歴史と素適なおつきあい

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中川から大山街道を辿ろう!江戸に向かって

歴史と素適なおつきあい番外編
 


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中川から富士の夕景

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あゆみが丘にあった昔の馬頭観音


 


中川〜ウトウ坂〜馬頭観音碑〜大山道立場・皆川家〜血流れ坂〜さくら公園〜川崎考古研究所〜道標のある馬頭観音〜阿弥陀仏と地蔵尊〜八幡坂〜鷺沼駅(トイレ休憩)〜宮前平の観音堂跡〜八幡神社〜宮前平駅自由昼食〜庚申坂〜宮崎大塚〜梶ヶ谷駅解散

大山街道
古代では「足柄道」といわれ、東国出身の防人たちが通った道でもある(古東海道)。
そして江戸時代「矢倉沢往還」と呼ばれ、静岡のお茶、秦野のタバコ、相模川の鮎など各地の産物を
江戸に運ぶ商業ルートだった。
大山信仰が盛んになると、「大山道」と呼ばれ大山参詣の人で賑わった。
最も盛んだったのは江戸中期で年間20万人の参詣があった。
街道の要所要所に大山灯籠が置かれ白装束の参詣客を迎えた。
ちなみに伊勢参りは年間100万人で日本人の15人に1人は参詣したことになるそうだ。
 
街道は赤坂御門からはじまり、現在の国道246号線とほぼ重なる。 
国道246号線は、大正時代に乗り合い馬車が走り、国道に昇格したのは、昭和31(1965)年である。
伊勢原の大山は阿夫利山(あふりやま)、雨降山といわれ雨をもたらし、農耕を司る山として知られ、古代より修験道が盛んな山であった。

渡辺華山の「游相(ゆうそう)日記」に大山道のことが伝えられている。
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「此地は有馬坂下にて、山多田少し。芝増上寺領、代官奥隅忠左衛門とよぶ。産物なし。村は千二百石。戸数に百。」
江田宿の桝やの主人が言うことに
 「狼近き山中来たりすみて 多く犬をとり喰う。夜な夜な往来へ出て人をうかがふとて 行人絶えてなし。
 人家も又 戸をさしかたふして出ず。」


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ウトウ坂 中川から江戸に向かう道 
後方に荏田宿に続くウトウ坂が続く


ウトウ坂
切通しにある坂、渓谷を越える坂で、全国にある坂名である。ウトウト坂、ウトウ坂、訛ってオトウ坂、現在ウトウ坂を下った右側のマンション名はオトサカである。とろとろ登るので馬子が歌を歌いながら登ったというのんびりした由来ともいわれる。
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馬頭観音碑
馬頭観音は、昭和まで街道沿いの竹やぶにあったという。あとで聞いた話では
この石は現在の馬頭観音碑の下に埋められたそうである。

大山道立場跡(皆川家)
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ここに立場があった。峠なので休憩や、馬、籠の交代をした。

血流れ坂
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血流れ坂?街道の横、標高の高い所

付近には血流れ坂、血流れ田、精進場、刑場跡、ハリツケ場、百たたきなどいかにも、刑場があったと思われる地名が残る。
(中川の地名は明治になってからの呼称で江戸時代ここは大棚村といわれた。)
「血流れ坂」という地名は、2013年「心霊スポットではないけれど、ちょっと怖い地名ランキング1位」になってしまった!

ホントかウソか調べてみた。
地元の人は昔からの言い伝えで刑場があったとほとんどの人がいう。
本で調べるとなかったという説も多い。
「港北100話」にある伝説では

「池田(中川村にある旧地名)の高台、現在竹藪のある場所に死刑場があって、前の谷戸田のことを血流田、血流坂とよぶ。
その昔牢場に罪人をいれて罪人が引き出され、おとう坂をあがって処刑された。
この場所ははりつけ場といわれ極刑の磔刑も行われた。
山を掘ると今でも白骨が出るといわれる。」


これは怖い!
そこで真面目に取り組んでみた。

ロウバの地名について
「ロウバ地名」と思われる地名が、この場所だけでなく、「鶴見川・境川・流域文化考」(小寺篤著・230CLUB新聞)によると、鶴見川周辺に多くあったことがわかった。
(詳しくは歴史と素適なおつきあい・中川と老馬参照)中川と老馬

このあたりのロウバ地名は、主に中世の城から小田原北条の時代まで、
あるいは少し遡り鎌倉幕府があったころの名残ではないかと推察した。


鎌倉時代、鶴見川流域を治めていた領主は、土豪からの領主化で、鎌倉幕府の御家人であった。
その中で渋谷氏、小山田氏など大きな領主を組織したのは後の小田原北条氏である。
江戸時代にはいると、旗本代官がこれを治め、それぞれの知行を持つものはその地を、「法」をもって治めた。

ここは鎌倉道、大山道の交差する場所で、人の行き来があるところである。
昔から境界、宿の近くには、人々への戒めのための刑場があることが多い。
江戸幕府は日光街道に小塚原の刑場、東海道に鈴ヶ森刑場をあえて通行人への見せしめのために置いている。

だから牢獄なり、仕置場のような施設はあったのではないかと考える。
新編武蔵風土記稿(昌平坂学問所により1830年完成)の編纂時にはまだ施設が存在し、
その後住民感情の変化により文字が、牢屋の牢から老いる馬に変化していったのではないか。

ひとつの歴史として受け止めたいと思う。


道標のある馬頭観音
文化2年(1805)11月の銘のあるこの馬頭観音は、かつては上有馬と牛久保の境近くにあった。
今は解読困難だが記録によれば左側面に「大山道」、右側 面に「王禅寺道」と刻字があった。
大山道から分岐して保木の薬師堂を経て王禅寺に至る道標として貴重である。
土地改良事業により現在地に移され、傍らにその経過を記す石碑がある。

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246号線にある阿弥陀仏と地蔵尊


阿弥陀仏と地蔵尊
石仏が二つあり地蔵尊は元禄元年とある。付近で、疫病が流行し幼い子供が多く亡くなった。
その供養と子育てを願って植村家の妻が中心になって建立した。

八幡坂
坂下には「出店」があり、菓子、薬、草履を売っていた。
途中「HAKURAKU]というアパート名があり、ここに伯楽という馬医者がいた。
蹄鉄を作り、馬の治療が評判高く八王子や厚木からも患者がきた。
八幡社があったのでこの坂名がついたが、今では麓の植村家に移された。

小台坂

標高が高く74.66mの三角点が小台自治会の裏にあるという。
ちなみに坂下は標高32mである。
昔は清水が湧き出て道はぬかるみ荷車は難儀したという。
明治時代には坂がきつすぎて迂回路まであった。
「上の店」があって菓子を売っていた。
観音堂の手前に「下の店」があり茶、酒、わらじなど売っていた。

観音堂跡

イヌツゲの木があった。ここに稲毛領観音第26番札所がった。
幕末に火災で焼失。観音立像は難を逃れ馬絹の泉福寺に移された。
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宮前平 八幡神社
八幡神社
庚申様の横を通っていたのが昔の大山街道である。昔の街道は現在より
2mほど高い所を通っていたことになる。
神社の石段を半分にわけ一方は土橋村、もう一方は旧馬絹村に属し
一つの社殿に両村のご神体がある。
右隣は小台稲荷である。
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三又集落

昔街道沿いにあった集落で「馬絹の枝物」で有名だった。
明治中期からはじまり、梅、桜、桃の早咲きの花木を作った。

庚申坂
この近くに庚申堂があった。
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宮崎大塚を登った所にある馬頭観音塔

宮崎大塚
高さ5.5m、径25mの方墳と推定されている。発掘調査はされていない。
武器を隠した塚とか、物見の塚とかいわれる。
戦時中は陸軍東部62部隊の高射砲が置かれてかなり崩された。 
当時150名ほどの兵隊と地方から徴用された軍馬が200頭ほどいたという。
司令部は今の虎ノ門病院分院あたりにあり、この部隊は戦争末期に、南方激戦地に移動したという。
今は住宅の中だが、かつて畑中にあったこの塚は大山道を行き来する人々に とって目印だったという。

参考:川崎国道事務所HP・ウイキペデイア ホントに歩く大山街道:中平龍二郎
   中川の地名:吉野孝三郎  港北百話:港北区老人クラブ連合会 
   鶴見川・境川・流域文化考:小寺篤著・230CLUB新聞 
   変わりゆく古里写真集・あざみ野たまプラーザ荏田の二十五年より
   大山道今昔 :金子 勤  
by gannyan1953 | 2014-02-24 10:08 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

山崎公園でタヌキをみた

歴史と素適なおつきあい番外編   2014・2・12

散歩の帰り道 よく猫がいるところで、朔太郎がワンワン!

「猫でしょ。うるさいよ」

っていってたらまんまるおめめの「タヌキ」

そんなに大きくないので「あなたラスカル?タヌキ?」

って聞いたら3mほど移動。

大急ぎでカメラだして撮った。
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残念、何も写ってない。

グレーで顔にはちゃんと毛があってタヌキ顔。
だけどお尻の方は半身毛がなくて象のようにカペカペ、皮膚病にかかってる様子。

「ちょっと,待って!」と声かけてあるだけの犬用おやつを置いてきた。
ヨロヨロ逃げて行った。

場所は山崎公園プールとグランドから車道にでるところ。牛久保2丁目7の公園の茂み。

じっと見つめられたから忘れられない。


by gannyan1953 | 2014-02-12 18:19 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

万治の石仏

歴史と素適なおつきあい 番外編   2014・2・9

叔父とご近所の母上が亡くなった。
供養に雪の石仏を作ってみた

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万治の石仏
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wikiより

万治の石仏とは

諏訪の春宮から近い場所に遷座する。
諏訪大社下社春宮に石の鳥居を造るためこの石仏の石を材料にしようと鑿をいれたら
血が出てしまった。
石工は驚いてその石に阿弥陀如来をまつったと伝えられる。
胴には万治3年(1660年)と刻まれており「万治の石仏」と名付けられた。
モアイとよく似た顔をしている。


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ゆきだるまも作った
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ご近所のそり遊び
若かったら私もやりたかった・・・・


by gannyan1953 | 2014-02-09 12:34 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

日吉本町〜高田を訪ねて

歴史と素適なおつきあい 





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下田神社     

日吉本町〜金蔵寺〜松の川緑道〜下田神社〜下田地蔵尊〜下田寿司(昼食)〜興禅寺〜高田天満宮〜高田駅

このあたりは下末吉台地の中域にあたり谷もあり平坦面が少ない。
日吉は、「神奈川県橘樹郡案内記」に「日吉丸の古蹟ありしにより起これりというも今其古蹟も何処にあるや詳(つまびらか)ならず」の記録がある。
町名は昔、字宮前にあった日吉(ひえ)(山王)社に由来する。日吉は近江国(現、滋賀県)の官幣大社日吉(ひえ)神社の分霊で山王権現ともいう。

「駒ヶ橋」は昔、往来の者が馬を乗り入れて川を渡ったから、あるいは源頼朝がこの村を通過する時、乗馬が急に走り出してようやくこの橋のあたりに止まったから「駒ヶ橋」と名付けられたと伝えられる。
下田は下田町真福寺の下田地蔵尊に因(ちな)んで名付けた。「下田」とは江戸時代の検地制度で上田(じょうでん)・中田(ちゅうでん)・下田(げでん)の区分の下田を意味する。


高田は「倭名類聚鈔」(わみょうるいじゅしょう)に「高田郷」、「小田原衆所領役帳」(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)に「高田」の記録がある。港北区ホームページより

金蔵寺   港北区日吉本町2-41-2 天台宗


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清林山仏乗院金蔵(こんぞう)寺と号し、本尊は大聖不動明王、創建は貞観年間(859〜876)。
開基:智証大師・清和天皇で、江戸時代は寛永寺の末寺であったので、別名「国家鎮護道場」という。徳川家康、秀忠から梵鐘を寄進されている。
不動は「日吉山王権現」といわれている。
札所は、関東三十六不動5番、関東百八地蔵85番、准秩父三十四観音3番、横浜七福神の寿老人がある。

日吉山王権現由来の碑

日吉は川崎市と横浜市港北区にまたがる地名で、世間では慶応義塾が日吉校舎の在地として通っている。
川崎市役所日吉出張所、日吉中学、小学校共に同市加瀬にあって旧日吉村の広がりを示している。
幕末から明治前半にかけてこの地には駒林、駒ヶ橋、矢上、箕輪、鹿島田、小倉、北加瀬、南加瀬、苅宿、木月の十部落があった。明治22年町村制でひとつの村名を決めかねた末、東の三井寺といわれた駒林金蔵寺の裏山に霊験
あらたかな日吉山王権現が鎮座され当寺第31代漢学者岩村真道師により日吉村と名づけられた。
昭和14年横浜市神奈川区に編入、昭和16年港北区となり日吉村は消えた。
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寺の奥は台地になっており弁財天など頂上まで祠が多数ある。
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裏山の弁財天
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キリシタン灯籠といわれる
キリシタン灯籠

キリシタン灯籠は織部式灯籠ともいわれ、同じものなのか定説はない。
全国に多く存在する。
織部は戦国武将で千利休の弟子で「織部焼き」を残した人物。
織部式灯籠も織部が作らせたものといわれているが、
織部がキリシタンであったかどうかも
定かではない。
織部式灯籠がキリシタン灯籠と言われるようになったのは、
大正12年(1923)頃からで、静岡の宝台院の一基に人物像があることから
静岡の教会のフランス人司祭に見せたところ
カトリックの聖人像でローマ法王の法服と似ていると言ったことから
キリシタン灯籠といわれるようになったらしい。

静岡の宝台院の灯籠にまつわる話
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静岡宝台院のキリシタン灯籠

家康の侍女ジュリアおたあが信拝していたもので、駿河城内にあった。
おたあは小西行長が朝鮮遠征のときに人質として連れてきた
朝鮮貴族の娘で行長の元で切支丹になり後に家康の侍女となった。
切支丹禁止令でおたあは伊豆大島に流され、
家康の側室になるなら許すといわれるが、拒否した。
そのため新島に移動させられ、
最期をむかえたのは神津島だった。(慶喜を歩くHP)
しかし実際には
「日本発信」1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父の書簡 に、
おたあが神津島を出て、大坂に移住して
神父の援助を受けている旨の文書があり、
その後、さらに大坂から長崎に移っており、ジュリアおたあが神津島で
死 亡したことは否定されている。
1972年韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長と
村議会議員らが、おたあの墓の土を埋葬し、石碑を建てた。
その後、おたあは神津島で死んでいないという文書が発見された後、
石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切石山の
殉教博物館内で保管することになっ た。(Wiki)
(歴史と素適なおつきあい 静岡県の歴史散歩より抜粋)

この灯籠がキリシタン灯籠の発端だった。

松の川緑道
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ヤモリ

1992年まで「松の川」が流れていた。岸辺に野生植物が咲き、子供の遊び場だった。
今ではすべてが埋められ2,1キロの松の川緑道として整備された。
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下田神社  港北区下田町3−1−4



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下田神社本殿


祭神: 伊邪那美命、天照大神、速玉男神、事解男命、天満天神
下田神社は、もとは熊野神社があった。
駒ヶ橋村の村社天照大神と、東部鎮守熊野神社と境外末社天満天神社を昭和45年に合祀、下田神社とした。
熊野社、天照大神は宝暦年間(1551-1763)以前の創建といわれる。
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摂社

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庚申様

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大六天弁財天像 元禄14年(1701)
左が蛇で弁財天、右が第六天である。
「不二道一勺武哉大六天美哉辯財天諸人神明至正道万福万福」と刻まれている
参考:鶴見川流域のくらし・横浜市歴史博物館



下田地蔵尊・真福寺  曹洞宗
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准秩父三十三観音霊場第1番
下田子育延命地蔵菩薩が本尊である。
もう一体地蔵があり、この地蔵は各地を巡行した。
明治27年の真福寺地蔵尊天井寄附連名帳によると武州多摩郡、相州津久井郡にもまわっていたことがわかる。八王子にも」千人同心をはじめ片倉、橋本の地名もみえる。
昭和15年くらいまでまわったという。(参照:加藤武雄と一瀬豊・農民文学の扉)
地蔵様の厨子のまわりにはサルボボのような「くくり猿」がおまもりとして
配られたという。
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興禅寺  天台宗   
横浜市港北区高田町1799
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薬王殿
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石幢
圓瀧山光明院と号し慈覚大師円仁が仁寿3年(853)開山。
本尊は円仁自ら刻んだと言われる十一面観音と勝軍地蔵尊である。
十一面観音は安産の仏様と親しまれてきた。
たびたびの戦渦で伽藍を失ったが元応2年(1320)当時の領主桃井播磨守直常により再興され
文化3年(1806)22世證淵和尚によって密教造りの本堂に改築された。
明治はじめ「高田学舎」を設立、多くの人が学んだ。

「新編武蔵風土記稿」に、六面に地蔵尊の刻があり考古学者は石の幢の一部で石幢(せきどう)であると、鎌倉時代文保二年直常公寄進。
堂内には本尊十一面観世音菩薩、聖観世音菩薩、阿弥陀三尊、薬師如来、不動明王、地蔵尊、十王像、七福神等、多くの仏像が安置されている。
山門の高梁には七福神の彫刻がある。
雅楽会は有名で明治時代から続く。(境内掲示参照)

武相不動尊七番、関東108地蔵霊場86番、准秩父34観音霊場27番、港北七福神の寿老人。


高田天満宮  港北区高田西3−25−1
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祭神:菅丞相霊(かんしょうじょうのれい)ー菅原道真
正中二年(一三二五)五月二十五日夜当地申酉の方より光物が現れ、しきりに震動した。
夜に至るも四方昼の如く明るく、光物は遂に当地の山中に鎮り昼夜雷光 乱れ飛び、
人々近づくことが出来なかった。
時に小蛇梅の若木の下に現れ、異香を放って正く天神に観音の垂迹と思われた。
これこそ衆生済度の方便、大慈大悲 の誓なりとて、興禅寺弁珠法印先達となり
榊の枝を取って前に置くと、小蛇は榊枝の上に留まった。
時に領主桃井播磨守直常近く之を見聞し信心止みがたく遂に社を建立せしめ、
当所一帯の氏神と仰いだという。大正六年神饌幣帛料供進社に指定された。(神奈川県神社誌より)

高台にある天満宮、UFOでもきたのだろうか。
考えるに雷が落ちた!ではないか。
稲妻はたんぼに落ちるといい米ができるといわれる。稲妻=蛇、刀剣に例えられる。
神社はよく鳴動するというが。
景色のいいところである。

近くに高田小学校がある。「天神原」(てんじんっぱら)と呼ばれている。
天満宮・高田小学校あたりは桃井播磨守直常の居館があったという。


                          





桃井直常(もものいただつね) 2度行方不明になった武将
津毛城を築城したといわれる。
1333年の鎌倉幕府倒幕に参加し。その後足利尊氏につく。
康永3年(1344)足利幕府が混乱したとき(感応の擾乱)では
足利尊氏の弟直義(ただよし)につき、畠山国清とともに
感応2年(1351)直義の実権掌握に貢献するも、直義が失脚。
そして急死し、足利直冬らと南朝につく。
南朝が疲弊すると桃井直常は孤立するが、尊氏と戦い続けた。
応安元年(1368)桃井がとったといわれる松倉城(富山)で
当時の守護越中守斯波善義将に破れ応永3年(1370)に
斯波義将らと富山の長澤で戦い飛騨に逃れたという。
応安4年(1371)飛騨の国司姉小路家綱の援助で越中に侵攻、
五位荘で破れその後の消息はわからない。
富山、群馬、神奈川に五輪塔や塚を残す。

越前丹生で生まれた孫の桃井直栓(幸若丸)は幸若舞の創始者といわれる。
幸若舞は歌舞伎、能の原型である。
by gannyan1953 | 2014-02-05 15:29 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

よこはま七福神

歴史と素適なおつきあい番外編    2014・1・1


新年早々七福神めぐりにでかけた
港北区にあってほんとは港北ニュータウンではないのだが近いので。

高田駅まで電車〜新横浜から電車で帰宅   その間12キロくらいあるのじゃないかと思う 

新羽にある石材店に並ぶ七福神
「写真をとっていいですか」と聞くと「魂ははいってないけどねー」とやさしかった。
港北七福神「ひろたりあん」より抜粋

興禅寺
興禅寺(福禄寿)  天台宗   高田駅徒歩15分

853年(仁寿3年)に創建され、本尊は十一面観音。現在の本堂は1806年(文化3年)に建立。
雅楽会が有名。


福禄寿
南極星の化身、幸福・財産・長寿の神

金蔵寺
金蔵寺・寿老人  天台宗  日吉本町駅徒歩5分

平安時代の貞観年間(859年~876年)に清和天皇の勅願により智証大師が創建したと伝わる。

寛永寺の末寺として栄え、敷地面積は2万坪を誇る。
徳川将軍家の庇護の元、江戸幕府初代と二代将軍である徳川家康・秀忠父子により梵鐘が寄進され現存している。


寿老人 

不老長寿の神


東照寺

東照寺・布袋    曹洞宗  綱島駅徒歩3分

慶安2年(1649年)に大曽根の大乗寺の三世生外意鉄大和尚によって開かれた。
本山は永平寺と総持寺で九州鹿児島の薩摩藩主、島津公の信仰が厚く、本堂内に島津斉宣公のかかれた額がある。
歴代の住職も薩摩藩の武士の出身が多くいた。
江戸の商人たちの信仰も厚く、境内にその人たちの名を刻んだ石の手洗いがある。

布袋
慈恵(いつくしみ)と和合の神、予知と金運の神

地名の由来の庚申様
                          途中新羽近くの庚申堀を通った


西方寺
西方寺・恵比寿   真言宗  新羽駅徒歩5分
  
1195年(建久6年)鎌倉に創建された寺で、1495年(明応―めいおう―4年)に現在地に移転。
本尊は阿弥陀如来。かやぶきの山門や本堂が美しい。
恵比寿
田の神、かまどの神、商売繁盛の神

菊名池弁財天
菊名池
菊名池弁財天・弁財天  日蓮宗  妙蓮寺駅徒歩3分

平安時代より灌漑(かんがい)用水として大切にされてきた。池には龍神伝説がある。


菊名池弁財天の七福神

弁才天 (弁財天)
弁天さま、女神、音楽の神、芸事の神、財宝の神


弁財天が祀られたのは夢を見て祀ったそうだが。この菊名池の龍神伝説を調べても内容がわからない。

ところがだいだらぼっちが菊名池を作った。かっぱも大蛇もいたという話がでてきた。(大倉精神文化研究所のサイトから「押尾寅松さんの昔話」より)

趣のある池で、埋められて小さくなってしまったことが残念だった。

昔の菊名池


蓮勝寺
蓮勝寺・毘沙門天  菊名駅徒歩3分 浄土宗    
1315年(正和4年)に開山したとされ、山号の「菊名山」が菊名の地名の由来となったともいわれる。
本尊は阿弥陀如来。毘沙門天王像は鎌倉時代の仏師運慶の作とも伝えられる。
地震を予見するといわれる石猿がある。

毘沙門天
勝負事の神、戦闘の神

正覚院

正覚院・大黒天 曹洞宗  新横浜駅徒歩5分  


足利時代の末、天正元年、暁堂元龍(ぎょうどうげんりゅう)大和尚により創建された。

本尊は十一面観世音菩薩。
現在の本堂は1961年(昭和36年)の建立。境内の裏山には金子出雲守の出城(篠原城)跡がある。


大黒天
穀物の神、商売繁盛の神


篠原城


現在の篠原城址
説明板
2010年に訪れたときは道も人が歩くのがやっとで、洗濯物など干してあって写真にとれなかった。
現在中には入れなくなったがこうして案内板が立てられていた。
まぼろしの城でなくなったのは残念だが公開日にはぜひみてみたい。

篠原城は、小田原北条家の拠点であった小机城配下の城であったと考えられるそうだ。
北条家の家来筋の金子出雲という武士によって治められ金子城ともいわれた。

「金子出雲と薬師如来」長福寺によると、金子出雲は元成田衆で小机衆に属すという。
成田衆は武蔵忍城主成田長泰の一族がもともと後北条氏以前から小机周辺に住んでいて、
その配下に金子氏がいたという。

忍城って「のぼうの城」のことで、映画がおもしろかった。
昨年篠原城も「まぼろしの篠原城」という舞台になって上演されている。
こ、これも、見逃した。


参考:しちふくじん・ひろたりあん・港北区区民利用施設協会の七福神案内図・金子出雲





by gannyan1953 | 2014-02-03 21:41 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)



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