歴史と素適なおつきあい

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家康没後四百年 小杉御殿を訪ねて

歴史と素適なおつきあい番外編                  2015・4・4

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集合場所:東急東横線「多摩川駅」改札口 
昼食:等々力緑地弁当可・レストランもあり 
多摩川・・多摩川台公園・・古墳展示室・・丸子橋・・長屋門・・石橋醤油店・・小杉陣屋跡・・西明寺・・カギ道・・小杉駅供養塔・・庚申様・・小杉十字路・・等々力緑地で昼食・・二ヶ領用水・・泉沢寺・・街道地蔵・・常楽寺・・二ヶ領用水・・今井神社・・住吉神社・・元住吉駅 


多摩川台公園

川岸の丘陵からは多摩川の流れ、富士、丹沢、箱根を一望できる。
そうした地は古代より好まれ豪族の墓である古墳が築かれた。
ここには4世紀から7世紀に」造られた古墳が10基点在し、亀甲山古墳、
北側に宝来山古墳、その間にある8基の古墳は多摩川台古墳群といわれている。
公園には古墳展示室が併設されている。

武蔵国造の乱 日本書記「安閑記」
武蔵国では、笠原使主(かさはらのおみ)とその同族小杵(おき)が
国造(くにのみやつこ・国を治める豪族)の地位をめぐって争っており、
年を経ても決めがたい状態であった。
小杵の性格は、けわしく逆らうことがあり、心は高慢で素直さがなかった。
そしてひそかに上毛野君(かみつけぬのきみ)小熊(おぐま)に
援助を求め使主を殺そうとした。
このことを知った使主は、逃げて京へいけり、そのありさまを訴えでた。
朝廷は裁断を下し、使主を国造とし小杵を誅した。

国造使主はかしこまり喜んで

横停 (よこぬ)  ―多摩横山と埼玉県横美郡の2説がある
橘花 (たちばな) ―川崎市横浜市東北部 
多氷 (たま)   ―多摩
倉樔 (くらき)  ―横浜市南部

の四ヶ所の屯倉を献上した。 とある。   古代の武蔵の国           



上毛野と上野毛のかかわり?
のちに上毛野は上野にかわり、上野(こうずけ)(群馬)、下野(しもつけ)(栃木)となり、
ふたつあわせて両毛という。
上野毛の野毛は多摩川の崖(はけ)からきた地名といわれている。

多摩川浅間神社
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祭神:木花咲耶姫命コノハナサクヤヒメ
鎌倉時代、頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣したおり、
妻政子が後を追いここまでやってきた。
ところが、わらじの傷が痛みだし多摩川河畔で治療した。
しばらく逗留している間に亀甲山に登り富士山の景観に感動した。
政子は夫の武運長久を祈り正観世音像をこの丘に立てた。
村の人々は富士浅間大菩薩と呼び崇拝し、浅間神社の起こりとなった。
承応(じょうおう)元年(1652)浅間神社表坂の工事の際
唐銅製の聖観世音像が発掘された。
多摩川で泥を洗い落としたら片足がなく足を鋳造した。

中原街道

江戸と平塚を結ぶ道は「中原街道」と呼ばれた。別名には「相州街道」、
平塚で作られた酢を運んだので「お酢街道」
「江戸間道」「小杉道」「こやし道」などがある。

中世以前からあった道で平塚には古東海道が残り、一部は鎌倉時代の下の道でもあった。
北条時代に整備され狼煙(のろし)をあげる場所があったため直線が多い道である。
家康が江戸入りしたときや、久能山から日光に遺骨が運ばれた時も利用されている。

江戸時代虎ノ門から平塚にあった中原御殿を結ぶ道だったため「中原街道」と呼ばれる。
家光の時代まで鷹狩の際、小杉御殿、中原御殿に休憩、宿泊をした。
東海道が整備されると幹線からの役目はなくなるが大名の多い東海道を嫌い
庶民にはよく使われた。
直線でつながれているため最速ルートの脇往還となった。
赤穂浪士も人目を避けるために利用している。

宿は設けられず継立場として小杉、佐江戸、瀬谷、用田がある。


丸子の地名

*渡し守りから守る子、モリコ、マルコに変化したという説
*多摩川の流れが丸く蛇行していて丸子になった説

古くは吾妻鏡に「丸子庄」とでてくる。円覚寺の文書には「丸子保」、
1477年の文書には「武州稲毛庄鞠子郷」、1478年には
太田道灌が「丸子城、小机城に籠もる」、
1486年道興准后が丸子に詠めるうたとして(廻国雑記)
「東路のまりこの里に行きかかり、あしもやすめずいそぐ暮れかな」とうたっている。 

准后―貴人のこと
丸子城は、太田道潅に追い詰められた長尾氏の家来が立てこもったという城で、
日枝神社がその跡といわれる。

丸子の渡し

中原街道を通る人々にとって昭和10年に丸子橋が完成するまで渡しが
唯一の交通機関だった。
丸子の渡しの創始者は、徳川幕府の御用を承ってはじめた
大貫市郎兵衛という人で岡本かの子の祖先にあたる。

* 明冶元年、備州兵が丸子の渡しに陣を構えた。人足242人を提供する。

* 渡し場の近くに青木根、松原集落があったが、明冶43年大水があり、
大正9年の築提で姿を消した。
青木根と、松原には50軒ほどあり、天神町に移転させられた。

* 東横線鉄橋の河川敷にお伊勢様と親しまれた伊勢神社があった。
築堤工事のおり、神社あとの高さ4メートルほどの丘から人物の埴輪が出土した。
6世紀のころの古墳であることがわかり、上丸子古墳と名付けられた。
男女一対で男性には右胸に弓が、女性には盾があるとみられた。
戦闘時、女性も参戦したと思われる。
その埴輪は震災で消失してしまったが、神社脇に住んでいた白井家が
別の土偶を所有していたことがわかり、平成8年に市民ミュージアムに寄託された。


安藤家長屋門


江戸時代の中ごろ江戸の代官屋敷より移築されたと伝わる。
安藤家は小田原北条配下の武将だったが北条滅亡とともに土着して代々名主をつとめた。
安藤家は小杉宿の問屋をつとめた。

石橋醤油店
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明冶3年、農業をしながら醤油作りをはじめた。
大正12年には醤油醸造が専業となり商標は「キッコー文山」であった。
現在、醤油醸造は行っていないが、当時の製造蔵が残る。

原家は江戸時代、肥料商を手広くやっていて、方々に石橋を造ったため、
石橋という屋号でよばれた。
原家の親戚も好んで屋号として使ったという。
もともと千葉氏の流れをくむ旧家で、二十代続いている。
名主百姓だった原家は吉良氏が勢力を伸ばしてきた時、吉良氏の傘下となった。
子孫の中には紀伊国屋文左衛門と吉原で花魁道中をした人がいたらしい。

小杉御殿跡
小田原北条氏が滅んだあと、徳川家康は関東に入府し、
慶長8年(1603)に幕府を開く。
それから、二代将軍秀忠は、近郊各地に御殿とよばれるものを造った。

表向きは鷹狩などの遊興のためとなっているが、実際には領内の状況視察、
譜代家臣の結束のためと思われる。
慶長2(1597)年、代官になった小泉次太夫が小杉陣屋を設けた。

二ヶ領用水を造営するさいの現場事務所として使った。
慶長13(1608)年、ここ小杉に御殿が造営された。

家康は、すでに将軍職を二代秀忠に譲り、駿河に退いていたが、
幕府の実権はまだ握っており、駿河と江戸の往復の際、
小杉御殿を宿舎として利用していた。

小杉御殿は、家康の送迎のほか、鷹狩の休憩に使われ、
一度荒廃したものを西国大名の参勤交代の宿舎にも利用した。
その後東海道が主街道になると廃れていき、明歴元年(1655)品川東海寺に
御殿の資材を譲り渡した。
万治3(1660)年には、ことごとく廃止された。
御殿は1万2千坪におよび石橋醤油店の先から西明寺あたりまであった。

西明寺 真言宗智山派
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龍宿山金剛院西明寺縁起によると、西明寺の名は遠く弘法大師が勅命をうけて
唐に渡ったときの宿房の寺号だという。
帰国後この地に留錫し高弟泰範に命じ堂宇を建立するとある。

北条時頼が中興の祖といわれている。
時頼にちなむ弁財天がある。欄干は高村光雲の弟子の作、時頼の木像とその歯、田沼意次の妻の墓がある。

小杉学舎が置かれ近代小学教育の場となった。

別説
龍宿山金剛院西明寺でもとは川崎市有馬にあり、有馬西明寺に霊泉があった。
大化3年役小角によって霊泉の源のなる滝が発見される。
聖武天皇勅願の影向寺の文書に

「聖武天皇の子、安部内親王が病にかかりこの地の春日宮に祈祷に参られ
泉で沐浴すると病は治り(天然痘らしい)そのお礼に西明寺を建立した。
村上天皇、朱雀天皇、源頼義、義家、頼朝、北条時頼など帝、武将が療養した」

と記されている。

天安2年(858)円任により影向寺の末寺となった。
1433年の地震で有馬西明寺は倒壊し、再建されないままであったが、
1444年ころ鎌倉北条氏滅亡後に小杉に住んでいた鎌倉浪人によって有馬から小杉に移された。

有馬の霊泉は正嘉元年(1257)の地震により途絶えたりしていたが
昭和40年源泉が発見され今は「有馬療養温泉」になっている。

この霊泉は安岡という人が八幡神のお告げで有馬の土地を購入、水道がひかれていなかったため、
井戸を掘ったところ汚い水がでて半年もすると水が澄んできた。
風呂水に使ったら赤い色にかわったが、妻のリュウマチが治ってしまった。
驚いて調べてみたら鉱泉で古い歴史があることを知ったという。(有馬療養温泉旅館)

カギ道
小杉御殿を敵から守るために作られた道で城下町によくみられる。
ここは背後の多摩川、さらに西明寺や近くの泉沢寺もあわせて御殿の守りが固められていた。
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原家跡

小杉陣屋跡 妙泉寺跡

小杉陣屋の陣屋は江戸時代はじめ小泉次太夫がニヶ領用水工事のために陣屋を
もうけたことによる地名である。
小杉駅供養塔によって宿になったことがわかる。

小杉駅供養塔

川崎宿より50年遅れ延宝元年(1673)に小杉も宿になった。供養塔に稲毛領小杉駅、東江戸、西中原とある。


庚申様
庚申様を祀った供養塔。昔から油屋の屋号をもつ小林家の角にあったので「油屋の庚申塔」とよばれた。台座には南大師道と刻まれている。
昔はこの地点で大師にむかう府中街道と分かれていた。



小杉十字路

明冶になって街道を整備、十字路付近は料理屋、旅館、劇場が集まり賑わっていた。


二ヶ領用水 神地(ごうじ)橋
多摩川中流の南岸、中野島から取水して稲城、川崎の二ヶ領を潤す大用水として慶長16年に完成した。
多摩川北岸の六郷用水と同時に、小泉次太夫の進言と指揮により完成まで14年かかった。
この工事は、家康からの黒印状を与えられた、幕府直轄普請事業であった。
黒印状は天領だけでなく、私領の農民も人足として徴発できるもので
幕府権力を背景にしたものであった。

次太夫は小杉陣屋近くに妙泉寺をたて事業の完成を祈願した。

100年後に、川崎宿名主田中休愚により、多摩川、二ヶ領、六郷用水の総合的な治水が行われた。
しかし、流水量が減ると水争いが起こり訴訟、実力行使などの騒動がよく起こった。
昭和になってサイホン原理で湧き出る水を灌漑面積に応じて下流へ配分する
円筒分システムがコンクリートで造られ、水騒動もなくなった。このシステムは全国に普及した。

泉沢寺 浄土宗 本尊:阿弥陀如来
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世田谷に勢力をもっていた吉良氏の菩提所として延徳3(1491)年烏山に創建された。
諸堂焼失のため天文19(1550)年吉良頼康が上小田中に再興した。
吉良氏は税を免除して居住をうながし、門前町を開いてこの地の繁栄を図った。
吉良氏は小田原北条と強い結びつきがあり、世田谷から横浜蒔田まで勢力が及んだ。
かつて寺の周りには構え掘りとよばれる1.8mの堀があった。
今それはなくなり二ヶ領用水となって姿をとどめている。
吉良氏が寺を再興する時勢力南下のための拠点とする目的があったと思われる。
北条滅亡後勢力は衰えるが、上小田中に吉良氏の家来が、
大谷戸(おおがやと)はその家来の原氏が開墾したといわれる。

世田谷吉良氏

吉良氏は足利氏と祖を同じくし、本家は赤穂浪士事件で有名な吉良上野介の三河吉良氏でその支流になる。
鎌倉公方足利基氏より武蔵国荏原郡世田谷を拝領した。
豪徳寺が本城で支城に奥沢城おもいはせの路がある。
道潅とともに長尾景春の乱で豊島氏と戦い江戸城を防衛している。
吉良頼康の代のとき、小田原北条の武蔵進出により、北条氏綱とは婚姻で関係をむすび、
世田谷城(豪徳寺)を北条に譲り、蒔田に移った。
秀吉と小田原北条の戦い(小田原の役)では吉良氏は戦わず逃亡し、吉良氏は秀吉に領地を、没収された。
のちに家康にとりたてられ「高家」となり1125石「蒔田氏」とよばれる旗本になった。
本家三河吉良氏が赤穂の事件後断絶した時、蒔田姓から吉良姓に復姓し、
明冶に知行地であった千葉県長生郡寺崎に移った。


街道地蔵
用水に落ちた子供の供養、街道で行き倒れになった人の供養、川ざらいした時にみつかった
仏像を祀るなどいろいろいわれている。

今井神社
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頼朝の時代、小宮筑後守入道道康の霊を祀り創建。山王社と称したが
明治時代に入り日枝神社と改称、
明治43年旧今井村内にあった弁財天社・稲荷社を合祀、今井神社と改称した。
平重盛が崇拝したと伝わるが、丸子の日枝神社も重盛が崇拝、再建したと伝わる。

住吉神社
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 元住吉駅モニュメント





参考文献 :神奈川の歴史散歩、多摩川台古墳、
インターネット:m@ryko 坂東千年王国、歴史の道探訪 中原街道コース ウイキペデイア
        はぐれ旅、有馬療養温泉,城めぐり.com.神奈川神社庁



by gannyan1953 | 2015-02-26 17:01 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

出羽三山に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編                2014・9月 

出羽三山に行ってきた。
羽黒山は現世、月山は死後、湯殿山は未来だそうだ。
未来から死後、さいごに現世の順で回ったが、ツアーだから文句いえない。

目的は将門様創建の五重塔である。

では訪問順で

湯殿山神社   鶴岡市田麦俣字六十里山7
祭神:大山祇神・大己貴命・少彦名命
出羽三山の歴史は御開山1400年余という古い歴史がある。

自然信仰の古神道から始まり神仏習合され皇室、武将たちに崇敬された。
明治までは真言宗の寺だったが、廃仏毀釈で昔の山をご神体とするようになった。
芭蕉も「語られぬ湯殿にむらす袂かな」と読んだ。

語るなかれ聞くなかれといわれるので多くは語らない。



参道にあった丹生水上神社
丹生(赤)ではなく水は鉄色

行きは強制的にバスで登り参拝後は歩いて帰ってこれた。
修行する方には会えなかったがぽかぽか気持ちよく18分かかって
先ほどの鳥居到着。運良く湯殿山が見えた。


月山
   
8合目弥陀が原にバスで到着。
気持ちのいい遊歩道を一周したが駐車場に戻ったときには
霧がでて幻想的だった。
間違って画像消去のため写真なし!

羽黒山
将門創建と伝えられる五重塔
夜の参道を照らす蛍石という
山伏さんの案内で進む
参集殿
正式参拝をした
新幹線の中から福島すぎて十五夜の月が見えた
東京に着いたら雨だった・・・




by gannyan1953 | 2015-02-19 10:52 | 山形県の歴史散歩 | Comments(0)

湯殿山に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編       2014・10・13

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湯殿山神社

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羽黒山五重塔


湯殿山讒言殺人事件


湯殿山神社には別当寺として本道寺、大日坊、注連寺、大日寺の真言宗の4寺があった。
女人禁制だったので注連寺などは女人がお参りできる寺だった。

江戸時代、羽黒山にミシュランで騒がれた石段を作ったのは羽黒山の「天宥」である。

天宥は湯殿山に真言密教から天台宗に改宗するよう説いた。
が、この別当は拒んだ。

この問題は幕府を巻き込み
沢山の即身仏を生み、
番人を殺害する殺人事件、
流刑にまで発展していった・・・・


室町末期まで出羽三山は湯殿山ではなく葉山、羽黒山、月山だった。 
湯殿山は出羽三山奥宮という立場だった。
領主が最上家から酒井家に変わった事で葉山は没落し
かわりに湯殿山が組み入れられたという。

江戸時代になって天宥は徳川家光と親密な天台宗天海に近づく。
そのとき天海から天宥とい名をもらった。

天宥は羽黒山に東照宮を作った。
ところが、天海が亡くなってしまい、天宥は讒言により大島に流される。

昭和になってわかったことだが、大島ではなく新島だった。
新島で有名ではなかったためなのか、昭和まで残されていた掛け軸などの
書は焼かれてしまったという。

讒言とは
天宥は百姓一揆の者を匿ったり、沢山のお金で伽藍を作ったことで
既存の羽黒集団と行き違いがあったと思われる。
天宥は湯殿山を出羽三山に組み入れ、天台宗に改宗させることで、
幕府に訴訟を起こしている。が、ことごとく敗訴する。

領主酒井忠勝と百姓一揆の件で対立し、幕府の調べも酒井家が行った事
で、天宥には不利な訴訟だった。
裁判中に羽黒側は湯殿山の番人を拷問したり
殺害もしている。

湯殿山の方はは即身仏になることで真言系をアピールしたかったのかもしれない。
空海の開いた真言密教の説く即身仏になり、名前は空海の「海」が全部に
つけられている。

本明海上人、全海上人、忠海上人、真如海上人、円明海上人
鉄門海上人、光明海、明海上人、鉄龍海上人、仏海上人である。

本来4つの別当は、天宥が現れる前、真言系を意識していた訳ではなく
とにかく吸収されまい!天台宗に改宗しまい!と
即身仏になる人が続いた。



そして明治になって神仏分離令後、
湯殿山は山をご神体とする湯殿山神社に
大日坊と注連寺は真言宗の寺に、
本道寺は口ノ山湯殿山神社に
大日寺は大日寺跡湯殿山神社になった。

空海は鉱山を見つける事が上手かった。
ここには過去に鉱山があり金、銀、銅、亜鉛など採掘された。
湯殿山あたりは鉄色(血の色)の水が流れていた。

平将門を追って出羽にきたのだが、
とんでもない宗教争いを見てしまった。

参考:制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所
by gannyan1953 | 2015-02-19 10:46 | 山形県の歴史散歩 | Comments(0)

寺家の歴史

寺家の歴史
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 鴨志田氏の供養碑ではないかといわれる
県下最古の板碑
 
寺家の周辺の遺跡
寺家周辺には朝光寺原遺跡(市ケ尾)、長者原遺跡(江田)稲荷前古墳群(大場町)など古代遺跡が多い。
寺家にも横穴古墳(下三輪玉田谷戸古墳群)がある。
古代から人が住み今でも畑から土器がでてくるという。
中世12世紀ごろ在地の武士が力を付け始め、騎馬、弓を中心の戦闘力を持ち軍事力を背景に開発、開墾が進んだ。
開墾者は国府に開発を申請し、従者や放浪している百姓など集め開発団を組織した。

寺家に起こった武士団
寺家は谷戸が多くわき水も多いので、水田に適し武士団の成長を早めた。
開発された土地は数年間課税されず、その時期が終わると課税を嫌い貴族、寺社に荘園として寄進した。
相応の年貢は納めるが、自らは荘司となり現地の管理者となって支配した。

寺家周辺のの御厨・国衙領
寺家周辺では榛谷御厨(はんがやみくりや)恩田御厨、小山田荘などある。
御厨とは伊勢神宮領のことである。
国の支配地は国衙領として八佐古郷、佐江戸郷、市尾郷、石河郷、恩田郷、鴨志田郷、黒鉄郷、勝田郷、麻生郷、河井郷、小山田保などあった。
都筑区に住む人にはなじみのある地名である。

これらの郷には役人が軍司となって在地の武士がこの役を勤めた。
頼朝が挙兵し東国武士の棟梁となった。
平家の武将が頼朝に加担していたのは開墾地の権利保持のためであったと思われる。

頼朝上洛
建久元年(1190)頼朝上洛に従った者に
鴨志田十郎、石河六郎、都筑三郎、都筑平太、江田小次郎、奈良五郎など
寺家周辺の武士たちが加わった。
これら武士たちは開発地の地名を名字とし、鎌倉に近い領地だった。

鴨志田氏、大曽根氏の没落
鴨志田氏は頼朝亡き後畠山重忠に近い存在だったので畠山の死後離散した。
鎌倉時代大曽根氏は安達泰盛に近い存在で霜月騒動で失脚する。
そして鴨志田氏同様に百姓になった。
鎌倉幕府が滅亡すると寺家周辺の武士の名が見えなくなってくる。

東円寺
南北朝、室町時代になると周辺の土地は有力寺院の所領になっている。
寺家には天正年間に中興されたという臨水山桂月院東円寺があった。
3代将軍家光の寄進があり代々将軍からの寺領は安堵されていた。

熊野社
熊野社の祭礼は神仏混淆で真偽真言宗の修法で東円寺が行っていた。
大正11年に王禅寺に合併された。

寺家の地名
寺家の地名はこの頃の寺院の所領からの地名なのか。

明応4年(1499)北条早雲が現れ小田原を攻略、関東は後北条の支配となった。
天正9年(1581)寺家と鴨志田を支配する大曽根飛騨守の名が見える。
天正18年(1590)後北条小田原が秀吉に滅ぼされ家臣は秀吉に仕える者、帰農する者もいた。

大曽根氏は寺家の名主になった。

後北条の支配地は家康の支配地になり、関八州と呼ばれた。
寺家は江戸時代初期に天領となり寛永10年(1633)に寺家の一部は
三河以来の旧臣である筧正重の知行地になった。
その子重次が没しその子正利、正道に分割された。

元禄10年(1697)2年前の天領の検地とこの年の筧両氏の検地の記録が残る。
(参考:「寺家の歴史 」大曽根家文書からみる村の暮らし)中川から大山道と中世の寺家

大曽根氏
鎌倉時代この地を領していた鴨志田氏が失脚し、
つぎに安藤九郎盛長の子時長が治めた。
時長は鎌倉幕府の評定衆で子孫は三河大曽根荘にいたので大曽根と名乗った。
霜月騒動に巻き込まれ安達一族が失脚し大曽根氏は寺家に百姓となって住んだ。
江戸初期に金子と名乗り、のちに大曽根姓にもどった。

鴨志田氏
鴨志田氏は谷本川流域寺家鴨志田の谷戸を生活基盤にしていた。
建久元年(1190)頼朝上洛に畠山重忠の随兵に名を連ねる。
寛元板碑の他に建長7年(1255)の板碑も残る。
(歴史の舞台を歩く:相澤雅雄)

畠山重忠が鎌倉に向かう途中北条氏の大軍と戦い、二俣川で戦死した。
そのとき鴨志田氏は畠山に加担していた。
それが、北条氏に知れる事となり離散、逃亡となった。
神社の北側に馬場があった。(鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)



by gannyan1953 | 2015-02-06 09:44 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

中川から大山道と中世の寺家を訪ねて

中川歴史ウォーキング          2015・3月14日



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寺家ふるさと村

集合:中川ケアプラザ9:45集合 天気よければお弁当

中川ケアプラザ・・大山街道・・荏田宿・・荏田城跡(見学不能)・・
小黒谷戸庚申塔・・地蔵堂・・市ケ尾横穴古墳群・・甲神社・・
寛元板碑・・寺家ふるさと村(昼食)・・熊野神社

鍛冶山老馬不動尊 中川の大山道

江戸末期新潟の高田郡の座不動から諦念法師が六部として厨子に入った不動明王像を背負って、このあたりにやってきたところ、夕暮れとなり近くの大久保家の世話になった

六部とは六十六部の略で、諸国の霊場を巡拝する修行者のことをいう。

これが縁となって大久保家の婿養子になった。
滝を掘って荒行に励んだが旦那寺に預けた不動明王が紛失してしまい、
また越後に戻って不動明王を勧請した。

その不動明王を祀ったことがはじまりである。

天明6年(1786)に
矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制吒迦童子(せいたかどうじ)を侍らせる。

滝にある石仏の不動明王は諦念法師の作と伝わる。

雨乞い行事があり、雨が降ったらお神酒をお供えする。
昔は滝があったそうだが、開発後も涸れずに水が湧き出ており
霊水といわれている。
この滝壺を掃除したり石仏にバケツで水をかけると大雨になるという言い伝えがある。
(港北の遺跡を訪ねて:港北区役所)



荏田城址 中川〜センター南の歴史散策
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鶴見川流域の考古学:坂本彰より

多摩丘陵の東南にあたり、高さ40mほどの台地にある。
赤田谷からの赤田川はこの台地のふもとで小黒谷から流れる
布川に合流、布川は早淵川に合流する。
現在城跡は大半が山林で平らな部分が竹林、栗畑となっている。

築城は丘陵にあることから中世12世紀から16世紀のものと見られ
空堀、土橋は中世後半と思われる。
後北条氏独特の縄張りがみられる(小机城や榎下城と似ている)
ことから後北条氏の築城ではないか。

荏田城の役割はこの江田に矢倉沢往還(大山道)と鎌倉街道・中の道が
交差する事から昔から交通の要所だった。
小机城の支城としてして後北条氏が茅ヶ崎城とともに
役割は小さくなかったと思われる。

小田原衆所領役帳に
「曽祢采女助(そねうねめのすけ) 七拾七貫五百八十文 小机荏田」
とある。曽祢氏は甲斐の有力な家臣だった。中川の八王子千人同心
(参照:鶴見川流域の考古学:坂本彰)
近くには古代の都筑郡衙(ぐんが)があった。(長者原遺跡)
郡衙とは古代の郡役所である。江田の東名をはさみ両側に広がる遺跡である。
律令時代のもので関東には多くの郡がありそのひとつである。

古くは、義経の配下の江田源三の居城と伝わる。

江田源三とは
「新編武蔵風土記稿」に源義経配下とあり「源平盛衰記」には信濃の人とある。
平家物語に弁慶、熊井太郎、佐藤継信、佐藤忠信とともに、「一人当千の兵」とある。
「義経記」では京都の義経の居館(堀川)で、頼朝が雇った
刺客土佐坊昌俊渋谷荘を訪ねて 金王丸参照と戦い、
矢を受けて討ち死にした。享年25歳だったという。荏田城

NHK大河ドラマ尾上菊之助主演「義経」(俳優:松本朝夫)や、
能の「正尊」(しょうぞん)に登場している。


小黒谷戸庚申塔 
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江田源三は屋島の戦いの恩賞に小黒という馬をもらった。
小黒の厩があった場所と伝わる。荏田城
小黒は義経が奥州藤原秀衝からもらった名馬で、産地は遠野村小黒沢だったことから、小黒と命名した。義経が衣川の戦いで敗走する時離してやると,生まれ故郷に帰りそこで亡くなったという。

遠野の近くの伊豆権現に、小黒の碑が残る。

馬はもらったのではなく、江田源三が馬の世話をしていのだろうか。

地蔵堂
 市ケ尾1628
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創建は江戸初期で本尊は木の地地蔵菩薩。
「お十夜」といって毎年11月30日に双盤をならし
地蔵尊の御開張が行われる。

開山は統誉上人で猿田坂に穴を掘り中に入って入定し、自ら即身仏となった。
念仏を唱える声は美しかったという。

作家佐藤春夫は大正5年神経衰弱を患い、このお堂の一室に
仮住まいした。武蔵野の風景が残るこの地で「田園の憂鬱」を書いた。
(参照:鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)

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田園の憂鬱の碑

猿田坂
大山道から急勾配の坂道が鶴見川方面におりて行く。
猿田坂と言って「去る」から嫁入り行列が避けたという。

市ケ尾横穴古墳群 市ケ尾1634市ケ尾〜早野
6〜7世紀の横穴式共同墓地で、20基保存されている。
中には骨、刀、土器など埋蔵。
この山は綿屋の所有で元の屋敷は古墳の下にあった。

先祖を祀る祭祀場であったと思われる。この「前庭部」発見は全国でもはじめてで、以後の研究に進展をもたらした。横穴の内部は造られた時代によりさまざまな形をしている。
*綿屋  大山道の宿屋で明冶10年ころ近くの「石橋」からの火事で焼失、再建され現存する。(参照:鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)

甲神社 鴨志田町296
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祭神は日本武尊(ヤマトタケル)でご神体は石刀のようなもの。
写真をみたが、縄文時代の石棒(せきぼう)に見える。
呪術、祭祀に使用される男根を模したものである。
鴨志田十郎が甲、刀を捨てて離散し百姓になったという。

鴨志田氏
鴨志田氏は谷本川流域寺家鴨志田の谷戸を生活基盤にしていた。
建久元年(1190)頼朝上洛に畠山重忠の随兵に名を連ねる。
寛元板碑の他に建長7年(1255)の板碑も残る。

畠山重忠が鎌倉に向かう途中北条氏の大軍と戦い、二俣川で戦死した。
そのとき鴨志田氏は畠山に加担していた。
それが、北条氏に知れる事となり離散、逃亡となった。
神社の北側に馬場があった。(参照:鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)

神社裏は段差が大きくありこの地形をを腰巻きというらしい。


寛元板碑 鴨志田町529共同墓地
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寛元2年の供養碑で県で一番古いといわれる。
腰巻という段に平安時代から鴨志田一族が館を構え鬼門に社、念仏堂、観音堂を造ったと考えられる。(参照:鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)

当初は河原石の小山が3つ並んだ中央に碑面を東側に向けて立っており、
その下に6~7個の河原石に囲まれた蔵骨器が埋葬され、
墓碑的な性格を持ったものだったようである。
板碑は秩父産の緑泥片岩で作られている。
碑面には阿弥陀如来をあらわす種子キリークが大きく薬研彫りされる。
(横浜市文化財HP)
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阿弥陀様のキリーク
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寺家の歴史

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寺家ふるさと村の水車小屋

寺家周辺には朝光寺原遺跡(市ケ尾)、長者原遺跡(江田)稲荷前古墳群(大場町)など古代遺跡が多い。寺家にも横穴古墳(下三輪玉田谷戸古墳群)がある。
古代から人が住み今でも畑から土器がでてくるという。

中世12世紀ごろ在地の武士が力を付け始め、騎馬、弓を中心の戦闘力を持ち
軍事力を背景に開発、開墾が進んだ。

開墾者は国府に開発を申請し、従者や放浪している百姓など集め開発団を組織した。

寺家は谷戸が多くわき水も多いので水田に適し武士団の成長を早めた。
開発された土地は数年間課税されず、その時期が終わると課税を嫌い貴族、
寺社に荘園として寄進し、相応の年貢は納めるが自らは荘司となり
現地の管理者となり支配した。

寺家周辺では榛谷御厨(はんがやみくりや)恩田御厨、小山田荘などある。
御厨とは伊勢神宮領のことである。
国の支配地は国衙領として八佐古郷、佐江戸郷、市尾郷、石河郷、
恩田郷、鴨志田郷、黒鉄郷、勝田郷、麻生郷、河井郷、小山田保などあった。
都筑区に住む人にはなじみのある地名である。
これらの郷には役人が軍司となって在地の武士がこの役を勤めた。

頼朝が挙兵し東国武士の棟梁となった。
平家の武将が頼朝に加担していたのは開墾地の権利保持のためであった。

建久元年(1190)頼朝上洛に従った者に鴨志田十郎、石河六郎、
都筑三郎、都筑平太、江田小次郎奈良五郎など寺家周辺の武士たちが加わった。

これら武士たちは開発地の地名を名字とし、鎌倉に近い領地だった。
鎌倉幕府が滅亡すると寺家周辺の武士の名が見えなくなってくる。
南北朝、室町時代になると周辺の土地は有力寺院の所領になっている。
寺家には天正年間に中興されたという臨水山桂月院東円寺があった。
3代将軍家光の寄進があり代々将軍からの寺領は安堵されていた。
熊野社の祭礼は神仏混淆で真偽真言宗の修法で東円寺が行っていた。
大正11年に王禅寺に合併された。

寺家の地名はこの頃の寺院の所領からの地名なのか。
室町時代の関東は鎌倉公方と関東管領の不和があった。
明応4年(1499)北条早雲が現れ小田原を攻略、関東は後北条の支配となった。

天正9年(1581)寺家と鴨志田を支配する大曽根飛騨守の名が見える。
天正18年(1590)後北条小田原が秀吉に滅ぼされ家臣は秀吉に仕える者、
帰農する者もいた。大曽根氏は寺家の名主になった。

後北条の支配地は家康の支配地になり、関八州と呼ばれた。
寺家は江戸時代初期は天領となり寛永10年(16339には寺家の一部は三
河以来の旧臣である筧正重の知行地になった。その子重次が没しその子正利、正道に分割された。
元禄10年(1697)2年前の天領の検地とこの年の筧両氏の検地の記録が残る。

参考:「寺家の歴史 」大曽根家文書からみる村の暮らし

大曽根氏

鎌倉時代この地を領していた鴨志田氏が失脚し、
つぎに安藤九郎盛長の子時長が治めた。
時長は鎌倉幕府の評定衆で子孫は三河大曽根荘にいたので大曽根と名乗った。
霜月騒動に巻き込まれ安達一族が失脚し大曽根氏は寺家に百姓となって住んだ。
江戸初期に金子と名乗り、のちに大曽根姓にもどった。


熊野神社  寺家町880
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祭神はイザナギノミコト・イザナミノミコトで、慶応3年にこの地に
移転、平成13年焼失した。現在は再建されている。
寺家の名主大曽根氏が師岡熊野神社師岡熊野神社 から勧請した。
(参照:鶴見川沿い歴史散歩:金子勤)

師岡熊野神社に近い所に大曽根がある。地名の由来は地形からつけられたというが、
大曽根氏と港北区大曽根は関係しているのだろうか。










by gannyan1953 | 2015-02-03 19:40 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

裏磐梯ホテル 星野リゾート

歴史と素適なおつきあい番外編     20151月23日

星野リゾートの格安裏磐梯ホテルに行ってきた。
朝九時東京駅出発13時ホテル着 送迎バス、一泊2食、24時間スティで
12500円!

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雪が積もった道路ー久しぶり
もうスキーやってないから
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裏磐梯ホテル(旧猫魔ホテル)
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カマクラー大きい
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中から外を
イスと机がある

亡き父と会津に行くときランチをしたホテルと思いこんでいたが、
現地にいってみてお迎えの磐梯高原ホテルだったことが判明
写真をとらせてもらったが、ランチは予約制で食事はできなかった
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裏磐梯の景色がとてもいい
父がとても喜んでくれた記憶がある
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結氷した檜原湖
歩いてみたかったがやっぱ怖い



by gannyan1953 | 2015-02-01 10:46 | 福島県の歴史 | Comments(0)



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