歴史と素適なおつきあい

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狼信仰

歴史と素適なおつきあい 室内学習

                  城峯神社のご眷属  祭神は平将門


世界のオオカミ信仰
秩父は際立ってオオカミを眷属とする寺社が多い。
世界でも、オオカミは古代から信仰の対象になっていた。
①ギリシャの先住民は、狼は畑の作物を食い荒らす動物から守ってくれると思い信仰した。
②太陽は天の父であるというケルトの民は夜になると狼が太陽を飲み込むと思った。
 ケルトが怖れたのは「天が落ちる」ことだったので、天より狼が強かったことになる。
③北欧神話では天災の象徴に狼が使われる。日本の龍の存在か。
④スキタイの民ネウロイ人は1年に1度狼に変身し元に戻るという。(歴史家ヘロドトス)
⑤モンゴルではチンギスハーンの始祖は蒼き狼だという。モンゴル民族の始祖はチノアで、チノアは狼のことで、母は白い鹿である。蒼いは漢語では灰色のことだという。
だが、チンギスハーンの伝説:蓮見治雄によると、モンゴルでは狼は神ではない。狼は家畜を襲う憎い対象であるという。
⑦トルコ系の遊牧民族にも狼を始祖とする伝承がある。(歴史知とフェティシズム:石塚正英)

日本のオオカミ信仰
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国立科学博物館のニホンオオカミ



「日本書紀」によると  
ヤマトタケルは東夷平定の帰りに、甲斐の酒折宮から、武蔵の秩父、奥多摩を通過、
上野へ向かって碓日坂(碓氷峠)を越えて信濃に入った。お腹が空いたので、信濃の山中で食事をした。
山の神は彼を苦しめようと白鹿になってヤマトタケルの前に立った。ヤマトタケルはいぶかしみ、
一箇蒜(ひとつひる)で白い鹿をはじいた。一箇蒜とはニンニクのことである。
それが目にあたって死んだ。それからヤマトタケルは道に迷ったが、
どこからか白い犬がやってきて道案内をしてくれたおかげで、美濃にでることができた。
この話から秩父、武蔵にはヤマトタケルに因んだ神社が多く、「大神」はオオカミとなった。
                    ハイイロオオカミ

ニホンオオカミは、ハイイロオオカミの亜種という見方があるが、限られた遺伝子集団で
日本にきて孤立化したともいわれている。
オオカミ信仰は有史以前、弥生時代にすでにあったと発掘史料から考えられている。

奈良時代、万葉集にオオカミを畏れて「大口の真神」と歌ってある。
オオカミは当時の人々の間で畏れをもたれていたのである。
その後山岳信仰や妙見信仰の影響をうけて浸透していったが、
特に秩父、多摩では地形、オオカミの棲息の多さで、今に至ってもなお信仰が続いている。
三峯神社をはじめオオカミを眷属として祀り、江戸時代後期には護符も配られるようになった。

護符の功徳は、火難、盗難、農難、蚕難、疾病平癒などだが、とりわけ狐憑きの加持祈祷も行われた。

オオカミの頭骨の一部を削って飲用され、そのためこの地方ではオオカミの頭骨は完全な形で残らないものが見つかっている。
頭骨が民家の棚に大切に保管され、守り神とされている家もある。

たまに頭骨はまじないや、守り神、「狐憑き」治療に借り出されることもあった。
幕末ペリー来航以来、あ免里加狐(あめりかぎつね)や千年も具ら(せんねんもぐら)がやってきたといわれ、
病気になると「狐憑き」と怖れられた。
「狐憑き」とは、このころ、地震、下田を襲った津波、コレラなど社会不安が大きい時代で
ノイローゼなど精神を患う病気だけではなかった。

ニホンオオカミが姿をみせなくなった理由として、
①享保17年(1732)の狂犬病の流行
②明治以降のジステンパー、狂犬病により、人を襲うようになり、殺されたこと
③開発による環境の変化で、えさが少なくなり、群れをなすといわれたオオカミが明治になって孤狼が増えていったこと                     
④幕末からの信仰で、骨を削って飲用するための頭骨を得るために殺害されたこと
などが上げられている。

上野動物園に、ニホンオオカミを飼育したという記録があるが、写真は残されていない。
当時絶滅するとは思われていなかったからといわれる。

見狼記
ニホンオオカミがまだ棲息するかというと、八木博氏が秩父山中で1996年10月14日に写真をとった。
それが、2012年にNHKのETV特集「見狼記〜神獣ニホンオオカミ」という番組で紹介された。
専門家が写真をみたが、オオカミだという確証は得られなかった。
内容は、
昔々山にはニホンオオカミが棲息していた。畑を荒らす鹿や猪を食べてくれるので、信仰の対象となった。
秩父には三峯神社を筆頭にオオカミを祀る神社が21社ある。釜山神社もそのひとつで、春に護符を配る。

オオカミは神ではなくご眷属で神の使いである。
毎月17日にお炊き上げというオオカミにご飯を備える神事がある。

一升の米を人の手がふれないように御櫃に入れリュックに入れて奥の院の少し下がった谷に備える。
備える姿は誰にもみられてはいけない。
300年間宮司だけが祝詞をあげながら備える。
ひと月前に備えた御櫃を持ち帰る。
御櫃のふちには不思議なことに1㎝くらいさがったところに噛みあとが残る。
関東には今でも信仰が残り、講を続けている所もあり、
やめると何が起こるのか怖くてやめることもできないという。
写真を撮った八木氏は、今でも山の奥深くに新しく目撃されたという場所に
カメラを備えオオカミを探し続けている。
自分が死んだら山に土葬してもらい、オオカミに食べられたいと言っている。



                       秩父浦山にて八木氏が撮影


福島県飯館村にある山津見神社のご眷属はオオカミである。避難区域になっているが、
大変地域に親しまれた神社である。神紋が九曜紋で、千葉一族相馬氏が支配していたからだと思うが、
平将門の紋である。秩父からオオカミ信仰が伝わったのかもしれない。
残念なことに2013年火災で焼失してしまった。
宮司の奥様が亡くなられているが、神社を守るために避難していなかったと思われる。
最後に釜山神社の宮司さんが、「自然を怖れる心を持ち続けなければ災害はまたやってくる。」
と言われた。

動物学者のあいだでは最期のオオカミとして、
明治38年奈良県吉野郡高見村鷲家口(わしかぐち)で捕らえられた、若い牡のオオカミだといわれている。

大英博物館の依頼で英国人アンダーソンが8円50銭で買い求め、今でも英国に毛皮と頭骨が展示されている。
なぜか、秩父産のオオカミの頭骨も所蔵されている。

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2017年大英自然史博物館展が開催され
奈良のオオカミはこないかなと思った・・多分きてない
というのは現地でも非公開だから・・・

写真が見つかった

東吉野村の議員さんがロンドンを訪問した話

つぎに大英博物館のオオカミの毛皮

私は剥製の日本オオカミを見た記憶がある
実際調べてみたら大英博物館は頭骨をもっており
勘違いだったみたい・・仕方ないので写真で我慢・・・

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皆花楼あれこれ 「幻の日本狼」について




人間とオオカミの話

①秩父の野上にある家から1キロほど山に入った所に洞窟があった。
そこにオオカミの親子がいて、人間が子供をさらってきた。

近所の人が珍しいと飼うことにした。ところがその晩家の戸をかじる者がいた。
どうも母オオカミらしい。3日ほど続いたが、あきらめたのか、静かになった。
戸をあけてみると縁側に殺されたうさぎが置いてあった。
子供にやって欲しいということなのか、しばらく続いた。
半月ほどすると母オオカミはどこかにいったものか死骸を置くことはなくなった。
子オオカミはよくなつき、すくすく育ったが、3年もたつと凶暴になり隣村の猟師に譲った。
聞いた話では銃殺されたらしい。オオカミがいた穴を「オオカミあーら」という。

②信州の美麻村で、岩穴にオオカミが子を出産したので、赤飯を届けた。
オオカミの子が沢山いるので、「良い子を沢山産んだなあ。一匹くれねえか」と冗談をいった。
ところが、翌日戸口に一匹のオオカミの子が置いてあった。飼う訳にいかないので、穴に返しにいった。

③飛騨益田郡竹原村では下女が水汲みに外にでると老いたオオカミが頻りに憐れみを乞うような様子をしている。
主人がでてきて様子を見るとのどに何かの骨を立てて苦しんでいる様子。
手ぬぐいを手にまいて口中に入れ、それを除いてやった。それから、しばらくしてオオカミは轡を持ってあらわれた。
「礼なら及ばず」と言ったがそれを置いて去って行った。それからその轡はこの家の家宝になった。


④何となくオオカミがついてくると言ったオオカミ送り伝承が数々ある。襲ってくる訳でもなくあとをついてくるという。
松明を振ったり、長いものを垂らして引きずると襲ってこないとか、オオカミの手が肩にふれたら振り向いてはいけない。
ちょうど頸動脈がオオカミの口にきて噛まれてしまうからだ。
このオオカミ送りの話は古くは襲わないオオカミの話だったが、近世に近づくにつれオオカミの凶暴な姿が語られるようになる。
おそらく狂犬病にかかったオオカミがあらわれてからではないかと思われる。


都筑区のオオカミの護符
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牛久保西の農家、私の隣家の元農家には毎年張り替えられたオオカミの護符があるので、伺って聞いてみた。
今でも宮司さんの姿で御嶽山から御師(おし)さんが来られて護符を届けてくださるという。
護符は、畑や台所に張る。そのときは、初穂料「2千円」を用意する。
牛久保の農家では大山講が続いており2年に一度大山の下社に参拝する。
牛久保の鎮守である天照皇大神神社の氏子は、伊勢神宮にも代表者が参拝する。
今でも昔ながらの信仰が続いているようだ。

参考——「秩父山の民俗考古」:小林茂 「峠と人生」「日本産動物雑話」「日本産狼の研究」:直良信夫 「秩父歴史散歩」:山田英二 「歴史知とフェティシズム」:石塚正英 「秩父市誌」:秩父市 「三峯神社史料集」:三峯神社 「武甲山写真集」「秩父Ⅰ風土考」:清水武甲 「オオカミの護符」:小倉美恵子 HPー秩父山地の歴史と文化・ETV特集見狼記・埼玉県秩父市贄川猪狩神社の狼信仰に関する一考察:西村敏也・温故知新・
by gannyan1953 | 2015-06-25 14:06 | 神様の話 | Comments(0)

鶴見川流域の鉄と俘囚

歴史と素適なおつきあい 室内学習  2015・7・10

清水寺 アテルイ・モレの碑

征夷大将軍となった坂上田村麻呂は蝦夷を攻め
そこに住んでいた人を東国から西に少しずつ隔離する状態で住まわせた。
都筑郡には古代製鉄の跡がみられる。
この地にその人々はきたのだろうか・・・・


鶴見川の鉄

柿生にある鶴見川の支流「片平川」には鉄渋が多くみられ,地層に含まれる鉄成分が、
水酸化鉄となって溶け出し堆積したものである。
赤褐色や黄色で褐鉄鉱と呼ばれる。
水酸化鉄は葦や稲科の植物の根元に円筒形の鉱物をつくる。
「高師小僧」といわれ多摩川でも発見されたそうだ。鉄と神

この鉄渋を採集し乾燥粉末化し1000度で加熱すると鮮やかな赤褐色に変化した。
東柿生小学校の体育館建設のときベンガラの土師器が出土、祭祀のときに使われたと推測されている。
水銀からできる辰砂(しんしゃ)ではないかと分析した結果地元由来のベンガラとわかった。
他に粘度にベンガラを練り込んで作られた土器も出土し、
古代の柿生ではベンガラの交易が行われていたのではないかと推測された。

魏志倭人伝に、「倭人は朱丹(しゅに)を体に塗る風習がある」
「生口(奴隷)倭錦、綿布、丹、弓矢を献上した」とある。
古代より日本は水酸化鉄の顔料が多く作られ、この地域の重要な特産品だった・・・と、
この実験で裏付けられたのではないか。

柿生郷土資料館では平成22年たたらによる製鉄で鶴見川の砂鉄40キロから4キロの玉鋼を取り出した。
砂鉄が多くみられたのは市ケ尾高校裏手で、これは50m上流に黒須田川が合流している場所だった。

黒須田とは黒砂(砂鉄)からきたもので砂鉄由来の地名と思われる。
黒須田川流域は剣山、鉄町という鉄関連の地名がある。

調査で鶴見川の砂鉄の成分は火山灰由来のものだとわかった。

柿生には平安末期の遺跡に鉄製品、小鍛冶(精錬された鉄で製品を作る)で使用された
羽口(送風ふきこみ口)の跡が見つかっている。
これは成分から鉄鉱石由来とわかり、手間ひまのかかる砂鉄より原料鉄を
利用した方が合理的だったからと思われる。

この背景にはこの地域の武士の起こりが関係していると思う。                            参考:柿生郷土資料館の情報誌「柿生文化」

古代東国の武士

東国はヤマト政権のころから、軍事的役割を担ってきた。
行田の稲荷山古墳出土の辛亥年銘鉄剣に5世紀この地のリーダーが
杖刀人(じょうとうにん・大王を守る親衛隊)として仕えたことを伝える。

関東の古墳には武装した人形埴輪が多く見られ、
青葉区の朝光寺遺跡の三角板鋲留短甲(よろい・かぶと)や武具が多く出土している。

東北地方に居住した蝦夷を支配するため8世紀から9世紀にかけて大きな軍事行動を起こり、
その武器、物資、兵は東国で負担した。

茨城県石岡市の鹿の子C遺跡は長い竪穴式の建物に炉が整然と並び鍛冶、漆塗りの作業が行われていた。
多量の武器、武具がここで生産され蝦夷との戦いに使われた事がわかっている。

蝦夷が帰属した人を俘囚という。

俘囚はあちこちに移住させられ時に反抗した。
このころ東国には盗賊も多く僦馬(しゅうば)の党など、それらの鎮圧に武芸に秀でた
貴族、王族が東国に土着し武士が生まれた。

平将門の乱の後、征伐した貞盛、秀郷は都の官職を任じられ京にも兵を置き、
子孫たちは東国に地位を確立していった。


鶴見川の鍛冶遺跡

年代     遺跡名                      遺物場所
  •  4〜5世紀  観福寺北小型鍛冶の炉         早淵川   青葉区荏田町
  •  5〜6世紀  矢崎山大規模鍛冶工房跡        早淵川   都筑区荏田南
  •  6〜7世紀  北川表の上精錬〜鍛冶工房跡      早淵川   都筑区早淵
  •  7〜8世紀  権田原精錬〜鍛冶工房跡        早淵川   都筑区早淵
  •  7〜8世紀  上谷本第二精錬〜鍛冶工房跡      谷本川   緑区上谷本
  •  8〜9世紀  受地だいやま精錬・鍛冶炉       恩田川   青葉区奈良町
  •  8〜9世紀  上郷深田精錬             㹨川    栄区上郷町 
  • 10〜12世紀  西ノ谷精錬炉・武具・馬具の製作    早淵川   都筑区南山田
  • 14〜15世紀  茅ヶ崎 小机城内の鍛冶工房跡     早淵川   都筑区・港北区


           伊藤薫:「鶴見川流域の鉄分かシンポジウムⅡ」資料参照


西ノ谷遺跡


    西ノ谷遺跡出土の鉄製品

都筑区南山田2丁目1〜4・15に所在した遺跡で造成工事のため大半は削られ
現在一部は大善寺の新設墓地、また南の邸宅の裏山として面影を残している。

大善寺墓地あたりにオミネ屋敷(近世の住宅)があり、
北には西ノ谷貝塚、東北には南堀貝塚、南西に古梅谷遺跡と遺跡が多い。

1987〜1988年に発掘調査され、先土器時代から現代までの遺構が発見された。

注目されたのは鍛冶跡がみつかったことである。
8世後半の集落跡には鍛冶跡はなかったが、10世紀にはいると中央に断層を
利用した大溝が掘られ鍛治工房があり、11世紀になると拡大されていた。

特徴は搬入された銑鉄塊を素材とした精錬、製品が作られていたことである。

この一貫した製造過程は近辺では見られない。

鎧に使用する小札(こざね)鏃(やじり)武具、武器、農具、釘など作られ、
特に小札が珍しかった。
小札が製作される鍛冶工房を確認したのは初めてのことだという。
それまでは小札製作は近江、京都といわれてきたが、東国での生産地が発見された。
             (兵の時代古代末期の東国社会:横浜市歴史博物館)

鍛治工房の経営者は誰だったのか?

坂本彰氏の推測は、都筑氏、秩父平氏の榛谷重朝、稲毛重成、師岡重経、
多田行綱、武蔵守藤原公信があげられている。

残念なことに否定要素が強い人は都筑氏、多田行綱でいずれもこの都筑関係者であった。

伝説、多くの文献にみられない人なのでこの地域のことが詳しく書かれている
文献、史料はみつからないものだろうか。

また注文者がわからないのは11、12世紀の集落が都筑、橘樹、
久良岐郡に発見されていないからだという。
坂本氏は平忠常の乱に対応して西ノ谷で小札製作がはじまったのではないかとみている。

11世紀前半長元元年(1028)に上総介平忠常が安房国守を殺害し、内乱が続いた。
同4年(1031)に収束し、活躍した多田満仲の子頼信は東国に名を馳せた。
そこに頼信の軍事力の中心が西ノ谷だったかもしれないという見方もしている。
                     (参考:坂本彰:鶴見川流域の考古学)

この製鉄技術者はどこからきたのか・・・
さきほどの俘囚が最初に製鉄技術を東国にもたらしたのではないか。
青葉区のあざみ野南にはあざみ野南鍛冶谷公園・、赤田東と西公園など製鉄地名があり、
あざみ野南宇たり公園はアイヌ地名ではないかと考えた。

ただなぜウタリなのか未だにわからない。
ウタリはアイヌ語で同胞、仲間という意味がある。このあたり、古代に俘囚がきたのではないか。

俘囚とは
古代の蝦夷のことで、蝦夷征伐が行われ王化した従属したものをいう。

俘囚の用語の初見は
「神亀2年(725)陸奥国俘囚144人を伊予国に配し、578人を筑紫に配し、15人を和泉監に配す。」

そもそも蝦夷はアイヌなのか既存の東北住民なのかも意見が分かれる。

ここでいう俘囚は、産鉄が得意な民だったという見方で考える事にする。

平泉近く白山岳ふもとに舞草(まいくさ)神社がある。
その裏手から多くの鉄滓が出土した。
鍛冶場だったと推測される。

舞草(もくさ)刀は平安時代に直刀から湾刀に移行するが、日本刀のルーツといわれている。
蝦夷からの献上品として正倉院にも納められている。


   正倉院の舞草刀

「将門と鉄」より将門と鉄

将門の武器は毛抜形太刀といわれ柄の部分が毛抜のような透かし彫りになり、
物を切る衝撃から手を守るために透かしてある。

蕨手刀という蝦夷の刀は彎曲し、 騎馬で戦うには使いやすいものであった。
柄が蕨のような形をしているのでそうよばれている。
日本刀の原型といわれ、北上川流域の餅鉄を原料に、
舞草(もぐさ)、月山、宝寿という鍛冶集団があった。

この蕨手刀からより日本刀に近づいたものが毛抜形太刀である。

俘囚たちは全国に移住させられその生活は狩猟や武芸訓練であった。
9世紀の国内治安維持には主要な軍事力であった。
俘囚の中から長を選び俘囚社会を治めさせた。

9世紀ころから俘囚らによる改善要求の乱が多く起こり、
将門の父良持は鎮守府将軍として出羽や陸奥に赴いたときこの蕨手刀の威力を認識したことと思う。



俘囚の住む所が別所であるという説を菊池山哉(郷土史家)が唱え、
産鉄に詳しい柴田弘武がその後に他の全国の別所地名調査を行なった。

それによると共通点があり、必ずしも一致するものではないが、うなずけることが多い。


別所という地の共通点

①山間、僻地に多く、白山権現を祀る白山神社がある

白山神社は加賀の一宮白山比咩神社で祭神は菊理媛命(くくりひめ)である。
全国の白山神社の祭神は菊理媛命、イザナギ、国常立命、十一面観音など様々である。
東日本に多い理由は「オシラサマ」からきているのではないかという推測がある

②慈覚大師の開基した寺がある 

蝦夷の服属に信仰心でもって静めようと考えた朝廷は、
国分寺に五大尊を置いた。松島の五大堂もその一つである。
そして慈覚大師は武蔵と上野の国から600石を賜り各地に寺院を
建立するよう清和天皇に命じられたという。
清和天皇の時代に元慶の乱(出羽俘囚の反乱)が起きている。

蝦夷はもともと偶像崇拝だったのでその効果があったといわれる。
別所に多く薬師堂を建立し、毛越寺の吉祥堂の観音は大原別所の
補陀洛寺(ふだらくじ)の観音を模したといわれる(吾妻鏡)。
平泉の基衡(奥州藤原2代)が大原別所の観音を選んだ事は
別所と俘囚の関係を物語るのではないか(菊池山哉)


③東光寺、東光院がある

東方浄瑠璃の世界を意味し、薬師如来を本尊とすることが多い。
東光院も同じ。関東では白山社がいっしょになっていることが多いが、
神社合祀のとき多く廃されている。
関東ではハンセン病や、行き倒れ、遊女、罪人、動物供養を行ってきた歴史が多く残る。

④古くから存在する「和名抄」に載っているような集落で古い神社や勅願寺がある

⑤製鉄、鍛冶遺跡がある

蝦夷が製鉄、鍛冶に長けていた事が別所での製鉄、鍛冶が行われる事になる。

柴田広武氏は産鉄と名付けたが陸奥における産鉄の地が多くあることが
それを立証している。

蝦夷は反抗する荒ぶる人々ということで征夷が行われたが
朝廷は鉄の技術を求めて征夷したのではないか。
 
⑥奥羽六カ国と薩摩の隼人のいた地域、特殊な国といわれる飛騨国には存在しない

飛騨国はなぜ特殊なのか・・律令時代山国で租庸調で出せるものがなく
木挽きや大工が徴用され、平城京や東大寺の建設に携わった。
現在でも飛騨の匠と言われている所以である。過酷な労務に逃亡するもの者も出て
平安初期の太政官は「飛騨人の言語容顔は他国
と異なりすぐわかるので、早速捕まえて差し出せ」と諸国に命じた。飛騨には両面宿儺の
伝説が伝えられこの異形の人物から「異なる人」といわれたのだろうか。

 日本書紀・仁徳天皇65年に両面宿儺が登場する


飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。ひとつの胴体にふたつの顔がありそれぞれ反対側を向いていた・・略・・皇命に従わず人民から略奪することを楽しみ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した。

久良伎郡 大岡別所
入り込んだ谷間にあり別所村として存在する。白山権現を祀り薬師堂がある。墓場は共葬で丸石を置いた。入り口の村は最戸(さえど)村という。塞戸のこと。石棒を石神として祀り、山の頂上にあったという。

久良伎郡 鶴見別所
末吉村に属し鶴見の西北一里。


久良伎郡 寺尾別所
北寺尾村に属し別所谷と呼ばれる。鎮守は熊野神社で昔は師岡に属していたらしい。鶴見とは隣接して近いのだが、昔は付き合いがなかった。
久良伎郡の頭領は白山堂のある大岡か、十一面観音のある弘明寺だったのではないか。

橘樹郡 長尾別所
長尾村と上作延村の境にあり、別所台には十三塚が残る。妙楽寺は慈覚大師開山で薬師三尊の日光菩薩から威光寺といい、慈覚大師のことが書いてある墨書が発見された。威光寺は俘囚の長がいたといわれる。将門郎党の墓と信じてきた五所塚はやはり十三塚だったのか。別所には境に十三塚が多く残る。

橘樹郡 野川別所
別所は影向寺をはさんだ両脇にふたつある。長弁僧都の「私案抄」に薬師如来を安置とある。
寺伝では行基開山、慈覚大師彫刻の勅使が納めたとある。

橘樹郡 綱島別所
昔は氾濫の多い島だったと思われる。綱島駅西北すぐのところである。
近くに東照寺があり本尊は薬師如来である。
陽林寺は十一面観音秘仏がある。大倉山の麓に観音堂があったという。



長野県  別所 
別所温泉として有名であり、北向観音の本尊は千手観音で慈覚大師の草創と伝わる。北向の観音は他にもよくあるが、蝦夷静謐祈願と思われる。

長野県秋山郷  結東村・穴藤村 と境村・現在栄村
秋山郷とは新潟の津南町と長野の栄村にまたがる秘境で、昔から中津川結東村は新潟に属す。
長野に属す栄村とつながっているが、里どうし交際がなく、結婚もしないという関係である。
近年まで積雪のため隔絶されることもあり、何度も飢饉、飢餓は起こり天明の飢饉で村が絶えたこともある。
生活は幕末にようやく稲作が行われ、それでもなお狩猟と焼畑で生活を支えた。
結東村には3軒のみ屋敷があり他は竪穴住居であった。
赤沢部落に十一面観音(白山信仰)、阿弥陀如来、聖徳太子黒駒像は職人が祀るもの、十三塚がある。
江戸時代に良質の銅石が出るというが、栄村の和山に銅の製錬跡が見られるくらいで秘密に行われ未だに謎の銅山といわれる。
赤沢は鉄分の多い温泉がでる。ここが別所であると思われるのは、地勢から中津川流域は越後に属してもいいと
思われるのになぜか分断され、付き合いがないということから栄村の方に数戸の俘囚を配し、
これを管理する長野側と俘囚を嫌った新潟側に別れ、塞がれたのではないかと菊池山哉は考えた。


別所地名のない製鉄地名

剣神社ー大蛇と剣の伝説
昔陸奥国より炭商人が鎌倉街道を歩いて鍛冶に炭を売りにきた。
久しぶりに来たので喜んで鍛冶が作った刀を一振り与えた。
商人は喜んで国に帰る途中、泉で喉を潤した。
それが酒のようにおいしく、眠気を催し寝てしまった。
そこへ大蛇がやってきて呑み込まれそうになった。
さきほどもらった刀で大蛇を刺し命が助かった。
その刀は祀られ剣明神とよばれた。

菊名池ーダイダラボッチ伝説
やさしい大男が水浸しになった村を救う話で働きすぎて
しりもちをついた所が菊名池だそうだ。(篠原池にもある)

師岡熊野神社ー片目の鯉の伝説
いの池に片目の鯉がいたという。片目、片葉は製鉄地名。

長津田・成瀬ー東光寺
東光寺がかつて存在した。江戸時代東光寺と長津田との境界争いがあった。
境界と思われる場所に木炭を埋めた。
原嶋源右衛門が木炭が証拠であると幕府の役人に伝え、境界は定められた。
その後木炭を埋めたのは最近であるとわかり境界を偽り詐称した罪で
源右衛門一家がこの地で処刑されたという。
崖山と呼ばれる所で崖山地蔵が供養に置かれている。

鎌倉街道中道編より
中世このあたり東光寺村があり鎌倉街道、刑場があった。
家康が入国する村を分断しそこに新たに幕府の役人井上主水が配属され境界のもめ事に発展、
土着していた源右衛門が処刑されたが、当地では義民原嶋源右衛門といわれている。
恨み籠る場所として鎌倉街道を行く人に怖れられたが、
街道は大山街道にとってかわり、長津田に宿が移った。
鎌倉時代この道は畠山重忠が通った道である。

杉山神社
茅ヶ崎杉山神社は懸け仏がある。懸け仏は製鉄地の寺に多くある。



参考 別所と俘囚:菊池山哉(1890〜1966)鶴見川流域の考古学:坂本彰  
鉄と俘囚の古代史 産鉄族オオ氏:柴田弘武 秋山紀行・北越雪譜:鈴木牧之
栄村秋山郷観光協会HP 鎌倉街道中道編:芳賀善次郎
by gannyan1953 | 2015-06-25 14:03 | 古代製鉄・鉱物 | Comments(0)

鶴見川流域の鉄と俘囚

歴史と素適なおつきあい 室内学習

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清水寺 アテルイ・モレの碑

征夷大将軍となった坂上田村麻呂は蝦夷を攻め
そこに住んでいた人を東国から西に少しずつ隔離する状態で住まわせた。
都筑郡には古代製鉄の跡がみられる。
この地にその人々はきたのだろうか・・・・


鶴見川の鉄

柿生にある鶴見川の支流「片平川」には鉄渋が多くみられ,地層に含まれる鉄成分が、
水酸化鉄となって溶け出し堆積したものである。
赤褐色や黄色で褐鉄鉱と呼ばれる。
水酸化鉄は葦や稲科の植物の根元に円筒形の鉱物をつくる。
「高師小僧」といわれ多摩川でも発見されたそうだ。鉄と神

この鉄渋を採集し乾燥粉末化し1000度で加熱すると鮮やかな赤褐色に変化した。
東柿生小学校の体育館建設のときベンガラの土師器が出土、祭祀のときに使われたと推測されている。
水銀からできる辰砂(しんしゃ)ではないかと分析した結果地元由来のベンガラとわかった。
他に粘度にベンガラを練り込んで作られた土器も出土し、
古代の柿生ではベンガラの交易が行われていたのではないかと推測された。

魏志倭人伝に、「倭人は朱丹(しゅに)を体に塗る風習がある」
「生口(奴隷)倭錦、綿布、丹、弓矢を献上した」とある。
古代より日本は水酸化鉄の顔料が多く作られ、この地域の重要な特産品だった・・・と、
この実験で裏付けられたのではないか。

柿生郷土資料館では平成22年たたらによる製鉄で鶴見川の砂鉄40キロから4キロの玉鋼を取り出した。
砂鉄が多くみられたのは市ケ尾高校裏手で、これは50m上流に黒須田川が合流している場所だった。

黒須田とは黒砂(砂鉄)からきたもので砂鉄由来の地名と思われる。
黒須田川流域は剣山、鉄町という鉄関連の地名がある。

調査で鶴見川の砂鉄の成分は火山灰由来のものだとわかった。

柿生には平安末期の遺跡に鉄製品、小鍛冶(精錬された鉄で製品を作る)で使用された
羽口(送風ふきこみ口)の跡が見つかっている。
これは成分から鉄鉱石由来とわかり、手間ひまのかかる砂鉄より原料鉄を
利用した方が合理的だったからと思われる。

この背景にはこの地域の武士の起こりが関係していると思う。                            参考:柿生郷土資料館の情報誌「柿生文化」

古代東国の武士

東国はヤマト政権のころから、軍事的役割を担ってきた。
行田の稲荷山古墳出土の辛亥年銘鉄剣に5世紀この地のリーダーが
杖刀人(じょうとうにん・大王を守る親衛隊)として仕えたことを伝える。

関東の古墳には武装した人形埴輪が多く見られ、
青葉区の朝光寺遺跡の三角板鋲留短甲(よろい・かぶと)や武具が多く出土している。

東北地方に居住した蝦夷を支配するため8世紀から9世紀にかけて大きな軍事行動を起こり、
その武器、物資、兵は東国で負担した。

茨城県石岡市の鹿の子C遺跡は長い竪穴式の建物に炉が整然と並び鍛冶、漆塗りの作業が行われていた。
多量の武器、武具がここで生産され蝦夷との戦いに使われた事がわかっている。

蝦夷が帰属した人を俘囚という。

俘囚はあちこちに移住させられ時に反抗した。
このころ東国には盗賊も多く僦馬(しゅうば)の党など、それらの鎮圧に武芸に秀でた
貴族、王族が東国に土着し武士が生まれた。

平将門の乱の後、征伐した貞盛、秀郷は都の官職を任じられ京にも兵を置き、
子孫たちは東国に地位を確立していった。


鶴見川の鍛冶遺跡

年代     遺跡名                      遺物場所
  •  4〜5世紀  観福寺北小型鍛冶の炉         早淵川   青葉区荏田町
  •  5〜6世紀  矢崎山大規模鍛冶工房跡        早淵川   都筑区荏田南
  •  6〜7世紀  北川表の上精錬〜鍛冶工房跡      早淵川   都筑区早淵
  •  7〜8世紀  権田原精錬〜鍛冶工房跡        早淵川   都筑区早淵
  •  7〜8世紀  上谷本第二精錬〜鍛冶工房跡      谷本川   緑区上谷本
  •  8〜9世紀  受地だいやま精錬・鍛冶炉       恩田川   青葉区奈良町
  •  8〜9世紀  上郷深田精錬             㹨川    栄区上郷町 
  • 10〜12世紀  西ノ谷精錬炉・武具・馬具の製作    早淵川   都筑区南山田
  • 14〜15世紀  茅ヶ崎 小机城内の鍛冶工房跡     早淵川   都筑区・港北区


           伊藤薫:「鶴見川流域の鉄分かシンポジウムⅡ」資料参照


西ノ谷遺跡

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    西ノ谷遺跡出土の鉄製品

都筑区南山田2丁目1〜4・15に所在した遺跡で造成工事のため大半は削られ
現在一部は大善寺の新設墓地、また南の邸宅の裏山として面影を残している。

大善寺墓地あたりにオミネ屋敷(近世の住宅)があり、
北には西ノ谷貝塚、東北には南堀貝塚、南西に古梅谷遺跡と遺跡が多い。

1987〜1988年に発掘調査され、先土器時代から現代までの遺構が発見された。

注目されたのは鍛冶跡がみつかったことである。
8世後半の集落跡には鍛冶跡はなかったが、10世紀にはいると中央に断層を
利用した大溝が掘られ鍛治工房があり、11世紀になると拡大されていた。

特徴は搬入された銑鉄塊を素材とした精錬、製品が作られていたことである。

この一貫した製造過程は近辺では見られない。

鎧に使用する小札(こざね)鏃(やじり)武具、武器、農具、釘など作られ、
特に小札が珍しかった。
小札が製作される鍛冶工房を確認したのは初めてのことだという。
それまでは小札製作は近江、京都といわれてきたが、東国での生産地が発見された。
             (兵の時代古代末期の東国社会:横浜市歴史博物館)

鍛治工房の経営者は誰だったのか?

坂本彰氏の推測は、都筑氏、秩父平氏の榛谷重朝、稲毛重成、師岡重経、
多田行綱、武蔵守藤原公信があげられている。

残念なことに否定要素が強い人は都筑氏、多田行綱でいずれもこの都筑関係者であった。

伝説、多くの文献にみられない人なのでこの地域のことが詳しく書かれている
文献、史料はみつからないものだろうか。

また注文者がわからないのは11、12世紀の集落が都筑、橘樹、
久良岐郡に発見されていないからだという。
坂本氏は平忠常の乱に対応して西ノ谷で小札製作がはじまったのではないかとみている。

11世紀前半長元元年(1028)に上総介平忠常が安房国守を殺害し、内乱が続いた。
同4年(1031)に収束し、活躍した多田満仲の子頼信は東国に名を馳せた。
そこに頼信の軍事力の中心が西ノ谷だったかもしれないという見方もしている。
                     (参考:坂本彰:鶴見川流域の考古学)

この製鉄技術者はどこからきたのか・・・
さきほどの俘囚が最初に製鉄技術を東国にもたらしたのではないか。
青葉区のあざみ野南にはあざみ野南鍛冶谷公園・、赤田東と西公園など製鉄地名があり、
あざみ野南宇たり公園はアイヌ地名ではないかと考えた。

ただなぜウタリなのか未だにわからない。
ウタリはアイヌ語で同胞、仲間という意味がある。このあたり、古代に俘囚がきたのではないか。

俘囚とは
古代の蝦夷のことで、蝦夷征伐が行われ王化した従属したものをいう。

俘囚の用語の初見は
「神亀2年(725)陸奥国俘囚144人を伊予国に配し、578人を筑紫に配し、15人を和泉監に配す。」

そもそも蝦夷はアイヌなのか既存の東北住民なのかも意見が分かれる。

ここでいう俘囚は、産鉄が得意な民だったという見方で考える事にする。

平泉近く白山岳ふもとに舞草(まいくさ)神社がある。
その裏手から多くの鉄滓が出土した。
鍛冶場だったと推測される。

舞草(もくさ)刀は平安時代に直刀から湾刀に移行するが、日本刀のルーツといわれている。
蝦夷からの献上品として正倉院にも納められている。


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   正倉院の舞草刀

「将門と鉄」より将門と鉄

将門の武器は毛抜形太刀といわれ柄の部分が毛抜のような透かし彫りになり、
物を切る衝撃から手を守るために透かしてある。

蕨手刀という蝦夷の刀は彎曲し、 騎馬で戦うには使いやすいものであった。
柄が蕨のような形をしているのでそうよばれている。
日本刀の原型といわれ、北上川流域の餅鉄を原料に、
舞草(もぐさ)、月山、宝寿という鍛冶集団があった。

この蕨手刀からより日本刀に近づいたものが毛抜形太刀である。

俘囚たちは全国に移住させられその生活は狩猟や武芸訓練であった。
9世紀の国内治安維持には主要な軍事力であった。
俘囚の中から長を選び俘囚社会を治めさせた。

9世紀ころから俘囚らによる改善要求の乱が多く起こり、
将門の父良持は鎮守府将軍として出羽や陸奥に赴いたときこの蕨手刀の威力を認識したことと思う。



俘囚の住む所が別所であるという説を菊池山哉(郷土史家)が唱え、
産鉄に詳しい柴田弘武がその後に他の全国の別所地名調査を行なった。

それによると共通点があり、必ずしも一致するものではないが、うなずけることが多い。


別所という地の共通点

①山間、僻地に多く、白山権現を祀る白山神社がある

白山神社は加賀の一宮白山比咩神社で祭神は菊理媛命(くくりひめ)である。
全国の白山神社の祭神は菊理媛命、イザナギ、国常立命、十一面観音など様々である。
東日本に多い理由は「オシラサマ」からきているのではないかという推測がある

②慈覚大師の開基した寺がある 

蝦夷の服属に信仰心でもって静めようと考えた朝廷は、
国分寺に五大尊を置いた。松島の五大堂もその一つである。
そして慈覚大師は武蔵と上野の国から600石を賜り各地に寺院を
建立するよう清和天皇に命じられたという。
清和天皇の時代に元慶の乱(出羽俘囚の反乱)が起きている。

蝦夷はもともと偶像崇拝だったのでその効果があったといわれる。
別所に多く薬師堂を建立し、毛越寺の吉祥堂の観音は大原別所の
補陀洛寺(ふだらくじ)の観音を模したといわれる(吾妻鏡)。
平泉の基衡(奥州藤原2代)が大原別所の観音を選んだ事は
別所と俘囚の関係を物語るのではないか(菊池山哉)


③東光寺、東光院がある

東方浄瑠璃の世界を意味し、薬師如来を本尊とすることが多い。
東光院も同じ。関東では白山社がいっしょになっていることが多いが、
神社合祀のとき多く廃されている。
関東ではハンセン病や、行き倒れ、遊女、罪人、動物供養を行ってきた歴史が多く残る。

④古くから存在する「和名抄」に載っているような集落で古い神社や勅願寺がある

⑤製鉄、鍛冶遺跡がある

蝦夷が製鉄、鍛冶に長けていた事が別所での製鉄、鍛冶が行われる事になる。

柴田広武氏は産鉄と名付けたが陸奥における産鉄の地が多くあることが
それを立証している。

蝦夷は反抗する荒ぶる人々ということで征夷が行われたが
朝廷は鉄の技術を求めて征夷したのではないか。
 
⑥奥羽六カ国と薩摩の隼人のいた地域、特殊な国といわれる飛騨国には存在しない

飛騨国はなぜ特殊なのか・・律令時代山国で租庸調で出せるものがなく
木挽きや大工が徴用され、平城京や東大寺の建設に携わった。
現在でも飛騨の匠と言われている所以である。過酷な労務に逃亡するもの者も出て
平安初期の太政官は「飛騨人の言語容顔は他国
と異なりすぐわかるので、早速捕まえて差し出せ」と諸国に命じた。飛騨には両面宿儺の
伝説が伝えられこの異形の人物から「異なる人」といわれたのだろうか。

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 日本書紀・仁徳天皇65年に両面宿儺が登場する


飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。ひとつの胴体にふたつの顔がありそれぞれ反対側を向いていた・・略・・皇命に従わず人民から略奪することを楽しみ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した。

久良伎郡 大岡別所
入り込んだ谷間にあり別所村として存在する。白山権現を祀り薬師堂がある。墓場は共葬で丸石を置いた。入り口の村は最戸(さえど)村という。塞戸のこと。石棒を石神として祀り、山の頂上にあったという。

久良伎郡 鶴見別所
末吉村に属し鶴見の西北一里。


久良伎郡 寺尾別所
北寺尾村に属し別所谷と呼ばれる。鎮守は熊野神社で昔は師岡に属していたらしい。鶴見とは隣接して近いのだが、昔は付き合いがなかった。
久良伎郡の頭領は白山堂のある大岡か、十一面観音のある弘明寺だったのではないか。

橘樹郡 長尾別所
長尾村と上作延村の境にあり、別所台には十三塚が残る。妙楽寺は慈覚大師開山で薬師三尊の日光菩薩から威光寺といい、慈覚大師のことが書いてある墨書が発見された。威光寺は俘囚の長がいたといわれる。将門郎党の墓と信じてきた五所塚はやはり十三塚だったのか。別所には境に十三塚が多く残る。

橘樹郡 野川別所
別所は影向寺をはさんだ両脇にふたつある。長弁僧都の「私案抄」に薬師如来を安置とある。
寺伝では行基開山、慈覚大師彫刻の勅使が納めたとある。

橘樹郡 綱島別所
昔は氾濫の多い島だったと思われる。綱島駅西北すぐのところである。
近くに東照寺があり本尊は薬師如来である。
陽林寺は十一面観音秘仏がある。大倉山の麓に観音堂があったという。



長野県  別所 
別所温泉として有名であり、北向観音の本尊は千手観音で慈覚大師の草創と伝わる。北向の観音は他にもよくあるが、蝦夷静謐祈願と思われる。

長野県秋山郷  結東村・穴藤村 と境村・現在栄村
秋山郷とは新潟の津南町と長野の栄村にまたがる秘境で、昔から中津川結東村は新潟に属す。
長野に属す栄村とつながっているが、里どうし交際がなく、結婚もしないという関係である。
近年まで積雪のため隔絶されることもあり、何度も飢饉、飢餓は起こり天明の飢饉で村が絶えたこともある。
生活は幕末にようやく稲作が行われ、それでもなお狩猟と焼畑で生活を支えた。
結東村には3軒のみ屋敷があり他は竪穴住居であった。
赤沢部落に十一面観音(白山信仰)、阿弥陀如来、聖徳太子黒駒像は職人が祀るもの、十三塚がある。
江戸時代に良質の銅石が出るというが、栄村の和山に銅の製錬跡が見られるくらいで秘密に行われ未だに謎の銅山といわれる。
赤沢は鉄分の多い温泉がでる。ここが別所であると思われるのは、地勢から中津川流域は越後に属してもいいと
思われるのになぜか分断され、付き合いがないということから栄村の方に数戸の俘囚を配し、
これを管理する長野側と俘囚を嫌った新潟側に別れ、塞がれたのではないかと菊池山哉は考えた。


別所地名のない製鉄地名

剣神社ー大蛇と剣の伝説
昔陸奥国より炭商人が鎌倉街道を歩いて鍛冶に炭を売りにきた。
久しぶりに来たので喜んで鍛冶が作った刀を一振り与えた。
商人は喜んで国に帰る途中、泉で喉を潤した。
それが酒のようにおいしく、眠気を催し寝てしまった。
そこへ大蛇がやってきて呑み込まれそうになった。
さきほどもらった刀で大蛇を刺し命が助かった。
その刀は祀られ剣明神とよばれた。

菊名池ーダイダラボッチ伝説
やさしい大男が水浸しになった村を救う話で働きすぎて
しりもちをついた所が菊名池だそうだ。(篠原池にもある)

師岡熊野神社ー片目の鯉の伝説
いの池に片目の鯉がいたという。片目、片葉は製鉄地名。

長津田・成瀬ー東光寺
東光寺がかつて存在した。江戸時代東光寺と長津田との境界争いがあった。
境界と思われる場所に木炭を埋めた。
原嶋源右衛門が木炭が証拠であると幕府の役人に伝え、境界は定められた。
その後木炭を埋めたのは最近であるとわかり境界を偽り詐称した罪で
源右衛門一家がこの地で処刑されたという。
崖山と呼ばれる所で崖山地蔵が供養に置かれている。

鎌倉街道中道編より
中世このあたり東光寺村があり鎌倉街道、刑場があった。
家康が入国する村を分断しそこに新たに幕府の役人井上主水が配属され境界のもめ事に発展、
土着していた源右衛門が処刑されたが、当地では義民原嶋源右衛門といわれている。
恨み籠る場所として鎌倉街道を行く人に怖れられたが、
街道は大山街道にとってかわり、長津田に宿が移った。
鎌倉時代この道は畠山重忠が通った道である。

杉山神社
茅ヶ崎杉山神社は懸け仏がある。懸け仏は製鉄地の寺に多くある。



参考 別所と俘囚:菊池山哉(1890〜1966)鶴見川流域の考古学:坂本彰  
鉄と俘囚の古代史 産鉄族オオ氏:柴田弘武 秋山紀行・北越雪譜:鈴木牧之
栄村秋山郷観光協会HP 鎌倉街道中道編:芳賀善次郎
by gannyan1953 | 2015-06-21 13:16 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

甲州街道を歩いた③のⅠ仙川〜府中

歴史と素適なおつきあい番外編         2015・6・10(水)

朝九時出発

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まずはキューピー!かわいい・・・
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川があって滝があったそうな・・・おもかげなし
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右に旧道があり早速薬師様があった・・・
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フェンスの中にあって見づらいが、横からのぞくとでかいイチョウがみえた
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妙円地蔵
若くして夫と死別、その弟と再婚、その苦労がたたってか、視力を失い尼となり人々に念仏を唱えその喜捨によりこの地蔵を作り人々の安全を願った
滝沢馬琴が「玄同放言」に紹介して有名になった


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野川
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このあたり馬捨て場があった


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石材店の一角にある

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成田山に馬捨て場の供養塔が移されていた

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成田山の供養塔


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調布についた
鬼太郎
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大好きなねずみ男

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大正寺
ここはとても奇麗な寺
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古い六地蔵
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布田天神

延暦18(799)木綿が三河に伝えられたが布にすることを知らず
広福長者が神から教えられた布を作る技術を知って
多摩川で布を晒したという。
これがわが国最初の木綿だという
万葉集のある多摩川の布を晒す歌
「多摩川にさらす手作り さらさらに
何ぞこの児の ここだ愛しき(かなしき)
は麻を柔らかくするために晒している。
布田天神も木綿じゃなく麻だと思っていた

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一里塚だがフェンスがあってうまく見えない
えのき駐車場といって一里塚らしいネーミングだが。

Ⅱに続く






by gannyan1953 | 2015-06-13 12:13 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

甲州街道を歩いた③のⅡ

歴史と素適なおつきあい番外編    2015・6・10



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おもしろい貸し倉庫があった


道は品川街道に入る。品川街道は府中に国府があったころ東海道に通じる脇街道だった。
大国魂神社の祭礼で品川沖から水をくみ神社まで運ぶ禊の道だった。「いさき道」という。



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金山彦を祀るちょっとディープな感じがする神社
人の家に侵入するような・・・きっと昔鍛冶に関する仕事を
して個人的に祀られたものではないか・・・
金山彦は鍛冶・製鉄の神様である
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源正寺
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西光寺

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近藤勇の生家は調布の上石原だった
甲陽鎮撫隊は戦勝祈願のためここを訪れ休息をとっている

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瑠璃光寺薬師堂
意仙という修行僧がここで薬師を彫りこの地で入定した

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今では地名で残るのみだが頼朝が奥州藤原秀衡の持念仏を畠山重忠に運ばせたが
この地で動かなくなってしまったのでここに祀ったという
近くの本願寺に縁起が伝わる
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染屋不動尊
阿弥陀如来が安置されとり鎌倉時代に染め物が盛んだった

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常久の一里塚

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現在は大国魂神社の摂社だが、聖武天皇のころの創建だといわれる

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大国魂神社

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熱心に祈っている人がいる
ここは斎庭(ゆにわ)なんだろうか
斎庭とは神が降りる場所である

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この武蔵野国の国府 将門さんも来ていて
ここでのもめ事が乱の発端となってしまう
複雑な気持ちで国府をみた
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帰り道この欅並木がほんとに美しい
献上したのは源頼義・義家の親子
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源義家像



by gannyan1953 | 2015-06-13 12:10 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

千本松原に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編           2015・6・2

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長良川と揖斐川の下流に千本松原がある
そこには薩摩藩の治水工事の悲話が伝わる

長島温泉から各務原まで川沿いにドライブすることにした
以前東海道歩きをしたときに熱田の七里の渡しから桑名まで
現在渡しがないために
陸地を歩こうとしたとき、津島から桑名まで木曽三川公園を通った
そこに治水神社がある

宝暦3年(1753)幕府は水と戦うこの地の治水工事を
薩摩藩に命じた
薩摩藩は平田靫負(ひらたゆきえ)を奉行におよそ千人の藩士を派遣、
治水工事にとりかかった
工事の費用の増額、設計変更、そして苦労した
藩士の死・・・大きな犠牲を出しての工事だった

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そもそも尾張藩は大藩で美濃と尾張の堰の高さが尾張藩の方が高く
美濃は低く洪水被害は美濃がひどくなるようになっていたらしい。
油島締切堤のあたりは、木曽川と揖斐川が合流し、木曽三川の水害の大きな原因となった。
木曽川と揖斐川の川床の高さが揖斐川の方が1mほど低く美濃側側に水が流れ氾濫を起こしていた。
そのため木曽三川を分離する事にしたのだが、この油島締切の工事が難航した。
実際の工事の奉行に幕府の役人が立ち、使用するわらじなど近辺の農民に高く売るつけるように
したり、食事も粗末な食事になったため薩摩の武士は体が衰弱し赤痢をおこし
30余人が亡くなったり、幕府の理不尽な行動に切腹で抗議したりした。

それでも木曽川から川床の低い揖斐川に絶えず流れ込み、洪水が起こり
やっと一部を残し松を植えた堰が完成した。

薩摩の奉行平田靫負は完成した直後工事の難航に責任を感じ切腹した。
尾張の生まれの私は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

のち明和5年(1768)徳島藩が通船のための食い違いを持った洗い堰を工事。
明治20年に完全な締切が完成した。
現在道路として利用されているのが明治改修にあたる部分である。

映画の 『千本松原 川と生きる少年たち』(1992)がある
いいアニメだった


参考:水と生きる 薩摩義士の史跡を訪ねて:海津市観光情報センター
   千本松原:岸武雄 あかね書房









by gannyan1953 | 2015-06-02 23:27 | 岐阜県の歴史散歩 | Comments(0)



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by shin344 at 21:35
コメントありがとうござい..
by gannyan1953 at 21:56
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