歴史と素適なおつきあい

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アイヌの話

歴史と素適なおつきあい  

アイヌの話



エミシとアイヌはどう違うの?
から始まった話





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旭川市博物館で撮影





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旭川に行き川村カ子トアイヌ記念館を訪れた。
初代館長の妻で川村カ子ト(かねと)
の母である

カ子トさんを知ったのは奥三河を旅した時で
苦労して飯田線を敷設したときの測量技師だったという話を読んだからである。

川村カ子トは旭川で川上アイヌの長を父に、母は写真の美しい人である。

鉄道工夫をして測量技術を学び測量技手(ぎて)の学校を卒業。
その腕を請われ、難工事で引き受ける者がいなかった
三信鉄道今の飯田線敷設の測量技手となって
部下にアイヌを連れてやってきた。

日本人(和人)に疎まれ
事故があったときどさくさまぎれに
あいた穴に埋められそうになったこともあるという。

無事完成後に満州や朝鮮の鉄道敷設に尽力するが
視力の衰えから辞職し、父のアイヌ文化記念館を
引き継いだ。

アイヌ関係では一番古い記念館である
2016年は100周年にあたる

        



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宇梶剛士

アイヌ出身の俳優さんである
母はアイヌ解放家で古布絵作家である


シマフクロウとサケ

素適な童話で
神社の神様との違いを感じる
人間味のあるアイヌの神様像


現在アイヌの人口は平成25年(2013)の調査で道内に16786人(瀬川さんによると24000人)、
首都圏は昭和64年(1989)に2700人とある。今ではもっと多く5000人ではないかといわれる。




アイヌは正統な縄文人の末裔




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アイヌ文化のなりたち
北の考古学’(瀬川氏のブログ)より



気候が今より7度くらい寒かった3万5千年前、大陸とサハリン、北海道は陸続きだった。

そこに旧石器人類が日本列島にマンモスなどを追ってやってきた。

1万5千年前になると温暖な気候になり木の実が豊富な縄文時代がやってきた。

日本列島の縄文時代は北海道から沖縄まですべてにまたがり、
やがて大陸などから渡ってきた人と混血し、弥生人になった。

この弥生人は本州系日本人の祖先である。

ところが北海道に住んでいた人々は弥生の生活を受け入れず縄文人のままだった。
この縄文人がアイヌの祖先となる。

まだアイヌ人は存在しない。アイヌ人といわれる人々は13世紀ころにはじまる。
人が入れ替わったわけではなく、和人、オホーツク人などと混血してアイヌとなる。
そこまでまだ時間がかかる。そこで北海道に住む人々とする。

アイヌ語は大陸や日本との言語と異なり孤立した言語といわれ、
縄文語といえるのかもしれない。

北海道に住んでいた人々は長く縄文時代を過ごし日本人の祖先といえる。
同じく縄文の風習を残した人々に、漂海民といわれる船で過ごした漁業民もいた。

抜歯や入れ墨など縄文の風習を江戸時代まで続けていた。
弥生時代にはほとんどの地域で入れ墨はおこなわれなくなっている。

弥生時代の入れ墨は力のある者たちから野蛮な風習とみなされ非征服者、
労働に携わる人々のものとなり、しだいに弥生人から風習はなくなっていく。

漂海民は瀬戸内海や長崎、五島列島などに存在し、
朝鮮半島南部や中国南部の漁業民たちを巻き込み海賊にもなった。(海の民)

他に、昔からマタギ言葉はアイヌ語の影響が強いといわれている。
マタギ言葉とは山に入ると里言葉を使わずマタギ言葉を話す。
理由は山の神は嫉妬深く、穢れを嫌うから。

一般に山の神は女神とされ顔も醜いので穢れがあるという女性は山には入れない。

ちなみに古代から山の神は恐ろしいといわれ妻のことを「山の神」といった。(山の民)


マタギがなぜアイヌ語に影響されたのか?

マタギ(山の民)は稲作が難しい山中に住んでいたため、
それとも弥生文化を嫌い山深く入ったのか、
狩猟を生活の糧としていたことから、
縄文性が強く残り北海道の言葉(縄文語)を使っていたのではないかという説がある。

アイヌ語というのは縄文語がもとになったもので、
今の日本全土が縄文時代だった時アイヌ語を使用していたことになるのだろうか。


なぜ北海道に住んでいた人々は弥生の生活を受け入れなかったか?

定説では稲作に適さない風土だったから・・・
青森県北部にも弥生時代の稲作の跡があるので
北海道南部なら稲作は可能だったのではないかと思われる。

稲作を選んだ本州ではしだいに格差が生まれ、
その首長はヒグマや海獣の毛皮は威信を示すものとして貴重なものだった。

その需要に答えるため稲作より交易を選んだと思われる。
続縄文時代の遺跡から本州の高価な品が出土している。

鉄器、碧玉の管玉、ガラス玉、奄美大島あたりでとれるイモガイの貝輪など
本州の品々である。

この高価な品と交換できるのは毛皮だった。
このように北海道に住む人たちの生活は、本州との交易がずっと影響していくことになる。

縄文時代の遺跡
 
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キウス堤周墓群 (千歳市ホームページ)


最近苫小牧(静川遺跡)や函館(垣ノ内遺跡)千歳(キウス堤周墓群)など
縄文時代の巨大土木遺跡が発見されている。
共通することは首長個人の墓ではなく共同墓地だったことである。
祈る心が平等という価値で結ばれていたと考えられる。

北海道に住む人々は縄文人の特徴をとどめていた
九州北部、日本海の人々との交流があった。

この交流が続縄文文化を生んだと思われる。
礼文島の遺跡から発見された鯨の骨でできたアワビオコシ(アワビを岩からけずりとる)
という道具がある。

その道具は壱岐の原の辻遺跡から発見されたものと同じで、
そのころ壱岐周辺では鯨が捕獲されていた。

アワビ漁は弥生時代になってさかんになり、
神道の神饌として使用されたことが影響していると思われる。

九州北部の海民集団の交流があったとされることから、
さきほどのイモガイの副葬品と話がつながる。

ちなみに北海道では陸にあがってくる鯨を神の恵みと思い、とっていた。

しだいに墓にも変化が現れ、縄文時代には首長を囲む共同墓地だったものが、
続縄文時代になると、首長中心の大量の副葬品をもつ墓があらわれた。

交易で力を得た者との格差が始まったことは本州の弥生時代と同じことであった。


日本人のDNA調査


本州に住む人々は渡来人の混血が多い。

琉球人は本州に住む人々より縄文性が強いが、
以外と近くの台湾や中国との混血ではない。これは九州から移住してきた人々との混血といえる。

なぜかというと、7000年ほど前に鬼界カルデラの噴火によって
住んでいた縄文人がいなくなり、そのあと九州南部から移住してきたらしい。

アイヌは縄文人とサハリン、オホーツクの混血であるが、
モンゴロイドともコーカソイドとも言いがたくクロマニョン人に近いと言う説(山口敏)、
出アフリカを果たした現生人類に近いという説(百々)もある。

東北人はアイヌに近いと思われがちだが、出雲の血が濃い。
弥生のころ出雲の方から渡来してきたのではないかといわれる。(高橋克彦)

アイヌの顔は今の日本人とは違うハーフのような顔立ちである。
そうなると日本全国ハーフのような人々が縄文時代には闊歩していたのか・・・

アイヌ語は東アジアの出アフリカの原型にもっとも近い言語だと言う人もいる。
出雲は国ゆずりで有名だがその国をとった
天津神も縄文系だったと最近いわれている。


天津神に追いはらわれた国津神の出雲、エミシと蔑まれた東北の人々と
何か共通点があるのだろうか。

熊おくり イヨマンテ

続縄文時代に弥生文化がもたらしたもので「熊おくり」がある。
熊おくりの原型は縄文時代にもどる。

北海道の縄文時代の遺跡から糸魚川のヒスイの発見、
青森県の遺跡からでた漆の赤色顔料は北海道日高の硫化水銀で
あることから縄文時代の海を渡った交流があったとわかる。

そして山梨県の金生遺跡から138個のイノシシの下顎が発見された。

そのほとんどが1歳未満の子供である。

春の出産期に生まれた子供を秋まで育て骨を焼く祭祀があったといわれる。

このイノシシが北海道の遺跡から多くでている事実がある。

しかしイノシシは北海道に存在しない。人が海を渡ってイノシシを運んだということである。

祭りは今まで擦文時代にオホーツク文化から影響されたものといわれてきた。
ところが、瀬川氏はイノシシの祭りは縄文時代の祭りだったと考えている。

本州では弥生時代にイノシシの祭りが行われなくなる。
北海道に住む人々はイノシシを入手できず、困ってしまう。

北海道でとれる熊は熊皮の交易で富をもたらす。

そこでイノシシが富をもたらす目出たいものである熊に変わったと、
考えたのが瀬川拓郎氏である。

この風習がアイヌになっても継続され1955年知事により禁止、
2007年になってようやく禁止の指令が撤廃された。

熊は神の化身で、春にきた熊を丁重にもてなし(育てること)そして秋に
殺してみんなで食べてその神の魂をお送りする行事である。

「春に神様が里に下りその年の収穫を願い、秋に収穫を祝って神は山に帰る」
という日本の収穫祭とよく似ている。

これは農耕民族が行う行事であって、
北海道に住む人々は農耕民族ではないので、どういうことなのかと考えた。

ところが大雪山の頂上付近に縄文遺跡が見つかっていた。
大正時代に発見されており黒曜石とメノウがあった。

祭祀遺跡だという。

縄文の山岳信仰と関係しているのではないかと思う。

アイヌの人々は大雪山をカムイ・ミンタルという。

神の庭という意味である。崇拝の対称となる山は北海道のあちこちにあり、
大雪山もそのひとつだった。

チノミシリは里山でわれら・まつる・山という意味である。

祖霊崇拝である。これら、本州と変わりない宗教感である。

縄文からの信仰で、私たちの近くに大山があるが山頂で縄文遺跡が発掘されている。
縄文時代には北から南まで変わりのない生活がうかがえる。

続縄文人とオホーツク人の南下とアイヌ地名
弥生時代後半、気候の変動で東北に住む人々が減少する。

続縄文時代にあたる北海道に住む人々は南下し東北北部に進出してきた。

古墳時代の人々と接触し仙台あたりまでやってきた。

東北進出にともない、鉄器の流通がはじまる。

毛皮と鉄器の交換が行われたと思われる。

奥州市で見つかった遺跡には続縄文人とみられる
皮なめしに使われる石器、古墳時代の土師器や須恵器、
そして馬を飼っていたことで北海道にいなかった馬も知ることになる。

この場所で続縄文人との交易がみられる。
このころから東北にアイヌ地名が残るきっかけとなった。


4世紀に続縄文人が南下し始めると、
北海道ではオホーツク人が南下を開始、続縄文人も避けるように南下し
道北から撤退した。

オホーツク人はサハリン北部のニブフ文化の祖であり、
かれらの墓からは大陸の靺鞨(吉林省、黒竜江省、アムール川流域、沿海地方)の品々が
発掘されているので大陸との交流がみとめられる。

南下の理由は中国本土とのクロテンの毛皮の朝貢、古墳文化の日本人との
交易を求めにやってきたと考えられている。

奥尻島(弊賂弁島・へろべのしま)に拠点を構え、
夏の間は奥尻島で交易をし、冬になると本拠にもどるという生活だった。

青森県むつ市や岩手県八戸に近い軽米(かるまい)でオホーツク人の
土器がみつかっている。

日本書紀に544年佐渡に粛慎(みしはせ・しゅくしん)が来たという記述がある。

欽明天皇の時代でそのころに粛慎はすでになく、
その後裔がオホーツク人・ニブフである。日本書紀の真偽はわからない。

その100年後の660年阿部比羅夫は蝦夷が粛慎に侵入されているという苦情で、
蝦夷の案内で粛慎を征伐している。

この間天武天皇に朝貢を粛慎と蝦夷がしたと記録にある。

ここで、粛慎はオホーツク人、蝦夷は続縄文人のこと考えている。

蝦夷(エミシ)は古墳時代から東北に住んでいる人、
蝦夷(エゾ)は渡島(北海道南部)の続縄文人とする。

このあたり意見がいまだに分かれている問題なのだが、
エミシ=アイヌと考えると先にお話した「俘囚と鉄」で
エミシが鉄に関わった話が通じなくなる。

なぜならアイヌは製鉄には積極的にかかわっていないのが今の学説だからである。

未だ疑問に残るのは東大寺大仏開眼のとき
列席した蝦夷ってどちらなのだろうかということである。

夷人を征服したことを聖武天皇は海外に誇示したかったはずである。
そうすると容貌の違う続縄文人の方が適しているからである。

659年には遣唐使に随行して蝦夷の夫婦が唐の皇帝に謁見し弓の腕を披露している。

これも日本の国力誇示のためと思われるが
どちらだったのだろうか。

阿部比羅夫の蝦夷征伐に話は戻るが
エミシを征伐したのは陸奥の金が目当てだった。

この金は大仏に使われた。

渡島(わたりしま・半島名はおしま))に渡って続縄文人を
懐柔したのもまだ未開発の鉱物資源の開拓、
そして毛皮の交易を東北人と続縄文人の交易から国家と続縄文人の交易に
したかったからではないかと思う。

そこで粛慎=オホーツク人を退ける。
この戦いからオホーツク人は撤退し道東にもどっていくことになるからである。
奥尻島で戦ったオホーツク人の遺跡が今も残る。

宮津チャシという小高い丘の上にある城柵である。
追いつめられた彼らは自分たちの家族も殺害したという。

その後秋田に北方交易のための拠点秋田城がつくられる。比羅夫の目的は達成された。

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島にはオホーツク人の遺跡がある。
奥尻島観光協会より

オホーツク人が撤退すると続縄文人はしっぺ返しのように北上する。


同じような軌跡でサハリンまで侵入していくのである。

オホーツク人の交易権を奪取する目的である。

同時に本州の人々が北海道石狩に移住し、農耕も行うようになり、
鉄製農具も携え続縄文人の家はカマド付きになった。

土器が縄文模様から表面を木のへらで擦った模様がつけられ
擦文(さつもん)土器の名がついた。


生活もサケやマスの漁労や狩猟生活、雑穀農耕になり、
本州の人々との生活様式に似てきた。

古代日本の生活用具、祭祀、言語、風習などが持ちこまれ、擦文文化が始まる。

9世紀になると移住者の痕跡がなくなっていく。

これは続縄文人、擦文人に移住者が同化したことになる。

サケ漁は内陸で行われ海の近くでは行われていない。

なぜかというと遡上し始めたサケはまだ脂肪が多く乾燥に適さないからで、
内陸の産卵場まできたサケは脂肪が少なく天日で干したのち
屋内で燻すだけで乾燥できたからである。

本州では塩サケが作られたが北海道では製塩しなかったので
塩は高価なものだった。

このサケは9世紀になると本州東北で安価なタンパク源として
石狩産サケとして交易した。

また産卵場のサケをねらってオオワシもここに
集まりオオワシ猟が行われた。

10世紀になるとオオワシの尾羽が珍重されるようになった。

本州で矢羽に利用され、それまではオオタカの矢羽が珍重されていた。

正倉院に所蔵されているものもオオタカだった。

そのオオワシを追ってオホーツク人のいた道東に進出した。

アワビ漁も盛んになり比羅夫が撤退させた奥尻島には、
擦文人がはいって干アワビとアシカの毛皮で交易した。

10世紀後半になると道東にいたオホーツク人は
だんだん擦文人が増えて行くことで北に移動していくが、
みんな移動する訳ではなく擦文人に同化していった人たちもいた。

稚内、礼文、利尻あたりは元地(もとち)文化といってオホーツク人が住んでいた。

同化しないこのオホーツク人たちは、擦文人によるサハリンとの交流に
この人々を間において交易したからだと思われる。

11世紀とうとう擦文人は南千島まで進出する。

13世紀ニブタニ文化(アイヌ文化)

瀬川氏は民族名の文化名は使用しにくいとのことで
今までアイヌ文化と認識されてきた文化をニブタニ文化ということを提唱している。

領域を広めた擦文人たちがより大きく大陸と本州と交易をしていく時代である。
このころからアイヌ人とよばれるようになった。アイヌとは「人」という意味で、
それもよい人間のことをいう。

元寇
サハリンまで進出したアイヌは、サハリン北部に先住していたニブフと対立した。

ニブフとはオホーツク人の末裔で、元に服属していた。
アイヌの侵攻を防ぐため元は何度も出兵し、1264年、1284年から1286年にかけて
元はアイヌを攻めた。

元の兵1万人、アイヌは数百人、アイヌは先住民ニブフらの村を
襲撃しながら元の追撃をかわしたという。
1308年とうとうアイヌは元に服属し毛皮を朝貢する取り決めをしたことで、
サハリンの元寇は終息した。



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ニブフ (ウイキペディア)

15世紀になると北海道に和人が進出しはじめる。
館をつくり、要塞のようなつくりであったが、アイヌと大きな諍いもなく、
墓地は和人とアイヌと共有していたほどの関係だった。


力を持った蠣崎氏が家康からアイヌ貿易の独占権を認められてから、
アイヌの交易権がなくなり労働者として使役させられたり、
搾取されたりアイヌにとって辛い時代にはいる。

アイヌと金


苫小牧で13世紀の常滑焼の壷が見つかった。

奥州藤原氏のものだという。
経本を壷に入れ埋めて塚にする「経塚」といわれるもので
平泉では常滑焼の壷を使用した。

奥州藤原氏の僧も北海道に来ていたようだ。

陸奥の金で莫大な財産を築いた奥州藤原氏は北海道に金を求めてやってきたのか。

金色堂の金箔は北上山系だけでなく日高(北海道)産と思われる金箔が含まれていた。

多数の和人の金掘りが入り込んだ。
シャクシャインの戦いが起きたところである。

残念なことに金色堂の金箔は昭和大改修で張りかえられ、
成分分析ができなかった。

引き続き奥州藤原関連の金箔の遺跡物から実証できたらと瀬川氏は考えている。

ユーカラにある話で山上に住む主人公のくらしが大量の金で覆われていたと語る。

金の家、金の小袖、金の杓子など・・・トムサンペチとは宝が
そこを降る川という意味で川の流れが金色に光る様子をあらわしている。

明治15年(1882)キリスト教開拓団の話で、アイヌの有力者の家に招かれたとき、
特別な宝を見せてくれたという。

ずしりと重い金の箸だった。

修験道はそれより早く10世紀には北海道にきている。

修験道の人たちは鉱物を求めて移動することがわかっている。

北海道の金は、このころから奥州に住む俘囚の長たちの財源として
求められていたかもしれない。

陰陽道が擦文人に残した宗教的な呪術は多く伝えられる。

これは15世紀ころの話で北海道に疱瘡が流行したころである。

疱瘡を大変怖がり「諸病の王」という神にした。

川を遡ってきた疱瘡神は少年の叔父に食べ物を乞うた。

叔父はしぶしぶ鹿の前足を一本少年に届けさせた。

少ない食料に少年は足りるだろうかと心配した。

その少年は疱瘡にかからず、けちな叔父は亡くなったという。

蘇民将来の話とよく似ている。


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行進呪術(北の考古学・瀬川氏のブログ)

おもしろいのが行進呪術で「諏訪明神絵詞」にもあるが、

千鳥足で歩く行進呪術は修験道の反閉(へんばい)をまねたものらしい。

仲間が遠くから帰ってきたときに悪いものを持ち込まないように行う呪術である。

この行進呪術は芸能化されタプカーラという踊りになる。

その踊りからヒントを得て作曲されたのが、「シンフォニア タプカーラ」で

ゴジラの作曲者の伊福部氏である。

最近では地震緊急速報の音はタプカーラの音から作られた。

彼は和人だが北海道出身でアイヌの文化を見て、アイヌを身近にして育った人である。

マンガの「ゴールデンカムイ」野田サトル著が今人気で、金を求めて北海道にいく話である。

2016年マンガ大賞を受賞している。

そこで作られている「アイヌ料理」が注目をあびているらしい。

なぜか土方歳三もキャストになっている。


参考:アイヌ学入門・アイヌと縄文・海と宝のノマド:瀬川拓郎 新潮社フォーサイト
   HP:川村カ子ト記念館・旭川市博物館・ウイキペディア・アイヌ民族博物館
   オホーツク紀行・司馬遼太郎

by gannyan1953 | 2016-06-19 09:56 | 北海道 | Comments(2)

ゼニガメ ピーちゃん

歴史と素適なおつきあい番外編      2016.6.19


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2016年4月20日にやってきたピーちゃん

2センチ

一週間後飼育不良・・・水を何度も替えなかったため・・・
水温が少し低かった・・・
目の周りが白い


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まだちょっと首回りにヌルヌルがある
甲羅に白いものが
これはなんだろう
ヌルヌルではない・・・

5センチに成長

白いヌルヌルを綿棒でとりのぞこうと
かわいそうにゴシゴシされるのいやで
時々クワッと口あけてキレる


日光浴いっぱいして早く治れ・・自力で


その後7月に入って・・・

残念なことですが
ピーちゃんは短い生涯を終えました

🙏



by gannyan1953 | 2016-06-19 08:58 | ゼニガメ ピーちゃん | Comments(0)

柴犬 朔太郎 爆睡

歴史と素適なおつきあい番外編


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爆睡中


by gannyan1953 | 2016-06-14 21:38 | 前足 湾曲 柴犬朔太郎 | Comments(0)

名古屋港駅 ハーバーロッジ名古屋

歴史と素適なおつきあい番外編   2016・6・12

今回はハーバーロッジ名古屋に宿泊

名古屋港からすぐにある船員さん向けのちょっと古いホテル

ツイン バストイレ付きの部屋。





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朝散歩


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猫多し


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昭和基地のざくろ石


その日は母の面会に



帰りは新しくできた第2東名へ

はじめてのサービスエリア

「長篠設楽原」

トイレ休憩だけなので
ゆっくりできないが、戦国一色がお気に入りになった

下りはもっとおもしろいらしい

ここの戦国っぽい食事を今度は食べたい

名前が面白い

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下りは武田軍のイメージ


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  丁寧な布陣の図





by gannyan1953 | 2016-06-11 22:10 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

西ヶ原 戦争遺跡

歴史と素適なおつきあい番外編  2016・5・28

西ヶ原にある戦争遺跡を探しにフラフラとでかけてみた

西ヶ原の駅を下りていつものことだが、右も左もわからず
うろつくこと2分

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こなところに
浅見光彦さんのご近所のおだんごやさん!
ここにあったんだ・・・
食べたいなと思ったがかなりの待ちの列・・・さすが

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平塚神社の境内のお団子屋さんなんだ・・・
祭神は源義家  奥州征伐の帰りにこの地の領主に歓待されお礼に
鎧兜を授けた。その領主は鎧兜をこの地に埋めて塚を平塚と称した

神社裏に塚はあるらしいが非公開


飛鳥の小径とい標識があるが、どうも飛鳥山につながるらしい

戻って古河庭園へ

入場料200円だったかな・・・

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古河財閥三代目 古河虎之助の家だった

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ハンサムですね

わかるところで足尾銅山のオーナー
って悪者じゃないですか

古河財閥って今でも大手の会社がいっぱい

奥様は西郷従道の娘さんでおきれいだったとのこと

そんなきれいなご夫妻が愛でられた庭なんですね


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  心字池

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本来仏舎利を納める塔だが
モニュメントになっているのかな


あまりの人出でバラの写真はやめましたが、
バラ好きにはたまらないんでしょうね

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なかなかいい雰囲気の坂道
正面はお墓で寺の裏手になる

無量寺

創建は定かではないが平安後期の
阿弥陀様がおられる
真言宗


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ちょっと立派でビックリした


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綱吉(犬公方)の母上の桂昌院が参詣したとのこと

いまではタヌキと猫

犬は見かけませんでした


しもふり銀座やらそめい銀座だったか

商店街が続く

が、食堂ない

そば屋が一軒・・


困った

紅茶のお店があり
「紅茶とハーブの店オレンジペコ」
オレンジペコ
お勧めです

おいしいキッシュ(空豆だった)とトースト
スコーン
 
いつもと違いお洒落なランチ

イギリス庭園の雑誌を見ながら
少しすましてランチ!


最後の落ち
スコーンはお店の手違いで届けられており、
食べてから、よそのテーブルのものと
わかる 

えーーーッ
食べちゃった・・・・

ボリュームのあるランチだなとは思ったが、
ホントは胡桃のケーキ食べたかった・・・



やっと今日の目的
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小さな小さな石・・・

敷地の境界線の標柱らしいが、
他はみつけられなかった・・というか
疲れた
方向オンチなのでたどりつくのに
あちこち行き過ぎた

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海軍 下瀬火薬製作所跡である
技師下瀬雅允が実用化したピクリン酸を成分とする爆薬で、
日露戦争の成果のひとつといわれる
陸軍では黄色薬といわれた

日本海海戦でバルチック艦隊を粉砕した爆薬












by gannyan1953 | 2016-06-03 16:01 | 東京都 歴史散歩 | Comments(0)



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