歴史と素適なおつきあい

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やまきたのハイキング

歴史と素適なおつきあい 番外編       2013・4・7

エコカーを買ったのでまずはドライブ、東名高速を走って、山北町にやってきた。
役場は休みだが隣接した図書館のある建物でパンフレットをもらった。

「やまきたのハイキング」
河村城址・洒水の滝コース 徒歩1時間45分を選んだ。
洒とは「しゃ」と読み、水をそそぐという意味なのか、ほかに清めたりさっぱりするという意味がある。
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駅横のSLを見ながら城跡の坂道にある文化11年(1814)の石碑

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河村城
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畝掘で、手前がお姫井戸といわれ、落城の際お姫様が井戸に身を投げたという秘話が伝わる。

河村城
河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。

建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。

その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(大森氏頼・扇谷上杉氏の家臣の弟)の支配するところとなる。

戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570 〜1573)には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、この城は落城し廃城となった。

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本丸跡
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前日に大雨だったため濁流の酒匂川

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酒匂川を渡ったところにある石碑

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僧が即身成仏した場所で、祠がある が、中に石を投げ込むらしい。

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洒水の滝

源頼朝に平家打倒の挙兵を促した文覚上人が修行した滝といわれる。
近くまで行ける橋が閉鎖されており残念だった。
思ったより力強くきれいな流れでいい場所だった。

帰り道最勝寺を通り過ぎたところで蛇が横切った!!
最勝寺は文覚が100日修行をしたときに彫ったといわれる不動明王がある。
by gannyan1953 | 2013-04-30 23:42 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

ちょっとディープな浅草散歩

歴史と素適なおつきあい      2013・4・10
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浅草寺雷門前集合〜本龍寺〜今戸神社〜東京都人権プラザ〜山谷堀〜紙すき橋〜デニーズ昼食〜吉原大門〜吉原神社〜吉原弁財天
〜(鳥越神社)〜一葉記念館〜三ノ輪駅解散




浅草弾左衛門と吉原遊女

本龍寺(台東区今戸1−6−18)0338757676

元和2年(1616)東本願寺の末寺として龍賢によって開山された。
浄土真宗大谷派である。ここは、江戸時代の穢多・非人という被差別民の頭であった矢野弾左衛門の菩提寺である。
この寺の鏝絵が最近になって作者が判明した。
田村専稔(1892〜1962)で、内陣正面に菩薩、天女などの来迎図を表している。
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矢野氏墓
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本堂の鏝絵


今戸神社(台東区今戸1−5−22)
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康平6年(1063)石清水八幡から源頼義、義家父子が勧請し、今戸八幡を創建。
昭和12年白山神社を合祀して今戸神社と改称した。

白山神社
関東の白山神社は被差別部落と深く関係するといわれ、この白山神社も代々の弾左衛門が、信仰してきた神社である。

招き猫
今ではこの祭神のイザナギ・イザナミの神様から縁結びの神様として有名になっている。
近年、招き猫発祥の地という名乗りもあげた。
幕末に、界隈の老婆が貧困のため愛猫を手放した。
ところが、夢に現れ、猫の姿を人形にしたら福を授かるという。
浅草神社で早速今戸焼きの猫を置いたところ評判になった。
具体的に今戸八幡と招き猫の関わりを示す記録はないが、今戸焼き発祥の地の石碑がある。今ある招き猫は江戸時代の形状とは違う猫である。

沖田総司終焉の地
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新撰組の沖田総司の終焉の地といわれている。
幕末の御典医だった松本良順が仮に住んでいた場所が今戸神社で、沖田は大阪から帰るころから、
松本良順の世話になっている。京都の新撰組からの関わりがあり、京都では隊士の健康診断も行っている。
松本良順は佐倉の佐藤泰然の息子で弟は外務大臣林薫である。
戊辰戦争に軍医として参加し会津、仙台を経て蝦夷に行くことを断念し江戸に戻った。
後に大日本陸軍軍医総監となり、牛乳を飲むことや、大磯を健康のための海水浴場として開くなど国民の健康維持に貢献した。
       
東京都人権プラザ(台東区橋場1−1−6)
都民のために、人権が尊重される社会を作ることをめざす都の施設。
人権に関する展示や相談も受け付ける。
この場所は矢野弾左衛門が手代の石垣元七に管理を任せた皮革工場の跡地である。

皮革産業資料館

台東区の地場産業である皮革に関する資料館である。
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弾直樹のライバルで、リーガルの祖
大村益次郎の勧めで軍靴を作り始めた


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山谷掘
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水源は石神井川で、吉原全盛時には、隅田川からの水路を吉原に向かって、お大尽が猪牙舟(ちょきぶね)で往来した掘である。
昭和33年(1958)の売春禁止法で吉原が閉鎖されるまで利用された。

紙洗橋(台東区東浅草1−4−6)
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このあたりは浅草紙という紙を漉いていたことが、地名の由来である。
浅草紙は再生紙で、墨が残ったままで再生されるのでねずみ色をしており、漉き方も雑だったが、安価だったので、親しまれた。
鼻紙(ティッシュ)、落し紙(トイレットペーパー)に使われた。
製造方法は細かくした古紙を煮て溶かしそれを冷やして洗い、たたいて砕きそれを漉くという方法である。
古紙を冷ますとき2,3時間を費やし、その間近くの吉原を見物しに行ったことから、見るだけの行為を「冷やかし」という。
広辞苑に「張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと」とある。

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土手のいせや(天ぷら)と中江(桜鍋)
吉原大門近くにある

吉原大門(台東区千束4丁目)
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代々の見返り柳がある。吉原で遊んだ客が去りがたい思いを抱いて振り返ったといわれる。
ここから衣紋坂といって、客が身なりを整えながらS字状の道を吉原に向かった。
衣紋坂から吉原の敷地は今でも区割りで残っている。



吉原遊郭
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明治大正のころ

江戸開府すぐ1617年に日本橋人形町に遊郭が許可され、吉原遊郭が誕生した。
名前の由来は、遊郭創設の庄司甚内の出身地が東海道吉原宿だったからという説と葦の生い茂る低湿地だったので、
「悪し」はよくないので、「よし」となったという説がある。

明暦の大火(1657)で、焼失して、まわりも市街地化されていたので、
浅草田圃(でんぽ)に移転したのが、この新吉原である。元の地を元吉原という。

 寛文8年(1668)江戸市中の私娼取り締まりにより娼家51人、遊女512人が検挙されて、新吉原に移された。
これらの遊女は伏見や堺出身が多かったため、新吉原の移転先には伏見町新道、境町新道と名をつけた。
このころから遊女の格付けが始まったという。
 
徳川吉宗は享保6年(1721)に人口調査を行った。新吉原の人口は総人口8171人。
男15歳以上2375人、15歳以下463人、15歳以上女4003人、15歳以下女
330人、その内、家主は182人、店借り620人、禿(かむろ)941人、召使い2163人という文献が残る。
 新吉原になって江戸時代に火災は22回あった。
安政2年の地震による火事の死者は1020余人、遊女は530余人を数える。
失火があったら、鎮火するまで待ち、消火は行わない。
焼け残りがあると仮小屋営業を認められないからである。
仮小屋営業は儲かったらしく、密かに火事を望む者もいたという。
 
明治になり、政界財界の社交場所は中心地の花街に移り、吉原は縮小していった。
遊女出身地は東北の農民の娘が多くなり、彼女たちは年季をあけて出ることはほとんどなくなり、東北の農民層の貧困が浮き彫りになった。
 
戦後、純潔主義を掲げるキリスト教団体の婦人矯風会の運動などで、昭和31年(1956)に売春防止法が可決され、
昭和32年に施行されて吉原遊郭の歴史をとじた。

現在はソープランドが多い。

笑い話 お腹がすいて、周りを見回したら角海老(かどえび)があり、
こんな場所で海老料理かと海老ふりゃぁが食べたくなった。
近寄ってみたら吉原老舗のソープランドの店名だった・・・・002.gif

吉原のお歯黒ドブ
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吉原公園の階段が土手の高さで
手前道路がお歯黒ドブ
ブラタモリより

外界から隔離する目的で、遊郭の周りを掘(最初は五間のちに二間)で囲んだ。お歯黒溝という。
出入り口は大門が一つで、治安の維持に努めた。
掘は、ドブといわれるように、汚い下水溝だったという。
遊郭全体が田んぼに盛り土をして造成されたので、今でも階段などになって段差がわかる。
ちなみにブラタモリで放送していた。

吉原神社(台東区千束3−20−2)
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祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
明治5年に玄徳(よしとく)稲荷社、榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社を合祀して吉原神社と改称した。
なかでも、九朗助稲荷社は古く和銅4年(711)白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助という人の手で元吉原の地に勧請され、
千束村への移転にともなって浅草新吉原の地にふたたび勧請された。

吉原弁財天(台東区千束3−22)

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艶かしい姿の弁天様


新吉原ができたころ弁天祠が祀られ遊郭楼主たちの信仰をあつめた。
時代のファッションの先端をいく遊女、芸者たちの名を刻んだ玉垣がある。
吉原は一般女性にとっても文化の発祥地だった。
池は花園池、弁天池と呼ばれもっと大きな池だったが、関東大震災で、多くの人がこの池に逃れ490人が溺死したという悲劇がある。
震災で遊郭内に火災が起こったが、大門は閉められ、逃げ場を失った遊女たちは弁天池に殺到し、折り重なるように飛び込んだという。  
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当時の弁天池
    
大正15年に供養のため観音様が造られた。昭和34年吉原電話局の建設で池は埋められ、わずかにその名残をとどめるのみとなった。
 
弁天祠は老朽化したため、地元有志や、東京芸大、武蔵野美大、多摩美大の学生らによって壁画、彫刻も制作され2012年2月に完成した。
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壁画
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供養塔

飛不動

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一葉記念館(台東区竜泉3−18−4)入館料300円

樋口一葉は明治5年(1872)に生まれ、学問や俳諧を好む家庭に育った。
父は下級武士の出身であったが借金もあり、そのうえ一葉の婚約者渋谷三郎との結納金を多額に要求されていたという。
父が亡くなったことで、婚約も破棄された。幼い頃から一葉の文才を見抜いていた父は歌を中島歌子に師事していた。
 17歳で父を亡くし、女性でありながら一家を支えなければならなくなった一葉は、18歳で、荒物、雑貨、駄菓子の店を始めた。
なかなか商売はうまくいかず、翌年には店をたたみ文京区の本郷丸山福山町に転居、執筆活動に入った。
 
小説家として生計を立てるために朝日新聞記者の半井桃水に師事し、明治25年に雑誌「武蔵野」に処女作「闇桜」を発表、
それから「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など代表作を執筆した。
特に「たけくらべ」はこの地である竜泉寺町での生活体験からの作品である。
この作品は幸田露伴、森鴎外も絶賛したという。

これらの作品は1年半の間に執筆された。その後一葉は明治29年(1896)に肺結核により若くして亡くなってしまう。
大変短い作家人生であった。
一葉というペンネームはお金に困窮したこと(お足がない)と一枚の葦の舟に乗って中国に渡り後に手足を失った達磨の逸話に引っ掛けたものだそうだ。



浅草弾左衛門
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江戸時代の穢多頭で、幕府から関八州、伊豆、甲斐都留郡、駿河駿東郡、陸奥白川郡、三河設楽郡の被差別民を統括した。
浅草が本拠だったので、浅草弾左衛門といわれる。

摂津の火打村から鎌倉極楽寺辺に移り、江戸日本橋に出たという。


(鎌倉に残る弾左衛門について別説 御霊神社参照)


時代は家康開府の100年ほど前で、このあたりは尼店(あまだな)と呼ばれていた。今の室町である。
日本橋の北に小高い丘があり沢山の穢多が置かれたという。

なぜここに住んでいたのか。

①太田道灌が奥州への街道警備のために配置したという説。
②後北条のころ室町(日本橋本町4丁目)に処刑場があった。処刑場、牢屋の維持に穢多が必要だったからという説。

弾左衛門は江戸が開府されたとき、関東の穢多の頭の座を、太郎左衛門と競り合うことになった。
太郎左衛門とは、小田原で北条に仕えていた穢多頭である。
そして家康は江戸にいた弾左衛門を選んだ。
理由は北条に仕えた太郎左衛門は、避けたということだと思われる。

 慶長8年(1590)日本橋ができたころには処刑場、牢は伝馬町にあった。今の十思公園である。
このため、弾左衛門は浅草鳥越(聖天町近く)に移った。
そこが振袖火事で焼けてから新町(現在浅草高校)に弾左衛門役宅が作られた。

穢多とは、主に皮革に関わる仕事で、武器や馬具、羽織、下駄や雪駄の鼻緒などに使われた。
特徴は定住性があることで、弾左衛門の配下である。

非人とは刑場の仕事、屍体の処理などで、土地などの財産をもたず、車善七の配下だった。
後に車善七は、仕事の権益をめぐり、弾左衛門を訴えるが敗訴してしまう。
その後非人も長吏頭(弾左衛門)配下になった。御霊神社

助六と弾左衛門

歌舞伎の「助六」の悪役「意休」のモデルは弾左衛門だという説がある。

塩見鮮一郎氏の「弾左衛門の謎」によると、宝永5年(1708)に傀儡師(くぐつし・人形まわしのこと)の小林新助に
弾左衛門に興行妨害されたと訴えられ、弾左衛門は敗訴してしまう。
これは、それまで歌舞伎などの興行を弾左衛門が支配していたとみられ、敗訴により、その支配権を失うことになる。
歌舞伎界では弾左衛門の支配を脱した喜びから、意休のモデルは弾左衛門で、嫌われ者の悪役に仕立てたという。

身分は士農工商からはずされ最下位の身分であったが、皮革加工、灯芯、竹細工の製造販売に対し独占的な支配をもち、
大きな富を得、権勢を誇った。幕府からは様々な特権も与えられていた。

弾左衛門は由緒書きを持ちそれには、秦から渡来した秦氏を祖先に持ち、平正盛の家人であった。
平正盛とは平清盛の祖父にあたる。
藤原弾左衛門頼兼といい、長吏の頭になり、源頼朝の朱印状を得て中世における被差別民の頭の地位を確立したといわれる。
しかしその由緒書きの確証はない。

弾左衛門の屋敷は浅草新町といわれまわりを寺社や塀で囲いまわりから見られない構造になっていた。
中には長屋式の住まい、皮革関連の作業場、寺や神社、商店もあり常時300人(塩見氏説)が暮らしていたという。
佐伯修氏は200人という。屋敷内で生活はできたが、塀の外の庶民と交流はなく隔絶された場所であった。

幕末の13代弾左衛門は、関東、伊豆などで10万人を従え、金銭も多く蓄え、一説には弾左衛門は大名のようだったという。
しかし弾左衛門は兼ねてから身分の引き上げを願っていた。
そこで幕府のために、幕府の兵力の増強に力を貸し、長州征伐、鳥羽伏見の戦いに兵隊として差し出している。
先代弾左衛門の病気のおりに、御典医松本良順が診察したことで、良順そして新撰組とつながり、甲陽鎮撫隊にも出兵している。
このとき新式の銃、資金1万両をつけて200人を参加させているという説もある。

慶応4年(1868)に幕府への功労により平民となり、明治維新を迎えて名字を弾とし、「弾直樹」又は「弾内記」と改名した。

平民となった弾は喜んで皮革製造の工場「弾製靴所」を建てた。
外国人技師を招き皮革技術を教える伝習所も作った。
それまで蓄えてきた多くの財産を投資した事業だった。
が、解放令とともに、皮革産業自由化により挫折する。
解放令とともに牛馬の死体処理の権利まで失い、原料入手に困難だったことが理由にあげられる。
しかし日本の近代皮革産業を発展させたのは、弾左衛門たちの努力が貢献していると思われる。

解放令とは賤民制廃止を唱え四民平等の人権回復の法令であった。
ところが明治政府は戸籍に新平民と記し、本当の意味での身分をなくしていない。

そして江戸時代まで住んでいた土地を奪われ、特権だった税金免除もなくなり、独占してきた皮革処理の権利も剥奪された。
解放令以前より、生活水準が低下することになったのが現実だった。

参考 ウイキペディア・徳川将軍家の謎:別冊宝島
   弾左衛門の謎:塩見鮮一郎
   江戸の弾左衛門:中尾建次
by gannyan1953 | 2013-04-11 09:17 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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