歴史と素適なおつきあい

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港北ニュータウン 茅ヶ崎村の地名

歴史と素適なおつきあい番外編
茅ヶ崎村


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杉山神社の伝説からみて中川では最も古い歴史をもつ村といえる。
明治22年 合併して中川村になり、大字として残った。
昭和14年(1939)横浜市に編入され港北区となり
村名は町名になった。

「朝廷の祭祀をつかさどる安房忌部氏の一族が、房総半島先端にある安房に移住し、
安房神社の神主忌部勝麻呂が東京湾を渡って鶴見川の流域を開拓し、その一族が
彼らの祖先神として杉山神社を、各地に祀った。」

と「杉山神社考」戸倉英太郎著にある。

戸倉氏は茅ヶ崎の岸家が所蔵する
「安房忌部氏系図」を重視し、本社は茅ヶ崎杉山社、祭神はタカミムスビノミコトなど三神であるという。
諸説いろいろで、いまだに本社が謎の杉山神社である。

忌部氏は後に杉山氏ー北村氏となる。
代々義麻呂を名乗り27代まで続いている。
22代のとき弟輝和、重義が鎌倉北条に仕官した記録が残っている。
また27代は南北朝延文2年(1357)足利氏の命に背き社領を没収されている。
28代義明以降北村玄蕃を称し幕末にいたる。(北村系図より)

慶長3年(1598)三河の野々山新兵衛頼兼が茅ヶ崎と折本の一部を領した。
新兵衛は茅ヶ崎領の一部を江戸芝の増上寺に寄進し、村は野々山領と
増上寺領に分かれた。

明治元年(1868)調査の知行高は
野々山新兵衛 216石2斗1升4合
増上寺領   293石8斗2升4合
正覚寺領     5石1斗


旧家
相沢、荒川、飯塚、池田、市川、小野島、金子、岸、北村、小泉、小山、佐藤、城田、鈴木、多田、田中
深川、松本、八木、吉川、吉野、米山

茅ヶ崎 チガサキ
チガヤの岬につけられた地名。チガヤとは今は見られないが戦前まで早淵川の堤防や山野に密生していた。
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チガヤ
崎は岬。寿福寺の山号が綱崎山であることから、寿福寺開基の大同年間(859〜877)のころは綱崎だった可能性もある。ところが・・・はまレポによると綱崎山は古くから「ごうきさん」というとあった。
やはり地形からきた茅ヶ崎か。あとひとつ正確には「茅ケ崎」で、ケが大きいそうだ。
「正保年中改定図」には「血ヶ崎村」となっている。


多田行綱・ただゆきつな  (1177〜1185)
茅ヶ崎城跡を昔から城山という。
ここに多田行綱の伝説がある。

伝説といわれる訳は年代が相違しており人名、年代が誤って伝えられた
可能性があるからである。

初代茅ヶ崎城主といわれている人物である。摂津源氏である。
安元3年(1177)鹿ヶ谷の陰謀(平家打倒)で計画の無謀さに
平清盛にこれを密告した。
その後源氏に従い源義経とともに鵯越も行っている。
義経に近かったためか頼朝に追放され九州に逃れたともいわれているが、
消息ははっきりしない。

寿福寺に残る多田家の話
寿福寺は平安初期弘法大師の創建である。
はじめは長福寺といった。
その後400年余り真言宗だったが、鎌倉時代に入り、
承元4年(1210年)に多田山城守行綱の孫、
智空法師(俗名 多田福寿丸)によって開山。
江戸時代に入り浄土真宗の寿福寺となった。

ちなみに茅ヶ崎城には黄金伝説があった。
各地に残る黄金伝説と同じだが、
「黄金千貫、二千貫
朝日輝る 夕日かがやく所にあるぞ」という

あったと書いたのは公園化するときに掘られており、
甕にはいった宋銭が少々でてきており、調査済みだからである。
黄金の夢は続いて欲しかった・・・・・

アオハ 
湿地、青、粟生、安保、明海、相合、安居など当てる。氷場付近。

新谷 アラヤト
未開墾地。アラ里も同意。

御手洗 ミタラシ
泉のある地。小高い地で小社、御堂、石仏などあった。

荒磯川 アライソカワ
険しい岩場から流れる川。新谷から流れていたが今はない。

野ギワ堀 ノギワボリ
畑の端を流れる下水堀。茅ヶ崎中央から勝田をとおり早淵川に合流する。

台 ダイ
平地をともなう小高い地。多田行綱の菩提所寿福寺があり、
綱崎山慈眼院という。

十三坊塚 ジュサンボウヅカ
元勝田村にあったが、現在は茅ヶ崎村に属す。
十三の仏や塚があるところで
川崎の作延村(五所塚のこと長尾の里)、上大岡、多摩郡小島分村にある。
村の境界におかれることが多い。
悪霊悪疫を防ぐともいわれる。

大原 オオハラ
耕作されていない広い平地。

大塚 オオツカ
人口の塚。墓や古墳ばかりでなく開墾の際砂礫を積み上げた
地も大塚という。多くは円形で土をかぶせたり、芝草を
植えたりした。

六道の辻 ロクドウノツジ
御手洗のそばにあった

貝塚 カイヅカ
土中から貝殻が掘り出された所で
中川は縄文海進のとき台地が平地になっていた。

今では丘になるが、昔は浜辺であったところに貝塚が残る。
あるとき大地が隆起し海水が引き海底の低い場所が川になった。
早淵川がその一つである。

東前 ヒガシマエ
崖地の前の低湿地につけられた地名。東は位置でなく大棚村吾妻のことと思われる。
ここには長窪山総泰院正覚寺がある。

織部谷 オリベヤト
織部という人が住んでいた。

城山 ジョウヤマ
茅ヶ崎城址の山である。観音堂、稲荷堂がある。

鍋コロ坂 ナベコロサカ
鍋はなめらか、コロは転ぶ、礫がある、すべりやすい坂の意。

耕地 コオチ
川沿いの低湿地。洪水になると湖のようになるという。

自性院谷 ジショウインヤト
自性院という寺が現在の都筑消防署あたちにあったという。
開発で現在の地に移った。自性院という寺は関東に多くあり
ここは明王山自性院満載寺という。

穽窪谷 ロウクボヤト中川の老馬
崖地に囲まれた窪地。老屋敷があったという伝承があるが、記録にはない。
穽は落とし穴という意味がある。

中村 ナカムラ
古くは中村里。元の村につけられる地名。
本郷、中郷、中里も同意。

中丸 ナカマル
山頂が丸い山につけられる。
丸は山のことをいう。他に城郭の曲輪から
転じた地名もある。曲輪を一の丸、二の丸という。

源左衛門郷 ゲンザエモンサト
吉川源左衛門が住んだ事による地名。
江戸初期の人で人名が地名になる時は
まわりに家が少なかったことによる。

四五六峠 スゴロクトウゲ
曲がりくねった坂を登る峠につけられた地名。
双六、雙六と書き近世期から行われたゲームで、
曲がりくねった道を進んで上がりとなる。

富士塚 フジヅカ
中丸にあって茅ヶ崎富士があった。
富士塚には安政五年(1858)造立の二十六夜搭があった。
二十六夜搭は二十六夜待ちの供養のための造立で、
二十六夜待ちとは陰暦正月、7月の26日の夜
月の出るのを待って礼拝する行事である。

月の出がだんだん遅い時間になるので、「~待ち」という。
真夜中に月が出るのを待ちながら、それまで飲んだり食べたりして楽しむ
納涼イベントだったようだ。
本来は月待講(つきまちこう)の一つで、この夜の月光のなかに
阿弥陀、観音、勢至の三尊の姿が現れ、それを拝めるという信仰である。
江戸庶民は信仰を口実に、夜中まで堂々と遊べる夜だったに違いない。
(クリナップ江戸散策より)

月待ちの場所には拝戸、願戸、神戸などの地名が多い。

宮前 ミヤマエ
杉山神社の崖下につけられた地名。
茅ヶ崎の杉山神社は式内社であった。

境田 サカイダ
村境につけられた地名。荏田村との境にある。
ここにはおしゃもじ様がある。中川からセンター南の歴史散策

腰の瀬戸 コシノセト
打越付近の狭い地。腰は越、瀬戸は背戸。

左近殿久保 サコンドノクボ
増上寺領主岸清左衛門一族岸左近の居住した地。
境田で岸氏が鎌倉時代に最初に土着した。
後に左近家が残り清左衛門は東前にうつった。
明治になって岸家は四家に分家した。

座間山 ザマヤマ
旧領主座間氏の名前からついた地名。
小田原北条氏の家臣で茅ヶ崎を領していた。
永禄年中(1560年代)下総国葛飾郡国府台合戦
(里見合戦)に参加し鉄砲傷をうけ、歩行できず
池辺村に隠居した。

松庵塚 ショウアンヅカ
松庵の墓がある。松庵は隠居名と思われ、飯塚氏と見られる。
文禄3年(1594)の検地帳に名が残る。

甚三郎 ジンザブロウ
甚三郎が住んでいた地。中丸の一部、姓は不明。

清九郎湖 セイクロウコ
清九郎という名からついた地名。
江戸初期の吉川清九郎と思われる。
貝塚の一部で水は荒磯川に入った。
荒磯川は茅ヶ崎公園の梅ヶ谷が源流だった。荒磯川
現在源流の水を利用してせせらぎになっている。

高田 タカダ
高畦を作る深田。茅ヶ崎八景で堅田の落雁といわれた場所。
堅田とは水のない乾いた田。

長福寺ヶ原 チョウフクジガハラ
寿福寺のある高台にあってもと長福寺といった。
吉宗の長子が長福丸と名付けられ長福の文字を遠慮したと
思われる。九代将軍家重のことである。

聖ヶ原 ヒジリガハラ
水源地のある原。聖は樋尻で池尻、湖尻と同意。
鍋コロ坂の上にある大原の一部。大原には桜湖があり
池ノ谷、桜谷といった。荒磯川に流れた。

参考:中川の地名:吉野孝三郎























by gannyan1953 | 2015-07-17 18:34 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)

ツノマタタケ

歴史と素適なおつきあい番外編            2015・7・4


キノコ発見!!


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ツノマタタケ
ベランダのスノコに生えた
ちょっとかわいい

黄色くてヌルヌルするのがいっぱい。
平凡なキノコらしいがほっとくと黄色のお花畑になるのかな。

アカキクラゲ科ツノマタタケ属だそうで食べられない。でも毒ではないらしい。
雨が続くのでしばらく鑑賞し、殺菌しますかね。

by gannyan1953 | 2015-07-04 10:42 | 港北ニュータウンの歴史・老馬 | Comments(0)



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