歴史と素適なおつきあい

<   2015年 05月 ( 8 )   > この月の画像一覧

顔面把手がんめんとって C17遺跡

歴史と素適なおつきあい番外編    2015・5・28

b0228416_12050919.jpg
「古代のよこはま」:1986 港北ニュータウン埋蔵文化センター編
を見ていて顔面把手を見つけた。
今までどうして気づかなかったんだろう・・

顔面把手は港北ニュータウン産で歩いても行ける場所に埋まっていた。

顔面把手との出会いは
以前いたち川散策で公田遺跡の顔面把手に興味をもった。
神奈川歴史博物館にデデーン!と鎮座している。
b0228416_13160138.jpg
神奈川歴史博物館の栄区公田町遺跡の顔面把手
これは栄区産

鼬川流域歴史散歩





どうしたら会えるのか調べてみたら、
栄区にある埋蔵文化センターで展示されていることがわかった。
b0228416_13304470.jpg



港北ニュータウンC17遺跡の場所は特定できていないが
旧住所は港北区中川町だという。
大棚杉山遺跡に近いかも。

公田遺跡の顔面把手と比べると ちょっとかわいい。
近々、栄区まで行ってこよう。
翌日早速出かけて会ってきた。

b0228416_18280641.jpg
他にも顔面把手がある

b0228416_18280037.jpg
小さいので大きさでは公田遺跡の顔面把手には負ける・・・

港南台から中川歴史ウォーキングの下見をかねているので
約1時間歩いて

「横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化センター」
横浜市栄区野七里二丁目3番1号

港南台からバスで15分くらいらしい。
最初間違えて神奈川の埋蔵センターと勘違いしそうになったが、
C17遺跡の顔面把手はここにあった。

入場無料でひとりで見学できた。

展示品のほとんどが都筑区産で、なんでこんな遠い場所にと思ったが
遺跡の遺物が多すぎて大きな建物が必要だった。
ここは小学校の建物。
もとは野七里小学校があったが庄戸小学校になって移転した。

野七里の町は道路は整然としているが、人がいない。
店はほとんどシャッターがしまっている。
子供が少なくて小学校も統合されたのかもしれない。




by gannyan1953 | 2015-05-28 13:22 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

明治神宮を訪ねて

歴史と素適なおつきあい番外編
中川歴史ウォーキング             2015・9・19(土)

参加ご希望の方は中川歴史ウォーキングで申し込みできます

b0228416_11215882.jpg


10万本の献木からできた杜に囲まれた癒しスポットです


日時:9月19日(土)9:45 昼食:明治神宮文化館
集合:表参道駅B4出口方面改札口出た所

表参道・・善光寺戒壇:500円・・参道橋柱・・明治神宮・・宝物殿:500円・・
(徒歩30分で神宮外苑・・絵画館:500円・・銀杏並木・・青山一丁目)

今回有料が多いので入場は自由にします
戒壇めぐりは行事や法事があればできません。

表参道
大正8年(1919)明治神宮参道として整備され、
欅並木だったが戦災で焼失。
昭和2年(1927)同潤会渋谷アパートが建設され、
当時では最先端の近代的な住いだった。
関東大震災でコンクリートの建物が丈夫だったとわかり、
その先駆が軍艦島のアパート群である。
戦災で欅並木が同潤会アパートを火災から守ったので
欅は復活された。
現在はアパートの跡地に表参道ヒルズが建っている。
戦後このあたりは米軍の兵舎、家族の住いとなった
ワシントンハイツがあった。
昭和39年(1964)に返還され、
代々木公園、代々木競技場などオリンピック施設が
つくられた。
返還が難航し、オリンピックを控えて突貫工事が行われた。

今では高級ブランドの店をはじめ人気の店が集結し
流行の発信地といわれる。



善光寺
南命山善光寺は永禄元年(1558)谷中に創建された。
言い伝えにはじめは浄土宗の尼寺で、慶雲元年(767)念仏を唱えているとき信州善光寺の如来が現れ、
それを模して造った像が本尊である。
皇極天皇元年(642年)に信州善光寺が創建されているのでとても古い言い伝えである。
宝永2年(1705)明観上人のときこの地に移転され信州善光寺の宿院だったといわれる。

境内に勝海舟撰文の高野長英の顕彰碑がある。
蘭学を学び、開国を唱えた長英は捕らえられ、逃亡し最後にこの近くで捕縛に抵抗し亡くなった。
南青山5丁目のスパイラルビルが長英が隠れて町医者をしていた場所で終焉の碑がある。

渋谷川 橋跡
b0228416_12444996.jpg
渋谷から2、6キロ北に流れる川で現在ほとんど暗渠化している。
表参道に参道橋の橋跡がある。
川の流れはキャットストリートの下にある。
新宿御苑、明治神宮の湧き水の源水で玉川上水完成後
四谷の余った水が渋谷川に入り流量が増えたことで水車が可能になった。
北斎の「隠田の水車」に描かれている。隠田川は渋谷川の支流である。
昭和初期に護岸工事が行われた。
戦後排水路となり汚れ東京オリンピックの開発で暗渠化された。
2013年渋谷駅再開発で浄水化された水をオアシスにする工事が行われている。
2017年完成で渋谷川は下水とされ河川でなくなった。
渋谷川に注いでいた河骨川は唱歌春の小川が生まれた場所である。
b0228416_12523919.jpg
隠田の水車:葛飾北斎


原宿
江戸時代前に鎌倉街道の宿場があった。
後三年の役で源義家がこのあたりで軍勢を揃えたといわれ勢揃い坂がある。
本能寺の変で逃げ帰る徳川家康を無事帰国させた伊賀者に、隠田村と原宿村を与えたとも言われている。
甲州街道の南にあたり防衛のため伊賀衆の組屋敷が置かれ浅野家の江戸屋敷もあった。
渋谷川の水車により精米、製粉を行いやせた土地で農民の生活は苦しかったという。
雨乞いのため大山阿夫利神社や榛名山に日帰りで詣でたという。

明治神宮
b0228416_12452036.jpg
b0228416_13170113.jpg

祭神は明治天皇と昭憲皇太后である。
江戸時代はじめは肥後藩主加藤家の別邸で
寛永17年(1640)より彦根藩主伊井家の下屋敷だった。

明治になって南豊島御料地となった。
昭憲皇太后はこの地を愛されたため明治天皇は隔雲亭という御茶屋、
あずまや、そして池には菖蒲を植え回遊歩道を設けた。
b0228416_12490086.jpg
隔雲亭:御苑内

明治天皇は崩御され京都に葬られたが、崇敬する東京市民の願いで
この地に神宮建設が決められた。
大正9年(1920)全国から13000人の国民労力奉仕もあって鎮座した。
内苑と外苑に分かれており、内苑には日本各地や
朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。
手入れや施肥もなく想像以上に立派な原生林となった。
多様な樹木を植え100年後には広葉樹を中心に森が形成されるよう
設計されており日本の造園学のはじまりといわれている。

清正の井  御苑内
b0228416_12462405.jpg
御苑にある毎分60リットルの水が湧き出る井戸で明治神宮南池の水源である。
加藤清正が掘ったと伝えられこんこんと透き通った様は清らかである。
ここは清正の息子忠弘が住んでいた場所であること、
井戸の素晴らしさに土木の神様といわれる清正が掘ったと考えられた。
水源は最近になって本殿西側の本殿倉庫の浅い地下水が
二方向の自然の水路に流れ、
井戸の斜面から井戸に湧出する自然の湧き水であることがわかった。

現在テレビでパワースポットと放送され携帯待ち受け画面にすると幸運が訪れると
伝えられた。ところが、あまりに人が押し掛け気が汚れたともいわれる。
時期的に花が少なく蚊もいるので見学しません。



宝物殿
b0228416_12475634.jpg
奈良の正倉院の校倉造りを模した校倉風大床造で、
花崗石張で鉄筋コンクリート建築の代表的な建物。
平成23年国の重要文化財に指定。御祭神にゆかりのある品が陳列されている。

神宮外苑
大正元年(1926)明治天皇崩御後青山練兵場跡地に葬儀が行われた場所である。
日本庭園の明治神宮は内苑、洋式庭園の神宮外苑は外苑といわれる。
絵画館やスポーツ施設が整備された。
銀杏並木は都に、国立競技場は文部科学省に属すが大半は明治神宮の管轄である。

聖徳記念絵画館
b0228416_12481293.jpg
明治天皇葬儀の地の跡にドームのある建物ができ
明治天皇にまつわる明治の政局を描いた絵画が中心である。

明治記念館
結婚式場で大日本帝国憲法草案を作った建物がある。

明治神宮外苑競技場(国立競技場)
学徒出陣壮行会が行われた場所である。
東京オリンピックには国立競技場として開会式閉会式が行われた。

2020年の東京オリンピックのメイン会場となるため、
現在解体され8万人収容の新スジアムが、1万7千人が滞在する選手村がつくられる。
後に選手村はマンションになる予定である。

銀杏並木

大正12年(1923年)庭園主任技師を務めていた折下吉延博士 が
明治41年(1908年)に新宿御苑在来木から採集した種子を
宮内省南豊島御料地(現在の明治神宮内苑)内の 描園で育てていたもので、
成長していた1600本のイチョウから選抜し、樹形を整えて植樹したものという。
都内で一番有名な並木道といわれ、定番ロケ地としても知られる。




by gannyan1953 | 2015-05-16 20:15 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

茅ヶ崎城址を訪ねて

歴史と素適なおつきあい番外編
中川歴史ウォーキング                2015・7・11

2015年7月11日(土)中川歴史ウォーキングで開催します終了!


日時:2015年7月11日(土)9:45 
集合:センター南駅出口1番改札口 東急に近い出口です

センター南駅・・茅ヶ崎城址・・寿福寺観音堂・・正覚寺・・(横浜市歴史博物館)

b0228416_14482326.jpg


センター南の東急百貨店あたりは昔、自性院谷(じしょういんやと)といった。
消防署あたりに自性院という寺があったが、ニュータウン開発で茅ヶ崎南4丁目に移転した。

茅ヶ崎城址
b0228416_00321872.jpg
中世の城で新編武蔵風土記縞には多田行綱の館とある。
古くから城山(じょうやま)と伝えられてきた。

保存が良かったため
「茅ヶ崎城を見ずして、中世の城郭を語るなかれ」とまで言われた。

私が知ったきっかけは埋蔵金伝説だった。以前テレビで放映されたことがある。
調査をした坂本彰氏にすかさず「埋蔵金はありましたか」と
尋ねたら「大きな甕が出て中には宋銭が少し・・・」
と答えていただいた。

空堀、土塁によって六つの郭に区切られ三段に作られている。
鶴見川流域の中世の城は郭が同じ高さが多いが
茅ヶ崎城は三段になっているためより堅固な城だったといえる。

一番高い東北郭は現在農家になっていて立ち入りはできない。
南斜面下では井戸、火葬蔵骨器、板碑など出土し根小屋
(領主、家臣団の居館)があったと思われる。

中郭に建物があり倉庫だったと思われる。

15世紀半ばの東国は「享徳の乱」という内乱があった。
第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことからはじまり
鎌倉幕府、山内、扇谷の両上杉✖️鎌倉公方(古河公方)が争い
関東の戦国時代に突入したきっかけとなった。

文明8年の長尾景春の乱頃には小机城の支城として太田道灌に攻め落とされたと考えられ、
この頃の出土品が数多く出ていることから上杉氏によって築かれたと思われる。

その後、大永元年頃に北条氏は茅ヶ崎城を現在の縄張りに完成させ、
扇谷上杉氏の南下に備えたと考えられる。 
小机城の支城として小机衆の一人座間氏が守将となっていた。

参考 鶴見川流域の考古学:坂本彰・お城の旅日記
b0228416_00322650.jpg
中郭
b0228416_00322390.jpg
中郭からと東郭への土橋

中世の城について
中世の城はほとんどが山城で、天守は安土城築城以前には
ほとんどなかったという。
現在は樹木が生い茂った場所が多くただの山に見える所が多い。
当時は樹木がなかった。

山頂部を削平して平坦な土地を作ったのが曲輪、郭である。
最終防御地が本丸
第2防御地が二の丸
第3防御地が三の丸
これらを囲ったものが腰曲輪
斜面を切り取っって防御する切岸
城の門のことを虎口(こぐち)
堀を作って土を盛り上げた空堀
中世の城は堀に水はない。
城主の館や家来の住いは山の麓に作られ根小屋という。
山の上の建物は竪穴式住居が多く倉庫の役割をした。

茅ヶ崎観音堂
観音像の縁起
行基が回国修行で長門の国でおじいさんから「この浜に
観音像が流れてくるから大切にするよう」と告げられた。
沖の方から流れてきた観音様がこの観音像であるという。

この観音様を守る寿福寺は平安初期弘法大師の創建である。
はじめは長福寺といった。
その後400年余り真言宗だったが、鎌倉時代に入り、
承元4年(1210年)に多田山城守行綱の孫、
智空法師(俗名 多田福寿丸)によって開山。
江戸時代に入り浄土真宗の寿福寺となった。

多田行綱
初代茅ヶ崎城主といわれている人物である。摂津源氏である。
安元3年(1177)鹿ヶ谷の陰謀(平家打倒)で計画の無謀さに
平清盛にこれを密告した。
その後源氏に従い源義経とともに鵯越も行っている。
義経に近かったためか頼朝に追放され九州に逃れたともいわれているが、
消息ははっきりしない。

正覚寺 天台宗
b0228416_00323156.jpg
本尊は虚空菩薩である。
長窪山總泰院と号し約400年続く。
日吉本町の金蔵寺末で、

村民清左衛門の先祖が建立と伝わる。
慶安2年(1649)江戸幕府から御朱印状を拝領した。
花のお寺で有名である。
b0228416_00323463.jpg
境内にある大鷲神社


横浜市歴史博物館
原始から開港期を中心に約3万年の市域の歴史を扱う。
平成7年(1995)に開館し、横浜に生きた人々を基本理念として展示されている。
遺跡公園は弥生時代の環濠集落「大塚・歳勝土遺跡」が復元されている。

2015年7月11日は貝塚から出土されたものを紹介。
企画展は開催されていない。







by gannyan1953 | 2015-05-12 20:44 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

東御苑のとちの花

歴史と素適なおつきあい番外編     2015・5・9

神田明神から皇居東御苑まで歴史ウォーキング
東御苑は若葉と花の香りがいっぱいでした

b0228416_07542432.jpg
これはトチの花だそうです

by gannyan1953 | 2015-05-10 07:55 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

家康没400年 神田明神から江戸城を訪ねて

歴史と素適なおつきあい番外編 2015・5・9
中川歴史ウォーキング


家康は江戸開府にあたり江戸城の鬼門に神田明神を勧請、
そして吉田松陰終焉の場に訪れます

5月9日は祭礼の日でした。
将門御神像の御開張がありました。


b0228416_07470773.jpg
ちょっと怖かったです・・・・・
拝観する事ができて嬉しくて、しばらく興奮気味でした




御茶の水駅JR聖橋口・・湯島聖堂・・神田明神・・中山道・・筋違見附跡・・十思公園・・日本橋・・将門首塚・・江戸城・皇居東御苑

御茶の水
地名の由来は将軍秀忠が鷹狩りの折に立ち寄った、高林寺の井戸の水でお茶を飲んだことからつけられた。

天正18年(1590)に家康は江戸に入府した。

神田川は渓谷のような景観で対岸は湯島台、手前は駿河台である。
もとは神田山というひとつの丘陵で慶長8年(1603)に家康が
神田山の南を切り崩し町屋を造成、海辺で井戸によって真水を満足に得ることが
できない江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、
井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。

元和2年(1616)に治水と江戸城北部の防備のため神田川を開削した。
結果神田山の南端(駿河台)は切り離され、家康が亡くなると駿府に
いた家臣を移しここに住まわせた。それで駿河台という。
神田山が削られ平地になった神田には職人町が造られた。

東京医科歯科大のあるところは縄文時代の遺跡があった。
貝塚があり昔海辺だったことがわかる。

湯島聖堂
b0228416_23040280.jpg
元禄3年(1690)林羅山が私邸に建てた忍岡聖堂に代わる孔子廟を造営し、
綱吉が「大成殿」とし、その後「聖堂」と呼ばれるようになった。

寛政9年(1797)11代家斉のとき規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設、
林羅山の私塾は幕府官立の昌平坂学問所となった。
「昌平校」と呼ばれている。昌平とは孔子の生まれた村名である。
聖橋の名の由来はニコライ堂と湯島聖堂が橋で結ばれているからである。
b0228416_23041703.jpg

神田明神
b0228416_23134794.jpg
b0228416_23102639.jpg
天平2年(730)真神田臣(まかんだおみ)により柴崎(大手町)に創建された。
祭神は大巳貴神(おおなむちのかみ)で後に江戸大明神(江戸氏の氏神)
そして平将門である。
平将門の首が都から飛んできて落ちた場所が柴崎である。
首塚が造られその後天変地異が起こったため
時宗の遊行僧真教上人が手厚く供養し延慶2年(1309)に当社に奉祀した。
戦国時代には太田道灌や北条氏綱らが崇敬した。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川家康が戦勝祈願をした。
慶長8年(1603)江戸城拡張のため駿河台に移転。
元和2年(1616)江戸城鬼門守護のため現在地に遷座、幕府により社殿が造営された。
江戸総鎮守として庶民にも親しまれてきた。
明治になり正式名称は神田神社となった。
明治7年(1874)将門は明治政府に逆賊とされ
摂社になったが、昭和59年(1976)本社の祭神に戻った。

ここは湯島台の端で、関東ローム層が地下の麹室(こうじむろ)をつくるのに適し
江戸時代から酒、味噌などの産地となり、今でも江戸時代からの室を使った
甘酒、納豆などを売る老舗が門前にある。

中山道
五街道のひとつで日本橋から草津まで内陸部を通った街道で、日本橋まで歩く

筋違見附(すじかいみつけ)
日光東照宮に参拝する御成道と、日本橋を起点としてこの門から
筋違橋を渡り左折して本郷方面へと続く中山道がちょうどこの門で
交差するので筋違と名付けられた。
見附とは街道分岐点にある見張り所である。
江戸には江戸城三十六見附といって江戸城の城門に三十六の見附があった。

鐘撞堂跡


室町3丁目手前に石町の鐘撞堂があった。
石町の鐘といい、十思公園に移転された。

十思公園(じっしこうえん)
伝馬町牢屋敷跡である。未決囚の収容所で江戸時代を通して、
数十万人が入牢したといわれる。
磔は鈴ヶ森、小塚原の刑場で行われたが、ここでは斬首が行われた。
最初は常磐橋外に設けられ、慶長年間ここに設けられた。
明治8年(1875)に市ヶ谷監獄に移された。

蛮社の獄で捕らえられた高野長英はこの牢屋敷で、火事を起こし
逃亡したため指名手配となる。後に捕縛され死亡。

安政の大獄で連座した吉田松陰終焉の地である。


このとき勤王の志士約96名が収容されたという。

処刑者を弔う延命地蔵が大安楽寺に祀られている。
b0228416_23044449.jpg
松蔭の碑


吉田松陰
辞世の句
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置(とどめおか)まし大和魂」

文政13年(1830年)8月4日、萩城下で長州藩士の次男として生まれる。
アヘン戦争で清が西洋列強に負けたことを知り山鹿流兵学では時代遅れに
なると痛感、江戸に出て佐久間象山に学ぶ。ペリーが和親条約締結のため
再び日本にやってきた時、ペリーの船に乗り込もうとした罪で投獄された。
結果長州の野山獄に投獄、のち生家に幽閉される。
このとき開いたのが松下村塾である。松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、
伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などが塾生だった。
一方的な教育ではなく意見を交わしたり時には山登り、水泳もあったという。
安政5年(1858)日米修好通商条約を幕府が無許可で締結した事に
激怒、老中暗殺を謀るも頓挫する。そして倒幕を唱えだした。
松蔭は捕縛され野山ごくに投獄された。
安政6年(1859)安政の大獄に連座し、江戸に檻送、伝馬町老屋敷に収監、
斬首刑に処せられた。享年30歳であった。

2015年NHK大河ドラマの「花燃ゆ」は、松蔭の妹の文の話である。

石町の鐘
b0228416_23044721.jpg
江戸時代に時を知らせた鐘で室町から公園に移された。
火災で損傷し宝永8年(1711)に改鋳された。

福徳稲荷(芽吹稲荷)祭神:倉稲魂命〈うかのみたまのみこと〉
b0228416_23063321.jpg
貞永年間(859〜876)には鎮座していたという。
武蔵野の福徳村の鎮守稲荷として祀られてきた。
源義家、太田道灌、徳川家康らが参詣している。
2代将軍秀忠は慶長19年(1614)に参詣したおり福徳とはまことにめでたい神号であると
喜び若芽が芽吹き始めたのを見て「芽吹神社」と命名した。
2014年三井不動産によりCOREDOの一角に新築された。
三井不動産のCMに芽吹神社がでておりご利益は宝くじ当選だと言っている。

日本橋
b0228416_23101816.jpg
江戸時代五街道の里程の原点となり明治以降も道路の元標として
日本の中心となっている。
江戸幕府開府のころはアシやヨシの生い茂る湿地帯だったが
堀を掘り神田山を切り崩した土で埋め立てて商業地をつくった。
慶長8年(1603)に平川を延長した掘割に木橋をかけた。
誰いうともなく人々は日本橋と呼んだ。
翌年幕府は日本橋を五街道の基点とし、
ここから一里塚を街道沿いに設置することにした。
創建から20回も架け替えられ現在の橋は
明治44年(1911)に完成した。
ルネサンス様式の花崗岩のアーチ型石造橋である。
日本橋の文字は徳川慶喜の筆である。
江戸時代には高札場があり、交番あたりに晒し場があった。
主殺し、女犯、心中をしそこなった者などがみせしめに晒された。
北詰は魚河岸跡で鮮魚が集荷され魚市がにぎわった。
佃島の漁師が将軍家に納めた残りを売り出した事から始まった。

東京市道路元標
b0228416_23101454.jpg
明治6年(1873)明治政府は東京は日本橋、京都は三条大橋が諸街道の元標と定めた。



常磐橋
明治10年(1877)に架け替えられた都内最古の様式石造アーチ橋でもとは
高橋、大橋と呼ばれこのあたり太田道灌の江戸湊の中心があった。
東日本震災で損壊し現在(2015年)修理中である。

将門首塚
b0228416_23102177.jpg
天慶2年(939)下総の平将門は反乱を起こし関東を制圧した。
新皇と称したが、一族の平貞盛らに討たれた。
京都で晒された首がこの地に落ちて埋められた。
のち蓋をされた石が鳴動したりして人々を怖れさせた。
時宗の僧が法名「蓮阿弥陀仏」を与え卒塔婆をたてて供養した。
塚は江戸時代、酒井雅楽頭、一橋家に守られていた。
明治になって塚は残されたが、関東大震災で樹木は焼け塚も壊れた。
古墳の調査をしたところ、すでに盗掘されており、塚をなくして大蔵省の仮庁舎を建てた。
それから足を悪くするものが続出、慰霊祭を行い今度は戦災にあう。
そしてGHQが駐車場にしようとブルドーザーで工事を始めたら、
日本人の運転手が横転して死亡、近くの保存会が陳情して工事を中止した。
今でも怖れられ、塚にお尻をむけてはいけないなど、近くのオフィスビルからの献花が絶えない。
将門と鉄 将門
b0228416_23102321.jpg

江戸城
江戸城は12世紀に江戸重継が構えたことにはじまる。
戦国時代江戸氏は力を落とし太田道灌に譲り渡した。
道灌は江戸城を築城した。
家康が江戸城入りをした時はみすぼらしい建物だった。
石垣などなく芝土居で、建物は小板葺きに火除けの土が乗っているだけだった。
屋根は腐って雨漏りし、玄関は土間で階は舟板を転用したものだった。
本多正信は他国の使者が通る玄関だけでも修理したらどうかと進言したが、
家康はとりあわず、まず旧領から移住してくる多くの家臣たちの住まい、
彼らを支える商工業者たちの町づくりにとりかかった。
翌年大阪城よりおおきい江戸城の普請に着手した。(歴史群像徳川家康)


大手門 2015年工事中
江戸時代この正門がくぐれるのは大名と50歳以上の特に許された
役人以外は下馬で籠をおり、徒歩で入城した。
大手門は伊達政宗が御手伝普請したもので、人夫42万人、黄金2676枚の費用が
かかったという。明暦の大火で焼失し、再建された。最も警備の厳重な門だった。

皇居東御苑
旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡地が一般公開されている。
富士見櫓、松の廊下跡、天守台、三の丸尚蔵館などがある。
出入りは大手門、北桔(はね)門、平川門から入退園できる。


b0228416_10102228.gif

             宮内庁ホームページより

大手門を入ると左に旧枢密院の建物がある。明治21年(1888)第日本帝国憲法草案を審議するために設けられ、以後天皇の諮問機関となり日本国憲法の施行のに伴い廃止された。
進むと大手三之門の一之門の石垣が残る。警備をした同心番所があり、百人番所がある。
江戸城入国当初の門はこあたり二之門あたりが大手門だったという。現在は石垣のみである。
そして二の丸庭園、本丸に至る。



参考:東京都歴史散歩・福徳神社HP



















by gannyan1953 | 2015-05-09 00:00 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

甲州街道を歩いた ② 新宿〜仙川


歴史と素適なおつきあい番外編   2−15・5・6

新宿9・30出発
b0228416_23244072.jpg
菅野スガさん

b0228416_23340241.jpg
正春寺
大逆事件で処刑された12人のうちのひとり
明治の社会主義者
幸徳秋水と恋愛関係にあった

b0228416_23372236.jpg
旗洗池跡ー東郷平八郎筆ーここで東郷が遊んだらしい
義家がこの池で白い旗を洗った伝説があり、幡ヶ谷の地名の由来である
肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、神田川に注ぐ自然の湧水で
昭和38年に埋められた
この碑はなぜか旗洗でなく洗旗になっている

b0228416_23443999.jpg
牛窪地蔵
昔このあたりは刑場があり、牛裂きの刑が行われたという。
疫病が流行り人々は罪人の祟りと思い、ここに地蔵がおかれたという。

b0228416_23224750.jpg
キャンティクアトロシェルクラブ
吹越満さんと田口浩正さんがいた
警視庁捜査一課9係のロケ中
渡瀬恒彦さんに会いたかったがいるかどうかもわからない
わざと俳優さんは写さないようにしています

b0228416_00160079.jpg
玉川上水
b0228416_00164038.jpg
明治大学和泉校舎脇
b0228416_23225981.jpg
築地本願寺が関東大震災で被災したとき霊廟がここに移された
このお墓は佐藤栄作さん

つい 栄ちゃんの家にジェット機が落ちたら・・・
と墓の前で歌ってしまった・・・・
私はフォークゲリラでもベ平連でもありませんが
b0228416_23230184.jpg
築地本願寺の再建を助けた佃島の人々のお墓
b0228416_23231637.jpg
樋口一葉さんのお墓

b0228416_23232971.jpg
宗源寺の不動堂が高台にあったので「高井戸」の地名の由来になったという説がある
b0228416_23234265.jpg
長泉寺
b0228416_23234608.jpg
徳本上人の筆で蔦文字という丸っこい字でかわいらしい
南無阿弥陀仏 徳本 田の中に心が書いてあるという花押

徳本さんは二人存在する
この徳本さんは1700年代の人で荒行を積んだお坊様なのだが師匠をもたずに修行を続け文字も読めなかったともいわれる。
ところがすごく人気があり、江戸では引っ張りだこだったという。
全国に二千はこの六字名号があるという。

もうひとりは2代将軍秀忠を診察したこともあるという
医業に優れた徳本さんである。
この方の名前を借りて「トクホン」という貼り薬を売り出したのが
今でもあるトクホンである

b0228416_23241616.jpg
一里塚跡
b0228416_23242531.jpg
仙川



2回目終了














by gannyan1953 | 2015-05-06 23:27 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

下田に行ってきた②

歴史と素敵なおつきあい番外編   2015・5・1

伊藤園橤岬に宿泊しての下田歴史散歩2日目


9時に宿を出発 まずは犬走島制覇・・そして下田城址へ



b0228416_10114826.jpg
b0228416_10134796.jpg

b0228416_10151825.jpg
犬走島に向かった。下田湾の真ん中にどーんとある島で、現在は突堤で
歩いて行ける
犬走島

b0228416_10165866.jpg
突堤を歩いて先に洞門が
b0228416_10170377.jpg
そしてトンネル
b0228416_10170740.jpg
一番さきにある風景

下田城址(下田公園)
b0228416_10230502.jpg

b0228416_10314810.jpg

b0228416_10232242.jpg

b0228416_10233750.jpg
伝天守閣跡

b0228416_10261681.jpg
天守閣跡からの海に海上保安庁の巡視船出港
b0228416_10241577.jpg

b0228416_10243147.jpg
空堀跡
草が刈ってないのでわかりづらいが
堀は深い

開国記念碑
b0228416_10260066.jpg
b0228416_10261767.jpg
開国記念碑からの景色
下岡蓮杖
下田出身の写真家。わが国の草分け的存在。お吉や鶴松とは幼なじみでその紹介でヒュースケンと知り合い、
写真の基礎を学んだ。
b0228416_10321409.jpg

三味線体験

b0228416_10322816.jpg
ペリーロードに向かって下田公園をおりたら芸者さんが
三味線体験をしてくれた
「下田節」
《伊豆の下田に 長居はおよし 縞の財布が 空になる
思い切る瀬に 切らぬ瀬に 取る瀬にやる瀬が ないわいな》
b0228416_10332820.jpg
ペリーロード

了泉寺
和親条約締結の地。


b0228416_10344576.jpg
了泉寺
b0228416_10350082.jpg
本堂に掲げてあった締結時の絵
b0228416_10353492.jpg
お吉塚

欠乏所跡

b0228416_10362676.jpg

松蔭拘禁の地  現在教育委員会の建物がある
黒船密航に失敗した松蔭は自首してここに捕われる
b0228416_10363724.jpg

大安寺
薩摩藩の悲話が伝わる


b0228416_10364428.jpg

宝福寺

b0228416_10375802.jpg
b0228416_10375465.jpg
お吉の墓はお吉記念館に入らないとみられないらしい

稲田寺(とうでんじ)

b0228416_10440271.jpg
お吉と離縁した鶴松の墓
b0228416_10440568.jpg
安政大地震の津波の犠牲者供養塔
b0228416_10454901.jpg
港にある食堂
金目鯛のお刺身が美味しかった

橤岬で足湯してバスを待った




by gannyan1953 | 2015-05-02 10:59 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)

下田に行ってきた①


歴史と素適なおつきあい番外編          2015・4・30・5・1

伊藤園ホテル「橤岬」(はなみさき)の往復バス利用で下田に行ってきた

橤という漢字は本来「はな」と読まない
ズイ、ニ、たれると読みおしべめしべの蕊(しべ)のことだという。
心、三つの意味知りたい。
b0228416_09350655.jpg
寝姿山のふもとにある橤岬
右側は開国下田みなと・道の駅
安さに感謝しながら、下田の歴史探訪した。
今の大河ドラマ 吉田松陰の足跡を訪ねて


伊藤園ホテル 橤岬

宿泊費7800円、往復バス代1000円、翌日の昼食は港直営の食堂で
金目鯛定食1500円 しめて約1万円の旅。

横浜駅から4時間半かけて下田に着く。


チェックインして歴史散策にでかけた。
まずは西のほうの玉泉寺周辺、吉田松陰に関する史跡めぐり

飲み放題つきバイキングのあとカラオケ(これも無料)
翌日チェックアウトして下田の主要歴史史跡を巡って
昼食、足湯、そして13時半にバスで横浜まで。

一日目

弁天堂

b0228416_19150655.jpg
松蔭が黒船に乗船する為のチャンスを待った弁天堂
b0228416_09374948.jpg
吉田松陰と金子重之輔

b0228416_09403751.jpg
二人は小舟でこの海を沖合に向かった

玉泉寺
安政3年(1856)わが国最初の領事館が置かれた。

カーター大統領も訪問している。
唐人お吉と蔑まされ、最後は川に身を投げたお吉がハリスの身の回りの世話をするために
ここに奉公した。美しい娘で奉行所に見初められたという。

b0228416_09411048.jpg
ハリスが米国領事館にした寺
b0228416_09415930.jpg
日本最初の屠殺場
b0228416_09424347.jpg
黒船乗務員の墓
b0228416_09453269.jpg
開国下田みなと

b0228416_09464010.jpg
道の駅の風車

廃墟ホテル 下田富士屋ホテル

b0228416_09570302.jpg
下田富士屋ホテルの廃墟
道の駅の前にある
右隣が火事跡のあるビルだった


b0228416_10023415.jpg
にぎやかなお店
おしるこからお酒もある
住吉楼跡
山内容堂が宝福寺に滞在していところ、勝海舟とともに時化で下田に避難した竜馬がいた。
容堂は海舟の入港を聞くと海舟を寺に招いた。
海舟はこの機会にと脱藩浪人で追われる身の竜馬の罪を許してもらおうと容堂に懇願した。
そのときドキドキしながら待っていたのがここ住吉楼である。
なぜ遊郭なのかと思うが 、余裕の竜馬である。

b0228416_10034573.jpg
竜馬が待機していた住吉楼跡
町中竜馬、竜馬と書いたりしてあるのにここには碑がなかった
現在河合医院の駐車場
近くにお吉が開業した安直楼があるので
このあたり遊郭街だったのか。

b0228416_10074805.jpg
ポートマス号
宿に戻って露天風呂 地酒、カラオケ・・・・寝る


by gannyan1953 | 2015-05-02 10:09 | 静岡県の歴史散歩 | Comments(0)



横浜周辺の歴史散歩
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
> rollingwes..
by gannyan1953 at 14:13
初めまして、ローリングウ..
by rollingwest at 16:31
できればメールでお話しし..
by gannyan1953 at 09:08
新横浜スパインクリニック..
by gannyan1953 at 18:23
読めないんですね。申し訳..
by gannyan1953 at 18:09
> ださぶろうさん ご..
by gannyan1953 at 21:44
楽しんでいただけて大変嬉..
by gannyan1953 at 21:41
長津田の大火の事を調べて..
by shin344 at 21:41
初めまして久し振りで ..
by shin344 at 21:35
コメントありがとうござい..
by gannyan1953 at 21:56
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧