ニホンオオカミは、ハイイロオオカミの亜種という見方があるが、限られた遺伝子集団で日本にきて孤立化したともいわれている。オオカミ信仰は有史以前、弥生時代にすでにあったと発掘史料から考えられている。奈良時代、万葉集にオオカミを畏れて「大口の真神」と歌ってある。
オオカミは当時の人々の間で畏れをもたれていたのである。その後山岳信仰や妙見信仰の影響をうけて浸透していったが、特に秩父、多摩では地形、オオカミの棲息の多さで、今に至ってもなお信仰が続いている。
三峯神社をはじめオオカミを眷属として祀り、江戸時代後期には護符も配られるようになった。
護符の功徳は、火難、盗難、農難、蚕難、疾病平癒などだが、とりわけ狐憑きの加持祈祷も行われた。オオカミの頭骨の一部を削って飲用され、そのためこの地方ではオオカミの頭骨は完全な形で残らないものが見つかっている。頭骨が民家の棚に大切に保管され、守り神とされている家もある。
たまに頭骨はまじないや、守り神、「狐憑き」治療に借り出されることもあった。
幕末ペリー来航以来、あ免里加狐(あめりかぎつね)や千年も具ら(せんねんもぐら)がやってきたといわれ、病気になると「狐憑き」と怖れられた。「狐憑き」とは、このころ、地震、下田を襲った津波、コレラなど社会不安が大きい時代で、ノイローゼなど精神を患う病気だけではなかった。
ニホンオオカミが姿をみせなくなった理由として、
①享保17年(1732)の狂犬病の流行
②明治以降のジステンパー、狂犬病により、人を襲うようになり、殺されたこと
③開発による環境の変化で、えさが少なくなり、群れをなすといわれたオオカミが明治になって孤狼が増えていったこと                     
④幕末からの信仰で、骨を削って飲用するための頭骨を得るために殺害されたこと
などが上げられている。
上野動物園に、ニホンオオカミを飼育したという記録があるが、写真は残されていない。
当時絶滅するとは思われていなかったからといわれる。

見狼記
ニホンオオカミがまだ棲息するかというと、八木博氏が秩父山中で1996年10月14日に写真をとった。それが、2012年にNHKのETV特集「見狼記〜神獣ニホンオオカミ」という番組で紹介された。専門家が写真をみたが、オオカミだという確証は得られなかった。
内容は、
昔々山にはニホンオオカミが棲息していた。畑を荒らす鹿や猪を食べてくれるので、信仰の対象となった。秩父には三峯神社を筆頭にオオカミを祀る神社が21社ある。釜山神社もそのひとつで、春に護符を配る。オオカミは神ではなくご眷属で神の使いである。毎月17日にお炊き上げというオオカミにご飯を備える神事がある。一升の米を人の手がふれないように御櫃に入れリュックに入れて奥の院の少し下がった谷に備える。備える姿は誰にもみられてはいけない。300年間宮司だけが祝詞をあげながら備える。ひと月前に備えた御櫃を持ち帰る。御櫃のふちには不思議なことに1㎝くらいさがったところに噛みあとが残る。
関東には今でも信仰が残り、講を続けている所もあり、やめると何が起こるのか怖くてやめることもできないという。
写真を撮った八木氏は、今でも山の奥深くに新しく目撃されたという場所にカメラを備えオオカミを探し続けている。自分が死んだら山に土葬してもらい、オオカミに食べられたいと言っている。
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秩父浦山にて八木氏が撮影
福島県飯館村にある山津見神社のご眷属はオオカミである。避難区域になっているが、大変地域に親しまれた神社である。神紋が九曜紋で、千葉一族相馬氏が支配していたからだと思うが、平将門の紋である。秩父からオオカミ信仰が伝わったのかもしれない。残念なことに2013年火災で焼失してしまった。宮司の奥様が亡くなられているが、神社を守るために避難していなかったと思われる。最後に釜山神社の宮司さんが、「自然を怖れる心を持ち続けなければ災害はまたやってくる。」
と言われた。
動物学者のあいだでは最期のオオカミとして、明治38年奈良県吉野郡高見村鷲家口(わしかぐち)で捕らえられた、若い牡のオオカミだといわれている。大英博物館の依頼で英国人アンダーソンが8円50銭で買い求め、今でも英国に毛皮と頭骨が展示されている。なぜか、秩父産のオオカミの頭骨も所蔵されている。


人間とオオカミの話
①秩父の野上にある家から1キロほど山に入った所に洞窟があった。そこにオオカミの親子がいて、人間が子供をさらってきた。近所の人が珍しいと飼うことにした。ところがその晩家の戸をかじる者がいた。どうも母オオカミらしい。3日ほど続いたが、あきらめたのか、静かになった。
戸をあけてみると縁側に殺されたうさぎが置いてあった。子供にやって欲しいということなのか、しばらく続いた。半月ほどすると母オオカミはどこかにいったものか死骸を置くことはなくなった。
子オオカミはよくなつき、すくすく育ったが、3年もたつと凶暴になり隣村の猟師に譲った。
聞いた話では銃殺されたらしい。オオカミがいた穴を「オオカミあーら」という。

②信州の美麻村で、岩穴にオオカミが子を出産したので、赤飯を届けた。オオカミの子が沢山いるので、「良い子を沢山産んだなあ。一匹くれねえか」と冗談をいった。ところが、翌日戸口に一匹のオオカミの子が置いてあった。飼う訳にいかないので、穴に返しにいった。

③飛騨益田郡竹原村では下女が水汲みに外にでると老いたオオカミが頻りに憐れみを乞うような様子をしている。主人がでてきて様子を見るとのどに何かの骨を立てて苦しんでいる様子。手ぬぐいを手にまいて口中に入れ、それを除いてやった。それから、しばらくしてオオカミは轡を持ってあらわれた。「礼なら及ばず」と言ったがそれを置いて去って行った。それからその轡はこの家の家宝になった。

④何となくオオカミがついてくると言ったオオカミ送り伝承が数々ある。襲ってくる訳でもなくあとをついてくるという。松明を振ったり、長いものを垂らして引きずると襲ってこないとか、オオカミの手が肩にふれたら振り向いてはいけない。ちょうど頸動脈がオオカミの口にきて噛まれてしまうからだ。このオオカミ送りの話は古くは襲わないオオカミの話だったが、近世に近づくにつれオオカミの凶暴な姿が語られるようになる。おそらく狂犬病にかかったオオカミがあらわれてからではないかと思われる。
歴史と素適なおつきあい座学

都筑区のオオカミの護符
牛久保西の農家、私の隣家の元農家には毎年張り替えられたオオカミの護符があるので、伺って聞いてみた。
今でも宮司さんの姿で御嶽山から御師(おし)さんが来られて護符を届けてくださるという。
護符は、畑や台所に張る。そのときは、初穂料「2千円」を用意する。
牛久保の農家では大山講が続いており2年に一度大山の下社に参拝する。
牛久保の鎮守である天照皇大神神社の氏子は、伊勢神宮にも代表者が参拝する。
今でも昔ながらの信仰が続いているようだ。

参考——「秩父山の民俗考古」:小林茂 「峠と人生」「日本産動物雑話」「日本産狼の研究」:直良信夫 「秩父歴史散歩」:山田英二 「歴史知とフェティシズム」:石塚正英 「秩父市誌」:秩父市 「三峯神社史料集」:三峯神社 「武甲山写真集」「秩父Ⅰ風土考」:清水武甲 「オオカミの護符」:小倉美恵子 HPー秩父山地の歴史と文化・ETV特集見狼記・埼玉県秩父市贄川猪狩神社の狼信仰に関する一考察:西村敏也・温故知新・秩父事件HP ウイキペディア
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by gannyan1953 | 2013-07-04 12:49 | 埼玉県の歴史散歩 | Comments(0)

歴史と素適なおつきあい

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関東の穢多頭「弾左衛門」

歴史と素適なおつきあい番外編
浅草弾左衛門
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江戸時代の穢多頭で、幕府から関八州、伊豆、甲斐都留郡、駿河駿東郡、陸奥白川郡、三河設楽郡の被差別民を統括した。浅草が本拠だったので、浅草弾左衛門といわれる。

摂津の火打村から鎌倉極楽寺辺に移り、江戸日本橋に出たという。時代は家康開府の100年ほど前で、このあたりは尼店(あまだな)と呼ばれていた。今の室町である。日本橋の北に小高い丘があり沢山の穢多が置かれたという。なぜここに住んでいたのか。
①太田道灌が奥州への街道警備のために配置したという説。
②後北条のころ室町(日本橋本町4丁目)に処刑場があった。処刑場、牢屋の維持に穢多が必要だったからという説。

弾左衛門は江戸が開府されたとき、関東の穢多の頭の座を、太郎左衛門と競り合うことになった。
太郎左衛門とは、小田原で北条に仕えていた穢多頭である。
そして家康は江戸にいた弾左衛門を選んだ。
理由は北条に仕えた太郎左衛門は、避けたということだと思われる。

 慶長8年(1590)日本橋ができたころには処刑場、牢は伝馬町にあった。今の十思公園である。
このため、弾左衛門は浅草鳥越(聖天町近く)に移った。
そこが振袖火事で焼けてから新町(現在浅草高校)に弾左衛門役宅が作られた。

穢多とは、主に皮革に関わる仕事で、武器や馬具、羽織、下駄や雪駄の鼻緒などに使われた。
特徴は定住性があることで、弾左衛門の配下である。

非人とは刑場の仕事、屍体の処理などで、土地などの財産をもたず、車善七の配下だった。
後に車善七は、仕事の権益をめぐり、弾左衛門を訴えるが敗訴してしまう。
その後非人も長吏頭(弾左衛門)配下になった。

助六と弾左衛門

歌舞伎の「助六」の悪役「意休」のモデルは弾左衛門だという説がある。

塩見鮮一郎氏の「弾左衛門の謎」によると、宝永5年(1708)に傀儡師(くぐつし・人形まわしのこと)の小林新助に弾左衛門に興行妨害されたと訴えられ、弾左衛門は敗訴してしまう。これは、それまで歌舞伎などの興行を弾左衛門が支配していたとみられ、敗訴により、その支配権を失うことになる。
歌舞伎界では弾左衛門の支配を脱した喜びから、意休のモデルは弾左衛門で、嫌われ者の悪役に仕立てたという。

身分は士農工商からはずされ最下位の身分であったが、皮革加工、灯芯、竹細工の製造販売に対し独占的な支配をもち、大きな富を得、権勢を誇った。幕府からは様々な特権も与えられていた。

弾左衛門は由緒書きを持ちそれには、秦から渡来した秦氏を祖先に持ち、平正盛の家人であった。平正盛とは平清盛の祖父にあたる。藤原弾左衛門頼兼といい、長吏の頭になり、源頼朝の朱印状を得て中世における被差別民の頭の地位を確立したといわれる。
しかしその由緒書きの確証はない。

弾左衛門の屋敷は浅草新町といわれまわりを寺社や塀で囲いまわりから見られない構造になっていた。中には長屋式の住まい、皮革関連の作業場、寺や神社、商店もあり常時300人(塩見氏説)が暮らしていたという。佐伯修氏は200人という。屋敷内で生活はできたが、塀の外の庶民と交流はなく隔絶された場所であった。

幕末の13代弾左衛門は、関東、伊豆などで10万人を従え、金銭も多く蓄え、一説には弾左衛門は大名のようだったという。しかし弾左衛門は兼ねてから身分の引き上げを願っていた。
そこで幕府のために、幕府の兵力の増強に力を貸し、長州征伐、鳥羽伏見の戦いに兵隊として差し出している。先代弾左衛門の病気のおりに、御典医松本良順が診察したことで、良順そして新撰組とつながり、甲陽鎮撫隊にも出兵している。
このとき新式の銃、資金1万両をつけて200人を参加させているという説もある。

慶応4年(1868)に幕府への功労により平民となり、明治維新を迎えて名字を弾とし、「弾直樹」又は「弾内記」と改名した。
平民となった弾は喜んで皮革製造の工場「弾製靴所」を建てた。
外国人技師を招き皮革技術を教える伝習所も作った。
それまで蓄えてきた多くの財産を投資した事業だった。
が、解放令とともに、皮革産業自由化により挫折する。
解放令とともに牛馬の死体処理の権利まで失い、原料入手に困難だったことが理由にあげられる。
しかし日本の近代皮革産業を発展させたのは、弾左衛門たちの努力が貢献していると思われる。

解放令とは賤民制廃止を唱え四民平等の人権回復の法令であった。
ところが明治政府は戸籍に新平民と記し、本当の意味での身分をなくしていない。

そして江戸時代まで住んでいた土地を奪われ、特権だった税金免除もなくなり、独占してきた皮革処理の権利も剥奪された。解放令以前より、生活水準が低下することになったのが現実だった。

参考 ウイキペディア・徳川将軍家の謎:別冊宝島
   弾左衛門の謎:塩見鮮一郎
   江戸の弾左衛門:中尾建次
by gannyan1953 | 2013-07-07 08:25 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

港北ニュータウンのオオカミの護符の話

歴史と素適なおつきあい番外編      2013・7・4


都筑区のオオカミの護符
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牛久保西の農家、私の隣家の元農家には毎年張り替えられたオオカミの護符があるので、伺って聞いてみた。
今でも宮司さんの姿で御嶽山から御師(おし)さんが来られて護符を届けてくださるという。
護符は、畑や台所に張る。そのときは、初穂料「2千円」を用意する。
牛久保の農家では大山講が続いており2年に一度大山の下社に参拝する。
牛久保の鎮守である天照皇大神神社の氏子は、伊勢神宮にも代表者が参拝する。
今でも昔ながらの信仰が続いているようだ。
オオカミ信仰について詳しくは秩父の歴史をご参照ください。
by gannyan1953 | 2013-07-04 13:19 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

秩父の歴史

歴史と素適なおつきあい 

秩父の歴史
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城峯神社のご眷属  祭神は平将門

知知夫が秩父になったのは元明天皇(661〜721)飛鳥から奈良時代のころである。
全国的に嘉字二文字にせよとの命に「秩父」になったと思われる。
チチブは
①知知夫の国造の名前から
②イチョウが多く古くはチチノキといったから
③鍾乳洞が多くあるので鍾乳石から
④アイヌ語で、冷たい清水をチチブというから!?(チェップ・チップ=魚の意味で、チクシは通路の意で北海道の秩父別はそこから「ちっぷべつ」という。清水はペケレベツという)
⑤峰が連なる地形なので千千峰から
⑥父母のことで、古くはチチボと読んだから     秩父市誌より

秩父の古代
日本列島は海の底で、秩父はお盆のような形で沈んでいた。そこに泥や砂がたまり5000mほど生物の死骸とともに堆積し、武甲山もこのころ堆積した石灰の山である。
秩父には堆積した古生層(ようばけ)が見える場所もあり、化石も多くでる。
百万年前に陸地になり、1万年前から洞窟などに人が住むようになった。有名な遺跡に神庭(かにわ)半洞窟遺跡があり、無土器時代からの痕跡がある。大血川洞窟遺跡では狼の骨片がみつかった。

秩父の奈良時代
大和への服属関係は少しずつ進み和銅献上(708)で秩父が知られることになる。銅の発掘には「羊太夫」の伝説が残る。和紙を伝えた、新羅からやってきた、秦氏の一族である、多胡碑に名を残す、胡からペルシャ人である、シルクロードからきたので、養蚕技術を伝えたなど、秩父の文化を開いた渡来人の伝説である。
山野に囲まれた地域だったので、狩猟技術が高く、そのためか防人が多く出されている。
このころの秩父は、武蔵のうちでは極めて文化的な地域だったと思われる

秩父の平安時代
10世紀になると牧がおかれ、馬が献上された。
そして武蔵七党という武士団が起こり秩父には丹党が存在した。
将門の乱が起こると秩父から将門に同調する者もあらわれ、今でも将門の伝説が多く残る。
その後秩父の武士を束ねていったのは秩父平氏であった。将門の叔父平良文の子と将門の次女が結婚し、秩父氏を名乗った。1083年の後三年の役は秩父武綱が源義家配下で参加している。
武綱から三代の重能の時代に本拠を深谷に移し畠山氏を名乗った。あとの兄弟たちは河越氏、高山氏、江戸氏を称し武蔵各地に広がった。その後畠山氏と河越氏は家督をめぐる争いが続いた。

秩父の鎌倉時代
畠山重忠は、頼朝方につき、従わなかった一族は滅ぼされたが、重忠は秩父氏の家督を相続することができた。が、のちに頼朝の死後、鎌倉北条氏に滅ぼされてしまう。それでも秩父氏の血統は姓をかえて代々続いていった。
鎌倉時代に多い、長瀞産の緑泥片岩の板碑が関東一円にみられることから、山や川を利用して運ばれた。山々には修験者や、木地師、狩猟民など日常的に峠を越えて往来した道がある。
昔から秩父は鉱物資源が豊かで銅をはじめ金、銀、磁石、緑青、寒水石、燧石など採れたという。
鉱物資源の豊かさは戦国時代の武将たちの魅力になる。

秩父の戦国時代
太田道灌に鉢形城を落とされ、後北条氏、武田氏の配下になり、その後豊臣秀吉に屈し、徳川の治世となった。

秩父の江戸時代
江戸時代になると秩父の武士は武士にはなれなかったので、みな農民となった。
武士だった人たちは名主や庄屋になって人々を束ねる役についた。
今でも古い家筋の人たちは、武田氏の流れ、後北条氏の流れという人々が多い。
鉢形衆の法要を、今でも子孫によって続けているお寺もある。

秩父の支配は幕府直轄地、旗本領、忍藩、前橋藩などであった。
わずかな耕地では満足に作物はできず養蚕、たばこ、秩父絹など多岐に渡る産業で生活した。

秩父の明治時代
秩父の生糸輸出が盛んになった。
江戸時代半ばから秩父絹が好評だったが、幕末になり、生糸が輸出されるようになってから
秩父も生糸輸出に参加し、世界につながる産業に大きく変わった。
フランスの蚕の病気で一気に日本の生糸が多く輸出されることになったからである。
秩父は信州などと比べ生糸輸出に偏っており、もともとフランス市場との結びつきが強く、秩父最初の小学校はフランスの援助で建てられている。
幕末にフランス式兵法を取り入れたとき、算術もフランス式を取り入れていた。明治になって、小学校の算術もフランス式であったという。そのためフランス大使書記官が秩父を訪れているほどで、小学校のフランス式算術をみて感動していたという。フランスとの取引が多かったため、1882年リヨン生糸取引所の生糸大暴落の影響をより強くうけることになった。
養蚕農家は生糸の売り上げをあてにして借金をし、設備投資や当面の生活に充当していたので、生糸の暴落はすぐに生活の困窮を深め、窮状につけ込んだ銀行、高利貸しがさらに生活を悲惨な状況にした。
例えば100万借金すると二分切りで、手取り80万円、さらに1年後は金利275%で220万円の借金になった。訴えたところで、銀行や高利貸しは裏で細工をして、悪徳なやり方だと裁かれることはなかった。
税については、明治になり、地租改正で税を現金で納めることになったので、作物を現金化して納めた。政府は西南戦争の出費を補うため税を増税した。そして秩父の新道建設に労働も課せられ、ひとときでも豊かな思いをしてきただけに生糸の暴落、借金返済、増税は秩父の人々の身にこたえた。これが秩父事件につながっていく。

「恐れながら 天朝様に 敵対するから 加勢しろ」 
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映画「草の乱」より

明治17年11月1日、自由民権を唱え農民が蜂起!秩父事件という。
秩父市下吉田の椋神社に約3000名が集結し、大宮郷を目指して進軍を開始したが・・・

要求は借金返済の延期だったが、認められなかったからである。真っ先に高利貸しを襲い証文を
焼却している。
彼らは11月1日、椋神社で困民軍二大隊を編成、五ヵ条の軍律を定め、一般の住民に危害を加えることを厳しく戒めた。2日、大宮郷に入って郡役所を占拠、3日荒川河畔で憲兵隊と交戦して撃退、4日・5日上州金屋と粥仁田峠で鎮台兵と交戦したが破れ、本隊は解散した。
だが、一隊は十石峠をこえて信州に 転戦、9日の東馬流の戦闘を最後に潰走した。
蜂起参加者は最盛時8000人とも1万人ともいわれるが、有罪判決を受けた者3390人(最高幹部は死刑か無期懲役)、官憲の調書に名を残した者4200人である。

明治政府は、この戦闘で死亡したり負傷したりした軍人や警察官の処遇にあたって、これを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、その戦況や結末の報告は大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられている。
この武装蜂起で発揮された秩父農民の楽天性や高揚したエネルギー、それと、より良い未来をめざした志は、今もなお多くの人々に感銘をあたえている。(秩父観光協会吉田町支部HP参考)

秩父事件が起こる前、全国で数々の暴動がすでに起きており、政府も焦燥感を募らせていたので、秩父の騒動への対応も厳しいものになった。軍の違反や規律を守るための憲兵隊が派遣されており、民衆圧政が明治政府の国のあり方だったのかといわれている。
困民党は鉄砲隊、抜刀隊、竹槍隊から成っており、鉄砲といっても猟銃(ほとんど火縄銃)で、200丁弱だった。夜間山の中で火縄銃を撃っても政府軍から見えてしまい、飛距離は50mだった。
対する政府軍は明治13年に作られた国産小銃の新式村田銃で飛距離は1800m、火力の差は歴然としていた。
鎮圧後、天朝様に逆らった逆賊として秩父は長く口を閉ざすことになる。

秩父の大正時代
大正になって、セメント産業が起こり、運搬のための鉄道も作られた。
秩父セメント株式会社が設立され関東大震災、戦災の復興、高度経済成長期に貢献した。秩父セメントは浅野セメントに吸収された。浅野セメントは、鶴見の海をを埋め立て、工業地帯を作った浅野総一郎の会社である。渋沢栄一、安田善次郎などの援助もあり、浅野財閥を築いた。鶴見線の駅名にもその名と家紋を残す。(浅野・扇町)
現在セメント産業は衰退し、太平洋セメントに名を変えたが第一工場は閉鎖、廃墟化した。

秩父の昭和時代
石灰産業の対象となった武甲山は昭和15年(1940)から現在まで、秩父石灰工業の操業により、山頂が削りとられ変貌した。
はじめて秩父を訪れた時、予備知識をもたずに武甲山を眺めたためその姿に驚きが隠せなかった。
武甲山は秩父のシンボルで、秩父神社の神奈備山である。  
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             かつての武甲山              
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現在の武甲山

「採掘対象となっているのは灰色~暗灰色石灰岩層です。この層は一般に潜晶質で、他層の挟みは極めて少なく、化学成分上も石灰分の高い良質な石灰岩として知られています。 武甲山の石灰岩は推定可採鉱量約4億トンといわれ、日本屈指の大鉱床です。」秩父石灰鉱業のHPより抜粋

とのことで、最盛期より採掘量は減ったものの、今後も他の2社とともに発破をかけての採掘が続くそうだ。石灰岩はコンクリートやセメントだけでなく、車の部品、歯磨き粉、こんにゃく、チョコレートなどにも利用された。普段使われている乾燥剤も石灰で、すでに生活必需品になっている。秩父の人々にとって石灰は、地元経済を潤してきた大切な産業だった。たまたま「経済を潤す対象が信仰してきた山だった」ということなのである。
武甲山麓にある武甲山管理組合が現在5社と契約し、山を管理している。組合員は横瀬町民で構成されており、会社の株の一部が町に譲渡され横瀬の経済が潤うので、秩父市との合併を望まない。それで地元民の採掘反対の運動が起こらないらしい。

秩父の宗教
神道  
秩父の国造が知々夫彦命に下命されたのは崇神天皇(BC97〜30)の時代で、武蔵国は、役70年後の成務天皇の御代であった。(旧事本紀)知知夫彦命は秩父神社の祭神である。
ほかに三峯神社、宝登山神社があり、秩父三社といわれる。
秩父にはオオカミが多く生息したといわれ、オオカミを狛犬にしている神社が多い。
信濃から甲斐に伝達した文化は、雁坂峠を越えて秩父にはいり、武蔵最初の文化を作り上げた。
ヤマトタケルが北方の蝦夷を平定して都に帰る途中、荒川沿いに秩父に入り、宝登山、三峰山で斎場をたて、戦勝報告とその加護に感謝したのはその地の文化が高かったからではないだろうか。
本来秩父の文化は信濃、甲斐の影響が強いといわれているが、金鑽(かなさな)神社を建てた渡来人の影響も強いと思われる。金鑽神社は埼玉県児玉郡神川町にある神社で、ご神体は御室ヶ獄という山であり、古代祭祀の面影を残している。
金鑽とは、砂鉄を意味し、神流川で良質な砂鉄がとれ鉄の材料になった。
砂鉄の採集地を鉄穴(かんな)というが、神流川は金鑽神社の近くを流れている。
魏志倭人伝に、倭人の国の一つ「華奴蘇奴国」(かぬそにのくに)の中心が金鑽神社ではないかという説がある。(秩父歴史散歩:山田英二)
秩父神社は、中世以降に平良文率いる秩父平氏が奉じた妙見信仰と習合し秩父妙見といわれたが、明治になって秩父神社と改称した。
平良文と妙見の関係は平将門にはじまる。小飼川の戦いのときに将門は妙見に助けられる。
だが将門が新皇宣言したとき妙見はあいそをつかし、叔父良文の方に味方するという話がある。

仏教
行基がやってきて仏教を広めた、役小角が三峰山に登山して修験道を広めたと伝わる。
山岳仏教が盛んになるが始めは役小角が伝えたもので、後に空海の真言宗が伝わってきたという。
今でも巡礼する人が多い観音札所巡りは、室町時代のころ形成されたらしい。
江戸時代には、江戸で出開張が行われ、人々に知られるようになったこと、箱根や栗橋などの厳しい関所がなかったことなどから、江戸から出かける人が多くなった。出開張とは、寺社が秘仏やご神体の帳を開いて広く民衆に拝観の機会を与えるというものである。
江戸後期に狼の護符を配布するようになりますます盛んになっていった。現在神社の狛犬にみられ、神道のようであるが、明神と言われ護符が配布されはじめた頃は仏教であった。

キリスト教
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浄瑠璃の説明板
秩父には出牛という地名がある。「じゅうし」という。ゼウスではないか、十字ではないかなど隠れキリシタン伝説がある。キリスト教を広めようとした山口平之進の従者で、善明寺の門前百姓となった中金か竹内のどちらかが、秩父に逃げ込んだという。出牛の西福寺には墓に十字が刻まれていると思われるような墓が存在するという。十字のあるお墓があると聞いたがみつからなかった。

世界のオオカミ信仰
秩父は際立ってオオカミを眷属とする寺社が多い。
世界でも、オオカミは古代から信仰の対象になっていた。
①ギリシャの先住民は、狼は畑の作物を食い荒らす動物から守ってくれると思い信仰した。
②太陽は天の父であるというケルトの民は夜になると狼が太陽を飲み込むと思った。
 ケルトが怖れたのは「天が落ちる」ことだったので、天より狼が強かったことになる。
③北欧神話では天災の象徴に狼が使われる。日本の龍の存在か。
④スキタイの民ネウロイ人は1年に1度狼に変身し元に戻るという。(歴史家ヘロドトス)
⑤モンゴルではチンギスハーンの始祖は蒼き狼だという。モンゴル民族の始祖はチノアで、チノアは狼のことで、母は白い鹿である。蒼いは漢語では灰色のことだという。
だが、チンギスハーンの伝説:蓮見治雄によると、モンゴルでは狼は神ではない。狼は家畜を襲う憎い対象であるという。
⑦トルコ系の遊牧民族にも狼を始祖とする伝承がある。(歴史知とフェティシズム:石塚正英)

日本のオオカミ信仰
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ニホンオオカミの剥製
「日本書紀」によると  
ヤマトタケルは東夷平定の帰りに、甲斐の酒折宮から、武蔵の秩父、奥多摩を通過、上野へ向かって碓日坂(碓氷峠)を越えて信濃に入った。お腹が空いたので、信濃の山中で食事をした。山の神は彼を苦しめようと白鹿になってヤマトタケルの前に立った。ヤマトタケルはいぶかしみ、一箇蒜(ひとつひる)で白い鹿をはじいた。一箇蒜とはニンニクのことである。
それが目にあたって死んだ。それからヤマトタケルは道に迷ったが、どこからか白い犬がやってきて道案内をしてくれたおかげで、美濃にでることができた。
この話から秩父、武蔵にはヤマトタケルに因んだ神社が多く、「大神」はオオカミとなった。
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ハイイロオオカミ 群れをつくる肉食獣より



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