歴史と素適なおつきあい

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寳登山(ほどさん)神社

歴史と素適なおつきあい 番外編           2013・8・11
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寳登山神社に行ってきた
秩父三社と言われる神社なので、行きたかった。
金鑽神社に向かう道筋だったので、立ち寄ることができた。
荒川で泳いだり、バーベキューしたり観光客でいっぱいの界隈であった。
有料駐車場がずっと続き参拝するのに一日駐車場にいれなければいけないのかと
思ったが、そんなはずはないと神社に向かった。
よかった。参拝者の駐車場はあった。
参道を走った奥に神社があるが、すっかり静かな空気になっていた。



寳登山神社 (秩父郡長瀞町長瀞1828)
祭神は
神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)神武天皇
大山祇神(おおやまつみのかみ)山の神
火産霊神(ほむすびのかみ)火の神

ヤマトタケルが蝦夷征伐の帰りに宝登山に登頂し、三柱の神を祀った。
途中山火事に遭い、多くの犬が火を消したといわれ眷属に大口真神が守護として祀られている。

名前の由来として、寳登山神社のしおりには、火止(ほど)は犬が火を消したことから火止めの伝説に由来するとある。
そのため火災盗難除のご利益がある。

別説に金属関連といわれるがその説の方が一般的である。

寳登山のホドとは火処といわれ、金属精錬の火処のことである。
火処とは、金属が熱せられる溶鉱炉の出てくる場所であり、お産にたとえられる。
火加減を見る穴はホド穴といわれる。溶鉱炉は子宮、溶けた金属は湯という。

製鉄について、古事記にでてくるのだが、
「鍛人(かぬち)天津麻羅を求(ま)きて」とあるだけで、何をしたのかは書かれていない。その前に「天の金山の鉄(はがね)を取りて」とあることから、伊斯許理度売命(いしこりどめ)が鏡を作るための製鉄を行ったと考えられる。

アマツマラは製鉄集団の頭領でアマツは天津神(アマツ神)、
マラは
①目占メウラー片目のこと
②蒙古語で、鉄の意味
③男根の意味(この説は近年言われたことらしい)
があり、
製鉄の男性はアマツマラ、女性は溶鉱炉の火炉ということになる。
しかし実際には鍛冶は女人禁制であった。


近くには和同開珎で有名な黒谷や、山麓の東部に採銅鉱遺跡、天狗山山麓遺跡、荒川沿岸の金山遺跡、渡し場の金石、井戸の金ヶ岳、西浦両地区の採銅遺跡、金尾などの地名があげられている。

金鑽神社も含めこのあたり金属に縁がある。当ブログ「埼玉県の歴史・金鑽神社」参照
鉱物資源が豊かだったので、渡来人が配属され鉱山が開かれていったと
思われる。

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ヤマトタケル 禊ぎの泉

濁ってしまったのは、お賽銭を投げ入れて反応したかららしい。
宝登山登頂の際に体を清めた泉だそうだ。

ウイキペデイア参照
by gannyan1953 | 2013-08-28 08:16 | 埼玉県の歴史散歩 | Comments(0)

金鑽神社

歴史と素適なおつきあい番外編        2013・8・11

金鑚神社に行ってきた
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前から武蔵六所の宮のひとつ金鑚神社に行ってみたかったので、今回川上村に行く途中に寄った。
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拝殿
金鑚神社(埼玉県児玉郡神川町二ノ宮750)

奥にある御室ヶ嶽をご神体にする古代祭祀の神社である。
だから本殿をもたない。
元の遷座地は近くの元森神社である。

住所は二ノ宮、でも五ノ宮というのはなぜか。

武州六大明神は
①小野神社(東京都多摩市一之宮)
②二宮神社(東京都あきる野市二宮)
③氷川神社(さいたま市大宮区高鼻町1丁目)
④秩父神社(埼玉県秩父市番場町)
⑤金鑚神社(埼玉県児玉郡神川町二ノ宮)
⑥杉山神社(横浜市緑区西八朔町)

六大明神は武蔵総社である六所の宮に祀られたもので、明治になって六所の宮は
大国魂神社となった。

金鑚神社当社創建当時の二宮として二宮神社を祀っているが、
歴史を通しては五宮の金鑚神社を二宮とする説もあるので、武蔵二ノ宮ともいう。

これは、氷川神社を武蔵一宮とする時期の二宮という意味で、
小野神社が武蔵一宮であった頃には、
氷川神社は三宮、当社は五宮であったと思われる。



金鑚神社とは

社伝によると、景行天皇の41年(111)、
日本武尊が東征に出かけるとき、叔母である倭姫命から
草薙剣をもらい、そのときいっしょにもらった火鑚金(火打石)を御霊代として、
御室ヶ嶽に天照大神と素盞嗚命を祀ったのが創祀であるという。


その後、欽明天皇2年(541)に、日本武尊を合わせ祀ったという。


延暦20年(801)に、坂上田村麿が蝦夷平定を祈願し、
永承6年(1051)には、源義家が蝦夷平定を祈願したといい、
なぜか東国平定のために皆が立ち寄ったことになる。

中世には武蔵七党の児玉党の氏神として崇敬された。
九郷用水の九郷流れといわれる地域では11社の金鑽神社がある。旱魃のとき神社の金目池から金色の龍があらわれ本庄市の東福寺まではいまわりそこから天に昇ったという。そのはいまわったところが九郷用水になったという。


金鑚とは
1火打石・火鑚金が御霊代となっているから
2金鑚とは、砂鉄を意味し、神流川で良質な砂鉄がとれ鉄の材料になった。
砂鉄の採集地を鉄穴(かんな)というが、神流川は金鑚神社の近くを流れている。
銅もとれたらしく祭神は金山彦であるともいう。

魏志倭人伝に、倭人の国の一つ「華奴蘇奴国」(かぬそにのくに)の中心が金鑚神社ではないかという説がある。(秩父歴史散歩:山田英二)^当ブログ秩父の歴史参照
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御嶽の鏡岩
鏡岩は1億年前に八王子構造線ができたとき、断層のすべり面であるという。
岩質は赤鉄石英片岩で、赤褐色に 光る岩面は、強い摩擦力により磨かれて光沢を帯び、表面には岩 がずれた方向に生じるさく痕がみられる。岩面の大きさや、断層 の方向がわかることから地質学的に貴重な露頭となっている。
甲子夜話に姿が映ると記述されている。
ここに御嶽城があった。
遠くからみても岩が光るので敵の目標になることを避けるため松明でいぶしたから赤くなった。
高崎城が落城したとき燃える炎が映った
という伝説が残る。

少し登ると
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こんな景色

あまりの暑さと蚊に退散


藤岡市 三波山清水院満福寺
立派な山門にふらふらと立ち寄った
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三波石
近くに三波峡がある。
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南蛮絵を所蔵する

この寺のお地蔵様には十字が彫られているという。
秩父に続きまたキリシタンがいたのかもしれない。金鑽神社にいく前に秩父の隠れ切支丹といわれる
西福寺に立ち寄ったところなのだが。

南蛮絵を所蔵するのはその関係からなのかもしれない。

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上野村にむかう途中琴平橋より。2013年、水が少ない

御巣鷹山

上野村に入ったが、明日は日航機墜落の慰霊の日にあたる。
私はCA(そのころはスチュワーデスといわれた)の三原真理子さんが中学時代の
友人だった。結婚して赤田真理子さんになったが。

赤田真理子さん
中学3年の学校の帰り道、
真理ちゃんが大好きだったモンキーズを
口ずさむ。
道路の石垣にもたれながらずっとおしゃべりした。

休みの日にはモンキーズが番組でしていた首飾りが
何かの景品でもらったかもしれないが
首にかけていた。

そのころからスチュワーデスになりたいから
英語は頑張るんだと言っていた。

彼女のお父さんが転勤で中学3年生で、東京に引っ越ししてしまったのだが、
成城学園の短大卒業前に、嬉しそうに名古屋に訪ねてきてくれた。
中学時代から憧れていたスチュワーデスになったと就職のお知らせにきてくれた。
あのときのニコニコ顔が忘れられない。


以前、13回忌に御巣鷹山慰霊登山をした。
実は、夢に真理ちゃんがでてきた・・・・
13回忌とわかりお参りに行く事にした
夢になったのは、夏になると報道されるので
気になってしまうせいだと思うが

近所に住む上野村出身の友人が上野村の実家に駆けつけてきてくれ、
当時の様子を消防団のお兄さんやお父上から詳しく聞いた。
友人は当時夏休みで子供たちを連れて上野村の実家に帰っていた。
ひたすら毎日炊き出しのおにぎりを作ったという。
ごはんが熱いので手が真っ赤になったという。

御巣鷹山頂上では「墜落遺体」を書いた飯塚氏の同僚と偶然話し込むことになり、
またまた当時の様子を聞いた。
ご主人は長い間御巣鷹山で捜索をし、奥さんのいる家に一ヶ月ぶりに帰った話をされた。
ようやくそのとき留守を守った奥様を連れての慰霊登山だという・・・どっと疲れた。
どっぷり御巣鷹話に浸かって、宿は上野村にした。

宿の料理がおいしく、慰霊祭のとき、毎回取材に訪れる記者たちの滞在する宿だという。
話を宿のおかみさんから聞いた。もう心はドロドロ・・・・

そのとき訪れた上野村を今回は合掌して通り過ぎた。
翌日は慰霊祭が催される。

(2015年・・・事故から30年・・・
ネットに残されたご主人とご子息の事の
コメントがあり、無事成長されていた事に安堵した
そういえばもう真理ちゃんは夢にはでてこない)


十国峠は不通なので、ぶどう峠を越えて川上村にむかった。






 

 
by gannyan1953 | 2013-08-18 14:33 | 埼玉県の歴史散歩 | Comments(6)

甲斐犬の里 芦安の歴史

歴史と素適なおつきあい番外編   2013・8・12

甲斐犬の里で甲斐犬を見た

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甲斐犬のならちゃん(2011年生まれ女の子)

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甲斐犬の血が混ざったでんじろう君 見た目甲斐犬に見えるけど。

芦安村 (現在は南アルプス市)
中央部の夜叉神峠(やしゃじんとうげ)には南北にフォッサマグナ(糸魚川静岡構造線)の断層が走る。
明治になって、御料地となり、近代には乱伐による山林荒廃で水害などが発生。
今でも自然保護対策や災害による道路の寸断など災害が多い。
高度成長期に林業が衰退し、過疎化が進んだ。

昔々、日本武尊が東征の折りにこの地で「水害に襲われた」と伝えられているのをはじめ、
戦国時代には、武田信玄が、甲府盆地の治水工事を行って内政の充実を行ったことは有名である。

武田信玄は、天文10年(1541年)、21才の時に甲斐の国主となり、翌年、御勅使川(みだいがわ)が氾濫して甲府盆地が一面の河原と化した。
そこで信玄は川の氾濫を食い止めるため治水工事を始めた。
信玄堤を始め将棋頭や石積出し等の治水工事を行い、
その工法は、「甲州流河防法」と呼ばれている。

笛吹市の浅間神社社伝によれば、825年(天長2年)に大洪水が発生し、このときに甲斐国司文室秋津が朝廷に勅使下向を要請したという。御勅使川の名もそこからついたという説がある。

翌朝、散歩で夜叉神峠の名に惹かれて車で出かけてみた。

夜叉神峠(やしゃじんとうげ)
昔、峠に夜叉神がいて祟るので、峠に供養の石祠を置いたことに由来する。
芦安村の伝説には、一つ目小僧、龍神様、へび石、極めつけが
朝日さす夕日かがやく木の下の黄金埋蔵伝説がある。

そこで考えた。きっと鉱山があると。
調べてみると近くに芦安鉱山があった。

芦安鉱山
信玄の時代から金、銅を採掘したとある。
大正から戦前まで黄鉄鉱、黄銅鉱などとれたという。
ドノコヤ峠という名を残し、最近になって山道を整備したらしい。
ドノコヤとは銅の小屋である。

大正3年(1914)に大正鉱業が採掘を始め、日立製錬所や尾去沢鉱山に売却された。
鉱山最盛期には250人の従業員、その家族たちが暮らしていた。
地盤はもろく、傾斜地だったので、生活、採鉱にも大変な苦労があったと思われる。
冠婚葬祭、学校などもあり、ひとつの集落を作っていた。
運搬は苦労をともない、50キロの鉱物を人の肩、牛馬によって運搬された。
後に桃ノ木温泉あたりまで索道ができ、平地には車が走れる道が整備された。

戦後は安い輸入鉱石に押され経営が難しくなり、昭和22年(1947)に閉山した。

その後、光鉱業が芦安の鉱業権を得て反対側の奈良田に索道を作って続けたが、採算が合わず
昭和31年(1956)閉山した。

大正鉱業も大きな会社だったが、労働組合との闘争もあり、昭和39年に会社解散となった。

今でもその集落の跡が廃墟として残っている。
山梨には信玄由来の鉱山がたくさんある。



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大正期の砂防堰堤で、当時最大級の高さ、大きさ、及び美しさを持つ、

最初期の練積堰堤群として
堰は文化遺産になっている。

甲斐犬について
大正13年甲斐犬の存在を小林承吉氏が、確認する。
この地特有な犬であると感じ、甲斐犬を大切に増やしていった。

体型より、「鹿犬型」(鹿型犬)と「猪犬型」(猪型犬)のタイプがあったが、
現存する甲斐犬は、「鹿犬型」(鹿型犬)であり、猪の他、カモシカも追っていたとされ、
細身で体が長めで、岩場に適応して垂直に飛び上がる力に優れている。

虎御前の遺跡

芦安物語
Ⅰ. 甲斐の芦安 育ちの御子は
産湯 御勅使川の 姫ごりょう
殿に召されて 鎌倉御殿
あでやかな あああでやかな
   虎御前

2  花の鎌倉 大磯小磯
   舞の頭の 虎御前
   曽我の十郎 佑成さまと
   合舞踊 ああ合舞踊
   打つつづみ

3. 富士の巻狩り 曽我兄弟を
   語り続けて 七百年
   愛の芦安 いこいの温泉
   夢を呼ぶ ああ夢を呼ぶ
   虎御前

虎御前は大磯の長者の娘だったと聞くが、ここ芦安安通の生まれという伝承が残る。
曽我兄弟の兄・十郎の恋人として登場する虎御前は、縁あって大磯にある長者の養女となった。
とても美しく、その御前が身繕いや化粧をするのに鏡を立てた台と伝えられる石が残る。
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曽我兄弟は父を殺された敵を 富士の巻き狩りで仇討ちに成功した。
しかし、兄十郎は斬殺、弟五郎は捕縛されのちに斬首となった。

大磯で十郎の訃報を聞いた虎御前は、19歳で尼となり、兄弟の菩提をとむらうため信濃善光寺に向かう。
その旅の途中、生まれ故郷の安通村へ立ち寄り、村人から住まいを与えられ、追善供養をした。
芦安の諏訪神社に十郎と虎御前と伝わる2体の木像がある。

虎御前がこの地に縁があるとすると、この地南アルプス市には、曽我兄弟と関係した人々がいた。

その関係者たちーその1御所五郎丸
五郎を取り押さえ、頼朝を守ったのは頼朝を警護していた御所五郎丸という。
曽我物語や吾妻鏡によると、
女の着物を羽織り油断させた五郎丸が後から組み付いた。しかし
女装した事は武士にあるまじき卑劣な行為とされ甲斐に流された。
定かなことではなく脚色された話らしいが流された地は南アルプス市の野牛島(やごしま)であった。
鎌倉御所五郎丸を祀った観音堂が建っている。
江戸期の書物「扁額規範」には「五郎丸は京都比叡山の稚児だった、師匠の仇を殺して都を離れ一條忠頼を頼って甘利荘(現在の韮崎)に住んだが、忠頼が頼朝に殺されたためその後は頼朝に仕えた。75人力の猛者」、としている。

ちなみに横浜市西区の御所山町にも五郎丸の供養墓とされる五輪塔がある
伝承では「曽我兄弟に祐経の館を教えて仇討ちに協力したのが御所五郎丸だ」、としている。
何やら訳がわからなくなってきた。

その関係者たちーその2 小笠原長清

弟の五郎は捕縛され、敵討ちの事情を知った頼朝は生かしてやりたいと思ったらしいが、自分をも襲った五郎を生かしておくわけにはいかなかった。
五郎の尋問に立ち会ったのがこの地櫛形に館があった小笠原長清だった。
虎御前の故郷の人が尋問していたことになる。

いろいろな因縁を感じた。
by gannyan1953 | 2013-08-18 09:53 | 山梨県歴史散歩 | Comments(0)

川上村の歴史

歴史と素適なおつきあい  2013・8・11


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人面香炉形土器(大深山遺跡出土)
個人的に人面の土器が結構好きなのである
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文化センターから男山を望む

今回の旅行は川上犬、甲斐犬の故郷を訪ねた。
本物の人面香炉形土器を見たかったが、
残念なことに月曜日に訪れたため、文化センターの資料館は休館だった。
お菓子を食べながらの職員の応対に驚いたが、休館なら仕方ないか。
その後ランチは森の交流館でいただいたがが、おいしいレタス食べ放題はとってもよかった。

旧石器時代 
2万年前に三沢遺跡で、ナイフ型石器を中心とする狩猟。採集の生活がおくられていた。

縄文時代
13000年ほど前の立石遺跡
4500年ほど前の大深山遺跡は、51軒の竪穴住居とともに土器や石器が多く出土している。
大深山遺跡
日本で一番高い場所にある縄文遺跡

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遺跡の碑
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竪穴住居の中の石 発掘されたときの状態を保っている
高地にあり、涼しい。近くに森を明治100年を祝して作ったらしいが、
縄文遺跡っていつも眺望がいい場所が多い。
あとから作られた森が眺望を邪魔しているのだろうか。
珍しく閉鎖的な場所にあった。


弥生・古墳・奈良時代
遺跡がみられず、冷涼な気候のため稲作が伝わったのは佐久平までだったようである。
弥生時代の石鏃が見つかっているので、狩猟に訪れた人がいるのだろう。

平安時代
中頃の10世紀ころの遺跡はあるが、マタギのような人々、山中の交通路に係わる生活をしていたらしい。
古今和歌六帖にいぐら山の歌が残る。
「わかれては いくらのやまを こえぬれは あふことかたく なりもてくらむ」
なんだか寂しそうな歌なのかな?

鎌倉・室町時代
南北朝に力を持ったと思われる人が五輪塔(大海道遺跡)を残した可能性がある。
金峰山信仰関連の遺跡が残る。

戦国・安土桃山時代
大井氏、平賀氏、伴野氏などが影響したと思われる。
武田氏の勢力になると、長尾、なめの金山が開発された。
豊臣の時代になり、仙石秀久が小諸城主となり、川上村も支配した。
梓久保金山遺跡で盛んに金が掘り出され秀吉に献上した。
今でもあとが残っており、梓千軒といわれるほど活気があった。
金だけでなく良質の鉄鉱石もとれた。
昭和25年ころに住友金属が入り、盛んに鉱山が開発され
第二の梓千軒といわれた。

江戸時代
小諸仙石、甲府徳川、幕府など支配者が変わるがほとんどの時期天領だった。
やはり稲作はできず蕎麦、雑穀を生産し山仕事、出稼ぎによって生計をたてていた。
2年半に一回は災害がったらしい。文献には伊勢参り、善光寺参詣、三峰山代参などがみられ、
たくましく生きた時代だった。
秩父道は人々の交流と情報を得る道であった。

明治・大正時代
長野県の所管となり合併して「川上村」となった。
今までの農業、養蚕、リンキ(何のことかわからない)の生産、薬草採集、杣、薪、狩猟が生業であった。林業に移行していき、落葉松(カラマツ)の苗木は外国にも輸出された。

昭和から現在
林業、落葉松苗の生産そして農業のでキャベツ、大根、白菜を出荷した。
米軍の特需によりレタスを生産し今では国内一の生産地となった。

日本一のレタス生産農家
現在川上村は農家の年収2500万円といわれ、若者は村に居続け
「奇跡の村」といわれる。

村民は外国人含め、実際よく働き、活気がある。
働くのは夏場の4ヶ月くらいで、冬になると氷点下になるため、仕事は休んで遊ぶ。
冬に暖かいオーストラリアに行く人も多いそうだ。

外国人留学生を安い賃金で使うと問題になったそうだが、
渡航費用、日本滞在費など考えると安い賃金とひとことで言えるのか、わからない。
労働時間も日本人は夜中も働くが、留学生は朝5時から夕方5時までの8時間と決められているらしい。
夜中トラクターで走り収穫しているのは日本人、外国人は暑い中レタスの梱包、出荷、畑の整理をしていた。

泊まった宿に外国人はいなかったが、夏の間のバイトがお風呂と夕食を食べにきていた。
雇い主の農家の計らいで毎日宿にきて食べ、風呂に入り、それぞれの宿泊施設に帰っていく。
家族もいるような人もいた。出稼ぎということなのだろう。
とてもにぎやかに今日の仕事の労働の厳しさを語っていた。


川上村の歴史と文化財:教育委員会参照
by gannyan1953 | 2013-08-16 11:21 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

川上犬に会いに川上村に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編     2013・8・11

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川上犬 しんちゃんだったかな?

川上犬
長野県南佐久郡川上村を原産とする日本犬の希少な犬である。
標高1300mの冷涼な地で、昔は稲が育たずもっぱら狩猟を生業としていた村で
カモシカ猟の猟犬だった。
ヤマイヌ(ニホンオオカミ)の血が流れていると伝承されている。

明治政府の欧米化で日本犬は雑種化したが、ここ川上村は
隔絶された地であったため、
純血を保つことができ大正10年に天然記念物に指定された。

ところが、カモシカ猟が規制されはじめたころ、
小海線が開通し隔絶された地も他地域と
交流がはじまり、林業に洋犬が持ち込まれたため、
放し飼いであった川上犬も雑種化していった。

そして戦時中撲殺令がだされ村内の川上犬は絶滅してしまった。
戦後天然記念物指定は取り消された。

村民が絶滅を憂い八ヶ岳にいた木こりにつがいを託したことがわかり
村につがいをひきとることができ、保存会も結成され昭和58年また天然記念物に指定された。
その犬を託した村民は町長のおじいさんだと聞いた。

カモシカを追うイヌなので、岩場にもつよく、ジャンプ力がある。
飼育は自然の中で走ることができる環境も必要だ。
従順で飼い主には仕え、勇敢であったため、南北朝の時代新田義貞に仕えていた忍者が
主人だったことがあるという。
ゲリラ戦法で足利軍を破った忍者で、川上犬の名は「犬獅子」といった。
詳しいことはわからないそうだが、忍者犬として活躍した時代があったことは確からしい。

森の交流館の川上犬たち
なぜか順番にみていくと得意そうに自分の糞をくわえて食べ始める。
「食べなくていいから」と声をかけるとポトっと落とす子もいてかわいかった。

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川上村は千曲川源流の地である。
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宿の前を流れる千曲川
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赤い石が多い
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白木屋旅館 二食で7500円くらいで泊まれる。
白木屋旅館は宇宙飛行士「油井亀美也」氏の親戚である。油井さん

静かな宿でよかったと思っていたら「レタス王国川上村」であることを忘れていた。
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夜中にこんな車が走りその音で何度も目が覚めた。
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秩父に行く街道沿いにあるので、江戸時代の道標がある。

農家の年収2500万といわれ、嫁さんも全国から、アジアからもくるそうで、
都会人の嫁さんも多いそうだ。夏の数ヶ月忙しく出稼ぎが沢山やってくる。
昼間は暑いので夜中12時からレタスの収穫をする農家もある。
村内の人通り、車通りは多く活気に満ちあふれている。
あとの7ヶ月くらいは遊んでくらすのかな。


川上村のパンフレット参照
by gannyan1953 | 2013-08-14 15:21 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)



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