歴史と素適なおつきあい

<   2017年 08月 ( 6 )   > この月の画像一覧

やまざきから梶原の里へ

中川歴史ウォーキング36        2017・12・16(土)

ちょっとディープな鎌倉深沢散歩


鎌倉街道が通り交通の要衝だったため戦場にもなった旧深沢村をめぐります
観光客が訪れることのない静かな里が続きます


b0228416_22492166.jpg

集合:9:45 「北鎌倉駅」ホーム後方
大船方面寄り改札口からでます
(トイレに行かれる方は前方に行き
線路を渡るとあります。
またホームにもどってください)

北鎌倉駅・・雲頂庵・・八雲神社・・光照寺・・稲荷神社・・神明神社
・・其中山房・・山崎天神・・泣塔・・大慶寺・・駒形神社
・・東光寺・・梶原屋敷・・御霊神社・・等覚寺・・湘南深沢駅(モノレール)


雲頂庵
北鎌倉駅のトンネルが通行不可になり、
ホームを大船方面に戻り改札を出る


北鎌倉からすぐの雲頂庵から山ノ内の里をみる


b0228416_22495138.jpg

拝観不可

雲頂庵は古くは大崎山長勝寺といったが鎌倉幕府滅亡、室町幕府と鎌倉公方の戦いで衰退し
文亀元年(1501)長尾忠景により再興、江戸時代円覚寺の塔頭となった。
本尊は木像宝冠のお釈迦様

八雲神社


b0228416_22501666.jpg

祭神は素戔嗚尊
山内上杉氏が文明年間(1469~1486)京都八坂神社から勧請した

b0228416_22503728.jpg

境内に清明石がある

清明とは陰陽師安倍晴明のことで
言い伝えによると
鎌倉に入った頼朝が住んだ家は
山ノ内にあった知家事兼道という人の館を
移築して住んだ(吾妻鏡 治承元年)
家には「清明朝臣鎮宅の符」があったため
200年間火災がなかったという

この清明石は十王堂橋(北鎌倉駅前の鎌倉街道)近くにあったらしいが
山ノ内には大火がなかったといわれる

もうひとつ清明石にはいわれがあります
訪問したときに明かしますのでお楽しみを


b0228416_22510625.jpg


なんと小径を進むと

b0228416_22513169.jpg

b0228416_22514058.jpg


立派な庚申塔
鎌倉で最古の庚申塔といわれる


光照寺

b0228416_22580338.jpg

門にはクルスがある
昔キリシタンを受け入れていたらしい


b0228416_22581886.jpg

境内にあったキリシタン灯籠と思われる灯籠
90度傾けると
文字がlhqになる

調べるとイエズス会やエホバなどでてきて
「主よ」とか
「集会」という意味があるという
ホントかなあ・・・


台の里 稲荷神社


b0228416_22583083.jpg

幻想的でした

b0228416_22583979.jpg


b0228416_22585052.jpg


b0228416_22590793.jpg


地蔵堂があった場所

b0228416_22593427.jpg

台の里  神明神社



b0228416_23014261.jpg

元亀年間(1570年〜1573年)に創建されたといわれる。
疫病が流行した際に、村人4人が伊勢詣に出向いて賜った神札を祀ったのが起源とされている。
祭神は天照大神・須佐之男命など



山崎の里 其中山房(きちゅうさんぼう)

b0228416_23015151.jpg

北王路魯山人が孤独を楽しむために生活した場所である
骨董と自然を師に芸術生活を送った人である
昭和2年 ここに魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本
格的な作陶活動を開始する

イサムノグチと当時の妻山口淑子が一時期滞在した

話がそれるが
魯山人で思い出すのは京都の二条城の乳金具といって
形がおっぱいで門によくある金具である



b0228416_11252454.jpg
クサマンさんのフォト

母を慕って二条城の金具をさわったりしていたらしい
それからあちこち寺社でみられる乳金具が
おっぱい金具と思ってしまうようになった
固いおっぱいだ

母屋は昭和40年に笠間に春風萬里荘に移築
残った建物は平成10年管理人の放火そして自殺により今はない


‥‥僕がはじめてここに窯をつくった時には、北鎌倉の駅もなかったし、
もちろんバスもない、
電灯もなければ、薬屋、豆腐屋、なんでも不便。
田舎どころの騒ぎではない、
野と山とがあっただけだ。
近所に家がないから、煙が出ても文句を言う奴がない。
つまり景勝の地で、うるさくないというのでここを選んだのだ。
二十五年前のことである‥‥。
  昭和二十七年(一九五二)の『芸術新潮』十月号で北大路魯山人がこう語った。

b0228416_23020002.jpg


昔の姿

b0228416_17134248.jpg

藤沢から移築された魯山人邸 (黒田草臣ブログ)

b0228416_17150918.jpg



臥龍峡:(黒田草臣ブログ)
昭和3年に久邇宮邦彦殿下を慶雲閣に迎えるために手堀した切通し
戦前には電柱がなく、夜は真っ暗闇となった。(写真は『星岡』より転載)

棚田もあったが、現在は小学校






b0228416_23020977.jpg
マンション前にきれいに移されている







昌清院

残念ながら拝観不可だが、
荒れているといより
とても自然で拝観してみたかった

裏手には新田義貞の子 義興が一時隠れていた弁天様があるという

後醍醐天皇側だった義興はその後多摩川で戦い亡くなった

(中先代の乱)

b0228416_23022244.jpg


山崎天神






b0228416_23023732.jpg
b0228416_23024441.jpg
b0228416_23025174.jpg
b0228416_23030301.jpg
b0228416_23031107.jpg

州崎古戦場の碑

b0228416_23090486.jpg

新田義貞の鎌倉攻めで60回もの戦いの末鎌倉方が破れ、
90人以上が自殺したという



陣立の泣塔


b0228416_23093252.jpg



新田義貞に負けた州崎の戦いで亡くなった
武士たち北条軍の慰霊の五輪塔である
昔からオカルトスポットといわれており
移動すると泣く・・近所の人が貧乏になる・・
訪れると一週間以内に幽霊を見る
爆破しようとしたら事故が起きた
将門首塚と似ている

銘文は、深沢文和五年銘塔という名称である

“願主行浄」預造立」石塔婆」各々檀那」現世安穏」後生善処」
文和五年申丙」二月廿日」供養了”

と刻まれていて、
これは、“塔は、願主(塔を建てようと思った人)の行浄(人の名前)が、
各々檀那(塔を建てるのに力をかしてくれた人たちのこと)たちの
現生での安穏、後生(来世)での善処を願って
文和五年二月二十日に建てて供養した、という意味のもの

ハマレポより

文和元年とは1355年のことである
その寺は手広の青蓮寺のことだという
ここより江ノ島よりにある

「荒俣宏日本妖怪巡礼団」に詳しくある
(1989年刊行)

訪れた時はまだJR大船工場だった時である
元寇三年
両軍多数の死者が出て北条は数万騎で対抗したが
激戦のあとわずか三百騎が残っただけである

戦後20年ほどして地元民が戦死者を供養するために建てた
法印塔がこの泣塔である
巨大な岩山の中腹に、いま泣塔の一部が祀られ、
まさしく「やぐら」の不気味さを残している

だだっ広いJRの工場内に、そこだけこんもり山がある
たぶん泣塔はこの岩山にこしらえたやぐらとワンセットに
なっていたのだろう

「不気味ですわ いまでも北条の怨霊を感じます」と歩き巫女
泣塔は近所の噂によれば
このあたりに土地を持つと貧乏したり、不運がつきまとう
だから地主が年中変わる
そこで泣塔を青蓮寺という寺に移したところ、
毎晩夜泣きをはじめたので、
こわくなって元の場所へ戻したそうだ
昭和になると軍需工場ができ、塔と岩山を
爆破しようとしたところ、事故が発生し死者がでた
さらに岩山から奇怪な煙が発したという

戦後は旧国鉄の工場になったが、
塔を移転するたびに事故が起き
多数の死者がでた

そこで移転や爆破を断念し、毎年12月1日を
供養の日とし、今も礼拝をかかしていない

青蓮寺さんの話では
祟りを怖れた結果残され、文化財として
貴重なものになった

現在はスポーツ広場になっている
やたらカラスが多く泣塔を守っているように
みえる
私はヒチコックの「鳥」を思い出し
そちらの方が怖かった・・・

私は2度訪れたことがあるが、
幽霊は見ていない


b0228416_10382720.jpg
ウイキペディアより

b0228416_10384128.jpg
ウイキペディアより




大慶寺




b0228416_23095342.jpg

臨済宗円覚寺派の寺で北条時宗の子貞時(9代執権)の法要が行われた
そのとき出席した僧は83名と伝わる
五つの塔頭を持つ関東十刹に数えられ
大きな寺だった

新田義貞の鎌倉攻めで焼かれ
その後の戦乱でも被害を受け荒廃した

塔頭のひとつ方外庵が今の大慶寺となった

b0228416_23095941.jpg
b0228416_23100997.jpg

駒形神社

b0228416_23101721.jpg
大庭景親(おおばかげちか)の所領地にあり景親により祀られたといわれる
本来馬を守る神であるが天候不順の折
大庭氏の代参の者がお参りに来たという

東光寺

b0228416_23102922.jpg
天照山薬王院東光寺といい、真言宗である
寺は大庭景親創建と伝わる
景親は頼朝挙兵の折は平家方の武将で
藤沢大庭に大庭城があった
頼朝の鎌倉入府後に滅ぼされた
寺は一時荒廃し
永享3年(1431)高野山の僧により
再建された

b0228416_23104450.jpg
御霊神社


b0228416_23105187.jpg
中学のあるあたりは梶原景時の屋敷跡である
歌舞伎「暫」で有名になった権五郎景正が祭神である





b0228416_23105852.jpg
b0228416_23110587.jpg

梶原景時の父子墓

b0228416_23111050.jpg
正治2年(1200)一族郎党が、京都にむかう途中
静岡市の清見ヶ原にさしかかったとき
武士団に襲われ自害したと伝わる

非業の死をとげた景時の供養を
村人たちが行ったという

深沢小学校内にある



等覚寺



b0228416_23112105.jpg



真言宗の寺で新田義貞の鎌倉攻めで
亡くなった多くの人をここで供養したという











by gannyan1953 | 2017-08-17 23:16 | 鎌倉の歴史 | Comments(0)

海軍道路を歩いた




歴史と素適なおつきあい番外編   2017・8・12

b0228416_22202031.jpg


上和田と瀬谷のサバ神社めぐりをした帰り
瀬谷の海軍道路を歩いてみた
小田急に戻らず田園都市線の「南町田」をめざす
海軍道路は日本海軍が使用しいざとなれば滑走路に
使用できるよう3キロ直線に作られた道路である
戦後2015年まで米軍が使用していた
英語の標識が多く今なお痕跡を残す

瀬谷駅を右に見ながら今回約2、7キロ歩いてみた

b0228416_22215819.jpg
桜並木は片方だけ


b0228416_22235423.jpg
米軍と農業


ここからラーメン屋さんと和食レストラン、コンビニ二軒はあった・・・


b0228416_22241602.jpg
こんなにカッコいい道路になったが飲食店なし


b0228416_22272455.jpg
日本にもどされた土地があった


このあたりで南町田にむかおうとスマホでルート検索

なぜか畑に誘われ
b0228416_22284803.jpg
左手むこうが海軍道路の桜並木

素適な道だけど1人じゃ怖い


b0228416_22303097.jpg
馬頭観音あった

b0228416_22305019.jpg
この三叉路を左折という



やっと普通の道路に出て

また街道のような細い道を行く

やっと飲食店あった

b0228416_22330947.jpg
なごみ庵 恵  突如住宅街に現れ、そば屋かと思って入ったら創作料理のお店だった

なごみランチを食べた  
今日はひとりなのに贅沢した・・・美味しかった

b0228416_22372132.jpg
246号線の歩道橋銀河橋を越えたら
日本ではじめての水道管がなぜか置かれていた

南町田はアウトレットモールがなくなり
再開発中

白い塀の続く街だった

あとで調べたら米軍使用時、1960年代に
ゲイの兵隊さんがいた。
まだアメリカでは社会的にゲイが認められておらず
迫害を怖れソ連に亡命したという
亡命した二人は国家安全保障局の存在をソ連に話してしまった

軍ではこれがきっかけでゲイを条件付きで認めたという

1969年にストーンウォールの反乱とかが起きて
社会問題になっていって2015年やっと
アメリカ全土で認められた

瀬谷がゲイさんたちを認めるきっかけになったということか
瀬谷はゲイの聖地!



















by gannyan1953 | 2017-08-12 22:23 | 神奈川県の歴史散歩 | Comments(0)

柴犬朔太郎 また爆睡

歴史と素適なおつきあい番外編   2017・8・1


柴犬朔太郎は8月1日生まれ
10歳になりました
おめでとう!
目開いて寝るのやめてくれる?

なんか怖い・・・

b0228416_22243320.jpg



by gannyan1953 | 2017-08-06 22:24 | 前足 湾曲 柴犬朔太郎 | Comments(0)

猿投神社  

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・7・29


b0228416_21124124.jpg


ヤマトタケルの足跡を追う旅で
ヤマトタケルの兄が亡くなった地を訪れた

猿投神社は祭神が大碓である

兄大碓とは双子という説がある。

碓は臼で穀物に関する名前と考え、豊穣を願う名前ではないか。

大碓は父が召した美濃の女性を迎えに行ったが、

その女性にひとめぼれ・・・父には他の女性を差し出した。

父に対し気がとがめたのか会食にも出なかった。

父は兄の出席を弟の小碓に促した。

ところが大碓はそれからも出席せず天皇が小碓に事情を聞くと、


「兄を捕らえて体をつかみつぶし手足をもいで薦(こも)に包んで投げ捨てた」


と答えた。(古事記)

実は兄は美濃に隠棲し、ヤマトタケルの死後10年後に

三河の猿投山で毒蛇にかまれて亡くなったといわれる。


実はヤマトタケルは兄を殺害していなかった


多治見市の柿野神社は兄を訪ねてタケルが牛でやってきた

という伝承がある。


兄に別れを告げにきたのか、兄は自分の家来を東征に随行させている。

タケルの死後土岐市鶴里柿野に移り住み、タケルの死から

10年後にまた移り住んだ猿投で亡くなったという。


猿投神社は大碓を祀り左利きだったため左利きの鎌が奉納される。

猿投山で42歳のとき毒蛇にかまれ亡くなったという。

父の景行天皇から兄を隠したのか、兄はこの地をタケルの死後拝領したのかわからない。

大碓の妻は景行天皇から奪った姫だとすると、

姫の父は現在の美濃加茂市を拝領しておりそこも近くにある。

妻の実家の援助でこのあたりに隠棲したとも考えられる。

大碓の墓は猿投神社にある。


b0228416_21132669.jpg

黄色の鳥居は珍しい

b0228416_21200079.jpg

b0228416_21203108.jpg
b0228416_21243113.jpg
b0228416_21234541.jpg
b0228416_21233006.jpg
猿の親子がかわいい

b0228416_21305695.jpg
b0228416_21311118.jpg
自動車関係の会社の奉納が目立つ

b0228416_21324028.jpg
大碓の元の滞在地である柿野の人の奉納があった















by gannyan1953 | 2017-08-06 21:37 | 愛知県三河の歴史 | Comments(0)

満蒙開拓平和記念館・長岳寺

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・7・30

阿智村に行ってきた

ヤマトタケルの史跡めぐりだったが、
中国残留孤児の父といわれる山本慈昭さんが
阿智村で活動していたことを知った

現在満蒙開拓平和記念館
b0228416_21501823.jpg

2013年に開設された

非常にわかりやすく展示されている

阿智村では昭和20年5月に阿智郷開拓団として
多くの人が満州に渡った

満州の北東に位置し未開の原野に入植した

他地域との交流もなく、すぐにソ連侵攻にあい、
逃避行となった

100人近くがこの地で死亡、
団員190人のうち帰国できたのは47人


山本慈昭さんは教師として
終戦間近の満州に渡り
逃避行のあと、シベリアに抑留され
昭和22年に帰国したが、
妻たちが帰国していないことに
愕然とする



昭和39年遺骨収集の目的で国交断絶していた
中国訪問をしたが、遺骨収集はできなかった

帰国した老人から本当は子供たちの何人かが
残留していることを知り、政府にかけあうが
うまくいかなかった。
残留孤児からの手紙が政府に届いていても
調査もしていなかったという。

山本のことを知った残留孤児から手紙が届き
孤児たちの肉身探しに奔走し
「残留孤児の父」と呼ばれた

娘が残留孤児となっていることもわかり
のちのち再会できた

満州国とは
13年存在した国で日本の傀儡政権の国だった
日本から27万人が入植した

満蒙開拓団は20町歩の地主になれるというスローガンで
夢を持って次男、三男など土地をわけてもらえない人々も
参加した

満蒙開拓青少年義勇軍は
16歳から19歳の健康な少年が参加したという


長岳寺



b0228416_21535888.jpg


b0228416_21542818.jpg



b0228416_21550615.jpg


山本慈昭さん

ここは武田信玄の終焉の地といわれている
根羽村にも終焉の地の言い伝えがある
広拯(じょう)山 長岳寺は
最澄が創建

武田信玄を火葬した寺である
信玄は野田城攻めの最中に
肺を患い、三河から信州伊那に戻る際
亡くなり
駒場の山中で落命したという


b0228416_08100580.jpg

b0228416_08101514.jpg
信玄供養塔

先日NHKスペシャルで「告白〜満蒙開拓団の女」という特集を
放映していた

岐阜県の黒川村(白川村)の開拓団の話だった

終戦時に中国人から守ってもらう為に
ソ連軍に援助を求めた

ソ連軍の要求は女性の接待だった

自決する集団が続く中で
大変な決断だったと思う

帰国してから
もちろん女性たちは恥ずかしいし、
決定した男性たちは申し訳ないと思うし

みんなに開拓団を守ったことを感謝されることもないまま
年を重ねた

決然とある女性はその頃のことを話し始めた

この満蒙開拓平和記念館で話された

勇気ある女性に敬礼!













by gannyan1953 | 2017-08-06 20:58 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)

神坂(みさか)神社 阿智村

歴史と素適なおつきあい番外編    2017・7・30

ヤマトタケルの足跡の旅にでた



b0228416_20445202.jpg

昼神温泉の奥に神坂神社はある

標高1070mくらいである

道は中央道の恵那山トンネルと並行しているが
険しい峠道である

b0228416_20445980.jpg
我が夫がハーイをしてまるでヤマトタケルの
銅像のようなポーズをとるので
驚いた

本人は銅像のポーズを知らない


b0228416_20532181.jpg
手水鉢

b0228416_20533910.jpg
ヤマトタケルの腰掛け石
大きい 座りごこち悪そう

ヤマトタケルはこの峠を昼神温泉から登った
悪しき鹿がいてノビルを噛んで目に当てたら
鹿は倒れた

それから通る人はノビルを噛みながら登ったという




b0228416_20585192.jpg

b0228416_20590339.jpg
貢馬は「くめ」と読む


b0228416_21005372.jpg
かっこいい道である
神社の駐車場に車を置いて富士見台を往復をする
人たちがいた

古代から中世まで東山道を行き来するのに
この峠は死ぬ覚悟で登ったという

そのおまもりが近くの遺跡から出土している

b0228416_21041274.jpg

b0228416_21035764.jpg
巨木に囲まれた社がとても素適だ

b0228416_21055544.jpg
b0228416_21060475.jpg

少し下りると

b0228416_21081136.jpg

b0228416_21081817.jpg
帚木にむかう道
登ってみたかったが時間がなかった

久しぶりに素適な神社にこれた























by gannyan1953 | 2017-08-03 20:45 | 長野県歴史散歩 | Comments(0)



横浜周辺の歴史散歩
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
> 歴史好きさん ご訪..
by gannyan1953 at 23:57
始めまして。 阿豆佐..
by 歴史好き at 19:53
> rollingwes..
by gannyan1953 at 14:13
初めまして、ローリングウ..
by rollingwest at 16:31
できればメールでお話しし..
by gannyan1953 at 09:08
新横浜スパインクリニック..
by gannyan1953 at 18:23
読めないんですね。申し訳..
by gannyan1953 at 18:09
> ださぶろうさん ご..
by gannyan1953 at 21:44
楽しんでいただけて大変嬉..
by gannyan1953 at 21:41
長津田の大火の事を調べて..
by shin344 at 21:41
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧