歴史と素適なおつきあい

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鬼怒川温泉の廃墟とあさや

歴史と素適なおつきあい     2014・3・7

鬼怒川温泉 あさやに泊まった

川を挟んでお向かえは廃墟だった。なんだか悲しかった・・・・
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向こう側は国道121号線
歩いたが歩道も無く崩れそうな廃墟の脇しか歩けず怖い!
あさやの部屋から廃墟ホテルを撮影

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滝見橋から廃墟ホテルを撮影
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廃墟ホテル群からみた「あさや」
平日なのにお客さんでいっぱいだった「あさや」


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全部で7体あるが4体見ることができた

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歩道橋
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「あさや」
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「あさや」のパワースポット

富石といって最近パワースポットとして騒がれているらしい。
なぜか居酒屋の前にある
なぜかというとこの石はもともとこの場所の地面にあった
あとから建てられたこの「あさや」の3Fに高さは移動しつつも
経度緯度は変わらない場所に置かれている
動かなかった
強い意思を持った石だったのである
熱さを感じるというので手をつっこんでみたら
ポワンと温かだった
まわりの人たちは気のせいよというが実際温かだった
富石のある場所は「イサベラバード広場」
イサベラバードはイギリスの女性旅行家
「あさや」に泊まったらしい

この「あさや」鬼怒川の老舗で明治のはじめ神職など特別の人しか温泉にはいれなかったそうだが
解禁されてあさやの温泉には庶民もはいれるようになったとか。
ギャラリーがあり、美術書はじめいろいろなジャンルの本があり女子会だったが
全員並んで静かに本を読む時間が流れた


 




by gannyan1953 | 2014-03-30 19:11 | 栃木県の歴史散歩 | Comments(2)

岐阜の関と三重県の関

歴史と素適なおつきあい番外編     2014・3・28


母を連れて岐阜の関市円空館を訪ねた

関市円空館
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岐阜県関市
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三重県亀山市関 百六里亭で撮影


関市円空館パンフレットより

円空終焉の地が岐阜県関市である。
円空は5000体以上の仏様を遊行しながら彫り続けた人である。
ここ長良河畔で元禄8年(1695)入定したという。

関市内にはこれまで330体の円空仏があったという。
弥勒寺には数百体あったというが大正9年の火災で焼失した。

隣に白山神社がありここに16体あった。今はこの関市円空館で展示されている。

反対側には弥勒寺跡があり飛鳥時代の壬申の乱で活躍したムゲツ氏(身毛君広)という豪族の
活動拠点だった。(壬申の乱の詳しくは岐阜県・村国男依を参照)
発掘により武儀郡の役所跡が見つかった。
「弥勒寺官衙遺跡群」という。

翌日所用で三重県に向かい、三重県亀山市関に宿泊した。
偶然だが岐阜の関と三重の関訪問になり、可笑しかった。

三重県の関は東海道の宿が残ることで有名で「関宿」という。
6年前東海道歩きをしたときは、疲れていて、ゆっくり見学できなかった。

今回は鏝絵探し!!

関宿の鏝絵
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絵ではないけど漆喰の看板

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時間がなく関宿の半分ほど歩いて鏝絵を探した。
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向こうにかすんで見えるのが鈴鹿峠
東海道はあの山を越えて「あいの土山」に向かう。

今回の宿泊
1日目 宿泊 犬山サンパーク(愛知県犬山市) 1人素泊まり3900円 
    レストランがある。夕食800円〜2500円朝はモーニング
2日目 宿泊 関ロッジ(三重県亀山市関市新所)1人2食6700円くらい
    食事はおいしかった  関富士・観音山そして新池をバックに、関宿も歩いてすぐの場所で
    気持ちのいい国民宿舎である。トイレも新しくよかった。以前東海道歩きでお世話になった。


by gannyan1953 | 2014-03-28 20:08 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)

多摩川の河口

歴史と素適なおつきあい番外編   2014・3・22
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多摩川河口の碑

以前に多摩川を歩いて河口に向かって羽田空港に入ってしまった。
今回は対岸の川崎側を歩いてみた。
六郷土手から約7キロくらいだと思う。
素適な景色が続き、また六郷土手まで戻って帰宅した




六郷土手から橋を渡って海に向かう。
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川崎河港水門

上にあるのはなんだ?
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このあたりの名産だったぶどう、梨、桃のモニュメントだった
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葦が素適だ
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大師河原水防センターから変な建物が見えた
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行ってみたら川崎大師の車のお祓い所だった
猫の頭みたいな建物は駐車場


戻って水防センターでカニの雌雄の見分け方を教えてもらった
雄はおなかの模様がとがった三角
雌はお腹の模様がまあるい三角・卵があるとまるくぽっこりするらしい
ここからさきオオシマザクラを植樹していた

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河口まであと1キロあたりの説明板
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水鳥がいっぱいいた

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空港が近い
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川だが海のように波が押し寄せていた
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上流方面をみたら風紋があった
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ここがつきあたり
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つきあたりの先にあった「日鉄鋼管」向こうは「花王」

このあたりシジミがとれるらしい




by gannyan1953 | 2014-03-22 19:04 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

大庭城址を訪ねて

歴史と素適なおつきあい番外編    2014・3・21

大庭城址公園

ドライブにでかけ「大庭城址」に行ってみた。
マイナーな静かな場所と思ったら、公園になっていて
史跡というより家族で楽しむ場所だった。

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此地大庭景親ノ居城ト云フ、後上杉定正修メテ、居城セシガ、永正九年子朝良ノ時、北条早雲ニ政略サレ、是ヨリ北条氏ノ持城トナッタ。廃城ノ年代未詳空塹ノ蹟等、当代城郭ノ制ヲ見ルニ足ルモノガアル。      
昭和七年九月    神奈川県



もともとこの地は縄文から人が住んでいた住みやすい土地であった。

最初の城主、大庭景親(おおばかげちか)は平安末期相模国の武将である。
このあたり大庭荘を本拠とした。

将門の叔父平良文の流れという。景親は権五郎景政の曾孫にあたる。
平治の乱で平家について平家に信頼されていた。
治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山で頼朝を撃破した。
阿波国に逃げた頼朝が鎌倉入りすると、東国武士はつぎつぎと頼朝の味方になっていった。

頼朝が富士川の戦いで勝利すると大庭景親は降伏、片瀬で処刑された。

15世紀後半室町時代中頃扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の執事太田道灌が築城した。
その後上杉定正が滅び、小田原北条氏が受け継ぎやがて秀吉によって滅び廃城となった。
大庭城の遺構は北条氏のころのものである。
築山、裏門、二番構、駒寄など立派な構えであったと思われる地名が残る。




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御館跡
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縄文時代からの集落跡
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大庭城址より丹沢方面を臨む



by gannyan1953 | 2014-03-21 22:12 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

港北ニュータウンに将門がやってきた


歴史と素適なおつきあい番外編 

将門と杉山神社


平安時代。平将門の乱起こる。

桓武天皇の5世の孫高望王が平姓を名乗り、東国を治めたが、その3代目の将門が領地を巡って内紛し、

将門の乱が起こり、東国は将門の天下となる。

このころ地方豪族も武装化し、都筑党を名乗る武士団も現れた。

朝廷はこれら東国の武士をもって将門を鎮圧させた。

杉山神社(大熊町)に将門の伝説が伝えられている。

承平年中

平将門宿願によりて不思議な悪夢を蒙り此の社に七日参籠せる夜

不動閻浮檀金の観音を授かり夫より将門威勢盛になりとぞ


牧を経営していた将門が良馬を探し求めてきたのか、京都の行き帰りに立ち寄ったのだろうか。

曹洞宗 久松山 長福寺
〒224-0041
神奈川県横浜市都筑区仲町台4-8-10  のブログにも紹介されている。



IKEAの近く。

by gannyan1953 | 2014-03-20 11:54 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

戸塚から歴史散歩 


歴史と素適なおつきあい         2014・3・14

戸塚から、鎌倉武士ゆかりの地を歴史散歩した。

戸塚駅西口バスセンター60系統立場行き「五霊神社」降車

戸塚駅〜バスで五霊神社〜宝寿院〜中村三叉路の石仏〜まさかりが淵〜専念寺〜三嶋神社(深谷)〜福泉寺〜俣野観音堂〜龍長院〜八坂神社〜影取バス停
約5.3キロ 歩行時間3時間(昼食はバーミアン)

五霊神社(汲沢・ぐみざわ)
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元亀2年(1571)の創建。村岡郷に属し森織部義秀が村岡郷宮前村の御霊社を勧請した。
慶長2年(1597)に再興された。このとき祭神が五柱となり五霊神社となった。

祭神は
村岡五郎平良文   ( むらおかたろうたいらよしふみ )
村岡公致      ( むらおかきみとも )
村岡致成      ( むらおかともなり )
鎌倉景成      ( かまくらかげなり )
鎌倉権五郎景政   ( かまくらごんごろうかげまさ )

汲沢地名は、古くは茱萸沢(ぐみざわ)と書いていたものが、永禄年間(1558~1570年)に“汲沢”に変わった(皇国地誌)。


寳寿院(汲沢四丁目)汲沢山願行寺
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古義真言宗。本尊は願行作の不動明王である。秘仏で酉年に御開張される。
門前には江戸時代の修行僧木喰観正の碑がある。
木喰とは米を食べないで木の実でそれも火を通さずに食し、生きて行く修行である。
そのような僧を木喰上人という。
木喰観正もその修行僧の1人でこのあたりに足跡を多く残す。
木食観正は天明4年(1784)30歳で得度し、木食遊行僧として修行した。
加持祈祷を行い雨乞い、火伏、病気平癒、大漁祈願など庶民の現世利益に応え、精力的な活動をした。

木喰の仏が有名だがその人は享保3年(1718)に甲斐の国で名主の子として生まれ
修行をしてあちこちで仏を彫り奉納した。
円空と並び称されるが微笑んだ仏様で親しまれている。 
  
中村三叉路の石仏
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矜羯羅童子・制吒迦童子を従えたお不動様

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子を抱いた子育て地蔵

まとば橋
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宇田川は四キロの川でもとは村岡川といったが、宇田さんが川の改修を行い宇田川となった。
武士関連の橋の名が残るが、鎌倉時代からある地名なのだろうか。的場、殿山橋があった。

まさかりが淵
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彦六の供養碑

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まさかりが淵

まさかりが淵の伝説

むかしむかし彦六というきこりが、この淵にまさかりを落としてしまった
すると淵からお姫様があらわれ「金の斧、銀の斧」と言うのかと思ったら違った!

彦六が落としたまさかりが、魔物に命中、退治できちゃったのでお礼をしたいという。

淵の底にある御殿に招かれ、三日三晩飲めや歌えのおもてなし!
「おみやげは玉手箱」と思ったら違った!

おみやげは無く、おもてなしの「口止め約束」だった

帰ると彦六の三回忌が行われていて、あれやこれや聞かれるうちに
おもてなしされていたことを話してしまった

かわいそうに彦六は、ただちに息絶えたそうな
ああ怖ろしや 怖ろしや


近所のおばさんの話
ここに飛び込んで亡くなる人がいること
最近変質者がでるので夜は近づかないように

今も怖い場所でした


専念寺(深谷町)
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鎌倉権五郎景正の守護仏薬師如来を安置する場所だったという。
本尊の薬師如来は頭部は江戸時代のものであるが、体部は鎌倉時代のもだという。

鎌倉権五郎景政 鎌倉御霊神社のブログより
権五郎景政は鎌倉党で大庭御厨の開発をして在地領主であった。
鎌倉五郎景政は後三年の役(1083~87)に参加、清原方がこもる金沢柵(秋田横手)を攻めた時の逸話が残る。
景政16歳の時先陣を争い、右目を射抜かれる。貫く矢を抜こうともせず敵を追いかけ殺害し、本陣に引き返す。
そこで三浦為次が、矢を抜くのを手伝おうとわらじを履いた足を景政の額にかけて、矢を 抜こうとした。
突如景政は為次を刺そうとし、「生きながら顔を踏まれるのは武士の恥辱」と言い放った。
為次はその剛毅に驚嘆し、景政の脇に膝をついて矢を引き抜いたといわれる。
その間景政は平然としていたという。こうした超越した豪胆さに人々は驚き崇拝したのである。
鎌倉武士にとって景政の豪胆で猛々しい ふるまいは誇りであり理想像とされ、神格化された。

景政のいた鎌倉の背景
もともとこのあたりは佐助稲荷、銭洗い弁天など金属ゆかりの場所があり、産鉄民がいたと思われる。
田畑に使われる金属器、鎌倉党の武器製作に携わっていた。天養年(1141あたり)源義朝が御厨を襲う。
「天養記」はその惨 状を伝える。
この侵略で鎌倉党の怨恨をかい、御霊本来の意味の神社となったのかもしれない。
銭洗弁天には頼朝が湧き水を汲んだ伝承があるが、佐助稲荷にも伝承が残る。
銭洗いを「かねあらい」といいかえると真砂(まさご)とよばれる砂鉄をこの水で洗いタタラで吹き上げる。
炉からだした灼熱のコロ(鉄塊)を冷 やし、ケラ割り(鋼を採取する)するための金池だったと思われる。
佐助稲荷は頼朝が蛭ヶ小島にいたころ、この地の宇賀福神が夢枕に立ち挙兵をすすめ神霊の 加護を約束したといわれ、
のち梶原景時に命じ社殿建立したと伝えられる。
頼朝がこの土地の娘を身ごもらせた話は、長吏頭弾左衛門とかかわりがあるという。
 最後の弾左衛門は浅草にいたがその前は鎌倉の景政の配下であった。
弾左衛門頼兼の祖は秦武虎で、鎌倉権五郎の片腕となり産鉄、漁業にたずさわり、弾左衛門 を世襲名とした。
頼朝と契った菜摘御前の父矢野弾左衛門は秦武虎から3代目くらいと思われる。
菜摘御前の父が頼兼とも、子が頼兼ともいわれるが定かではない。
頼という字は鎌倉党を頼ったということからか、頼朝から頼の字を賜ったかわからないが、その後弾左衛門一党には頼の字のつく名が多い。 


三嶋神社

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梶原景時が専念寺を再建するにあたり伊豆の三嶋大社を分祀したという。
祭神は大山祇命よ景時の先祖景政である。
江戸時代は御霊神社だった。

福泉寺
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阿吽の龍


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阿吽の龍の後ろ姿

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阿吽の龍の上に、11本の歯が並ぶ獅子が噛み付いている
これもかわいい

曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏。寛永6年(1629)廃寺になっていたが、地頭木原平三郎により再興された。
当時相模国には、東谷山、西谷山、南谷山という福泉寺があり、この寺は北にあったので北谷山といわれた。
山門の龍がのぞく姿がかわいい。

俣野観音堂
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治承4年(1180)に頼朝が石橋山で平家打倒の挙兵をしたとき、
俣野五郎景久は兄の大庭景親とともに平家方についた。
石橋山で敵将佐奈田与一を討取り頼朝を敗走させた。
その後、北陸で頼朝の従兄弟木曾義仲と戦い討ち死にした。
そのとき家来が持ち帰った十一面観音を祀っている。
敗色が濃くなった頃源氏方に寝返ったらどうかと持ちかけられたが
その行いは見苦しい、平氏方についたまま討ち死覚悟であると言ったという。

鎌倉道
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八坂神社の前の道は鎌倉道で、新田義貞が鎌倉に進撃した道である。 

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庚申塔に「左 八わうじ道 右へ かまくら道」とある。

龍長院
曹洞宗。天王山と称し本尊は釈迦牟尼仏。
室町時代、相模入道西林が開山。その後慶安元年(1648)に永井丹波守白元が祈願所として再興。
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天王滝
境川に注ぐ



八坂神社
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享保4年(1719)創建。祭神は素戔嗚尊。



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by gannyan1953 | 2014-03-14 17:44 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

石垣山一夜城に行ってきた

歴史と素適なおつきあい      2014・2・28



9年ほど前にきた一夜城、静かで何も無い場所だったが、今はケーキ屋さんや花屋さんがあり、広い駐車場にびっくり!!
観光地になっていた・・・・

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まずは腹ごしらえに小田原厚木道路のパーキング名物
鯵丼 600円
梅干しと天ぷらのコラボがおいしい
かまぼこの模様は季節で変わるらしい

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小田原城包囲

天正13年(1585)豊臣秀吉は西国を平定し、続いて東国に対し、
大名同士の領土の取り合いなどしたら征伐するよと命令した。
翌年後陽成天皇を聚楽第に招き全国の諸大名を招集した。
このとき小田原の北条氏政、氏直父子は列席しなかった。
そして沼田城の猪俣邦憲が名胡桃城を奪ったことから、
関東に対し宣戦布告した。
後北条氏は5万4千の兵で、秀吉は21万人の兵といわれる。
天正18年(1590)小田原城包囲の戦いがはじまった。
4月にはじまり7月に開城降伏をした。ここに戦国大名後北条氏は滅んだ。

一夜城
小田原城をみおろすこの山に秀吉は堀や櫓の骨組みを造り白紙を貼って白壁のように見せた。
小田原城からは一夜のうちにしろができたと思ったという伝承から一夜城といわれる。

実際には石垣は野面積(のづらづみ)で長期戦に備えた本格的な城造りであった。

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なぜだかパワースポットといわれている。
今でもわき水があるというが、今回は工事中で近づけない。
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井戸曲輪
全体が大きな穴のようになって石垣で囲まれている
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本丸跡
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天守台跡
結構せまい
隣の下方にある西曲輪に淀殿が寝泊まりしたのではないかと推測されている。
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本丸跡にあった社
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肉眼では小田原城がみえたんだけど・・・・
真ん中の緑の木々の左側黄色いビルの手前に小田原城がある
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標柱のひょうたんがかわいい
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「よろいづか」というパン屋さんの外にいた猫

北条五代

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明応4年(1495)大森氏を退け北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入った。
それから北条氏は小田原を中心に産業を興し、力をつけて関東支配に乗り込んだ。
二代の氏綱が関東支配の礎を築き三代氏康は、城下町を築き、
小田原は関東の政治、経済、産業、文化の中心となった。
天下統一の機運が高まる中、四代氏政、五代氏直は、豊臣秀吉との戦いに
町を囲む総構えを作った。
天正18年(1590)18万の大軍に包囲され約100日の篭城戦のうえ、
小田原城は開城され、ここに北条氏は滅亡した。

小田原市はゆかりの町と提携して「北条五代を大河ドラマに!」と呼びかけている。

小田原市観光課「おだわら紀行」参照









by gannyan1953 | 2014-03-01 18:12 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)



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