歴史と素適なおつきあい

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豊国神社に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編


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豊国神社


山本屋の味噌煮込みを食べに名古屋駅の裏の方に行った

昔母に駅裏には行かないようにと言われていたので
あまり出かけたことがない

今行ってみると,戦争で焼け残ったのか、レトロな家が多い

昭和 昭和してて楽しい
ほとんど長屋で昔の風景が残っている

大門本店という店だったと思う

漬け物も味噌煮込みも堪能し

中村公園があったことを思い出した

中村公園の中に豊国神社はある

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秀吉さんここで生まれた 感動


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常泉寺

豊国神社の隣


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by gannyan1953 | 2017-03-30 11:43 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

名古屋城に行ってきた

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・3・29


前に訪れたときより本丸御殿の建設が進んでいた

多くのスタッフが並びそちらの方が騒然


私は幼い時から名古屋城のお堀で
よく遊んだ

日曜になると朝早く
兄と配達された牛乳瓶を自転車のかごにのせ
あちこちでかけた

現在の放浪癖は
このころからだった・・・

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明治12年 立派なお城

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昭和15年

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戦争で焼けたシャチホコの金を使って
作った釜

返還の意味がわからず調べてみたら
焼け残った金の塊をGHQが持って行った・・
のちに返還されこの塊じゃどうしようもないので
茶釜を作ったということだった

シャチホコは明治になり3度も盗難にあったそうだが
なかなか換金はできず
お縄になったという

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直径30センチくらいあったかと・・


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空襲中


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現在のお城を写真撮るの忘れた











by gannyan1953 | 2017-03-30 11:32 | 愛知県尾張の歴史 | Comments(0)

早野の鎌倉古道

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・3・22

お天気よく風は強かったが久しぶりのひとり探索





鎌倉道は南北にあるがそれを横につなぐ道なのか・・
尊氏道 義貞道というのかよくわからないがそんなサイトがあった



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まずはプロローグとかいうイタリアンとパンのレストランを
柿生方面向いて店の裏を右折

すると宗英寺がある

ずんずん登る
突き当たり車の工場のような・・・

道なりに右! もう車が通る道ではない

左側に



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鉄火松の碑

・・・が・・・ぽつねんとある

昭和22年に老松は枯れたそうな

鎌倉街道の並木の松ともいわれる

ここは鉄(くろがね)と早野の境で

焼けた鉄の棒で境界争いの裁断をしたという伝説がある

早野の人がしっかり焼けた鉄棒をつかんだとか・・・

痛そう・・・


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鉄火松から15mくらい進むとこんな感じ

ぐるりとまわり

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鉄火松の碑を振り返った
やっぱり・・ぽつねんとある


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遠くの建物は桐蔭大学

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進むとすぐに狭くなる

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右は工事のフェンス

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フェンスで見えないので手をのばして写真だけとってみた
何の工事かわからない

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ずっとフェンス

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尾根道

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すごく狭い

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やっと抜けて振り返ったところ


早野からもみの木まで抜けました


ここから虹ヶ丘の原子力研究所へ・・・


ヘビでなくてよかった!





by gannyan1953 | 2017-03-22 23:04 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

江の島洞窟探検

歴史と素適なおつきあい  2017・4・14

以前にも訪れましたが、今回はエスカーを利用し
そしてパワースポット岩屋洞窟へ

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相州江の嶋岩屋之図 歌川広重  江の島マニアックより



集合:9:50 小田急片瀬江ノ島駅改札でたところ

江の島1DAYパスポート 1000円を購入するとエスカー・コッキング苑・展望灯台
岩屋岩窟に入場できます
帰りはお天気よければ洞窟入口から弁天橋まで遊覧船(別料金400円)があります
天気が悪ければ申し訳ありませんが頑張って歩きましょう
帰りのエスカーはありません。階段です。



江ノ島の地形


周囲4キロ、標60m陸繋(けい)島である。

三浦丘陵多摩丘陵と同第三紀層の疑灰砂岩の上に

関東ロームる地である。

古来は引き潮のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)がれて

岸の湘南海岸と地きとなって

いて渡ることができた(トンボロ現象)。


関東大震災全体が隆起して以降は地向にある。

の周は切り立った海崖にまれ、の力をく受けるの南部には

台が発達する。


大正12年(1923)関東大震災の時の隆起で

海面上に海台が姿をし、隆起海台(岩棚)となった。

ここは光客の休憩や磯遊び、磯釣りのとなり楽しまれている。


崖の下部には断層線など波による浸食み、

海蝕洞られる所があり、

「岩屋」と呼ばれている。


さらに侵食が著しくなると、海洞が崩し、

大きな谷状の地形となる。

江のの中央部には南北から侵食がんで

分断するような地形があり、

「山二つ」と呼ばれている。



江ノ島の縁起に鎌倉の深には周40里もある湖があり、

そこには五頭龍が住んでいた。

そのの行った行は山を崩す、洪水を起こす、疫病がはやる

そして生として子供まで食べていたという。


13(552)黒雲が天を覆い、

大地震が起きて高波が村をった。

大地は10間揺れ、れがまると今度は海底が大爆を起こし、

岩を吹きばすとそこには小さながあった。


江の島である。


欽明天皇のころ(6世紀)天地が揺れ

天の暗雲から天女、海から島が出現した。


龍は美しい天女に恋をして求婚したところ、

天女が言うには「龍がおとなしくなるなら」

という条件をだされ龍は結婚し、

おとなしくなったという。


その後は日照りに雨を降らせ、

を防ぎ、津波を押し返すなど、束通り村を守った。


しかしその度に弱って行き、

最期を悟ったは片瀬山となり村を守るようになった。


これが弁才天として江ノ島明神になった。



歴史

頼朝が文覚上人と戦勝祈願を岩屋で行い、弁才天を勧請した。

建保4年(1216)に隆起し陸続きになったこともある。


北条時政は子孫繁栄を願ったところ

美女に姿をかえた龍神があらわれ願いをかなえると約束した。


それが北条氏の家紋が三鱗になった由来だという。


室町時代に関東管領山内上杉氏と鎌倉公方足利成氏(しげうじ)が

鎌倉幕府主導権を争い江ノ島合戦が行われた。


その後成氏は下総古河に退去した。


16世紀になると後北条氏が治めた。


戦国時代は後北条氏の直轄か

公界所(くがいしょ・誰にも属さない俗界から離れた聖なる場所)

であったか定かでない。


徳川幕府になると岩本院と上の坊、下の坊と

本山争いが起こり


岩本院が地位を確立した。


江戸時代の江ノ島の信仰、観光は人気をよび、

観光収入を巡っての争いだった。



江ノ島は江庶民の行地として

大山- 江の鎌倉金沢八景光ルトが流行した。


明治になると神仏分離で宗像三女神を祀る

辺津宮(へつみや)、中津宮、奥津宮、岩屋は

江ノ島神社に改められた。


明治20年(1887)の通、

明治35年(1902)江之島電気鐵道通は

江のに多くの光客をぶことになり、

鎌倉まで全通すると、


江の鎌倉光ルトが立し、

修学旅行などわうようになった。


関東大震災で島全体が2m隆起し、

岸の津波被害が著しく、内のほとんどの建物は倒した。


江の島桟橋は津波で流失する。


震災の復興む中、昭和年(1929)には

小田急江ノ島線通し、

観光地発展のきっかけを作った。


現在の江ノ島サムエル・コッキング苑 (入場料200円)は

明治13年(1880)

アイルランド人貿易商サムエル・コッキングが

金亀山与願寺(現在江島神社)の菜園を買収し

2年後植物園を開館した。



関東大震災で荒廃した。


戦後江ノ島鎌倉観光(江ノ島電鉄)による観光開発で今に至る。

和洋折衷の庭園である。


今あちこちで見られるタイワンリスは

ここで飼われていたリスである。

昭和の時代に台風のため飼育室が破壊され、

逃げたリスが繁殖してしまった。



青銅鳥居

延享4年(1747)と文政4年(1821)の銘がある。


正面の額は蒙古襲来に勝利した記念に

後宇多天皇の勅額の写しである。



岩本院

鎌倉時代の「岩本坊」は、のちに「岩本院」となり、

江の総別めた。


文久2年、「岩本院の稚あがり、普段着なれし振袖から、

田に由比ヶ浜」の台で有名な、

河竹阿弥の「白浪五人男」の舞台として取り上げられた。


歌舞伎の白浪五人男に登する「弁天小僧」は、

岩本院の稚がモデルであるとも言われている。


その他、芝居、講談、小など、数々の名作に

岩本院の名は取り上げられ、

740年余りのきにわたってく世にがれてきた。



随神門

朱の居の正面、石段を上ったところにある龍宮城を

模した楼


人々が瑞々しい心でお参りできるようにと名付けられた。


壁や天井には、片岡華陽が描いた牡丹や唐子の画が

られていますが、

子はご祭神の守と参者に厄がふりかからないよう、

の意味がめられている。


をくぐると、江神社ご1450年を念して

奉献された「弁天童子石像」がある。



辺津宮

祭神は田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)。


良信(鎌倉大仏の落慶供養を行っている)が実朝に願い、

創建された。


延宝3年(1675)に再建された。


屋根の社紋は江島神社の向かい波三鱗が見られる。


高低差のある江ノ島の一番低い場所にあることから

下之宮と呼ばれた。


奉安殿(200円)には日本三弁天の

八臂辨天(はっぴべんざいてん)と

裸弁天といわれる妙音弁才天が祀られている。


賽銭箱は巾着型をしており、

相模彫りといわれる独特の彫り物で

昭和34年(1959)に地元商店の奉納でお賽銭をいれると音が出る。



福石

瑞心から石段を数段上ったところにある。


出身の杉山和一(校)は、

幼少の病が原因で失明してしまい、

で身を立てようと意する。


ところがうまく覚えられず修行に入った学校を破門される。


そこで江のにこもり21の断食をして

の技を祈した。


満願の日のり道に、この石につまづき倒れを失ってしまう。


そのの中に弁天がれ、

手を合わせてもうとしたところ、チクチクと身体を刺すものがあった。


からめた和一が、手にとっていたのは

の入った竹の筒。


これをヒントに和一は、

管鍼術(くだはり・かんしんじゅつ)を考案、

開業しておおいに繁盛した。


和一の献身的な施術を受けた徳川綱吉も感心し、

「ほしい物は何か」と尋ねたら


「ひとつで良いから目が欲しい」と答え、

かわりに本所の一町を拝領した。


屋敷内には弁才天が勧請されている。

今も墨田区に江島杉山神社がある。


和一は視覚障害者の組合もつくった。



江の島弁才天道標

福石のそばにある石柱。


杉山校が、参者が道に迷わないよう、

宿から江のkmの参道に建立した48基の道のひとつ。


の正面には「ゑのしま道」、

面には「一切生」「二世安」と刻まれている。



杉山検校の墓


福石のの道を入り朱りのを渡ったところにある。


元禄七年(1694年)に没し弥勒寺(京都墨田区)に葬られるが、


一周忌に人の三浦安一が、

杉山校にゆかりの深い江のに、笠塔婆型の墓を建立。


墓の前の灯は、吉の吉保室が寄したものといわれる。



中津宮

祭神は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。


元上之宮で文徳天皇仁寿3年(853)に慈覚大師が創建した。


元禄2年(1689)五代将軍綱吉により

再建された社殿である。


奉安殿の弁才天は神仏分離前まではこの中津宮にあった。


歌舞伎「市村座」と「中村座」が奉献した一の石燈籠がある。



奥津宮

祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)。


三姉妹の長女で海を守る神様である。

岩屋に近く昔は本宮・御旅所といわれた。


社殿は壮麗だったが天保12年(1841)に

焼失、翌年再建された。


拝殿天井には酒井包一による八方睨みの亀が

描かれていて、

実物は保管されているが復元されたものが見られる。



岩屋洞窟(入場500円)


海蝕洞「岩屋」は、昔から宗教的な修行の場となった。


奈良時代には役小角が、

平安時代には空海、円仁が、

鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、

江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。




寿永元年(1182)に源頼朝の祈願により文覚が

弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、

代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。


鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、

参詣されてきた。


弁才天は水の神という性格を有し、

歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども

数多く参拝した。


ことに音曲に関連する職業に多い視覚障害者の参拝も見られ、

中でも関東総検校となる杉山和一の存在が大きい。



参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、

関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。



参考 神奈川の歴史散歩:山川出版 

ひげの梶さん鎌倉を歩こう:梶本晃司 

岩本楼HP シーキャンドルHP 

江の島マニアック 江島神社HP 

ウィキペディア 湘南なぎさパーク


by gannyan1953 | 2017-03-04 15:10 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

市が尾から早野の歴史散歩2017

中川歴史ウォーキング31  2017・5・20(土)

歴史と素適なおつきあい2005年6月10日



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線刻画古墳


集合:9:54田園都市線「市ケ尾駅」西口

市ヶ尾~(地蔵堂~市ヶ尾横穴古墳群)~広田花崖~寺下遺跡~薬王寺~稲荷前古墳~鳥見役井上家跡~女学生の家~田園の憂鬱文学碑~〜名主村田家〜桐蔭大学交流会館にてランチ~鉄火松~戒翁寺~殿様墓~義民・今蔵~横浜線画古墳~石仏群~子の神社~馬取橋(6、5キロ)
〜麻生新町からバスで市ケ尾駅




地蔵堂 

創建:江戸初期 本尊:木の地蔵菩薩 開山:宝歴元(1751)年以前。
大山道に面し十体の地蔵が並んでいる。統誉上人が千日の托鉢によって作られた
「千日堂」とよばれる本堂がある。
毎年11月30日、双盤をならし地蔵菩薩を開帳し念仏を唱える。市の無形文化財指定。


市ヶ尾横穴古墳群

6~7世紀頃の横穴式共同墓地。昭和8(1933)に発見された。
元は杉浦氏(綿屋)の山で屋敷はこの古墳の下にあった。
横穴墓の前に広場があり刀、土器などが発掘された。
先祖を祀る祭祀場であったと思われる。
この「前庭部」発見は全国でもはじめてで、以後の研究に進展をもたらした。
横穴の内部は造られた時代によりさまざまな形をしている。


*綿屋  大山道の宿屋で明冶10年ころ近くの「石橋」からの火事で焼失、
再建され現存する。

*石橋茶屋跡  江戸時代大山道の茶屋を営んでいた。
明冶10年の火事で焼失。佐藤春雄の「お絹とその兄弟」のお絹は一時ここで働いた。


広田花崖(1887~1951)山房

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廣田新聞
ひろたりあんにはしょっちゅうお世話になっています

本名:鉄五郎。明冶20年都筑郡中里村下谷本(藤が丘)に生まれる。
中郡(平塚)立農学校を卒業。下宿の傍らを流れる花水川の崖に咲く桜の花から
つけられた名前である。
陸軍技手として赴任した宮城県でトロッコから転落、下半身麻痺となり
車椅子の生活となる。
市ヶ尾に土地を買い独立、文筆生活にはいる。
33歳の時「横浜貿易新報」の通信部を開設する。
チベットといわれるこの地域をバイクのサイドカーに乗って取材した。
代表作は「田園」鉄小学校の校歌。刊行物は農業、キリスト教、
少年向け科学小説、新聞小説、短歌など広範囲であった。

64歳で他界。柿の木台に墓がある。



*横浜貿易新報

現神奈川新聞で貿易商組合の機関紙がはじまり。
神奈川県下で75%の占有があった。
横浜文化の育成に貢献した。

余談だが、横浜はジャズ発祥の地といわれる。
大正14年奇術師松旭斎天勝一座が渡米し帰朝した時の公演で
ジャズ演奏があったと横浜貿易新報が伝え、
公的に記事がでたのはこれがはじめてということで、
ジャズ発祥の地といわれる要因となった。

*広田新聞

大正12年花崖が創業した。
文化伝導のため新聞配達を天職と思えと新聞配達店を開いた。




元薬王寺と寺下遺跡
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寺下遺跡はもうない
元薬王寺は江戸時代、東泉寺といった。
その後寺が焼失し、江戸末期に薬王寺となる。
寺下遺跡は稲荷前古墳と同じ稲荷前という地名にあったが、
稲荷前古墳が先に発見されていたため寺下と名付けられた。
縄文、弥生の住居跡、13、14世紀の板碑、土器など多数出土した。
平成13年度発掘。



薬王寺 
王禅寺末 真言宗豊山派
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幡鐘

元薬王寺全焼のため現在地に移転。


稲荷前古墳

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15号 方墳
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16号 前方後円墳

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16号からの景色
ここは古墳の上に立つことができる

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これが17号かと思ったがどうも違う

高さ60mの丘に築かれた10基の古墳と9基の横穴墓が分布。
ここは前方後円、前方後方、円、方墳、横穴墓と古墳のすべての種類がそろっているので「古墳の博物館」といわれていた。

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昭和42(1967)年に住宅地造成中に発見された。
4世紀から7世紀にいたるさまざまな古墳がある。
この地域に古墳群はなくここは都筑の中心地であったと思われる。

橘郡の観音松、加瀬白山、荏原郡の田園調布、宝莱山古墳では
鏡、多数の玉類、剣や刀などの武器類が発掘されたが
一号墳の発掘品は大変質素であったため
橘郡、荏原郡の支配者より一段下位であったと思われる。

一号墳の発掘によって謎につつまれていた4~5世紀の都筑の様子がはじめて知られ、
古代横浜の歴史を書き換える発見であった。
15、16、17号古墳が残されている。

16号は最も古く4世紀後半といわれている。

*鉄(くろがね) 畦曲という意味で畦(くろ)、畦道が曲がっているという意。


鳥見役井上家跡

もとは阿部姓であったが、天正18(1590)年頃
百姓、井上として鉄に住みついたといわれる。

寛永の頃加賀百万石前田家の鳥見役、鷹師役となり
元禄6年まで50年以上鷹場の管理をした。
13代晴之助は鉄小学校初代校長。
現在17代健二氏がセブンイレブンを経営している。



女学生の家
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 佐藤春夫の著作「田園の憂鬱」にでてくる女学生、
金子美代子17才の家。

「この村に帰省していた女学生、それはY市の師範学校の生徒で、
この村の唯一の女学生は夏の終わりに、
彼の妻と友達になったが間もなく喜ばしそうに、
その学校のある都会へ彼の妻を取り残して帰っていった。」


金子家

鶴見川流域歴史散策の著者金子勤氏の生家。



田園の憂鬱文学碑
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 昭和57年金子美代子さんが建てたもので、
題字は佐藤春夫の姪竹田竜児の書。
竹田氏の奥さんは谷崎潤一郎の長女鮎子である。
姪は古くは甥の意もあった。

*佐藤春夫(1892~1964)

和歌山新宮町の医者の家に生まれる。
中学時代に生田長江(評論家)、与謝野鉄幹(歌人・詩人)と知り合い
文学をめざすようになる。

慶応大学に入るが退学。
文学に行き詰まり油絵にむかうが神経衰弱が悪化し、
療養のため中里村(鉄町)に同棲中の女優と犬2匹を連れて転居をした。

ここで「田園の憂鬱」がうまれる。

谷崎潤一郎の妻千代子と恋愛騒動を起こし谷崎と絶交する。
谷崎の浮気、家庭を顧みないことなど千代子に同情し、
恋愛にいたったものといわれる。

一旦谷崎は二人の恋愛を認めるが小田原で翻り絶交にいたる。
その後春夫はタミと結婚するが別れてしまい、
谷崎の妻千代子を譲りうける。

「谷崎千代子は谷崎潤一郎と離婚し娘鮎子をつれて佐藤春夫と再婚する」

と3者連名で発表、「細君譲渡事件」といわれた。

「あはれ 秋風は 情(こころ)あらば 伝えてよ
夕餉にひとり さんまをくらひて 思ひにふけると」秋刀魚の歌
 千代子夫人への思いを歌った歌である。新宮に碑がある。

門弟三千人といわれ、後輩から慕われた。
72才自宅でラジオ番組収録中、心筋梗塞で亡くなる。


  
名主 村田家
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 中鉄村の名主で完全に近い家系図がある。
傘状血判書、小田原北条からの古文書、高札などが保存されている。

戦国時代初期西国から村田兄弟3人が鉄、上谷本(みたけ台)に定着した。

現在当主は17代で、初代村田祥本は祥泉院を開基、
14代信十郎は近くを流れる小川の上に隠居所を建て、
明冶末期に亡くなった。

そこへ大正5年まだ無名だった佐藤春夫が引越してきて「田園の憂鬱」を書いた。

*谷本
谷川が中世にここの山根を流れていたからといわれる。

*金子 勤氏
今回の鶴見川流域散策の資料となっている「鶴見川沿い歴史散歩」の著者の生家が、
「女学生の家」の後ろにある金子家であると、
畑仕事をしている方からお聞きした。

鉄小、厚木中、高から早稲田大学卒業。
著書に「大山道今昔」「風車のまわる異人館」「佐藤春夫の作品とその背景」などがある。




桐蔭学園

創立昭和39年。
この土地は元臼井英一家他の土地で昭和30年頃日清製粉社長正田さんに売却、
後に東急電鉄の要請で桐蔭学園に売却された。
皇后になられた正田美智子さんも学生の頃、臼井家に遊びにこられたこともあった。

交流会館でランチして、トイレに入ったらドアにこんなものが・・・
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*早野

訛って「へえの」という。近くの稗原も「へえばら」という。




鉄火松 
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 鎌倉古道で鉄と早野の境の峠である。鉄火とはバクチの事で、
峠でよくバクチが行われた。

古銭が多く出土した。松は昭和18年頃枯死した。

昔 早野と鉄の境界でもめ訴えがあった
そこで熱した鉄の棒を持って持てた方が勝ちという裁断があり
早野の人が持つことができた
その裁断を行った場所が鉄火松であるという

鎌倉古道

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鎌倉街道は南北に走るがそれをつなぐ横道と思われる

義貞道 尊氏道ともいう




戒翁寺 曹洞宗
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 天正年間(1953~)草庵、開基は寛永5(1628)年
早野領主・旗本富永重吉である。

開山は貴山玄頓。本尊は如意輪観音(応永年間)。
境内には庚申塔、六地蔵、守谷宇吉句碑がある。



殿様墓
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早野領主・富永主膳安吉3代の墓がある。


早野  川崎市麻生区早野

川崎にある早野の古文書に、杢衛門の子長左衛門親子が不届きな行為をしたので、所払い、田畑取りあげの沙汰がおりたとある。

執行者は知行主富岡氏だと思われる。江戸時代は一領一家中において支障のないときは「自分仕置」をして中央にお伺いをたてる必要はなかったといわれる。
遠島の罪の場合領内に島がなかった場合牢屋にいれるか親戚お預かりとなったという。



義民・今蔵 杉本宅にあり、見学不可


 早野守谷家から夫婦養子に杉本家にはいり
百姓代として池土揚場の件で雑用金納入を不満とし、
江戸の領主に籠訴・直訴した。
3年入牢され12月30日に帰宅した。
杉本家は喜んで、31日に正月飾りを作り新年を迎えた。
当家では今でも31日に飾りを作っている。




横穴線画古墳 早野聖地公園内 見学不可
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奈良時代、8世紀の技法で昭和45年に発見された。
中には線で描いた絵が見つかっている

溜池が多い

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                五郎池 

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中ノ池

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林ヶ池



*掘敷料争い

文化5年早野をとおる用水掘の使用料をめぐっての争いで、
早野村の飛び地(中鉄曲り松)から使用料を毎年一石八斗支払うことになっていた。
この年凶作のため減石を願い出たが早野は不服としたので、
鉄は評定所に訴えたとある。(下鉄金子文書)


参考 鶴見川沿い歴史散歩:金子勤・鶴見川流域の考古学:坂本彰
   HP月間国語教育:清水節冶・HP広田新聞・HP横浜線沿線散歩
by gannyan1953 | 2017-03-03 15:21 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(4)



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