歴史と素適なおつきあい

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谷中七福神に行ってきた

中川歴史ウォーキング28    2017・1・21(土)


2017年1月21日(土)にご案内します
参加ご希望の方は
中川歴史ウォーキング
でお申し込みください


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谷中七福神地図

江戸で最も古い七福神である。

七福神のルーツは平安時代後期にさかのぼり
京都鞍馬の毘沙門天に恵比寿、大黒が加わりしばらく三神信仰が続いた。
平安末期に琵琶湖の竹生島弁天信仰が盛んになると毘沙門天のかわりに
弁天が入って三神信仰になったりした。室町末期にになると
他の神々が加わり七福神が始まった。近畿地方から起こり
江戸時代になって、中頃の宝暦年間に江戸にも七福神が始まった。

これが谷中七福神である。

1月1日から10日まで開帳され
七福神の御朱印がいただけるが、かなりの賑わいである

その日以外は静かで七福神を拝むことはできないが、
唯一最後の弁天様が拝める

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MASAさんのホームページより



集合:JR山手線田端駅北口改札口でたところ  9:45

田端駅北口・・東覚寺とうがくじ(福禄寿)・・青雲寺(恵比寿)・・修性院しゅしょういん(布袋尊)・・
谷中銀座で早めの昼食・・長安寺(寿老人)・・天王寺(毘沙門天)・・
徳川慶喜の墓・・護国院(大黒天)・・不忍池弁天堂(弁才天)

東覚寺 福禄寿 家内安全・長寿
福禄寿は中国の神様で道教の理想である幸福、俸禄の意味。
北区田端2−7−3
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東覚寺は真言宗 豊山派のお寺で
赤紙の仁王様で昔から知られており
治癒してくれるパワースポットといわれている

お寺で赤紙を購入し治したい場所に貼る。
そこが治癒したらお礼に草鞋(わらじ)を奉納する
わらじもお寺に2000円ほどで準備してくれる


青雲寺 恵比寿 商売繁盛 大漁豊作
恵比寿は唯一日本の神様でいつもニコニコしている顔を
「えびす顔」という。
荒川区西日暮里3−6−4
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青雲寺は臨済宗の寺で「花見寺」と親しまれてきた。
江戸時代からこのあたりは「ひぐらしの里」とよばれる
行楽地だった。
風流を好む文人墨客が集まったという。
南総里見八犬伝の作者 滝沢馬琴の筆塚や硯の碑がある。
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日暮里の江戸名所図会 道灌山は右奥の山
船繋の松
道灌山という山の頂上に船の航行の目印のために作られた。
燈台の役割である。ここまで海がせまり、道灌山のふもとに
青雲寺があった。


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修性院 布袋尊 家庭円満
布袋尊は中国の僧で、
「泣いて暮らすも一生 笑ってくらすも一生
同じ暮らすなら笑って暮らせ」
と言ったという。
袋をかついで放浪した実在の人物である。
荒川区西日暮里3−7−12


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塀のモニュメント


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天気のいい日にはチョイ見富士が見える

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七福神ではないが
江戸六地蔵がある浄光寺

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天保9年(1837)刊の東都歳時記による江戸六地蔵


諏方神社

浄光寺の隣の諏方神社が素適な趣で、お参りした
鎌倉時代の領主豊島氏が諏訪大社から勧請したと伝わる



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スライムのような狛犬



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本殿

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右に三峯神社




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左側に御嶽神社


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たくましい空仰ぐ狛犬
かっこいい




本行寺
月見寺といわれ道灌の物見塚があったといわれる。
上野戦争の弾痕跡がある。

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谷中銀座
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いつも賑わいランチは早めにして
それぞれお好きなお店でお召し上がり下さい





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朝倉彫塑館
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朝倉彫塑館・・・上から人が覗いている



長安寺
 寿老人 長寿延命。諸病平癒 
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寿老人は道教によると聖人老子が亡くなって南極老人星になったといういわれがある。
長寿で鹿を従え(鹿はロク)杖に巻物がしばってある。 
台東区谷中5−2−22

臨済宗の寺で狩野芳崖の墓がある。





天王寺 毘沙門天 武道成就・悪霊退散 
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毘沙門天はインドの神話の神様でヒマラヤの北に住みインドを守る神様。
戦いの神で財産も守ってくれ、福を授けるという。 
台東区谷中7−14−8
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天王寺は日蓮宗感応寺にはじまり、元禄12年(1699)天台宗に改宗し
天保4年(1833)護国山天王寺と改称した。
改宗の理由は
日蓮宗の不受布施派を幕府が弾圧したからである。
日蓮宗は法華経を信仰しない者に
教えを説いてはならないという教義があり、
幕府や非不受布施派ともめていた。

その後富くじ興行が人気で大変な賑わいがあった。

幕末の上野戦争で彰義隊の分営に使われ
五重塔を残し焼失した。

五重塔は寛政3年(1791)に作られており
その話を幸田露伴が「五重塔」に著わした。
五重塔は残念なことに
昭和32年(1957)不倫関係の男女の
放火心中事件で焼失した。

谷中霊園にその跡が残る。  谷中に行ってきた

谷中には多くの有名人の墓があるが
今回は最後の将軍徳川慶喜の墓をお参りする。


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長安寺 寿老人 長寿延命。諸病平癒 
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寿老人は道教によると聖人老子が亡くなって南極老人星になったといういわれがある。
長寿で鹿を従え(鹿はロク)杖に巻物がしばってある。 
台東区谷中5−2−22

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板碑

寿老人の像は 徳川家康が納めたものといわれる。
本堂の両脇の壁は伊豆の長八による鏝絵である


臨済宗の寺で狩野芳崖の墓がある。



護国院 大黒天 五穀豊穣・家庭増進 
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大黒天はインドのシバと日本の大国主命が習合した神である。
頭巾は「上を見ない」と謙遜を表し、米もニ俵で充分と
欲を張らないを表す。 
台東区上野公園10−18


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寛永寺の子院で別当である。
天海が寛永寺を建立したときに
ここも建立され釈迦堂とよばれた。



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水月ホテルは森鴎外邸跡に建っている
鴎外の旧居がある





不忍池辯天堂 弁才天 芸術の神・財運招来
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弁才天はインドのサラスパティといわれる神で
川のさざ波の音が神になった
蛇を従え富をもたらす神である。
台東区上野公園2−1

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お堂の中にあがることができ、弁天様が拝める
七福神開催日程以外唯一拝める場所




このあたりは昔は海で平安時代に海岸線が後退し
沼になっていた。
寛永寺建立のとき琵琶湖になぞらえた不忍の池に
竹生島をなぞらえた中島がつくられ弁天島となった。
寛文10年(1670)に陸道、橋がつくられ
行けるようなった。




参考:七福神の家・東京都歴史散歩・台東区ぶらり散歩






by gannyan1953 | 2016-11-30 10:44 | 神様の話 | Comments(0)

箱根八里を演奏する

歴史と素適なおつきあい番外編 2016・11・20


今日は大好きな友人の命日だ 
墓参りに行ってきた
それが・・・柴犬朔太郎は必ず墓に飛びつく・・泣けるじゃないか・・・

このたび篠笛をふく友人とピアノの伴奏で演奏会を催す

亡くなった友人は、きっと喜んできてくれたろうだろうな
早く演奏会開けばよかった




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柴犬朔太郎と20歳のにゃんにゃん

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箱根八里は
元気な曲なので
なんとなく歌ってきたが
よくよく考えると
歌詞が難しい

作詞家は鳥居忱(とりいまこと)で東京音楽学校の先生であった
滝廉太郎はドイツに発つ前にこの作品を中学唱歌として発表している


1.箱根の山は、天下の険(けん)
 箱根の山は 険しい山 
 函谷関(かんこくかん)も 物ならず 
 長安の都の険しい谷の関にくらべるまでもない                              
 万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷 
 非常に高い山、深い谷   
 前に聳(そび)え、後(しりえ)に支(さそ)う
 前に山が聳え、後ろに谷が八里の道を支える
 雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
 雲は山頂をかすめ、谷に霧が湧いている
 昼猶闇(ひるなおくら)き 杉の並木
 関所前の杉の並木で昼も暗い
 羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は
 ヤギの腸のように曲がりくねる細い道 
 苔(こけ)滑(なめ)らか
 苔が道にひろがりすべりやすい
 一夫関(いっぷかん)に当たるや 万夫(ばんぷ)も開くなし
 1人の兵士が関所を護り、軍勢を通さない
 天下に旅する剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
 国中を旅する武士
 大刀腰(だいとうこし)に足駄(あしだ)がけ
 腰に刀を差し、素足に高下駄でつっかけ
 八里の岩根(いわね)踏(ふ)みならす
 岩だらけの道を闊歩する
 斯くこそありしか、往時の武士(おうじのもののふ)
 昔の武士はこのようなものだったのだろう

武士は鎌倉時代の武士か江戸時代なのかわからない

2.箱根の山は天下の岨(そ)
  箱根の山は 険しい道
 蜀の桟道(しょくのさんどう)数(かず)ならず
 三国志の時代の棒や杭でできた軍事上の道と比べ物にならない
 萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷
 非常に高い山、深い谷
 前に聳(そび)え、後方(しりえ)に支(さそ)う
 前に山が聳え、後ろに谷が八里の道を支える
 雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
 雲は山頂をかすめ、谷に霧が湧いている
 昼猶闇(ひるなおくら)き杉の並木
 関所前の杉の並木で昼も暗い 
 羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は
 ヤギの腸のように曲がりくねる細い道 
 苔(こけ)滑(なめ)らか
 苔が道にひろがりすべりやすい
 一夫関(いっぷかん)にあたるや、万夫(ばんぷ)も開くなし
 1人の兵士が関所を護り、軍勢を通さない
 山野に狩りする剛毅(ごうき)の壮士(ますらお)
 江戸時代狩りができない箱根だったが、明治になり
 狩りができるようになった
 自由民権運動の壮士、意気盛んな若者のことか
 猟銃肩(りょうじゅうかたに)に 草鞋(わらじ)がけ
 ニッカボッカにハンチングのスタイルではなく昔ながらの裸足に草鞋で
 若者は狩りをする

 八里の岩根(いわね) 踏み破る
 八里の道を踏破する
 かくこそあるけれ 近時(きんじ)の壮士(ますらお) 
 最近の若者もこのようであるといいのだが 


民権運動はこの曲が作られた1901年には
衰退してきている
壮士ますらおが民権家とはいえないような気もする
猟銃肩にとあるので
素直に猟師と考えてもいいかもしれない・・
作詞家鳥居
忱はいつ作詞したのかわからないが
1900年の授業でこの歌詞に曲をつけてみないかと
生徒に話したら、滝廉太郎がメロディをつけたという
中学唱歌を発行するための作曲だった

1901年に「曲集中学唱歌」が発行された。
初版を手にした瀧は喜び、一週間後にドイツに発った。

参考:なっとく同様・唱歌

by gannyan1953 | 2016-11-20 18:45 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

2016年版 東海道川崎宿

中川歴史ウォーキング27





集合:9:45  京急「六郷土手」改札口
ランチは川崎砂子付近の飲食店自由昼食


「京急六郷土手駅」北野天神~六郷の渡し~明冶天皇渡御碑~川崎稲荷社~

「京急川崎駅」万年屋跡~旧田中本陣跡~助郷会所跡~宋三寺~

稲毛神社〜高札場跡~問屋場跡~佐藤本陣跡~小土呂橋擬宝珠~

上手土居~芭蕉句碑~「京急八丁畷駅」廃線跡~無縁塚~熊野神社~

「京急鶴見市場駅」市場一里塚~鶴見橋関門橋跡~寺尾稲荷道標~鶴見神社~「京急鶴見駅」


川崎宿  
(文久3(1863)年調べ)

設置 :元和9(1623)年  東海道宿駅伝馬制度がしかれたのは1601年

管轄 :天領  小土呂、砂子、新宿、久根崎で構成

家数 :641軒
    本陣2・飯売旅籠33・平旅籠39・名主、問屋、年寄、馬役、
    歩行役149・屋敷借地26・家398・火の番屋6

人数 :2433人 (男1080人 女1353人)

名物 :奈良茶飯(万年屋)、ハゼ料理(新田屋)、米饅頭(鶴屋)
 
                
東海道で最もおそく開設された宿である。

品川、神奈川の伝馬継立が往復十里になるため
伝馬百姓の負担を軽くするために設置された。

小土呂方面の生産向上のため新川掘用水が
慶安3(1650)年に開削された。

宿起立時には幕府からの援助で常備伝馬の保持を図ったが、
伝馬継ぎ立ての重い負担に、早くから疲弊を訴え、
たびたび幕府の援助も続いた。

が、問屋もつぶれ逃亡する馬百姓も続いた。
財政が立ち直ったのは六郷渡しの渡船権を得てからである。

宝永6(1709)年に田中休隅の意見が幕府に採用されて、
渡船を宿が請負うこととなった。
 
又旅籠に飯盛女を置くことが許可され、
川崎大師やその南の石観音の参拝者も増え
江戸後期には宿の繁栄を見ることになった。

幕末期の将軍家茂の上洛や長州征伐で助郷体制が賄いきれず、
多くの村が助郷に加えられた。

助郷だけでなく将軍上洛に伴う御用金の調達も重なり
川崎宿では打ちこわしが起きた。
米穀商や名主が襲われたため、
幕府はその対応に本百姓に非常用の竹槍を与え、
富豪の子弟を中心に農兵隊が組織された。
 
明冶5年の品川~横浜の鉄道開通にともない宿駅制が廃止になり、宿機能は停止した。
以降商業地域として発展した。




北野天神     祭神―菅原道真


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とおりゃんせの碑と小径


将軍吉宗が乗った馬が暴走した時、落馬を止めた天神としての評判が、
旅人たちにより遠くまで広がり、

東海道を行き来する大名、武士たちの間で「
落馬止め天神」と呼ばれた。

ほど近い東海道の一角に「柳生様」とよばれる地があり
将軍家剣術指南役柳生家の屋敷があった。

北野天神の加護にあやかってこの地に住んだという。
なぜここにとおりゃんせの碑があるのか・・・
とおりゃんせの発祥の地の候補に川越三芳野神社、小田原の菅原神社
京都の北野八幡宮、太宰府にもある。

北野天神とは、北野天満宮から勧請して、だからとおりゃんせの碑がある!
あくまでも推測です・・・

六郷の渡し

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多摩川の下流の渡船場あたりでは六郷川という。

慶長5(1600)年に家康が橋を架けた。

しかしたびたびの洪水で流され貞享5(1688)年に
流出してからは架橋しなかった。

渡船になり、その権利をもった宿場は繁栄した。

東海道の四大橋  瀬田・矢作・吉田・六郷
江戸の三大橋   両国・千住・六郷



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六郷橋から


明冶天皇渡御碑

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明冶元(1868)年10月12日、明冶天皇は東下りの道中、

川崎田中本陣で昼食を召されその後23艘でつくられた舟橋を渡御された。




大師河原道印石と川崎大師の燈篭

道標の左手に川崎大師への参道の入口があり、
ここに川崎大師の燈篭と寛文3(1663)年に造立された

「從是弘法大師江之道」と書かれた道標があったが
現在は川崎大師にある。



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  万年屋の絵


万年屋跡

もともと一膳飯屋であったが、そこで出される奈良茶飯が有名になると
明和年間(1764~72)から旅館も兼業するようになった。

イギリスの園芸学者ロバート・フォーチュンが万延元(1860)年に
在日した時の見聞録「幕末日本探訪記」にかわいらしい女の子が案内してくれ、
お膳にお菓子や果物が並べられ女の子はゆで卵をむいて塩をつけて
口に運んでくれたと書いている。

万年屋の奈良茶飯は大豆、小豆、粟、栗などをお茶で炊き込んだもので、
しじみ汁といっしょに出された。

現在、川崎宿交流館のそばのお店で580円(2016年現在)で食べられる。

もともとは東大寺でだされていたもので、

起源は寺に納められたお茶を煎じて二煎目のお茶に塩を加えてお米を炊く。
蒸らしたあとに一煎目のお茶に漬けて食べる。

この中に炒った大豆、黒豆、栗などをまぜたようである。

東大寺二月堂のお水とりで練行衆の食事に茶粥とともに出されていて

古くから僧達の厳しい修行に耐えるための大切な栄養源として
生まれた食事だったようだ。

現在の茶飯はほうじ茶をいれ塩、醤油、酒で味付けし焙った大豆を
くわえて炊いたものである。

「奈良茶飯三石食ふて後はじめて俳諧の意味を知るべし」

と詠んだ芭蕉も好み、句会には奈良茶飯がだされたようである。

レシピ

大豆や黒豆をフライパンで炒る

パチパチしてきたら

洗った米といっしょに炊飯器に入れ

ほうじ茶をいつもより少し多めに入れて

塩を少々加え スイッチをいれる

奈良漬けがとてもご飯にあう




川崎稲荷

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昭和26年ころ再建され土留めに二ヶ領用水に
架かっていた石橋の部材を使用、

又社殿の下に将軍吉宗が江戸にむかう時休んだと
いわれるけやきの根株が残っている。



旧田中本陣

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大名、公家、旗本などが泊まる施設で231坪の堂々たる構えであった。

主人の田中休愚(丘愚)は本陣経営、名主、問屋の三役を兼務し

六郷の渡船権を江戸側より川崎宿側に譲りうけ川崎宿の財政を立て直した。

「民間省要」を著し二ヶ領用水や酒匂川の治水
(宝永山の噴火で水害に悩まされていた)に
尽力し幕府の役人に登用された。大名なみであったという。

田中休隅(丘隅)

寛文2(1662)年多摩郡平沢村の農家に生まれ
絹物の行商をして見聞を広めた。

川崎宿の田中源左衛門の養子になり50才で
土木、測量、経済、数学を学んだ。

「民間省要」で、金と商品の流通、
その影響と農民との関係を詳しく論じ
八代将軍吉宗の目にとまり、活躍した。

後には代官(支配勘定格)となり三万石を支配した。

百姓から代官になるのは異例の抜擢である。

が、5ヵ月後江戸の役宅で享年68才で亡くなった。

「民間省要」の執筆のねらいは民間生活の実態を為政者に

再認識させようとしたもので成島筑道により大岡忠助を通じ献上された。
この中に穢多のことが書かれているが、

「穢多はいかに金持ちになっても四民の上には絶対立てない」とある。

身分に対する抑圧政策が強化された時期でもあった。

稲毛神社

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平安時代に河崎庄の鎮守として祀られた。

祭神は武甕槌神(たけみかつちのかみ)である。

古くは山王社と呼ばれていた。

子の神社

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山王銀杏
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田中休愚一族に奉納された手水石

安政の大地震で倒れた石の鳥居の台座、小土呂橋の遺稿などある

平成に奉納された天地睨みの狛犬は撫でてお願いすると
体の悩みを治してくれるご利益がある。  


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河崎荘のこと

境内外の公園に

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六郷橋の遺構







宋三寺

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寺伝によると頼朝の時代に僧玄統が開き
建長寺末に連なる臨済宗の寺であった。

玄統が若いころこの付近を通りかかると
亀があらわれ池に導いてくれたので喉をうるおすことができた。
再びこの地を訪れたとき大亀があらわれた。


亀の恩に報いるため小さな堂を建てたのがはじまりとされる。

その後佐々木高綱の菩提寺となったが、
のちに衰え後北条に使えた高綱の子孫が鶴見の宝泉寺の僧自山を中興として招き

曹洞宗となった。


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墓地には飯盛女の系譜をひく貸座敷組合が建てた遊女らの供養塔がある。

(2006年お盆前に訪れた時吉原と書かれた風鈴が供えられていた。
寺の関係者から風鈴は毎年贈られてくると聞いた。)

東海道川崎宿交流館


川崎の歴史を展示解説しており、旅人の仮装をして写真がとれたり、
楽しくわかりやすい解説がある。


中の本陣
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問屋場にむかいあう形で建っていた。

「中の本陣」は正式には「惣兵衛本陣」といわれ

佐藤、田中本陣の中ほどにあったので
中の本陣と呼ばれた。

江戸後期に廃業した。


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ウシジマ君の丼が食べられるのか・・・
1人じゃはいりづらいお店だな

高札場跡

幕府や領主がきめた法度などを木の板札に書いて人目に着くように掲示する所。
江戸から京都にむかう右側にある。

問屋場跡

江戸時代公用で旅をする人たちの便宜を図るため人足や伝馬を常備した。

佐藤本陣跡

惣左衛門本陣といわれ181坪あった。

将軍家茂が上洛する時宿泊した。佐藤惣之助の実家である。

佐藤惣之助  詩人
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明冶23(1890)年に雑貨商を営んでいた
父慶次郎、母うめの次男として生まれた。

小学校高等科を卒業後麻布に丁稚奉公にでた。

その後暁星中学で仏語を勉強し、
12才頃から詩をつくっていた。

人生劇場、人生の並木道、青い背広で、
緑の地平線、六甲おろしなどのヒット曲も生み出した。


小土呂橋擬宝珠 

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小土呂橋交差点を渡って右にある。
東海道の新川掘に架かっていた橋の欄干の親柱が残っている。

昭和7(1932)年に川は埋め立てられたため交差点脇に置かれている。

新川掘は慶安3(1650)年関東郡代伊奈半十郎忠治によって
開削され橋の最も古い記録は正徳元年(1711)で板橋であった。

田中休隅が享保11(1726)年に石橋に改め、
寛保2(1742)年洪水で流されたため、
翌年普請奉行水谷郷右衛門によって再建されたものがこの橋である。

以来200年間人々が行き交った橋だった。
六郷八幡塚村の名工永井左兵衛、仕手吉六(飯島吉六)の名が銘文にみえる。

小土呂橋を渡った象

1729年に吉宗の注文で中国人が連れてきたベトナムの象も歩いたといわれる。

雌雄だったのが長崎上陸の3ヵ月後にメス象は亡くなり
オス象だけが東海道の箱根も越えてやってきた。

長旅の疲れで飼育係の苦労は大変なものだったらしい。

室町にも象は渡来したが、今回は陸路をいくことで多くの庶民の目に触れることになった。

途中京都においては「従四位広南白象」を与えられ、
御所に参内し前足をおり最敬礼の芸をしている。

江戸にはいった象は熱狂的な江戸庶民に迎えられ市中を練り歩いている。

浜御殿に収容され。二日後には江戸城に参上し吉宗を喜ばしている。

何度か吉宗は江戸城に召し出しているという。

その後1741年「見晴らし」という掛け小屋をもつ
中野村の源助という百姓に払い下げられ見世物の他、
糞を乾燥して薬として売ったらしい。

管理の悪さから一年後に象は病死した。

上手土居
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宿場の京都側入口のことで京口土居という。
切石がつまれた土居が築かれていた。

教安寺

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六字名号碑
徳本さんは江戸時代後期僧の中でアイドル的存在だった
この丸いやさしい字体が評判になり
全国で1000はあるといわれる。
人物は大変厳しい修行をした人で
とっこさん・とくほんさんと親しまれた
トクホン(貼り薬)との関係があると思ったが
勘違い

それはもうひとりの江戸時代初期の徳本さんで
医療に詳しかった徳本という僧の名を
トクホンが使用したからだった

あぶない あぶない



芭蕉句碑

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元禄7(1694)年5月郷里の伊賀へ帰るため、
深川の庵を発った芭蕉は、
同行してきた弟子たちとここにあった茶屋で休息した。

弟子たちと別れを惜しみつつ詠んだ俳句である。

芭蕉 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」


弟子 「麦畑や出ぬけてもなお麦の中」


芭蕉 「刈りこみし麦の匂いや宿の内」   と返した。

この5ヶ月後、芭蕉は大坂で病にたおれ51才でこの世を去った。

文政13(1830)年俳人一種は、

天保の三大俳人と呼ばれた桜井梅室の筆による

文字を石碑に刻み、俳聖芭蕉を、ここに偲んだ。

廃線跡
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煉瓦の左に鉄道があった

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廃線跡がいまだに残っているのか
  向かえ側


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この向う側はドヤ街があった
今でもあるのかわからないが
少し向うの日進町で簡易宿泊所の火事があった記憶がある



大正7(1918)年から昭和48(1973)年まで川崎から浜川崎まで
走っていた南武鉄道の廃線跡の煉瓦壁である。

イギリス積みである。

東海道線を貨物列車が多く往来していたころ
東京の方からやってきた列車を
浜川崎や鶴見線方面に向かわせる路線として使われた。

首都圏を走る貨物が武蔵野線に迂回するようになって
廃線になったようである。

往時を偲ぶ少しの間の姿である。

八丁畷の名前の由来は川崎宿から鶴見市場までの間が
八丁(870m)あり縄手というのは道が田畑の中をまっすぐ
のびていることで畷に当てた。

道は松や杉、榎の並木が続き八丁畷並木と呼ばれた。

JR八丁畷駅は京急と南武支線があり、
尻手から鶴見線の浜川崎までをつないでいる途中駅である。

2010年までに新八丁畷駅が開設され今の駅は廃される予定である。

踏切には監視員が常駐している。

無縁塚

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明冶以降人骨が並木から多数掘り出された。人類学社の調査の結果、江戸時代に災害や飢餓などで亡くなった人を埋葬したのではないかといわれる。これら無縁仏の供養のため供養塔がたてられた。






熊野神社
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弘仁年間(810~824)に紀州熊野の別当尊敬の勧請といわれる。

家康が関東入国前に武運を祈ったと伝えられる。

鎮守の森はなぜかない。

宮司家に伝承された市場神代神楽が知られる。

近世の実態を詳しく記述している

「萩原文書」があるが、奉納舞に荏田村
からおとよ、数馬らが参加した
ことが記
されている。

現在この熊野神社では神楽がなく
鶴見の矢向の日枝神社に受け継がれている。


専念寺(見学しません)


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鶴見市場駅の改札口前にある。

紫式部の持念仏と伝えられる「市場観音」
が安置されている。

富士山から飛んできた

「夜光石」「お乳岩」でも有名である。

専念寺

最近いつも閉まっていて拝観できない・・・
ホームページでご覧ください

2001年ころ夜行石をみせていただいた
記憶があります


市場一里塚
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日本橋から5番目の一里塚で、昭和初期まで
大きな榎があった。

このむかえには地主が施す「畑の灸」があり、
子供の疳の虫に効くといわれた。
現在畑医院がある。

有名な円海山の峰の灸があるが、ここは一里塚の前で、
便利だった。


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鶴見川を渡る

鶴見橋関門橋跡
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安政6(1859)年横浜開港とともに、
神奈川奉行は外国人に危害を加えることを
防ぐため、横浜への主要道の要所に番所、
関所を設けた。

鶴見橋関門は万延元(1860)年に設けら
れ橋の左右に杉の角柱をたて大貫を通し黒渋で塗った。

文久2(1862)年8月生麦事件発生により
川崎宿~保土谷宿に20ヶ所の見張番所が設けられた。

ここは5番目であった。6番目は鶴見駅前にあった。

私の住む近所に大山道があって
荏田宿手前に大橋があった。

何番目かわからないが、
ここに見張り番屋が作られた

 
この見張り番屋はしれなりに機能していたようである

見張り番屋について

寺尾稲荷道標
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寺尾稲荷とは今の馬場稲荷で馬上安全、馬術上達の
ご利益があるとのことで祈願をする人が絶えなかったといわれる。

伝えでは寺尾城主5代目の諏訪馬の助は、
乗馬が下手で何とか上達するように祈願したところ、
馬術は上達し、北条氏康の十勇士の中に名を連ねるようになったといわれる。


鶴見神社
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貝塚発見

推古天皇のころ創建といわれ、杉山大名神といわれたが、
大正9(1920)年に鶴見神社に改称した。

昔は5000坪もある大きい古社だった。

杉山明神、素盞鳴尊など祀られる。

境内から多数の祭祀遺物が出土し弥生後期から鎌倉時代の土器も出土したことから、
横浜では最古の社といわれる。

「かげ参り」といわれるが、350年ほどまえ、
幸区小倉にあった鎮守天王社(現在八幡社に合祀)の祭礼で
誤って御輿を川に流してしまった。

これが鶴見川の潮見橋付近に流れ着いたといわれる。
以来祭礼の日には「かげ参り」といわれるようになった。

かつて鶴見川は水田の広がる農耕地帯であった。
「鶴見の田祭り」は鎌倉時代がはじまりといわれ稲の豊穣を願った祭だったが、
水田が消えていくとともに途絶えていた。

近年宮司や研究者によって復活した。

仁治2(1242)年 鎌倉幕府4代将軍藤原頼経らが立ち寄る。
仁治3(1242)年 大江広元らが一帯の開拓事業を行う。
元弘3(1337)年 新田義貞が鎌倉攻めをしたさい末吉付近で戦う(鶴見合戦)

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この清明宮については


                鶴見神社と三島由紀夫


信楽茶屋
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東海道の立場として栄えた。立場とは宿の間の休憩場で宿泊は許されなかった。「江戸名所図絵」にも描かれ竹の皮に包んだ梅干が好評だった。



      
参考:HP ウイキペデイア・横浜市・川崎市教育委員会・東海道川崎宿2023
     悠悠人の写真紀行 ・大人の塗絵・横浜市歴史博物館ニュース

   東海道ルネッサンス・・歴史と素適なおつきあい2001年度資料
by gannyan1953 | 2016-11-18 18:30 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

鶴見神社と三島由紀夫

歴史と素適なおつきあい番外編


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鶴見神社




2016年 久しぶりに訪れた
社地に「清明宮」があった
以前はなかった

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安倍晴明かと思ったら
脇に  清明  の文字

清明宮
 清 明 』 三島由紀夫

三島由紀夫命
森田必勝命   両烈士
四十年祭斎行に當り 建立す
平成二十二年十一月二十五日


とある

前の月が市ヶ谷の防衛省をぐるりとウォーキング
三島氏のことを少し書いたばかり・・・
なぜか縁を感じ
ちょっとデイープな市ヶ谷散歩


早速 宮司さんにうかがったところ
鶴見に大塚さんという人が経営する
「仔馬」というバーがあり
作家になりたての三島由紀夫氏が毎晩のように
通っていたそうだ。

三島由紀夫氏が創設した盾の会のメンバーが
(もう解散していると思っていた)
三島さんを祀る神社がないといわれ
鶴見の縁で鶴見神社に清明宮が遷座したという

金子宮司といわれるが、
なかなか詳しい

話は縄文から・・弥生の米作りに進むところで
御朱印希望の青年が現れ
多分「田祭り」の神事を説明される
おつもりだったのではないか
なんせ近年になって貝塚まで発見された
祭祀用具も以前からけやきの根元で
見つかっていて
ここは杉山神社系では最古の神社という


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けやきの古写真

調べてみたら宮司さんは「鶴見歴史の会」の方で
詳しいはずだった

もっと余談になるが
鶴見神社と調べると もと盾の会メンバーと
出てきた

えーッ あの人盾の会の人・?

ところが違った

その鶴見神社は大阪鶴見区にあった

ホームページは

鶴見神社

鍼灸の治療もする


市ヶ谷で三島氏と森田必勝さんの首を
介錯した人物 古賀浩靖氏が宮司をしていた
神社だという

当時23歳だった
武道経験者ということで
介錯を頼まれたらしい



現在の宮司さんも森田必勝さんと関係があったらしく
月刊ムーに開運法を寄稿されている宗教家である

ということで
同じ名前の鶴見神社・・・ただの偶然か・・・
・・・盾の会が同名の神社に近づいたのか

わからない

今年も2016年
11月23日 13:30 参集殿にて清明宮について

11月25日 12:00 慰霊祭が行われる



by gannyan1953 | 2016-11-15 13:52 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

滝原宮に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編   2016・11・7(月)

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 エクシブ鳥羽から1時間

伊勢神宮別宮といわれる瀧原宮についた

伊勢神宮に負けないほど神聖な場所である・・・



人は少ない

穴場・・・・である


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こんな巨木がいっぱいある


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御由緒

倭姫はここが気に入ったのだが
のち今の伊勢神宮の場所に移った

元伊勢ではなくなぜか別宮といわれる


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倭姫とマナコさんとの出会い
恋ではなく
増水のため川を渡れず困っていたところ
マナコさんに助けられ
渡ることができた


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近くの峠でいい場所ねと語り合い
ここに滝原宮を作った






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昔のガラスの駐在所


静かな参道を行くと川に降りて行く場所があり
川で清める

御手洗である







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建物の並び順と、お参り順は違う
気をつけてほしい


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一  瀧原宮

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二 瀧原竝宮(たきはらならびのみや)
天照大神の荒御霊


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三 若宮神社
倭姫が使用した船が祀られている


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四 長由助(ながゆけ)神社
瀧原宮の御贄を司る
神様がいただくお食事のこと
伊勢神宮の外宮にあたる


ここは分杭峠のような零磁場だという

共通点は分杭峠、伊勢神宮、瀧原宮は中央構造線上にある

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伊勢神宮と同じように遷宮が行われる

この地は新御敷地(しんみしきち)
遷宮から6ヶ月後までは古殿地(こでんち)といわれる




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参拝後、脇の道がとても素敵で
行って見た

この道熊野古道だった

ずっとずっとさきに進むと倭姫とマナコさんの
出会った三瀬坂峠に続く












by gannyan1953 | 2016-11-08 19:47 | 神様の話 | Comments(0)

エクシブ鳥羽の朝日と遺跡

歴史と素適なおつきあい番外編  2016・11・7

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エクシブ鳥羽アネックスの日の出


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エクシブ鳥羽の本館の内海の日の出


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エクシブ鳥羽本館

このあたり遺跡があった


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贄遺跡

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製塩していた

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志摩は御食つ国(みけつくに)といわれる

この遺跡も贄・・・捧げもののことである

お伊勢さんに海産物など納めていた

ここは4000年にわたる遺跡で
縄文時代の土器から和同開珎・・平安時代の須恵器が
発掘されている

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エクシブ鳥羽別邸

うん・・・少し豪華・・・

朝ご飯を食べに行きますか・・







by gannyan1953 | 2016-11-08 18:27 | 神様の話 | Comments(0)

石神さんに行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編     2016・11・6

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最近人気の石神さんに行ってきた

鳥羽から狭い道をくるくる走ると海辺に近いところに出てきて
石神さんの矢印をたどっていくと
相差(おうさつ)海女文化資料館にくる
なかなか「おうさつ」とは読めない難読地名だ

資料館に駐車してすこし歩いて神明神社にいく
その摂社が「石神さん」とよばれる
昔から海女さんたちが大切にしてきた神さんである

女性の願いをひとつだけ叶えてくれると
最近脚光を浴びている

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本殿の前にある大きな木

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同じく 大きな木


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神明神社本殿

ピカピカ

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お勉強
叔母が甥と結婚したことになる

姉トヨタマヒメは出産の姿を夫に見られ
(姿がワニだったので見られたくなかった)
それで
キレて実家に帰るが

妹タマヨリヒメを息子の養育係として遣わした

タマヨリヒメは
養育した甥っ子ウガヤフキアエズと結婚し
初代天皇神武天皇を生む

発祥、開運、再生の神様である


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人の絶えることのない
石神さん

石は扉がしまっていて
みることはできない
中には石がある
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お守り

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セーマン・ドーマンとよばれ

左はセーマン・・・安倍晴明の家紋・五芒星である

右がドーマン・・・九字(くじ)の呪文といわれる
(臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前)

陰陽道の安倍晴明・蘆屋道満に由来するともいわれ、
強い念をかんじられる由来だ
ここでの蘆屋道満は物語にでてくる悪役ではなく
不思議な力を持ち、人々・・特に庶民を守るために尽くした
安倍晴明は朝廷の陰陽師なので要となる朝廷を守るために尽くした

お守りは海女さんの手作りで
海女さんは海に潜る時の道具や手ぬぐいに
この護身用の印を自分で描くという





今晩のお泊まりは

エクシブ鳥羽アネックス

アネックスはバスでお風呂に行くのが面倒
前は本館だったので便利だったが・・

よかったのは海がとてもきれいで
景色がよかった









by gannyan1953 | 2016-11-07 22:04 | 神様の話 | Comments(0)



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