歴史と素適なおつきあい

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お江の化粧料地

お江の化粧料地だった、 たまプラーザ・王禅寺

石川村、王禅寺あたりがお江の化粧料地であった。身分の高い女性の財産、持参金のことをいう。領地と化粧料地の違いは将軍家に対し軍備の提供を化粧料地はしなくてもいいことである。この化粧料地は崇源院死後、増上寺の御霊屋(みたまや)料地となった。徳川家の菩提を弔うための費用を賄うためである。
石川村の地名の由来―早渕川の水が澄んでいて、川底がほとんど岩なので石川と呼ぶようになったという。早渕川は王禅寺が源流である。

山内村の地名の由来―増上寺の御霊屋料地だったことから増上寺山内と呼ばれたことからという。


満願寺 横浜市青葉区あざみ野4-27-6

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平原橋近くあざみ野4丁目の小高い地にある。元和2年(1616)の過去帳に寺主の名があるそうで、このころには存在したことになる。
ここに二代将軍秀忠の位牌がある。満願寺が増上寺の裏鬼門にあたり守護の役割があったためと思われる。実際山門は小ぶりながら堂々としている。江戸時代の石仏もあり、中には康安2年(1362)の板碑もあり、このあたりの土地を支配した有力者の影がみえる。
ところで満願寺と増上寺を直線で結ぶと目黒区の祐天寺が線上にある。祐天寺も増上寺の裏鬼門であるかもしれない。祐天寺は享保3年(1718)増上寺の第36世祐天上人の遺志を継いだ弟子祐海が将軍吉宗の保護で上人の遺跡に開創した寺である。この祐天寺のある目黒一帯ももとは崇源院の御化粧料地だった。寛永9年(1632)以降石川村と同じく御霊屋(みたまや)料地となった。


化粧面谷公園(けしょうめんやとこうえん) 川崎市麻生区王禅寺5-42
お江の化粧料地であったことから地名が残った。

琴平神社  川崎市麻生区王禅寺東5-46-15
お江が御祈祷所としたという由緒書きがある。                                   

郷土史研究家横溝潔氏の講演では「江戸時代、満願寺は石川村にあり、現在の元石川、美しが丘、美しが丘西、あざみ野、荏子田、新石川になります。寛永3年、お江が亡くなった時、石川村など化粧料地の村々から、お江の棺を担ぐ人々が結集したといいます。それは子孫にも伝えられ、家康の命日(17日)、秀忠の命日(24日)お江の命日(15日)には精進物を用い、行事が行われてきたといわれています。」

実際にお江がこの地を訪れた話は伝わっていないが、秀忠が鷹狩りに訪れ、王禅寺の柿を「禅寺丸」と命名したと伝わっている。 (琴平神社HP・緑区歴史講座・史跡探訪1988・「元石川今昔」・wiki)


当ブログ「増上寺の寺領」参照  


by gannyan1953 | 2012-12-26 23:56 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

「熈代勝覧絵巻」日本橋散策

歴史と素適なおつきあい                 2012・12・14

『熈代勝覧』(きだいしょうらん)は、文化2年(1805年)の江戸日本橋を描いた絵巻。作者は不明。縦43.7cm、横1232.2cmの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街とそれを行き交う人物が克明に描かれる。
1999年にドイツで発見され、化政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目された。
その1、5倍の複製絵巻が、三越前駅のコンコースで壁画として見ることができる。
今回その舞台を歩く

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三浦按針屋敷跡
ウイリアム・アダムスは、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針(みうら あんじん)としても知られる。馬込勘解由の娘が三浦按針の正妻になっている。

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馬込勘解由の碑
馬込勘解由(まごめかげゆ)は、日本橋大伝馬町二丁目で代々伝馬役・名主役を務めた馬込家当主が代々名乗った名前。草創名主の中でも筆頭的存在であった。


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小津資料館
承応3年(1653)小津清左衛門長弘が松阪より江戸に移りこの地で、紙業を営んだ。
小津家の紙にかかわる歴史を展示している。

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来年は巳年なので、小津和紙で購入。

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於竹大日如来井戸跡
寛永の頃(1640年頃)江戸大伝馬町佐久間家(一説に馬込家)の下女お竹は日頃より慈悲心が深く、ある日、羽前羽黒山の行者より大日如来の化身であると告げられた。このことが市中に広がり、多くの人がお竹を拝むために訪れた。現在、芝の心光院に、お竹の木像や使った流し板、お竹大日如来に信仰の厚かった桂昌院(五代綱吉の母)の納めた蒔絵の手文庫などが保存されている。また、お竹が愛用し、貧困者が市をなしたという井戸の跡に碑が建てられた。

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宝田恵比寿
祭神:事代主命、少彦名命、大国主神、大己貴命、素盞嗚命
宝田恵比寿神社は、徳川家康江戸入府以前は、宝田村の鎮守だった。
江戸城拡張により村の転居を命ぜられ、当地に移転。
金銀為替、駅伝、水陸運輸と重要な役割を担った。
またご神体の恵比寿神は、運慶作と伝えられ、徳川家康から下賜されたものという。
べったら市は、商売繁盛を願う行事となっている。

椙森神社
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祭神は伍社稲荷大神(ごしゃ)と恵比壽大神(えびす)
藤原秀郷が平将門の乱を鎮めるための戦勝祈願をしたことが、はじまりである。後に白銀の狐像を奉納したといわれる。
文正元年(1466年)には大田道灌が雨乞いに霊験があったとして山城国稲荷山五社大神を勧請して祀った。

江戸時代には江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられ、庶民だけでなく松平信綱や松平頼隆といった諸大名からも崇敬を集めるようになった。寛文年間には吉川惟足が大巳貴大神の託宣を受けて恵比寿大神を祀った。
境内には富塚がある。
伝馬町牢屋敷

江戸時代に囚人を収監した施設で、現在でいう、拘置所的な場所であった。
2616坪の広さで、慶長年間にここに設置され、明治8年(1875)市ヶ谷監獄ができるまで、使われた。
幕末に高野長英や吉田松陰も収容されていた。
迎えにある十思公園に時の鐘があるが、この鐘が鳴ると、処刑執行となった。
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十思公園
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吉田松陰終焉地の碑

by gannyan1953 | 2012-12-25 09:18 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

丹那盆地の将門

将門の駒形堂

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軽井沢に駒形堂があり、将門と頼朝のの由来がある。伝承が残るのみである。
もっと山の方の街道のわきにあったそうだが、現在地に移転した。

承平2年(932)、将門が関東に下るとき弦巻山で馬が病になったため観音に祈願した。
ただちに病が癒えたので、弘法大師が刻んだ守り本尊を安置した。

建久4年(1180)には頼朝が富士裾野で巻き狩りをした。
その際に観音堂に参拝すると愛馬摺墨(するすみ)がしきりに嘶いた。
すると遠く離れた場所から馬の嘶く声が返ってきた。

その山を探すと大成池の畔で7尺を超える馬を捕らえて池好(いけづき)と名付けた。

この名馬を得られたので、駒形堂を建立し将門の納めた馬頭観音を本尊とした。
そして秩父の畠山重忠が鏃を使ってかたわらの石に頼朝の騎馬像を刻み駒形権現とした。
弘化4年(1848)に大きく破損したため名主五右衛門らの発案で修復したが、明治維新のころ又破損し、大正6年(1917)この地の人たちが協力して堂を建立した。  

           伊豆国田方郡函南村軽井沢  駒形堂
by gannyan1953 | 2012-12-18 20:42 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

大棚村の栗原氏

歴史と素適なおつきあい番外編

現在の都筑区は明治22年(1889)年 町村制の施行により、山田村、勝田村、牛久保村、大棚村、茅ヶ崎村が合併し、中川村となった。

そして地元の人に栗原姓の人がいる。
栗原姓が全国で一番多い地域は埼玉県である。
栗原氏は、中臣栗原氏といって古代の百済から渡ってきた渡来人である。
美濃国不破郡に居住していたが、甲斐に分派した。
そして、甲斐に居住した栗原氏は、室町、戦国時代の甲斐国の一国領主で、のちに武田氏の支族になる。
ここでは、甲斐の栗原氏について調べてみた。

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「系図纂要」に修正を加えたもので、武田守護家に敵対、処断されたと思われる人物がグレーになった人物である。
10人に及び、国人領主として激しく抵抗したことがわかる。
それを支えたのは経済力、本拠となった館である。

栗原氏とは
栗原氏は父は甲斐守護武田信成の子武続(十郎、重郎)を祖とし、東郡栗原郷(現在の山梨市下栗原)に居住し、栗原氏を称したという。
武田氏の甲斐国統一に向けて今井(浦)兵庫助信元・大井上野介信達らとともに今川・諏訪氏をも巻き込んで、最後まで武田氏に抵抗した有力一国領主である。

栗原郷の一帯には栗原氏の菩提寺が分布し、上栗原には海島寺、中栗原には養安寺、下栗原には大翁寺が所在している。特に養安寺と大翁寺は栗原氏の館跡に創建された寺院であるという。

上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)が起こった。これは室町時代の応永23年(1416)に関東地方で起こった戦乱で、前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱で、禅秀は敗北した。
禅秀に味方した甲斐武田氏の信満は自害し、甲斐国は守護不在となり、混乱に陥った。
甲斐の一国領主跡部氏が勢力をもつようになり、
幕府ー諏訪氏ー武田氏
鎌倉府ー佐久大井氏ー跡部氏
が対立した。
このとき栗原氏は跡部氏に味方していたと思われる。
室町時代の嘉吉元年(1441)には、嘉吉の乱に際して栗原信通が西郡の一国領主大井氏とともに甲斐守護武田信重に随行して上京している。

戦国時代、甲斐国の有力一国領主として武田氏の甲斐統一に抵抗した。
守護信縄と油川信恵の対立においては栗原信遠と思われる「栗原大輔」が信恵方に加担している。
信縄・信恵の対立は明応7年(1498)に信縄方優位のもと和睦が成立する。
が、明応10年には栗原氏の一族が粛清されたと考えられている。
そして、武田家臣栗原伊豆守の子栗原信盛は『甲陽軍鑑』に、長篠の戦いに参加するが、戦わず逃走した。
とある。
一族として何系統か存在し、信昌派・信縄派さらには信虎派・反信虎派などとそれぞれに組し戦い粛清されながらも、「栗原」の名が残されたようだ。

ということで、栗原氏は14世紀末に武田支族として発祥し、三つの館を拠点に交通の要衝である、栗原郷、中牧郷(山梨市)塩後郷、勝沼郷(甲州市)も手に入れ東部一帯に勢力を及ぼした。
その強大さが守護武田家との抗争に及んだと思われ、1530年代には武田氏に服属、被官となった。

本拠となった館
栗原氏館は大翁寺一帯に築かれていた。隣接する海島寺・妙善寺・大法寺などの辺りも館跡に含まれていた可能性もある。

大翁寺 山梨県山梨市下栗原1438   電話 0553-22-1438
甲斐国志によると、大翁寺(だいおうじ)は寛永八年(1631)栗原信盛死去後、創建された。かつてこの周辺が栗原氏の屋敷であったと伝わる。大翁寺と近くの妙善寺の間に土塁跡とされる竹やぶがある。

妙善寺 山梨県山梨市上栗原
曹洞宗大公寺末香陽山
栗原出羽守信明の供養塔がある。開基は栗原出羽守信明、法名は「妙善寺殿光山存智大禅定門」と記される。
慶應3年7月、芦沢良兵衛履武という人物が先祖栗原出羽守信明供養の為に建てた。
栗原出羽守信明は栗原氏の祖、栗原十郎武続の三代目。享徳4年(1455)5月21日死去したと記される。
芦澤氏は栗原氏の末裔らしい。

海島寺 山梨県山梨市上栗原
曹洞宗大泉寺末龍厳山
栗原氏の祖、栗原十郎武続墓印の石があると「甲斐国寺記社記」には記されているが、墓が確認されていない。
栗原伊豆守信友、その父信遠、信友の孫である左衛門尉昌清の墓があるという。

信玄の娘の松姫の話が伝わる。
松姫は信長の嫡子信忠と7歳で婚約する。三方原の戦い以後信長との関係が悪化、婚約解消となった。
しかし松姫は頑にその後の縁談を断った。

天正10年(1582)織田、徳川の侵攻により、松姫は勝頼の娘貞姫、小山田信茂の娘香貴姫、を伴って北条氏を頼って新府城を出た。この寺に一週間ほど滞在し、塩山の向嶽寺で一ヶ月、そして3月に八王子に到着している。武田氏滅亡後、八王子で尼になり、旧武田氏家臣を支える象徴となる。

養安寺 山梨県山梨市中村
大翁寺北東250mにある。
この寺を中心に東小路、西小路の地名が残ることから街路を設定した小規模な城下集落が形成されていたと可能性があり栗原氏の一族か家臣の屋敷があったと思われる。
寺を開基したと伝えられる伊豆守信友の位牌がある。
  
by gannyan1953 | 2012-12-13 10:06 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

戸隠神社に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編  2013・10・31
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朝食前に宝光社へ行った
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門柱がおもしろい

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朝からすごい階段
宝光社
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宝光社
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中社
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奥社にむかう途中の展望

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随神門

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ちょっと脇道へ

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今回一番のパワースポット
静かで落ち着いた場所だった
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ざわざわとたどり着いた奥社

参拝者が多すぎて・・・
でもやっぱり杉並木はよかった。

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鏡池
ここから中社にむかうマイナー道へ
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どこが道やら道標もなく不安な30分

やっと宿坊の駐車場に行って妙義山麓に移動




by gannyan1953 | 2012-12-11 18:34 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)



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