歴史と素適なおつきあい

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安土城址を訪ねて

歴史と素適なおつきあい番外編           2014・5・30

とても暑い日だった。ちょいとお城へと思って訪れたら階段が多かったー!!

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織田信長が天正4年(1576)丹羽長秀を普請奉行に標高199mの安土山の上に築城した。
交通の要所で、今では周りは干拓されているが当時は南方のみ開け三方は琵琶湖の内湖に囲まれていた。
三年後天正7年に完成、ところがその3年後天正10年(1582)明智光秀の謀反により
信長は滅び混乱の中、安土城は一夜にして焼尽に帰した。
織田信雄が誤って焼失、敗走する明智軍による放火など今でもなぜ焼けたかわからない。
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ヒーコラ登る


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階段には仏様が使用されている所がある。


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武井夕庵 
信長の右筆で美濃の武人



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摠見寺
安土築城の際、信長が自ら他所より移し菩提寺にしたといわれる。



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何だったか思い出せない


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織田信雄邸址



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当時の石垣



 
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信長公本廟 
秀吉が太刀、烏帽子、直垂など遺品を埋葬し、本廟とした




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こんな石まで石材に使用したとは驚き 




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天守址



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天守址よりの遠望
高さ33mの木造建築でフロイスはヨーロッパにもあると思えないほどの壮大さであった語った





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室町時代の建物で信長が甲賀の長寿寺から移築したといわれる



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仁王門
甲賀から信長が移築したといわれる





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やっとのことで下山
入り口近くの休憩所にある安土城のミュメント





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モニュメントの中を写メしたら、目の前の安土城に入城した気分になれた!





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岐阜駅には金ピカの信長像があり驚いたが、これは安土駅前の信長像


by gannyan1953 | 2014-06-18 11:37 | 滋賀県の歴史散歩 | Comments(2)

港北ニュータウン 大棚村の地名

歴史と素適なおつきあい番外編

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中村の八幡山
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大棚村は鎌倉時代に開発された。中心地は中村、山崎あたりと思われる。
東善寺は大棚山の山号をもつ。

今は牛久保、大棚、中川と分かれたが、開発の早かったのは中川である。
小田原北条のころ曽根外記(そねげき)の所領で、江戸初期八王子千人頭12人の
知行所となり後改易もあったので8給地になった。

万治元年(1658)大棚村と牛久保村で秣場(まぐさば)の入会をめぐって、
争いが起きた。元禄8年(1695)に両村分割することで解決した。

*秣場 秣とは牛や馬の飼料にする草で、秣場とは秣を刈り取る草地。特に、農民が共同で使用した地。

明治になって山田村、勝田村、牛久保村、大棚村、茅ヶ崎村が合併して中川村となった。

この中川5ヶ村には中原街道、大山街道が通っているがいずれも旧鎌倉街道だった。
交通の便利な場所なのだが戦争が起こるとその通路となり、寺や民家は焼き払われる。
田畑は荒らされ、農村は疲弊した。

戦国時代は永禄4年(1561)上杉謙信の小田原攻め
永禄10年(1569)は武田信玄の小田原攻め
天正18年(1590)の秀吉による小田原攻め
など小田原北条の城を持つ中川5ヶ村はいずれも敵軍の通路であった。
大棚村の慈眼寺、天正年間には茅ヶ崎の寿福寺が焼失している。

武田軍の狼藉について北条記には「寺社悉く焼払、本尊、持経まで奪取る」とある。


旧家
大棚:飯島・石田・岡本・小林・鈴木・関・皆川・吉野
中川:大久保・金子・酒川・嵯峨野・長沢・松本・皆川・吉野・渡辺






大棚 オオダナ
横に広がる傾斜地。田奈、田名、多奈、多名、丹那などの字を当てる。
相模、伊豆、駿河では滝のことを棚という。

矢ノ谷 ヤノヤト
山際の湿地。矢も谷も重複地名

東 ヒガシ 
大棚丘陵の東。アズマともいう。

鵜ノ目 ウノメ
埋め立て地。早淵川は古くは今より北に流れていて南に移動させた跡地を埋めたその地。
鵜目は杉の森を境に上、下に分かれ下鵜目には清林寺があり鵜目山観音院という。
杉の森には杉山神社があった。

上 ウエ
平地より高い場所

興野 コウヤ
開墾地。吉野氏の屋号

出店 デミセ
開墾地。 鈴木氏の屋号

寺の下 テラノシタ
龍福寺の下の地。

杉ノ森 スギノモリ
樹木の茂った地。地名の森は寺社に関してつけられることが多い
龍福寺の山号は大杉山である。 境内墓地脇の坂をくらやみ坂という。
今は明るいが昔は樹木と竹やぶに覆われていた。
坂上は大棚古道で牛久保の古梅に通じる。

宮ノ脇 ミヤノワキ
杉山神社の旧跡の地で吉野氏一軒だけであった。吉野氏の屋号。
杉山神社は大棚公民館の北、大棚古道の近くにあったが旧道に移り、
さらに明治45年に吾妻山の山頂に移転した。

ソウゲン塚
宗元という行者の墓。中川小学校の西の丘にあったが。
動かすと家族に病人がでると怖れられていたが現在取り払われ消滅した。
塚は二つあって大棚側はソウゲン塚、牛久保側は馬捨て場の塚で馬頭観音があった。

マセ口 マセグチ
狭い地。間瀬、真瀬、馬瀬、馬勢、馬馳、馬背、馬洗、馬責、万瀬などの字を当てる。

歳勝土 サイカチド
カブトムシ、クワガタムシが多く発生する場所。皂荚が正しいが、皂角、槐の字を当てる。
槐はエンジュの読みがあるがサイカチとも読む。
やはりカブトムシの意味がある。

吾妻 アヅマ
吾妻社があった。主神は弟橘姫命で吾妻大明神、吾妻権現という。
吾妻の地名はツマは端、隅の意味でアは接頭語、アズは崩れやすいの意味で地形的にあっている。
杉山神社(大塚)あたりまでの峯を吾妻山という。

中耕地 ナカコウチ
川沿いの低地。耕地は河内、川内、高知、高地、幸地などの字を当てる。

大塚 オオツカ
土を盛り上げた地。墓所、古墳も塚という。
武蔵風土記には2カ所とあるが、今の大塚以外の地がどこなのかわからない。

清水谷 シミズヤト
太神宮があった。

堂谷 ドウヤト
慈眼寺を開山した浄海によって元亀元年(1570)に建てられた薬師堂があった。
慈眼寺は翌年建てられ青蓮院福聚院という。

玄蕃 ゲンバ
吉野玄蕃からの地名。吉野氏の屋号。

浅間谷 センゲンヤト
浅間社があった。後に堂谷に移り明治44年(1911)杉山神社に合祀。

経塚 キョウヅカ
慈眼寺の北にあり開山の際、経文をこの地に埋めた。浄海塚と呼んだ。

中村 ナカムラ
元村のこと。新開地に対し元の地で、中は中央という意味ではない。
本郷、中郷、中里は同じ意味。ここに、東善寺があり、大棚山得蔵院という。
八幡山に八幡社があり、明治44年杉山神社に合祀された。御霊社は廃された。
(当ブログ 「都筑区八幡山の変遷」を参照)八幡山の変遷

矢崎 ヤサキ
突き出た地。矢はヤトで湿地。サキは前、先、岬の意味。
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矢崎にある矢羽根不動尊


山崎 ヤマザキ
山の前。

台坂 ダイサカ
大棚古道に登る坂。

六道の辻 ロクドウノツジ
道が交わる地。地獄、餓鬼、畜生の三悪道と修羅、人間、天上の三善道を六道という。
善悪の分かれ道で道が交わる地によくつけられる。

宿ノ入 シュクノイリ
宿の入谷。宿は宿場で道路に面したにぎやかな地。入は山寄り、谷奥をいう。


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鍛冶山遺跡
鍛冶屋 カジヤ
鍛冶山ともいう。鍛冶師の住まい、作業場があった。鍛冶屋、梶ヶ谷と同じ意味。

雁山 カリヤマ
草刈り場。焼き畑の意味もある。



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鍛冶山老馬不動尊
老馬 ロウバ
牢場。崖地の険しい地。「武蔵風土記」では牢屋があったとある。籠場の説もある。
(当ブログ「中川の老馬」参照)

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老馬不動の滝

滝前 タキマエ
老馬鍛冶山不動尊の滝の前。

ショウジン場
水辺の洗い場。精進の字をあてると潔斎する場で、処刑を行う人が体を清めたと伝わる。
老馬鍛冶山不動尊の滝に比定。

橋場 ハシバ
橋のたもと。
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ウトウ坂


ウトウ坂
狭い峠道。この場所はオト坂ともいう。旧大山道である。

磔場 ハリツケバ
刑場が連想される地。大山街道荏田宿の手前、そして荏田城があり中世鎌倉道、古東海道(官道)も近い。
昔刑場があったと思われる。
地名の本の著者吉野孝三郎氏は
「磔は極刑であるのでこの場所で行われたとは考えにくい。見張り場ではないか。
荏田城の出城のて敵見塚には城番がおかれていたという。」

それにしても土地の人の話や刑場地を示す地名があまりに多い。
緑区の長津田、十日市場にも刑場の話がある。

三悪道 サンマクドウ
罪人が歩いた道。

血流れ坂 チナガレザカ
罪人の血が流れた坂。
2013年、マイナビの「心霊スポットではないけれど、ちょっと怖い地名ランキング」で全国1位になった。

ウトウ坂が血流れ坂であると比定されているが私はそう思わない。
有馬から老馬不動にむかう時大山道の右の方向に街道からはずれた場所にあると思う。
土地の人からお聞きした場所である。
(中川の老馬を参照)


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九左衛門原 クザエモンハラ
九左衛門の墓があった。久左衛門なら多くいるが九の字のつく人物はわからない。
宿ノ入と老馬の間の突き出た地。

アラ牧 アラマキ
焼畑。焼け跡にそば、麦、栗などアラ播きした。

うばがやつ 
乳母の懐のように暖かい場所。日当りのいい場所。

影取峰 カゲトリミネ
有馬の影取に近い場所。
「大棚根元考糺録」によると
里人の伝承に池に近づくと人はこの池の主に影を取られて死んで行くという。
鎌倉郡影取にも同じような伝説が残る。(当ブログ「戸塚から歴史散歩」まさかりが淵参照)

柏窪 カシワクボ
崖下の平坦地。柏はゆるやかな傾斜の意。

雷淀 カミナリヨド
川の水穴付近の地。雷は大きな水音、淀は一時的に流れが止まる場所。

御料前 ゴリョウマエ
八幡山にあった御霊社の前。(当ブログ「八幡山の変遷」参照)

鳥井戸 トリイド
鳥居のある場所。

鉈切 ナタギリ
若い女が鉈で殺害された場所。矢ノ谷から裏吉田に抜ける道の四辻付近。
昔女中が妊娠し実家に帰る途中、この辻に潜んでいた密夫に鉈で切り殺された。
その念しばらくとどまり燐火(オニビ)が現れたという。

西谷 ニシヤト
村の西にある。東西で屋号がニシ(渡辺安兵衛)ヒガシ(吉田玄蕃)

柳町 ヤギマチ
雑木林に囲まれた焼畑。柳はヤキ、焼きの当て字。
江戸時代の農村に柳町が多い。柳畑、柳田、柳原、柳沢、柳生も同意。

矢はず畑 ヤハズハタ
弓矢の矢筈に似た地形で、左右から中央に集まる地形の畑。



























by gannyan1953 | 2014-06-18 10:30 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

青葉区の古道の将門伝説

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荒俣宏著「日本妖怪巡礼団」で紹介された将門伝説のある場所である。
そこを訪ねたとき将門の家来の墓の説もあると話していたら、とおりがかりの白髪のおじさまが
「それは間違っている!そんない古い塚ではなく宗教上の十三塚である!」とお叱りを受けた。

その方がいわれるには荏田村と石川村の境に十三塚があるといわれる。

早速調べたがわからない。でもおもしろいものを見つけた。

築地の土手の話である。
場所は青葉区新石川4丁目と荏田町の境あたり。
国道246号線を渋谷に向かい「新石川」の交差点を左折、信号「新石川東名下」の左に早淵川がある。
そのあたりから北東方向ヒルハイツたまプラーザの麓まで築かれていた。
100 m

  • 地図
  • 写真
  • 地下街


江戸時代、荏田村と石川村の境界に北の山から南の丘に一直線に築土して堤が作られた。
高さ4m長さ300mで、由来ははっきりしていない。

①松沢由貞(よしさだ)著「都筑が丘」にある。
松沢由貞氏は荏田宿小松屋に生まれ教員、市会議員を勤めた。

「その昔早淵川は唯一の水源で旱天の水不足には水争いも起こった。
両村もそれがもとで仲が悪く、下流の荏田村では水をくれないなら一滴も欲しくないと
この土手の築造がはじまった。
流木を防ぐため谷の奥に貯木したところが「保木」
一面に冠水した所は「平川」
牛を集めて避難させた所は「牛込」
船を出して村の交通にあたった部落は「船頭」
真偽のほどはわからないが、面白い伝説である。」

土手は昭和22年農地改革のときにすっかり取り壊された。

②安田卓全氏は心行寺の住職で氏が書き写した「山内の沿革及びその歴史」にもう少し古い話がある。

「築地の土手は荏田石川の境で青山街道に沿っている。
稲毛重成(畠山重忠の一族小山田有重の子)が枡形城から小机城に赴く折に通ったもので、曰く鎌倉道である。
土手の長さ30間、幅5、6間で、篠笹と芝が覆っている。
東西に築かれ中程で早淵川に中断されている。米軍の航空写真に見られるという。」

③戸倉英太郎著「古道のほとり」には

「観福寺の手前から登り寺の下谷に下る小径は古道であると思われる。
下谷で早淵川を渡る、驚神社がある。
驚神社は水神であると考える。築地土手〜下谷の東部で早淵川が南に湾曲する。
その曲がり角より新大山街道の西に沿って大きな築堤址がある。
之を築地土手という。
この土手が何のためにいつ築かれてかは定かではない。

この土手が水除けのものか、道路になっているのかわからないが、
東方丘陵(あゆみが丘)に刑場牢獄の跡が伝わるので或は東海官道の名残ではないか。」

古代の道ではないかという説である。

④最後にご近所のみなさまの言い伝えから

中川の大久保太一さんお話は「水争い」

下谷の工藤豊さんは「けんか土手」と聞いた。

横溝智美さんは「この地で耕作をしていたが、納得できる話はなかった。」

松井治郎さんの話は
「先輩の飯島正寿さんは平将門が京都に任官で行くときにこの官道を通った、といわれた。


  私は江田源三と稲毛重成の勢力争いの所産と聞いている」


この土手は石川村にメリットがないという。
ということは水の調節以上の目的をもっていた可能性がある。

以上十三塚をみつけたかったのが、また将門にたどり着いてしまった。
やったー!と思った。

参考:都筑・橘樹地域史研究(横溝潔氏「石川村・荏田村境の築地の土手の一考察」

最後に十三塚とは

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名所図会にある十三塚。
どこにあるのか。
調べてみたら川崎の野川交差点から南西のあたりにあるらしい。

十三塚とは村境に悪霊が入ってこないように作られたという。
他に僧が入定した場所、落ち武者が亡くなり、供養した場所など。
十三に限らず数個の場合もある。
六つ塚もそうらしい。
だから五所塚もそうだという。

将門だったらいいな。





by gannyan1953 | 2014-06-14 19:48 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

荏田村と石川村の築地の土手

歴史と素適なおつきあい番外編      2014・6月                    

川崎宮前区の神木(しぼく))のそばに五所塚がある。当ブログ「長尾の里 平将門」参照
長尾の里 平将門

横浜市青葉区の将門伝説

このたびご近所の将門伝説をみつけた。
それは五所塚を訪れたときの事!

五所塚
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荒俣宏著「日本妖怪巡礼団」で紹介の将門伝説のある場所である。
そこを訪ねたとき将門の家来の墓の説もあると話していたら、とおりがかりの白髪のおじさまが
「それは間違っている!そんない古い塚ではなく宗教上の十三塚である!」とお叱りを受けた。

十三塚について

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江戸名所図会の十三塚
場所は、尻手黒川線と野川交差点をすぎ
矢上川を渡った次の信号で右の歩道に移る。
ここから南の道に入り大三京浜に沿って
坂を200mほど登って第三京浜を渡る。
そこから南南西に200m行き交差点をすぎ
又200mほど行くと左に塚がある。
(江戸名所図会自転車探訪さんから抜粋)

十三塚とはウイキペデイアによると日本各地に分布する、民間信仰による土木構造物である。
一般には13基の高塚(マウンド)から構成される。実際には13と限らず数個のものもある。
村境におかれ邪悪なものが入らないように願う塚だという。
猿田彦が道祖神になって村境にあるのと同じことだと思う。
他の説は、落武者や戦死者の供養塚、首塚もしくは無縁仏や怨霊を鎮めるもの、
お経を埋めたもの、十三基ある一つに僧が入定したものなど。


じゃあ将門の家来の落ち武者でもいいじゃないかと思ったが、
この五所塚は将門の時代のように古いものではないという。
うーん そうかも?
けれど私のロマンを砕かないで欲しい。

その方がいわれるには荏田村と石川村の境に十三塚があるといわれる。
早速調べたがわからない。

でもおかげさまでおもしろいものを見つけた。

築地の土手の話である。
そこは古代の道で将門が通過したという伝説である。

将門が通ったという伝説のある築地の土手とは?!

場所は青葉区新石川4丁目と荏田町の境あたり。
国道246号線を渋谷に向かい「新石川」の交差点を左折、信号「新石川東名下」の左に早淵川がある。
そのあたりから北東方向ヒルハイツたまプラーザの麓まで築かれていた。




江戸時代、荏田村と石川村の境界に北の山から南の丘に一直線に築土して堤が作られた。
高さ4m長さ300mで、由来ははっきりしていない。

松沢由貞(よしさだ)著「都筑が丘」にある。
松沢由貞氏は荏田宿小松屋に生まれ教員、市会議員を勤めた。

「その昔早淵川は唯一の水源で旱天の水不足には水争いも起こった。
両村もそれがもとで仲が悪く、下流の荏田村では水をくれないなら一滴も欲しくないと
この土手の築造がはじまった。
流木を防ぐため谷の奥に貯木したところが「保木」
一面に冠水した所は「平川」
牛を集めて避難させた所は「牛込」
船を出して村の交通にあたった部落は「船頭」
真偽のほどはわからないが、面白い伝説である。」

土手は昭和22年農地改革のときにすっかり取り壊された。

②安田卓全氏は心行寺の住職で氏が書き写した「山内の沿革及びその歴史」にもう少し古い話がある。

「築地の土手は荏田石川の境で青山街道に沿っている。
稲毛重成(畠山重忠の一族小山田有重の子)が枡形城から小机城に赴く折に通ったもので、曰く鎌倉道である。
土手の長さ30間、幅5、6間で、篠笹と芝が覆っている。
東西に築かれ中程で早淵川に中断されている。米軍の航空写真に見られるという。」

③戸倉英太郎著「古道のほとり」には

「観福寺の手前から登り寺の下谷に下る小径は古道であると思われる。
下谷で早淵川を渡る、驚神社がある。
驚神社は水神であると考える。築地土手〜下谷の東部で早淵川が南に湾曲する。
その曲がり角より新大山街道の西に沿って大きな築堤址がある。
之を築地土手という。
この土手が何のためにいつ築かれてかは定かではない。

この土手が水除けのものか、道路になっているのかわからないが、
東方丘陵(あゆみが丘)に刑場牢獄の跡が伝わるので或は東海官道の名残ではないか。」

古代の道ではないかという説である。

④最後にご近所のみなさまの言い伝えから

中川の大久保太一さんお話は「水争い」
下谷の工藤豊さんは「けんか土手」と聞いた。
横溝智美さんは「この地で耕作をしていたが、納得できる話はなかった。」
松井治郎さんの話は「先輩の飯島正寿さんは平将門が京都に任官で行くときにこの官道を通った、といわれた。
私は江田源三と稲毛重成の勢力争いの所産と聞いている。」

この土手は石川村にメリットがないという。
ということは水の調節以上の目的をもっていた可能性がある。

以上十三塚をみつけたかったのが、また将門にたどり着いてしまった。
やったー!と思った。

参考:都筑・橘樹地域史研究(横溝潔氏「石川村・荏田村境の築地の土手の一考察」








by gannyan1953 | 2014-06-14 19:39 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)



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