歴史と素適なおつきあい

<   2015年 03月 ( 2 )   > この月の画像一覧

岡崎 みよし灯籠

歴史と素適なおつきあい番外編           2015・3・16

みよし灯籠
b0228416_21202508.jpg
みよし灯籠
岡崎に行ってきた

なんと灯籠を造って岡崎から熱田までの東海道に
設置したという「みよし灯籠」を見に行った

大樹寺
家康の菩提寺である。
b0228416_21235928.jpg
この門を寺から覗くと岡崎城が見える
この写真は岡崎城を後ろに写したので岡崎城は見えない

b0228416_21270926.jpg
代々の松平家の墓が並ぶ
b0228416_21270455.jpg
徳川家康の墓

ある人が
三好村の出で長野の寺に入れられたがなじめず、
次に行ったのが桶川の寺だったが、
そこもなじめず三河にもどり
岡崎の伝馬町で骨董の店「みよし」を開業したら
商売がうまくいった。

随分財産ができたとき
明治になって大樹寺の霊廟が解体されたときの
石垣の石を使って灯籠72基を造った。
「みよし灯籠」と名付けられた。

岡崎から熱田まで東海道に灯籠を置き、近くの家に灯芯や油を買うお金も
渡したという。
それまでの所行を悔い改めるためだったという。

ある人の子孫は映画監督の松山善三氏である。

なぜかそのデザインされた灯籠はモダンだ。

石工団地や岡崎中央公園の恩賜園にあった。

b0228416_21414077.jpg
石工団地
b0228416_21420678.jpg
石工団地の一角

岡崎中央公園 の恩賜園にはたくさんの灯籠が並ぶ
b0228416_21202508.jpg
恩賜園のみよし灯籠

龍海院
b0228416_22390003.jpg
東岡崎駅近くにある龍海院、ここにその人は眠っている

次回は町の中に数基残るというみよし灯籠を探してみたいと思う。






by gannyan1953 | 2015-03-17 22:10 | 愛知県三河の歴史 | Comments(0)

古代の武蔵の国

歴史と素適なおつきあい番外編                2015・3・1

b0228416_14564262.jpg

武蔵国造の乱 日本書記「安閑記」
武蔵国では、笠原使主(かさはらのおみ)とその同族小杵(おき)が
国造(くにのみやつこ・国を治める豪族)の地位をめぐって争っており、
年を経ても決めがたい状態であった。
小杵の性格は、けわしく逆らうことがあり、心は高慢で素直さがなかった。
そしてひそかに上毛野君(かみつけぬのきみ)小熊(おぐま)に
援助を求め使主を殺そうとした。
このことを知った使主は、逃げて京へいけり、そのありさまを訴えでた。
朝廷は裁断を下し、使主を国造とし小杵を誅した。

国造使主はかしこまり喜んで

横停 (よこぬ)  ―多摩横山と埼玉県横美郡の2説がある
橘花 (たちばな) ―川崎市横浜市東北部 
多氷 (たま)   ―多摩
倉樔 (くらき)  ―横浜市南部

の四ヶ所の屯倉を献上した。 とある。              

古代の武蔵国

小杵(おき)の地ー多摩川の中流域から下流域、鶴見川下流付近 
笠原直小杵は使主のいとこである。
出身は埼玉県鴻巣市笠原野毛古墳は小杵の同族か、本人の墓ともいわれている。
    
使主(おみ)の地ー埼玉県鴻巣市笠原 
13代成務天皇のときその子、兄多毛比(えたもひ)命を東国に遣わし
夭邪志(むさしの)国造とした。
氷川神社の祖である。
兄多毛比命から7代めが笠原直使主(かさはらのあたいおみ)である。
   
小熊(おくま)の地―群馬県太田市渡良瀬川流域
10代崇神天皇の子、豊城入彦命を東国に派遣され、上野総社神社に祖を祀った。
小熊はその末裔で、安閑9年に蒼海明神という称号を上野総社神社に祀った。

多摩川に沿って古墳が造られたのが4~6世紀で、ここ亀甲山(かめのこやま)古墳、
蓬莱山古墳から世田谷の野毛古墳おもいはせの路、の4キロほどの間に50もの古墳がある。
その上流にいくと狛江など古墳が続くが。6世紀には大きな古墳は造られなくなる。
このあと、笠原使主の本拠地につぎつぎ古墳が造られるようになるが、
それがさきたま古墳群である。 
                  
この古墳の流れからは5世紀まで多摩の小杵が勢力を持っていたが、
武蔵国造の乱(安閑元年534年)後、勢力が使主に移ったことがよくわかる。
   
小杵が力を借りた小熊の地、上毛野(かみつけぬ)の国は群馬県太田市である。
ここにある太田天神山古墳は亀甲山の4倍はある古墳で、
東日本最大の前方後円墳である。
天神山古墳以降大きな古墳は造られていない。

この小熊の上毛野国も武蔵国造の乱後衰退していったと思われる。
国造の位も大化の改新による国郡制でなくなってしまう。

この乱は大和朝廷にとって関東制圧の絶好の好機となり、
屯倉を献上され東国に軍事拠点をもち、
もうひとつの勢力である小熊を、連帯敗北させることもできた。

小熊はのちに屯倉緑野(みどの)を献上している。
白村江の戦いでは小熊の孫の雅子が将軍として赴くことになる。

家康没400年 小杉御殿を訪ねて

by gannyan1953 | 2015-03-01 14:24 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



横浜周辺の歴史散歩
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
> 歴史好きさん ご訪..
by gannyan1953 at 23:57
始めまして。 阿豆佐..
by 歴史好き at 19:53
> rollingwes..
by gannyan1953 at 14:13
初めまして、ローリングウ..
by rollingwest at 16:31
できればメールでお話しし..
by gannyan1953 at 09:08
新横浜スパインクリニック..
by gannyan1953 at 18:23
読めないんですね。申し訳..
by gannyan1953 at 18:09
> ださぶろうさん ご..
by gannyan1953 at 21:44
楽しんでいただけて大変嬉..
by gannyan1953 at 21:41
長津田の大火の事を調べて..
by shin344 at 21:41
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧