歴史と素適なおつきあい

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閑静な渋谷の歴史散歩

歴史と素適なおつきあい

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 渋谷金王丸

ハチ公前集合10時〜14時 昼食は国学院大学レストラン


東福寺〜金王八幡宮〜豊栄稲荷〜氷川神社〜塙保己一資料館〜吸江寺〜白根記念渋谷区郷土博物館

渋谷一族は谷盛七郷(渋谷・佐々木・赤坂・飯倉・麻布・一ッ木・今井)を
領有し渋谷の地名の由来となった
義経を暗殺しようとした土佐坊は渋谷金王丸なのか?
塙保己一とグラハム・ベルそしてヘレンケラーとの関係は?
剣客商売秋山小兵衛の無外流とは?
若者の街渋谷の昔と今



渋谷山 東福寺 天台宗 (渋谷区渋谷3−5−8)
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東福寺は金王八幡宮の別当寺として建立され、渋谷区最古の寺院といわれる。
梵鐘の鐘銘によると、のちに源頼朝が修復し渋谷山 東福寺とした。この梵鐘には宝永元年(1704)の銘があり、金王八幡の縁起など渋谷の歴史が刻み込まれている。
当時は渋谷の地名を 谷盛庄と呼んでいたことがわかる。

金王(こんのう)八幡宮 渋谷区渋谷3−5−12
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祭神:応神天皇
渋谷駅東側、宮益坂をはさんだ小高い場所に渋谷城があった。城跡には「金王八幡宮」がある。
社伝によれば寛治6年(1092)渋谷氏の祖河崎基家(渋谷重家)によって創建された。
その息子の金王丸の名から金王と称されるようになった。
現在の社殿は、徳川家光が跡継ぎにきまった時、守役の青山忠俊と乳母の春日の局が慶長17年(1612)に造営したといわれている。
その後、度々修理されたが、江戸時代前期から中期にかけての建築様式をとどめている。
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鎌倉時代の神輿


このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、居館を囲んでいるうえ、かつては数箇所に湧泉があるという好条件を備えていました。しかしその居館(城)は大永4年(1424)、北条氏と上杉氏の合戦の時、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。渋谷区教育委員会
境内には金王桜がある。一重と八重の花が一本の木に咲く珍しい桜で頼朝が植えたといわれている。

豊栄稲荷(とよさかいなり)(渋谷区渋谷3−4−7)
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鎌倉時代金王八幡を創建した基家の曾孫渋谷高重によって現在の渋谷駅近くに祀られた。
渋谷川が渋谷城の堀に使用され文化の頃までは「堀の外稲荷」と称された。
その後「田中稲荷」「川端稲荷」とも称され、昭和31年道玄坂にあった豊澤稲荷と合祀された。
豊澤稲荷は、元は猿楽町の京極家下屋敷に祀られていたが、明治になって道玄坂に移され、さらに昭和36年区画整備により、金王八幡ゆかりの社ということで現在地に遷座した。

氷川神社 (渋谷区東2−5−6)
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祭神:素戔嗚尊・稲田姫命・大己貴尊・天照皇大神
古くは氷川大明神と称し、渋谷村、下豊沢村の鎮守であった。
景行天皇のころ日本武尊東征のおり素戔嗚尊を勧請したと伝わる。のちに、弘化年中(810〜823)慈覚大師が宝泉寺を開基し別当になった。正徳3年(1713)に宝泉寺が出火、史料が焼失した。境内に土俵があり、江戸時代「郊外の三大相撲」として大井の鹿島神社、世田谷の宮坂八幡神社と共に人気があった。かつてご神木の松があり「常磐松」とよばれ常磐御前が植えたという伝説が伝わる。現在の社殿は昭和13年氏子町内の寄付で造営され戦災にもあわず残った。

塙保己一(はなわほきいち)資料館・温故学会会館(渋谷区東2−9−1)入館料100円
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温故学会会館は、「群書類従」版木(国・重要文化財、17,244枚)を管理・保存する目的で、斎藤茂三郎初代理事長が渋沢栄一、三井八郎右衛門ら各界の著名人に呼びかけ、全国からの協賛を得て、大正15年8月に着工され、昭和2年3月に完成。震災の経験を生かし堅固、耐震耐火を基本として建設された。
郡書類従を編纂した塙保己一とは
延享3年(1746)に武州児玉郡で生まれ幼くして視力をなくす。検校について按摩・鍼・音曲を学んだが上達せず絶望のあまり自殺まで考えたが、雨富検校に救われ、学問がしたいと話した。
雨富検校は保己一の学問の才能を見いだし、あらゆる学問をさせた。天明3年(1783)検校となり、記録や手紙にいたる様々な資料、歴史史料を蒐集編纂したものが「郡書類従」である。
ヘレンケラーの両親は「塙保己一を手本にしなさい」と教育したという。1937年にヘレンケラーはここを訪れ、保己一の木像に手を触れ、感謝とお礼の言葉を語ったという。
ヘレンケラーの両親が保己一のことをどうして知ったのか
電話を発明したベルは三代続いた唖者の教育一家だった。それでヘレンケラーが6歳のとき両親から相談を受けた。このときベルはサリバン女史の紹介と保己一のことを話したそうである。
グラハム・ベルは保己一のことをどうして知ったのか
日本人留学生井沢修二はベルの元で視話術を学んでいた。そのときベルに詳しく保己一のことを話したという。のちに井沢は盲唖教育に力を注ぐ教育者となり、唱歌「紀元節」の作曲者である。

普光山 吸江寺(きゅうこうじ)臨済宗(渋谷区東4−10−33)
慶安3年(1650)麻布桜田町に石潭良全(せきたんりょうぜん)によって開基。二代目神州良紙の時、渋谷に移った。板倉家累代(安中藩・新島襄出身地)の墓があり、当時茶を通じ大名たちが出入りする寺であったという。開基の石潭良全が近江の辻月丹(江戸時代の剣客・慶安元年1648〜享保12年1727)に禅を教え「一法実無外 (一法実に外無し) 乾坤得一貞 (乾坤一貞を得) 吹毛方納密 (吹毛まさに密に納む) 動着則光清 (動着すれば光清し)」という偈(げ・禅宗の仏の教え)を与えたことにより辻月丹は、無外流を開いた。麻布にあった頃のことである。
誓詞によると、1万石以上の大名32家、直参156人、陪臣930人とある。柳沢吉保も門人だった。
土佐藩では山内容堂はじめ上士が学ぶ剣法で、幕末まで続き坂本龍馬も土佐で学んだといわれる。
新撰組の斉藤一、池波正太郎・剣客商売の主人公秋山小兵衛、大治郎親子、ほかに映画の「雨あがる」で、主人公三沢伊兵衛が無外流の使い手として設定されている。映画では、無外流居合の基本の形が使われた。

白根記念渋谷区郷土資料館 (渋谷区東4−9−1)
渋谷区議会議員の故白根全忠氏より寄贈を受け、「渋谷区立白根記念郷土文化館」として1975年に開館した。渋谷の地理・歴史・民俗などを総合的に学ぶことができる。

常磐松の碑
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伝説では常磐御前が植えたという。近くの渋谷城主金王丸が源義朝、頼朝2代に仕えたので生まれた話なのかもしれない。このあたり御料牧場でその前は島津氏の土地だったが常磐松は名木として人気があった。

金王八幡宮参考資料(渋谷庄を訪ねてより)

渋谷氏


桓武平氏秩父氏の流れで、東京都渋谷、神奈川県綾瀬、藤沢、大和あたりに勢力があった。
のちに薩摩島津氏とともに移住した一族は東郷氏(東郷平八郎)、入来院氏、祁答院(きとういん)氏となった。
基家が前九年の役の恩賞に渋谷郷渋谷庄(東京都渋谷)を賜り、川崎冠者といわれた。
基家をさかのぼると、先祖に良文がおり、平将門の父良将と兄弟で将門の叔父である。将門の乱のとき、良文はどちら側だったのかと調べてみると、将門とは敵対していなかったようである。伝承ではやさしい器量のよい人で、923年良文36歳のとき醍醐天皇より関東の賊を討伐せよとの勅命に藤沢市あたりを本拠として賊を滅ぼしたという。村岡郷(藤沢市)のことで良文は「村岡五郎」とよばれた。基家の子重家は、渋谷氏を賜り、渋谷にある金王神社あたりに城をもった。この金王 神社はのち金王丸の出現により金王八幡宮といわれるようになった。領地は、横浜小机をへて、重家の子重国が高座郡渋谷に進出する。時代は頼朝挙兵前で、平氏か源氏かと迷う時代になっていた。

渋谷重国

佐々木氏庇護の背景として、重国の領地渋谷は現在の海老名東部にあたり、昔国府があったといわれる場所である。当時、国府は大住から淘綾(ゆるぎ)に移っていたが、国府時代の古道は、太平洋側の道より逃避行にむいていたと思われる。
佐々木氏が源氏方についたとき、渋谷重国は石橋山合戦で頼朝征伐軍(平氏)として戦うが、のち鎌倉幕府(源氏)に服属する。頼朝の死後、重国の二男高重は、武蔵七党横山党の横山時重の娘を妻にしていたことから和田合戦では、義盛方(反北条)についた。
渋谷氏はこの和田合戦の後、勢力が衰退する。が、細々と続いていたようである。
重国の長男は鎌倉方につき、のちに薩摩に移住、島津氏と並ぶほどになるが、戦国時代に島津氏に服属する。早川城には重国の四男重助の末裔、石川氏がいた。後北条に仕え、「石川衆」と称され、家康江戸入府時には石川重久が城主であった。
渋谷の道玄坂に、和田一族の大和田道玄が寺をつくったといわれる。地名の由来である。名所図会には和田の残党がこの坂道の窟に住み山賊を業としたとある。渋谷氏と和田氏は全く関係がないとはいえないかもしれない。

渋谷金王丸

渋谷重国の兄弟といわれるが、定かではない。
平治の乱で敗戦した義朝一行は、近江、青墓(大垣)、舟で愛知県知多の野間の長田忠致(おさだただむね)の屋敷へと平治物語にはある。
なぜ野間に向かったのか!長田氏は源義朝の家来、鎌田正清の妻の実家であった。道中4人といわれ、義朝、正清、金王丸ら は、馬、馬具の調達を頼み、急いで東国に落ちのびるつもりだったが、「ゆっくりしていけ」と長田忠致に引き留められる。実は長田は義朝を裏切るつもりであった。
鎌田正清は山田城主である。都筑区山田神社の地にあった。
義朝は金王丸に背中を流してもらい湯につかっている。正清は酒の歓待をうけていた。
金王丸は刀をもってはいっていたため、長田の郎党は襲うことができない。金王丸は着代えがないので郎党に声をかけたが返事がない。長田の郎党は、あえて着代えは用意しなかった。しかたなく金王丸は、着代えを取りに外にでた。
そこへ、長田の郎党たちが義朝を襲い殺してしまう。正清は異変に気付き、かけ出すが郎党に囲まれ殺される。正清の妻は自らの父の裏切りを嘆き、夫の後を追う。
金王丸は急いで戻って戦うが劣勢になるや、馬で飛び出し京都まで戻る。義朝の愛妾常盤御前に知らせ、僧となって義朝の菩提を弔うことになる。

知多半島の野間には役小角が創建、中興が行基といわれる野間大坊がある。のちに頼朝はここに父義朝、自分の助命をしてくれた池の禅尼、鎌田正清夫妻の供養塔を建てた。

ここからは金王丸と昌俊は同一人物か定かではないことを前提に話を進める。

金王丸は興福寺の衆徒となり土佐坊昌俊と名乗る。大和国で乱暴を働き土肥実平に捕えられた。
が、頼朝は昌俊の義朝への忠誠心にうたれ、家臣として迎えた。鎌倉の雪ノ下に屋敷跡がある。
頼朝と義経との仲が悪くなり、土佐坊は京都堀河の義経屋敷を襲うよう暗殺を命じられる。いきさつは、誰も義経暗殺を引き受ける者がいないので、自ら申し出て、下野にくらす母親の面倒を頼朝に依頼したという。が、暗殺に失敗し鞍馬山に潜むが、義経郎党に捕まり、六条河原で斬首される。
この土佐坊昌坊は常盤御前に知らせに行ったとき、常盤御前と三人の子の都落ちを涙で送ったというが、果たしてその子義経の暗殺に向かうだろうかと疑問視されている。他説に、義経は父の郎党だったことから、逃がしたともいわれている。
金王丸の話は、
謡曲「正尊」、浄瑠璃「御所桜堀川夜討」にある。


参考HP:東京散歩・散策 金王八幡宮 塙保己一資料館 無外流兵法譚 渋谷氷川神社
    鎌倉散歩 ウィキペディア 歴史と素適なおつきあい「渋谷庄を訪ねて」
参考書籍:「相模のもののふたち」
by gannyan1953 | 2013-12-28 18:24 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

象山に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編     2013.10・30

戦争遺跡 松代象山地下壕 松代町松代1460−3 
 
代官町駐車場(無料)を利用史徒歩8分 入場無料 

観光バスで立ち寄る人が多かった。
象山は佐久間象山は「しょうざん 」土地の人は「ぞうざん」という。
松代は佐久間象山の出身地である。

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象山地下壕入り口

太平洋戦争末期、本土決戦最期の地として大本営、皇居、政府機関などをここ松代に移築することに決まった。
皆神山と象山と舞鶴山に地下壕を碁盤の目のように掘削(くっさく)した。

皆神山は崩れが多く断念して、舞鶴山は皇居になり、現在気象庁精密地震観測室になっていて非公開である。
象山には政府機関、日本放送協会、中央電話局が入る予定だったが、80%掘削したところで敗戦になった。
工事は昭和19年11月11日に始まりダイナマイトを使って、9ヶ月の突貫工事が行われた。
かかった費用は当時の金額で1億とも2億円ともいわれている。

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入り口右にある平和祈年碑

工事には、朝鮮人や近所の国民学校の児童をふくむ人々が動員され犠牲者もでたという。
朝鮮人労働は強制労働という暗い影はなく、賃金も支払い、食料も多く供給されたという。
学徒動員された日本人は無償で働いた。

戦後象山地下壕を戦災孤児のために利用しようという動きがあったが
実現はなくそのまま放置された。

松代が選ばれた理由(ウイキペデイア参照)
  1. 本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場(長野飛行場)がある。
  2. 固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。
  3. 山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち、広い平野がある。
  4. 長野県は労働力が豊か。
  5. 長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。
  6. 信州は神州に通じ、品格もある。
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取り残されたロッド








by gannyan1953 | 2013-12-11 22:03 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

皆神山に行ってきた①

歴史と素適なおつきあい番外編              2013・10・30

パワースポットの旅
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皆神山


松代にある標高659メートルの溶岩ドームの山で山頂に皆神神社がある。
松代群発地震の震源地だった。
昭和40年(1065)東京オリンピックの翌年だ。ここから2年間1日に300回から1000回ゆれたという。

皆神山の地下3〜5キロが震源地で火山でもないこの山がなぜゆれるのかわからなかった。
昭和59年(1984)サンデー毎日が皆神山の内部の中心部に
縦3km、横1、6km、深さ400mの楕円形の空間があると報じた。
通産省・地質調査所の調査結果からの報道である。
編集部は自ら地質を専門家に調査依頼した結果、
もろい岩石ばかりで構成され、水源、水脈はないという結果になった。
このもろい岩石がゴロタ石のことである。

第二次世界大戦時には、大本営をここに移すべく、多数の地下壕が掘られた場所でもある。
最初に軍部はこの皆神山に天皇の御在所を作るため掘っていたのだが
崩れが多くあきらめたという。なぜ軍部は皆神山に固執したのか。
古代から霊山と親しまれ何かしら不思議な力を感じる人が推奨したのだろうか。
この山の周辺には神社が多く存在しレイラインも発見されている。

だが、興味をそそられたのは、この山が世界最大のピラミッドといわれているからである。



皆神山はピラミッド!

エジプトのピラミッドではなく、古代に祭祀を目的とした人工の山のことである。
超古代史の本には宇宙との交信基地とまで書いてある。


それがこの説明書である。駐車場にある。
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「皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動の抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼(最後のウルム氷期の終末期で東・南信の氷解水による)となっておりその岸のゴロタ石堆積土砂石を浮揚させ空間移動させるといったダイナミックな方法でした。
この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮=ねじれ摩擦現象=起電=電流発生といったダイナモ機能山塊となり、電磁波が生じ、この磁力と重力制御(反重力)により物体(電磁反発飛昇体)が垂直に離着陸するようになったのです。古文書に出てくる<天の羅摩船>等がこの飛行体です。
皆神山は,古い古墳時代や弥生時代更に遡っての縄文時代やエジプト・インダス・黄河・シュメール各文明よりずっと古い、今から2~3万年前(浅間山、焼岳ができたころ、飯代、妙高、富士は約九万年前)の超太古ともいうべき遠い旧石器の時代に造られました。(人工造山=ピラミッド、ピラミッドはギリシャ語源で三角型のパンの意。)」
「 この皆神山を造った人間は、古事記に出てくる須左之男命(自然主義的な科学技術者の集団の総称)で現代科学とは全く異質ではるかに優れた高い知的能力をもつ人類でした。(旧人ネアンデルタール人系)」
「 では、何のために造ったかというと、墳墓ではなく地球上の各地や、宇宙空間への航行基地として造られたのです。」
超太古の宇宙航行基地である皆神山の祭神は従って高度の知的能力集団でみんな宇宙航行や宇宙基地に関係する次の四神です。」
「熊野出速男命・・・宇宙船<天の羅摩船>等の航行の技術、管理を引き継いだ最後の集団で、北信地方の開拓祖神」
「少名毘古那神・・・宇宙船で皆神山航行基地を離着した大国主命の参謀集団」
「泉津事解男神・・・皆神山航行基地をはじめ、全宇宙基地を管理した集団」
「速玉男神・・・地球周回軌道の人工衛生(宇宙航行の中継基地)の技術者集団」
「このように皆神山は、神々が活躍した基地であり、宇宙船で現れたり姿を消したりしたので自然人たちは、神聖な山=高天が原として崇め、後世に伝えたものです。


以上看板の内容である。
何度読んでも私には理解できないが・・・・

神社には王仁三郎の碑もある。


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この人物もなかなか面白い人である。

出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)
明治4年(1871)- 昭和23年(1948)年は
新宗教「大本」の二大教祖の一人。
金神(こんじん)という、怖れられていた神を祀る宗教で、その中から
大本教を出口ナオが教祖、その娘婿王仁三郎が立ち上げた。
予言者といわれ、国からの弾圧、内部からの批判などいろいろあったようだが、
この人がこの皆神山は「素晴らしい!」と言っているのである。

信濃國皆神山■

 信濃の國松代町の郊外にある皆神山は尊い神山であって、地質学上世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である。
四園は山が十重二十重にとり かこんで、綾部、亀山の地勢と些しも違はぬ蓮華台である。
綾部は日本の山脈の十字形をなせる地で、これは又世界的であるだけの違いである。
大石凝眞素美翁 (おおいしごりますみ:言語論、宇宙論、進化論を含む霊学体系と、神秘的な学説によって、古神道復興と神道霊学成立を為した人物。)は、
この地に帝都をおかれたならば萬代不易の松の世を現出することができると主張し、
世界中心遷都論を称へて囹圄(れいご:牢屋のこと)の人となった事実がある。
眞澄翁ばかり でなく他にもそういう説を唱えた人があるが、
最近飛行機が盛んになるにつれて東京は安全の地ではないと云う見地から、
信州遷都論が一時或有志によって伝えられた事があるが、
まったくこの皆神山は蓮華の心(しん)に当って居るのだから、
四方の山々に砲台を据え付けてさへ置けば、如何なる飛行機をもってしても
襲ふことは出来ぬ安全地帯である。

こんな要害のよい所は、世界中他にない。
霊界物語にある地教山は此山である。
素盞鳴命(すさのおのみこと)が高天原なる 天教山より下り、母神の坐(まし)ますこの山に
のぼりたまふた事実も、そっくりあの通り出て来たのである。
私は明治三十一年高熊山にて修行中、神懸りになって、一番につれて来られたのが
天教山の富士山と、この皆神山とである。
霊界で見た山はこれよりもずっと大きく美しかったが、
大体の形は今見る のと些しも違はぬ。眼下に見ゆる大溝地(おおこうち)、あの形に型取って金龍海(大本教内の池)は造ったのだ。
十五丁目から頂上まで僅か三丁(1丁=60 間≒109m)であるけれど、霊界で一里以上(1里=36町≒3.927km)に見え、神界では百里以上に見えた”世界十字に踏みならす”の御神諭も大い に味はふべき事である。神代歴史にある地名は皆此処にある。天孫の降臨地と云ふのはここの事であって、其昔の天教山(今の富士山)は印度(インド)のヒマ ラヤ山(地教山)の三倍以上の高さを持って居た事は嘗て話しておいた。(霊界物語舎身活躍子の巻第一章参照)即ち雲表高く聳えて居たので、ここを高天原と 云うて居たのである。その高地から降って、この地に来られたのを天降られたと云ふのである。
邇邇藝之命(ににぎのみこと)より神武天皇迄は実に百三十六万 年の年月を経過して居るのである。この山は政治地理的に云えば、長野県埴郡豊栄村に属し、御祭神は熊野出速雄の神で、綾部の産土神(うぶすなかみ)と同じである。往昔素盞鳴の命がこの山で比良加を焼かれたのが陶器の初めである。私も帰るとこれを記念に新しい窯を築いて陶器を初めるのである。


という内容で残念ながらちょっと意味不明。
ここにあるレイラインと同じ意味だとは思うが。


カゴメ之宮
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カゴメ之宮とは

「昭和四拾九年一月二三日、旧暦一月元旦、国常大神お立ち上りの神示あり。
諏訪大神より、二月五日節分から信州神業に発てと神示を受け、二月六日大雪の聖山神 社へと向う。

「皆神山へ行け、元の元の大元の大神様のお立ち上りと成りた。コトの大事の秘められ し、その頂上なるの神のご出現じゃ。」と神示あり。

ついで戸隠中社に於いて「この信洲、神の洲と書いて、神洲と読むことを知っているか、皆神山へ参れよ。」
と神示を受け、翌二月 七日積雪の皆神山に初登山をする。

皆神山神前にて午前十時入神状態となる。
大勢の神々参集されたなか、神業は新しい 大神様地上神界天降りを出産の型で示され、戴冠式の形となり全ての神儀終りは正午、こ の皆神山は古代より地球上において、神界で選ばれた唯一の聖地であり、宮も又同じなり。

天地カゴメ之宮は、上に元津御祖大神、また、ヒマラヤから国常立大神の元津神霊を宮 の御大将と迎え、
日之出大神はじめ天地八百万の神々、竜神眷族、モーゼ、キリスト・ギ リシャ神話の神々に至るまで参集され、
現在は伊都能売神業にあり。
此度神々 守護のため宮の建立を許され、ここに謹んでお受け致した次第を印す。」

また意味不明であるが、とにかく不思議な場所で

ドB級スポット推薦!!

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何だろ? 井戸かな?

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底なし沼といわれている。非常に不思議な美しい池である。
道路より上に盛り上がるように水位が高く、目の錯覚なのか全く不思議な沼である。
クロサンショウウオが棲息しているという。

皆神山に行ってきた②へ続く
by gannyan1953 | 2013-12-11 21:59 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

皆神山に行ってきた②

歴史と素適なおつきあい番外編  2013.10.30

パワースポットの旅

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これが皆神山への入り口

道はせまいが車で頂上の神社へ向かう

熊野出速雄神社(皆神神社)
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どう見ても神社ではなく寺だった。
この横にある底なし沼が神秘的。もう一度画像を。
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神社の栞から

御鎮座地
 皆神山は、長野市松代町の東南に位置し、川中島平を一望に収める絶景地である。近年 新日本百景の一つに挙げられ、松代群発地震の震源地として世界的に有名になった。形状 が円錐形の見事な独立山のため古来より霊山として信仰の対象となり、最近では世界最大 最古のピラミッドであるといわれている。標高六七九メ~トル、山麓の周囲は約八キロ、 山頂は中の峰・東の峰・西の峰に分かれている。

御祭神
 出速雄命(いずはやおのみこと)
 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
 伊邪那美命(いざなみのみこと)
 速玉男命(はやたまおのみこと)
 豫母都事解男命(よもつことさかのおのみこと)
 脇座に舒明天皇(じょめいてんのう)・古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)

御由緒
 奈良時代養老二年(七一八)出速雄神社を奉祀と伝えられる。
 中世以降修験道が盛んとなり、熊野権現を勧請、大日如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩の三仏 を各峯に安置し熊野三社大権現と称した。
 境内社の侍従神社に鎮まる侍従大神(じじゅうおおかみ)は、佐久の内山城主内山美濃守 満久の三男下野守三郎満顕であり、十三歳にして鞍馬山に入り密教を厳修、その後各霊山 を巡り、内山氏滅亡のとき皆神山に入山、大日寺和合院宥賢と称した。後に侍従天狗坊と 名乗り、皆神山の修験を完成させた。
 弘治二年(一五五六)七月十四日入定、在りし御影を木像に写して侍従坊大天狗明王と祀 った。正親町天皇永録・元亀の間(約四百四十年前)と伝わる。
 北は戸隠、南は皆神山と修験道で長いあいだ栄え、先達和合院は皆神山八合目からうえ を領し、聖護院(京都・本山派山伏の本山)より川中島四郡(埴科・更級・水内・高井)の年行事 職を命ぜられ、更にはほぼ信濃全域の本山派山伏の支配権を得ていた。
 明治初期の神仏分離令・廃藩置県により山伏は全部が還俗、一切を上知し和合院も廃す るにいたり、出速雄命と熊野の神を熊野出速雄神社、侍従坊は侍従大神と奉斎した。

御神徳・御社殿
 主祭神である出速雄命は、当地方開拓の祖神として天下の泰平と五穀豊穣をもたらす神 として崇敬される。現在の御社殿は康応元年(一三八九)の再建と伝えられ旧埴科郡中最古 の建造物といわれる。撞木造とする古い修験道の建築に認められる特徴が残っている。
 侍従大神は「児育て・寿命・火防の神」として信仰され、この地方では子供を侍従坊の弟子 にすれば無病息災に育つといわれ、子供が生れれば一度は参拝している。また、相殿には 食物をつかさどり養蚕を守護する女神大宜都比売命(おおげつひめのみこと)を配祀する。 御社殿は、江戸時代後期の天保十四年(一八四三)起工、弘化三年(一八四六)に竣工した

神社名
 今から約千三百年前に御神明を奉祀、祈りと信仰の山として、霊験あらたかなりといわ れる皆神山に鎮座する熊野出速雄神社は、「皆神神社」と尊称され、広く崇敬されている。
−『参拝のしおり』−




富士浅間神社
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この皆神山がパワースポットと言われるなら鳥居越しに奥の浅間様を臨むこの場所がとてもいい感じだった。
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この浅間様の裏にある井戸  パワースポットらしい。磁場は不安定だった。

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神社横のゴルフ場からの展望

行きに見つけられなかった岩戸神社に向かう。
中腹にあった。

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横穴の入り口
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横穴の内部
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横穴の上にあった祠

皆神山中腹、俗称「一本松」の上位にあって傾斜面に築造した横穴式石室を有する積石塚で径18メートル、高さ6・3メートルである。
岩戸神社として天照皇大神を祀る。
近年、皆神山ピラミッドの入口ではないかと言われ、その奥は謎とされている。

あとがき

皆神山は「日本超古代文明のすべて」を読んで訪れたい場所だった。
気持ちのいい神様がいそうな山だった。

この本を読んで何年か前、秋田のクロマンタと青森のキリストの墓、大石ピラミッドの旅に
行ったことがある。
大石ピラミッドで、は主人のGショックという時計が、ぐるぐる回って結局壊れてしまったが、
今回は時計が壊れなくてよかった。

参考:日本超古代文明のすべて・日本文芸社 /日本のまつろわぬ神々・新人物往来社
by gannyan1953 | 2013-12-11 21:53 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

妙義神社

歴史と素適なおつきあい番外編           2013・11・1
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妙義山
中山道を歩いたときその山塊に怖さを感じた。
ぐるりと妙義山をまわるような中山道を歩くうち、妙義神社を訪ねてみたかった

戸隠、長野の帰りに寄ってみた。

妙義山神社  群馬県富岡市妙義町妙義6

祭神:日本武尊・豊受大神・菅原道真・長親卿

創建は、宣下天皇2年(537)と伝わる。現在の社殿は、宝暦年間(1751〜1762)の改修によるものである。 古くは波己曽(はこそ)神社といい、「日本三代実録」に記載がある。

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本殿きれい!

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ピッカピカ

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本殿を右に行くと小さな祠が
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古い灯籠でした

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まるで磐座のようだった


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妙義の天狗さん  でかい!!



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山中にある神社だけど波の模様かな


天狗といえば古代製鉄の地かもしれない。

妙義神社と鉱物(鉄・水銀)とのかかわり

日本武尊の足跡に
「埼玉県と群馬県境を流れる神流川(語源は鉄流川と言われている)沿の鬼石の製鉄地を手中に収め、妙義の白雲山に主神として名を残している。」(週間上田より)

とある。
もとは波己曾神(はこそ)が祀られ、波己曾神社から妙義神社に名が変わった。
波の模様は
波己曾の波なのか?!
妙義山の中の白雲山周辺の地は「七波己曾」と呼ばれ、
山麓に波己曾神社が分布して、丹生津姫を祀ったともいう。
水銀がとれたのだろうか。

丹生津姫は豊受大神に代わり、
波己曾神は日本武尊になったのか。

妙義山の中の金洞山には、日本武尊が、金鶏山には菅原道真が祀られている。

波己曾神とは?
天狗といわれている。コソがあるので渡来系の神なのか。
妙義から富岡にむかう途中丹生地名があり丹生神社もあった。
多分金属神だと思う。






by gannyan1953 | 2013-12-11 20:41 | 群馬県の歴史散歩 | Comments(0)

八幡原史跡公園から長野の善光寺さんへ

歴史と素適なおつきあい番外編     2013・10・30
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皆神山から長野善光寺に行く途中八幡原史跡公園があった。
まずはおみやげに松代名産のやまいもを購入!
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川中島の戦いがあったところなんだ。

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首塚だ
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薄暗かった

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土塁跡
帰りに松代のサービスエリアで川中島再現の公園をみた。

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川中島を再現
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海津城

長野市内に入り長野の善光寺さん参拝

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参拝客がいっぱい!!

境内では全国刑務所グッズが販売されており、そば殻枕を購入!

戸隠神社 中社にある宿坊に宿泊
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宿泊客は我々夫婦だけ。
福助さんとお福さんと対面しながら静かに熱燗をいただきました。ああ幸せです。
明日はいよいよ戸隠パワーに突入!


by gannyan1953 | 2013-12-11 18:01 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

頚椎症が辛くて手術をした

歴史と素適なおつきあい 番外編   2013・12・2
 

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2012年5月に突然発症した頚椎症
神経に食い込むとげ(椎間板が変形しとげになった骨)がわかる

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手術後神経にさわっていない状態がわかる

おかげさまで5日後には退院、軽い家事もでき、犬の散歩もできる状態になっていた。

頚椎症性神経根症の症状

はじめは寝違いと思い、肩甲骨左下の激痛で、中国整体に通った。
五十肩やぎっくり腰もここで治してもらった。

痛みは後ろから背中をナイフで刺されたような痛み。(刺されたことはないが)
激痛が走るとしばらく息も止まる。

整体4日目、手の甲のしびれで何か違うと思い、整形外科に行った。

頚椎症性神経根症とわかり、鎮痛薬のみで対症療法。

1週間ほどで、薬が効いてくると激しい痛みから常にズキズキ痛むようになる。
痛い場所は肩から左手のまわり、指の先までに広がりしびれがひどくなる。

ひと月もすると通常の生活が送れ、水中ウオーキングくらいなら
できるようになる。


痛みがなくなるまで3ヶ月飲み続けた。



頚椎症性神経根症

この病気は美智子妃殿下も患っておられ、
「私ね、高貴な方がなられる病気なの」と冗談を言っていたが。

次に2013年2月 再発!
今度はペインクリニック(関東病院)でブロック注射を打ち続けたが改善せず、
結局以前通っていた整形外科で、鎮痛剤をいただき6ヶ月飲み続けた。

そして

再再発!! 

2013年11月初め、再再発して
嫌気がさし、手術してくれるお医者さんを捜した。

近所でみつかり、北新横浜駅近くの新横浜スパインクリニックを訪ねた。
その日のうちに手術が決まり後日の手術の予約ができた。

医療法人 志匠会

新横浜スパインクリニック院長

葛西直亮医師による

頸椎前方固定術をうけ、 5日目には自宅でパソコンができるほどに回復した

手術経過
手術直後、全身麻酔が覚めたときは、予想していない痛みにびっくりした!

「痛ーーーい」と叫んだが「点滴いれてるからねえ、だんだん楽になりますよー」
という看護婦さんの声を信じて「また寝ちゃえ」と目をつぶった。

3時間後目がさめたとき 、もう痛みは少なくなっていて
それから2時間後には、トイレにもいけるようになっていた。

上からのしかかるような肩への痛みは残っていたが、
十分耐えられる痛みになっていた。

結局、術後の一瞬目が覚めたとき「痛い」と訴えたあの5分くらいが
辛かっただけだった。

葛西先生やるう!!

今は感謝でいっぱいです。

今はチタンで固定した頚椎がなじむのを
静かに見守り、待つのみなのだが、早く遊びたい。
4日で退院 お風呂もOK
術後5日目からは朝晩、ゆっくり歩く散歩もしている。

術後1週間 
一週間後、ほとんどの痛みは消え、鎮痛剤も飲まなくなった。
患部にあてていたガーゼを取り、3Aの傷を保護するテープを貼るだけになった。

肩の付根の痛み、肩こりはまだ残る。
散歩も長くなり5時間ほどのウオーキングもできるようになった。

術後2週間、水中ウォーキングを始める。その日は疲れるどころか肩の痛みが減少した。
やっぱり動かした方がいいのかも。
腕の上下運動しかしていないが。
スイミングする勇気はまだない。

洗足学園で親戚のコンサートがあり出かけた。
時々肩の痛みが辛かったが、座ること2時間十分耐えられた。
「ブラジリアンナイト」 とても楽しんできた。

術後1ヶ月半経過
発症前の痛みのない体に戻った。
つい忘れてしまうほどで、傷跡のテーピングで思い出すくらいになった。
感謝感謝!

術後2ヶ月
パソコンに向かいすぎると肩こりがある。
神経にさわる痛みではないので大丈夫。

術後7ヶ月
肩こりも体操、水泳で解消
もう手術のことを忘れる身になった

術後1年 検診も終了。
葛西先生は
「首が痛くなる人は腰も痛くなる事が多いんです。
 その時はまた来てね」
「いいえ!先生にお会いしないように頑張ります!」
と笑いあって、もうスパインにはこないことを誓った!!

葛西先生 ありがとうございました。

そろそろ2年経過・・・2015年10月16日
スポーツジムで結構きついグループキックを週2回はやっている。
ちょっと前の自分が信じられないほど・・・楽しんでます。


by gannyan1953 | 2013-12-02 12:13 | 頚椎症性神経根症の手術 | Comments(5)



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