歴史と素適なおつきあい

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富士山ぐるり 浅間神社参拝 富士山本宮浅間大社

歴史と素適なおつきあい番外編  2016・3・26

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朝霧高原で富士山やっと見えた
見えない時はコノハナサクヤ姫が美人と認定してくれた
ことなので、見えてしまったら美人じゃない認定!
なかなか拝めなかったから半美人認定された・・・

タモリさんが訪れた場所である

社伝によれば
第7代孝霊天皇(BC200年ころ)の時代富士山噴火
そこで11代垂仁天皇(BC27年ころ)
の時代浅間大神を麓に祀った

第12代景行天皇40年(110)
ヤマトタケルが山宮浅間神社(6キロ北)に遷し
51代平城天皇大同元年(806)
坂上田村麻呂が現在地に遷した

現在山宮浅間神社は一番古い浅間神社といわれる
山宮という地名があり、穏やかな丘にある
今回は訪れていないが近くまでバスは行ってくれた

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山宮と富士山本宮大社を矛が往来した鉾の渡御がお行われていた


ここ富士山本宮浅間大社は総本宮といわれる

本殿は家康が建立
三間社流造の2階建ては珍しい
富士山の8合目以上は境内だという
これはすごい

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このあたりブラタモリで訪れた場所

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この湧き水をペットボトルで持ち帰ることができる(200円)

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水屋神社


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駿州赤心隊の碑

富士重本(しげもと)は富士氏44代目の当主でここ浅間大社の神職だった
幕末有栖川宮に随行し、官軍として駿州赤心隊を組織した
その後旧徳川幕臣が静岡入りしたことで
徳川幕府のだったため
故郷に帰ることができなくなった
靖国神社の前身招魂社の住職、区長などして東京に住んだという

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社殿の奥が歩けるというので行ってみた

穏やかな気持ちのいい場所だ

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天神社の裏にでる

訪れる人が少なく神社らしい空気が漂う

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この忠魂碑山になっていて参道のようになっている
富士塚かと思った

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駐車場に帰るとき見つけた

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駐車場前の宮に似合うお家

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広島県からご苦労様
八岐大蛇が目立つ

静かな神社が好きなので
私にはこの賑わいは疲れる

と調べてみたら・・・
ここは富士山からの龍脈パワーがとどまる場所
富士山をバックに湧玉池の水は東に流れ
南に平地・・・西に甲州への道
四神相応の地だそうだ
だから凛とした空気じゃなく
穏やかな明るい気なのだそうだ

いわれてみればそんな感じが・・・
社殿を寄進した家康が気に入りそうな場所・・・
ここに遷したのは坂上田村麻呂だった
彼の作った清水寺もいつも人がいっぱい
そういえば明るい雰囲気だ


対する北口本宮浅間大社は諏訪の神と武田信玄寄進の社殿
そして凛とした雰囲気

北と南で空気がかわるのは面白い!!



つづく 村山浅間神社



















by gannyan1953 | 2016-03-28 09:00 | 平将門・鉄・秩父・神社 | Comments(0)

富士山ぐるり 浅間神社参拝 河口浅間神社

歴史と素適なおつきあい番外編   2016・3・26

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河口浅間神社

貞観6年(864)の噴火で現在の富士五湖が形成される
貞観7年勅命で浅間明神を祀ったことが浅間神社のはじまり

ここはあさま大神を祀る前は諏訪社だった
境内に今も諏訪社がある

古代からずっと続いてきた信仰の場
落ち着いた雰囲気はそこからきているのかもしれない

富士信仰で栄え、御師の家が100軒以上あったが、
江戸時代富士講が栄えると衰退していった

柳田国男がこの神社の山宮を見に来ている


静かな気に包まれた落ち着いた神社で
参道脇にあるお店和カフェ すぎのきで黒米の甘酒をいただいた
品のいい甘さで美味しかった




神社に行く途中に
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阿部総理が立ち寄る焼き肉屋さん 鉄庵  

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美麗石・ヒイラ石
さわるときれいになれるのかなァ
日本三代実録に「浅間明神」を祀った古代祭祀の石閣とある
美しい彩色だったからつけられたらしい

というか、浅間明神は古代信仰、諏訪社、浅間明神という順なので、
元からあったこのヒイラ石が
古代信仰の神様になると思う

この石を踏むと鼻緒が切れるという話が伝わる
いかに怖れられていたかがわかる

明治20年この石の下を掘り起こした

深さ3、3mに
雷斧 弐、白玉 四、管玉 壱、黒石破片 弐
があった
今も神社に残されているそうだ
(河口浅間だより 第24の4)

見たかった・・・

雷斧(らいふ)とは石器時代の石斧を雷の落とし物と当時は思っていた・・・

管玉は縄文時代のビーズで呪術に使われた

黒石破片って黒曜石かな

古代からの石だ!

美麗石で検索すると美容洗顔石鹸だった 



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本殿

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7本杉といわれる杉がある
樹齢1200年で名前がそれぞれついている
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山宮があり、トコトコ道しるべに誘われて登って行く
道路に出てなお続く
里宮と奥宮・・・近い!
ほんとに柳田国男さんこの山宮見に来たのかな


奥宮は新しい社だが1合目,2合目と近距離で
登って行くので面白い


つづく 富士山本宮大社









by gannyan1953 | 2016-03-27 11:56 | 神様の話 | Comments(0)

富士山ぐるり浅間大社参拝 北口本宮冨士浅間神社

歴史と素適なおつきあい番外編    2016・3・26

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北口本宮冨士浅間神社


景行天皇40年(110)ヤマトタケルが大塚丘(おつかやま)に立寄り、
富士山を仰ぎ見てここから「拝すべし!」と仰せになった
そこで
大塚丘にヤマトタケルとあさま大神を祀ったことがはじまりである

ここはパワースポットである
清々しさを感じた

延暦7年(788)現在地に社殿を建てた
現在の本殿は元和元年(1615)鳥居土佐守が造営


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修験道の名残


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ガイドのお兄さん写ってしまい申し訳ありません

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早朝に降った雪
戸隠を思わせる荘厳な雰囲気



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角行さんは富士講改開祖

慶長15年(1610)の冬に角行さんが
裸でこの石の上に爪立ちして30日の荒行をした
全身から血が噴き出し里人が止めたという
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太郎杉
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夫婦杉 撮る角度間違えてよりそう杉になっていない・・・

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社殿横の梅に雪がかぶっている

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武田信玄造営の社

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祖霊社
右が吉田ルートの登山口

大塚丘(おつかやま)
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登山口から5分ほど行って左にある大塚丘

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ヤマトタケルが祀られている

ここはパワースポットだと感じる

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帰り道 木の大鳥居

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帰り道の参道
あら・・・明るい

つづく 河口浅間神社






by gannyan1953 | 2016-03-27 10:36 | 神様の話 | Comments(0)

富士山ぐるり 浅間神社参拝 

歴史と素適なおつきあい番外編   2016・3・26

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                     富士山本宮浅間大社


四季の旅のバスツァーで行ってきた

地図 富士山ぐるり 浅間神社参拝

富士山は申年生まれらしい
今年は申年!富士山に縁のある年だ
今回は富士山を反時計回りにまわる
初参加だったが、目的遂行の旅が気に入った
ほとんどの方が御朱印ねらいで、スタンプラリーのようだ
見せてもらったが・・・御朱印って、芸術的!
私は急ぐ旅が多いのでパス!

浅間様は全国1300社
もとは「あさま」という
あさま」の意味は噴火する山のことをいうそうだ
古来は富士山は神聖な場所で登らないで遥拝してお祈りしていた
平安時代に役小角(えんのおづぬ):修験道の開祖が、富士山にはじめて登った
それから登山を通して修行する修験道がはじまり
富士講に発展した

富士山の神様あさま大神から平安時代にかぐや姫、江戸時代初期に
コノハナサクヤヒメに変化した。仏教では大日如来阿弥陀如来だそうだ

吉田口から登る富士山は何合目にそれぞれの仏様がいらしたという。
今でも仏様がおられる山小屋があるそうだ。
廃仏毀釈から逃れた仏様を拝んでみたいと思う・・・
でも富士山はきつい・・・

四季の旅では2016年夏富士登山を計画しているそうだ
1合目から昔の信仰の道をえっちらおっちら登るが、
達成感はありそうだ
つづく



by gannyan1953 | 2016-03-27 09:58 | 神様の話 | Comments(0)

円頓寺に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編 2016・3・15

名古屋駅を郵便局の方に行って那古野に向かった
まず見つけたのが

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迦具土神とある。
カグツチは火の神様、鍛冶の神様で、おかあさんのイザナミは
カグツチを産み落としたとき火傷をして死んでしまう・・・
あげくに怒ったおとうさんに殺されてしまった・・・
というかわいそうな神様である

もう少し行くと
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桂芳院という寺に愚痴聞き地蔵様

入って左にひっそり奥まっておられるので
グチグチ訴えてもよさそう・・・

円頓寺に向かっているのになかなか面白いものと出会える

右手に円頓寺のアーケードが見えてきた
大昔 七夕で賑わっていたが今はどうしてるのだろう
まだ続いていた・・・名物ハリボテや阿波踊りもある
幼い頃よく遊びに行き七夕は人でいっぱいだった

商店はじめ飲食店も多く映画館、寄席、カイケイ座という
ストリップ劇場まであった
ダンサーに金髪の人がいて私はずっと外人だと思ってきた
明治20年頃からの古い商店街であった

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七夕のハリボテ?

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ゴジラもいた
おおきな通りにでたら

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負けいくさにビビった家康様


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なぜか水戸黄門様

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無茶苦茶凛々しい秀吉様

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岐阜駅にもあったような・・・金ピカ信長様
 私は信長が好きだ
信長様は金ピカが似合う

やっぱ名古屋の商店街は面白い

この4体の像は、ご近所の不動産会社の社長さんの寄贈だそうだ


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円頓寺商店街の由来となったお寺さんかな・・円頓寺
もともとはこの寺の門前町として商店街が作られたらしい

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金比羅さん
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名古屋弁おみくじ
吉でした!

声を出して名古屋弁で読んでみた
おもしろい
古道具屋のおじさんが話しかけてくれた
昔の名古屋弁はね  なもを最後につけて
きれいな言葉だったよ
と・・・名古屋の言い方で・・・


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五条橋 
清洲越えのときに清洲から移したという由緒ある橋
開削された堀川にかかり昭和30年代はメタンガスがでる臭い川だった
川に落ちたら死んでしまう気がして怖かった
川をじっと見ているとポコッポコッとあちこち水面に輪が広がった
それがメタンガスが出る時だ

戦前は人が泳いだというので驚いた
今はそこまで汚れていない


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五条橋の円頓寺よりにある合体神社

喫茶店nishiasahi 西アサヒ


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たまごサンド これ有名
おいしかった

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キーマカレーのランチ

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日替わりサンドイッチ

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もらったDVD
ゆがみや

帰宅して鑑賞してビビった
わけわからんし・・・
うるさいし・・・
でもこれ昔流行った「サイケ」っていうものかな
河村市長も出演!!
地域おこしの最初の映画らしい

もう一度見たらなんだか燃えてきた
名古屋人の底力見た感じ


最近・・・四間道(しけみち)もおしゃれなお店ができて
観光ブームになっているらしい

大須に負けるな!円頓寺










by gannyan1953 | 2016-03-17 16:39 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

弾左衛門と養育院

歴史と素適なおつきあい番外編

ちょっとディープな四谷散歩を企画して
貧民窟なるものを知った  
東京の貧民  は鮫河橋について書いた

貧民の帝都:塩見鮮一郎よりを参考に   貧民の帝都
ここでは貧民救済について調べみた

官軍が江戸に近づくと江戸は大混乱、100万人の人口が
半分になった。慶応4年(1868)3月のことだ

彰義隊壊滅の5月半ばまでの2ヶ月間は無政府状態だった
薩摩の兵が幕臣に斬られたり、囚人は3日だけと解き放たれ
戻ってくるのは食べていけない囚人だけだった
残った人々は給料ももらえず日常物資も滞り
道はゴミと腐った野菜、猫の死骸だらけだった

江戸城や大名屋敷は主もいないので、無宿人が寝泊まりするようになる
官軍は江戸城の門に番人を置いて無宿人の追い出しを図る

9月に天皇がやってきてもまだ無宿人がいる有様だった
地方では天候不順で水呑百姓が江戸に逃げてくる
このとき政府は弾左衛門に行き倒れ人をかたづけるように
命令している

渋沢栄一はこのころのことを
江戸市中の混乱の中働くにも職はなく食べていけない
窮民があふれ亡くなる者が多かったと語った

明治2年(1869)4月三田に救育所ができた
場所は慶応大学とNECのあいだで徳島藩、挙母藩の上屋敷の
あったところである

幕府が備蓄してきた米で救済しようとしたのである
授産も行われ11歳から69歳までの男女が
繭糸ひき、糸繰り、機織り、木綿の糸取り、
鼻緒縫い、紙漉、開墾、米つき、水汲み
桶職、墨製造など従事した


浪人保育所
今なら幼児が預けられる所を保育所というが、
なかなかおもしろい名称である

維新後国に帰った武士たちはよかったが、
国に連れて行ってもらえなかった中間、小者、
雑役をしていた者たちは仕事もなく困窮した

乞胸(ごうむね)という職があった
大道芸人のことで昔から金銭をもらって芸を見せることは
卑しいとされ賤民あつかいされた

慶安4年(1651)由井正雪が乱を起こしたときに浪人の
多いことが問題になった。
そのころから浪人が乞胸になったという

このように元武士だった人たちが救済を求めた

そこで、下谷竹町に浪人専用の保育所がつくられた

場所は藤堂藩中屋敷があったところである

弾左衛門  関東の穢多頭 弾左衛門
弾左衛門は江戸の 穢多頭である
救済のための施設ができてもそれでも窮民が多くいて
政府は弾左衛門に窮民をの保護を求めている
保護というより狩りである
つかまえた窮民で健常者を国に帰すのだが、もともと国で
生活が成り立たないから江戸に出てきているので
また戻ってきてしまう
おもしろいのが、版籍奉還がなったばかりのときに
それぞれの県に乞食を江戸に戻すことがないように
見張っておけという布告があったことだ。

病人などは帰さず救済所に手配したとみられる

弾左衛門配下の者たちは賤民といわれてきたが、
ここでは警察関係、職業持ちで今までの窮民扱いは
されていない。

これまでどおり刑場関係、街道の取り締まり
そして新しく窮民狩りの手伝いであった

高輪の救済所は賤民が多く収容されていたので

弾左衛門が管理をまかされた

浅草に養育院ができた
その管理をまかされたのは車善七である
その時は苗字を長谷部とかえていた
善七は江戸の非人頭である

吉原の近くに200年も前から非人は往来する
無宿者や囚人の世話をしてきた
ここに狩られた人々がやってきて
一升徳利を湯たんぽがわりにしたりして
看護した
皮肉なことに解放令がだされここはなくなった
賤民のための施設は
解放令で賤民はいなくなったのだから
いない人のための施設はいらないという理由からだ
廃止されそこにいた人々が他の救済所に入れたかというと
きっと入れなかったと思う

養育院はそれから変遷して東京都健康長寿医療センターにつながっていく
入口には渋沢栄一の銅像がある

江戸時代の積立金、備蓄米を利用して
養育院の運営になっていくわけだが、渋沢栄一が
尽力した。ここにリーガルの祖西村勝三も参加している

西村勝三は皮革産業を起こし、江戸時代に皮革に携わってきた
弾左衛門と同時期に靴製造をはじめた人である
台東区に皮革産業資料館がある
ちょっとディープな浅草散歩を参照





















by gannyan1953 | 2016-03-07 21:55 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)

東京の貧民

歴史と素適なおつきあい番外編  2016・3・7

ちょっとディープな四谷散歩を企画して
東京には明治に多くの貧民窟があったことを知った

「貧民の帝都」塩見鮮一郎より 2008年発行
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鮫河橋にあった祠や碑がここに集められている


明治時代四大スラムといわれる場所があった

鮫ヶ橋、万年町、新網町、新宿南町

三大スラムとも言われるのは新宿が入っていない

ここでは四谷の学習院、迎賓館に接した地にあった鮫ヶ橋について
にする

現在新宿区若葉町、南元町あたりである

四谷から迎賓館を左に学習院の間の道を下りて低地になっていく
交番のある信号を右に渡ると公園がありガードをくぐる

そのあたりである

中央線からその貧民窟が見えた時代なんとかスラムを
取り除きたいと東京市の役所は策を練ったという

江戸時代には夜鷹が多く火葬場もあった

明治になって日清戦争後には人口が膨れ上がった
家は傾斜して壁も、ひさしもこわれ
雨が降れば家の中もぬれる有様だった
青山練兵所が近ったので、その兵隊さんの食べ残しを残飯屋といって
売っていた

残飯が多くでない時はその作る前の野菜や肉の切れはしが出され
まるで養豚場のえさ状態のものが、
出されたという

泉鏡花がここをモデルに小説を書いている

「貧民倶楽部」という

蜷川さん演出でジュリーこと沢田研二さんが主演をしたそうだ

貧民を束ねる女性が人を人とは思わない身分の高い華族の女性を
貧民を利用してやっつける話だそうだ

なんだか韓流ドラマのようだ

永井荷風は、「日和下駄」でこう書いている

「四谷の方の坂から見ると 貧家のブリキの屋根は
木立の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の
崖下にごたごたと重なりあってその間から汚らしい洗濯物をば
風に閃かしている。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした
芽が萌え出で四辺の木立に若葉の緑が滴るころには
眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は、一層汚らしく
こうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ
与れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。
また冬の雨降り濺ぐ(そそぐ)夕暮れなぞには
破れた障子にうつる灯火の影、鴉鳴く墓場の枯木と共に
遺憾なく色あせた冬の景色を造りだす」

なんだか悲しくも美しい情景を思い浮かべてしまうが、
荷風は万博で外国人貧民窟を見せたくないために排除の
計画が立ったとき、貧民窟より明治の銅像を取り除いて欲しい
と言っている。

江戸の古地図とこうもり傘をもって徘徊する姿、
今流行の江戸散策である。















by gannyan1953 | 2016-03-06 18:38 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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