多くの人々に畏敬、信仰されていることを物語る。

将門年表     (その時歴史が動いたより)

901(延喜元)1月①菅原道真、太宰府に左遷
903(延喜3)2月道真死去 このころ将門生まれる
917(延喜17)②将門の父(良持)死去
918(延喜18)将門、都の藤忠平に仕える
930(延長8)将門帰郷、醍醐天皇から朱雀天皇即位
935(承平5)2月将門、源護を襲撃・叔父国香を敗死させる
       8月蚕飼川の戦いで妙見菩薩が将門を助ける
      12月源護、将門を告訴
936(承平6)7月将門、下野で勝ち戦
       10月源護の告訴により上京する
937(承平7)8月源護の告訴
         藤原忠平、太政大臣となる
       11月③富士斜面よち噴火、溶岩流が
        山中湖をせき止める 
938(承平8)2月将門、国香の嫡男貞盛を 信濃に追撃 
938(天慶元)5月4月地震あり。占いで不吉とあり、改元した
939(天慶2)6月叔父の平良兼が将門の反撃に敗走、病死
       夏④藤原玄明、将門の元へ逃げ込む
       11月⑤将門挙兵
       12月11日将門、下野国府を襲う
       15日 将門、上野国府を襲う
       12月26日藤原純友の乱起こる
941(天慶3)1月朝廷、「太政官府」発令、将門追討の命
       下旬将門、兵を田起こしのため帰す
       2月14日貞盛、藤原秀郷連合して岩井に進撃
       ⑦午後3時 激突  夕刻 将門死去
       4か月後に将門記を作成―作者不明
941(天慶4)6月藤原純友死去

①菅原道真との関係
下野権少掾(しもつけごんのしょうじょう)だった道真の三男景行は常陸介になった。
父の遺骨とともに常陸に赴任、羽鳥天神塚を築いた。平良兼が保護し、将門たちとは身近な関係であった。後に新皇宣言の折、道真が登場する。


②亡父の遺産騒動の理由
890年ころ桓武天皇の孫高望王が上総介として赴任してきた。その子が良持で、将門の父である。将門は桓武天皇から五代目にあたる。母は犬飼春枝の娘。
他の兄弟は、源護の娘と結婚しているが、良持だけが源氏とつながらないことになる。
将門が京にのぼり藤原忠平に仕えて理由はわからないが、故郷に帰る。
*父の所領をめぐり、伯父良兼ともめる(今昔物語)。
*良兼の娘を妻にしたことで、結婚に反対する舅の良兼ともめる。
*源護が平真樹という人物の所領を奪おうとして困った真樹が将門に助けを乞うた。
真樹の領地は桑、麻の栽培がさかんで良質の絹がとれた。
以上のような理由で親戚との小競り合いが戦いのはじまりといわれる。



③民衆の苦悩
背景として国司の重税、富士山噴火により作物がとれなくなっても同じような課税で農民が逃亡し疲弊していくのをみて、民衆のための政治をめざした。


④内輪争いから他人の仲裁
武蔵権守興世王(おきよ)・介源経基(清和源氏の祖)と足立郡司武蔵武芝の争いの仲介をして失敗する。 興世王&経基×武芝 → 興世王&武芝×経基という関係になり、興世王と武芝が仲間に加わることになる。次に頼ってきたのが国司に訴えられている藤原玄明(はるあき)で、将門は罪人を匿うことになる。


⑤乱
将門の本来の目的である国香の子、平貞盛(のちに伊勢平氏になり平清盛の先祖)との決着がつかず、なぜか結果的に国の機関を襲い将門本人が反逆者となってしまった。



⑥将門を助ける者、離れていく者
ここでは妙見菩薩ではなく、菅原道真の霊魂が八幡大菩薩を招き「新皇」の号を授ける。


妙見:泰山府君と同一で、北極星を神格化したものである。泰山府君は寿命を司る神である。妙見信仰はもともと渡来系の宗教で金属神である。将門末裔を名乗る相馬藩の家紋は九曜紋だが、中心は北極星、周りは北斗七星+輔星(ほせい)で妙見神を信奉する。
輔星も寿命を司る星である。


八幡:北極星+北斗七星で金属神である。原信仰は対馬でヤハタはシャーマンのひれ(旗)が神の依り代となったからともいわれる。宇佐氏が信奉し現在では祭神は応神天皇である。
星は鉱山を育成する。(鉄と神より)


新皇を名乗った将門にあいそをつかした妙見神が去り八幡神に移行したことになる。妙見神はどこに行ったかというと伯父の平良文のもとに行く。村岡五郎といわれ、将門とは同盟関係にあったといわれる。子孫は千葉氏、上総氏、秩父氏、三浦氏、鎌倉氏の祖となる。


将門の除目による国司

下野守: 平将頼 (将門の弟)

上野守: 多治経明(常羽御厩の別当)

常陸介: 藤原玄茂(常陸掾)

上総介: 興世王 (武蔵守)

安房守: 文屋好立(上兵)

相模守: 平将文 (将門の弟)

伊豆守: 平将武 (将門の弟)

下総守: 平将為 (将門の弟)


*国司とは地方に中央から派遣された官吏、四等官で、守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)をいう。武蔵守はなぜか選任されていない。

⑦ 死

岩井にて平貞盛、藤原秀郷(俵藤太)により討ち死。こめかみに矢を射られた。
「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太の 謀りごとにて」
将門の笑い:言葉のシャレなのか、謀られたことで将門の正当性を喜んだのか?!
平安京東の市に晒される。その場所に神田神宮がある。

将門と鉄


1 官牧と尾崎前山製鉄遺跡

昭和53年に発掘された、9世紀の製鉄遺跡で、将門が戦った地域のほぼ真ん中に位置する。将門の武具、馬に使用する鉄製品(あぶみ・くつわ)など供給した、たたら場跡とみられる。この地域は、官牧「大結牧」の比定地で、軍馬の飼育をした「栗栖院常羽御厩」(くるすいんいくはのみまや)があり、将門の領地であった。砂鉄はおそらく鬼怒川あたりから採取し、近くのくぬぎで炭をつくり自然風でたたらを行ったといわれる。
出雲のたたらと違う点は、出雲の砂鉄はチタンを多く含まない。ここの砂鉄は多く含む。鉄の還元でチタンをどう除去するかでよしあしが決まるので、チタンを効率よく除去するにはあまり高温でない、低温の野だたらの方がうまくいくらしい。小さい箱型製鉄炉をたくさん作り土地にあったたたらが行われたようである。隣接して馬場があり、今でも野犬から守ったり、馬が逃げないようにした土塁跡が残っている。(古代日本の鉄と社会・東工大)
親戚との小競り合いから始まった戦いの理由のひとつに領地の侵害がある。このたたら場が、国香は欲しかったのではないか。将門が相続した土地は水田には適さない湿地帯で、軍馬の放牧場として御牧が二つあったといわれる。製鉄場があったのは大結牧の近くである。


2 武蔵守が選任されていない理由

なぜか、武蔵守が任命されていない。武蔵の北秩父が同盟者、叔父良文の領地だからか?!
秩父は銅、金、銀、鉄などの産地である。良文の息子忠頼に将門の娘が嫁いだといわれる。


3 将門と武器と俘囚の乱

将門の武器は毛抜形太刀といわれ柄の部分が毛抜のような透かし彫りになり、物を切る衝撃から手を守るために透かしてある。蕨手刀という蝦夷の刀は彎曲し、騎馬で戦うには使いやすいものであった。柄が蕨のような形をしているのでそうよばれている。日本刀の原型といわれ、北上川流域の餅鉄を原料に、舞草、月山、宝寿という鍛冶集団があった。この蕨手刀からより日本刀に近づいたものが毛抜形太刀である。
将門が強かったといわれる理由には良い武器を製造できたことがあげられる。強すぎるので鉄身とまで言われた。


俘囚とは、7世紀から9世紀にかけ断続的にあった大和と蝦夷との戦いの末、大和に服属した者をいう。この俘囚たちは全国に移住させられその生活は狩猟や武芸訓練であった。9世紀の国内治安維持には主要な軍事力であった。俘囚の中から長を選び俘囚社会を治めさせた。9世紀ころから俘囚らによる改善要求の乱が多く起こり、将門の父良持は鎮守府将軍として出羽や陸奥に赴いたときこの蕨手刀の威力を認識したことと思う。

羽黒山五重塔は将門創建といわれる。鎮守府将軍である父といっしょに出羽に赴いたのだろうか?!出羽三山の出羽神社にあり、古くは湯殿山瀧水寺(りゅうすいじ)の五重塔といわれ周囲には多くの寺院があった。
出羽三山も金属神である。のちに藤原秀郷の末、武藤氏が出羽三山の社家となる。



4 星信仰と将門の母

将門の母は犬飼春枝の娘で、犬飼氏は茨城県北相馬郡に広く分布する氏族である。それで将門は相馬小次郎と名乗っていた。犬飼氏は戸隠神社の宮司、犬を連れている高野明神、狩場明に繋がる山師で、蝦夷ともいわれる。金属と関係する氏族である。





   ☯  ♘  ☯   ☯  ♘ 


将門魔方陣 北斗七星の形になる将門史跡(加門七海)



       水稲荷神社
        6☆    筑土八幡神社            鳥越神社
鎧神社             5 ☆         神田明神   1☆
   7☆                         4☆
        鬼王神社
          8☆                  将門首塚
                     江戸城   3☆      兜神社
                                 2☆     



1 鳥越神社(台東区鳥越2-4-1) 
                   
  将門の首が神社を飛び越えた。社紋が「九曜紋」(千葉氏)で、宮司も鏑木氏で千葉氏の系統である。徳川家光の時代に朝敵将門の罪が許されている。江戸の鬼門除けか!?


2 兜神社(中央区日本橋兜町)

  秀郷が首と兜をいっしょに運んできて兜はここで埋めて塚にした。義家の戦勝祈願ともいわれる。


3 将門首塚(千代田区大手町1-1)


京都で晒された首がこの地に落ちて埋められた。
のち蓋をされた石が鳴動したりして人々を怖れさせた。時宗の僧が法名「蓮阿弥陀仏」を与え卒塔婆をたてて供養した。
江戸時代、酒井雅楽頭、一橋家に守られていた。明治になって塚は残されたが、関東大震災で樹木は焼け塚も壊れた。古墳の調査をしたところすでに盗掘されており、塚をなくして大蔵省の仮庁舎を建てた。それから足を悪くするものが続出、慰霊祭を行い今度は戦災にあう。そしてGHQが駐車場にしようとブルドーザーで工事を始めたら、日本人の運転手が横転して死亡、近くの保存会が陳情して工事を中止した。
  今でも怖れられ、塚にお尻をむけてはいけないなど、近くのオフィスビルからの献花が絶えない。


4 神田明神(千代田区外神田2-16-2)

  正式名称は神田神社。創建は天平2年730年。首塚のあった場所柴崎(大手町)に大巳貴命(オオナムチノミコト)が鎮座した。もともと安房忌部氏の海民が祀った神ともいわれる。
その後 将門の首塚のあたりで天変地異が起こり将門を供養した。戦国時代に北条氏、大田道灌らに崇敬された。江戸幕府開府に伴い江戸城鬼門の地として柴崎から現在の地に遷座した。明治になって朝敵将門といわれ、祭神からはずされたが、昭和59年に3番目の祭神としてもどった。
ここの名物柴崎納豆はもともとは金含豆(こんがんず)といった。柴崎に「柴崎道場」とよばれる時宗の僧の修行場があり、そこの修行僧の大切な食物であった。その納豆を天海が家康に不老長寿の秘薬として献上した。家康の時代に柴崎納豆として有名になる過程で、将門伝説も民衆に広まり、歌舞伎にも登場するようになったといわれる。

  
5 筑土八幡神社(新宿区筑土八幡町2-1)

嵯峨天皇(809~823)のころ信仰心の篤い老人が八幡神のお告げをうけ祀ったといわれる。850年ころ慈覚大師が祠をたて、江戸期にもともと大手町首塚にあった観音堂をはじめとする田安明神が隣にやってきた。それが筑土明神といわれ戦災後明神は九段下に移り、筑土神社になった。筑土神社は将門を祭神としている。

6 水稲荷神社(新宿区西早稲田3-5-43)

  藤原秀郷が富塚稲荷として勧請した。江戸期に水が湧き出し水稲荷となった。将門と敵対した藤原秀郷勧請の神社であるが、北斗七星の形になるには鬼王神社の位置より水稲荷の位置の方がきれいな形になる。北斗七星を分断して将門の霊を鎮めたか?!


7 鎧神社(新宿区北新宿3-16-18)

  醍醐天皇(898~928)日本武命(ヤマトタケル)東征の折、鎧を埋めたといわれる。一説に藤原秀忠が病になり、将門の鎧をここに埋め祠を建てたら病が治ったといわれる。


8 鬼王神社(新宿区歌舞伎町2-17-5)


  神社に将門のことが忘れられているのか隠されているのか、史料はない。将門の幼名は「外都鬼王・鬼王丸」である。全国にひとつしかないここ鬼王神社が関係しているのではないかと思われている。平将門古蹟考(明治40年織田完之著)には「将門の霊を祀り幼名外都鬼王を以って社号とす」とある。



参考文献 : 平将門の乱(川尻秋生)その時歴史が動いた(NHK)日本の歴史(中央公論)千葉県の歴史・茨城県の歴史・埼玉県の歴史(山川出版)・平将門(北島茂夫)平将門伝説ハンドブック・将門記(村上春樹)・中央構造帯(内田康夫)・大江戸魔方陣・平将門魔方陣・東京魔方陣(加門七海)
参考HP : 江戸東京ものがたり・闇の日本史・平将門の乱と関連伝承・平将門と鉄王伝承・東京都神社庁・ウイキペディア                   
by gannyan1953 | 2012-11-11 18:37 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)



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