歴史と素適なおつきあい

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1192つくろう?!で覚えた鎌倉幕府成立から滅亡まで②

歴史と素適なおつきあい番外編           2014・9・

英勝寺・・寿福寺(政子・実朝の墓)・・正宗の屋敷稲荷・・巽神社・・小町通で自由昼食・・段葛・・鶴岡八幡宮・・畠山重忠屋敷跡・・
大蔵幕府跡・・白旗神社・・法華堂跡(頼朝の墓)・・宝戒寺・・土佐坊昌俊の屋敷跡・・東勝寺やぐら・・鎌倉駅


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亀谷山寿福寺 臨済宗建長寺派  (きこくさんじゅふくじ)
鎌倉五山の第3位。開基は北条政子、栄西。本尊は釈迦如来。

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寿福寺参道

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実朝の墓
やぐらの中には彩色された跡があるという

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政子の墓


義朝の邸跡で、頼朝はここに館を建てようとしたが、少々手狭でとりやめた。
仏殿は非公開だが、釈迦像、菩薩、実朝像、栄西像などある。
政子、実朝の墓の他、高浜虚子、大仏次郎、睦奥宗光らの墓がある。

北条政子
伊豆に流されていた頼朝と恋に落ち、頼朝が鎌倉幕府を開くと、御台所と呼ばれた。
頼朝が亡くなると尼になるが、幕政の実権はにぎっていたので今度は尼将軍と呼ばれた。
長男頼家が伊豆で幽閉殺害、次男実朝は鶴岡八幡で頼家の息子一幡に殺害、大姫は早くに亡くなり
頼朝の血脈は途絶えた。しかし政子は実家北条一門を繁栄させることはできた。
エピソード
夫の浮気を許さず相手の家に火をつけたこともある。
義経が奥州平泉に逃亡したとき静御前は捕縛され、鶴岡八幡で舞いを踊る。
頼朝は機嫌をそこなうが、政子が諌めている。
鎌倉で静御前は男子を産むが、すぐに引き離され男児は殺害されている。


正宗稲荷・焼刃稲荷
鎌倉の刀工正宗の屋敷稲荷と伝わる。
正応の頃、執権北条氏に招かれた刀工が各地より集まり、鎌倉鍛冶の基礎を築いた。
五郎入道正宗は相州鍛冶の祖となった。後に小田原北条に仕えその後徳川家御用鍛冶として栄えた。
現在も子孫が24代刀工として続いている。(正宗工芸美術製作所より)

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正宗の屋敷稲荷

巽神社 

寿福寺の巽(たつみ)の方角にあり、寿福寺の鎮守とされる。坂上田村麻呂によって葛原岡(くずはらおか)に勧請されたものを
八幡太郎義家の父源頼義がこの地に移したと伝わる。
源頼義は平安時代、前九年の役の陸奥鎮守府将軍である。


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巽神社

段葛  (だんかずら)
鶴岡八幡宮の参道である。
鎌倉幕府設立時、屋敷を作るため平地の少ない鎌倉の山を削り、平地を作る行程で山の保水力が減り
雨が降ると道がぬかるんだ。政子の安産祈願で御家人たちで石を積んだという。
八幡宮に近づくと、道がだんだん狭くなっていく。遠近法で軍事上道が長く見えるようにつくられている。
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段葛
 鶴岡八幡宮

明治までは寺であった。
源頼義が石清水八幡宮を材木座に勧請したのが始まりで頼朝がこの地にうつした。

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鳩サブレの名前の由来
豊島屋の久保田久次郎が鶴岡八幡宮を崇敬しており、
本宮の掲額の「八」が鳩の向き合わせであることと、
宮鳩が多数いるところから着想を得た

太鼓橋の左右に源平池がある。
右が源氏池で島が三つある。三は産で産むの意。
左は平家池で島は四つある。四は死で滅亡の意。
昔は源氏の白旗で白い蓮、平家は赤旗で赤い蓮だったという。

鎌倉幕府成立から滅亡まで

後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)は治承4年(1180)に平家追討の令旨(りょうじ)を出した。
諸国の源氏や諸寺社に届けられ、呼応した木曾義仲が挙兵し京都に登る。
が、義仲は朝廷とうまく折り合わず同じく挙兵した頼朝に滅ぼされる。
当時頼朝は伊豆に流されていたので、まず伊豆の目代(もくだい・国守の代理)山木兼隆を滅ぼした。
石橋山で平家に味方する在郷武士に完敗、千葉に逃亡するが、千葉氏、三浦氏の加勢で
鎌倉入りした。令旨から半年後のことである。
ここに鎌倉幕府が成立、武士政権が生まれた。
ここで「1192つくろう鎌倉幕府」の暗記言葉が生まれたわけだが、
鎌倉幕府は、1192年征夷代将軍に任官して始まったとされていた。
しかし頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、実質的な成立は
1192年より前の1185年とする説が、2006年頃からは優勢となっている。

治承4年(1180)に大蔵御所が置かれ、朝廷は頼朝に東国の荘園、年貢納入を保証し、東国支配権を与えた。
文治の勅許(1185)には、与えられた諸国の守護、地頭職の設置、任免を許可した。
そして(1192)に征夷大将軍に任官した。

といわけで「いいはこつくろう鎌倉幕府」に変わったという。

その後、3代将軍までは頼朝のの血をひいた将軍だったが、それからは摂関家の頼朝の遠縁からの幼児が迎えられた。
以降将軍は傀儡で、実際の政治は北条一族が執権として続いた。
元弘3年(1333)に北条高時のとき新田義貞軍に攻められ、ここに鎌倉幕府は崩壊した。


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若八幡遥拝所

若八幡とは元八幡のことで、康平6年(1063)に源義家が石清水八幡宮に前九年の役の戦勝祈願し、
勝利したそのお礼にユ由比の地に勧請した。
治承4年(1180)に頼朝が安房から鎌倉入りしたときに参拝している。
そして現在の鶴岡八幡宮の地に移した。ここがその遥拝所である。



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白旗神社

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畠山重忠屋敷跡

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大蔵幕府跡

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清泉小学校によるガイド

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白旗神社



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頼朝の墓
なぜか訪れたとき外国人が多かった。


北条義時法華堂跡

平成17年、頼朝の墓東隣に北条義時ののものといわれる法華堂が発掘された。政子の弟である。
頼朝が亡くなり御家人の政権争いに深く関わったとされる人物で父時政を追放し二代執権になった。
実朝を暗殺した公暁も操っていたのではないかと言われる。承久の乱を鎮圧した。
62歳で亡くなるが側室伊賀の局に毒殺されたという暗殺説もある。跡継ぎ争いだったという。
伝わる死因は酩酊し縁側から落下、頭を打って昏睡の末亡くなったという。

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大江広元の墓
大江広元
早く幕府成立のころから頼朝から文筆を認められ側近だった。頼朝の死後政権争いにくれる幕府の中
一貫して義時につき幕府を支えた。

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島津忠久の墓
島津忠久
鎌倉の御家人で薩摩島津氏の祖である。
頼朝の乳母の子であり、早くから頼朝に重用された。
重用されたために、頼朝の子という話もあるが、学会では認めていない。
重用された理由として
出身の惟宗家は近衛家に務めてきた家で近衛家に仕えながら頼朝の御家人であった。比企氏、畠山氏と関係し、儀礼に通じていたため
頼朝の信任を得ていたことがあげられる。



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北条義時法華堂跡



金龍山釈満院円頓 宝戒寺   天台宗
北条義時からの執権の屋敷跡といわれる。
鎌倉幕府最後の執権北条高時の慰霊のため後醍醐天皇が建立とあるが、
実際は後醍醐天皇による建武の新政の崩壊により、足利尊氏が開山したのではないかと
推定される。本尊は子育て地蔵である。萩寺といわれている。
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土佐坊昌俊屋敷跡

土佐坊昌俊 
興福寺の堂衆で、年貢の件で代官を襲い土肥実平に預けられ、のち御家人となる。
頼朝の命で義経暗殺を計り失敗、六条河原で梟首(きょうしゅ・さらし首)された。
金王丸と同一人物かどうかを金王神社の宮司さんに尋ねたら同一人物だと言われた。
金王丸については、当ブログ「渋谷荘を訪ねて」「閑静な渋谷の歴史散歩」参照


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青砥藤綱の碑

青砥藤綱
公正、硬直な人物といわれる。
エピソード
夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。
「採算が合わないのではないか」というと、
「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる
よって50文は自分の損になるが、松明を買ったお金は人の利益になる」と答えた。
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東勝寺跡
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腹切りやぐら

東勝寺
3代執権北条泰時が創建。
元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めで新田軍が迫ったことを知った14代執権北条高時は
一族郎党870名余りと立てこもり火をかけた。
腹切りやぐらで自刃したわけではない。
東勝寺はすぐに再興されたが、戦国時代には廃寺になった。

釈迦堂切り通しのそばを最近発掘した所多くの焼けた人骨と元弘3年銘の宝塔があったという。
由比ケ浜も多くの人骨が埋まっていた。
東勝寺跡から人骨がみつかっていないので、釈迦堂や由比ケ浜に
時宗僧により葬られたとも考えられる。
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腹切りやぐら
2014年11月22日に再度訪れたら
先日亡くなった高倉健さんの卒塔婆がずらり
健さんがいたので怖くなかった



by gannyan1953 | 2014-08-31 14:39 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

1192つくろう?!で覚えた鎌倉幕府成立から滅亡まで①

歴史と素適なおつきあい番外編             2014・9・24

北鎌倉駅集合
北鎌倉・・東慶寺・・亀ヶ谷切り通し・・薬王寺・・岩船地蔵堂・・扇の井(見学不能)・・阿仏尼の墓・・英勝寺



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東慶寺
  松岡山東慶総持禅寺
建立・弘安8年(1285)臨済宗円覚寺派
開山:覚山志道尼  開基:北条貞時

北条時宗の夫人覚山尼が開創、ここに駆け込めば夫婦別れができると
開山以来600年近く女性を守ってきた。
覚山尼は時宗の死後、実家の安達家が滅亡した(霜月騒動)。
寺を開創するときに、女性が夫と縁を切りたいときこの寺で3年間修行すれば
縁が切れるという寺法を作った。(これも家康が千姫と豊臣家の縁を切るために
寺法を作ったともいわれる。)

後醍醐天皇の皇女・用堂尼が入られてから「松岡御所」と呼ばれ
寺格の高い尼寺とされた。
用堂尼は兄の大塔宮護良親王の菩提を弔うためにこの寺に入った。
その後秀吉の孫千姫も夫の豊臣家との縁を切るため、もう一つの駆け込み寺である
群馬の満徳寺に入山するが、身代わり説もある。
そして本多忠刻(ただとき)に再嫁した。

大阪城から逃れる時秀頼が側室とのあいだに生まれた姫を千姫は擁護している。
そしてその姫は天秀尼となって東慶寺の20代目の住職になった。
8歳で寺に入り、豊臣家の縁を切るためと思われるが、
豊臣の血をひく天秀尼に対し徳川幕府の保護も厚かったという。
境内の奥にやぐらがあり、右に用堂尼の墓、柵を越えて右奥が覚山尼の墓、
大きな卵塔が天秀尼の墓である。




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亀ヶ谷切り通は右に入る
亀ヶ谷切り通
あまりの急坂に亀も音をあげることからつけられた。
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坂の途中にある六地蔵


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薬王寺手前にあった仏様

大乗山 薬王寺 日蓮宗 本尊は釈迦牟尼
寛永年間(1624〜1644)創建
2代将軍秀忠の次男忠長の供養塔がある。
忠長は、父の死後兄家光によって自刃に追い込まれた。
母親はお江様である。
忠長の妻は日蓮宗を信仰していたので、ここに建立したと言われる。
寺が販売しているパワーストーンのグッズはご利益があると言われている。

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境内

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忠長供養塔

 
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左にある階段を登ると観音堂がある
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観音堂の奥には、やぐらがある
永代供養墓らしい・・「久遠廟」という・・販売中
やぐらにあるお墓ってカッコいい

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久遠廟からの眺め

岩船地蔵堂
源頼朝の長女大姫の墓と伝わっている。
義仲と頼朝は従兄弟の関係だが過去に父親同士が敵対し、義仲の父は討取られた。
それで義仲は幼くして木曽に逃れていた。その後義仲は頼朝と悶着があり、義仲の長男義高は
鎌倉に人質として送られた。その義高と大姫は許嫁になり、仲が良かった。
ところが義仲が挙兵し、京都を治めるが、朝廷と折り合いが悪く、頼朝の命で義経に滅ぼされると
頼朝は義高殺害を決める。
大姫は義高を助けようとするが、無念にも義高は殺害された。享年12歳だった。
大姫はそれから10年以上鬱々と暮らし20歳で亡くなる。

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大姫の守り本尊

このお堂の床下にお地蔵様があり、その光背が船形だったことから岩船地蔵の名がついた。

相馬師常やぐら
鎌倉幕府設立のころの御家人である。奥州征伐など戦功を挙げている。


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阿仏尼の墓

阿仏尼は歌人・女御で「十六夜日記」(いざよいにっき)の作者である。
失恋を機に尼になるが、のちに還俗し、藤原定家の息子藤原為家の側室になる。
為家は正室の子を差し置いて、側室の阿仏尼の子に相続すると遺言を残したため、
その死後正室の子と相続争いが起こった。
所領よりも、和歌の名家の相続争いであった。その訴えを起こしに鎌倉にやってきた。
30年かけての判決は勝訴であったが、その前に阿仏尼は亡くなっている。
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東光山 英勝寺 浄土宗
寛永13年(1636)に英勝院によって開山。尼寺である。本尊は阿弥陀三尊。
英勝院は家康の側室でお勝といい、太田道灌4代目の娘である。この地は太田道灌邸の跡である。
英勝院は家康の子頼房の養母になり、頼房は初代水戸藩主となった。
その娘玉峯清因尼を門主に迎え開山した。そのため水戸御殿とも呼ばれた。
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関東大震災で壊れてしまった山門は篤志家によって山王ヶ谷に保存されていたが、
解体し、英勝寺に再建された。
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本堂
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阿弥陀像
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山門
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唐門

















































by gannyan1953 | 2014-08-31 10:16 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

峰之沢鉱山

歴史と素適なおつきあい番外編         2014・8・6


峰之沢橋

奥天竜を秋葉山、鳳来山を目的にドライブした。
秋葉山で、昭和18年(1943)峰之沢鉱山の火災が原因で、秋葉山神社が燃えてしまった事を知った。
峰の沢鉱山は今でも残っている建物があり、廃墟好きには訪れたい場所だ。
今でも昭和全盛時のアパートや廃坑が見られるらしい。

「石の肺」を読んで

沢田猛氏の「石の肺」は、おおかた久根鉱山のことが書かれている。
遠州じん肺訴訟についての話である。副タイトルは「ある鉱山労働者たちの叫び」

峰の沢鉱山は寛文9年(1669)にその存在を示す記述がある。
その前には武田信玄が金を採掘したという話もある。
このそばを通る「塩の道」は信州和田峠の黒曜石も運び、近くに縄文街道といわれる古代遺跡をつなぐ道もあった。
古代から銅が産出していたと思う。

秋葉の地名の由来に
①梵語に阿耆尼(あぎに)という火の神があってここから秋葉のアキ、ハは場所を表す
②アオキという植物はアキバ・オオキバと呼ばれ木の葉は焙って貼ると火傷の薬になり、
分厚い葉は、火伏せの役もあったという

鉱山の火災は
明治34年(1901)3月
昭和18年(1943)3月
昭和25年(1950)3月 とある。
この昭和18年の火災で本殿が燃えてしまったので、
お参りしたい人たちのために下社が作られた。
カーナビはこのとき建てられた下社しか示さない。

秋葉山本宮神社から北2キロに峰の沢鉱山、北10キロに久根鉱山がある。
共に銅を産出する。
このあたりは中央構造線があり、鉱山は多い。
飯田線も走りこの崩れを起こしやすい地形でトンネルを掘るのに難儀したという。

峰の沢鉱山の操業が再び起こったのは
明治40年(1907)日本鉱業の創始者、久原房之助が買収し、
第一次世界大戦の不況と鉱山火災で一時休山。

昭和13年(1938)に直営を開始してからである。
鉱床は久根と同じ含銅硫化鉄鉱である。

峰之沢産の含銅硫化鉄鉱

久根は黒色片岩に緻密塊状鉱で、峰の沢は磁鉄鉱を含む珪質の縞状ガリ鉱だという。
三波川変成帯で採れる鉱物で別子銅山が有名である。

昭和16年(1941)選鉱場ができ拡張されたが、又火災でほとんどを失う。
昭和18年1943)中国人労働者が配置され197人が到着した。
しかし2ヶ月あまりで66人が死亡し、原因は栄養失調だという。

昭和21年(1946)には復興し
昭和25年(1950)に勢いを盛り返した。
昭和31年(1956)に大きな選鉱場が完成、日本屈指の鉱山となった。

従業員700人、社宅365戸、鉄筋アパート2棟24戸、千数百世帯が住み、
学校はじめ商店もでき映画館も備えた天空の町となった。
その後貧鉱となり、銅の輸入自由化により
昭和44年(1969)閉山となった。

よろけ
間宮茂輔の「あらがね」の引用である。
間宮は作家を志し、慶応大学を中退し、大正7年(1918)久根鉱山に入社。
その2年間に見てきたことが書いてある。

このころ鉱山の飯場制度も衰え、労働者は直轄鉱員制により従業員となった。
飯場制度の賃金のピンハネ、残虐な強制労働から解放されたころの話である。


『おもうように働けなくなれば容赦なく首を切られた。
 渡りの鉱夫でもそうなれば最早やよその鉱山(やま)へ移って
 はたらくことはできなくなり、
 所属の飯場頭に泣きついて「奉願帳」を作ってもらい
 飯場から飯場へと一宿一飯の仁義をうけ、わずかな草履銭をもらって
 次の鉱山を目指してゆくのである。
 こういう消耗しつくした渡り鉱夫の末路はどうなるのか。
 曽根(間宮)は咲根(久根)にきてから見学のために入坑して、約半日
 ほど切羽(採掘現場)から切羽へと廻り歩いて岡(坑外)へ出てくると、
 はげしい咳と一緒に吐いたたんがまっ黒なのに愕然とし、
 「ああ、これだ」
   と、つぶやいた。

 「これがよろけのはじまりなのだ・・・・・」』

このころからじん肺は「よろけ」と呼ばれていた。

坑内には鉄の混ざった粉塵が漂っている。
それを吸い込むと肺の中にたまり金属が肺に沈殿していく。

最初はぜんそくと診断されていたが、珪肺・じん肺という病気である。
現在ではアスベストも入る。

たまった金属で肺が繊維化し、息が苦しくなり
治る事はなく、進行して苦しんで亡くなる。
火葬場でお骨を拾うときに黒い金属が残るという。

ある人は赤みがかった直径20センチのかたまりが残り、
その奥から硫化銅のような緑色した1センチくらいの
緑青が吹いていた。という。

体の中で緑青ができていたことには驚いた。

菅江真澄は
どこの山でもかなほりの工(たくみ)になると烟(けむり)という病にかかり、寿命も短く、
四十歳まで生きる者はまれである。
と江戸時代に書いている。

古くからあった病気である。

患者たちはじん肺訴訟を起こした。
1985年に判決が出て、損害賠償金が出された。




by gannyan1953 | 2014-08-27 17:58 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

峰之澤鉱山

歴史と素適なおつきあい番外編         2014・8・6

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峰之沢橋

奥天竜を秋葉山、鳳来山を目的にドライブした。
秋葉山で、昭和18年(1943)峰之澤鉱山の火災が原因で、秋葉山神社が燃えてしまった事を知った。
峰の澤鉱山は今でも残っている建物があり、廃墟好きには訪れたい場所だ。
今でも昭和全盛時のアパートや廃坑が見られるらしい。

「石の肺」を読んで

峰の澤は寛文9年(1669)にその存在を示す記述がある。
その前には武田信玄が金を採掘したという話もある。
このそばを通る「塩の道」は信州和田峠の黒曜石も運び、近くに縄文街道といわれる古代遺跡をつなぐ道もあった。
古代から銅が産出していたと思う。

秋葉の地名の由来に
①梵語に阿耆尼(あぎに)という火の神があってここから秋葉のアキ、ハは場所を表す
②アオキという植物はアキバ・オオキバと呼ばれ木の葉は焙って貼ると火傷の薬になり、
分厚い葉は、火伏せの役もあったという

鉱山の火災は
明治34年(1901)3月
昭和18年(1943)3月
昭和25年(1950)3月 とある。
この昭和18年の火災でお参りするために、下社が作られた。
カーナビはこの下社しか示さない。

秋葉山本宮神社から北2キロに峰の澤鉱山、北10キロに久根鉱山がある。
共に銅を産出する。
このあたりは中央構造線があり、鉱山は多い。
飯田線も走りこの崩れを起こしやすい地形でトンネルを掘るのに難儀したという。

峰の澤鉱山の操業が再び起こったのは
明治40年(1907)日本鉱業の創始者、久原房之助が買収し、
第一次世界大戦の不況と鉱山火災で一時休山。

昭和13年(1938)に直営を開始してからである。
鉱床は久根と同じ含銅硫化鉄鉱である。

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峰之沢産の含銅硫化鉄鉱

久根は黒色片岩に緻密塊状鉱で、峰の澤は磁鉄鉱を含む珪質の縞状ガリ鉱だという。
三波川変成帯で採れる鉱物で別子銅山が有名である。

昭和16年(1941)選鉱場ができ拡張されたが、又火災でほとんどを失う。
昭和18年1943)中国人労働者が配置され197人が到着した。
しかし2ヶ月あまりで66人が死亡し、原因は栄養失調だという。

昭和21年(1946)には復興し
昭和25年(1950)に勢いを盛り返した。
昭和31年(1956)に大きな選鉱場が完成、日本屈指の鉱山となった。

従業員700人、社宅365戸、鉄筋アパート2棟24戸、千数百世帯が住み、
学校はじめ商店もでき天空の町となった。
その後貧鉱となり、銅の輸入自由化により
昭和44年(1969)閉山となった。

よろけ
間宮茂輔の「あらがね」の引用である。
作家を志し慶応大学を中退し大正7年(1918)久根鉱山に入社。
その2年間に見てきたことが書いてある。

『このころ鉱山の飯場制度も衰え、労働者は直轄鉱員制により従業員となった。
飯場制度の賃金のピンハネ、残虐な強制労働から解放されたころの話である。


おもうように働けなくなれば容赦なく首を切られた。
渡りの鉱夫でもそうなれば最早やよその鉱山(やま)へ移ってはたらくことはできなくなり、
所属の飯場頭に泣きついて「奉願帳」を作ってもらい
飯場から飯場へと一宿一飯の仁義をうけ、わずかな草履銭をもらって
次の鉱山を目指してゆくのである。
こういう消耗つくした渡り鉱夫の末路はどうなるのか。
さらに悲惨なのはよろけになった者の運命であった。
曽根(間宮)は咲根(久根)にきてから見学のために入坑して、約半日
ほど切羽(採掘現場)から切羽へと廻り歩いて岡(坑外)へ出てくると
、はげしい咳と一緒に吐いたたんがまっ黒なのに愕然とし、
「ああ、これだ」
と、つぶやいた。
「これがよろけのはじまりなのだ・・・・・」』

このころからよろけと呼ばれていた。
坑内には鉄の混ざった粉塵が漂っている。
それを吸い込むと肺の中にたまり金属が沈殿していく。
最初はぜんそくと診断されていたが、珪肺・じん肺という病気である。
現在ではアスベストも入る。
たまった金属で肺が繊維化し、息が苦しくなり
治る事はなく、進行して苦しんで亡くなる。
火葬場でお骨を拾うときに黒い金属が残るという。

菅江真澄は
どこの山でもかなほりの工(たくみ)になると烟(けむり)という病にかかり、寿命も短く、
四十歳まで生きるのは者はまれである。
と江戸時代に書いている。

古くからあった病気である。

患者たちはじん肺訴訟を起こした。
1985年に判決が出て、損害賠償金が出された。


















by gannyan1953 | 2014-08-22 17:15 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

仙丸君裹首布(せんまるぎみかしゅふ)

歴史と素適なおつきあい番外編            2014・8・7

夏の旅行 2日目 ③ 長篠城保存館資料より

長篠城跡保存館で血染めの布の写真を見た。
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人質となり殺されその首を乳母たちが布に包んで盗み出した時の「裹首布」である。
裹は『か』と読みつつむ意味である。

奥平仙丸は奥平貞能(信昌の父)の次男で兄は長篠城主信昌である。
十歳で武田の人質になり、奥平氏が武田から離反し徳川に従属したときに
新城市鳳来寺門谷において殺害された。仙丸十三歳、天正元年(9月21日)のことである。
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晒首になっている首級に乳母は見るに忍びず、一旦岡崎の名ノ内(桜形町)に帰り
僧永順とともに隙をうかがって持ち帰った。
岡崎に持ち帰りたかったが武田の警戒が厳しく乳母の嫁ぎ先の夏山町に向かったらしい。
墓は当時の祐善庵、後に仙洞庵、遊仙寺と改まった。

裹首布は白地の絹で仙丸が人質に出た時、乳母が持って行った四ツ身という子供の白衣だと思われる。
この布は作り替えられ縦108センチ、横120センチの長方形の打敷(仏前の卓上を覆う布)に
仕立てられ、裏地として打掛の小袖が充てられている。その小袖は桃山時代のもので、華麗な花柄を
刺繍してある織物で貴重な文化財となっている。

この白布は岡崎の華蔵院に保存されてきた。明治12年旧中津藩主奥平昌邁(まさゆき)が
墳墓を修理、裹首布を収納する箱を寄進した。
布を入れた桐の箱には
一旦埋めて改めて夏山町殿カイトの遊仙寺に葬ったとある。
父は遊仙寺に十貫文を供養料として寄進している。
守り役として付き添った黒屋重吉も自殺しておりその行跡をたたえた「黒屋氏碑」もある。

現在は痛みが激しく岡崎市美術博物館に保管されている。

奥平家は武田から徳川に寝返ったことで、後々子孫は明治まで生き延びる事になる。
その証が仙丸君裹首布なのである。

岡崎市夏山は意外と鳳来山に近く岡崎中心地と鳳来山の中間あたりの位置だった。
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現在の夏山町  

今晩のお泊まりは、知多半島 内海の魚友 夕食は懐石コース
なんか違う

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私のソウルフードと思って予約したけど
勘違い

私のソウルフードは豊浜のマルハだった
今度行こう!!
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温泉源泉

海の見える露天風呂よろしゅうございました



参考:松坂昇一:仙丸君裹首布 長篠城保存館にてプリント入手









by gannyan1953 | 2014-08-16 15:30 | 愛知県三河の歴史 | Comments(0)

奥平氏

歴史と素適なおつきあい番外編     2014・8・7

夏の旅行 2日目 ②  長篠城保存館資料から

長篠城の城主奥平氏

出身は群馬県甘楽郡吉井町下奥平である。
室町天授年間(1375〜1380)に作手の山崎三郎左衛門を頼ってきたのが、初代貞俊である。
今川、徳川、武田に従属しながら六代まで続いた。
天正3年(1575)若くして21歳で六代貞昌は長篠城主となった。

奥平氏は、2年前に武田に従属していたが、信玄の死を憶測し徳川に寝返った。
徳川の命により元武田配下だった長篠城主となった経緯がある。

武田軍の包囲に長篠城を守り、援軍としてやってきた織田、徳川連合軍が設楽原において
有名な火縄銃の三段撃ちを行い武田騎馬軍団を打ち破ったおかげで生き延びる事ができた。

この功績で信長から名をもらい信昌と改名した。
新城城を築き家康の長女亀姫と結婚する。

その後、天目山、小牧長久手、小田原に参戦し、家康江戸入国時には
故郷上州宮崎(群馬県富岡)に3万石で封ぜられた。
関ヶ原の戦いののち加納十万石の大名となった。

のち領地は宇都宮、古河、山形、宇都宮と変遷し、吉宗の時代に
中津藩10万石となった。
版籍奉還まで続いた。

菩提寺は江戸品川の東海寺塔頭で清光院である。(東京都品川区南品川4−2−3)臨済宗
奥平家墓地は品川区指定史跡で、八十八基の墓碑と囲む土塀、石門が寛永期のものである。

国元は自性寺(大分県中津市新魚町1912)で、新城から中津に移った。

亀姫
永禄3年(1560)家康の長女として駿河に生まれた。
母は築山御前である。2代将軍秀忠、尾張義直、紀伊頼宣、水戸頼房は弟である。

天正4年(1575)に岡崎城から奥平信昌に嫁いだ。
戦国の世の輿入れで危険なので家臣が背負って嫁いだという。

新城で15年間過ごし、四男一女を儲けた。
加納において66歳で逝去。加納御前と呼ばれた。
亀姫は信昌とともに加納で隠居している。






by gannyan1953 | 2014-08-16 14:42 | 愛知県三河の歴史 | Comments(0)

長篠城址・設楽原古戦場

歴史と素適なおつきあい番外編          2014・8・7

夏の旅行 2日目 ①

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長篠の戦い

武田信玄の息子勝頼は、天正3年(1575)5月、1万5千人の兵を率いて長篠城を囲んだ。
城主奥平貞昌(後信長の名をもらって信昌)は500人の兵で持ちこたえた。
織田、徳川連合軍3万8千人が近くの設楽原で有名な馬防柵を使った火縄銃の攻撃で
勝頼は名のある武将を失い力を落としていった。


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みぎの
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右の方の山「舟着山」は写ってない


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長篠のヒーロー鳥居強右衛門
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下の川の対岸が磔場所

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)ひとりじゃなかったかも説

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武田軍の猛攻にさらされる長篠城では岡崎に使者を送り窮状を訴えた。
使者に立ったのは鳥居強右衛門である。
夜城をひとり抜け出し信長に窮状を報告し、その帰りに武田軍に捕縛され、長篠城の仲間の
見える所で磔になった。
ここに同行した人物がいるという鳥居・鈴木同行説がある。
遠山信春著「総見記」「織田治世記」「織田軍紀」に

今夜此囲ミ忍ヒ出ハ城ノ向ノカンホウ峠ニテ狼煙ヲ揚ヘシト約束ス
信昌心得タリトテ鈴木金七郎ト云フ水練ノ勇士アリケルヲモ強右衛門ニ
アイソヒケレハ両人タカヒニ心ヲ合セ五月十四日ノ夜城ノ内ヨリシノヒ
出西ノ方ノ岩根ヲツタヒ川ノ中ヘ入タリケル

他に「常山紀談」 「長篠日記」にも同行説がある。

もしホントに同行したならば鈴木金七郎氏のことも
誉め称えなくてはならない。

参考:平成19年発行「郷土」新城地区郷土研究会編集

保存館で気になったもの

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長篠城籠城のときに使われた陣太鼓
血が着いてる

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雑兵のよろい
よくテレビでみる名も無い人たちの格好だ
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金だ!金だ!と喜んだら
残念 複製だった
信玄の金山訪ねて、山梨の山登ったな










設楽原に移動する
馬防柵
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馬防柵
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設楽原の裏手に信玄塚がある


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信玄塚
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by gannyan1953 | 2014-08-16 12:16 | 愛知県三河の歴史 | Comments(0)

鳳来山

歴史と素適なおつきあい番外編    2014・8・6

夏の旅行 1日目 ③

塩の道 酷道152号線を北上、そして佐久間に入る。

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峰の澤橋
青谷ポケットパークにあるのだが、休憩所、駐車場、バス停があり、トイレは大きくてなぜかシャンプー台があった。

うん、寝泊まりできる!
なんて感心した
この橋名は、朝鮮人や中国人が強制労働し、塵肺訴訟の起きた峰の澤鉱山と同じ名で、
渡って北上すると昭和の廃墟が残っているらしい。

鳳来山神社に向かう。長い階段があるので、それを避けて頂上付近の鳳来寺パークウェイのパーキングに駐車する。
階段登らない分、駐車代500円払う。

蚊とアブに悩まされながら東照宮に行く。

うーん 虫がうるさい

鳳来寺に進む
しまっていた。
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絵馬が有名らしい。鏡付きの絵馬が目立つ
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元三太子跡

あまりの虫に写真写すの忘れた
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鳳来山
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夕方の山の景色は美しい

今夜は湯の風はづグループの宿に宿泊
ビール飲み放題コース

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玄関ロビーの熊 添い寝したいくらいかわいい






by gannyan1953 | 2014-08-15 16:37 | 愛知県三河の歴史 | Comments(0)

秋葉山本宮秋葉神社

歴史と素適なおつきあい番外編     2014年8月6日

夏の旅行1日目 ①

登山すると2時間弱で登れるそうだが、今回は暑いので車で山頂まで行ってしまう。
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秋葉神社(静岡県浜松市天竜区春野町領家841)

和銅2年(709)の創建
天竜川の上流にあり、標高866mの秋葉山を御神体山とする。
大昔、「岐陛保神ノ社」(きへのほのかみ)と呼ばれたが、中世両部神道の影響で「秋葉大権現」となった。
明治の教部省の通達で権現をはずし、全国秋葉神社の総本宮であることから「秋葉山本宮秋葉神社」と改称した。

祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)
イザナギ、イザナミの子で火の神である。古事記によると母イザナミはこの子を産んだときに火傷により亡くなっている。
火災消除のご利益があり台所にお札を貼る。

秋葉の地名の由来に
①梵語に阿耆尼(あぎに)という火の神があってここから秋葉のアキ、ハは場所を表す
②アオキという植物はアキバ・オオキバと呼ばれ木の葉は分厚く焙って貼ると火傷の薬になり、
火伏せの役もあったという。

ここには古く南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王の城があったという。
後に天野氏が秋葉城を建てたという。今は遺構はない。

古代から銅が採掘され銅精錬の炉に火が入った時
秋葉様が祀られたという。秋の火祭りに鍛冶屋が多く参拝したという。


宝亀9年(778)三尺坊というお坊さんが戸隠に生まれ、修行して秋葉山にやってきて秋葉寺(しゅうようじ)を建てたという。
明治になって寺は廃され本尊は可睡斎に移された。
三尺坊は空も飛べる天狗である。金属神の色が濃い。
やっぱり近くに鉱山があった。
その鉱山の出火で神社は焼けてしまう。
火除けの神様ピンチ!
その鉱山は磐田郡龍山村にあった峰之澤鉱山である。

峰之澤鉱山
明治40年(1907)に久原工業のちに日本鉱業が買収し開発がはじまった銅山である。
第一次世界大戦後の不況と鉱山火災により休山するも昭和になって再開、戦後に最盛期を迎えた。
従業員は700人いた。住宅、診療所などもあった。
その後、排出量、品位の低下で低迷し昭和44年(1969)に閉山した。今では廃墟として残る。


偶然だがその鉱山の名前の人道橋・吊り橋をあとで渡っていた。
青谷ポケットパークというバス停のある休憩所に吊り橋がある。
名前は「峰之澤橋」152号線瀬尻にある。
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峰之澤橋
火事と鉱山
1943年昭和18年3月13日の鉱山火災で本殿焼失したと神社の碑にある。

調べてみたら峰の澤鉱山は何度も火災を起こし記述もまちまちだが、やっと

昭和18年の記述が見つかった。

土木史の講演会資料で「秋葉古道の成立過程と果たしてきた役割などの研究」

にあった。



近くの久根鉱山とともに朝鮮人、中国人労働者を使役し後に塵肺訴訟を起こしているらしい。

悲しい過去があったようだ。

「石の肺」という小説が詳しいらしいのであとで読んでみる事にする。石の肺を読んで


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西ノ閽ノ神門
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神門をくぐると富士山のように奇麗に盛られた砂山があった
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あの丸い所に皿を入れる
入らなかった・・・
難しいよ
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鉄色に変色した手水舎
ここの水は鉄分多し
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本殿
金ピカの鳥居にびっくり!
あまり好きじゃないので画像なし








by gannyan1953 | 2014-08-15 14:54 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

中川からお江様ゆかりの満願寺を訪ねて

歴史と素適なおつきあい番外編             2014年9月20日


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鍛冶山遺跡


中川地域ケアプラザ前・・鍛冶山遺跡・・鍛冶山地蔵尊・・真福寺・・荏田宿・・虚空蔵遺跡・・関根のお大師様・・観福寺・・築地の土手・・驚神社・・西勝寺・・満願寺・・あざみ野駅・・中川駅(9キロ)

鍛冶山のいわれ 

登記地名は鍛冶屋である。
江戸後期に大久保新蔵という人が越前で鍛冶の修行を積みこの地で野鍛冶をしていた。
ところが、どこの誰ともわからない人から刀の注文を受けた。
怪しんでみたものの、手付け金をもらってしまった。刀を作るには危ないと思い、
場所も精進場谷の方に借りの小屋を作り、刀を作成した。
仕上がった時に手入れが入り、刀は没収、家族共々捕縛され白州で打ち首と申し渡された。
ところが奉行が憐れんだのか今後、金釘、農具を打つことのみ専念するなら赦すといわれた。
それから新蔵は釘鍛冶に専念したという。
のちに鍛冶屋のあたりが駒沢女子短期大学の所有となり、整地したところ、金属屑が大量にでたという。

鍛冶山遺跡 (ゆうひがおか公園) 

縄文早期の人々の暮らしがあり、古墳時代の盛り土古墳が3基あることから、近くの虚空蔵山古墳とのかかわりを示し古墳群であった可能性がある。

鍛冶山地蔵尊 (中川3−30) 
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宝永3(1706)年の銘があるお地蔵様である。
江戸時代に正念寺という寺の山門前にあったという。
鎌倉街道沿いにあり、子育て地蔵として信仰があった。区画整理により移築された。
宝永4年に富士山の噴火で起こった宝永地震があった。
できたてのお地蔵様はいっぱい灰をかぶったことだろう。

荏田宿庚申塔 
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江戸中期寛政5年(1793)に荏田下宿の婦人たちによって勧請され、
平成6年に改築された。道標と健脚祈願。

荏田宿
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早淵川と布川が落ち合う窪地にある宿で、問屋、旅籠、油屋。足袋屋など35軒ほど軒を連ねていた。
特に夏は大山詣が盛んであった。江戸日本橋から7里。道幅は3間。下宿・中宿・上宿に分かれる。

下宿旅籠「枡屋」に渡辺華山投宿の記録あり。宿に入ると秋葉講の定宿を示す常夜塔が残っている。
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渡辺華山の絵

養老山真福寺 (青葉区荏田町 432−8) 本尊 :千手観世音菩薩  宗派 :真言宗
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開創年代は不明。
創建当初は現在地の北方3.4kmにあったが、大正11年に本堂の老朽化のため観音堂があった現在地に移転。
当初の本尊・薬師如来と釈迦堂の釈迦如来(重文)はその時に客仏となった。

本尊の千手観音立像は本堂にある。平安末期の作で前面は頭から裾まで一本の木で彫られ、
天冠、頭髪はていねいに彫刻されている。
一部に彩色が残る。
もとは彩色され見事な姿だったと思われる。
12年に1度の子の年に開張される。釈迦如来立像は、昭和8年国の重要文化財に指定される。
京都清涼寺本像を模刻した像で頭髪は縄を巻いたような形で首まで衣が覆っている。
衣文は美しく彫りだされ、やさしい表情をした清涼寺式釈迦と呼ばれるものである。

毎年4月8日と8月17日に開張される。

真福寺の盆供養
もとは毎月17日に観音講があった。今では8月17日に釈迦如来が公開される。
観音講なのに釈迦如来公開なのだろうか?
今度でかけてみて、確認したい。

17日は家康の忌日でそれに関係すると思われる。群衆が殺到したという。
渡辺華山が桝やから聞き書きしたものを「游相日記」に書いている。

観音講といふありて馬の売買をなす。
近きまわりはいふもさらなり。
遠き国よりも、馬もてるかぎりは、牽ききたりて、売っ買っせるなり。
おのが持てる馬にあき、又は、畜かたき馬なぞは
よき馬のようにこしらえなして、互いに見極めて買ふなり。

この馬市は2月17日に行われたらしい。
明治になると8月17日だけとなった。
法要が行われ、双盤念仏が行われるという。

参考:江と石川村:横溝潔

虚空蔵菩薩・虚空蔵遺跡 (現在アルスあざみの) 
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虚空蔵菩薩
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虚空蔵菩薩の手前にある像

虚空蔵遺跡は、縄文から中世の遺物が発掘された。
虚空蔵菩薩が祀られていたのでその名称となった。

山の頂上に松の木が一本あり古い街道があり、有馬に向かう鎌倉道があったという。
中世の烽火の跡があり、近くの荏田城とのかかわりがあったと思われる。
このあたり荏田古墳群といって古墳が多い。その中で一番古い古墳だそうだ。

関根大師 (荏田町297の裏) 
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柳水弘法大師縁起によると、四国八十八カ所の摩盧山(まろざん)焼山寺から
享保元年(1801)に勧請されたお大師様がある。

このお大師様の近くに柳の大木があって水が湧き出た。
病気だった人がその水を飲んで治ったという。
地名が関根だったことから「関根のお大師様」と呼ばれた。

宝剣山観福寺(青葉区荏田町328)真言宗豊山派
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嘉禄元年(1225)印誉和尚が開山。
本尊は如意輪観世音菩薩。縄文から中世までの観福寺遺跡、観福寺北遺跡、
その後ろに釈迦道(しゃかんどう)遺跡、さきほどの虚空蔵遺跡と遺跡が多い。
裏には「らんとうば」という地名が残る。卵塔場は代々の住職の墓のことをいう。
本堂の上にお墓があり登りつめて行くと都筑区が一望できるほどの景観がある。

関根稲荷
市営地下鉄ブルーラインの脇、マンション裏に関根稲荷がひっそり鎮座している。

築地の土手     荏田村から石川村の築地の土手
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早淵川合流地点・このあたりから土手があった。


場所は青葉区新石川4丁目と荏田町の境あたり。
国道246号線を渋谷に向かい「新石川」の交差点を左折、信号「新石川東名下」の左に早淵川がある。
そのあたりから北東方向ヒルハイツたまプラーザの麓まで築かれていた。
江戸時代、荏田村と石川村の境界に北の山から南の丘に一直線に築土して堤が作られた。
高さ4m長さ300mで、由来ははっきりしていない。

①松沢由貞(よしさだ)著「都筑が丘」にある。
松沢由貞氏は荏田宿小松屋に生まれ教員、市会議員を勤めた。
「その昔早淵川は唯一の水源で旱天の水不足には水争いも起こった。
両村もそれがもとで仲が悪く、下流の荏田村では水をくれないなら一滴も欲しくないと
この土手の築造がはじまった。

流木を防ぐため谷の奥に貯木したところが「保木」
一面に冠水した所は「平川」
牛を集めて避難させた所は「牛込」
船を出して村の交通にあたった部落は「船頭」
真偽のほどはわからないが、面白い伝説である。」
土手は昭和22年農地改革のときにすっかり取り壊された。


②安田卓全氏は心行寺の住職で氏が書き写した「山内の沿革及びその歴史」に
もう少し古い話がある。

「築地の土手は荏田石川の境で青山街道に沿っている。
稲毛重成(畠山重忠の一族小山田有重の子)が枡形城から小机城に赴く折に通ったもので、
曰く鎌倉道である。
土手の長さ30間、幅5、6間で、篠笹と芝が覆っている。東西に築かれ
中程で早淵川に中断されている。米軍の航空写真に見られるという。」


③戸倉英太郎著「古道のほとり」には、

「観福寺の手前から登り寺の下谷に下る小径は古道であると思われる。
下谷で早淵川を渡る、驚神社がある。
驚神社は水神であると考える。
築地土手〜下谷の東部で早淵川が南に湾曲する。
その曲がり角より新大山街道の西に沿って大きな築堤址がある。之を築地土手という。

この土手が何のためにいつ築かれてかは定かではない。この土手が水除けのものか、
道路になっているのかわからないが、東方丘陵(現あゆみが丘)に刑場牢獄の跡が伝わるので
或は東海官道の名残ではないか。」

これは、古代の道ではないかという説である。


④最後にご近所のみなさまの言い伝えから・・・

中川の大久保太一さんのお話は「水争い」

下谷の工藤豊さんは「けんか土手」と聞いた。

横溝智美さんは「この地で耕作をしていたが、納得できる話はなかった。」

飯島正寿さんは平将門が京都に任官で行くときにこの官道を通った。

松井治郎さんは江田源三と稲毛重成の勢力争いの所産と聞いている」


この土手は石川村にメリットがないという。ということは水の調節以上の目的をもっていた可能性がある。

参考:都筑・橘樹地域史研究(横溝潔氏「石川村・荏田村境の築地の土手の一考察」

驚神社(青葉区新石川町1ー24ー9)
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祭神は素戔嗚尊である。
奈良時代からあったという。古代に石川の牧という馬を飼育する場所があったため、
馬を敬うことから神社名になったといわれる。
秋の祭りには保木、平川、荏子田、船頭、牛込から山車、神輿が集まり
牛込獅子舞が奉納される。

戦時中は出征兵士の出陣式、戦勝祈願など行われた。
戦後は都市部からの買い出しで沢山の人が訪れたという。
20年前でも鬱蒼とした緑が多い場所であったが、今では、マンションに囲まれ姿はかわった。

西勝寺(青葉区新石川1-10-8)浄土真宗西本願寺派
1559年純能法師の開基と伝わる。
江戸末期1045年に火災があり文献を焼かれ、詳しい事はわからなくなった。
火災の原因は旗本が美しが丘あたりで花火大会を催し、
その火の粉が西勝寺の屋根に舞い、全焼したそうである。
1863年に再建された。
明治になると地域の文化の中心となり若者たちが集い、子供の教室など開かれたが、
公立の学校設立でその役割も終わった。


金剛山成就院満願寺 (青葉区あざみの4−27)真言宗豊山派
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満願寺に徳川家のお位牌がある。

なぜかというと
石川村、王禅寺あたりお江様の化粧料地だった。
化粧料地とは、身分の高い女性の財産、持参金のことをいう。
化粧料とは夫人の小遣いを意味する。
領地と化粧料地の違いは将軍家に対し軍備の提供を化粧料地はしなくてもいいことである。
この化粧料地は崇源院死後、増上寺の御霊屋(みたまや)料地となった。
徳川家の菩提を弔うための費用を賄うためである。

運良く住職さんと会う事ができ、話を伺った。
興味深かった事は、石川村の人たちが江戸時代幕府に優遇されていたこと、
それはなぜか?
お江様は増上寺でたったひとり荼毘に付されている。
やはり毒殺説があるからで、その真相を石川村の人々は
知っていたのではないかと言うのである。
大河ドラマで「お江様」が放送された。そのとき
徳川の現在の当主 徳川恒孝氏が訪れたという。
住職はお江様についておたずねしたそうである。
恒孝氏は「何も伝えられたものはない」とお答えになったそうである。
徳川家にとってお江様は煙たい存在だったのかと推測される。

お江様とは  お江様と増上寺

徳川二代将軍秀忠の室で、お江与、達子という。
父は、近江の小谷城主浅井長政で、母は織田信長の妹お市の方である。
天正元年(1573)に小谷城で三女として生まれる。

浅井氏が信長に滅ぼされると母や姉(後の淀君と小浜城主京極高次の室・お初)と共に
信長に養われ、信長が滅びた後、柴田勝家に養われ、勝家が秀吉に滅ぼされたとき母も失った。
次に秀吉に養われ、秀忠には、6歳年上、再々婚で嫁いだ。

本とか嘘かわからないが、春日局(家光の乳母)と仲が悪く大奥話を面白く色どった。
春日局は明智光秀の家老の娘、お江様からすると叔父信長を滅ぼされた敵である。

そして家光、忠長、千姫、子々姫、勝姫、初姫、和子を生んだ。

寛永3年(1626)9月に亡くなり「崇源院殿昌誉和興仁清」という法名である。



石川村の地名の由来―早渕川の水が澄んでいて、川底がほとんど岩なので石川と呼ぶようになったという。早渕川は王禅寺が源流である。

山内村の地名の由来―増上寺の御霊屋料地だったことから増上寺山内と呼ばれたことからという。

お位牌がなぜあるのか

満願寺は元和2年(1616)の過去帳に寺主の名があるそうで、
このころには存在したことになる。

満願寺がここにあるのは、増上寺の裏鬼門にあたり守護の役割があったためと思われる。

江戸時代の石仏もあり、中には康安2年(1362)の板碑もあり、
このあたりの土地を支配した有力者の影がみえる。

ところで満願寺と増上寺を直線で結ぶと目黒区の祐天寺が線上にある。
祐天寺も増上寺の裏鬼門であるかもしれない。
祐天寺は享保3年(1718)増上寺の第 36世祐天上人の遺志を継いだ弟子祐海が
将軍吉宗の保護で上人の遺跡に開創した寺である。
この祐天寺のある目黒一帯ももとは崇源院の御化粧料地だった。
寛永9年(1632)以降石川村と同じく御霊屋(みたまや)料地となった。


御霊屋とは
各御霊屋の維持費を賄うための寺領は、幕府直轄でもなく旗本領、大名領でもなかった。
元禄時代には増上寺のなかに輪番所が設けられ輪番の寺僧と役人が
寺領から御霊屋料の出納や村へのお触れ、領内の管理、訴訟の対応、村役人の任免を担当した。
寺領の農民は寺領特有の雑税の負担をするが、助郷役、鷹狩り人足、国役金の負担は免除された。
年貢高も低く定められ年貢米を運搬する人足、境内草刈り人足、正月、盆の御用を勤める
増上寺宿坊の泊まり人足、増上寺周辺で火事があったときの人足など、人、馬を提供しなければならなかった。

金納化されたものが、年貢米を運ぶ船頭の給金、寺領の村々に通達を回す
人足の給金、境内掃除に使う箒の代金などである。
正月の門松、施餓鬼の竹も現物で納めた。
この門松の上納をめぐって石川村と王禅寺で争いが起きている。
寺領の農民は最初は幕府への帰属意識が天領の農民以上に強かったが、
近世後期にはいると、御霊屋離れが生じてきた。
背景に増上寺の役体系の変化、村の階級分解、一番に増上寺を崇める意識の低下があった。

幕府の力が弱まり飢饉、農村の荒廃、富裕層の出現もあって没落農民が増えた。
これが、不穏勢力となって関東を取り締まる八州めぐりが設けられた。
そんな農村社会の変化が増上寺寺領の支配も変化した。
寺領の村々はいろいろな請願を行うようになり、おおむね成功したらしい。
寛政四年(1792)王禅寺村では諸役負担に反対し村方騒動を起こしている。
要求は認められている。文化二年(1805)王禅寺村の名主は御霊屋領二十五ケ村の肝入名主になり、
諸役の免除活動の中心になった。
そのため、請願の歴史、伝えられてきた事由の考証、守護不入(領主が租税を徴収できない)、
各将軍の来歴、鷹狩りをする場所、火付盗賊改め(犯罪の取り締まり)、
上知(土地をお上に返上すること)などの学習に努めた。

文政十一年(1828)石川村で焼けた増上寺のための冥加金で村方騒動が起きた。
文政十二年(1829)先の王禅寺名主により、増上寺独自の組合結成が認められた。
組合村とは、領主権限を越えた治安維持を展開するため組合を設定しようとする幕府の政策だった。
これは助郷割合、年貢徴収などの組合だった。
これに断固反対し増上寺独自の組合を主張した。増上寺にとっても村々にとっても広い連帯と免除特権を守り抜く組合であった。 参考:増上寺上納御門松之一件(青葉区古文書之会編)

  
参考:緑区歴史講座・史跡探訪1988・「元石川今昔」・旧鎌倉街道探索の道 中道編・港北百話・ブログ増上寺の寺領・荏田の地名:吉野孝三郎 江と石川村:横溝潔



 
 
by gannyan1953 | 2014-08-05 10:05 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)



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