歴史と素適なおつきあい

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将門は秩父にきたのか

歴史と素適なおつきあい番外編

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             秩父十三地蔵

将門は秩父にきたのか。

「新編武蔵風土記」大滝村大達原の円通寺縁起、皆野町円福寺縁起の三通にある。

しかしやはり伝説の域はでないが、なぜ秩父にこうも将門関連の言い伝えがあるのか興味がわく。

将門は武器(蕨手刀からヒントを得て騎乗で戦いやすい直刀を考案)の制作、馬の鐙、農作物の器具制作など、鉱物の多い秩父に関心があったことは確かである。

親王を名乗り各地に国司を任命したとき秩父(武蔵守)の国司を任命していない。

武蔵には瑞穂町の阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)が青梅街道沿いにある。将門の祖父の高望王が創建したと伝えられる。

青梅の金剛寺(青梅の語源)をはじめ奥多摩の将門神社など数多くの伝説が残る。

将門の弟将平、将門の子良門のことが将門伝説に置き換えられたこともあると思う。

敗退した将門軍の行動や反逆のヒーローへの憧れも民衆にあったかもしれない。

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円福寺(埼玉県秩父郡皆野町大字皆野293) 
         
 新編武蔵風土記には将門開基とある。

 
日野沢谷の入り口、皆野町の椋神社の下にある円福寺墓地に平将平の墓地がある。
現在では弟平将平の墓といわれている。

「将平は石間村(吉田町)幡武山の城主である。

兄将門が武蔵権守興与王の議を入れて大志をいだき、神託といって僭上の謀りがあったのをこれが諌め、止めさせようとしたが、聞き入れられなかった。

将門は貞盛、秀郷によって討たれ、将平は源経基王によって滅ぼされた。

このことより先に将門はおのが宗地として、当地に一宇の伽藍を建立した。

円福寺開基のいわれである。その所以により、僧侶比丘は将平の遺骸を石間にもとめて

当寺に葬り墳墓を建てた

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城峯神社(埼玉県秩父市吉田石間4716)

将門が、この城峯山に籠もり、追討軍と最後の決戦をしたが、

愛妾桔梗姫の裏切りにより最期を遂げたため城峯山中では現在でも桔梗の花は咲かないという。

周辺には、門平、館跡、将門馬場、隠れ穴等、の地名も多い。

新編武蔵風土記では弟がこの城に籠もり、ネズミの大群に武具が襲われそのあと秀郷に攻められたという。

山頂からの眺望は素晴らしく360度の展望である。
城峯山の山頂直下に城峯山神社が鎮座している。
社殿正面には「将門」と書かれた扁額が掲げられている。



九十九神社(きゅうじゅうきゅうじんじゃ)(埼玉県秩父市大滝)

国道140号線を太陽禅寺に向かう途中、秩父源流水の工場をすぎてすぐの小道にある。

道路からはみえない。

将門の妾桔梗姫は将門亡き後一族を連れてこの地まで逃れてきたが追手の探索に逃げられないと覚悟し自害した。
将門の妾たち、家来、付き人たちが九十九人次々と自害したので、川は七日七晩血に染まった。それからこの川を大血川と呼ぶようになった。

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桔梗塚(埼玉県秩父市大滝大血川部落)

国道140号線を太陽寺に向かう途中、左側に高い位置に民家、畑がある。桔梗塚の標識あり。
桔梗が自害した場所。

幸島家(埼玉県秩父市中津川)(210号線中津川キャンプ場近く)
大滝村落合は荒川と中津川の合流点で将門残党を追った追討軍は中津川から流れてきた大きなわらじをみて捕らえられたのが猿島一族でのち生き残った一族は幸島という名に変えて土着した。
のちに平賀源内が鉱山開発のため当家に立ち寄ったという。
by gannyan1953 | 2013-01-27 23:24 | 埼玉県の歴史散歩 | Comments(0)

川和から荏田 なんちゃって鎌倉道

歴史と素適なおつきあい番外編       2013年1月27日(日)

「旧鎌倉街道 探索の旅 中道編」:芳賀善次郎を図書館で借りた。
中道編は、アマゾンでも売ってない本である。

天気がよかったので、川和から探索の旅にでた。
道がなくなったりしているので「なんちゃって鎌倉道」である。

一番最後の荏田宿に入るまでの古道がすばらしい。
数十メートルだが・・・・・??


by gannyan1953 | 2013-01-27 14:32 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

中川の大山道

歴史と素敵なおつきあい 番外編


「オオカミがいた有馬から荏田宿へ」

      中川駅〜百崩遺跡〜小山田谷戸〜有馬〜大山道〜
      長沢家・皆川家〜馬頭観音碑〜ウトウ坂〜老馬鍛冶山不動尊〜
      荏田宿入り口庚申塔〜鍛冶山遺跡〜中川駅



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老馬鍛冶山不動尊 霊泉


都筑区中川は縄文遺跡がいっぱい
中川駅は、ぐるりと縄文時代の遺跡に囲まれている。
駅の北には「F14遺跡」、その向こうのみどり幼稚園あたりが「F3遺跡」になる。
北西に「サントゥール中川」から老馬あたりまで大きく「F2遺跡」になる。
南はガーデンヒルズの「E5遺跡」、東は東京都市大学の「ボンゼン遺跡」である。
北東に「亀の甲山遺跡F4」(牛久保西ひかりがおか公園)、その向こうに「百崩遺跡」となり
今回は北東の百崩遺跡からはじまる。

白崩(びゃくくみ)遺跡(F5)地元の方はびゃっくみといわれる。
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白崩遺跡からの眺望

中川駅から牛久保西ひかりがおか公園、住宅街を通り抜けた台地斜面にある。
概要:所在地 旧住所表記 港北区牛久保町1412・1685番地
   北と北東に張り出す尾根状台地上 現在畑地 推定2万㎡ 調査13日
遺構:縄文の竪穴住居址1・土壙(落とし穴・貯蔵穴)10  
調査:縄文時代早期の狩猟場、前期の集落址、大半は未調査
この台地から新宿、スカイツリー、東京タワー、夏の花火、川崎が見える。

小山田谷戸(おやまたやと)
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小山田講中の地神塔

港北ニュータウン区画整理のため牛久保町1182番地より、移転された地神塔。横浜に編入されたとき、すでに横浜市には山田町が存在したためヤマタという地名になったというが、古い地図に矢股と表記されたこともあり、もともとヤマタだったのか。

大山道

古代では「足柄道」といわれ、東国出身の防人たちが通った道でもある。(古東海道)そして江戸時代「矢倉沢往還」と呼ばれ、静岡のお茶、秦野のタバコ、相模川の鮎など各地の産物を江戸に運ぶ商業ルートだった。大山信仰が盛んになると、「大山道」と呼ばれ大山参詣の人で賑わった。
現在の国道246号線とほぼ重なる。246号線は、大正時代に乗り合い馬車が走り、国道に昇格したのは、昭和31(1965)年である。
伊勢原の大山は阿夫利山(あふりやま)、雨降山といわれ雨をもたらし、農耕を司る山として知られ、古代より修験道が盛んな山であった。

今回は、標高60メートル前後の有馬の山から大山道に入る。
川崎市鷺沼から横浜市都筑区の市境になる。
渡辺華山の「游相(ゆうそう)日記」に大山道のことが伝えられている。

渡辺華山

幕末の武士・画家で愛知県伊良湖半島にある田原藩の藩士だった。
のちに家老となり、藩主を支え領民に対して良政を行い、飢饉の際、餓死者をださなかったことで、幕府から表彰を受けている。蘭学者ではなかったが、蘭学者から慕われ江川太郎左衛門や、藤田東湖、高野長英らと親交がありそのため、「蛮社の獄」で蟄居、のちに藩に迷惑をかけてはと、切腹をした。
「游相日記」は、華山の主君の生母「お銀様」を高座郡早川村に訪ねる旅日記で、大山道の当時の様子を伝える大切な文献である。
それによると、華山は荏田宿の「升屋」に宿泊し、主人たちと発句をしたり絵を描いたりしていた折に主人が言うには、
「荏田宿近くの荏田城や有馬の山のオオカミが出没し、犬を食い、このために夜になると宿場も人影が途絶える」という。あと馬の市の話も聞いたという。
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大山道今昔 :金子 勤より

長沢家

このあたりの大山街道に早くから住んでいて、居酒屋をやっていた家である。
街道沿いに店ができ始めると土地の字名が店になり、それぞれ屋号で呼ばれたという。
長沢家は都筑民家園に移築された「長沢家」の分家にあたる。牛久保村で名主など努めた家柄である。
ここに、桜田門外の変のとき怪我を負った井伊家の家臣の慰霊搭がある。


  
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家臣の名はわからないが、怪我をしたため、国元に送り返される途中、大山道長沢家の近くで亡くなってしまった。近くの松林に埋めたという言い伝えがある。
墓ではないが、のちに長沢家が明治19年に慰霊塔を建立した。
家と少し離れたみかん畑の中にある。私有地なので、許可なく立ち入ってはいけないので、
この画像をみてください。

皆川家  

ここに立場があった。峠なので休憩や、馬、籠の交代をした。

馬頭観音碑
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馬頭観音は、昭和まで街道沿いの竹やぶにあったという。あとで聞いた話では
この石は現在の馬頭観音碑の下に埋められたそうである。
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変わりゆく古里写真集・あざみ野たまプラーザ荏田の二十五年より

ウトウ坂
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切通しにある坂、渓谷を越える坂で、全国にある坂名である。ウトウト坂、ウトウ坂、訛ってオトウ坂、現在ウトウ坂を下った右側のマンション名はオトサカである。とろとろ登るので馬子が歌を歌いながら登ったというのんびりした由来ともいわれる。

老馬鍛治山不動尊

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不動堂
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稲荷

江戸時代に新潟の高田から諦念法師が六部として厨子に入った不動像を背負って、このあたりにやってきたところ、縁あって大久保家の婿養子になった。
その不動像を祀ったのがはじまりである。
 
六部とは六十六部の略で、諸国の霊場を巡拝する修行者のことをいう。
昔は滝があったそうだが、開発後も涸れずに水が湧き出ており霊水といわれている。

鍛冶山のいわれ

登記地名は鍛冶屋である。江戸後期に大久保新蔵という人が越前で鍛冶の修行を積みこの地で野鍛冶をしていた。ところが、どこの誰ともわからない人から刀の注文を受けた。怪しんでみたものの、手付け金をもらってしまった。
刀を造るには危ないと思い、場所も精進場谷の方に借りの小屋を作り刀を作成したが、仕上がった時に手入れが入り、刀は没収、家族共々捕縛され白州で打ち首と申し渡された。ところが、奉行が憐れんだのか今後金釘、農具を打つことのみ専念するなら赦すといわれた。それから新蔵は釘鍛冶に専念したという。のちに鍛冶屋のあたりが駒沢女子短期大学の所有となり、整地したところ、金属屑が大量にでたという。

老馬遺跡(E6)

概要:旧住所表記 港北区中川町1946〜1948、1958〜1960
低い台地で、畑、山林だった。9450㎡ 調査75日
遺構:縄文の竪穴住居1・炉穴12・土壙22・弥生の住居6・方形周溝墓2

荏田宿入り口庚申搭

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江戸中期に荏田下宿の婦人たちによって勧請され平成6年に改築された
早淵川と布川が落ち合う窪地にある宿で、問屋、旅籠、油屋。足袋屋など35軒ほど軒を連ねていた。特に夏は大山詣ででにぎわった。宿に入ると秋葉講の定宿を示す常夜燈が残っている。

鍛冶山遺跡(E7)

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ゆうひがおか公園

概要:旧住所表記 港北区中川1970〜1974・1977〜1979
低い台地で、畑地。8500㎡  調査94日
遺構:縄文竪穴住居1・炉穴89・土壙5 弥生竪穴住居10・古墳竪穴住居1
   円形周溝3
遺物:縄文、弥生、古墳時代の土器,石器60箱
縄文早期の人々の暮らしがあり、古墳時代の盛り土古墳が3基あることから、近くの虚空蔵山古墳とのかかわりを示し古墳群であった可能性がある。

鍛冶山地蔵尊(中川3−30付近)

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宝永3(1706)年の銘があるお地蔵様である。江戸時代に正念寺という寺の山門前にあったという。
鎌倉街道沿いにあり、子育て地蔵として信仰があった。区画整理により移築された。
宝永4年に富士山の噴火があった宝永地震があった。できたてのお地蔵様はいっぱい灰をかぶったことだろう。

参考文献
お不動さまといっしょ:大久保太市
都筑の民俗
「亀ノ甲山・オオデラ・百崩」「老馬遺跡」:港北ニュータウン地域内埋蔵文化財報告
港北区史
中川の地名:吉野孝三郎  
港北百話:港北区老人クラブ連合会 
鶴見川・境川・流域文化考:小寺篤著・230CLUB新聞 
ウイキペデイア 
長沢家・白根家の話
変わりゆく古里写真集・あざみ野たまプラーザ荏田の二十五年より
大山道今昔 :金子 勤より 
by gannyan1953 | 2013-01-25 19:06 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

静御前の墓

歴史と素適なおつきあい             2012・12・30

栗橋にある静御前の墓

日光街道歩きの2日目は栗橋が終了予定で、街道から栗橋駅に向かう途中に、静御前の墓をみつけた。
なぜここにあるのかは、伝説なのだが・・・・・

静御前は源義経の妻であるが、ここの伝説は奥州平泉の義経を追っていき、
義経の死を途中で聞き、戻るところで、力つき亡くなったというもの。

全国あちこちに、伝説上の墓があるらしい。

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静御前の念持仏
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会津見送り稲荷
日光街道におもしろいネーミングのお稲荷様があった。
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会津見送り稲荷という。民家の横にあった。
2013年の大河ドラマは会津なので、楽しみにしている。
私は土方歳三ファンなので。

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栗橋関所・利根川橋
日光街道の利根川には栗橋の関所がある。
その橋は「利根川橋」といい、埼玉と茨城の県境になる。

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栗橋の関所
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橋のすぐそばにある八幡神社

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利根川橋からの景色
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富士山
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男体山
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筑波山

幸手の不思議な難読地名

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内国府間(うちごうま)といい、外国府間もある。「ないこくふかん」ってなあに?と思った。
はっきりしないが、下野と下総の国府の中間に位置するらしい。
by gannyan1953 | 2013-01-04 21:28 | 埼玉県の歴史散歩 | Comments(0)

愛鷹山(あしたかやま)・十里木街道・関所

歴史と素適なおつきあい番外編                             2013・1・2

愛鷹山からの富士山

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以前は金時山にばかり登っていたが、最近は十里木高原にも行く。
越前岳に登ったり、登らなくても展望台に登るだけでも満足できる。
晩秋は箱根より静かなススキの原を楽しめる。
愛鷹山は静岡県の富士山南麓にある山で、愛鷹連峰と呼ばれ、数々の峰がある。
写真の富士山は展望台からの眺めである。
標高1,504mの越前岳に登ったときには残念ながら富士山は雲の中だった。

第89回の箱根駅伝の日で中央大学、城南大学が強風で体温低下のため棄権した日である。
吹き飛ばされそうな風で、寒かった。箱根も同じ条件だっただろう。
愛鷹は元は足高だったが、家康が鷹狩りで愛鷹山を好み鷹を愛すから
愛鷹に変名したといわれる。

そのふもとは十里木高原といい、昔十里木街道が通っていたため、関所がある。


十里木街道

十里木街道は富士宮から須山の竹之下をつなぎ、愛鷹山と富士山にはさまれた道である。
足柄峠をこえる最も古い街道で、甲斐(かい)・駿河(するが)・相模(さがみ)をつなぐ。
地名の由来は、富士宮へ5里、竹之下へ5里はなれているところから
つけられたという。
頼朝の富士の巻狩や、豊臣時代に京都大仏殿造営用の材料を運搬するさいにも
利用された。

由比(ゆい)から由比川をさかのぼり、
大代峠をこえ有無瀬川ぞいに北松野にくだり
富士川を渡って富士宮から、この十里木越えをするのが
東海道の一番古い道筋ともいわれる。
by gannyan1953 | 2013-01-03 20:11 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)



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