歴史と素適なおつきあい

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都筑橘樹十二薬師霊場めぐり

歴史と素適なおつきあい番外編        2013・11・22

寅年ではないけど思うところあってお薬師様霊場めぐりを車でまわった。

まわった順番
③正福寺ー⑪東照寺ー⑫大乗寺ー②神隠堂(浄流寺)ー①蓮華寺ー⑦正覚寺ー⑧自性院ー④勝田会館ー⑤龍福寺ー⑩大善寺ー⑨慈眼寺ー⑥真福寺

所要時間  4時間


第01番 蓮華寺 横浜市港北区新羽町 3952 ☎0455910200
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薬師堂


本尊 :大日如来
宗派 :真言宗 
  
新編武蔵風土記によれば、岡上村(現・川崎市麻生区)「東光院」末で、その胎内に行基作 の大日如来像を納めた9寸の大日如来像を本尊とする。火災により縁起は定かではないが、開山は朝誉で16世紀中ごろという。当初は小さな草庵で「専念寺」 の隠居所だった。薬師堂の本尊・薬師如来は像長8寸、恵心の作という。
新羽から徒歩17分


第02番 神隠堂   横浜市港北区新吉田町 3168(浄流寺)
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本尊 :地蔵菩薩
宗派 :浄土宗(浄流寺)
浄流寺☎045-591-1653  新吉田3317
新羽から徒歩13分
 堂の由来は不明だが、本尊・地蔵菩薩は甲斐武田家の山本勘助の守り本尊といわれる。堂内には地蔵菩薩、薬師如来、不動明王が安置されている。
宗教法人『浄流寺』(新吉田町3317)で2013年4月に、「榎堂神隠堂」が作られた。完成した御堂は、1966年から寺の敷地内にあった榎堂と、飛び地境内地(新吉田町3168)から移転した神隠堂を合築したもので、地蔵菩薩、薬師如来、不動明王が安置される。

第03番 正福寺 横浜市港北区新吉田町 4569☎045-591-1963
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本尊 :釈迦如来
宗派 :天台宗
度重なる焼失により縁起は不明。約300年前に現在地に移転、新本堂は平成18年に再建された。旧本堂は貞享3年(1686)の建立。
東山田から徒歩9分


第04番 勝田会館  横浜市都筑区勝田町 1333(清光寺) ☎045-942-6221
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本尊 :阿弥陀如来
宗派 :浄土宗
明治の初め頃、暴風雨により山が崩れ勝田町822にあった薬師堂が土砂崩れにより埋没。掘り出された薬師如来像を「清光寺」に安置したが、同寺は関東大震災で倒壊。その跡地に集会所を建て、薬師如来像を安置することになった。
仲町台から徒歩13分

第05番 龍福寺   横浜市都筑区大棚町 495 ☎なし
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本尊 :十一面観世音菩薩
宗派 :真言宗
天正15年(1587)実相上人を開山として創建。宝暦12年(1762)火災のため焼失したが、日栄上人が復興。境内には市指定の古木としてケヤキ、アラカシ、コブシがある。
センター北から徒歩19分

第06番 真福寺  横浜市青葉区荏田町 432−8☎045-911-4315
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本尊 :千手観世音菩薩
宗派 :真言宗
開創年代は不明。創建当初は現在地の北方3.4kmにあったが、大正10年に老朽化のため観音堂があった現在地に移転。当初の本尊・薬師如来と釈迦堂の釈迦如来(重文)はその時に客仏となった。
江田から11分

第07番 正覚寺  横浜市都筑区茅ヶ崎東 3−12−1 ☎045-942-3059
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寺紋
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境内の鷲神社

本尊 :虚空蔵菩薩
宗派 :天台宗
開基 :快栄上人
文禄2年(1593)快栄上人が開基。脇侍の薬師如来像は恵心僧都の作という。
センター南から5分

第08番 自性院  横浜市都筑区茅ヶ崎南 4−6−10 ☎なし
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本尊 :不動明王
宗派 :真言宗
開山の寝偉大は不詳。昭和59年にニュータウンの開発に伴って現在地に移転。翌年、本堂・庫裏を再建。

第09番 慈眼寺  横浜市都筑区中川 7−7 ☎045-912-2391
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本尊 :聖観世音菩薩
宗派 :真言宗
開基 :浄海

 元亀2年(1571)の創建。開山は浄海。当初は草庵だったが永禄3年(1560)ごろ上杉謙信が小田原攻めの時に本陣として使用し、失火により焼失。のち専栄和尚が中興開山となり、村民の為に耕地を開き、早渕川に堰を作り水田を開いた。

第10番 大善寺  横浜市都筑区南山田 2−4−1 ☎045-591-3653
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本尊 :阿弥陀如来
宗派 :浄土宗

 広治年間(1555頃)禅僧の瑞蔵王が当所に留錫し、鎌倉から慈覚大師作の阿弥陀如来像を請来して元々あった小庵を復興したのがはじまり。その後、荒廃していたのを覚蓮社本誉大阿善上人が中興(1680年ごろ)。

第11番 東照寺 横浜市港北区綱島西1−13−15 ☎045-531-1783
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本尊 :薬師如来
宗派 :曹洞宗
開基 :生外意鉄
慶安2年(1649)大曽根「大乗寺」3世・生外意鉄大和尚が創建。行基作の薬師如来を本尊とする(脇侍は釈迦如来・観世音菩薩)。関東大震災で本堂倒壊、庫裏半壊の被害にあった。平成19年には旧本堂を嵩上げし、階下に控え室を増築。
 正徳年間(1712~15)に山号を「薬王山」に改めたが、宝暦2年(1752)に現山号に復した。薩摩藩主・島津家の信仰が厚く、薩摩出身の住職も多い。 
綱島から徒歩6分

第12番 大乗寺  横浜市港北区大曽根台 9−30☎045-531-0603
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本尊 :釈迦如来
宗派 :曹洞宗
開基 :生外意鉄

 天正4年(1576)生外意鉄大和尚が創建。慶安2年(1649)徳川家光から寺領5石、山林・竹林免除、境内除地の朱印証状を付与される。本堂は空襲で焼失し、昭和25年に再建。
大倉山から徒歩8分




by gannyan1953 | 2013-11-22 15:26 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

御嶽神社 オオカミ信仰

歴史と素適なおつきあい 番外編       2013・10・12

ご眷属お犬様に惹かれ御嶽神社へ行ってきた

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お犬様 形代   愛犬の厄移し・健康成就を願って

この紙(形代・かたしろ)で愛犬をなで封筒に入れて御嶽神社に送ると厄移しをしてくださる。
朔太郎が抵抗したため少し折れたし、毛もついた。でもこのまま送る。

御嶽神社東京都青梅市御岳山176

家から車で2時間で滝本駅へ、そこからケーブルカーで山上へ。
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神代欅

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昔なつかしいおもちゃがある参道
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歩いてやっと神社へ
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これはオオカミなんでしょうか
北村西望の作で、神狗だそうだ。かみいぬ!
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資料館
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畠山重忠像



国宝・赤糸威大鎧 (あかいとおどしおおよろい)
社伝では畠山重忠が奉納した鎧で、平安後期の優れた作品である。日本三大鎧のひとつといわれる。
日本三大鎧というので調べてみたが、わからない。予測では
瀬戸内の大三島にあった大山祇神社の源義経奉納の赤糸威鎧、あとひとつは
厳島神社の伝平重盛奉納の紺絲威鎧(こんいとおどしよろい)だろうか。
それならば、これで全部お目にかかることができた!

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本殿からの景色 東京がみえる
東京守護の神社と言われる所以である。
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昼食をとった御師さんちの蕎麦屋さんの神殿
お犬様がかわいい

御嶽神社

祭神 神社の由緒を参考
櫛真智命(くしなちのみこと) 知恵・占術・学問
大巳貴命(おおなむちのみこと)大黒様・農耕漁労開運招福
少彦名命(すくなひこなのみこと)恵比寿様 福の神
廣國押武金日命(ひろくにあしたけかねひのみこと) 安閑天皇
日本武尊(やまとたけるのみこと) 九州・関東を平定     

景行天皇のときにヤマトタケルが御嶽神社に武具を奉納、そのとき「武蔵」という
国号が起こった。
天平8年(736)行基が東国鎮護のため蔵王権現を勧請した。その後戦乱で社殿が荒廃した。
平安時代の延喜式神名帳には
「大麻止乃豆乃天神社」(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記されている。
文暦元年(1234)大中臣国兼が霊夢をうけ、御嶽山に登り社殿を再興した。
以後修験の場として崇敬あつく慶長10年(1605)大久保長安が普請奉行となり本社が造営され
江戸城西方の鎮護の社となった。明治後「御嶽山蔵王大権現」から「武蔵御嶽神社」に改められた。


ご眷属はオオカミである。
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御嶽神社の護符


大麻止乃豆乃神は地主神だそうだ。櫛真智命と同一神と思われ天香具山の神様で占いの神である。
廣國押武金日命は、明治後に安閑天皇と蔵王権現が同一にされたことから祭神になったと思われる。
なぜ蔵王権現と安閑天皇が同一とされるのかわからない。

奈良の金橋神社のいわれである。
金橋神社
ご祭神 安閑天皇
鎮座地 奈良県橿原市
曲川町字北の垣内1143
創建は明らかではないが、明治維新前は蔵王権現と呼ばれたという。
「本朝神社考」の吉野郡吉野町吉野山の金峯神社の項に「世伝金峯山権現者、勾大兄(まがりのおおえ)広国押武金日(おしたけかなひ)天皇也」とあるが、この社地が古来、安閑天皇の宮跡伝承地といわれてきた関係上いつのころかこの地方の先人によって天皇の神霊をここにまつったとみられる。

宮跡に蔵王権現が祀られたために同一とされたのだろうか!?

廣國神社のHPにこうある。

「江戸初期の学者林羅山の著した『本朝神社考』の、吉野山の金峯神社の項に「世伝金峯山権現者、勾大兄(マガリノオオエ)広国押武金日(ヒロクニオシタケカナヒ)天皇也」と記されており、安閑天皇(廣國押武金日命)の御霊を蔵王権現と同じと考えられた。
その後に記された『和漢三才図会』(1713年)には、「然ルニ俗ニ傳ヘテ曰ク 人皇二十八代 安閑天皇崩後 至四年宣化天皇三年 現干金峯山告人曰 吾是広国押武金日◯也 仍知権現乃安閑天皇也牟」と記されているように、金峯山に現れた蔵王権現が、自ら吾は広国押武金日命(安閑天皇)なりと名乗ったと云われています」

蔵王権現が自ら「我は安閑天皇でーす」と名乗ったから。

安閑天皇の奥様は「春日山田皇女」
できる女だったようで、安閑死後、天皇になってくれるように依頼されている。
お断りをしたのだが、関東の春日部市の地名の由来に関係している。
昔々現在の春日部あたりに皇女の部民が住んでいたからだという。
確証がなかったので、今では鎌倉の春日部氏が住んだことになっているが。

結局 なぜの答えにはならなかったが、蔵王権現は私流には鉱山系の神である。
安閑天皇と鉱山の関係を紐解けば・・・・むつかしい・・・・
by gannyan1953 | 2013-11-14 11:14 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

妙義神社 

歴史と素適なおつきあい番外編           2013・11・1
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妙義山

中山道を歩いたときその山塊に怖さを感じた。
ぐるりと妙義山をまわるようにして中山道を歩く。
妙義神社を訪ねてみたかったが街道歩きなので余裕がなかった

戸隠、長野の帰りに寄ってみた。

妙義山神社  群馬県富岡市妙義町妙義6

祭神:日本武尊・豊受大神・菅原道真・長親卿

創建は、宣下天皇2年(537)と伝わる。現在の社殿は、宝暦年間(1751〜1762)の改修によるものである。 古くは波己曽(はこそ)神社といい、「日本三代実録」に記載がある。

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本殿きれい!
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ピッカピカ
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本殿を右に行くと小さな祠が
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古い灯籠でした
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まるで磐座のようだった
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妙義の天狗さん  でかい!!

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山中にある神社だけど波の模様かな


天狗といえば古代製鉄の地かもしれない。

妙義神社と鉱物(鉄・水銀)とのかかわり

日本武尊の足跡に
「埼玉県と群馬県境を流れる神流川(語源は鉄流川と言われている)沿の鬼石の製鉄地を手中に収め、妙義の白雲山に主神として名を残している。」(週間上田より)

とある。
もとは波己曾神(はこそ)が祀られ、波己曾神社から妙義神社に名が変わった。
波の模様は
波己曾の波なのか?!
妙義山の中の白雲山周辺の地は「七波己曾」と呼ばれ、
山麓に波己曾神社が分布して、丹生津姫を祀ったともいう。
水銀がとれたのだろうか。

丹生津姫は豊受大神に代わり、
波己曾神は日本武尊になったのか。

妙義山の中の金洞山には、日本武尊が、金鶏山には菅原道真が祀られている。

波己曾神とは?
天狗といわれている。コソがあるので渡来系の神なのか。
妙義から富岡にむかう途中丹生地名があり丹生神社もあった。
多分金属神だと思う。



by gannyan1953 | 2013-11-01 22:18 | 神様の話 | Comments(0)

鉢形城址

歴史と素適なおつきあい 番外編      2013・11.1

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鉢形城


 鉢形城は、深沢川が荒川に合流する地点に立地しているため、地形上、東南北側は堅固ですが、
西側は開けており防衛上の弱点となっています。
そのため、城主の居館や上級武士の館のあった本曲輪から西側に何重 にも深い堀切を行い、
二の曲輪・三の曲輪などの曲輪をいくつも造成しました。
さらにその外側には寺院を密集させて寺町とし防備を厚くしました。


大手の位置は、城の西側で、城の拡張とともに移動しましたが、
最終的には現在の諏訪神社の南側付近にあったと考えられています。

各曲輪は、堀と土塁で囲まれるほか、主要な出入口には方形の馬出を備えており、
曲輪ごとに部将が定められ管理をまかされていました。
また、城の外側は周囲の小河川を上手く取り込み、水堀としていました。


 深沢川の南側には、後に城を拡張して外曲輪を造成し、下級武士の住まいなどとしたほか、
さらにその南側に城下町を形成し、城の守りを兼ねさせていました。(説明板より)



妙義神社の帰り道、鉢形城があったので寄ってみた。

鉢形城は戦国時代の城跡で、公園になっていた。

なんだかとっても大きい。車でズンズン進める。


築城したのは長尾景春と伝わる。

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城跡から荒川を臨む

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長尾景春

関東管領山内上杉氏の家臣である。

父・景信が亡くなり白井長尾家を継ぐ。

ところが、父の上杉家家宰の地位を継ぐことができず、不満を持って反乱を決意する。

そのときこの鉢形城を築城したという。

文明7年(1475)鉢形城に籠り、翌年6月に反乱を起こし、関東に戦線を拡大した。

そこに太田道灌(道灌の母は景春のおば)が関東に進出、景春は追い込まれて秩父に逃走する。

長尾景春の乱という。

そのあとも古河氏の援助を受けたり、伊勢瑞雲(北条早雲)と同盟を結んだりしてきたが、
最後は駿河今川氏に匿われて客死した。

早雲は景春を「武略・知略に優れた勇士」として賞賛したという。

鉢形城
長尾景春のあと、小田原後北条氏に整備拡大され、上野国の拠点となった。
永禄12年(1569)武田信玄に攻められる。
天正2年(1574)には上杉謙信が城下に火を放っている。
天正18年(1590)小田原征伐がはじまり、
前田利家、上杉景勝、真田昌幸、島田利正、
徳川家康、浅野長政、本多忠勝、鳥居元忠(戦国時代の有名人ばかり)
35000人の兵に囲まれ、
1ヶ月の篭城ののち開城した。
このあと秀吉軍は八王子に向かった。

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諏訪神社

鉢形城の家老だった諏訪部遠江守が信州から分祀したという。


参考:ウイキペデイア



by gannyan1953 | 2013-11-01 16:22 | 埼玉県の歴史散歩 | Comments(0)



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