歴史と素適なおつきあい

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吉田茂邸

歴史と素適なおつきあい番外編          2015・10・2

以前は公開していなかった吉田茂邸だが、残念なことに焼失してしまい、
それから庭園を公園化し見学できることになった

ボランテイアの方に案内してもらった

最初にバラ園の話
吉田茂は駐英大使のときにイギリスの様式に慣れ、イギリス庭園を好んだので
現在の駐車場は大きなバラ園だったという。
申し訳程度にバラ園がある


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兜門は京都の裏千家の門が気に入り宮大工を呼んでそれを模した
轍がみえるが、戦後皇太子と美智子様をお迎えするために車が
入れるように作られた。
ところが、お二人は歩いて門をくぐられ
この轍を使用したのは吉田茂本人で霊柩車が中まで入ったという


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庭園側の門の屋根はこのように窪んでおり兜に見えることから兜門といわれる。
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この温室は昔のままでカーター大統領もご覧になったという
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海の方に進むと愛犬の墓があった。
その前には四角い幹をした竹があり、タケノコがおいしいのだという

このあたり鎌倉道の古道がある
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小淘綾の浜(こゆるぎ)
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サンフランシスコの方角を向く吉田茂像
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七賢堂・・・伊藤博文邸から移され、偉人の写真があるという

案内、ありがとうございました。1人100円です。


by gannyan1953 | 2015-09-30 10:51 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

大磯宿を訪ねて

中川歴史ウォーキング            2015・11・21(土)


2015年11月21日(土)に開催 終了しました
中川歴史ウォーキング  

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ウイキペディアより
大磯  地図



大磯駅・・高久神社・・化粧井戸・・小島本陣跡・・新島襄終焉の地・・地福寺・・
鴨立庵・・島崎藤村邸・・大磯中学・・伊藤博文邸・・吉田茂邸
帰りはバスで大磯駅へ向かいます

享保3年(1803)宿方絵図面書上控によると、人口2702人、本陣3軒、大旅籠4軒、中旅籠12軒、小旅籠69軒であった。鎌倉時代にすでに鎌倉、京都を結ぶ上洛道として発展しており東海道のはじまりといわれている。鎌倉時代の中心地は化粧坂あたりである。東海道整備後では8番目の宿場に制定された。

江戸時代の中心地は地福寺周辺で南本町、北本町で9割の旅籠があった。

飯盛女を置いていたのもこの両町であった。

伝馬役は通常、地子を免除された屋敷の間口に応じて賦課される間口銀によって賄われる。

この間口銀は宿の中心ほど高額になる。
大磯宿宿場絵図によると地福寺大門両側が最も高く、
中心部から離れる毎にだんだん下がっていく。

江戸時代に、いくどか大火に見舞われ、安政2年には火除け土手が築かれた。

大磯は海側に裏町あるいは下町といわれた漁師町がある。
廻船をもち魚介類は江戸新肴場へ、御城米、地頭米、年貢米、
その他商人荷物を積み出す県下有数の湊であった。

明冶になると宿駅制廃止で大火もあり、経済的にも疲弊した。
ところが明冶18年、西洋の公衆衛生学に興味があった元陸軍軍医総監松本順が大磯を訪れる。

<海水浴場の条件>

「第一に東南にむかって西北に背き、第二に砂場広くて貝殻なく、第三に海底は小石か砂石の大なるものより成り、第四に潮水は澄んで河水の混入なく、第五に波は激しく身体にあたって危険なく、第六に潮汐の干満がとくに大なること」

当時は海で泳ぐのではなく波で体を打つことによって医療効果が高まるとされていた。

松本は適地を求めて伊豆から帰る途中たまたま大磯に宿泊、照ヶ崎を紹介されることになった。

松本順はおおいに気に入り大磯の照ヶ崎海岸を初の海水浴指定地として紹介した。
大磯はこれで経済打開の機会を得ることになった。

鉄道開設後は政治家たちの別荘地となり、大磯で閣議が開けるとまでいわれた。

大磯の別荘事情を人物、屋敷の規模で考慮すると3期にわけることができる。

第1期は、明冶中期から後期にかけて高級官僚、華族など大邸宅が多かった。
第2期は、明冶末期から震災までで実業家、会社役員などの別荘で中規模な洋風住宅であった。
第3期は、震災から戦後までで震災から逃れてきた人、庶民派の中規模、小規模の和風住宅になっていった。

唐ヶ原(もろこしがはら)
昔から花水川河口付近のことを「もろこしが原」とよんだ。
このあたりは5世紀それ以前から大陸や半島からの渡来人が住んだところである。
渡来人を「もろこしひと」とよんだことから地名になったと思われる。

高麗寺村
大磯の高麗1~3丁目の旧称。
村名は天台宗の高麗寺より起こったと伝えられる。
地名、社名より渡来人が多く住んでいたことを物語っている。
高麗とは朝鮮半島の高句麗のことで朝鮮半島北部に興った古代国家である。
4世紀広開土王の時最盛期を迎えたが、4世紀末南に興った新羅、百済
その背後にある唐、日本と対抗したが668年唐、新羅の連合軍に滅ぼされた。

その頃日本に逃亡してきた者も多くその中に高句麗の王子若光もいた。

若光は一族とともに大磯に上陸、優れた大陸の技術(鍛冶、建築、工芸)を伝えた。
若光は文武天皇から従五位下の位と「王」(こきし)の姓を賜った。
その後霊亀2年(716)相模国をはじめ東国七州の高麗人を武蔵国に移して
高麗郡が置かれたので大磯の高麗人もそこに移住した。

高久神社
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高麗山(こまやま)に鎮座し中央の上宮、左右に白山権現、毘沙門天を勧請している
ので三社権現と称していた。
垂仁天皇の時代磯長国造(しながのくにみやつこ)の創建と伝えられる。

神仏混合で高麗寺となったが明冶になり分離、
高麗神社からのち高久神社に改名した。

境内にある地蔵堂には虎御前の位牌がある。

平成12年旧高麗寺から、神像群が発見され一部郷土資料館で公開している。

化粧井戸
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松並木の途中に大磯一の美女といわれた遊女虎御前が化粧した井戸と伝わる。

室町以前の遊女は知識人であり、歌舞など技芸をこなし教養があった。

延台寺 日蓮宗 開基:慶長4年(1599)

虎御石がある。
曽我十郎の身代わりとなった石といわれる。
曽我兄弟とは、河津三郎という伊豆の豪族の子で、
祖父は祐親といって頼朝を討とうとしたが自決した地元武士である。
ある日祖父の祐親は頼朝を伊東に招き、余興に相撲大会を催した。
つねづね領地問題で祐親と対立していた工藤祐経の家来と
曽我兄弟の父河津三郎が対戦し、三郎が勝った。

これが遺恨となり工藤祐経の 家来は河津三郎を暗殺した。
父を殺された曽我兄弟は富士の裾野で仇討ちとなった。
虎御前と恋仲だった兄の十郎は討死。弟の五郎は翌日処刑された。

この虎御石は、虎御前の親である山下長者が子に恵まれず
虎池弁才天にお参りしたときに授かった石で、毎日お参りして虎御前を授かった。

十郎が工藤の刺客に襲われたとき救ってくれた石である。

北組問屋場跡 正徳元年(1711)
江戸時代の一貫は3、75kg

1両は
江戸初期10万円、
中期8万円。
後期5万円で、一文は20円。

配送料は
十貫(37.5kg)が
初期183文(3600円)
中期124文(2500円)
後期90文(1800円)となる。


小島本陣跡
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本来本陣とは戦いの大将がいるところ、大名行列も軍陣であるとしてこうよばれた。
200坪以上の敷地に玄関も立派な構えで
宿泊者の安全を図るため平屋建てと決められていた。


地福寺
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藤村の墓
船着山円如院と号し東寺真言宗の寺である。
寺伝に承和4(837)年僧杲隣(こうりん)の開基と伝わる。
戦国時代は小田原北条氏の保護を受けていたが北条氏滅亡後一時衰微した。
慶長10(1605)年中興した僧宥養(ゆうよう)は幕府が浄土宗と日蓮宗に
命じて行わせた宗論の立会人の一人となっている。

本陣のひとつ尾上家ならびに島崎藤村の墓がある。

新島襄の碑
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同志社大学の創始者で明冶22年病気療養のため百足屋に滞在した。
翌23年腹膜炎を起こしこの地で没した。
昭和15年徳富蘇峰筆の筆による碑が建てられた。


大磯照ヶ崎海水浴場の碑
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日本最初の海水浴場で、大磯に別荘を構えた政治家、軍人の樺山資紀の筆。
松本良順は大磯に東海道線の駅の設置を願い出たり、
旅館、病院の建設に渋沢栄一、安田善次郎などの援助を受け大磯の発展のきっかけとなった。

旧原敬別荘地
盛岡出身の第19代内閣総理大臣として活躍、爵位を拒み「平民宰相」といわれた。
東京駅で右翼に襲われ65歳で刺殺された。

鴫立庵(しぎたつあん)入場料100円

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西行が東遊の際、

「心なき身にもあはれは知れけり 鴫立沢の秋の夕暮れ」と詠じたことに由来する。

寛文4(1664)小田原の外郎家の崇雪(ういろうけのそうせつ)が庵を
むすび五智如来の石像を造り、鴫立庵の標石をたてたという。

元禄8年(1695)俳人大淀三千風が江戸よりこの地に移り住み、
鴫立庵の土地の売買禁止、檀那寺は地福寺とすること、居住者は麻木綿を着るなど庵規を定めた。

文覚上人鉈造りという西行の像を安置し、今でも俳諧道場として有名で
3月の最終日曜には西行祭が行われる。

島崎藤村旧宅
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作家の島崎藤村が大磯の左儀長をみてとても気に入り
この地に居を構えた。
藤村は71歳で亡くなる前2年間を大磯で暮らした。

「破壊」被差別民の出生を隠し教師になった心の葛藤を描き
自然文学の第一人者といわれた。

故郷馬籠の明治維新激動期の父をモデルにした「夜明け前」は
人気があり映画、演劇にもなった。

この貸家について・・・

当時の貸家に比べ玄関、広縁にゆとりがあり書斎が設けられている特徴がある。

高田保の話に引越し好きの高田があるとき、とてもきれいな借家に引っ越した。

庭の手入れ、家の掃除はもちろん押入れには新聞紙も敷かれており、
ていねいに縫い上げた雑巾、新しい障子紙に手紙が添えられていた。

「つぎにお住いくださる奥様、御元へ」(ブラリひょうたんより)

もとの家主は島崎藤村夫妻であった。

高田保はプロレタリアの劇作家だったが転向後、大磯の社会教育に携わった。


上方見附
総監道バス停付近


東海道松並木 小淘綾(こゆるぎ)の浜・さざれ石
松並木は400年前街道改修のとき植えられた。
相模国大磯、二ノ宮は余綾郡(よろきごおり)と呼ばれ美しい玉砂利(さざれ石)は人気があった。

大磯中学
山県有朋邸があった。

山県は長州出身で高杉晋作創設とともに奇兵隊に属し
、明治には大村益次郎の跡を継いで陸軍の基礎を築いた。

第3代、第9代の内閣総理大臣、陸軍参謀総長を歴任した。

古川電工大磯荘
睦奥宗光邸・大隈重信邸があった。

紀伊出身で勝海舟の神戸海軍操練所に入り坂本龍馬の海援隊に加わりカミソリ大臣とよばれた。

伊藤内閣では不平等条約改正に活躍した。
大隈は佐賀藩出身で第8代、第17代内閣総理大臣、外務大臣を歴任し、
早稲田大学創設者で知られる。

滄浪閣
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伊藤博文旧別荘邸である。

伊藤博文は長州出身で倒幕に活躍し、
大日本帝国憲法起草者となった。
初代内閣総理大臣に就任しアジア最初の立憲体制の生みの親である。

1909年ハルビンで安重根に暗殺された。
西武が買い取り大磯プリンスホテル別館となり、
中華料理の店があったが西武が売却したあと、
大磯町が買い取ることができず放置状態となっている。
現在の持ち主は壊してそこに介護施設を作る意向だという。

西園寺公望邸
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吉田茂邸

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東京出身で第45代、第48代から51代と5回も内閣総理大臣に任命された。
優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の日本の礎を築いた。
1951年にサンフランシスコ平和条約の調印及び日米安全保障条約を結んだ。
この屋敷は吉田茂の養父にあたる貿易商吉田健三郎氏が明冶18年に建てた別荘である。

第二次大戦後、吉田茂が外国賓客を招く為新築、改築をした。
敷地一万坪に住居、賓客室、七賢堂、庭園があった。
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七賢堂には

岩倉具視
大久保利通
三条実美
木戸孝允
伊藤博文
西園寺公望
吉田茂
の7人が祀られている。

伊藤博文のもとに伊藤、西園寺、吉田を除く四賢堂があり
のち伊藤が加わり五賢堂、それを吉田が移し西園寺を加え、
吉田の死後佐藤栄作が吉田を加え七賢堂となった。

伊藤は昭和19年から亡くなった昭和42年までここで過ごした。

2009年火災があり門と七賢堂が残った。

海側にサンフランシスコを向く銅像がある。

平成25年大磯城山公園の旧吉田茂邸地区となり公開された。


大磯城山公園
縄文時代の遺跡、横穴墓、鎌倉古道などの遺跡が発見されている。
中世には小磯城があった。

明冶31(1898)年財閥三井の別荘地となった。

財閥解体後三井の手を離れ放置されていたが平成2年跡地を公園にした。

大磯町郷土資料館
大磯城山公園にあり、大磯の歴史、民俗が展示されている。
by gannyan1953 | 2015-09-25 15:53 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

赤羽を訪ねて

歴史と素適なおつきあい番外編   2015・9・5

少し涼しかったので、中世の城跡を訪ねてみた
東京生活.com のコースを利用させてもらった

9:30 まずは王子から始めることにした
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十条駅に向かうと名主の滝があった。今日は残念ながら水がない。

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10:00 間違えて東十条駅に行ってしまったが、演芸場通」を歩いて、十条駅に向かった。
昭和レトロな劇場があった。開演を待つ人たちがもう並んでいた。

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清水坂公園では水が流れ幼い子供たちが水遊びをしていた

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清水坂公園を右手にして進むとすごい階段が・・・・あのこんもりした
所は香取神社ではないかと行ってみた
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香取神社がある
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寛永4年 (1627)藤堂高虎が建立したそうな・・・
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社殿

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お隣の法真寺
天正元年(1537)、慈眼大師(天海僧正)の肉弟・證導院日寿上人の開山だそうだ

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静勝寺
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太田道灌が建てた稲付城址
人通りが多く、どうも生活道路として歩いているらしい
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赤羽駅方面に下りた所
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赤羽駅東口に七福神のようなものが・・・
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駅を通り抜けると自由の女神
これが見たかった
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山田孝之主演の「東京都北区赤羽」のドキュメンタリーみたいな番組に出てきた
教会
被昇天の聖母というらしい
聖母の騎士幼稚園の看板が目立った

商店街をウロウロしてがちょうどお昼時
二郎というラーメン屋さんと
孤独のグルメででてきたまるます屋は並んでいた
鯉の甘露煮800円お持ち帰り
私は鯉が好きだ・・・




by gannyan1953 | 2015-09-05 17:51 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

秋山郷⑦

歴史と素適なおつきあい番外編    2015・9・17


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表紙 山の女より 

とねんぼで展示されていた「山の女」が図書館にあった。

山の女 秋山郷・焼畑の谷に生きた女の一生:白日社 1992年発行

想像できないような過酷な暮らしが淡々とあっけらかんと語られており、
女性がたくましく生きていく姿に感動しつつ、一気読みとなった。

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山田ハルエさん
山の女より

大正7年(1918)秋山郷上ノ原に生まれる。
鈴木牧之が秋山郷を訪れたのは1820年ころ、菊地山哉は1932年
それから昭和28年(1953)にようやく屋敷に電気が入り、
切明までの道路が開通したのも昭和28年、見玉までのバスの運行は
昭和38年・・・冬季の運行が始まったのが昭和60年・・・・
東京に出る時は見玉まで歩き津南で一泊したという山田寿章さんの話は本当だった。
雪深いときに東京に行かれたのだろう。

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信越 秋山郷 秘境探訪図より

話は志村俊司差の聞き書きというかたちになっているので
読んでいるうちハルエさんの語る声が聞こえてくる感覚になる。

驚いたこと
幼いとき着物が一枚しかなく洗濯している間
素っ裸でこたつにもぐり乾くまで待った

とにかく手のかかる稗を毎日朝食の為に
イススという道具で挽いてアンボを作る準備をしたこと

出産で、お腹をぶつけて沢山の血がでて意識を
失ながらも、産婆さんの助けで母子とも助かったこと

ご主人が発電所の発破でケガをして片目になってしまい、
それでも猟師を続けたこと

ご主人のケガの間生活が成り立たず民生委員に頼んで
生活保護を受けたが、まだ生活が成り立っていないのに
子供がいじめられ、不憫なので生活保護を断って頑張ったこと

などなど

ところでアンボとは
ソバやヒエで作ったがソバは高級品でおいしかったが、
普段はヒエアンボだった。

ヒエのイススふきは固くてなかなか粉にならず、
殻がとれるだけで薄い皮をかぶったままアンボにするが
食感はザラついてしまう・・・がまずいと言わず食べた


作り方
ヒエ粉をコネ鉢にいれ、お湯を入れて
耳たぶくらいの柔らかさにこねる

手を湿して丸め刻んだ菜っ葉(野沢菜)の漬け物を
中に入れて丸く仕上げる。直径10センチくらい。

それをいろりで焼いて食べる

あんぼとおやきの違い
あんぼは新潟では米で作るが、おやきは小麦粉で作る

ハルエさんの家は米、小麦は作らないのでヒエでアンボを作った。


読み終えて
ハルエさんを見習って、強くたくましくそして前向きに
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by gannyan1953 | 2015-09-03 14:26 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

秋山郷⑥

歴史と素適なおつきあい番外編   2015・9・3

秋山とさよならして林道秋山線で奥志賀高原へ

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なかなかの立て看板
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もっきりやという民宿があり一泊二食で3000円
どんな所だろうと調べてみると結構いいらしい
 もっきりやのホームページをのぞいてみた
営業してる・・・

どうもオーナーさん頚椎症らしい お大事に

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これって苗場山?

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林道秋山線

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奥志賀高原ホテル到着
なつかしくのぞいてみたが雪のホテルしか思い出せない

イケメンおにいさんが馬車の準備をしていた

ひたすらグングン車は低地にむかい
信州中野から中央道、八王子から圏央道、厚木から東名で帰った
料金が高かった
関越からの練馬の渋滞がいやでそうしたので
渋滞はなかったが・・・・・



by gannyan1953 | 2015-09-03 10:07 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

秋山郷⑤

歴史と素適なおつきあい番外編     2015・9・2


前倉に進む 国道に戻るがやはり道はせまい

蛇淵の滝に向かおうとすると山源木工の人に呼び止められた
スズメバチにさきほど刺された人がいるという
あえなく退散
木工品をみたが、切り株のスライステーブル・・かっこいいが
テカテカでもう少し渋いのがいいと思った

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そろそろお昼で
へいけ茶屋の山菜そば
山菜てんこ盛り・・美味しかった

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新潟と長野の県境
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のよさの里を通り過ぎ和山へ
佐久間象山が滞在したところで屋敷跡があるらしいが、わからなかった
佐久間荘かなと思ったがあとで聞いたら違うという
佐久間象山は一ヶ月ほど滞在し鉱物を調査したらしいが
見込みがつかず帰ったという

銅山があったところであるが栄村のホームページではミステリーとなっている

時代は進み発電所建設において隧道が切明から18キロ下流の
中津川発電所まであるらしい
廃墟地図
行ってみたいがこれは行けない
ネットで楽しませてもらった
もっきりやについても詳しく探索してあった

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切明の中津川
川原の露天風呂へい行く道・・スズメバチでそうなので又退散

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雄山閣でトイレ休憩
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9月のおたまじゃくし
この雪深くなる秋山で、今頃おたまじゃくしのままでどうするのと心配したが、
そのまま越冬するものもいるという(ツチガエル)

切明は水力発電所がありその工事で昔は賑わい大勢住んでいて
秋山の人も沢山働いたそうである
自給自足だった村に賃仕事がはいったわけである
今は人を見ることもなく静かだった

のよさの里に帰る


by gannyan1953 | 2015-09-02 23:42 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

秋山郷④

歴史と素適なおつきあい番外編    2015・9・2


大秋山村の生き残り

続いて
屋敷の秋山郷歴史資料館を国道ではない道を北に進むと

大秋山村跡




 
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かなりわかりにくい標識の道を右にはいるが、
車を置いて歩いて入った
どうもタクシーはここの案内は車で入ってしまうらしい

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天明3年(1783)の飢饉で全村餓死したといわれる

この秋山の元村で、秋山郷の名の由来である

全員餓死ということだが、菊地山哉の「別所と俘囚」によると、
一名だけ生き残っている。昭和7年に秋山郷を訪れた時の話である。

この秋山村の奥の屋敷部落の人が雪解けを待ってきた時は
全部の人がた斃れており、その中1人の青年にまだ温かみがあるようなので、
屋敷へ担ぎ込み、手当をしたら蘇生したということで、
この青年はその儘屋敷へ引き取られ、現在その曾孫が居るそうです。

土地の人にもっと聞けばよかったが、返答はすべて
全員餓死という答えだった・・・菊地山哉の本、読んでないのかな・・・・

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途中の道だが、ここをタクシーは走るのだろうか

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国道にもどらずそのまま北に進む
国道より道が奇麗である
国道より整備する手続きが簡単なので広く作れるのだという。






by gannyan1953 | 2015-09-02 23:07 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

秋山郷③

歴史と素適なおつきあい番外編   2015・9・2

秋山郷歴史資料館

屋敷にある。
屋敷の伝承では頼朝に破れた平家落人
が隠れ住んだところという。

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庚申様掛け軸
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仏壇

二階のギャラリーの絵

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小泉八雲の幽霊滝の伝説か・・・ハズレ
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耳なし芳一か・・・ハズレ

私の絵の推測は見事にハズレたことがわかった
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この方とたまたま、のよさの里でお話することになり・・・・


資料館2階のあの青い絵の画家さんだった
資料館の御子息だった

個性的な色彩感と画風で知られる油彩画家・山田寿章(としあき)さん
だった・・・・

明るい色調のふるさと風景やふくろうの絵で有名らしいが、
私はブルーを基調にした平安貴族のような絵がとても印象的だった

山田さんの話

山田さんの小学校はとても遠く通学が大変で
東京に出る時はバスのある見玉まで歩き津南で一泊してから
行ったという。

昔、切明の全盛期パチンコ屋もあり、人が大勢住んでいたことがある。
発電所の建設があったからだそうだ。


絵は独学だそうだ。

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山田氏の祖母像
この絵は引き込まれるような迫力がある



山田寿章氏は、津南の善福寺のふすま絵を描いているそうだ。

秋山郷と善福寺の関係がまたつながった。(秋山郷②を参照)







by gannyan1953 | 2015-09-02 20:05 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

秋山郷②

歴史と素適なおつきあい番外編   2015・9・2


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のよさの里近くの天池

小赤沢
苗場山の登山口である。
赤い鉄分の多い温泉に入りたくて、行ってみたが、楽養館は休みだった・・・

秋山郷に貴族がやってきた説

津南町出身の石田吉貞氏の「若き人のために」という本について書かれている。
歴史ロマンを参照

歴史ロマン 

善福寺と貴族と秋山郷について

津南の谷沢赤沢には1000年ほど昔京都から大勢の貴族がやってきた。
およそ300年その地に住み、七堂伽藍を備えた泉秀院という寺があった。
その後上杉氏のころ焼けてしまい本尊は藤木家に安置された。
その後大井平に移され禅宗になり今の善福寺だという。
保元の乱で京都の公家や武士は血族も争い、京都にいられなくなり
新田義貞を頼り赤沢平に隠される。
新田氏が滅ぶことでまた路頭に迷い秋山の渓谷深く隠れ住む事になる。

秋山郷には寺はなく清水川原で鈴木牧之の問いに
「菩提寺は上妻有の善福寺なり。引導様(僧侶の事)のことは
冬、春は深雪の山路難所故、寺へは無沙汰」と答えている。
その代わりに大赤沢の黒駒太子絵像をかざして拝ませるという。
秋山郷と善福寺のつながりがわかる。

市右衛門の家に泊まった時、夫婦の寝床はむしろが垂らされて仕切られていた。
その様子は、御簾のかわりではないか、貴族の名残ではないかという内容であった。

秋山郷の起こりは様々な説がある
平家落人・マタギ・アイヌ・租税から逃げてきた人、そして貴族説であった。
このアイヌと書かれていたのが、俘囚のことを言っているのかと思うのだが、
私は菊地山哉の本を読んで俘囚説も説得力がある。鶴見川の鉄と俘囚
どちらにせよ俘囚説は7世紀ころの話なので起源説ではずっと古い時代になる。

とねんぼ
観光センターというので寄ってみた。
民俗資料が置いてある。

秋山郷の信仰

秋山郷は雪深く、寺もなく人が亡くなると
黒駒太子絵像を亡くなった人にかざし、死者の滅罪による
浄土往生を願った。(大谷学報より)

黒駒は聖徳太子が甲斐の国からもらった黒駒・黒い馬に乗って
富士山に登り信州に行ったという言い伝えがある。
日本書紀には雄略天皇のとき、不実を働いた木工職人を処刑しようと
したが、これを許し甲斐の黒駒を与えたという。
秋山郷の黒駒は木工職人が信仰したというので、
この話から木工職人は太子と黒駒を結んで考えたのだろうか。


秋山郷の信仰は江戸時代に入り長野善光寺の聖たちの
信仰が入ったと思われる。善光寺の宗教は日本の仏教が
諸宗派に分かれる前の寺院で本尊は阿弥陀如来である。
真宗の親鸞は訪れている気配がないが、善光寺は親鸞を
大切にしている。
聖たちは真宗系の聖徳太子信仰を伝えたものと思われる。
秋山郷の宗教は浄土真宗が多い。
もともとは原始宗教で岩や山を信仰したと思われる。
今でも根強くその宗教観は残っている。
秋田阿仁からきたマタギが定住しているが熊への信仰も
あったのではないか。

庚申信仰は長野、越後にはおびただしい石像も残り
盛んだったと思う。


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とねんぼの庚申様の掛け軸
のよさの里では庚申料理が供されるが
庚申信仰が深く信仰されていた
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とねんぼ横の苗場神社と十二社

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保存された民家

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民家の庚申様の掛け軸
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民家の仏壇
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民家のいろり
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民家の展示
鈴木牧之の絵である。
短い期間でよく把握できたと感心する。

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屋敷集落からみた布岩
柱状節理が見える












by gannyan1953 | 2015-09-02 16:47 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

秋山郷を訪ねて①

歴史と素適なおつきあい番外編                2015・9・1

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鳥甲山(のよさの里より)


長野と新潟の県境、東は苗場山、西は鳥甲山(とりかぶとやま)に囲まれ
約20キロに渡り深い谷が続く

俘囚と秋山郷について語ったブログが鶴見川流域のと鉄と俘囚である。
菊地山哉を参考にした。

長野県秋山郷  結東村・穴藤村 と境村・現在栄村
秋山郷とは新潟の津南町と長野の栄村にまたがる秘境で、昔から中津川結東村は新潟に属す。
長野に属す栄村とつながっているが、昔は里どうしの交際がなく、結婚もしないという関係である。
近年まで積雪のため隔絶されることもあり、何度も飢饉、飢餓は起こり天保、天明の飢饉で村が絶えたこともある。
生活は幕末にようやく稲作が行われ、それでもなお狩猟と焼畑で生活を支えた。
結東村には3軒のみ屋敷があり他は竪穴住居であった。
赤沢部落に十一面観音(白山信仰)、阿弥陀如来、聖徳太子黒駒像は職人が祀るもの、十三塚がある。
江戸時代に良質の銅石が出るというが、栄村の和山に銅の製錬跡が見られるくらいで秘密に行われ未だに謎の銅山といわれる。
赤沢は鉄分の多い温泉がでる。ここが別所であると思われるのは、地勢から中津川流域は越後に属してもいいと
思われるのになぜか分断され、付き合いがないということから栄村の方に数戸の俘囚を配し、
これを管理する長野側と俘囚を嫌った新潟側に別れ、塞がれたのではないかと菊池山哉は考えた。



まず秋山紀行を著わした鈴木牧之の生家を訪ねた。
南魚沼市塩沢の三国街道塩沢宿「牧之通り」にある。

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生家は現在酒屋さん
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牧之がいたころの梁が残る
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牧之記念館は休館だった
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牧之の生家の迎えの脇本陣でここも酒屋さん
八海山の甘酒をいただいた・・・美味しかった
本陣は薬屋さんになっている
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牧之の家の前の神社
この隣の寺に牧之の墓があるが、わからなかった

津南を過ぎて秋山郷に向かうと急に山道になってくる

見玉不動尊
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見玉不動尊から湧き出る滝
飲み水用になっており美味しい
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牧之がお参りにきている

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秋山郷秘境探訪図より


のよさの里 のよさの里

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本家

牧之の宿のよさの里 秋山紀行の風情を演出している。
牧之が泊まった宿ではないが栄村の公社が運営する宿である。

分家といって離れ家が宿泊施設になりいろりがあり独立しているので
気兼ねなく過ごす事ができる。
分家の名は市右衛門・文五郎・三左衛門・助三郎・新左衛門・要次郎・彦八と
鈴木牧之の「秋山紀行」のとき、世話になった人々の名前である。
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玄関脇にある鈴木牧之像
ちょっと目が怖いかも
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熊の敷物
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鈴木牧之の絵
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鈴木牧之の絵

日本酒秋山郷美味しい
 のよさの里の方々、秋山の方々・・・
親切にいろいろ教えていただき、ありがとうございました。
温泉とくに内風呂は気持ちよく
お料理も美味しかったです

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by gannyan1953 | 2015-09-01 23:28 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)



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